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多馬川のほとり、サングラスの少年と拘束された少女が見つめあったまま、数分が過ぎた。
最も、少女は箱に入れられているため、はたから見れば、少年が蟹入りのケースを前に深刻な顔をしているシュールな光景でしか無い。
拘束された少女、九鬼紋白は相手の出方を伺っていた。
猿轡がきつく締められており、声も出せず、出来る事といえば、瞳に抵抗の意思を込め睨むだけ。
少年からなんの反応もないことに首を傾げるも、沈黙で威圧を与えるような類いのいやがらせにも思えない。
流石に少女を食べるなどといった言葉は、紋白の聞き間違いか、冗談だったのだろう。
少年のサングラス越しの瞳からでも、正常な人間の理性が感じ取れる。
であるならなにか要求があるはずだ。
紋白は先程からじっと待っているのだが、一向に何も口に出さない少年に、ただ時間がすぎるだけだった。
誰にともなく少年がつぶやく。
「蟹、っぽくないんだが、蟹、ですか? ――返答がないので、少し変わった蟹ということにして処理」
紋白の優秀な脳が停止した、質問の意味が理解出来ず、対象が自分であるかもわからない。
ただ、最後に残っていた本能の警鐘が彼女を逸らせ、頭を振って必死にアピールする。
紋白は思う、質問するのなら、せめて、口の縄をずらすぐらいしろと。
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猿轡を外されようやく一息をつく。
少年の供述の結果、誘拐犯とは全くの無関係であると主張してきた。
重要な役割を果たす人質を運搬しておいて、その言い訳はないだろう。
当然、少女が信じるわけもなく、白い目が少年に向かう。
しかし、紋白が頼れる人間が彼しかいない現状、悪人であるかの判断は保留する。
あの暗闇の中の誓いを胸に、少年にここから近い九鬼財閥極東本部まで送り届けてもらえないか交渉する。
少女の懇願を無視し、無慈悲にも少年は否と答える。
なぜ、と理由を問えば、『失くした蟹を取り戻す旅にでなければいけない』と重い声音で答えてくれた。
さも重要であると宣言されたので、納得しかけた紋白であったが、聞き間違いかと思い再度尋ねる。
帰ってきた答えは同様の物であった。
紋白は彼が今この時がどういう場であるか理解できてないことに気付き、彼の話してくれた今日一日の行動から、この箱には最初から蟹など入っていなかったことを懇切丁寧に説明する。
紋白の説明に、少年は得心がいったと、表情を変えた後、なにか思いついたようだ。
誘拐犯のことで、気が付いたことでもあったのだろうか、紋白は先を促す。
「つまり、ここに来るまでに襲ってきた輩の何割かは蟹じゃなくて、あんたが目当てだったんだな!」
こちらに向けた得意気な顔は、紋白が賞賛するのでも待っているのだろうか。
何割かではなく、全てが紋白の身柄を狙っていたに決まっている。
自分の暮らす国が海産物のために野盗が横行するような、民度の低い世紀末な場所ではないと信じたい。
だが少年の言を信じるならば、紋白を狙った輩を彼が一人で撃退したことになる。
これはいよいよ彼に頼らざるをえない。
紋白が報酬を盾にし、彼を説得しようと顔を上げれば、丁度箱の蓋が閉じられるところだった。
焦り、声を上げる。少女が言葉を出さないので交渉は終わったものと置き去りにするつもりだったようだ。
「断る、この僕を金品で動く下賤の輩と見てもらっては困る、買収なんかに応じる安い誇りは持ち合わせていない!」
少年の宣言に紋白は感心し、高潔な精神の持ち主だと、ますます彼を味方につける意思を硬くする。
少女は知る由もないが、普段の彼なら一も二もなく、やせ狼のごとく喰らいついてきたことだろう、偶々、少年の懐を、十五人の老紳士が暖め、鉄壁を築いていたのだ。
大体、現在進行形でか弱い少女を置き去りにしようとしている人間が高潔なそれを所有しているはずがない、そこに気づかない紋白も大分精神が疲弊している。
まとまらない交渉に痺れを切らしたのか、少年が箱ごと紋白を持ち上げた。
収まりの悪い浮遊感を感じながら、紋白の期待が膨らむ、本部のある人工島に連れていってくれる決心がついたのだろうか。
蓋が閉じられたので、外の様子は分からない、紋白としては、拘束を外し、連れ立つ形で隣を歩いたほうが、手間がかからないと思うのだが。
少女の容姿は目立つのでそこを考慮しての行動だろうか。
「あのさ、桃太郎って知ってる? そう、昔話の。彼って幸せだったのかな?」
箱の外の少年が世間話なのか、少女に他愛もない事を訊ねてきた。
母に、義理のではなく実母に、読み聞かせてもらったことを紋白は思い出す。
桃から生まれた男の子が、育ててもらった恩を返すために、鬼を討伐し、宝物を持ち帰る、要点をかいつまむとこの様な話になる。
幸せだったか問われれば、話の筋を考えるに、是と答え、紋白の心情としても、血の繋がらない子供が恩を返せたことに自分を重ね、これまた幸福だと答える。
少女の回答を聞き、満足した気配が彼の言葉に滲み出る。
不意に、少女は気づく、先程から臀部の下から感じる浮遊感が、いつの間にか単調であったものから不規則なものに変わっていることに。
「そっか、いい翁に拾われるよう、心より願っておくから」
閃くものがあり、その場で跳ね上がり箱の蓋を頭突きで開く。
今まさに、多馬川に少女を不法投棄しようとしている少年は紋白から目を逸らした。
このような行いをする人間に非道なことをしている自覚があったことに驚きだ。
蟹のデザインだからといって海に返すつもりだったのだろうか。
少女は己で動くことこそが肝要であると気づく。文字通り他人に流されかける事によって。
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少女の誠意が通じたのか、はたまた、問答が面倒くさくなったのか、少年は紋白の入った箱を担ぎ、走りだす。
「姥捨て山って知ってる?」
――知っているが、山にでも捨てるつもりなのだろうか。ちなみに、姥捨て山では老婆は決して捨てられていない。
不穏な単語が散りばめられた会話を楽しむ余裕が有るはずもなく、紋白は彼を急かした。
少年の足の早さは、箱の中の紋白にかかる、加速度による苦しさから想像がつく。
これならばと、紋白の期待が膨らむ、刺客の勢力圏を抜けるのにもさして時間はかからないだろう。
人工島が近づくに連れ、刺客の妨害が始まった。
紋白は箱の中に居たので直接見た訳ではないが、マシンガンのマズルフラッシュが箱をすり抜け、入ってきたり、薬莢の転がる金属音から戦いが相当の激しいものだと推測がついた。
そのすべてを退けてきた彼に紋白は驚嘆する。
ただ、事が起こるたび、少女にかかる重力加速に、吐き気と弱音が出そうだった。
「――すまないが、もう少し我のことも気遣ってもらえないだろっ!」
このままでは箱の中、閉じた密室で、紋白が偉いことになりかねない。
危急の時ではあるのだが女性の嗜みとして、優雅とは言わないまでも、無様で醜悪なものは避けたい。
天秤にかけた結果、速度を落とすよう要請しようとしたその時、無常にも今までで最大の加速が少女の身に振りかかる。
何事だろうか、頭を上げると込み上げる物があり、続く耳鳴りのため、外の様子を推量するのも一苦労であった。
箱の外の少年には気づいてもらえないが蒼白な顔で紋白が尋ねる。
「ああ、少し厄介なのに追われているんだ、振り切るからしばらく待ってくれ」
敵の刺客、それも彼がこちらに忠告をするほどの相手のようだ。
刺客の攻撃によるものより、振り回される肉体的、精神的負担のほうが先に頭をもたげる。
そろそろ辞世の句が紋白の頭の中をよぎる。
「デパートの屋上に登ったんだから、もう付いてこれないだろ――悪い、まだ追ってくる、一階に戻る」
当然デパートの昇り降りに、エレベーターを使用しているはずなので、さきほど紋白にかかった上方向からのケタ違いの圧力は少女の勘違いであり、これから感じるであろう浮遊感も気のせいであるに違いない――それは紋白の希望的観測に過ぎなかった。
「あれでも振り切れないなんて、もしかしたら都市伝説の類いの化け物なのか――例えばロケットジジィとか」
屋上からの跳躍ために、意識が朦朧としている少女のか細い声は少年に届くことはない。
その声の中に明るいものが交じる、現状を打破する物を求め、はっきりとした発音で少女はその理由を問いかけた。
「ああ、奴が必死になっている理由に気づいたのさ、これでもう追ってくることはないよ」
紋白はその言葉に光明を見た。
この単座型ジェットコースターから開放されるのだ、頬を涙が伝う。
それが相手の良心に掛ける説得の言葉なのか、はたまた利を持って行う買収行為であろうとも、今の紋白ならその是非を問うことはしない。
少女の求める唯一つの物、それは動かない地面、さぁ早くしてくれ。
長閑に流れる雲、晴天のもと、少年の発声が轟く。
『あの勘違いしているようですけど! この中には蟹は入ってませんよ! ――うぉ、なんかめちゃくちゃ怒ってるぞ、ビームを飛ばしてきた!』
少年の挑発行為を確認した紋白は、もしや己を乗り物酔いで殺すために一芝居うっているのではと、益体もない推測を浮かべる。
少女の胸の中、自分たちを追う者と、少年へのほの暗い殺意が芽生える。
込み上げる吐き気が彼女の判断能力を奪っていった、それが少女を次の行動に突き動かす。
新鮮な空気と、陽光を求め、少女は頭突きで、箱の蓋をぶち破った。
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『はい、昏倒しているステイシーを多馬川付近で発見しました、彼女を含めると丁度、十人になります』
部下からの報告を聞き、電話を切る。
金の髪を携えた初老の男性、九鬼家従者部隊ヒューム・ヘルシングは奥歯を噛み締めた。
己の主である九鬼紋白が誘拐されて、どれほどの時間が経っただろう。
事件は、川神市にある有名な甘味処で起こった。
市井の文化を学ぶため、紋白が川神界隈に出歩くことはさほど珍しいことではなかった。
当然、脇は従者部隊最強を誇るヒュームが固めているので滅多なことなど起こるはずもない。
ではなぜ己が主が攫われたのか。
紋白が甘味処の手洗いに行き、そのまま姿をくらましたのだ。
男性であるヒュームが中にはいることは出来ず、気による探知にも怪しい気配はなし、それゆえ、気付くのが遅れ、それが致命傷になった。
紋白がトイレにいない事に気づいた時には後の祭りだった。
言い訳になるが、己が悪意ある何者かの気配を見逃すはずがない、状況としては紋白、自らが、甘味処から逃亡したとしか考えられない。
その後の九鬼従者部隊の行動は迅速かつ電撃的であった。
川神の主要な出入口を封鎖、誘拐に関わったと思われる組織に辿り着き襲撃する。
そこでも、予想外の事態にみまわれる。一味の本拠地だと思われる事務所は既に襲撃を受けていた。
転がっているチンピラを締めあげ、紋白の行方を聞き出す。
男から此処に確かに紋白がいたことを聞き出せたが、それ以上の情報を引き出すことが出来なかった。
その為、紋白誘拐に関わったとされる全ての者を、人海戦術により捕獲することが決定。
誘拐犯の上部に位置する暴力団の構成員から、末端である日雇いのバイトに至るまですべて検挙することとなった。
結果、事務所の襲撃から一時も経たないうちに、一人を残してすべてを九鬼の手中に収めることに成功する。
その時点で、尋問中の男から新たな情報を聞き出せた。
ここまで紋白の行方についての手がかりは事務所に監禁されていたということ。それに加え、事務所が何者かに襲撃された時に、アルバイトの人間が一人いた事がわかった。
未だ捕まっていない襲撃者とその一人を確保することが最優先になる。
襲撃した人間はともかく、アルバイトは事務所を出る際大きな箱を背負っていたらしいので、すぐに見つかることだろうと当たりがついた。
だが事態は九鬼の思惑を大きく裏切り、ヒュームの通った道の脇には、気絶したメイドと執事が転がっている。
いずれも、一撃で昏倒させられたのか重傷を負ってはいないが、九鬼従者部隊相手にそれをやってのけたということが敵の強靭さを物語っている。
部下からの連絡と、気を失っている者達との位置関係から、対象の向かっている方向を推測し、ヒュームは疾走する。
そして発見する、人相はマスクやサングラスをしているため分からないが、想像していたよりも若い。
背格好もヒュームよりも小さく、一見、戦闘的な争い事を専門としている人間特有の匂いが感じられない。
ともすれば、一般人とも勘違いしていたかもしれない――男がビルの壁を斜めに駆け上がらなければ。
ヒュームの口元が上がり、獰猛な笑みを形作る。
間違いない、九鬼の人間を攫うような大胆さを持ち合わせている、この男が紋白の行方の何かしらの手がかりを握っている。
相手の実力を認め、ヒュームの胸に血管に熱が入る。
敵もヒュームの力に気付いている筈だ。
主の安否とは別に武人としての戦闘欲が、そして誇りが地を駆けるヒュームの足に注ぎ込まれる。
『あの勘違いしているようですけど! この中には蟹は入ってませんよ!』
その男の言葉をすぐに理解できたわけではない、がヒュームの本能が己が手から気弾を打ち込ませた。
そして理性が、事態を理解できていないボケ老人を優しくいたわるような声音が、ヒュームに思い知らせてくれる――この男は自分を敵と見なしていない。
侮られたことはあった、挑発されたこともあった、だが、優しく優先席を譲られるような、温かい悪意は経験したことがない。
深くなった顔の皺、腹の底から、心の底から笑声が溢れ出す。
己に許可を与える、奴は殺してもいいと。
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ヒュームが殺意を固めているその時、事態は動いた。
男の背負う箱の蓋を破り何かが飛び出る。
それはヒュームの敬愛する主の愛らしい頭であった。
主の居場所を突き止めた安堵が胸を包む。そして先程、ヒュームの気弾を避けた男に密かに感謝をしていた。
だが走る男の背中、紋白の顔色は蒼白なものであった。
男の卑劣さが想像できる。
肉体的にはどこも怪我はないように見えるが、精神に何らかの拷問を受けたのだろう。
ヒュームは紋白に苦痛を与えたすべてのものに地獄を見せることを誓う。
いまだ続く二人の追いかけっこの中、少女のか細い懇願が聞こえた。
『頼む、止まってくれ! とにかく一度落ち着いて誤解を』
ヒュームは紋白の考えに、その器の大きさを知る。
己を誘拐し、拷問をした人間にさえ、言葉での説得を試みる寛容さに。
だが、相手がそれを受け入れるような者であるはずがない、ヒュームが走る速度を上げ、それに合わせて敵も速度を上げようとする。
『ヒューム! だから早く止まれ!!』
頬が少し痩けた少女のどこから発せられたのか、鋭い光を放つ瞳からか、刺さるような声を吐き出した肺からか、覇気を伴った命令が老人の虚を突いた。
呆然とし、蹴りだした足の力が伝わるままに水平に移動するヒュームのその足を前方に待機していた男が刈りとる。
平時のヒュームなら当然回避することの出来たものであったが、主の初めて見せる迫力と、なぜ己が制止を呼びかけられているのか、理解が追いつかなかったために出来た意識の空白、ゆえにそれを躱せず、ヒュームは先にあるビルのゴミ捨て場に飛翔することとなってしまった。
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ヒュームに追いついた九鬼家従者部隊、李静初は電話にて主の無事を報告していた。
『はい、紋白様の替えの服を早く用意して来るように、それと執事服も一着、大至急お願いします』
李は、青白い顔で胃の中の物を吐き切った主の背中を優しく撫で続ける。
その隣から紋白に酸っぱく腐敗した匂いを嗅がないように配慮し大きく離れた従者部隊零位がいた。
李の背筋を凍らせる殺気と笑顔、鼻を曲げる異臭を放ちながら。
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これは九鬼の末娘やその付き人、歴史上の偉人のクローンたちが編入してきたその日の出来事。
川神学園の一年生の廊下、教室の前で剣袋を胸に抱いた少女が教室の中を伺っていた。
放課後、授業が終わりすぐに帰宅した者もおり、学生はまばらになっている。
由紀江の後ろには学生寮で世話になっている二年生の直江大和が携帯をいじっている。
ドアの影から中を覗き見ていた由紀江は目当ての人物がまだ教室に残っていることを確認し安堵の吐息を漏らす。
いつもならば、高校生であるのに放課後の予定が皆無な由紀江はこのまま帰宅となるのだが今日は違う。
なぜなら、今この時から由紀江に友だちが出来るからだ。
もちろん、何の根拠もない寂しん坊な少女の悲哀をさそう己のプライドを満たすためだけの妄想ではない。
大和が、交友関係で言えば由紀江の千倍の広さを持つと言っても過言ではない、頼りになる先輩が由紀江に協力してくれるのだ。
まぁ協力と言っても、その割合は殆ど大和に依存しているのは目を瞑るしか無い。
休み時間に購買で買っていたパンを席について食べている少年に熱い視線を向ける。
その視線のあまりにもな迫力に遮る生徒が早々に帰宅してしまったが、申し訳ないことをしたと思う余裕が無いほど由紀江は高ぶっていた。
今か今かと携帯をいじる大和の策を渇望していた。
大和の携帯に着信が来る。
「いいかい、まゆっち。彼と仲良くなる方法だけど、これが一番いい方法だと俺は思っている」
そう言って大和が説明してくれたのは、由紀江を驚かせるものだった。
「まゆっちがみんなに恐れられているのはその腕っ節のせいだ、今回はそれを逆手に取って、いじめっ子から彼を守ること。それによって彼と友だちになることも出来るし、他のみんなにもまゆっちが力を笠に着る人物ではない事をわかってもらえばいいんだ」
由紀江が驚いたのは大和が説明してくれた作戦ではなく、知っている前提では進められた部分。
「あの、荒場さんがいじめられているって本当なんですか!」
大和は由紀江がそれを知らないことに驚いた様子で、携帯の画面を見せる。
「いや、二年にいるこのクラスの子の兄貴に情報をもらったんだから間違いないよ。何でも入学してからずっと嫌がらせを受けているらしい。今送ってもらった画像はいじめっこ本人に気付かれないように盗み撮りしたものなんだけど見るかい?」
そう言って大和が差しだした画像には教室にいる複数の人物がカメラに視線を合わせることもなく写っている。
中心に五人の人物が写っているがその内二人は女性なので抜かして考えるにこの三人の中の誰かなのだろう。写真の端に由紀江もひっそりと入っていることに少し喜んでしまったが、今はそれどころではない。
由紀江の大切な友達の危機なのだ。
「おっと着信だ、源さん、何か用? 今、一年の教室だけど。わかった、姉さんを連れて行けばいいんだね? って、まゆっち、ちょっと待って!」
友のため、勇気を振り絞り少女は教壇に立つ。
由紀江が教室に入ると同時に、心なしか、教室の温度が下がり雑談の声がなくなったように思えるが、そんなバカことはあるはずがないので気にはしない。
教室を見渡すと、由紀江と入れ違いに紅葉が出て行くところだった。
それを見て由紀江は考える、本人がいない所で一度話し合うのも得策に思える。
教室にクラスの全員が残っているわけではないが、半数以上はいるので意味が無いこともないだろう。
とにかく、まずは注目してもらわなければいけない。
教壇に立つだけでは、影の薄い部分を生きてきた自分が注目されるはずもない、残っている人間を観察すれば全員、教壇とは反対側の後ろの壁のある方向に顔を向けていた。
後ろの壁には注視するようなものは何一つ無いので不自然に思えたが、まずは彼等を振り向かせなければ。
「――あ、あの、皆さん、私の話を聞いて頂けませんか?」
由紀江の想像以上に小さな声、己の内気さに反吐が出る、が幸運な事にクラスメートの聴力はかなり優秀なようで、兵隊の号令のように緩みなく、身体をこちらに向けてくれた。
その颯爽とした様が、由紀江の背中を後押ししてくれた。
「私はいじめはいけないことだと思うんです! 決して許してはいけない行為です。みなさんはどうですか?」
抽象的な要領を得ない意見だったが、それでも何かしら伝わったのだろう、皆の顔色が変わる。
「そうです、荒場さんのことです。皆さんはこのままでいいと思っているんですか。あの私は思うんです、いじめって、いじめている人だけじゃなくて、ただそれを傍観している人間にも非があるって」
由紀江の鼓動が早まる。
緊張し赤面しながらも皆の反応を伺った。
由紀江の意見に反対し怒りを示すものもいるだろう。だが一人でもいい、彼女に同調してくれるものを期待し、眺めれば、全員が頭上に疑問符を浮かべ、理解できないといった曖昧な表情している。
もしや、緊張のあまり、全く関係のない由紀江の秘蔵一人ぼっち詩集でも朗読してしまっただろうかと心配になる。
そんな中、一人の人間が立ち上がり、発言する。
確か、野球部期待の新人でクラスの行事における中心にいる男子であった。
「黛、つまり、お前らも共犯だからしっかりそれを自覚しろ、敵対か恭順、それをはっきりしろということだな?」
皆が息を呑む。
由紀江は言われたことの意味を考え、要するに、ニュアンスは違うが、自覚を持て、と言ってることを理解し、己の発言と何ら対立がないことを喜びしっかりと頷く。
教室の温度が更に下がった気がしたが、空調をだれかがいじっているのだろうか。
肌寒さを覚えながらも、皆の視線が由紀江に集まっていることに喜びと少しばかりの気恥ずかしさを覚える。
「はい、そのとおりです。あ、意見がある方はどうぞ、仰ってください」
内気な自分がよくここまで言えたと達成感が胸を満たし、口からは滑らかに皆の意見を求めることが出来た。
そんな由紀江とは対称的に皆の顔に硬さが見える。
意見があるのだろう、直立している三人の人間は特にそれが顕著で、見様によっては、絞首台に向かう罪人のようだ。
由紀江は己の気の利かなさに呆れてしまう。
自分だって、皆の前で発言をすることには多大な胆力を必要としたのだ、他の皆がそれを持ち合わせていると考えるのは由紀江の傲慢だろう。
名案を思いつき、由紀江の顔に笑みが浮かぶ。
「そうですね、いきなり皆さんの前では発言しにくいですよね。まずは私が一対一で意見を聞きそれをまとめることにしましょう。どこかふたりきりになれる場所は」
『まゆっち、それなら校舎裏の体育倉庫の影が人目もなくてピッタリだぜ!』
自分の相棒はなんて聡明なのだろうと、馬人形の松風に自画自賛を贈る由紀江。
今日はすべてが自分を中心に回っているようだと、追い風吹く心のままに、立っているクラスメートの中で教壇の近くの席にいる女子の手を取り、校舎裏を目指そうとした。
「いやー! ごめんなさい! 意見なんて無いです! 黛さんに逆らう気なんて無いんです、私はいじめをしてます! 校舎裏に連れて行かないでください、お願いしますー」
机にしがみついて離れない少女を見て自分以上に内気な人間がいることに由紀江は驚いていた。
一応は由紀江の意見に賛成してくれているし、恥ずかしさの所為か、ここまで号泣している人間を連れて行くのは忍びない。
ならばと、残りの二人に目を向ける。
由紀江と目が合うと、乾いた笑いを響かせ、目をそらし着席する。
そのまま石像になったかのように無言を貫き、固まってしまった。
お腹でも痛くなったのだろうかと由紀江は心配するが、廊下から電話を終えた大和が呼んでいる。
失礼と席を外し由紀江は大和に駆け寄っていった。
「ごめん、まゆっち。ちょっと用事ができた。今から姉さんを捕まえて源さんところに行かなくちゃいけないんだ。悪いんだけど、作戦はまた今度でもいいかな?」
それを聞き、由紀江は己一人の力でここまで漕ぎつけたことにまた驚く。
初めは大和の力を当てにしていたが、嘘のように全て自分で段取りを付けてしまった。
自信を持った由紀江は、大和にもう自分は一人で大丈夫だと礼を言い、彼を送り出す。
大和は由紀江の笑顔に首を傾げていたが、また、何かあったら相談してと残し、三年の教室に歩いて行った。
言いたいことは全て言えたので今日のところはこれでいいだろう、解散の旨を伝えるために教室に入ると、誰もいなかった。
そんなに長い時間、大和と話し込んでいただろうか、頭をひねる。
少し疑問が残るが、由紀江の中では大成果であった。
鞄をとりに席に戻る。
ふと、廊下に人の気配を感じ誰かが走り去って行く音が聞こえた。
あれはもしや紅葉の後ろ姿では。
何か教室に戻る用事でもあったのだろうか、気になったが、気が抜けて内気の虫が顔を出した由紀江には見送る以上のことは出来なかった。
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学園の屋上、落下防止の網のそば、四人の男女がいる。
一人は携帯とにらめっこをしており会話には参加していない。
金網を背にした男子、源忠勝は大和と百代に用向きを告げた。
「いいか、これは俺が独自に調べたことなんだが、何だ、別にお前らのためじゃないからな、そこんところ勘違いするなよ」
そう、しなくてもいい前置きを告げ、一枚の紙を二人に見せる。
それは、鬼面の幹部の情報が書かれ、賞金、賞品が載っている、賞金首リストであった。
大和は苦い顔をする。
小学生時代、この紙が原因で起きなくてもいいいじめにまで発展、魔女狩りの様相を呈したのだ。
鬼面を潰したことに後悔はないが、その後に起こったこの出来事だけは、どうにか回避するべきだったと大和は今でも思っている。
しかし、今さらそれを見せられても、この間の一件で鬼面の事件は解決したはずだ。
そんな大和の疑問を無視し、忠勝は話を続ける。
「このチラシが配られることによって、各学校でいじめにも似た仮面狩りが行われた。いや、そのことを責めているんじゃない、実際、お前らはよくやったと思うぜ。俺が気になったのはほぼ全部の学校で仮面狩りが行われる中、平穏無事な日々をすごした小学校が二つあることだ」
忠勝の指摘を聞き、その学校の名と、当時の小学校の代表の顔を思い浮かべる。
大和は小学生にしては彼等が人格者であり、非道ないじめを未然に防いだのだと解釈した。
大和の答えに忠勝は首をふる。
「いや、仮面狩りの風潮は高まっていたらしい、ただそれを止めるキッカケがあったそうだ、それがこれなんだよ」
どれのことだろう、忠勝が差しだした右手には先程のチラシが握られているだけで他には何もない。
まさか、仮面狩りを引き起こしたリストが、それであるはずがなかろう。
「モモ先輩、これをよく見てくれ。先輩は奴らに負けたんだってな、こいつから聞いたよ。俺の聞いた情報から推理すると、先輩はこれに違和感を持つはずなんだ」
己の負けを大和が吹聴したことにひと睨みをくれた後、百代はチラシを見て眉根を寄せる。
大和も一緒に覗きこむ、チラシには幹部の特徴と、本人の顔の代わりに醜悪な悪役の面が描かれている。
「あれ、おかしいぞ、これ全部悪役の面じゃないか」
百代の疑問に大和は何を言っているのか戸惑ってしまう。
非道の限りを尽くした鬼面の幹部なのだから、悪役の面であるのは当然である。
大和は眉根を寄せる。
「やっぱりか、いいか直江。これを知っている人間は少ない、実際に襲われた人間が口を閉ざしていたからだが、当時、闇に紛れ、悪逆の限りを尽くした鬼面の幹部は全員、正義の味方側のお面をシンボルとしていたんだ。昔、制裁を受けた人間を探し出し、自分から聞いたことを内密にすることでようやく聞き出せた。つまり、お前らが潰した昔の鬼面も、この前倒した蛇神の一派の殆どもトカゲの尻尾だったていうことだ。チラシを見た人間の中にこの事実を知っている者がいて、報復を恐れ、仮面狩りにストップを掛けたんだろう。――いいか、直江、もう一度言うぞ、鬼面はまだ生きている!」
大和の思考が回転する、理解とともにまずは何をするべきか。
やけにあっさりと片が付いたとは思っていたんだが、そうだ、まず、するべきは
「大和、今から校内放送で、奴らの首に懸賞を掛ける、なにかご褒美を考えておけよ」
最初に止めるべきである姉貴分は笑顔で走り去ってしまった。
呆然とする大和は再び起こる仮面狩りによる被害を最小限にするべく、知恵を絞らなければいけなかった。
ため息を吐き、肩を落とし、これからの苦労を考える。
その傍ら、終始、話に加わらなかった、ポニーテールの幼馴染に顔を向ける。
一子は真剣な表情でメールを見ているようだ。
話が終わったことに気づいたのだろう、大和に声をかけてきた。
「大和、その、後輩から相談を持ちかけられたんだけど。その子は普段、はれものを触るかのように、誰からも声をかけてもらえなかったから、嫌われていると思ってたらしいの。でも今日、偶然みんなの話を盗み聞きしてしまったんだって。――大和、その子、みんなから無視されたり、いじめられているらしいの、先輩としてあたしはどうしてあげればいいのかしら?」
健気で溌剌とした一子に、いじめ問題という根の深いものは似合わないような気がした。