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客席の間の通路を進む女がいた。
日本的には珍しいが、こと川神においてはそこまで珍しくなくなりつつあるメイド服を着て赤い髪を後ろに束ねた女性――朱子は足早に、しかし急ぎすぎず、見苦しくない程度の速度で歩いていた。
解説席にいる己の主――久遠寺森羅の為に自販機を目指す。
飲み物ならば九鬼の関係者が用意してくれていたのだが、森羅はそれが口にあわないと、朱子に使い走りを命じた。
主の舌を満足させるものがそこいらの自販機にあるはずがなく、それは当然森羅も理解している。
それに、九鬼が用意したものが上等でなかったわけではない。
実のところ、森羅の推薦したコンビが、妹の未有のコンビに開会式のパフォーマンスで、大きく水を開けられたことによる八つ当たりだったりする。
解説席の肘掛けを手の指で叩き、苛立ちを他者に示す森羅に逆らえるものはなく、スタッフや朱子は冷や汗をかきその場の重圧に耐えていた。
ただ一人、同じように解説席に座り、それらの一切を気にしていませんよと言ったふうの未有が、姉の拒否した九鬼が用意した紅茶を飲んでいたことも拍車をかける。
主を尊敬しているのだが、正直、あの場から開放された朱子はほっと一息つくと、会場の大型モニタに映しだされたトーナメント表に目を向けた。
先程、発表されたトーナメント表には第一試合に、森羅の推薦したコンビが映っていた。
同じ、森羅の従者であり、恋人でもある上杉錬と、同僚のナトセのタッグチーム。
トーナメントの再発表までには、交渉による位置の入れ替えが可能であった。
だが、あの頭をつかうことを知らない二人のことだ、このまま交渉をすることなく、第一試合を迎えることだろう。
視線を下ろし、リングに目を向ければ、芸人達による前座が行われている。
演目の一つが終わったようで、リングからはけていく男たちと入れ替わりに入ってきたのはサーカスのピエロだった。
彼の後に付いてきたパンダがリング中央でお辞儀をし観客を湧かせる。
朱子はパンダを用意することのできる九鬼の財力に惚れ惚れし、これで病的にパンダ好きな森羅の機嫌が幾分、回復することを喜んだ。
ピエロの指示で、ホワイトボードに高校レベルの数学の公式証明問題の解答を書き込んでいく珍獣を尻目に、足取り軽く缶入りの紅茶を買いに行く。
解説席のマイクを通して流れる主の歓声に、小銭を握り自販機のラインナップを見る。
当然、どれも朱子の入れた紅茶に敵うものはない。
だが、それでも選ばないとならない。
正解がない中、迷う朱子の肩を叩く人物がいた。
「やっほー、朱ちゃん! こんなところでどうしたんです。錬ちゃんがいないのに森羅様のそばを離れても大丈夫なんですか?」
恋人の姉であり、朱子の同僚である上杉美鳩である。
同じ久遠寺家のメイド服を着こなし、炎天下の中、汗一つかいていない涼しい顔で立っている。
夏服ではあるものの、ヘッドドレスまで付いた制服を着込みながら、暑さとは無縁な彼女を、妖怪だという人がいても朱子は不思議に思わない。
久遠寺家という括りにおいては仲間だが、現在、森羅と未有の間で姉妹戦争が勃発しているので気を許していい相手ではない。
「なによ、鳩。あんたこそ、未有様の隣にいなくてもいいの?」
いくらか刺のある口調になったのは、お互いが、森羅と未有の対立に流されたわけでもなく、日々、朱子をからかってくる美鳩に対する反発でもない。
弟離れしない、未来の小姑への牽制を込めたものだった。
口では弟離れを宣言した美鳩だったが、朱子の知る限り、弟への過剰な身体接触は減ることはなく、朱子に対する地味な嫌がらせが増えていたりする。
睨みつける朱子の眼力などなんのその、笑顔で受け流す美鳩は自販機とこちらを交互に見て両手を叩く。
「ああ、森羅様の飲み物を買いに来たんですね。だったら、私がお屋敷でアイスティーを淹れてきました、よかったらどうぞ。もう、そんなに遠慮しなくても、同じ主に仕える仲間なんですから、助け合いは当たり前ですよ! 良かったら朱ちゃんも、ここで一杯飲まれていかれませんか。水分補給は大事ですよ」
察しの良い同僚は、懐から魔法瓶と取り出し、入れ物になっている蓋に注ぎ、こちらに差し出す。
彼女の好意に、いらぬ意地を張っていたと朱子は苦笑し、グラグラに煮立っている紅茶を受け取り、地面に叩きつけた。
「テメェ、っくそ鳩! この暑い中、こんなもん飲めるか! 喧嘩売ってんならあたしは買うぞ!」
美鳩のメイド服の胸元を掴み、朱子は気炎を吐く。
「ええ、朱ちゃん、ひどいです~。どうやったらここまで人の好意を受け取れない根性の曲がりきった子に育ってしまうんでしょう、くるっくー」
美鳩は眉一つ揺らさないで、楽しそうに朱子を観察してくる。
怒ってもこちらが疲れるだけで、何一ついいことがないのはわかっているのだ、朱子は相手のペースに乗らないように、無理やり自分を押さえつけた。
それが意外だったのか、美鳩は残念そうに、口を尖らせる。
美鳩はもう一本、魔法瓶を出し、そこから湯気を出していない紅茶を入れ、もう一度朱子に差し出す。
「はい、今のは冗談です。弟の恋人に熱中症にでもなられたら、錬ちゃんにあわせる顔がありません」
こちらを気遣い見つめる顔には、真剣さが見え、こういうところは弟に似ているなと、呆れてしまう。
断るのも面倒くさいと、受け取った紅茶は、よく冷えており、喉を通る心地よさが朱子に力を与えてくれた。
「――美味しかった、ありがと」
短い礼の言葉を受け取り、満足そうに美鳩は笑った。
彼女から、森羅のために魔法瓶を受け取った時に朱子は大きな欠伸を漏らす。
朝から張っていた緊張が、今の一杯でほぐれたのだろう。
『うわーパンダちゃーんがこっちを向いたぞ。かわいいなぁ~、もう!』
スピーカーから流れる森羅の嬉しそうな声が、朱子の耳に響いた。
●
選手入場口から、こっそりと観客席を伺う褐色の女性から上杉錬は目をそらす。
コンビを組んだ年上の同僚は、恥ずかしそうに身を縮めている。
恥ずかしいのは錬も同じなのだが、間抜けさは己のほうが大分勝っているので、錬は開き直って、彼女の手を取り、リングへ向かった。
モニタに錬達の入場姿が映し出されると、囃し立てる男性のものが波の如く押し寄せた。
それも無理からぬ事だろう、ナトセは肌を惜しげも無くさらけ出したビキニ姿。
顔立ち、スタイルともに整っている彼女の肉体を意識しない男性など、同性愛者か、変態ぐらいだ。
「もう、いくら何でもこんな目立ちかたは恥ずかしいよ! 森羅様の提案じゃなきゃ、今すぐに消えてなくなりたいよ!」
隠すにも限界がある豊満な肉体から、取り敢えず胸元を隠すことにしたナトセは、二本の腕で己を抱きしめるような格好になる。
ナトセとは違い錬は胸を張って堂々と進んでいく。
たしかに恥ずかしい格好なのだが、ナトセは錬と比べるとかなりましだ。
錬の格好は更に布面積が少なく、尻は穴を隠すだけで、ほぼ丸出しのふんどし姿。
色は白ではなく、情熱の赤である。
日々鍛えてきた肉体ではあったが、この強烈な衣装に比べたら賞賛をもらうことなく陰ってしまう。
開き直って一歩一歩魅せつけるように歩くのだが、当然、若い女性の黄色い悲鳴など聞こえるはずもなく、わずかにあった錬を支持する野太い男性の応援は幻聴の一言で終わらせたい。
こうなった原因は先のハグレ地獄コンビの大パフォーマンスにある。
会場の注目をさらっていった彼等の姿に、あせった森羅が急遽用意した衣装がこの二つなのだ。
良くも悪くも浴びせかけられる声援に、解説席の森羅の満足した顔が見えた。
主の機嫌が治ったことに胸を撫で下ろし、それならばこの無様な姿もいくらか報われると、錬は己をごまかす。
ならば、あとは勝つだけだ。
息を深く吸い、心を落ち着け、身体を戦闘用に切り替える。
戦闘態勢に入った錬に気付いたのか、ナトセも恥ずかしさを振りきって身体を整え始めた。
二人は対戦相手のいるリングに上がる。
●
リングの上には既に人影が待ち構えていた。
四方を審判が、そして中央に待ち受けていたのは爽やかな風を背にした一人の騎士とその従者だった。
金の御髪をリボンでまとめた少女はレイピアを胸に掲げ、戦いの祈りを捧げていた。
赤い従者は膝をつき頭を垂れて彼女の許しを待っている。
それは一枚の絵画のようであり、その立ち居振る舞いが、その美しさが彼女たちの強さを物語っている。
錬とナトセは彼女等の登場に戸惑っていた。
挑戦的な笑みを貼り付けクリスティアーネ・フリードリヒはレイピアの切っ先を、錬達とは反対方向に構えた。
「さぁ、自分が成敗してくれる、かかって来い!」
――そして、クリスは友人にリングから引きずり降ろされた。
『ちょっと、待て、大和! 自分はこれからあいつらを成敗するんだ! 離せ! 大体、一回戦で自分と戦うことになっていたのに逃げたあいつらが悪い! なあ、マルさん?』
『はい、クリス、我が儘言わないの。一回戦の入れ替わりはルールで認められているだろ。それにこんな大舞台でアホを喧伝して回るのは俺達、ファミリーの恥にもなるから反省しような。マルさんも、悪いことをしたって解ってるからこっちを全然見てないだろ。いい加減、自分の失態に彼女を巻き込むのをやめような、顔を真赤にして困ってるだろ』
男子に、制服の裾を掴まれ、不満を言いながら引っ張られていく騎士と、恥ずかしそうに顔を下に向けた従者がいなくなった。
改めて対戦相手を探すも、リングには審判以外、誰も居ない。
『んん、なんだ、みゅーたんの手下は恐れをなして逃げ出したのかな? とんだ見掛け倒しだったな! では罰ゲームの執行を今ここで』
妹に対して暴走しそうになる森羅を止めたのは黒いタイヤだった。
いや、そうではなく、リングに転がってきたタイヤを追いかけ、走ってきた愛らしい獣だった。
突然のハプニングに観客席から彼等を見守る笑いが溢れる。
ピエロは、タイヤを掴み満足そうに遊び始めるパンダを誘導し、リングの中央に。
手を胸に当て、ピエロが一礼した後、腰につけていた鞭で地面を打つ。
――呼応し、野生の雄叫びが上がった。
凍りつく会場を気にとめず、再び鞭の音が響く。
パンダは獣の本性を表したかのように、爪で己の身体をかきむしる。
パンダ好きの人間は、目の前の蛮行を理解できず言葉を失っていた。
三度目の鞭、パンダの罅割れた毛皮が四方に飛び散り、中から生まれた男がいた。
ピエロの仮面はいつの間にか三面六臂の阿修羅面に変わっている。
『ハグレ地獄コンビ、見参!』
そこには久遠寺未有の刺客が、悠然と構えている。
続いて起こる会場の怒号は、否定であり、肯定、様々な感情の流れを内包していた。
ただ一点、共通しているのは、皆が注目せずにはいられないということ。
目立つという勝負において、徹底的に差を付けられてしまった。
錬の赤褌も、ナトセのビキニも既に霞んでしまっている。
どうすればと、錬は弱気になり主に助けの視線を向けてしまった。
立ったまま、気絶している森羅に。
『もう、なんてことをしてくれたの! あまりのショックに姉さんが失神してしまったじゃない! 私はあなた達をなんて言って褒めればいいのよ!』
解説席には嬉しそうに卒倒した姉の頬を突く妹の姿があった。
なぜ、この妹はあんなにも固い絆で結ばれているのに、こんなにも姉の不幸を喜べるのだろうか。
錬は自分たち姉弟に引けをとらない愛情を持っている主達のいざこざを不思議に思った。
●
『それでは、一回戦、第一試合、始め!』
審判の号令で錬とナトセは構えを取る。
ナトセの脇をひらいた堂に入ったムエタイの構えとは違い、錬の構えは我流のものだった。
警戒するように敵から距離を取っていく。
アシュラと日光はその場から微動だにせず、二人に顔を向けている。
もっとも仮面の下の眼がこちらに向いているとは限らないのだが。
タッグマッチにおける定石は、相手側の弱者に狙いをつけること。
たとえタッグの一方がどれほど強かろうとも、一人がダウンした時点で負けになるルールでは、積極的に力の劣るものを狙うのが勝利の鍵となる。
選手入場でのあの映像、ふざけた内容ではあったが、彼等の動きは眼を見張るものがあった。 真正面からぶつかり合い、無事で済むとは思えない。
だが、いつまでも様子見をしていても、埒が明かないのも事実。
ナトセと目で頷き合い、振り絞った脚を踏み込もうとした時に、それは起こった。
『あー、あー、聞こえてますか~。こっちに注目してください~』
スピーカーから響く女性の声に出鼻をくじかれた錬は、一歩後ずさり、敵との距離を保った状態で、映像の流れる大型モニタに注目する。
「あれ、ベニだ。何やってるんだろう?」
不思議がるナトセの疑問に答えるのなら、映像の中の朱子は暗い倉庫の中、柱に固く縛り付けられているように見える。
鼻ちょうちんを作ってはいないが、目を閉じ柱に後頭部を持たれかけ寝ている。
嫌な予感がする。
もしやと思い対戦相手を見ると、モニタに注目する観客たちと同様に、彼等も映像に釘付けだった。
錬は拍子抜けしてしまった。
敵の策略の一貫だと考えたのだが、彼等の反応から判断するに、無関係なようだ。
だが、それならば、一体誰が、錬の恋人にこのような仕打ちをしたのだろう。
『ふっふっふ~、上杉錬、見てますか~? ここに縛り付けられているのが誰だかわかります?、そうあなたの恋人のベニちゃんです! なら、これからする要求もわかっていますよね』
カメラに向かって歩いてきた正体不明の女性は、錬が最も恐れていた事をのたまう。
女の顔はサングラスとマスクで隠されていて判別がつかない。
服装は久遠寺家のメイド服に酷似したものを着こなしており、背格好はちょうど錬の姉である美鳩と同じぐらいだ。
髪型は長髪の両横に短く編み込んだ三つ編みを垂らし、頭頂部にはヘッドドレスを付けており、これまた美鳩とよく似ている。
美鳩似の、体型のラインは成熟した女性らしさを醸し出していた。
だがしかし、ここまで姉とよく似ている人物になると上杉錬には全く心当りがない。
姉に似たこの女性を一目でも見かけたならば、確りと記憶し忘れることはないだろう。
『えっと~、錬ちゃん~無視は止めてください! 悲しいからペナルティを下します!』
己の思考に埋没してしまった錬に、腹を立てた女はどこから出したのか、玩具のハンマーで、縛られた朱子の頭に狙いをつけた。
玩具で叩かれたくらいで、意外に丈夫な錬の恋人の頭がどうにかなるとは思えない。
そう高を括っていたのだが、その場で飛び上がり、反動をつけた謎メイドの一撃はモニタを通して大きな音を響かせた。
突然の苦痛に悶える朱子は、目を白黒させ周りを見た。
縛られている己の状況と犯人を確認すると烈火のごとく気勢を上げる。
『この糞野郎! 紅茶に一服盛りやがったな! あれ、もう一回戦始まってる時間じゃないないのかって、あれ、錬じゃないか! テメェ、一体何が目的であたしを縛ったんだ、みは、ふぎゃ!』
誰かの名を呼ぶ言葉尻、言い切られる途中またも、メイドのハンマーが朱子をしばく。
『はい、状況はわかりますか? では要求に移らせてもらいます。この状況や立場を理解できない頭の腐った朱ちゃんの命が惜しくば、足刀ーズはただちに、負けを宣言してください!』
やはり対戦相手の回し者だったか、合点がいった錬は歯を食いしばり、ハグレ地獄コンビを睨みつける。
睨まれた二人は、手を振り己は関係ないと言ったポーズを取り、錬を馬鹿にしてきた。
悔しいが今は先にやることがある。
「朱子!」
こちらの音声は向こうにも届いているのだろう、メイドと朱子は錬に注目した。
『お、おう。いいんだ、錬、あたしのことは』
「要求には応じられない! 朱子もそれは望んでいない! そいつはな、森羅様のためなら、いつでも命を捨てる覚悟を持っているんだ。そして俺もそれを理解している! だからそいつに人質の価値はない! 残念だったな」
錬は胸を張り敵に宣戦布告を掲げる。
そう、彼女の深い忠誠を、錬は理解している。
なればこそ、言葉はなくとも、彼女の決意がわかった。
朱子は目で語っていたのだ、自分はどうなっても構わない、錬に全力で戦えと。
『――おまえ、少しも葛藤しないんだな。本当にあたしの事好きなのか? いや、その通りだ! 全力で戦え、錬!』
何故か疑いの眼差しで朱子を観察していたメイドに、反発するように彼女も宣言する。
『って、ちょっと待てぃ! それは洒落にならないわよ!』
モニタの中、練り辛子を鼻の穴に詰め込まれ朱子は叫ぶ、彼女の決死の戦いを見届けることなく、錬は再び、拳を強く握りこみ、戦闘の構えを取った。
「いいのかな? 絶対、ベニにあとで怒られると思うんだけど――って、錬くん、あれ!」
困った様にナトセは頬を掻き、そしてモニタに指をさす。
――あれは何だ。
モニタの中の光景を錬は理解できなかった。
純白と表現しても大げさでない女性が、いつの間にか猿轡を噛まされた朱子の隣に、同じように縛り付けられていた。
人形のように整っていて、だが暖かさを失わない容姿、錬の最愛の姉がそこにいた。
握った拳が震える。
なぜ、あそこに美鳩がいるのか、当然、錬に対しての人質としてだ。
極度の緊張で口が乾いていき、言葉が出ない。
歯の根が合わない錬より先に、彼女の言葉が届く。
『錬ちゃん、戦って! お姉ちゃんは錬ちゃんの足手まといにはなりたくありません! 私のことはいいから、勝ってください!』
美鳩の献身、健気に弟のことを気遣うさまは、まさに聖母の如きもの、錬は泣きそうになる。
横で必死にもがく朱子は美鳩を助けようとしてくれているのか、恋人冥利に尽きた。
「馬鹿だな、鳩ねえは。俺が姉さんを見捨てられるわけがないだろう!」
錬は心の底から叫ぶ、その言葉に美鳩は感動し涙した――錬の言葉の後に、朱子も血管が切れそうなほどに顔を赤くして同意してくれる。
錬は満足だった、最愛の姉を救えたことに、そして恋人がそれを支持してくれたことに。
暴れたことで縄の締め付けが緩くなったのか、朱子は首を振り、美鳩の肩に頭突きをかましていた。
錬は手を上げ、審判に合図を贈る。
縄抜けをはたした朱子は美鳩に飛び掛かり、縛り付けられ身動きが取れないはずの姉は両手でそれに応戦した。
『くそ鳩! ここで決着を付けてやろうじゃねえか! いい加減に弟離れしやがれ!』
『くるっくー、望むところです。大体、たった今、錬ちゃんの本音は聞けたじゃないですか。負け犬のベニちゃんは、明日の朝日を拝めないものと思ってくださいね!』
四つに組あう彼女達にようやく首を傾げた錬の顎下、丸太のように太い腕が絡みついた。
「れ、錬くん、逃げて!」
パートナーの呼びかけに応じる間もなく、日光の強靭な腕は、錬の頸動脈をしめにかかる。
バタバタしていたせいで忘れていたが、すでに試合は始まっていたのだ。
油断していたというよりは、置き去りになっていた状況の中で敵は、こっそりと錬達の後ろに回りこんでいた。
「錬くん、少し待っていて、すぐに助けるから! ――って効いていない! なんて堅さだ」
抱きかかえられるように拘束された錬の足は身長差もあってか、地に足がしっかりと接していない。
見た目からして腕力で劣る錬は全身を使わなければ、日光の絞め技を外すすべがないのだが、不安定な体勢のせいで踏ん張りがきかず、剛腕から逃れられない。
せいぜい出来たのは、指を数本、腕の隙間に差し込むくらい。
相棒を助けようと、打ち込まれるナトセの蹴りにもまるで堪えていない日光。
焦る錬の脳に、血流が回らなくなってきた。
ナトセの蹴りが軽いわけではないのだが、身体を接触させている錬にまで響かない。
その衝撃を吸収する日光の極上の肉体にこれ以上は無駄だと悟り、錬はナトセに攻撃対象を変えるように指示を出す。
こうなれば、錬が絞め落とされるより前に、ナトセにアシュラを倒してもらうしかない。
堅牢な守りを誇る日光を崩すよりも、明らかに腕力で劣る敵の弱味を突くべきだ。
ナトセが自分の方に注目したのに気付いたのだろう、所在なさげに体育座りをして、こちらを観察していたアシュラは、まっすぐに伸ばし揃えた指先で、かかって来いとばかりに挑発的に手招きをする。
ここからは時間との勝負だ。
錬の意識が落ちるのが先か、ナトセとアシュラの激戦に決着がつくのが先か、変則的ではあるもの、モニタから目を外した観客は固唾をのみ、それを目に焼き付ける。
予想通り短時間で決着はついた。
それでも錬の状態から考えれば、十分長い時間といえるだろう。
――なんと驚くことに、根っからの負けず根性を振り絞り、錬は絞め技に耐え、五分以上、意識を保ち続けたのだ。
そして、錬と日光から数歩離れた場所に膝をつき、息を荒げる褐色の女性。
彼女の額には、汗がぽつりぽつりと垂れていた。
蒸し暑い祖国を持つナトセがここまで疲労するほどに、日本の夏は厳しい物だったか、そうではない。
ナトセから距離を開けること、一メートル、やり遂げたとばかりに、観客に手を振るアシュラがいた。
――なんと驚くことに彼は、この五分間、決して広くないリング上で、一度もナトセに捕まることなく逃げ切ったのだ、恥ずかしげもなく、一切抗戦に応じることなしに。
観客のそれは違うだろうといった空気もなんのその、気にせずに愛想を振りまく彼に、手を振り返しているのは小さな子供のみ。
その光景に、ついには心が折れ、錬の抵抗はなくなる。
そしてなにより、彼の闘争心をへし折ったのは、
『テメェ、何、美鳩と違って、あたしの時はあっさり見捨ててんだよ! もう負けちまえ、この下男!』
頭にこぶを作り倒れている美鳩と、彼女との激戦を珍しく白星で飾った恋人のとても暖かいエール、
『こらーっ、朱子! なんで敵の応援をしているんだ! それとようやく思い出したぞ、お前ら、昔、うちの家を襲った悪ガキ共だろ。あの時、強奪していった、私のテディパンダちゃんを返せ! ほら、錬、寝転んでないで、早くそいつを締め上げるんだ』
加えて、部下の危機的な状況に対しても、声をかけることもなしに、自分の都合を優先してくれた敬愛する主、久遠寺森羅だった。
●
試合中、戦いに白熱する観客席とは裏腹に、ドームの通路脇は閑散としたものだった。
一緒に来た友人に断りを入れ飲み物を買いに来た少女――川神学園指定の制服を着た大和田伊予は自販機の横の壁に、押し付けられるようにして背を預けている。
伊予は立ちはだかる人影から逃げようと身体をずらすのだが、壁に突き立てられた腕が遮り、前に進めない。
自分を壁に閉じ込めている相手が男であり、なおかつ王子様と評してもよい容姿の二枚目であったならば、話はロマンチックなものになるのだろうが、そうはいかない。
「んで、そろそろ観念して、あたしの喉を潤すための飲み物代を貸して欲しいんだがな、姉ちゃん」
女は赤茶でパーマのかかった短い髪の毛先を弄んでいた。
伊予の頭よりも高い位置から見下ろす鋭いと言うよりも悪い目付きに、彼女は竦み上がってしまう。
女性にしては高く、男性の平均と比べてたとしても少々高くなる相手の長身に加え、彼女の野生を思わせる八重歯が威嚇の言葉をたたきつける口から見え隠れする。
それがまた、暴力に縁遠い伊予を刺激して、彼女の精神を削ってきた。
生まれてから初めて、不良に絡まれるという経験をしているわけだが、伊予の愛読している少女漫画のように誰かが助けに来てくれるという都合の良いことは、ノンフィクションでは起こらないようだ。
せめて、会場のスタッフが気付いてくれることを願い、はぐらかしていたのだが、それも限界。
間が悪いのか、運が悪いのか、はたまたその両方、スタッフは愚か、客の一人も通りかからない。
会場で行われている試合が盛況である弊害か、そのような見事の戦いぶりを見せているであろう選手を恨めしく思う。
諦め、ジュース代を渡すために、ポケットから出した財布の小銭入れを探る伊予に女の要請がある。
「ああ、アンタが金出すのが遅いから、余計に喉が渇いたよ。そうだね、取り敢えず札を用意してくれるかい!」
不幸なことに、夏休みの遊行費にと親からせしめた小遣いのせいで、普段より伊予の財布は厚くなっており、少女の心は深く沈み込んだ。
――良い事は続いて起こらないくせに、悪いことはいっぺんに起こる。
贔屓の球団のグッズやチケットに使い込もうとしていたお金を奪うだけでは飽きたらないのか、観覧席の方の入り口側から歩いてくる友人を発見し、伊予の顔が青くなった。
飲み物を買いに出た伊予が遅くなったので心配して探しに来てくれたのだろう。
このままでは友人が巻き込まれてしまう。
幸いにも、女は壁にもたれ掛かる伊予に視線を向けており、友人には気づいていない。
女に気付かれないよう、手を小さく振り、近寄るなと合図をする。
友人は伊予に気付き、右手の親指と人差指で輪を作り、了承の合図を返した。
●
思えば、彼女は学園に入学して初めての伊予の友人だった。
川神学園には、伊予の中学から、進学したものは彼女以外にいない。
大人しく、どちらかと言えば消極的な彼女が、友人を作るにはひどく勇気を要する環境だった。
入学式から数日たった教室はすでにグループ分けがされており、同じ中学出身者で固まる者もいれば、持ち前の明るさ、積極性を活かし、輪の中心に自分を置く者もいた。
ただ、悲しいことに、伊予はそれらの喧騒とは一線を画するイジメっ子の隣の席に陣取っており、休み時間などの交流がひどく細いものになっていた。
これは、友人を得るには苦労すると覚悟していた伊予に、話しかけてきてくれたのが彼女だった。
『あの、これ落としましたよ。――ところで、職員室ってどこにあるか知ってますか?』
そう言って彼女が差し出していたのは、最初のホームルームで配られて、ポケットに入れたままの生徒手帳であった。
斜めに切りそろえられた前髪に眼鏡、片側で長い髪を一本結びに肩に垂らしている。
誰も、立候補しなかったために、くじ引きで決まったクラス委員の彼女は、突然のことに固まってしまった伊予が質問に応えることはないと諦めたのか、生徒手帳を押し付けると、誰かを追いかけ、教室の入口に歩いてく。
その手には伊予の物と同じ生徒手帳が、どうやら粗忽者は自分だけでなかったようだと、伊予が彼女の行く先に目をやり驚く。
『あ、あ、ありがとうございます! ――よ、よ、よろしかったら、この後』
『そこだ、まゆっち、満面の笑顔を見せろ! 勇気を出して下校に誘うんだ!』
自分の不注意を指摘されたイジメっ子は顔を赤くし、明らかに憤慨しているように伊予には見えた。
恐らく非合法に所持している真剣の柄を、剣袋の上から強く握りこんでいる。
怒りのためか、目線は話し相手の委員長に定まらず、上下四方を行ったり来たり。
般若顔を維持したまま、手帳を差し出す委員長の腕を掴んだ。
純粋なのか、危機察知能力に鈍いのか、イジメっ子をじっと観察する委員長に、教室の誰もが固唾をのむ。
イジメっ子を恐れて誰も助けに入れなかった、だからこの彼女を呼ぶ勇気ある声には、出した当の本人である伊予も驚いてしまった。
『あ、あの、委員長! 良かったら一緒に帰ろう! て言うか、帰るよ!』
伊予に親切にしてくれた彼女を見捨てるのが忍びなかったのかもしれない。
内気な伊予は周りに、特にイジメっ子に、他意がない事を知らせるために大きな声で、それでも、周りからすれば、ほんの少し雑音が入れば消えてしまいそうなそれで委員長を誘う。
状況のわかっていない彼女の腕をイジメっ子のそれから奪い取るように引っ張り、引きずりながら足早に教室を出る。
『――よろしかったら、一緒に下校などをば……あの松風、私に手帳を届けてくださった親切な方はどちらへ?』
イジメっ子に目をつけられかけていた彼女の腕を通して震えが伝わってきたのかと思ったが、そうではなく、震えていたのは伊予の腕だ。
自分が出せた精一杯の勇気を誇りに思い、目の前にいる救えた彼女を見れば、きょとんとした顔でこちらを見つめ返していた。
恐らくこういった修羅場とは無縁な学生生活を送ってきた彼女には状況が理解できていないのだろう。
『あの早く職員室に案内してくれませんか? 私もそう暇というわけではないんですよ』
状況に置き去りにされても初志貫徹を貫く鈍感な彼女が可笑しく、伊予は吹き出してしまった。
●
それ以後、伊予と彼女の交流は増えていく。
昼食や体育の時の二人組を作る苦労から逃れられて、伊予はほっとする
委員長も積極的に他者とのつながりを求める性格ではないし、伊予の趣味に対しても寛大であった。
というか、最初の印象の通り、寛大というよりは無関心という方がしっくり来るのだが、彼女のその性質が、二人の関係に良い結果をもたらしてくれた。
――友人である彼女は絶対に守る。
不良女に脅されているこの状況があの時にかぶり、その時より深くなった彼女との関係を考えると、伊予の決断は当然のものだった。
だが、欲を言えば、彼女が誰か助けを連れてきてくれることも期待していた。
だからこれは全くの予想外。
「ああ、大和田さん。何を楽しそうに『猿』とお喋りしているんですか? 私も入れてください。――でも、この猿、あまり賢そうな顔付きではありませんね」
伊予の意図をまるで無視して、近寄ってきた彼女が、どぎつい冗句をかましてくれるなんて。
青筋を立て、顔面をひきつらせる不良女と、別の意味で引きつった伊予、そして楽しそうにこちらを伺ってくる鈍感な笑顔の友人。
伊予が指摘してもクラスでは愛嬌の一つすら見せない彼女が、不自然なほどに愛想を振りまいてくれていた。
この状況からどうやったら逃げられるのか、この混沌とした難題に伊予の明晰と言えない頭では両手を上げるしかなかった。