武神フクロにしたった~僕らの川神逃走記~   作:ふらんすぱん

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 更新遅くて申し訳ないです。
 感想返信も、次話投稿の際にまとめてするようにしていて、遅れました。

 この作品だけでなく、他の二次創作やオリジナル作品が皆様の暇つぶしになるように、これからも頑張ります。


逃走の小坊主さんと三枚のお札 2

 

 川神百代は傷心していた。

 

 腕を掴んだその感触。

 イメージとしては、岩を通り越して山。

  ただ固いだけの塊ではなく、大地そのものを相手取るイメージ。

 その頑強な肉体に、百代の食指は大いに刺激される。

 

 ――あいつならば、満たしてくれる。

 

 百代の期待は膨らんでいく。

 なのに期待させるだけさせてこの仕打はない。

 まるで、一目惚れしたその瞬間に失恋させられた乙女の気分だ。

 遠ざかっていくいけずな想い人は今、百代ではない誰かに抱きしめられていた。

 

「ふん、クリもマルさんもみっともない。良い女ってのは振られたからって、男にすがりついたりしないものなんだ」

 

 それは振られ女の、恨み節。

 必死に喰い下がる主の少女とその従者を見て、百代は馬鹿にしたように首を横に振る。

 

 ――視線を感じて、そちらに向けば、なにか言いたそうにアシュラがこっちをみつめていた。

 

 仮面があるので表情はわからない。

 

「なんだ、おまえも帰るのか? ふん! 目障りだ。戦わない奴はさっさと帰れ! 言っとくが、お前達が鬼面の関係者で、川神学園の生徒だってことはバレたんだからな! あとはあの紙切れをどうにかする方法を大和が思いつけば。そ、その時まで、首を洗って待っておくんだな!」

 

 挑発に返すこともなく、アシュラはお辞儀をして、去っていく。

 

 ――ああ、葱だけでなく、鍋まで背負った鴨が、飛び立ってしまう。

 

 未練たらしいみっともない百代は、諦めきれず尋ねた。

 

「やっぱりおまえも持ってるんだよな、あの紙切れ? ふーん、そうかぁ、持ってるかあ。――なら、見せろよぉ! 今から五秒以内に提示できないと、戦闘開始な! いーち、にー」

 

 アシュラは慌て、舞台の脇においていた鞄を探る。

 勿論、この秒読みはただの意地悪で、百代に本当に攻撃する気などはない。

 

 十秒以上過ぎてから、慌てたアシュラがクシャクシャになった紙を勢い良く眼前に突きつけてきた。

 

 ――これで本日二度目の失恋。

 

 もう関わり合いになるのは御免だと、百代の顔に張り付くくらいの距離に紙切れを見せると、急いで鞄に仕舞う。

 

 

 ――ちなみに気の強化によって百代の動体視力は常人離れしている。

 

「――なあ、悪いんだけど、一瞬過ぎて確認できなかった。だからもう一度見せてもらえるか――今度はちゃあんと一緒に確認しよう!」

 

 だから、素早く押し付けられて、即、仕舞われたチラシだろうと内容はしっかりと把握しているのだ。

 いやいやと、アシュラは首を振る。

 百代が、一歩踏み出すと、アシュラは一歩、後ずさる。

 

「ち、違うんです。あの紙ならちゃんと、鞄に入れっぱなしだったはずなんだ!」

 

「そうかぁ、じゃあ、お姉さんが一緒に確認してあげよう」

 

 百代の一閃。

 百代の右手が、動揺するアシュラの鞄から先ほど、押し込まれた紙切れを抜き出す。

 

「――飽食ハンバーグハウス、開店セールで一キロハンバーグが五割引き。これはワン子が喜びそうだな。他にも九鬼グループの飲食店がずらりと乗っている。んー、おやぁ、これは私が書いた契約書じゃないじゃないかぁー」

 

 どういうことかと、嬉しそうに百代が答えを待つ。

 

「だから、あれ、本当に、どこにいったんだ? 盗まれた?」

 

 アシュラは鞄を逆さまにして、中身をぶちまけ、底までさらう。

 

『おい、誰か、拭くものはないのか? 奴の鞄にあった薄っぺらい紙きれでは、全く汚れがとれんのじゃ! おいそこな山猿で構わん。早くするのじゃ!』

 

『うえーい、心。これ、どーぞ』

 

『んん、これはティッシュ? ええぃ、この際構わん――ってこれは長いのう。どこで切れば』

 

『それ、折り目があるから、そこで千切って、ちゃんと三角折りにしておくんだよ!

 そうしないと、次に使う人が不便だからねー』

 

 手元に紙切れがないことが確認できたのか、アシュラは相談があると百代に話しかけてきた。

 

「あの、家に帰ればあると思うんです。約束したのは確かなんだし、契約書が手元にないからといってそれを反故にするのは――」

 

 そこを突かれると痛い。

 契約は全校生徒の前で、鬼面と交わされた。

 言う通り、紙切れがないからといって、この大衆の目がある場所では、力づくでうやむやにするのは難しい。

 

 

 ――だが、今回の戦いが、鬼面と全く関係がないとしたらどうだろう。

 

「ああ、ところで一つ疑問があるんだが。私とおまえが戦うのに、なんであの契約書が関わってくるんだ?」

 

 百代は可愛らしく、顎に指つけ首を傾げてみる。

 

「だって、あれは、鬼面の幹部と、私が戦わないって約束であって『おまえと私には』まるで無関係じゃないか!」

 

 仮面越しでは見れないが、アシュラは百代の言い分に目を白黒させていることだろう。

 

「だから、僕はあの時の、さっきあなたも――」

 

「証拠はあるのか? ないのだろ? それに決めつけて悪かったな。おまえが、鬼面の一味だなんて。それはきっと、間違いなく私の勘違いだ!」

 

 

 そう。仮面をつけた神出鬼没、正体不明の悪童。

 鬼面の幹部様である証拠などあの紙切れ一枚のみ。

 顔を隠している彼らにとっては素顔すら証明にはならない。

 鬼面の一味であると、証明できないならば、契約書の効力はない。

 鬼面ではない他の誰かとして、精一杯、百代と戦ってもらおうではないか。

 

 

 嬉しそうな百代。

 そんな百代に、対抗策を思いついたのか、アシュラはぽんと手を打ち合わせる。

 

「――うう、お腹が。ちょっと、ト、トイレに」

 

 そして、お腹を抑えて、小走りに去っていく百代の想い人。

 

「つーかーまえーた!」

 

 

 ――百代の力は、百万馬力。絞め殺す勢いで恋人を抱きしめ捕獲する。

 

 こうして、百代の二度目の恋は成就したのだ。

 

「いい加減に離さんか。もうわしの不戦敗で構わんと言っているだろうが!」

 

「いーやーだ! 絶対に戦うんだぁ! どうしても戦いたくないというなら、腕ずくで自分を倒していけ!」

 

 戦いたくないなら、戦って行けと矛盾する提案を押し付けようとするクリスに、辟易する日光。

 向こうの話し合いはまだ終わっていない。

 

 ●

 

「あーうー、早くしないと、も、漏れてしまう」

 

 演技を続け、どうにか逃げだす隙を探す。

 紅葉の背中に伝わる感触は柔らかいのに、腕は万力のように固く、抜け出せる気がしない。

 大きな蛇に締め付けられているかのよう。

 本気の踏み込みで、常人を引き離すほどに加速することも考えたが、百代はこのままくっついて来そうだ。

 だから紅葉は、苦しがるふりしかできない。

 

 

「――もしかして、本当に腹を壊しているのか?」

 

 一向に三文芝居をやめない紅葉。

 もしやと少しでも思ったのか、眉を寄せ、百代が様子を窺ってくる。

 

 ――かかった。

 

 仮面の下、紅葉はほくそ笑む。

 紅葉は知っている。

 いくら武神と祭りあげられようと、隙はあるのだ。

 人間は、そう簡単に非情になれはしない。

 川神百代とて、一介の女子高生に過ぎない。

 齢を重ねれば、角は取れるものだ。

 あの幼き日の鬼子も大人になる。

 それを、成長と呼ぶのか、欠点とするのかは人による。

 

 ――紅葉は喜んで、人の情という、欠点を突く。

 

 今度は今までより一層、肺から絞り出したような、か細い声で唸った。

 百代が腕を放した。

 

 百代の甘い判断に感謝し、腹を抑え、ゆっくりと足を入り口に向ける。

 

「まてまて、これ、使っていいぞ」

 

 すると百代は制服のポケットからちり紙を出すと、紅葉に押し付けてきた。

 紅葉は受け取って、それがなんなのか、顎に手を当て思案する。

 

「ん? ああ、――逃げられては困るからな。さっさとここですませるんだな」

 

 こことは、この会場の中心のことだろうか。

 百代の優しい気遣いに絶句するアシュラ。

 

 ――三つ子の魂百まで。齢を重ねようが、鬼は鬼。人は鬼になれるが、鬼は人に戻れない。

 

 受け取ってしまったポケットティッシュ片手に、紅葉は固まったま動かない。

 

 ――この衆人環視の中、なにを済ませるんだろう。

 

 決勝戦はまだまだ始まらない。

 ●

 

 会場内、男子手洗い、その個室の一つ。

 

 紅葉はウンウン唸っている。

 勿論用を足しているわけではなし、頭を抱えているのだ。

 野糞をさせられてはかなわんと、必死に川神百代を拝み倒し、トイレに立て篭もる。

 思案中の紅葉の腹に巻かれた縄紐が二度三度引っ張られる。

 

 

 それにこちらかも引っ張り合図を送って返した。

 

『紐に反応がなかったり、返事がなかったら、ここを試合会場にするからな?』

 

 とのこと。

 それは分刻みで繰り返される。

 きっと縄の先にいる者は、落ち着いて用を足させる気などないに違いない。

 

 ――気分は山姥に追い詰められた小坊主の心境。

 

 その上、和尚がくれるはずの御札は一枚もない。

 

『おおう! なんだ、ってモモ先輩か。って、なんで男子便所の中まで入ってきてるんですかああ!』

 

『おやおや、マナーがなっていませんね。――それと準、慌てていても、せめて前くらいは隠してください。女性に失礼ですよ』

 

 ――聞こえて来る声は、観客席にいた先輩二人組のものか。

 

『うん、ちょっと待て。せーの』

 

 個室のドアが曲がりそうな勢いで、ノックが響く。

 それは大きすぎて、確認のためではなく、もはや中にいる者への脅しである。

 紅葉が、控えめにノックを返す。

 

『よし、いるな。できるかぎり急げよ!』

 

 今度は男子トイレ入口のドアが閉まる音が響いた。

 

 

 誰もが心安らげるはずの場所で、穏やかな心境ではいられない。

 それでも必死に心を落ち着かせ考える。

 男子手洗いの入り口は、百代が陣取っている一つのみ。

 それ以外となると、個室の外、換気のためにある小さな窓か。

 だが、窓は頭がどうにか通るかといった大きさ。

 紅葉がぬけ出すのは無理だと、個室に入る前に確認済み。

 

 ――とりあえず個室を出て、周りをもう一度見回した。

 

「おおう、誰が入っているのかと思ったが、あんたか。いや、モモ先輩の相手だなんて、あんたも大変だな」

 

 面を被ったままの紅葉に、井上準は苦笑する。

 それを無視し、紅葉は頭より上の位置にある窓を開けて、外を見た。

 手洗いは二階にあり、窓の外には川神の街が広がっていた。

 ここから出られれば、すぐに人混みに紛れ込めるのに。

 次に、確かめるよう手洗いの壁を軽く蹴ってみる。

 

 ――これくらいの厚さなら。

 

「あの、壊そうと思っているならやめたほうが良いですよ。この建物の管理は九鬼が行っていますし、後日、恐らく結構な額の請求書が送られてくるはずです。それに、壁が崩れる音を先輩が聞き漏らすはずもないですし」 

 

 もう一人、葵冬馬は何が楽しいのか、嬉しそうに紅葉に忠告する。

 彼の言う通り、万が一、紅葉の正体が露見した際に、請求が怖いので思いとどまる。

 だが、それではどうすればいいのか。

 助けを呼べれば、まだなんとかなったかもしれない。

 個室の中で何度も、岳蘭と優の携帯に掛けてはいたのだが、『わし、帰る』『一人でなんとかしろ』とのメールを最後に着信拒否をされた。

 紅葉が困っているというのに、友達甲斐がなさすぎる。

 

 ――これでは、囮にも盾にも使えない。

 

 これまた友達甲斐のない思考の紅葉。

 こうなったら、最後の手段。

 正面突破しかないか。

 幸い、この場に百代から身を守るための盾が二人ある。

 

「おい、若。なんかあいつ、不穏な感じで笑っていないか?」

 

「そうですね。恐らく、僕達を囮にでもするつもりなんでしょう。これは、困りましたね。腕力で敵うわけがないですし、どうしましょう?」

 

 後ずさる準と、やはり余裕の表情を崩さない冬馬。

 紅葉の手が二人に伸びるその瞬間だった。

 

 ――手洗い場のドアが勢い良く開いた。

 紅葉は驚き、天井の隅に張り付いた。

 

 ●

 

「ちょっとどいてー。おーい、冬馬ー、準ー」

 

 百代の前を横切って、その白髪の女性徒は、男性手洗いに突入していく。

 本来なら先輩として、はしたないと注意するべきなのだろうが、百代も先ほど入室していたので、そこは指摘できない。

 

『ちょっ、こら、ユキ。なんのつもりだ! 俺には心に決めた幼女が――』

 

『うっさい、ハゲー。黙ってよこしやがれー』

 

 間延びした声と、準の悲鳴。

 それからすぐに、榊原小雪が退室してきた。

 あまり親しくない一学年下の後輩は、何を考えているのかわからない普段通りの表情で、百代に挨拶もせずにすたすたと走って行ってしまう。

 

 それから数分後、まだアシュラは篭ったまま。

 いい加減、焦れて来た。

 観客を待たせているのだ。

 そろそろ、観念して出てきたらどうか。

 出すものが出たのなら、早く出てこいと、百代は、また縄を引く。

 

 ――手応えが返ってきた。

 

「おーい、もう観念したらどうだ。ほら、戦うと言っても試し合いだ。私も全力を出すつもりないぞ――最初は」

 

 百代は、猫なで声で鼠を誘う。

 全力を出す気がないというのは本当。

 勿論それは相手を気遣ってのもの――などではなく、新しい玩具を壊さず長く愉しむための配慮にすぎない。

 

「――それとも、本当に腹具合が悪いのか? だったら、薬を貰ってきてやるから、なんとかいえ――」

 

 ――また手応えが返ってくる。

 だが先程までそれと一緒にあった返事がない。 

 

「――まさか!」

 

 もしやと思い、百代は縄を引く力を強める。

 体全体で引っ張るのではなく、あくまで腕力のみで。

 

 

「ぐえぇ! モモ先輩、手加減してくれ」

 

 だが百代の剛力だ。

 勢い良く手洗い室の外まで飛んできたのは、頭髪を剃りあげた後輩。

 縄は彼の胴に括られ、いるはずのアシュラがいない。

 

「なんでおまえが?」

 

「すみません、脅されて、これを腹に巻けって」

 

 百代は準の襟首を掴みあげて、詰問する。

 

 ――往生際の悪い奴だ。

 

 答えを聞くやいなや、ドアを蹴破った。

 

 そして個室トイレの一つ一つを確認する。

 全てドアは開いており、中は無人だ。

 

 

 ――おかしい、奴は何処へいった。

 

「おい、ここの入り口は一つしかないはずだぞ! アシュラは何処だ?」

 

 百代の乱入に、驚いた風の葵冬馬に尋ねる。

 冬馬はすぐに落ち着きを取り戻すと、換気のための窓を指差す。

 

「馬鹿な! 窓を壊したならともかく、奴の体格では――」

 

 言葉の途中、窓の外の景色に、奇妙な面を被った川神学園の制服が見えた。

 こちらに気づき、大きく手を振っている。

 

「ええ、無理でしょうね。しかし、信じられないことに、彼は体の関節を自力で外し、蛇のようにその小さな窓を通り抜けて行きました」

 

 冬馬は語る。

 そして説明しながら、何度も頷き感心を示した。

 冬馬の言葉の真偽など確かめる暇はない。

 今は早く追いかけねば、奴の足では百代であろうと逃げられてしまう。

 拳に体内の気を集中させる。

 表面を気で覆った百代の拳は鋼鉄よりも頑丈になった。

 

 その鉄拳をコンクリートの壁を破壊するため構え直した。

 

「ちなみに、先程も同じ忠告をしたんですが――壊すなら、壁の弁償は覚悟してくださいね」

 

 ――百代は回れ右をして、会場の出口を目指し手洗い所の扉へ。

 

 そして、先ほど放り捨てた光る頭の後輩の前を横切ると、これまた振り返る。

 これを忘れてはいけない。

 

「おいハゲ! 変態はロリコンだけにしておけよ。これは先輩からのありがたい忠告だ。それ以上、変態が増すようなら、最悪、警察署の前に捨ててくるぞ」

 

 ズボンを履かず、下半身がパンツ一枚だけの後輩を叱り、百代は走っていく。

 武道家と奴ら鬼面の違い。

 百代の気で行う居場所の探知に、奴らは一般人と変わらぬ反応しか示さない。

 百代の探知は、おもに気という生命力の運用が関わってくる。

 体外を気で強化した武道家などは、面識がなくとも、別個体と認識できるのだが。

 気を扱わないものに関しては、とたんに精度が落ちてしまうのだ。

 反応は見つけられても、識別が難しい。

 

 そのため、よく知り、僅かな特徴でも記憶した幼なじみたちの気ならともかく、人混みに入られたその時点で一般人の気に紛れて見失ってしまう。

 

 疾風のごとく急ぎ、先ほどアシュラがいた場所まで到着する。

 この時点で既に、アシュラの気を見失っており、目視で確認する必要があった。

 

「おい、今ここにお面のやつがいただろう。どっちにいった?」

 

「ええっと、あっちー!」

 

 指したのは、川神駅前。

 案の定だ。

 紛れる前に、急がねば。

 礼を言い、百代はさらに速くなる。

 

 その後姿を、なぜか先ほどあった時のスカートではなく川神学園男子制服のズボンを履いた榊原小雪が、元気よく右手を振って見送っていた。

 

 ――ちなみに後ろ手に隠しているもう一つの手には、三面六臂のお面が握られていた。

 

 

 ●

 

 そして、会場内、男子手洗い。

 無人の三つの個室の横。

 用具入れのドアがゆっくりと開いた。

 中から出てきたのは、川神学園の制服をきた男子。

 顔は白いビニール袋に覆われていてわからない。

 眼と鼻の部分に、指で穴を空けただけのみすぼらしい覆面。

 被っていたアシュラ面は、窓の外に待機していた白髪の女性に、投げ渡してしまった。

 

「――そうですね。一言、お礼の言葉がいただけると嬉しいんですが」

 

 この葵冬馬は、何の思惑があって自分を逃がしてくれたのか。

 そこら辺、気にはなるが、今は正体を隠しここから逃げなければ。

 からくりに気づき、いつ百代が戻ってくるとも限らない。

 狭い個室で、散々脅かされ、いつもの楽天的な思考は鳴りを潜めていた。

 ビニールの安っぽい覆面も、紅葉を弱気にしている一因なのだろう。

 冬馬を無視し、そそくさと歩き出す。

 

「私はともかく準を見てください。変装のためにズボンを奪われた憐れな姿を。そして悲しいことに『ボク、見たい番組があるから帰る、じゃあね~』とユキからメールがありました。――準はこのまま、下半身を露出した状態で家路につくことになるんです。そんな彼に何か言葉をかけてあげてください」

 

「うえぇ! ユキのやつ、なんで帰っているんだよ! えぇ、俺このままかよ!」

 

 

 言葉をと言われても、哀れすぎて言葉がない。

 会釈だけして、今度こそ別れる。

 

「それでは、『また』」

 

 冬馬も会釈を返す。

 制止されることはなかった。

 会場にエキシビジョンマッチの中止を伝えるアナウンスが流れていた。  

 

 

 □

 トーナメントと云う一大イベントが終わり、川神学園生の夏休みは何事もなくすぎていく。

 

 受験で忙しい三年生。そろそろ、部活の代替わりで要職につく二年生。

 その両方共縁がなく、本当に休むためだけの休暇を満喫する一年生。

 思い思いにそれぞれの夏休みが終わってしまった。

 そして、九月一日の始業式の日。

 

 文化系クラブの部室が並ぶ部室棟。

 その隅、学園の外壁で挟まれためったに人が訪れることのない場所。

 

「ほう、時間よりも、だいぶ早く来たのじゃな、結構結構」

 

 川神学園の生徒でありながら、制服ではなく、桃色の着物を着た少女。

 不死川心は待ち人が訪れたことに対して満足そうに笑みを浮かべる。

 

「ぬぅ、しかし、なぜ面をかぶったままなのじゃ? おまえの正体はとっくにバレているというのに」

 

 相手が近づいてくると、その顔を確認する。

 

 心は着物の袖から一枚の紙を取り出した。

 丸められたものを伸ばしたため、皺でクシャクシャだった。

 

「で、ここに来たということは、此方の要求を受け入れることにしたのじゃな。まあ、此方も鬼ではない。此方の言うことに絶対服従を誓えば、幾ばくかの礼もしよう。もっとも、断ると云うなら、お前の正体をぽろりと口からこぼしてしまうかもしれんのう、にょほ」

 

 それをあの会場で心は偶然に手に入れてしまった。

 川神百代と、鬼面によって作られた『不戦』の契約書。

 

 心は、紙を持っているのとは逆の手をぎゅっと握りこぶしにする。

 

 ――ようやく、己の家格の高さ、その高貴さに見合った力が手に入ると。

 

 それは、小さなガッツポーズだった。 

 


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