デビルサマナー 安倍セイメイ 対 異世界の聖遺物   作:鯖威張る

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一章 デビルサマナー安倍セイメイ 対 キセイの宝種
第一話 『不吉なるモノ達』


 鉛色の空から白い牡丹の花びらのような雪が降り、命が途絶えたように葉も実りもない木々の立ち並ぶ山林の中に二人の人影があった。

 二人とも女性だが、一人は妙齢の女性でもう一人は少女だった。二人とも黒のローブを身に纏い、山林の中を進んで行く。

 

「フェイト、お見送りはここまでで大丈夫ですよ」

 

 肩まで延びた薄茶色の髪に紺色の目をした女性が少女に向かって言う。

 女性の頭から空へと向かって飛び出た髪と同色の猫のような対の耳とローブの裾からはみ出した尻尾が、その者が人ではないことを示していた。

 

「リニス……」

 

 フェイトと呼ばれた絹のような金髪を左右に一房ずつにまとめた少女は妙齢の女性の名を呼び返す。

 その紅玉のような瞳には確かな悲哀の感情が浮かんでいる。

 

「そんなに、悲しい顔をしないでください。きっとまた会えますよ」

 

「本当に……?」

 

リニスと呼ばれた女性が困ったように言うと、フェイトはその陰鬱な表情のまま問い返す。

 

「ええ、もちろん!」

 

 

 ――嘘だ。

 

 

 答えると同時にリニスの心を頭上の空と同じ鉛のように重く、毒を含んだ罪悪感が襲う。

 

「ぜったいだよ、また会っていっぱいお話しするんだ! ……今度は母さんも一緒に」

 

「ええ、きっとまた会いましょう」

 

 悲壮の顔で必死に言うフェイトにリニスは今できる精一杯の笑顔で微笑みかける。

 

 

 ――それは叶わないことを私は知っているじゃないか。

 

 

 死期が近い事をリニスは知っていた。リニスは主人からの魔力で生きる使い魔だ。

 リニスはある目的の為に主人に造られ、そしてその目的を果たしたら主からの魔力の供給が無くなり、死ぬことになっている。

 

『造られた目的』は既に果たした、この身に残った魔力も残り少ない。普通であれば一週間はもつほどの魔力量だが、この先で使う転移魔法で一気に消し飛ぶ予定だった。

 最初は残りの余生をこの雪の山林で過ごすのも良いかとも思ったが、もしフェイトが戻ってきてしまうと別れづらくなってしまう。そんな理由でリニスは転移を決めたのだ。

 

「じゃあ、いってきます」

 

 リニスはフェイトに背を向けて、森の奥へと歩き出す。

 

 

 それは黄泉路への旅のはずであった。

 

 

 かなり歩いたところで、後ろを振り返り、フェイトがついて来ていないことを確認する。

 そこにあったのは自分が残した白銀の足跡と、延々と続く鉛色の空。

 

 ――ああ、最後はちゃんと笑えていただろうか。

 

 そんな考えが、リニスの心をよぎる。すでに鉛色の空は、目に貯まった涙で既に滲んでいる。泣き顔で別れをしなくて済んだか、今はそれが気になる。

 

 ――あの子達の為にもっと他にできることがあったのではないだろうか。

 

 そういう思いもまだある。フェイトとその使い魔のアルフに魔法の知識を授け、魔法を使用するための端末であるデバイスも授けた。彼女たちに強さを教えてあげた。

 

 だが、それだけのことしかしてあげられなかった。結局、フェイトとその母であり、自身の主人でもあったプレシアとの関係の溝は、埋めることが出来なかった。

 

 もっともっと、愛しいあの子達にしてあげられることはあったかもしれない。

 ……いや、してあげたいことがたくさんあった。

 

 しかし、自分に残された時間がそれを許さない。

 その摩擦に何度その耳と尻尾の毛が抜けるほど悩んだ事か。

 

 「この絶望を罰に、私はこの世界を去りましょう」

 

 独りごちると同時に、リニスの足元には薄緑の円形の魔法陣が、そして周りには円環のような魔法陣が展開される。

 身に圧し掛かる無力と後悔の絶望。それは幼い教え子たちと自分の主人を置いて逝く自分への罰。

 

 

 さようなら、愛しい教え子たち。

 

 さようなら、偏屈で全然素直じゃない私のご主人様。

 

 心の中で呟くと同時に、リニスの姿は光と共に消えた。

 

 あとに残ったのは鉛色の空と、銀と灰色の山林と、彼女の頬を伝った雫で僅かにみぞれになった雪だった。

 

 その時の彼女はまだ知らない。

 その別れが、新たな出会いとなる事を。

 

 ◇

 

 深夜、海鳴市。

 星命がこの世界に来てからニ年の月日が経ち、もう数日で星命達は小学三年生に進級する。

 時間の経過と共に海鳴市に悪魔が現れる回数は徐々に増えてはいたものの、近隣の悪魔との連携で問題なく処理は出来ていた。

 

 異界でも星命の噂は広まっており、人の世に興味の無い悪魔は異界から出ては来なくなってきていた。

 季節は四月に入っていたがその割りに冷たい風の吹く、そんなある夜の事である。

 

「うぉれは 月曜日だぁぁぁ うぉまえは木曜日かぁぁっ!?」

 

「どれかと言われても…全部かな? 陰陽道には五行の木火土金水、それに月と日を表す『陰陽』全部揃ってるからね」

 

「うぉまえはぁ よぉくばりだぁぁ! バチがぁぁ 当たるぞぉぉっ!」

 

 冷たい風が吹き、半分の月の柔らかな蒼い光が照らす市街地のわずかに外れにある中小企業の商業地帯、その中。

 とある二階建ての雑居ビルの屋上に二つの影があった。辺りには同じようにさほど高くないビル群が並ぶように存在している。

 

 一つは大量の人間の頭蓋骨の集合体のような異形が屋上のコンクリート床から空に浮かぶ月の如く、ぷかぷかと浮いている。

 

 その影と対峙しているのは黒い学生服に三日月の紋章のついた学帽を被る少年。その顔には眼鏡をかけており、右目には帽子から食み出した自身の黒い前髪が垂れている。

 

 ――その姿は、やや成長してはいるものの、『悪魔召喚師』安倍星命であった。

 

「このビルヂングで起こっている落下事件の犯人は君だね、レギオン」

 

 感情を殺した表情を崩すことなく、星命は淡々と対面の異形の名を呼ぶ。

 先月の頭から、星命の今立っているこのビルでは奇怪な事件が起こっていた。

 窓の近くにいると何者かに突き飛ばされて下に落とされるのだという。

 この雑居ビルが支社として使われている二階建てというのが幸いして死人は出てはいないが、重傷を負った人間がいたのもまた揺ぎ無い事実である。

 しかし、突き飛ばされた者達は皆犯人の顔を見てはおらず、犠牲者は既に五人にも上り、ライバル会社の陰謀ではないかと囁く者まで出始めてほとほと困っていたらしい。

 

 らしい、というのはこれは星命がアリサから聞いた話だからだ。アリサの両親は実業家である。

 実はその陰謀説の矛先がアリサの両親と提携している子会社に向いており、事件を耳にしたアリサが悪魔による犯行の可能性を考え、星命に相談したのだ。

 

 そして、アリサの予想通りこの雑居ビルには悪魔が潜んでいた。

 

 

『レギオン』

 その名は「連隊」を意味し、同じ様な苦痛を味わう霊達が集合して生まれた悪霊である。

 

 

「人間に害を為す悪魔を見逃すわけにはいかない。覚悟してもらうよ」

 

 

「召喚!」

 

 

 太腿の弾帯より、管を二本抜き自身と契約した仲魔を喚び出す。

 マグタイトの緑光と共に星命の左右に二柱の異形が姿を現す。

 

 一方は、翼を持つ巨大な炎蛇。もう一方は、紫色に輝く手鏡。

 トウダとムラサキカガミであった。

 

「ケモノノ 血ガ騒グゾ アオォーーン!」

 

「会いたかったわ、ワタシの可愛いサマナー」

 

 戦いを前にしたトウダは興奮したように遠吠えを一つし、ムラサキカガミは星命の耳元で甘い言葉を囁く。

 

「トウダは近接戦闘を、ムラサキカガミは僕の護衛を」

 

「悪クナイ 判断ダ」

 

「惚れ惚れするわね」

 

星命の言葉と同時にトウダはその翼で空を駆ける。

 

「オレサマ オマエ マルカジリ!」

 

トウダが噛み付こうとその口を開き突進する。しかし、レギオンはその体をクルクルと回転させながら避け、トウダの牙は空気を噛んだ。

 

「コザカシイヤツ… カミ殺シテヤル!」

 

トウダは体を転進させ、再度その大顎でレギオンを噛み砕かんと襲い掛かるが、その攻撃は悉く避けられる。

 

突如、レギオンが高度を上げた。頭上に浮かぶ半分の月と、レギオンの体が被る。

 

「ステキすぎて 死ぬぜぇぇぇぇぇ!」

 

 拳ほどの大きさの氷塊がいくつもレギオンの前に現れ、意思が宿ったかのように星命のほうへと襲い掛かった。

 

「ムラサキカガミ!」

 

「お安い御用ね」

 

 星命がムラサキカガミの名を呼ぶと、ムラサキカガミが上空から降り注ぐ氷塊と星命との間に割って入った。

 

 ムラサキカガミに氷塊がぶつかると思われたが、ぶつかる寸でのところで、ガラスのような透明な壁が現れ、氷塊を弾いた。

 弾かれた氷塊はまるで巻き戻しの如く逆方向へと飛んでいき、ごつごつと鈍いを音を立てながらレギオンの多数の頭蓋へとぶつかっていく。

 

「イ イ 痛いじゃないかぁぁぁ!」

 

 レギオンは悶えるように叫び声を上げたが、その体には傷一つ付いていない。

 

「無傷か」

 

「得意な魔法を放つんだから、当然でしょ。吸収されるよりはマシよ」

 

 星命の声にムラサキカガミが答える。

 

「ならば……トウダ! 君の力を僕に!」

 

「イイダロウ……イクゾ! さまなー!」

 

トウダから赤い光が飛び出し、星命が霊符から変えた七星剣へと宿る。

 

「紅蓮剣!」

 

トウダからの光が染込むと同時に七星剣から紅蓮の炎が噴出する。

 

「トウダ!」

 

トウダを呼び、星命は地面を蹴って真上へと跳ぶ。

その下をトウダが潜り、星命はトウダの首元へ着地する。

 

トウダに乗せられぐんぐんとその高度を上げ、上空のレギオンのいる位置へと猛然と近付いていく。

 

「うぉまえの 攻撃は 当ァたらないィィ!」

 

 向かってくる星命を避けようと、レギオンは更に真上へと高度を上げた。

 既に距離を二メートル弱まで詰め、その上さらに猛加速で距離を詰めるトウダに乗ったままでは確実に捕らえられない角度である。

 

 星命は腰のベルトのサイドポーチから三枚の霊符を取り出し、目上へと投擲する。

 それと同時に、自分も空へとトウダの首を蹴った。

 

 星命の体が重力に逆らい夜の闇を駆ける。

 しかし、それでもレギオンの浮かぶ高度までは到達できない。

 星命の体がトウダを蹴った推進力を無くし、重力に縛られ始めたその時。

 

「出でよ、式神!」

 

 星命の下で風に舞っていた霊符が黒き一眼の梟へと変わり、星命の足元へと羽ばたく。

 足元にきた梟を踏み台にし、星命はさらに高く跳躍する。

 もう一羽が星命の進行方向へと先回りし、さらに星命はこれを踏んだ。星命の体重を支えようと式神の梟は星命の乗る一瞬だけ忙しく羽ばたきをする。

 

「予想外ィィ! ぬぁんびとたりとも うぉれには 追いつかせねぇぇ!」

 

 レギオンが星命から逃れようと更に高度を上げようとするが、それは失敗に終わった。

 

 星命の放った最後の梟が、レギオンの頭上でその姿を茨の網に変え、大きく口を開いていたからである。

 

「うぉぉっ!? イテぇぇぇっ!!」

 

 重力に惹かれ、落ちてきた網がレギオンを呑み込み、いくつもの棘がレギオンの頭蓋に歯を立てる。

 

 ここで現れた隙を星命は見逃さなかった。

 

 ――怨 霊 調 伏 !

 

 星命とレギオンの影が重なると同時に、星命はその炎熱の七星剣を振りぬいた。

 剣はレギオンの頭蓋骨の体を焦がしながら引き裂き、横一文字に両断する。

 直後、頭蓋を焦がす熱は炎へと変わり、レギオンの体と噛み付いたままの網を焼き尽くす。

 

「し…死にが ハチィィィィィィ!」

 

 ニ分割されたレギオンは、その身を包む火炎と共に消え去った。

 

 それを見届けながら落下する星命をトウダが出迎え、星命はトウダの上へと降り立った。

 

 そのまま星命はトウダの背に乗ったまま、ゆっくりと雑居ビルの玄関口へと下りた。その後をムラサキカガミも追う。雑居ビルの玄関に面した歩道まで下りたところで星命はトウダの上から飛び降りる。

 

「よし、ご苦労様。トウダ、ムラサキカガミ、管へ」

 

「ウム」

 

「また会いましょ」

 

 星命の指示に従い、二柱の悪魔は自身の管へと戻る。

 

「召喚、クルースニク」

 

 星命は先の二柱のものとは別の管を腕の弾帯から引き抜き、クルースニクを喚ぶ。

 

「お呼びですか」

 

「すっかり遅くなってしまったからね、護衛を頼むよ」

 

「了解しました」

 

 星命の言葉にクルースニクは頭を垂れて了承する。

 既に時刻は子供一人が出歩いて良い時間帯をとっくに過ぎている。そこでクルースニクを使って補導を避けようという魂胆なのだ。

 隠形術で姿を隠して帰るのも一つの手だが、長時間の気の使用は身体にかける疲労も大きくなるため緊急時以外では避けたい所である。

 

 星命がクルースニクを連れてビルの立ち並んでいた市街地を抜けると、だんだんとビルと民家の比率が入れ替わり、ついには完全に住宅街へと入って行く。

 

 ふと、進行方向のはずれにある児童公園のほうへと眼を奪われた。

 公園の垣根の樹木の隙間から薄緑の光が明滅しているのが見えたのだ。

 

 夏であれば花火でもやってるのか、と見逃したかもしれない。

 だが今は春先だ、花火をやるのはおかしい。というわけではないが多少の違和感はある。

 その上、なぜか魔の気配を感じるのだ。気が付いたら星命は児童公園のほうへ進路を変えていた。

 クルースニクも星命の行動に同調する。

 

 星命が公園に着いた時、そこには巨大な薄緑の円環と円形の魔法陣が地面に浮いていた。

 星命は見たこともない魔法陣にしばらく見とれていたが、やがてその魔法陣の模様が一層強い光を放ち、星命とクルースニクは咄嗟に腕で目を覆った。

 

 光が消え、星命が恐る恐る目の前から腕を下ろす。

 そこには既に魔法陣は無く、何も無いかのように見えた……が、

 閃光のせいで闇の深くなった星命の目が方陣のあった場所にあるものを見つけた。

 

 「猫?」

 

 方陣のあった場所に一匹の山猫が倒れていた。北欧育ちのようなふかふかと柔らかく厚い薄茶色の体毛に覆われた山猫だ。

 ゆっくりと星命は山猫の方へと歩み寄り、前足を握る。

 

「まだ暖かい、死骸というわけじゃなさそうだ」

 

 握った前足からしみこむようなじんわりと暖かい体温と脈が感じられる。

 それとは別に、悪魔たちのものとはまた別の魔の気配も感じる。

 

「えと、何だったかな?」

 

「どうしました?」

 

「いや、前に似たような猫を月村邸で見た気がするんだよ。なんて名前だったかなぁ」

 

 急に星命が顎に手を当て思案顔をする。クルースニクが聞くとどうやら猫の種類の事を考えているらしい。以前月村邸に行った時に似たような猫を見たのである。

 

しばらく記憶を探っていた星命だったが、思い出せないので諦める事にした。

 

「さて、山猫くん。さっきの方陣は君が出したのかな?」

 

 星命の問いに、山猫は薄く目を開き力無く一声鳴いた。

 

「残念だけど、僕はジャイヴトークはできないんだよ」

 

「普通の猫でない事はもうわかっているんだ。話してもらえないかな?」

 

 傍に屈んだまま優しく、語りかけるような口調で星命は続ける。

 

「……転移の瞬間を見られたからには仕方がないですね」

 

 猫が口を開くと若い女性の声が聞こえた。

 ネコマタなどの妖の類とは違い、肉声である。

 

「君の名前は? ちなみに僕は星命、安倍星命だ」

 

 ちなみにこっちはクルースニク、と星命が後ろのクルースニクを指差すと、クルースニクは恭しく礼を一つした。

 

「私の名前はリニス、つい最近まで使い魔をしていました」

 

 リニスは自己紹介をしつつ、のそりとその場に体を起こし、座る。

 

「使い魔…ね」

 

 使い魔、西洋の魔術師や魔女などが使う小間使いのはずだが、星命の式神と同じように自我を持たない場合が多かったはずだ。少なくとも、悪魔以外で自我を持つ使い魔など星命は知らない。

 

「あの、使い魔がわかるという事はこの世界には魔法文化があるのでしょうか?」

 

「『この世界』?」

 

 目の色が変わった星命の切り返しに、リニスはしまった、という顔をする。それと同時にリニスは思い出した。一部の管理外世界では小説や映画の類に架空の魔法を取り扱っている場合があることを。

 

「い、いや……今のは忘れてください」

 

「お断りだね、詳しく話してもらうよ」

 

『この世界』という言葉に星命は反応せざるを得なかった。

 もしも、こことは違う世界があるのならば、自分がここにいる理由の手がかりが隠されているかもしれないからだ。

 ならば聞かない道理は無い。

 

「……はぁ、まぁいいか。どうせ消える身ですし……」

 

 観念したのか、それとも自棄になったのか。リニスは溜息を一つ付いて語り始めた。

 

「この世界には色んな世界が存在しているんです。その世界全体を次元世界と言って、私の居た第一管理世界にある『時空管理局』によって管理されています。魔法文化があって管理局に管理されている世界を管理世界。魔法文化が無く、管理局に観測されている世界は管理外世界と呼ばれています」

 

「魔法文化……?」

 

「その、私たちの世界の人間が使う魔法は全ての次元世界に存在する魔力素といわれる物質を魔力によって特定の技法で運用するものです」

 

「自然摂理や物理作用をプログラム化し、それを任意で書き換えや書き加え、または消去したりすることで、作用に変えるんです」

 

「自然摂理や物理作用をぷろぐらむ化…ね」

 

 物理演算や科学術式による超科学的な魔法、というところだろう。と星命は当たりをつける。

 この世で過ごした二年の月日が無ければ恐らくここまで理解する事は出来なかっただろう。

 学校への編入を依頼してくれた忍や今の時代の文化に積極的に接触させてくれた高町家の人々に星命は心の中で感謝した。

 

「もしかして、自分だけで炎を出せたり、雷を撃てたりするのかな?」

 

「資質にもよりますが、可能な人もいますね」

 

 リニスの答えに随分と高度な話だと星命は思った。今のこの世界では自分の使う陰陽術や他の魔術・呪術の類も一種の魔法とは言えるのだろうし、一応術式などには規則性もある程度は存在する。

 しかし、その身だけで炎を操り、雷で大地を穿つなどできるわけがない。

 そこまでいくともはや悪魔ではないか。

 

「では、その技法とやらを知っていれば誰でもその魔法が使えるのかい?」

 

「いいえ、そういうわけでもありません。私達の世界の魔導師は体内にあるリンカーコアと呼ばれる器官で魔力素を魔力へと変換して使用します。つまりリンカーコアがないと魔法は使えないんです」

 

「リンカーコア……か、僕にもあったりするのかな?」

 

 興味半分で聞いてみた星命だったが、返ってきた答えは予想外のものだった。

 

「あ…あります。おかしいですね、管理外世界に魔力素質を持つ人間は滅多にいないはずなんですけど……」

 

 驚きの声を上げたリニスに星命はさらに質問する。

 

「次元世界の中には、ほぼ同じ地理や歴史を持つ世界というのは存在するのだろうか?」

 

「文化レベルが同じような世界はあった気がしますが、貴方の言ういわゆる並行世界のようなものは無かった気がします……」

 

 リニスの知識は主人であったプレシアから受け継いだものであり、実際に外の次元世界に出るのはこれが初めてのことであるため、断言が出来ず、曖昧に言うに留めた。

 

「そうか」

 

 これで、少なくとも自分が次元世界の一つから飛んできたという可能性は棄却された。

 どうやって飛ばされたかがわかったところで元の世界に帰る場所など無いのだからあまり気にしなくて良いといえばそれまでなのだが。

 

「長々と聞いて悪かったね」

 

「いいえ、気にしないでください」

 

 謝罪をしながら星命は立ち上がる。

 

「これだけ聞いてしまったからには何かお礼をしなければいけないなぁ」

 

 もったいぶったような声を上げる星命に不思議そうな顔をしながらリニスは首を傾げる。

 

「そうだな、例えば『君がそんな絶望にくれている目をしている理由を手伝う』なんていうのはどうだろう?」

 

「っ!?」

 

 星命の言葉に、リニスがその目を見開く。

 

「図星、といった顔だね」

 

 できれば当たって欲しくは無かった、と星命は表情を曇らせる。

 

 ――ライドウくんの目にも、僕はこんな風に映っていたのだろうか。

 

 思い出すのはかつての自分、世界を滅ぼす邪悪に身を乗っ取られたことを死の間際まで身を引き裂かれる後悔に苛まれていたあの時の自分。

 そんな自分と同じ目を、リニスはしているように見えた。

 

「良かったら、聞かせてもらえないか」

 

 静かに、星命が言った。

 

「はい……」

 

 長くなる、というリニスの言葉に、星命は公園中央にある休憩小屋で話を聞くことにした。割った木を金具で固定しただけのベンチにクルースニクと座り、同じような木のテーブルの上にリニスが座する。

 

「私の主はプレシア・テスタロッサという魔導師です」

 

 沈痛な面持ちのまま、リニスは言葉を紡ぐ。

 

 ――元はプレシア・テスタロッサの娘、アリシアの飼い猫であったこと。

 

 ――プレシアが開発した魔導炉の事故で、アリシアと共に一度この世を去った事。

 

 ――それを嘆いたプレシアが人造生命体の研究に着手し、フェイト・テスタロッサというアリシアのクローンを作ったこと。

 

 ――しかし、それは同じ容姿と記憶を持った別人という結果で現れ、プレシアはそれを失敗と感じ、フェイトに対して憎しみに似た感情を抱くようになったこと。

 

 ――その後に使い魔としての自分が生まれ、プレシアと『フェイトの魔導師としての育成と使用するデバイスの作成』を条件に契約した事。

 

 ――そして、フェイト達と過ごした日々のことと、契約によってもうすぐ力尽きる事を。

 

 それを言うたびにリニスの表情に影が入り、それを聞くたびに星命の顔がさらに曇る。

 

「結局私には祈る事しかできなかった……」

 

「あの子達を連れ出すことも、真実を告げることも」

 

「プレシアを説得させる事も……」

 

「どうしようもなく無力で、弱い自分が嫌になります……」

 

 力なく呟き、俯いたリニスの目の前に子供の手のひらが差し出された。

 

「え?」

 

 手が伸びてきた方向をリニスが見る、その紺色の瞳には微笑んでいる星命が映った。

 

「もし、僕にも魔力があるのなら君の死を伸ばすことぐらいはできるだろう?」

 

「え…はい、というか感じる分ではこの形態で過ごす分には問題なさそうです」

 

「なら、まだ諦めないで欲しい」

 

 星命は考えていた。『どうすればこの自分と同じ眼をした元使い魔を助けることが出来るだろうか』と。

 そこで思い出した、かつて自分がこのような状態にあったときにさし伸ばされた傷だらけの手の事を。

 

「ひとりひとりは弱者でも、力を合わせることはできる」

 

 かつて友に言われた言葉を、自分にも言い聞かせるように。力強く、意思を込めてその言葉を紡ぐ。

 

「僕も手を貸すよ、力になれるかはまだわからないけれど」

 

「星命さん……」

 

 もはや、その手を取らぬ理由などリニスには無かった。むしろ、希望にさえ見えた。

 かつて望んでやまなかったわずかばかりの時間が今、目の前にある。

 それだけで充分だった。

 

「お願いします、星命さん。私に時間をください」

 

 右の前足を星命の左手に乗せる。かつて掴めなかった希望を掴むために。

 その眼には既に絶望の色は無く、炯々と希望のように熱い灯火が灯っている。

 

「ああ、今後ともよろしく……と言ったはいいんだけど、どうすれば良いのかな?」

 

「あ、あと僕に敬称はいらないよ」と星命は付け加えた。

 

「魔力の循環はこちらでやるので、契約内容だけ決めてください」

 

「わかった、契約内容は……」

 

「『君の願いが叶うまで』というのはどうかな?」

 

「自分から言っておいてなんですけど、良いんですか? そんな抽象的で」

 

「良いんだよ、君らの世界の魔法を使う事は僕には無いだろうからね」

 

 星命には魔法は使えずとも悪魔召喚と陰陽術がある。その上、魔力があったところでデバイスが無い。ようは宝の持ち腐れなのだ、いくら魔力を取られても星命には痛くも痒くもない。

 

「わかりました。では、いきます」

 

 宣言と同時にリニスの足元を囲むように薄緑の光を放つ魔法陣が現れる。

 

 星命の体から赤黒い光が漏れ出し、リニスの体へと吸い込まれていく。

 渇ききった土が水で潤うように、魔力に飢えていたリニスの体を満たしていく。

 

 しかし、吸収したのは魔力だけではなかった。

 

 

 

 ――なぜ、人は愛と暴力を同時に行えるのだろう。

 

 

 

 ぽつりと目の前にいる少年の声が頭に響いた。

 

 使い魔との精神リンク。それはリニスたち使い魔との契約において切っても切れない関係である。

 主人が心を固く閉ざしていれば感情や記憶が流れる事は無い上に、心を開いていても通常であれば使い魔に流れてくるのは強い感情程度である。

 

 しかし、何の因果か赤黒い蟲毒色の魔力は記憶を連れて、リニスの中へと流れ込んだのだ。まるで蟲毒の魔力が星命の記憶を吸い取り、リニスに与えるかのように。

 

 精神リンクの繋がりが深くなったのは一瞬だけであった。

 しかし、その一瞬だけでも充分すぎるほどのものがリニスには見えて、そして聞こえた。

 

 

 

 ――僕の名前は安倍星命、超國家機関、ヤタガラスの情報部から派遣されてきた。

 

 ――『せいめい』って名前は偉大なご先祖様にあやかってつけられたんだ。さすがに恐れ多いから字は変えたらしいんだけどね。……ただ、そこには陰陽師のみんなの願いが込められているんだよ。

 

 ――『星に命を』……なんてね。

 

 ――どう? ライドウ君。僕なんかでも少しは役に立てたかな?

 

 ――それじゃあ 弱い人間の心はわからないよ! ライドウ君!

 

 ――ねぇ、君は感じた事はないかい? この世はとても残酷だと。

 

 ――僕も現世の不平等を正す、君とは見てるものが違うんだよ!

 

 ――君のその顔、とても敵をしとめた顔じゃないね、素敵だよライドウ君。

 

 ――悔いがあるとすれば、クラリオンに利用され、僕自身が世界を滅ぼす災厄となった事実……

 

 ――それが最期まで弱者だった僕の末路だよ。この絶望を罰に僕はこの世界を去ろう。

 

 ――戦いの中で見た清浄の光、昔、僕が否定した繋がりこそがその力の根源……

 

 

 魔力と共に、流れ込んできたのは戦いと陰謀の記憶。

 

 世界に絶望し、謀反を起こし、その身を邪悪に利用され、そして――

 

 

 ――最後の最後に僕は希望を見つけた。ありがとう、さようならライドウ君……

 

 

 友人によって救われた男の一生。そして、新たな世界へと現れた魂と体。

 

 安倍星命の人生の記憶だった。

 

「星命……あなたは……」

 

 様子の変わったリニスに星命は首を傾げる。

 

「伝え損ねていました、使い魔は術者と精神を接続して感情や記憶を共有できるんです……」

 

「なるほど、見たわけだね。僕の過去を」

 

「はい、でも一瞬とは言えこんなに深く繋がるなんて思わなくて……」

 

「構わないよ。軽蔑をしてくれても別に構わない、それだけの覚悟を決めて僕はその夢を追いかけたんだ」

 

 数々の罪を重ね、人を殺め、力を求めた。

 どんな惨い死に方をしても赦されないくらいには。

 

 だが、リニスの心の中にあったのは軽蔑でも侮蔑でもなかった。

 

 ――その心の中にあったのは哀れみだった。

 

 たしかに、彼が犯した罪は赦されるのものではない。それはわかる。

 でも、彼もまた被害者なのだ。と、リニスは感じた。

 

 星命の記憶の中、教育係である倉橋黄幡の教育方針に同じ教育者として疑問を覚えた。まるで、何かに誘導するかのような、子供の道を陥れるかのような歪んだ教育の方法だった。

 この黄幡の教育が無ければ、星命は純粋に少し内気だが普通の気さくな少年となっていただろう。こんな闇の深い人生を送ることはなかったはずだ。教育者の質は子供の行く末を大きく左右する事をリニスは知っている。

 

 少なくとも、今の星命から悪意は感じない上に、何よりも自身の恩人である。

 リニスはこのことは心の片隅に仕舞っておく事にした。

 

「君さえ良ければ契約は切ったりはしないよ」

 

「すみません……」

 

「だから気にしないでいいから……」

 

 言いながら星命はリニスの頭を撫でた。

 

「さてと」と、星命は木彫りの椅子から立ち上がる。

 

「いつまでもここで喋っているわけにもいかない。そろそろ帰るとしようか」

 

「セイメイ」

 

「ん?」

 

 今の今まで沈黙を貫いていたクルースニクが口を開いた。

 

「帰ってからでも構いませんので、お話があります」

 

「何の話?」

 

 直立不動のクルースニクの言葉に星命が小首をかしげる。

 

「キンシのライドウの……その後の動向について」

 

「……わかった、帰ったら必ず、ね」

 

 再び、星命の目つきが鋭くなる。

 言いながら星命は小屋の屋根を潜り外へ出た。

 その後の動向、ということは人柱になって終わったわけではないのだろうか。

 

 その時、星命の思考に横槍を入れるように別の思考が飛び込んできた。

 

「あ」

 

 星命が突如声を上げた。それと同時にいつもの穏やかな目つきに戻る。

 

「どうしたんですか?」

 

 声を上げた星命の足元に近付いてきたリニスが不思議そうに尋ねる。

 

「いや、一つ思い出し事をしてね」

 

「何をですか?」

 

「いや、なんでもないよ……」

 

 思い出したという星命にさらにリニスが質問をすると星命が歯切れが悪そうに誤魔化した。

 

『ヤタガラスの関係者で猫を連れているヤツには気をつけろ。そいつの周りにいると何かしらデカイ厄介ごとに首を突っ込む事になる』

 

 星命が思い出した内容、それは昔ヤタガラスの情報部で聞いたジンクスだった。

 その時は特に気にしなかったが、今ではそのジンクスが真実だったのではないかと思える。

 

 友人の葛葉ライドウは業斗童子という葛葉のお目付け役の黒猫と一緒に行動していた。

 そのせいか否かライドウは様々な怪事件や陰謀に悉く巻き込まれていた。

 

 蟲毒の秘術によってマグネタイトを体内に貯める事ができる供倶璃の一族の媛であった串蛇は白い猫を連れていた。

 この猫はネコマタだったが彼女もまた自分が起こしたコドクノマレビト事件に巻き込まれている。

 

 そして今、自分は薄茶色の猫を使い魔として傍に置く事にしてしまった。

 

 ――いや、きっと迷信染みたことだろうし、何も問題は無いだろう…うん。

 

 自分の足元の薄茶色の猫を見ながら星命は思考から逃げた。

 だが、眺めているうちにまたも別の事柄を思い出した。

 

「あ」

 

「今度は何ですか?」

 

 今度は少々訝しげにリニスが星命に尋ねる。

 

「いや、この世界に君に似た姿の種類の猫がいるんだよ」

 

「私に似た……?」

 

 思い出した内容、それは先ほど諦めた猫の種類についてのことだった。

 

「うん、『ノルウェージャンフォレストキャット』と言うんだけど」

 

「へぇ、どんな猫なんですか?」

 

「君のように暖かそうな毛皮を蓄えているんだ。それで……」

 

「それで?」

 

「北欧神話に登場する雷神、トールでも持ち上げられないほど重いって逸話がある」

 

 言い切ったところで、星命の頬に三乗の軌跡が走った。

 

「痛っ!」

 

 反射的に頬に手を伸ばす。そこにはヒリヒリと熱と痛みを覚えた肌があった。

 

「雷神トールがどのようなものかは知りませんが、女性に重いは失礼ですよ星命」

 

「え、はい、ごめんなさい……」

 

 ひらりとリニスは華麗に地面に着地し、叱り付けるような口調で言った。呆気に取られた顔のまま星命は謝罪を述べる。

 

「よろしい」

 

 満足げにリニスが眼を細めながら言った。

 

 三乗の傷で熱を帯びた頬を摩りつつ星命はふと、空を見上げる。

 少しすると、一筋の光が夜の帳を引き裂くように横切った。

 

「あ、流れ星」

 

 そう言ったのは同じく空を見上げたリニスだったが星命は傷ついた頬を更につねった。

 

「いふぁい」

 

「何をしてるんですかセイメイ」

 

 自分の召喚者がどうかしてしまったのではないかと怪訝な顔でクルースニクが声をかける。

 

「いは、はんへもはいほ」

 

 頬に奔る熱がさらに強まり、沁みるような痛みが頬を刺激する。

『流星の夢は不吉の予兆』とは誰の言葉だったろうか、そんなことを考えながら、星命は頬から手を離した。

 

「多いな」

 

 そう言ったのは星命だ。初めは一筋だった光は幾重にも増え、落ちて行く。

 

 その数、二十一。

 

 ――今日の朝の報道では流星群の話はなかったはずだけど……

 

 妙な予感が、星命の脳裏を掠める。

 

「まぁ、いいか。痛いってことは夢じゃないんだろうし……今度こそ、帰ろうか」

 

 頬をさすりつつ、星命は公園の出口へと足を向け、その使い魔と仲魔もその足取りに同調するように足を進める。

 

 この時は誰も気づくことが無かった。

 その流れ星こそが、このわずか後に、安倍星命(厄年)に厄介な事件をもたらす災厄の元凶だという事を。

 

 ◇

 

 星命達のいる公園から市街地へ数キロ離れた場所に位置する小さな交差点に数台のパトロールカーが止まっている。

 いつもは人通りの少ない交差点だが、今はパトカーのサイレンと、赤色警光灯に引き寄せられた付近の住民や通りすがりの人々でごった返している。

 

 ――ひき逃げ?

 

 ――大型トラックに轢かれたんだってよ。

 

 ――なにそれヒサンー

 

 口々に飛び交う伝言ゲームとごった返す人々の群れを押しのけながら進む一つの影があった。

 

「はい、ごめんなさいよ。通してくださぁーい」

 

 サウナの熱気のように纏わり付く群集に苛立ちを覚えつつも、茶色のハンチング帽にトレンチコートの刑事、風間は人々を掻き分け進んで行く。

 十メートルを進むのにたっぷり5分かけたころ、風間はようやく『立ち入り禁止』と書かれた黄色いゴールテープを潜った。

 

「ヤザタぁ、状況報告」

 

「風間さん、俺はヤザタじゃなくて矢佐田です。ヤ・サ・ダ!」

 

「んなこたぁ良いんだよ。ほら、報告」

 

 風間の声で傍に駆け寄ってきたのは紺のトレンチコートを着た二十代半ばほどの中肉中背の男性だった。狐目であり、ほりの深い、一見強面の顔をしているがどこか親しみやすい雰囲気を放っている。

 

「ガイシャは近所に住む二十代の男性、死因は…その、検死にまわさないとわからないです」

 

「わからない? どういうことだ、ひき逃げじゃないのか」

 

「見てもらった方が早いですよ」

 

 そう言いながら矢佐田は風間を交差点の中央に広げられたビニールシートへと促す。

 

 ビニールシートは不自然に盛り上がっていた。

 風間はその傍へと片膝をつき、一度、手を合わせて拝むような動作をした後、シートをめくった。

 

「……おいおい、こりゃどういうことだ。こんな道端で新幹線が通ってるなんて話は聞いた事が無いぞ」

 

 風間が、シートの中身から眼を外し、矢佐田へと向ける。冗談交じりに言った言葉だが、その顔は冗談で言っている風ではなかった。

 

 シートの中身は悲惨であった。胴体は胸骨部分が砕け、べたりと力なく、まるで空気を抜いたように血塗れてぼろぼろになった服だけが、そこに残っている。

 左腕は肘から、右足は膝から先が千切れている。それらと逆の手足は辛うじてくっついてはいるものの、あらぬ方向へと完全に曲がっていた。

 

 そして何より、首から上が無かった。

 

「大型トラックとの衝突でも、こんな道でここまでのことにゃならんだろ。家屋の解体用クレーンとハンマーでも持ってこねぇと」

 

 場所は人通りの少なく、それになりに曲がり角のある狭い道だ。片側一車線はあるものの、とても大型車で人をここまでバラバラにできるようなスピードは出せない。

 

「そうなんですよ、しかもブレーキ痕も、目撃者も無いんですよね」

 

 風間の意見に矢佐田も同調する。

 

「ブレーキ痕があったらこうはならんわな。だが……目撃者がいない?」

 

 人通りは少ないが全くないというわけでもない。

 それに車体に血がべっとりと付いているはずだ、何があっても目に付くはずである。

 

「ええ。車を見た人間は一人も……男の方は最後に見たのは友人の男性達だったそうです」

 

「で、その友人とやらは何て言ってんだ?」

 

「何人かで一緒に食事に行った帰りに急に態度が変わって殴りかかってきたらしいんです」

 

「で、一人が運悪く殴られて気絶してしまい、他の友人達が救急車を呼んでいる間に忽然といなくなったそうです」

 

 矢佐田が紺のメモ帳をめくりながら、風間の質問に答える。

 

「遺体を最初に見つけたのは近所に住む、主婦ですね。車で買い物から帰る途中、道路の中心で潰れているガイシャを見つけたそうです」

 

「トラウマものだな」

 

 言いながら、風間はコートの胸ポケットからタバコを取り出そうとしたが、ポケットは空であった。そこまでやったところで禁煙中であったことを思い出し、寂しい口に自身の手を当てることで我慢する事にした。

 

「その主婦か、殴られた友人が轢いた可能性は?」

 

「無いですね、主婦の方は車載カメラの映像も確認しました。友人の男の方は殴り合いの時に目撃者がいて、ずっと一緒だったそうです」

 

「そうか。しかし、本当にどうやってやったんだかな」

 

「さぁ、見当も付きませんね。悪魔とか、妖怪でも出たんですかね」

 

「……お前、冗談のセンス無いなぁ」

 

「すんません……」

 

 呆れたように言う風間に矢佐田は恥ずかしそうに苦笑いした。

 

「まぁ、どちらにせよひき逃げ以外には考えられんか」

 

「ですねぇ」

 

 疑問は残るが、他には考えられない。

 少なくとも鑑識から情報が回ってくるまでは何を考えても推測の域を出ない。

 

 その後、風間と矢佐田は遅れてきた鑑識班に遺体を預け、その場を後にした。

 結局、この事件は道路上という立地と目撃者などがないことを理由にひき逃げとして処理された。


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