……ぽつり、ぽつりと、灯篭の明かりが見えた。
夜陰の辺。どちらが上か下かも分からない漆黒の暗闇の中にいる。空には月も星もない。物音一つしない深海の底のような静謐な世界。混じるもののない澄みきった空気には、がらんどうの寒々しさしか感じない、
ここが何処で、自分が誰だったかも思い出せず。
どこに進めばいいのかも分からず、どこに戻ればいいのかも分からない。
視界は一面の黒、黒、黒。
まるで墨をぶちまけたような真っ黒な世界。
歩いても、歩いても。
どこまでも続く、いつまでも終わらない、闇の中。
焦りと恐怖に急き立てられ、歩幅は少しずつ大きくなり、歩調はだんだん速くなる。
暗闇に覆われた世界に、狂いそうになるほどの恐怖に心を蝕まれ、やがて走り出さずにはいられなくなる。
走って、走って、走って。
それでも暗闇からは抜け出せない。
やがて走りつかれて、逃げ場の無い恐怖にその場に崩れ落ちたとき。
ふいに……光が見えた。
視線のはるか先に、豆粒ほどの小さな光だ。
しかし、闇の中で見えたただ一つの光に、叫びだしたいほどの歓喜に身を震わせ、そこに向かって走り出す。
暗闇の中にぽっかりと浮かぶ灯火は、石灯籠の明かりだった。
顔を上げると、視線の向こうに、また小さな明かりが見える。歩いて、そこにたどり着くと、あるのは石灯籠だ。
ぽつり、ぽつりと、小さな明かりが、一つ二つと増えていく。それらは夜道を照らす街灯の明かりのように、道なりに並んで遥か彼方まで続いている。
延々と続く石灯籠の道。
しかし他に寄る辺は無い。そこを歩くしかない。
もはやただの暗闇を歩くのは恐ろしくてたまらなかった。
平坦だった道は、やがて上り坂になり、そして階段になった。石造りの急な階段はまるで神社へと続くような階段を思わせる。
石灯籠小さな光が数珠繋ぎに照らし出す階段を、いつまでも歩き続ける。
いつまでも、いつまでも歩き続けて。
どこまでも、どこまでも歩き続ける。
出口の無い暗闇の中で。
――いつか来る、道の終わりを夢想しながら。
……へんな夢を見た。
夜の帳に包まれた薄暗さの中。
「あ、横島さん、目が覚めましたか?」
いつの間にやら眠ってしまったらしい。
目を覚ますと自分を覗き込む女の子の顔があった。
「えっと……」
誰だっけか、と頭をひねる。
そんな彼の様子を見た女の子は「もう」と頬を膨らませた。
「キヌですよ。幽霊のキヌです」
「あ、あーあー、おはよ、おキヌちゃん。元気?」
「はい? 私は元気ですよ。もう死んでますけど」
「おー、元気かー、そりゃあ良かった。おキヌちゃんが元気だと俺もうれしいぞー」
「え、そうなんですか? えへへ~、ありがとうございます」
などと、みょうちくりんな会話を繰り広げる二人。
片や寝ぼけていて、片や天然である。
「ん?」と忠夫が素っ頓狂な声を上げる。だんだんと今の状況のおかしさに思い至ってきた。確か自分は悪霊を探しに夜の御呂地岳に入ったはずだ。その際に、この山で三百年間幽霊として過ごしてきた幽霊のおキヌちゃんに山の案内を頼んだ。今回探している悪霊は人に危害を加える恐れのある存在であり、油断は即、死につながる可能性もあるほど危険な手合だ。
忠夫の今の状況はというと。
地面の上に仰向けに寝転がっていた。視線の先には高い木々と梢が折り重なる森の天井が見える。
山に入ってどれだけの時間が過ぎたのか分からないが、今の今まで寝こけていたらしい。
「て、アホか俺は!?」
「きゃっ!?」
突然起き上がった忠夫に、びっくりしたキヌは小さく悲鳴を上げた。
今の今までキヌが膝枕をしていてくれたらしく――
「え、て、膝枕?」
「は、はい。寝苦しそうだったので」
「いやっほーい! 女の子の膝枕だぁーっ!」
「え?」
「いや、そうじゃないだろ俺。落ち着け俺」
「あの……横島さん?」
キヌが心配そうに忠夫を伺い見る。顔を青くしたり嘆いたり、突然歓声を上げたりとした忠夫の情緒不安定っぷりを不振に思ったらしい。
「おキヌちゃん、悪いんだけど今どういう状況か教えてくれ!」
思い出そうとすると眠気のために頭が霞がかったようにはっきりしない。
「状況、ですか? ええと、横島さんがここ最近疲れっぱなしだったから急に眠くなったって言って……」
――あ、思い出した。
自転車旅行の疲れが今になってきたらしく、急に眠気が襲ってきたのだ。全身筋肉痛な上に眠気。さすがにこんなガタガタの体調のまま山を登って、悪霊に遭遇するのは勘弁願いたかった。
「あー、そうそう、それで仮眠を取ろうってことにしたんだったな」
流石に悪霊がいるかもしれない森の中で眠るのは危険だ。だが、簡易的だが霊的な結界を周囲に張ることによって最低限の安全を確保した。この時に張った結界は御札を使ったものだ。周囲の定められた位置関係に御札を貼ることによって、目には見えない薄い膜のようなものを展開。そこに霊などが触れると即座に結界を張った忠夫に警報のような形で知らせるというものだった。
「だけど体調はまあまあ良くなったかな」
体の奥に沈殿するような重い疲れは取れた感じがする。気分も爽快。これなら問題はなさそうだ。
キヌはくすりと笑った。
「あんまり無理しちゃダメですよ? 横島さんは私と違ってちゃんと生きているんですから」
「無理しているつもりはないんだけどなぁ」
「もう、そんなこと言っていると体壊しちゃいますよ?」
「体が丈夫なのが自慢なんだ。それよか俺が寝ている間に妙なことは無かった?」
「うーん、無かったと思いますけど」
「けど?」
キヌがじいっと忠夫の顔を覗きこんできた。
う……、とたじろぐ忠夫。
――こ、この子、なんか顔が近くないか?
忠夫がキヌと出会ってからまだほんのわずかな時間しか経っていないが、妙にパーソナルスペースが近いのを感じていた。これはコミュニケーションをとる相手との実際の物理的な距離のことだが、これだけ近づかれても忠夫が不快に思ったり、顔を背けようとは思わなかった。初めて会ってからそれほど経っていない相手にそれは珍しいことだ。それこそ家族――妹であるタマモくらいの距離感だった。
「大丈夫ですか? ずいぶん魘されていたみたいですけど」
と、心配そうなキヌ。顔を近づけたのは忠夫の顔色を確認するためだったようだ。
「魘されていた? いや確かに変な夢は見たけど」
「変な夢?」
ちょっと興味があったのか、更にぐぐっと顔を近づけてくるキヌ。
もはや鼻がくっつきそうな距離だ。
「ちょ、ちょっとおキヌちゃん顔近いって!」
さ、さすがにこれ以上はまずい。どぎまぎした忠夫の言葉に、キヌは改めて状況を理解したのか「あっ」と声を上げた。
慌てて離れる。
「ご、ごめんなさい!」
「い、いや、別にいいぜ」
二人ともそっぽを向く。しばらく言葉が見つからないまま黙りあう。
――き、気まずい! なんだこれは?
ゴーイングマイウェイの精神で生きてきた忠夫。神経の図太さは筋金入りだが、ここまで他人にペースを乱されるのは久しぶりだった。。
ままよ! と声を上げる忠夫。
「よ、よし! そろそろ行こうぜおキヌちゃん! これじゃあ日が暮れちまう!」
とっくに夜だ。
忠夫は混乱している。
「そ、そうですね!」
つっこみがない。
キヌも忠夫と同じくらい混乱しているようだった。
たくさんの虫の鳴き声が騒がしく入り混じる夏の夜。
霊能力者である横島忠夫と、幽霊の少女キヌは御呂地岳を登っていた。うねうねと曲がるつづらおりの山道。夜の闇の中に、忠夫が照らすヘッドライトの明かりがふわりふわりと揺れている。
「しっかし見つからんなー」
ぼやく忠夫。
彼はジャージ姿だった。靴は運動シューズ。頭にはヘッドライトを取り付けたヘルメットをかぶっており、リュックサックを背負っている。
えっちらおっちら山道を登る忠夫の隣には、キヌが宙にふわふわと浮いている。。
彼女は頬に人差し指を当てながら「う~ん」と何かを思い出す素振りをした。
「幽霊ですか。この山に私以外の幽霊がいたなら気づいていると思うんですけどなあ」
「おキヌちゃんが今まで気づかなかったってことは、少なくとも最近になって現れた霊ってことかねえ。昼間その悪霊を見た限りでは実際に足で看板を叩き落していたわけだから物に触れられるっぽいし」
実体を持たない精神体である幽霊が物に触れられるということは、キヌのように長い間幽霊であったか、強い恨みや執着を残したまま死んだせいで精神が実体に干渉できるほどの力を得たかのどちらかだ。
もっとも、ごくまれにもう一つのパターンを持った霊がいるのだが。
忠夫は意地の悪い笑みをニヤリと浮かべた。
「まあ、もっとも。ただ単におキヌちゃんがもう一人霊がいるってことに何百年も気づかなかっただけだったりしてな。おキヌちゃんぽやーとした性格っぽいし」
「も、もう! 私そんなにぽやーっとなんてしてませんよ!」
「わはは、冗談だって冗談」
「知りません」と、そっぽを向くキヌ。
代わり映えのしない山道を歩く二人。ごつごつとした道はアスファルトで舗装されてはおらず少しばかり歩きづらい。
「ところで横島さん」
「ん、なんだい?」
「その悪霊がなんでこの山にいるって思ったんですか? ひょっとしたら他の場所を住処にしているかもしれないのに」
キヌの疑問ももっともだった。
昼間、忠夫が追いかけていた悪霊はこの山の付近に逃げ込んだというだけで、すでに場所を移っているかもしれない。
その疑問に対して、忠夫は胸を張ってこう答えた。
「勘だ」
身も蓋もない答えだった。
「か、勘ですか」
「おうともさ。お、なんだ馬鹿にしてんのかい?」
「いや、そーいうわけじゃないんですけど……」
ただ、不安なだけだ。
それに対して忠夫はふふんと得意げに鼻をならした。
「この勘てやつは、霊能力者にとってはなかなか侮れないもんでな。たとえば未来を予知する預言者って連中がいるだろ。まあ大抵はインチキな連中なんだけどよ、たまにいるんだよ、本物ってやつがさ」
ごくりと喉を鳴らすキヌ。
「本物の預言者って連中は程度の差はどうあれ、過去から未来へと流れる時間の流れってやつを詠んでいるんだ」
「時間を、詠む、ですか?」
いまいち要領を得ない、といったように首をかしげる。
「簡単に説明するとな……」
忠夫は地面に落ちていた小さな石を拾い上げる。それをキヌに見せ付けるように宙に放り投げてはキャッチするというのを繰り返す。
「俺は今この石を持っているわけだが、俺はこの石をこれからどうすると思う? また地面に捨てるか、どこかに放り投げるのか、それともポケットに入れて持ち帰るかのか。こんな感じでいくつかの選択肢があるわけだ」
それから忠夫は手にしていた石を力いっぱい山の裾野に向かって放り投げる。小さな石はあっという間に夜の闇にまぎれて消えた。
「今はこんなふうに放り投げた。だけど地面に捨てた場合、ひょっとしたらここを通った誰かが今の石に蹴躓いて転んだかもしれない。ポケットに入れて持ち帰った場合……後で調べてみたら今の石に、何万年も昔に生きていた昆虫の化石が、世界で初めて新発見されて俺有名人。テレビ出演なんかもしちゃったりして、女の子にキャーキャー騒がれて、『夢にかけた少年の無垢な願い。奇跡の発見への基軸』なんて煽り文句の化石についての本を出版したら印税でうっはうっは、なんて未来も、奇跡みたいな極めて低い天文学的な確率だけどひょっとしたらあったかも…………ああ、クソッ、なんであの石捨てちまったんだよ! 一応確認しときゃよかった!」
「あの、横島さん。話ずれてません?」
壮大に明後日の方向にずれていた。
むしろ後半は痛々しいだけのただの誇大妄想だった。
「……んんっ、うおっほん。まあ、とにかくだ。小さな行動一つとってもそんなふうに、たくさんの未来がいくつもある。そこからいくつも枝分かれして更にたくさんの未来があるわけだ。預言者って連中はそういった枝分かれした未来の中から一番進む可能性の高い未来を指し示しているわけだ」
――ここまではいいかい?
と、忠夫。
こくんとキヌは頷く。
「なんとなく、ですけど分かりました。その一番進む可能性の高い未来っていうのは、本人の意思しだいってことですか?」
「一概にそうとはいえないけど、大きな要素をしめているな。たくさんの人のたくさんの思惑や行動なんかが複雑に絡み合うせいで、本人の意思だけで必ずこうなるって未来はないけどさ」
とにかくだ、と忠夫。
「こういった実際に目で見ることが出来ない力を察知する能力を、俺たちは霊感て呼んでいる。そういった意味で預言者も霊能力者ってことになる」
――もっともこいつは楽器だからってピアノと太鼓を一緒のものって考えるくらい乱暴な括りだけどな、とも続ける。
「霊能力者じゃない普通の人間にだって霊感はある。人間のみならずに動物にだってな。野生の勘、生存本能やらは本能的にこれから訪れる危険を察知しているわけだ」
「野生の勘て、ことは」
「そう、勘てのはそれまでそいつが経験した出来事なんかから学んだことを無意識のうちに活用することによって、これから訪れる結果を察知しているんじゃねえかと思うんだが、それとは別に過去から未来へと流れる時間や事象の流れなんかを霊感によって察知することで無意識のうちに行動に反映させる……」
「む、難しいです」
「あ~、わり、あんまり説明すんのうまくねえんだ俺。ざっくりまとめると、俺たち霊能力者の勘てのは霊力をあんまり持たない普通の人間の勘よりは、当たる確立が高いってことだ」
「ふへ~、そういうものなんですね」
「そういうものなんです。まあ、他に探すあてもないしな。とりあえずこの山から探してみようってわけだ」
ふむふむと俯くキヌ。
あれやこれやと話しながら歩いていると、ずいぶん山深いところまでやって来た。山の上から見下ろす街の灯りはもうずいぶん遠い。高い木々と梢が空を覆い、遠くに見えはずの山々の峰は星明りを反射しないためか、黒々と不気味に屹立していた。
「……一休みすっか。疲れてきたし」
もうずいぶん歩き通してきた。
腕時計の針は十時五分を示している。山に入ってからすでに二時間ほどが経過していた。
忠夫は背負ったリュックサックから、水筒とホテルの売店で買ったパンを取り出す。夕食は食べてきたとはいえ、山奥でハンガーノックになったらシャレにならない。
キヌは不思議そうな顔で忠夫の手元を覗き込んできた。
「なんですか、それ?」
「ん、パンだよ。カレーパン」
「かれーぱん? 食べ物なんですか?」
「そだよ。ん、そっか、おキヌちゃんはパンて見るのも初めてか」
キヌは三百年以上前から幽霊として過ごしてきたという。それから人との交流が無かったというなら知らないのも無理はない。
「はい。時々、そのカサカサした包み紙が山に捨てられたりしていますけど、中に入った実物を見たのは初めてです」
カサカサした包み紙……ビニールの包装紙のことか。
「ああーいるいる、そういうポイ捨てするバカが。おキヌちゃん、これからそういう連中見つけたら空から頭の上に石とか落として痛い目みせてやれ」
「そ、それはさすがにちょっと」
――ふむ、ダメか。
忠夫がパンの一口目をかじろうとした、その時だ。
ぴり、とした緊張感が忠夫に走った。真っ白な画用紙の上に黒い墨が一滴落とされたような明確な違和感だ。
「来やがった、霊の気配だ」
「え?」と顔を上げるキヌ。
忠夫はキヌに、リュックサックや今食べようとしていたパンや水筒を投げて渡す。
「悪い、おキヌちゃん。ちょっとそれ持っててくれ」
「は、はい、分かりました」
忠夫は森の奥に向かって駆け出す。
霊の気配は徐々に遠ざかっていく。
――ハ、今度こそ逃がしゃしねえぞ!
木の根を飛び越え、岩から岩へ跳躍。木が乱立する急斜面。義経の八艘飛びのように木の枝から木の枝へと飛び移る忠夫。全身のバネを使った体幹移動。人外じみた動きだが、それは霊力による身体強化の恩恵によるものだ。
「見えた!」
森深い暗がりの中に、よりいっそう黒い影が見えた。
木から木へと飛び移っている。
空を覆う木々の梢の間から零れる星明りが時折、走る悪霊の姿を映し出す。かなりすばやい。それも木の配置や地形を熟知した無駄の無い動きだ。
追従する忠夫。
しかし、奇妙だ。
あれだけの軽快な動きが出来るなら忠夫を振り切ることなどたやすいはずだ。しかし意図的につかず離れずの位置を保っているように見える。時折こちらを見ているような仕草がまさにそれだ。
――一体どういうことだ。なにをたくらんでいやがる。
と、忠夫がいぶかしんだ時。
「きゃあああああああ――――――っ!」
森に悲鳴が木霊する。これは。
「おキヌちゃん!?」
――まさか俺たち二人を引き離すための陽動か!?
しかしどういうことだ。目の前には悪霊の姿がしかと見える。キヌのほうにも何かあったとすると、悪霊は二体いることになる。そして目的はなんだ。キヌを狙う目的は。
「ち、とにかくおキヌちゃんのところに戻らねえと……っ」
忌々しげに目の前の悪霊を睨みつけると、即座に来た道を引き返す忠夫。その姿を、彼が追いかけていた悪霊の窪んだ瞳は森の奥から静かに見つめていた。