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休日の学園、友達もおらず、部活動にも所属していない黛由紀江は、一年生の下駄箱の前にいた。
何の目的もなく散策をしているわけではなく、今日この日に行われる、武神川神百代の決闘を見学に来たのである。
剣聖黛十一段の娘であり、自身も剣術家である由紀江は、ほかの野次馬とは違い、この決闘を見なければならないという義務感の方が強い。
娯楽的意味合いで集まった一般生徒たちとの間にある温度差、父親譲りのこういった生真面目さが余計に友人作りの邪魔をしているのかもしれない。
時計を見れば、決闘の時刻には、だいぶ余裕があった。
早く来るつもりはなかったのだが、普段どおりに朝の支度をして、寮の先輩たちの後を追って出たら、開始時刻まで空きができてしまった。
グラウンドはすでに多くの観客で賑わっている。
由紀江のクラスメートもいたのだが、彼女が近づいた分だけ距離をあけられるのに耐えかね、校舎の方で時間を潰すことにしたのだ。
「まゆっち、元気出せよ。オラ、積極的に近づいて行ったまゆっちのこと評価するぜ!」
木彫りの馬のストラップは、由紀江と寸分たがわぬ声を返してくる。
励ましてくれる小さな友人がいるのに、心が冷めていくのはなぜなのだろう。
その理由を深く思案すると、さらに冷え込みそうなので、気持ちを切り替え下駄箱を覗く。
由紀江が、下駄箱を覗くと黒の外靴だけが置いてある。
「毎朝の日課が他人様の下駄箱の確認。高校生女子として、間違っているような、正しいような」
友人の指摘をスルーして、人に見られないうちにその場を後にする。
下駄箱の主は、入学以来、目を付けている男子の物だ。
毎朝一時間目の授業が始まる前の時間は、由紀江にとって最初の試練であった。
教室の一番後ろの由紀江の席は授業の開始まで、クラスメートが誰も近寄ってこない。
当初は不思議であったが、今はただ悲しい。
由紀江の席から二席分の持ち主さえ、教師が来るまで絶対に席に着かない。
自分が原因で不自然に出来たスペースにいたたまれなくなり、由紀江はなるべく教室の外で時間を潰すことにしている。
そんな中、登校時間が遅めの彼が来るのを由紀江は待ち焦がれていた。
彼とは、さきほどの下駄箱の主であり、由紀江の友人第一号――になる予定の人物だ。
入学式からこの日まで、彼は由紀江に対して無頓着であった。
他の皆が由紀江に対して距離を取っているのに、彼だけは毎日、何事もないかの様に席に座り続けている。
「入学式からこれだけ日数が経っているのに、未だに警戒されてるって、逆にすごいよな」
――とにかく、由紀江は、下駄箱に彼の上履きがないことを確認してから、教室に向かう事にしている。
由紀江のせいでできたクレーターの中でも、二人ならいくらかは、寒さを凌げる。
由紀江にとって、偏見を持たない彼は、心の拠り所の一つになっていた。
――まずは教室に行ってみよう。
グラウンドでの苦い出来事を忘れるため、由紀江は握った両拳に力を入れて、彼女にとっての松明を探しに出たのだった。
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決闘の時刻が来てしまった。
思いつくところはすべて回ったのだが、結局彼のことは見つけられず、下駄箱をもう一度確認すると、外靴はなくなっていた。
どうやら入れ違いになったようだ。
由紀江は落胆するが、帰宅したわけではなく、決闘の観客に中にいるはずだとあたりを付け、彼を探す。
川神学院の生徒の大半が集まっている中で、一人の生徒を探すのは至難の業に思えるが、観客達は学年ごとに固まっているので、そこまでの時間はかからないだろう。
くわえて、彼も由紀江と同様に、いや、由紀江より小規模ではあるが、クレーターを作ってしまうので、すぐに見つかると思ったのだ。
だが予想に反して彼は見つからなかった。
「あの糸目野郎いないな。まゆっち、なんやかんやで遅れていた決闘も、ようやく始まるみたいだぜ」
目が細いというよりは、意識して細目にしているのでないかと、由紀江は感じている。
――もう帰ってしまったのでしょうか。
仕方がないので、彼を探すことをあきらめ、クラスメートの中にまぎれる様に足を進めるも、絶対に由紀江と交わらない彼らの視線に、言葉よりも明確な声が聞き取れてしまう。
抗議の視線を受けてではなく、視線がないために、由紀江のつま先の向かう方向を曲げていく。
そんな内気で不器用な少女に声をかけてくれたのは、同じ寮の直江大和とその友人の川神一子であった。
由紀江の顔が上気する。
彼らの計らいで、選手席のすぐ隣、観戦するには最適な場所を提供される。
丁度、観客席と決闘の行われるグラウンドとの中心、由紀江は寄り添うように大和のそばに近づいた。
自分などが注目されているはずがないのが分かっていても、大和たちと一緒にいるだけで、観客の視線が注がれる。
それが重圧となり由紀江を心細くさせる。
そんな状況なのに。
「うおお、オラたちに熱い眼差しが! ――でも、C組の奴らだけはこっちを見てないんだな」
木彫りの友人は、いつも通り無神経であった。
涙を流さぬように、自分を奮い立たせ、由紀江は武神とその挑戦者に目をやる。
由紀江の横顔、いつもより少し顎が高くなっていたのに気付いたのは、このグラウンドで、彼女の親友だけだった。
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由紀江の眼前には、月面の如くクレーターが広がっている。
これではグラウンドを利用する部活の、週明けの活動に支障が出る。
由紀江の心配は的外れなものではないのだろう。
学園長に詰め寄っている陸上部の顧問だっただろうか、それは続く他の教師の剣幕からもわかる。
決闘は川神百代の勝利で終わった。
由紀江から見て、戦いその物のレベルは決して高いものではなかった。
技術だけに目を向ければ、街のチンピラの喧嘩と大差ないものである。
ただその中で目を見張るものが有ったとすれば、二人の尋常ではない気の運用と、武神の真っ直ぐに好戦的な性格である。
自分の武道には向かない気性を理解している由紀江。
ゆえに、今日の決闘は、その問題点を突き付けられているようで、考え込んでしまう。
己のうちに没頭してしまった由紀江を現実に連れ戻したのは、男の野太い叫び声であった。
「騙されるな、そいつは偽物だ! 誰かそいつを捕まえてくれ!」
剣術に己がすべてを捧げてきた由紀江に、同性の友達はおらず、いわんや、異性のそれがいるはずもない。
つまり、いま彼女の目の前にある、純白のブリーフが由紀江が初めて見る異性の裸である。
頬があつくなり、必要以上の血液が脳に流れ込む。
「まゆっち、冷静になれ。男の裸なんて父親のそれと大差ないぜ! だから、すぐに柄から手を放すんだ!」
「松風、私は落ち着いています! こういう時は冷静に携帯で百十番を!」
そういって、刀の柄を耳に当てる由紀江。
刃は天高く突き上げられ、振り下ろす一歩手前にしか見えない。
真っ赤になった彼女の顔もあいまって、その姿は、薩摩示現流を彷彿とさせる。
観客、主に一年C組の方から悲鳴が流れるが、彼女の耳には届かない。
真っ赤になった由紀江は、小声で早口に相棒に質問する。
「松風、電波が悪いのでしょうか、いっこうにつながりません!!」
刀を振りかざし念仏の如く何かを唱える女と、身を守るものが、文字通り一つもなく、腰を抜かしたのか青い顔で、その場から、一歩も動けない下着一枚の男。
その硬直を解いたのは、由紀江の先輩である直江大和が、体を張って彼女を変態から引き離したこと。
そして見守っていた観客の一人の言葉。
「えっと、あのさっきそこの変態が指さした三人が――」
その生徒の指し示す先、校門に向けて、走っていく面をつけた者たちの後姿であった。
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大和が間に入ったことで由紀江の脳が冷静さを取り戻す。
まだ若干、頬に熱は残るものの、視界の端に極力変態を映さぬよう、走っていく三人を見る。
「よし、六番、七番、早くそいつを捕まえるんだ!」
視界の端のブリーフ姿の変態は大声を上げ、存在を主張していた。
裸のままで指示を出す。
どうやら、開き直っているようだ。
そしてその指示は、前を走る三人のうちの二人に向けたものだと思う。
思うというのは、由紀江に確信がないため。
だって由紀江には、三人全員が逃げているように見えるのだ。
由紀江は、友人に尋ねてみる。
「松風、可笑しなことを言います。皆さんの話を総合すると、あの先頭を走っているのが六番で、今、五番を追い抜いたのが七番で間違いないですよね?」
今は六番、七番、五番の並び順で、校門に向かっている。
「ああ、そして、数秒前まで先頭を走っていたのが五番だった。――さてここで問題。逃げ出したのはいったい何番で、それ以外の彼らはどこに向かい、何時になったら彼を捕まえられるのでしょうか? ただし地球は丸いものとする」
三人の走る方向から考えると、世界を一周しない限り、再会は絶望的だろう。
「ちがう! お前らの横にいる奴を捕まえろと言っているんだ! 六番! なんで七番にタックルしている!」
今は三人が走りながら一列に並び、真ん中の者が右端の者に体当たりをしている。
そしてなぜか、左端の者も、真ん中の者に向けて体当たりをしていた。
指示が混迷していた。
まるで三人が三人共、己が何番かをわかっていないみたい。
伝わらぬ指示に、変態は怒声を上げる、ブリーフ一丁のままなのに。
そうこうしているうちに、三人のうちの一人が校門から学外に出て行ってしまった。
そこでようやく変態の指示を理解したようで、残った二人は立てた親指を突き出し、任せろとばかりに彼の後を追って、学外に出ていった。
それを見送ってから、変態は気が立っているのか近くのお面に罵声を浴びせた、やはり白いブリーフで堂々と。
「おい、お前ら、なんであれが偽者だと気付かない! チッ、帰ったらしっかり教育してやるから覚悟しろよ! 大体お前らヴァ――」
変態の話が途中で止まる。
気になったが、またブリーフが目に入るのは避けたかったので、由紀江は耳だけを貸す。
「おお、こりゃ大変じゃ! このような怪我で今まで動いておったのか。なんという精神力じゃ。ワシはこいつを保健室に連れて行く。すまんが後のことは頼んだぞ」
あまり感情のこもらない驚きの声が聞こえた。
そちらに顔を向けると先程、罵声を上げられていた大柄な男が、変態を肩に担いでいるところだった。
由紀江はそこで初めて変態の顔を見た。
白い下着にばかり目が向いてしまっていたが、意識をそこから無理やり外す。
すると男の顎骨が異様な方向にずれている事に気がついた。
このような状態で流暢に指示を出していたとは、その痛みたるや並大抵のものではないだろう。
その強さに、由紀江は感服し、胸中で罵っていたことを深く反省する。
「あの、私もお手伝いします。傷の手当の心得も一通り学んでるのでお役に立つはずです!」
心優しい由紀江だ、反省すると助力を申し出た。
だが、彼らのプライドがそれを許さないのか、由紀江の提案は固辞されてしまった。
すぐに治療が必要なはず。
それなのにあえて施しを断る。
破れた者が慈悲を乞うことの惨めさを許さない。
そこにまた気高さを感じ、由紀江は彼らを見直す。
「――ああ! そういう事なら私はこのゴミを回収車に、ではなくボスを病院に捨ててきましょう!」
蛇神の手下のうち、お面の女が、蛇神の片足を持ち、引きずるようにして、校門に向かう。
倣うように、それぞれが、宣言し、グランドから去っていく。
「僕も逃げた奴を追って、家に帰ることにするよ」
最後に残った男が グラウンドの野次馬に言い渡すように宣言し、校門に走っていった。
そのあとを、後ろ髪を揺らしながら一子がついていった。
「大和、アタシ気になるから、ついていくことにするわ」
大和に手をふりながら校門の外に彼女の影も消えていく。
その様子を思案したままの直江大和が見送っていた。
当事者の片方である鬼面が全員いなくなったことにより、決闘はお開きになった。
解散する観客、勝利に沸く風間ファミリーの中、百代と大和だけが納得いかないようだったが、それが何かと尋ねねてもよい物なのか判断がつかない。
だから由紀江は礼を言い、その場を後にすることにした。
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自販機で飲み物を買い、中庭のベンチで一息をつく。
由紀江が今日の出来事をゆっくり反芻していると、校舎の壁を飛び越え、紅い髪を翻し、少女が眼の前に着地する。
由紀江の入ったことのないファストーフードの牛丼屋の袋をもった川神一子は、左右を見回し、ベンチでくつろいでいる後輩に気付き声をかけた。
「あなた、まゆっちだったかしら、あってるわよね。 えっと、お面の男、あの最後に校門を出た子が、こっちに来なかった? 見失っちゃって」
頭を掻きながら、舌をだし、一子が尋ねてくる。
由紀江は口下手で、でも一子は急かすようなことはない。
見ていない旨を伝え、なぜ、逃げたお面の男ではなく彼を追っているのか、疑問をたどたどしく尋ねる。
「もう、しょうがない子なのよ、彼。逃げた奴には、早い段階で追いつけたんだけど、曲がり角に来るたびにその子は、逃げた奴とは逆方向に行こうとするの、すごい方向音痴でしょう。だから、迷子にならないようにしっかりアタシがついてあげてたんだけど。このあたりでまたその子を見失っちゃって」
一子は言葉とは裏腹に、どこか自慢げであった。
その子はおせっかいに見える彼女の自尊心をくすぐったらしい。
しかし一子の言うとおりならば、とんでもない方向音痴である。
その後、直江大和ととの関係を伝え、少しだけ仲良くなることもできた。
名残惜しかったが、一子はまだ捜索を続けるようだし、由紀江の緑茶も空になったので、別れの挨拶をし、足を下駄箱に向ける。
今日一日、探したが、友人予定の彼には、とうとう会えなかった。
明後日になればいやでも教室で会えるのに、由紀江は少し意固地になり、最後のチャンスとばかりに彼の下駄箱をあける。
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由紀江は今教室に向かっている。
賭けに勝った彼女の足取りは軽く、口角も上がり気味だ。
由紀江の調べでは、彼は部活動に入っていない。
なら、グラウンドのイベントが終わった今、校舎内で彼がいるのは、由紀江たちの教室だろう。
――会える予感がする。
妙な確信が、由紀江の胸に芽生えた。
これは、期待かもしれないし、第六感というやつかもしれない。
そんな、上機嫌の彼女が、窓から見える向かいの教室棟にお面の男の影を見つけたのは、運が良かったのか、悪かったのか。
あわてて携帯を出すも、
「そうでした、一子さんの番号は登録してませんでした」
「うん、そこは一子のも、だな。家族以外の番号が登録してあるような言い方はやめような、まゆっち」
無情な指摘がなされる。
相方を無視し、思案する。
数秒考えた後、お面の男が空き教室に入るのを見て、とりあえず。彼のもとに向かう事にする。
彼の方を押さえそのあとに、一子を探すのが行き違いがないと由紀江は考えた。
――親しくしてくださった先輩に、お礼ができる。
嬉しくなり、空き教室の前に急いでしまう。
由紀江が到着すると、教室の前で三人の男が睨み合っていた。
一年の廊下では見かけない顔なので全員上級生なのだろう。
ちょうど、空き教室の入り口を挟むように、二対一の形でいるため、教室に入る事が出来ない。
見ず知らずの上級生の間を通り抜けれるほど、由紀江の心臓は強くない。
「九鬼の腰ぎんちゃくの久遠寺と葵が俺の道を阻むんじゃねえよ」
茶髪の青年が鼻息荒く二人を罵倒する。
彼らはあまり仲がよろしくないようだ。
どうすることもできず、由紀江は三人を静観する。
「あん、業突く張りの霧夜は、廊下にすら権利を主張するらしいな。葵、英雄に伝えとけ。そのうち学校の便器ですら自分の物だと言い始めるぞ。落ち着いてくそも出来ねえ」
「まあ、まあ、久遠寺先輩、落ち着いてください。口調がいつもより悪すぎます。霧夜先輩、僕はその教室に用があるだけですので、失礼させてもらいます」
そう言って、二人の間を通り抜けようとする葵を二人が手で制する。
霧夜にだけではなく、仲が悪くなさそうな久遠寺にも止められたことが意外だったのか葵は不思議そうに久遠寺を見た。
答えが返せず、ばつが悪そうに久遠寺が目をそらす。
「そうかわかったぞ、お前らの目的が。なら、お前らは『誰』なんだ。」
目的が分かったと言っているのに、相手のことを問うといった意味不明の質問。
廊下の陰から様子を窺っていた由紀江が首をかしげる。
質問を受けた二人は心当たりがあるのか、ないのか、全く変わらない表情で、由紀江では、その心中を判断することはできない。
由紀江が頭を捻っていたその時、相手の目的を判断できたと、余裕を持ってしまった霧夜の隙をついて久遠寺が行動を起こした。
『おい、鬼面の幹部さんよ! そこにいるは分かってるんだ。もうここに武神も向っている。袋の鼠だ! 観念しな!』
空き教室の壁を乱暴にたたき、大声を上げる。
由紀江には意味が分からなかったが、焦った霧夜が久遠寺を押しのけ、教室のドアを乱暴に開いた。
開くと、霧夜に続き、二人もそれを追う。
どさくさに紛れ由紀江も教室に入るが、そこには三人以外誰もおらず、開いた窓から、風が流れ込みカーテンを揺らしていた。
「やってくれたな、久遠寺! てめぇ、今日のことは覚えておけよ!」
机を蹴飛ばし、霧夜が教室を出ていく。
「百代先輩がここに?」
「いや、ただのハッタリだ。武神と渡り合うような悪党がいると思うと一般人な俺は怖くてな。つい、かましてしまった。ところで、葵、お前の方の用事は良いのか?」
「ええ、僕の方の用事は先程終わりました。鬼面の方が残っていると怖いので、僕もこれで失礼させてもらいます」
そういうと、葵は微笑み、久遠寺と共に教室を出て行った。
「松風、どうやら気づかれなかったみたいですね。」
戻ってきた先輩方の邪魔にならぬよう、教室の壁に張り付いていた由紀江が、友人に同意を求める。
「いや、全員変なものを見る目で、まゆっちのこと見てたからな!」
――ですよね。
否定してほしかったが、三人とも由紀江のことを無視していたのだろう。
気づいているなら、せめて咎める位はして欲しかった。
同級生に続き、上級生にまで。
帰り際、葵だけが少し困った笑顔で手を振ってくれたのが、せめてもの救いだ。
それだけを心に刻み、トボトボと玄関に戻る。
下駄箱を確認すると紅葉の上靴がなくなっていた。
――予感は外れ。
「――松風、帰ります」
当初の目的が何一つ果たせず、由紀江は肩を落とし家路につくのだった。
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『おい、鬼面の幹部さんよ! そこにいるは分かってるんだ。もうここに武神も向っている。袋の鼠だ! 観念しな!』
紅葉の背筋が凍りつく。
その言葉を聞き、脊椎反射で三階の窓から飛び出した。
自分をしつこく追ってきたポニーテールの上級生ををやっと撒いて休憩しようかと、空き教室についた数分後の出来事である。
決闘の後の逃走。
笑顔で親切に何度も道を教えてくれる川神一子、十割善意のみで行動する人間を紅葉は初めて見た。
曲がり角に来るたび、紅葉は何とか逃げようとするのだが、それでもついてくる彼女を振り切るのに全力を出すのは気が引けてしまった。
もしや、これは親切の皮を被った、意地悪なのではと疑いもした。
だが、悪人の顔から悪意が滲み出てしまうように、善人である一子の表情には素直な善意が溢れている。
これほどのものであれば、紅葉でも疑うことが馬鹿らしいと思えてくる。
だからといって、いつまでも追いかけられては、困ってしまう。
結局、牛丼屋で飯をおごると言い代金を払い、素直に騙されてくれた一子を置いて走って逃げることにした。
商品が来るまで、律儀に待ち続けた彼女に、珍しく紅葉の良心がチクチクと痛む。
――少しくらいは疑ってくれても。
初対面の紅葉の言葉を素直に受け入れ、はしゃぎ喜ぶ姿。
――いや、面を被っているので、正確には対面すらしていない。
振り返れば、一子は嬉しそうに牛丼の容器から漂う匂いを楽しんでいる。
それを見て、騙した事実が、少しだけ和らいだ。
一子を撒くため、川神を出鱈目に走っていた。
紅葉は目的地を考える。
全力で走ったわけではないが、朝から活動的な日だった。
落ち着ける場所に行きたい。
そう考えると、この牛丼チェーンは、川神学院から遠くない。
しばらくくつろぐ為に、入った空き教室。
そこで先程の声だった。
庭に着地したその足で、横っ飛びをかまし植木の影に隠れる。
心臓の鼓動が早い。
顔だけだして、川神百代がやってこないか、右に左に目を凝らす。
紅葉が猫であれば、耳を後ろに向けて寝かせていたことだろう。
そして不意に気付く。
今日手に入れた一枚の紙切れの存在に。
――ああ、逃げる必要などなかったのだ。
もう百代が紅葉に危害を加えることはできない。
この紙は、霊験あらたかなお守り。
とり出したそれを眺め、満足した後、きれいに伸ばし再びカバンの中に。
――紅葉は今日の勝利を表現するため、握った拳を強く天に突き上げた。
そして、そろーり、そろーりと、足音を忍ばせ、植木から離れる。
無意識に警戒は続けてしまう。
下駄箱に戻り、靴をはきかえ家路につく。
その途中にお面をフリスビーの要領で、川に投げ捨てた。
これでもう明日から、こそこそ生きなくていい。
達成感から、緊張が解けお腹が鳴る。
家路にて紅葉は今日の夕食に思いを馳せた。
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決闘の翌日、日曜の朝、寝坊した紅葉に、台所の母が苦笑している。
遅めの昼食をとる息子。母はひどい寝癖を直すよう、己の髪を指した。
紅葉は苦めのコーヒーを飲み干した。
それでも覚めぬ眠気に、洗面台に向かう。
半覚醒のまま、家の電話が鳴るのを聞きながら髪を整えた。
「紅葉、あなた、同級生の――君て知ってる? 昨日から帰宅してないらしくって、確認したいんですって」
学院からの連絡。
紅葉の聞き覚えのない名前だった。
母に一日二日の外泊くらい今どきの高校生ならそう珍しくないのでは、と尋ねてみる。
だが、無断外泊をしているのは彼一人ではないらしい。
川神学園の生徒十数人が昨日から帰宅してないらしいのだ。
一人二人なら、事件性は低いが、これほどの人数になるとそうは言ってられない。
川神には、青少年に対して悪い誘惑や、治安が悪い場所も少なくはない。
紅葉の胸中、予感があった。
行方不明者の居場所に心当たりがあったわけではない。
だが、あの動画の投稿に、そして蛇神の登場。
事件が続けば、その流れを誰かが意図しているように思えてくるのだ。
きっとこれは、次の事件の前触れなのかもしれない。
紅葉にはある種の確信があった。
「ねえ、紅葉。ガムテープどこに行ったか知らない? ダンボールを蓋するのに使いたいんだけど」
――行方不明者の内、二人の行方が分かった。
確信は、勘違いだった。