真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百二十五話 黒白の連環

 日が中天にさしかかり、同時に蒸すような熱気が平原に立ち込めた。鎧に兜の出で立ちの(つわもの)たちが、汗と剣把を握りしめる。この数刻の後、確かに脈打つ鼓動の響きが――幾千幾万の鼓動が!――憐れにもどれほどその声を潜めることになるであろう。しかし今はただその時を待ち、早鐘を打って全身に力を満たすのみ。

 公孫賛軍本陣、指揮を任せられた鳳統もまたその時が来るまで立ち尽くしていた。小さな背中からは覇気も定かならず、戦場に紛れ込んで呆然としているようにさえ見える。

 

 ――だが誰も疑うことはなく、侮ることもない。鳳凰の体軀の大小を問う道理がどこにあろう? 天機を占うは古今瑞鳥の声に在りと定められているのだ。

 

「……前へ!」

 鳳統の声に応え、旗が振られ鉦が鳴る。途端、無数の軍馬の嘶きが響き、軍兵の気合いが轟いた。公孫賛軍は静寂(しじま)を破って動き出したのである。

「前進! 前進せよ!」

 関羽率いる歩兵隊が彼我の距離二里を埋めようと進み始める。躊躇いなく先頭を行く関羽に兵たちは無心で従った。李岳が遠目を利かせて激突までを推し量る。残り半里、しかし袁紹軍に動きはない。

 さらに二呼吸進めたところで鳳統は停止を命じ、防御の陣形を指示した。呼吸を読んでいたかのように、袁紹軍の前曲から驟雨(しゅうう)の如く矢が降り注ぎ始める。

「矢の被害は……?」

「防御が間に合っている」

 李岳の遠目には盾を並べて密集隊形を取る先鋒の姿がよく見えた。

「愛紗さんには後退の銅鑼を……両翼には前進の合図です」

 序盤で無理はさせられない。(かね)の音を待って関羽は歩兵を下がらせた。備えていただけに被害は少ないが、身動きを制限された状態で敵兵にかち合っては不利である。関羽は真っ直ぐ下がらず、右翼で控える張飛に向けてたぐりよせるように下がり始めた。引きに合わせて押すように、敵の重装歩兵が槍を携えて前進を試みる。

 引き寄せられる敵兵を迎え撃たんと奇兵を踊らせ始めた張飛、さらに逆側の側面を突くように趙雲の騎馬隊がにわかに駆け出した。糸を引くように流れる土煙さえ華麗である。

「雛里の指示か?」

「いえ。ですが折り込み済みです」

 指揮官が自らの判断で自由に裁量を振るう気風は幽州ならではである。

 以心伝心の動きで張飛と趙雲は接近するが、しかし袁紹軍の弩兵の働きが凄まじく近づき切れない。

「弩兵の指揮は麹義将軍ですね……やっぱり、手強いです」

 鳳統は李岳に説明をする形を取りつつ、自分に言い聞かせているようだった。麹義は袁紹軍随一の弩兵の指揮者であった。史実では彼の活躍で公孫賛軍をこの界橋で撃滅させている。

 

 ――『太平要術の書』はその願いを叶える時、もっとも無理のない範囲で行わせようとする。つまりなるべく史実に沿った形で事象が進行することを李岳は見抜いていた。今回の戦、田疇はどこかで麹義に決定的な仕事を働かせようとする可能性は十分にある。

 

 その前に叩く。李岳の決意は一層熱を帯びた。その熱は鮮烈な赤ではなく、暗く悲壮な決断さえ躊躇わない蒼炎であった。

 李岳の内心に同調したように、蚊の鳴くような声しか出していなかった鳳統の声にも力がこもった。

「星さんに後退の指示を。右翼から迂回し、本隊には中央へ突撃の指示を」

 急戦形である。李岳が驚き鳳統に目を向けた。

「……もう少し温存するものだと思っていた」

「あわわ、私もです」

 李岳の言葉と鳳統の答えに食い違いがある。李岳に見えないものが鳳統に見えている。つまり趙雲の突撃は先手ではない。

「見ろ、冬至……!」

 公孫賛の声に李岳は目をこらした。袁紹軍の前曲の弓兵がまるで自軍から断ち割られたように左右に分かれると、五千余の騎馬隊が姿を現した。人馬を鎧った袁紹軍虎の子の鉄騎兵団である。指揮官、文醜の旗が翻り声が轟いた。

「ずがーんといくぞー! オラオラオラオラー!」

 正面衝突には無類に強い重武装の騎馬隊である。幽州最強と誉れ高い趙雲率いる騎馬隊でさえ、弩兵と挟撃を受けては分が悪い。

 鳳統は衝突を戒め、機動戦術を指示する。趙雲は巨人の二の腕を切り裂くように(はす)に躱すと、敵の騎馬隊と幾度も交錯しながら戦線を左方に移動させた。

 

 ――こちらが損耗を嫌っていることなど承知しているのだろう、袁紹軍の構えは悠然である。同数の損傷なら大兵を率いる側の有利。限定的な局地戦へと誘導しつつ、盤石な状態での正面衝突を望んでいるのだろう。それを回避して、一瞬の間隙を刺突することが求められた。言うまでもなく、至難である。

 

 鳳統の指示が矢継ぎ早に繰り出され、太鼓と旗が何度も意志を飛び交わした。敵前衛の槍隊が突出してきており、その手当を鳳統は張郃率いる長槍隊に求める。槍対槍。束の間、激しい叩き合いになった。簡単には引かせない。粘らせるだけ粘らせると、後方予備であった烏桓の戦車隊を引き抜いて側面を突かせようとする。しかしそれも射ち出された矢で満足には近づけない。

 袁紹軍本隊に気配が満ちた。巨獣が身動ぎする前に発する、思わず見上げて後ずさりしてしまうような気配。銅鑼が打ち鳴らされ旗が流々たる。

「……後退を」

「全軍後退だ!」

 鳳統の指示を公孫賛が大声で後押しする。

 袁紹軍本隊の前進は、地鳴りを伴い雲を呼ぶかのようだった。騎馬隊での牽制、弓兵の集中射撃で連携を崩そうと目論む鳳統。しかし袁紹軍は焦る様子も見せずに速度を落として足並みの統一を優先させた。戦列の乱れを突こうと張飛の突撃隊を待機させていたが、鳳統は唇を噛んでこらえている。

 袁紹軍は大胆な連携を見せ、こちらを一挙に包囲せんと動いている。押し包み、踏み潰す。それが何より強力な戦術だと十二分に理解している動きだった。

「星さんを呼び戻してください! 騎馬隊にも後退を援護せよと……本陣も下げます!」

「あれはまだ使えないのか?」

「まだです」

 公孫賛の問いに鳳統が首を振る。事前に取り交わした奇策が一つあったが、使い所が難しく未だその時ではないという。

 李岳と公孫賛は刹那に視線を交差させたが、間もなくうんと頷き疑念を払った。

「総員騎乗! 後退だ!」

 公孫賛の叫びに、幽州兵はためらうことなく従う。

 鳳統がもがき苦しむように主導権を手放すまいとしているのが、李岳と公孫賛にもひしひしと伝わってきた。そしてそれが上手くいっていないことも。少数はやはりどうしたって不利なのだ、という厳然たる事実を確認し続けているだけなのでは、という錯覚すら覚え始める。いくら奇策を用意しようとそれを使う間すら与えてくれない。

 どっしりと腰を落として戦力を使われるだけで寡兵の苦しさは増していく。前衛に重装歩兵と弓兵を揃えられれば、ただひたすら騎馬隊を突っ込ませる戦法では射殺されるだけ。初戦のような意表を突く奇兵の用い方はもう通用しないだろう。

 しかし感嘆を覚えるほどに、袁紹軍の用兵には隙がない。

 主力である趙雲の騎馬隊は足止めに徹すると決めた動きである。打ち砕く必要はなく、無理に攻めなくても時間を稼がせれば良いと考えたか。そうしているうちに歩兵同士で揉んでしまい、苦し紛れに突っ込んできた本隊を包囲、あるいはゆっくりと削ってしまえば勝ちは動かないと読んだか――諸葛亮は大兵の用い方も熟達している。

「もっと……もっとよく……見ないと……もっと!」

 無我夢中の鳳統は、自身の前髪さえ邪魔とばかりに、いつもは二つ結びにしていた髪を前髪もまとめて左に流れる大きな一房に結びなおした。再び前を向いた瞳にはいつもよりも明瞭な視野。親友を救うため、強敵に打ち克つ覚悟は怯懦も逡巡も払った。強い眼差しが戦場を射抜き、広大な原野を眼下におさめる。

 後退する馬上、李岳の背にしがみつきながら指示を下す鳳統。東の稜線に滲みはじめた日の終わりを意識した、機動力を生かした持久戦法と言えた。

 だがみすみす今日という日を生き延びさせる道理が袁紹にあろうはずもない。巨腕を広げ押し迫る――いだかれれば全身から血が噴き出す死の抱擁! 失地を最小限とするために苦闘する碁打ちのように、鳳統は声を枯らして友と共に地を駆ける。

「大丈夫か、雛里」

「あわわ、見えました」

 気を揉む李岳の気配さえかかずらうことなく、鳳統は光を目一杯に溜め込んだ瞳で李岳を見た。

「半刻後、例の策を使います。白蓮さんにもお伝え下さい」

 李岳の頷きを待って、鳳統はとうとう枯らした喉で叫んでいた。

「行くよ、朱里ちゃん……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 前進する袁紹軍を前にして、公孫賛軍は時に手向かいながらも四方に逃げ惑い続けた。その度に袁紹軍幕僚は勝どきめいた声をあげるが、諸葛亮はそれを平然と聞き流しながらただ指示を繰り返した。

 戦は兵力が多い方が勝つ……それは動かしがたい大原則である。隙を見せずに勝機を逃さなければ良い。戦況は諸葛亮の掌中と言えた。目論見通り騎馬隊を剥離した。後は捕まえられれば勝つ。ただし烏桓を温存されているのがやや難解である。序盤は射撃で出来るだけ減らすことが最善だったが、その効果も限定的であった。

 戦局は未だ決定的とは言い難い。騎馬隊の機動力を生かされればまだまだ紛れはあるだろう。あるいはその他の逆転策を秘めている可能性もある。さすがは北方の雄。目的を生存のみ振り分ければ、機動力の高さは随意に生きるだろう。

 

 ――しかし、それでも袁紹軍が勝つだろう。

 

 本戦の重要な前提として、冀州は敵を打ち負かさなくても良いという指摘が可能であった。負けさえしなければ良い。敵は遠路の南征なのだ、補給も敵地の接収に頼って極めて不安定。これで本拠地が情勢不安ともなれば戦わずして瓦解もありうる。

 攻め込んできた敵の後背を謀略で(やく)す――それくらいのことは田疇ならば黙ってでもやるだろう。既に幽州本拠地への謀略は始まっている。諸葛亮は未だ戦略面での関与は限定的だが、確信に近い感触を持っていた。

 要はここで負けさえしなければ、公孫賛軍の敗北は確定しているのだ。いたずらに滞陣が長引くことは歓迎すべき点でもある。

「諸葛亮殿、この先はいかがなさるおつもりか!?」

 幕僚の誰かが声を上げたが、胡乱としていた諸葛亮には誰の言葉か判然とはしなかった。羽扇で視線を隠しながら淡々と答える。

「基本的には、数を恃んで圧力をかけ続けます。このまま敵を川まで押し込めば勝ちです」

 再びどよめきが起こり、諸葛亮への賞賛が相次いだ。袁紹幕下の諸将の声は不快でしかなかった。そして疎ましさが顔に表れかけたとき……

「諸兄、軍師殿のご迷惑になりまする。今はこれくらいで」

 田疇が諸葛亮を守るにように立ちはだかると、興奮気味な幕僚たちをとりなした。しずしずと頭を下げる田疇に不満を言い募る者はおらず、諸葛亮の周りは一挙に静かになった。

 何か用件があるのかと勘ぐったが、田疇はあっさりと沈黙して離れた。幕舎に人は多いが、突如一人の時間が訪れ諸葛亮はホッと息をついた。思わず顔を出しかける弱気を何とか押さえ込んだ。束の間の心の弛緩に入り込むのは、やはり親友の安否への思いであった。

 

 ――諸葛亮が初めから鳳統の生存を知っていたという李岳の推測は、半ば正着であった。

 

 厳密に言えば諸葛亮は知らせを聞いた直後に、その正誤の見込みを五分五分として一旦の結論を置いた。

 情報通りに劉備が裏切った可能性は十分にありえ、その点について諸葛亮は殺意を覚えたのが五分。

 謀略によって劉備が追いやられ、諸葛亮の元には偽報が届いているというのがもう片方の五分であった。

 諸葛亮の知性において『五分五分』という考えは判断を先送りする曖昧で不定形な状況判断を指す言葉ではない。いずれの場合も正着の可能性を捨てず、二通りの可能性について徹底して合理的に考え抜くことを指す。

 思考の並列。軍師として彼我の各戦力を正確に推し量るため、少女が培ってきた知的態度であった。

 その知が、鳳統の『死』と『生存』の両方の可能性を徹底的に討議し、いずれの場合においても最善の選択が可能なよう備えることが正しいことと判断したのである。

 もう一度仲間たちと生きるために、あるいは卑劣にも裏切った元の仲間を殺すために。

 究極に相反する二つの希望を並存させ、それぞれ徹底的に考え尽くした。その行動がいかに苦痛であるかを語り尽くすには紙幅が足りず、言葉もない。希望に浸ることも絶望に染まることも人であれば容易い。愛と呪いを等しく抱くは既に人の所作ではなく、為せるはただ龍の御業である。

 

 ――五分と五分がいずれかの十分と定まった時、いかに素早く行動するか。諸葛亮は孤独の中、鳳統の生死と情報の正誤を見極めるために腐心した。黒か白、そのいずれかであるかを。

 

 目的が定まれば手段も明確になる。諸葛亮は最善の方法を戦場で公孫賛軍と相見えることだと判断した。

 鳳統が生きているのであれば、必ず自分を救うために直接采配を振るうだろうから……ぶつかり合えば、必ずその存在を感知できるはず。

 荊州の草廬、戯れのように空想の陣形をぶつけあったあの日々。あらゆる陣形、彼我の多寡、有利不利を入れ替えての空想の累計は数百ではきかず、そしてその全てを諸葛亮は記憶している――きっと鳳統もそうだろう。

 だからわかる。直接ぶつかり、この諸葛亮を凌がんとするほどの軍略を見せつける相手であれば、それは鳳統なのだ。もし容易く打ち崩せる実力しか見えないのであれば、やはり友は死んだのであろう。本気で戦う。諸葛亮の取る手段はそれしか残されていなかった。

 

 ――諸葛亮の思考に誤りはなく、論理、工程にも不足はない。理屈の上では何ら過不足なく全てが目的に合致していた。

 

 しかし、それら全ては諸葛孔明という策士が、そうであるべきと理解した上で結論している内容に過ぎない。

 幼齢の少女――朱里の気持ちでは全くなかった。

 朱里はただ寂しく、ただ恐ろしかっただけ。

 毎夜泣きじゃくりたくなり、大声で友の真名を叫びたかった。しかし隣室や屋根裏に耳をそばだてる間者がいるかもしれず、いつだって服の袖を噛んで声も上げずに目さえ腫らさなかった。枕に涙の跡さえ残さぬよう心を殺して過ごした。

 寂しく、怖く、申し訳なかった。自分を助けに向かってくる皆にありがたいと思いつつ、犠牲になる兵たちを思うと悔しくて悲しくて謝りたくてどうにかなりそうだった。

 そして同時にこんなひどい裏切りがあるのであれば決して許せないとして、愛する仲間に対する殺意も大事に育てた。

 陰謀がありうることは予想できたはずで、袁紹陣営での地位を確固たるものとすべく残る、ということ自体が間違いだった。全ては己の失態である。

 劉備を間違わせた。兵たちを死なせた。そして友である鳳統を死ぬような目に遭わせたかもしれない。

 でもそれでも、胸の中で脈打つ度し難い程の欲求……裏切り者への復讐心と、またみんなと過ごしたいという想い。真偽定かならぬ五分五分の理屈を冷静に追求するには賢すぎ、その両方の可能性は苛烈な不安を呼び起こした。

 心労は幼い体を存分に蝕んでいたが、諸葛亮は構わない。間もなく全てがはっきりするのは明白だったから。八門金鎖に攻め込まなかったといってなんの証明であろうか。鳳統が生きているのであれば、この苦境から互角以上の戦いを披露してくるはず。何も出来ずに押し潰されるのであれば、やはり鳳統は死んでおり、諸共滅び去れば良い。

 その時強い風が吹き、諸葛亮ははためく髪を押さえた。夏の夕暮れに吹く風。いざなわれるように、濃紺のいり混じり始めた蒼空に諸葛亮は目を奪われた。

「烏桓の戦車隊がにわかに接近!」

 伝令の叫びに諸葛亮は意識のすべてを引き戻した。見れば確かに烏桓の戦車隊、濛々たる砂塵がたなびく軍旗をまぎらわせて縦横に駆けている。

「ただちに陣形を魚鱗に」

「魚鱗へ!」

 復唱する伝令に、さらに指示を重ねた。

「……敵の勢いが猛烈であれば、本隊は無理せず後退。両翼の重装歩兵に前進指示、弓兵は射撃を惜しまないよう」

 斜陽を背にした袁紹軍は射撃において有利である。しかし南北に走られれば長く伸びた影がその狙いを乱すだろう。すでに夕刻。公孫賛の狙いはこちらの前進を食い止め、とにかく今日一日の命を長らえることにあるか。あるいは夜陰に紛れての逆転か。

「戦車隊反転! 突っ込んできます!」

 諸葛亮は目を細めて駆け込んでくる戦車隊を見た。烏桓の楼班が先頭。重装歩兵の頑強な守りに、正面からの突撃は好手とは言い難い。陣形も横に長手である。奇策を疑い、諸葛亮は神経を研ぎ澄ませた。間を置いて、人が飛んだ。夕日の照り返しを浴びた黄金鎧がチカチカと諸葛亮の目を焼く。

「前衛、突破されます……!」

「全軍後退」

 諸葛亮の決断は早かったが、溜め込んだ鬱憤を吐き出すように突っ込んでくる戦車隊の勢いは凄まじかった。凄惨なまでに血が流れる。間髪入れずに突っ込んでくる趙雲、関羽、張飛。諸葛亮は右翼をまるごと敵軍後方に駆け回らせ陽動とし、混乱を覚悟で左翼を中央へと雪崩れこませた。

「なぜこのようなことに?」

 田疇の呟きに諸葛亮は答えなかった。濛々たる砂塵。その違和感にすぐに気付けなかった点が失策と言えた。馬の数よりもなおけたたましい塵埃(じんあい)の煙幕。何かが地を這い砂埃をかき乱したのだ。そしてあの一瞬の風。地を舐めるようなあの風が、諸葛亮の目から奇策の凶器を隠したのである。

 それが何か、諸葛亮にとっては考えるまでもなかった。

 

 ――ああ、蘇るは草蘆の問答。山と積んだ書物を漁り、しとりと濡らす雨の夜。友とほどいた軍略の(ふみ)。盤に打つ黒白の石。優しく失策を咎める打石の音、塗り替えられる思惑の布石……

 

 諸葛亮、ハッと前を向いてみれば、帽子のつばから見え隠れする少女の瞳を見た気がした。怒号、悲鳴、打ち鳴らされる剣の音が少女を現実に引き戻した。しかしその中でも鋭敏に察するは、あり得ざる違和の響きであった。

 鳥のさえずりにしては凶悪な、地を這う鉄鎖の音がする。諸葛亮は震えた。馬蹄と地鳴りの響きを縫って、いつか友と語った秘策の音が聞こえる。

 古の匈奴が用いた奇策。失われて久しいその戦術を、彼女以外が用いたとどうして断ずることが出来よう。

 そして何より、決して安易に用いず温存し、決死の時機を見計らって風を舞った。ただただ諸葛亮の視界が曇るその時を待ったのだ。颶風を繰るのは天を舞う鳳の領分である。もはや疑いようもなかった。

 諸葛亮は瞑目し、涙をこらえ、胸に巣くった邪心が、爽風にかき消されていくのを知った。戦車に鉄鎖を引かせ、歩兵をなぎ倒す戦術――名を連環。運命の環を取り戻す、断つこと能わぬ音が朱里に悟りを与えた。

 雛里は、そこにいる!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくして公孫賛率いる幽州軍全軍は躍動した。

 楼班率いる戦車隊がまさかの中央突破を完遂すると、その(くさび)を抜かせまいと関羽と張飛が飛び込んだ。機動力の高さで勝負、そう率直に宣言するかのように全軍が一丸となり走り出す。

 袁紹軍全体を引きずり回すように、雪崩れこんだ騎馬隊は東から南に半円を描き、守備陣を鮮やかに切り裂いた。さらには騎馬の援護を受け、劉備率いる歩兵隊は正面から前進。士気の高さで袁紹軍を飲み込むと、二里を一気に押し出した。

 半日を苦渋のうちに耐えた公孫賛軍は、たった半刻で五分にまで押し戻した。日没に沈んだ原野を挟み、両軍は再び界橋の中央で向かい合うこととなった。

 

 そして場面は以後、一挙に終局を迎えることになる。




活動報告でも書きましたが、李岳伝の支援曲(3曲目!)がアップされました。

「Calling 真・恋姫†無双〜李岳伝〜 イメージソング(仮)」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm33509210

あたる様、いつもありがとうございます! マジ半端ないって!

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