間話 食事風景
歴史上の偉人、彼等の日常、性質はどういったものだったのか。
今日、それを知るには年代を経た薄っぺらい紙媒体を読みとくしかない。
当然、それらの紙きれが何枚積み重なろうが、ひとひとりの人生の重さに釣り合いが取れるはずもなくだれも彼等のことを理解できる人間は居ないだろう。
それは九鬼の手によってクローンとして蘇った源義経にしても同じことだった。
英雄のクローンとして生み出された者の中で、その勤勉さ真面目さが見事に仇となっている少女、義経。
彼女は義経になるべく英雄になるべく、毎日研鑽の日々を送っていた。
先程も述べたように歴史上の彼がどのような人間であったかを資料から読み取ることは難しく、少女は目指す頂きに向かっているのかどうかすら、判らない。
答えのない問、回答を必要としない問題に、その勤勉さは害にしかならなかった。
それでも少女は歩むことをやめない、その姿を見るに、歴史の中の彼も篤実な人間だったのかと窺い知ることが出来るかもしれない。
そんな少女は、昼休み開始時の喧騒が過ぎ、はじめに入っていきた者達が昼食を終え人気が少なくなった川神学園の食堂のテーブルで少し遅めの食事を取っていた。
常ならば隣にいる弁慶は用事があるとの事で彼女は一人で黙々とカレーライスにスプーンを伸ばす。
義経の定まらない視線の先には、無機質な壁があるだけで、彼女の悩みを聞いてくれるはずがない。
少女の悩みといえば、自己同一性、自分が何者であるのかという大きなものがあったが、すぐには解決できそうにないそちらは置いておく。
もう一方も、すぐに結果が出るものでもないが、そちらに比べれば、大したことではない、あくまで比すればというだけではあるのだが。
若獅子タッグマッチトーナメントが九鬼財閥主導で開催され、その大会への参加を義経が義務付けられたことが悩みの種だった。
毎年開催されていた川神武道大会に、九鬼が協力する形で大規模な物になる。
武を磨く、人と競うこと、それらは問題ではない、少女が悩んでいるのはその大会におけるペアづくり。
いつもそばにいる弁慶を頼りすぎる事を厭い、義経の独力で事をなすことを決意する。
これだけみれば、立派な独り立ちであるが、結果が伴わなければ意味が無い。
同じクローンである与一が、早々にペアを見つけ、それに続くように弁慶も納得出来る相棒を捕まえてしまった。
大会出場の登録期間が迫る中、携帯画面に表示されるカレンダーが義経に焦燥を与える。
交友関係の狭さは、少女自身に起因するものではなく、単純に日の浅さによるものなのだが、弁慶や与一が早々に決めてしまったので、言い訳に出来ない。
どうしたものかと、カレーライスを眺めながら少女は嘆息をつく。
気分を変えようと深く呼吸をすると香辛料の刺激的な匂いと、隣から肉の焦げた香ばしい香りが。
そこで義経は先程まで空席であった隣に、少年が座っていることに気付いた。
黒く短めの髪、針のように細い目は、意識的に閉じているのか、それとも生来のものか。
ここ最近、昼食時によく見かける顔だった。
義経は食堂が余程混雑していなければ、決まった席に、習慣的に座ってしまうので、同じような理由で席を決めている彼とよく顔を合わせる。
話をするほど仲がいいわけではないが、気になっていたので彼の食事メニューを横目で確認する。
今日は和風ステーキ御膳、この食堂で四番目に高いメニューだった。
カロリーの高そうな厚切りの肉が、黒の鉄板の上でじゅうじゅう音を立てている。
予想通りの彼の注文、月曜日に頼んだ一番値の張るフカヒレの姿煮を皮切りに、流れるように食堂の上位メニューを制覇していく。
高校生が頼むには不釣り合いな料理であった。
「えっと、そんなにカロリーの高いものばかり食べていると健康に良くないと義経は思うんだが、少しは野菜も摂ったほうがいいぞ」
お節介かもしれないが、純粋に彼の健康を案じ、義経は忠告をする。
少女のありがたい言葉を受け、少年は義経のカレーライスと己のステーキを一瞥すると鼻で笑った。
何が嬉しいのか義経に勝ち誇った顔を見せつけ、己の皿から、肉を一切れつまむと、義経の皿の端に載せる。
義経はこの牛肉の意味を理解しようと頭を捻る。
――なるほど、義経の忠告を素直に受け入れ、食べる量を減らしたのだろう。
彼の従順さに、義経も嬉しくなり笑顔を返す。
少女は他人からの苦言を実行できる彼の度量の広さに感心する。
他人を思っての諫言は決して無駄になりはしない。
彼が再び食事を始め、義経もカレーに匙を伸ばすと、ルーの中央に、載っている物体に気付いた。
はて、自分は納豆カレーを頼んだだろうか、いや、そもそも、この食堂のカレートッピングはフライ系などのオーソドックスなものしかない。
ならばなぜ、自分のカレーの上に頼んでもいない納豆が糸を引いているのか。
疑問が尽きない少女の左横から聞き慣れた女性の声。
「ええっと、君は何をそこまで悩んでいるのかな? もしもーし、聞いてる? いや、さすがに無視は、私も堪えるんだけど」
いつの間にか義経の隣には見知った上級生の女性が笑顔で鎮座していた。
長い黒髪を靡かせながら、納豆をかき混ぜているこの女性は、松永燕、学園の三年生で義経達クローン組より後に転入してきた。
九鬼財閥の支援を受けている彼女は義経達と面識があり、仲良くさせてもらっていた。
そうか、納豆が突然大気中に発生したわけではなかったのか。
自分が気をもむような異常現象ではなかったことに安堵し、燕に挨拶を返す。
「ん、こんにちは。いやぁ、隣の彼に挑発されてたのかと思ったけど、私の勘違いだったみたいだね。ところで義経のパートナーは決まったのかな? そう、敵情視察だよ、あはっ」
挑発とは何のことだろう、気にはなったがそれよりも彼女のパートナーという単語が義経に重くのしかかる。
落ち込んだ少女の顔色から察したのか、燕は義経の肩を叩き慰める。
「元気だして、大丈夫、義経ほどの実力があればすぐに相手は見つかるって。ほら、納豆ももう一個あげるから」
そういって燕が売り出している納豆をまたカレーに載せようとする。
義経は丁重に断りを入れ皿を己の方に引く、これ以上カレーの風味を殺されてなるものか。
燕は己の親切を断られた事を気にした様子もなく、手の中にある納豆のパックを見る。
燕の焼き魚定食の白い米の上には既に先ほど練った物が存在感を醸し出していた。
これ以上載せると自身の好みの比率が崩れてしまうと考えたのだろう。
燕は軽く思考を巡らし名案を思いついたのだろうか、笑みを浮かべた。
「君は一年の荒場くんだよね? 剣聖黛十一段の娘、黛由紀江の一の子分の。彼女とはいずれお近づきになりたいんだよね。よろしく言っといてもらえるかな。これはそのお駄賃代わり!」
弾けるような笑顔で練り上げた納豆を彼が左手に持つ白米に掛ける。
こういうことは、許可をとってからやるべきだと思うのだが、義経が注意するより早くそれは行われた。
お礼はいいとばかりに手を振り応え、再び義経の隣に腰を下ろす。
ハラハラとして義経は二人の様子をうかがっていたのだが、紅葉が何も反応を返さないので文句はないと判断し胸を撫で下ろす。
安心した義経がもう一度彼の方を見た時、軽い違和感が起こる。
少年が何かを探している。
テーブルの上を端から端まで見回し、それを二度ほど繰り返し、その度、紅葉の瞳から光がなくなっていく。
少年の座ったテーブルのすぐ前、初めてそれに気がついたように、燕が納豆をのせた己の茶碗を確認し、首を傾げた。
――なぜこんな物がここにあるのだろうか。
子供の頃に楽しんだ間違い探し、年少者達の知性に合わせられたそれは今ならば簡単に解くことが出来るのだろう。
だが、少年は間違いに気づかない、ほんの数分前の白米の状態と現在の差異に。
「あわわ、わ、燕先輩! すぐに彼に謝ったほうが」
現状を把握していない上級生に、焦り義経が警告を発するため振り返った。
振り返った少女に聞こえたのは己のすぐ横、耳の傍を空が切る音、そしてもう一つ、水分を含んだ食材が何かにたたきつけられた時に聞こえる不快な音。
義経は眼前の光景を理解し、額に手をやる。
まぁ、端的に表現するならば、尊敬する上級生の顔面が、宙をとんだ茶碗のせいで納豆まみれになっているだけなのだが。
暴力沙汰になるのだけは避けねば、使命感から燕よりも明らかに弱者である彼を守るため背にかばうように義経は二人の間に立った。
「燕先輩、どうか落ち着いてほしい! 先輩にも否があるんだ。ここは喧嘩両成敗ということでどうか、収めてくれないか!」
「――ええっと、義経。私、そこまで短気じゃないからね。たしかに私も悪いところがあったかもしれないし、って甘い!」
顔にかかった納豆を手で拭う上級生が存外落ち着いていたことに義経が人心地つこうとするも、またも燕に飛来する影があった。
あれは、己のカレーライスではないか、放物線を描き飛んでいくそれに、昼食は買いなおさなければならないとぼんやりとした感想しか出ない。
投擲された事にいち早く気付いた燕は素早く、身体を移動させる。
その時、一陣の風が義経を追い越した。
風は空中で己が投げた皿を掴むと、燕の逃げた方向に横向きに平行移動し、皿を彼女の顔に押し付ける。
凍りつく世界、二人の諍いに気付いたのかこっそりこちらを伺っていた生徒、全員の息が止まった。
騒動の中心に一番近い義経は狼狽し、拳を握った燕を止めるべきか、未だにカレー皿を塗りつける少年を止めるべきなのか、判断に困っていた。
カレーの皿が床に落ちた、少年の気が済んだのか、燕がそれを払ったのかはわからない。
只、カレーと納豆まみれであろう燕の顔を義経は恐ろしくて見ることができなかった。
「ハハッ、さすがにこれはないよね。うん、これはやり過ぎだよ。ちょっとお姉さん、堪忍袋? 血管、まあどっちでもいいか、切れちゃった!」
三人を中心にクレーターのごとく人が退いていく中、燕の乾いた笑い声が響く。
義経はその怨嗟に満ちた音を耳に侵入させじと手で覆う。
遠巻きに見ている野次馬たちもことの重大さに気付いたのか、教師を呼ぶべきかと相談している。
それは名案だ、全面的に支持するので誰か早く、そう願う少女自身が呼びに行ければいいのだが、彼女が動くことによって緊張状態である二人まで行動を起こしてしまうことを危惧し一歩も踏み出せない。
先に動いたのは松永燕、彼女は胸のポケットから校章を取り出すと少年の前に叩きつける。
決闘の申し込みだ。
これに少年が自身の校章を重ねることで了承の合図になる。
今この場で暴力に訴え出ないことに、一息つくが、その冷静さが返って怖い。
この後に行われる惨劇を想像し、いざという時に燕を止めるための人員を確保するべく弁慶の携帯に電話をかけることにした。
そんな義経の心配を他所に少年はテクテクと食堂の注文口にまで行くと購入した食券を出し調理場に声をかける。
「――パックの納豆、三つ」
少年の注文に、食堂にいる全員が頭を悩ます。
食べるつもりだろうか、いや、それならば、燕がしたことに対しここまでの事態に発展していない。
疑問が義経の頭上で揺れる中、少女はようやく彼の顔を見た。
表情を作るすべての筋肉が機能していない、感情を伝える瞳は何もない虚空に焦点を合わせ、目尻を下げることも上げることもない。
一切の希望を放棄したそれは一体どのような経験を経て、身に付いてしまったものなのか――まぁ、食事を邪魔されただけなのだが。
燕も少年の尋常ならざる佇まいに気づいたのか、その瞳に警戒の色を浮かべる。
少年の一挙手に注意を払い、彼の奇行をじっと観察する。
見張っていた燕の表情が少年の行動の意味を理解していくに連れ、青いものに変わっていく。
義経は最後になるまで気づけなかった。
箸を使って納豆を練り、両手にそれを持ち、燕の方に歩いていく。
「いや、ちょっと待って! 決闘! これからやるのは決闘なんだから、振りかぶったそれは一度そこに置こうよ、 ねっ! だから決闘だって、なんでそこで首を傾げるの!」
燕がしつこく確認を取る決闘という言葉が理解できないと無表情で首を横に振る少年。
得体のしれなさと、納豆漬けになるのは御免こうむると、燕は踵を返し、食堂から一目散に逃げ出した。
敵前逃亡を図る彼女を攻めることを義経は出来ない。
武器を振りかざす者、悪意を持って攻撃を仕掛けてくる相手ならば、迎撃をすることも出来るのだが、能面の如き顔で納豆を投げつけてくる相手に、出来る事が思いつかない。
隣を見れば、彼女を追いかけていったのか既に少年の影も形もなくなっていた。
『こら! そこのあんた! 食べ物を粗末にするんじゃないよ! そうだよ、そこのあんただよ! 』
調理場からかけられた叱責の言葉に、疲れ果てた義経は言い訳することもなく、調理師の言うがまま、燕と少年の惨状を掃除させられることになった。
●
放課後、一年の教室、午後の授業の記憶が曖昧であった事、そして何故か納豆臭い教室に、少年は訝しがるが、自分を呼ぶ同級生の声にそちらに意識がそれる。
「荒場くん、上級生の人が呼んでるよ!」
クラスメートの女子は頬を上気させていた。
熱でもあるのだろうか、まさか紅葉に話しかけるだけで緊張したというわけでもないだろう。
礼の言葉をかけ、廊下に向かう。
一子だろう、自分を訪ねてくる人間は上級生、同級生を含め彼女しか思い浮かばない。
彼女がトレーニングなどで忙しいため遊びに行くことはないが、メールなどのやり取りを介して、一子とはだいぶ仲が深まったと紅葉は思っている。
相談事をしたので、心配して来てくれたのだろうか。
期待に胸踊らせ、廊下に出てみればそこにあったのは、一年女子の壁であった。
彼女たちは小鳥のように黄色い声援を響かせており、その中心に髪の長い一見すると女性に見えなくもない男がいる。
艶のある黒髪を片側で括り、肩に下ろしている。
切れ長の瞳は強い光を放っており、目付きが悪いといえなくもないが、整った顔の所為かそれすらも彼を引き立たせる要素になる。
女顔であるが、肩幅や首の太さは男性のそれであり、女性と間違えることはないだろう。
つまり、美少年、男前である。
「あっ、荒場くん、こっち、こっち。久遠寺先輩を待たせちゃダメだよ! 荒場くんてすごい人と知り合いなんだね!」
目を輝かせ尊敬の念を向けてくる同級生を躱し、久遠寺の元へ。
当然、紅葉は彼のことを知らない。
自分の知己はこの川神学園で彼女一人だけなのだ。
久遠寺は群がる一年生に礼を言うと、先導する形で前を歩く。
紅葉が付いて来ていないことに気づき、手招きをする。
背後に感じる少女たちの鬱陶しい視線から逃げるため、仕方なく彼の後を追った。
●
この先は柔道場や格闘系の部活のための道場がある。
長い廊下を無言で二人は歩いていた。
何のようだと紅葉が問うても、それは後で話すの一点張り。
いい加減、回れ右をして帰ってしまってもいいのだが、先ほどの女生徒達への人気ぶりをみるにここはおとなしく従っていたほうがいいだろう。
打算的、消極的な考えで紅葉は後ろを歩いて行く。
「この先には、相撲部の部室と練習場があるんだけど、俺達はそこに向かっている。所で角田兄弟って知ってるか、知らない? 結構有名な奴らで、中学時代は全国で鳴らした奴ら何だけどよ。スポーツ推薦で川神にはいったんだが、素行が悪くて顧問も匙を投げてるんだ。後輩イジメもひどくて今じゃ、部員不足。辞めようとする奴も暴力で脅しつけて、無理やり残してるんだとか」
ようやく、目的を話してくれるのかと思えば、紅葉にとってはどうでもいいことばかり。
まさか、この上級生は紅葉に力士の才能でも見出したのだろうか。
だとすればはた迷惑なことこの上ない。
「うす! 飲み物買いに行かせていただきます! 三分で戻るのでどうかお待ちください! ――おう、何だお前ら。邪魔だどけ!」
まわし姿の暑苦しい肥満児が紅葉達の横を駆け抜けていく。
彼が出てきた扉の上には相撲部の看板が。
「兄貴の角田金一は全国でも優秀な成績を残している。弟の銀ニもそれに劣らぬ実力を持ってやりたい放題。顧問の教師も自分の評価につながるからなのか、彼等の悪行を隠蔽しているんだとか」
隠しているというならなぜこの男はそれを知っているのだろうか。
いい加減、この話と紅葉を呼び出したことがどう関係してくるのか答えがほしい。
「ん、別に今日の目的とは何も関係もないが。しいて言うなら、目的地に着くまでの暇つぶし、話の種といったところかな」
悪びれる様子もなく、久遠寺は、部室のドアを開け、中に入っていった。
続き入った、紅葉に向け、上級生は言葉を継ぐ。
「で、さっき俺達の前を全力でパシっていったのが弟の銀ニで、今そこの土俵の真ん中で、一年の坊主頭に頭を踏み潰されているのが兄貴の金一かな」
神聖な綱の中央、欠伸をしながら、上級生の頭を踏みつけていたスキンヘッドと紅葉達の視線が交差した。
●
「ったく、きちんと見張っておけよ、お前ら! わしの内申に影響が出たら責任取れるんか!」
叱責した後、踏みつけていた男を片手で持ち上げ、隅で正座していた部員たちに投げつける。
空を飛ぶ男の体重は百キロは軽く超えているだろう、このスキンヘッドの実力が計れる。
男は怠そうに紅葉の方へのそのそと歩いてきた。
その顔に浮かぶのはいやらしい笑み、強者が弱者に向けるそれ。
「なぁ、このことは黙っててくれるよな、じゃないと、お前らの身にいらん不幸が振りかかることになるんじゃけど」
軽い脅しの言葉と共に、男の手が二人の肩目がけて振り下ろされる。
それ自体に攻撃の意味はなく、ただ、捕縛するためのものだったのかもしれない。
だが、半裸の男に触られることに嫌悪したのか、それとも自分を弱者と定めた先程の笑みが気に入らなかったのか、紅葉自身にもわからない、ただ横にいる久遠寺を守るためでないことだけははっきりしていた。
伸ばした男の腕が肩に届くよりはるかに早くもみじの前蹴りが彼を土俵から弾き出す。
同時に鈍く大きな音が響いた。
「――くぅー、効いた。なかなかやりよるのぅ。わしじゃなければ、病院送りになるところじゃった」
紅葉は驚愕する。
男は紅葉の速度について来れなかったはずだ、加減したとはいえそれなりに力を込めた一撃を防がれ少年は後ろに下がる。
いや、防がれたというのは語弊がある。
男は今の一撃に反応できず、防御の姿勢を取れなかった。
ならば、男は素の頑丈さのみで紅葉の蹴撃に耐えたのだ。
余裕の表情でこちらの出方を伺っている男、それがひどくイラつく。
続けられる嘲りの言葉。
もう慈悲は必要ない。
次で決める、狙うは奴の股間だ。
もし仮に問題になっても先に手を出したのはこの男だ。
相撲部員に囲まれたこの状況、先ほど聞いた彼らの素行の悪さが紅葉たちに有利に働くだろう。
子孫を残せない体になっても悪いのは紅葉を挑発したこの脂肪袋なのだ。
「あれ、なんじゃろう。急に寒気が」
クシャミをする男に紅葉が間合いを詰める。
「おい! バカやってないでさっさと来い! 表に車をまたせてるんだからな」
いつの間にかドアの前に移動した久遠寺が二人に声をかけた。
その余りにも空気を読まない言葉に二人揃って文句を返す。
「何じゃ、お前、状況分かっておらんのか? 今こいつをぶちころがして、次はお前なんじゃ、すぐ済むからちょっと」
「そいつ、お前の急所を狙ってるぞ」
「なんで僕が股間を狙ってるのに気付いた!」
その言葉にスキンヘッドは内股になる。
「――いや、延髄とかみぞおちのことを言ったつもりなんだが」
久遠寺も内股になり一歩離れる。
紅葉は戦慄する。
この男は紅葉の思考を読み取ったのだ。
普段なら久遠寺の言うとおり、延髄を狙ったのだが、スキンヘッドの挑発が許せなかったので、変更したのだ。
「なんて恐ろしい男じゃ! わしの平穏のため、お前は今ここで潰す!」
紅葉も同感であった。この男は今ここでへし折るべき存在だ。
決意を固める紅葉と男に向かってため息を付き久遠寺が近づいてきた。
人差し指で、耳を貸すように指示を出す。
最初は渋っていた二人だが、何故か逆らえない。
根負けしお互いに警戒しながらも二人は耳を差し出す。
『鬼面にいた事、武神にバラすぞ、この阿呆』
なぜ、その事を、己の顔から血の気が引く音が聞こえる。
――隣の男も似たような顔をしていた。