――僕はここに居る
なんとなくその言葉を思い出した。合宿で彼がそう言っていた。
普段の気だるそうな感じがまるでなく、その時だけは強く逞しく見えた。
「私はここに居るのでしょうか?」
「にゃ~」
「ティオ……」
鼻をこする様にアインハルトの頬に寄せる。そんな愛機をアインハルトは優しく撫でるが、表情は晴れない。
コロナに敗北してから、前にもまして悩むようになっていた。ヴィヴィオたちと出会って、自分が成長したように感じていたが、幼い少女に負けてしまった現実が、その実感をあいまいにさせる。
成長はしていないのではないか、弱くなったのではないか、悩めば悩むほど、頭がこんがらがる。
よく分からない。本当に自分がよく分からない。働かない頭を振りながら、アインハルトは学院に向かった。
学院に続く道がいつもよりも暗く見えているのは自分の気持ちを反映しているからかもしれない。
しっかりしなくてはと気合をいれようとするも、どこか気が入らず無気力に足だけが前に進む。
このままサボってしまおうかと良くない思考に至った時、伝統あるSt学院の制服をだらしなく、そしてきつそうに着ている少年の後ろ姿が見えた。
学院に行くのが少し億劫になっている自分よりもはるかに重たい足取りの彼に追いつくのは決して難しいことではなかった。
友人であると言えるほどの関係は築けてはいないが、よく話す相手ではある。一応の礼儀としてアインハルトはレイジーに話しかけた。
「おはようございます、ディリジェントさん」
「んー? おは」
最後まで言わないのはレイジーが怠け者だからである。友達同士の軽いやり取りではない。
「にゃー」
「ふむ」
アインハルトの鞄から愛機であるアスティオンが可愛らしく鳴き声を上げた。デバイスであるのだが、外装が子猫のようなものでできており、温もりも持っているため、本当に生きているように見える。
鞄の隙間から一生懸命に頭を振って出ようとする姿は非常に和むものである。
「にゃーん」
可愛く声を上げるとアスティオンがレイジーの突き出たお腹に飛びついた。小さな前足をちょこちょこ動かしてレイジーと言う肉壁を登っていく。
アインハルトは止めようとしたのだが、アスティオンが楽しそうにしていたことと、レイジーが特に気にした様子を見せなかったために、そのまま成り行きを見守っていた。
「にゃー」
「ふむふむ」
レイジーの肩までたどり着いたアスティオンは小さく話しかけた。
「にゃーん、にゃん」
「なるほど」
「にゃー」
「へぇー」
まるでアスティオンの言っていることが分かっているかのようにレイジーは相槌をしばしば打っていた。
「あのーディリジェントさん? 失礼ですが、ティオの言っていることが分かっているんですか?」
「もちろん。僕はこう見えても猫好きでね。意思疎通くらい簡単さ」
「ティオは一応豹なんですけど……」
「猫科だから問題ない」
レイジーは肩の上で鎮座していたティオを自分の正面に見えるように抱きかかえる。
つぶらな瞳と目が合って、レイジーはすべてを理解し口を開いた。
「肉が食べたい。魚よりも牛。ドラゴンがあると最高に嬉しい。コーラを飲みながらブレイクダンスをしちゃうよ……みたいな感じ?」
「にゃー!」
「え、惜しいって? やっぱり牛より魚派? ちょっと僕とは仲良くなれそうにないな、残念だ」
「ティオは自己紹介していただけです。自分の名前はアスティオンで、よろしくと言っていたんです」
「にゃーとにゃーんでそんな複雑なことを……。やはり猫検定8級の僕には、まだ意思疎通は早かったか」
「そんな検定はありません」
アインハルトは呆れた。コミュニケーションを成立させているかと思っていたが、全くそんなことはなく、レイジーの独りよがりであった。
こんなボケボケのポッチャリが試合では圧倒的な力を見せるのだから、世界は摩訶不思議である。
「ディリジェントさん」
レイジーからアスティオンを受け取りながら、アインハルトが話しかけた。
いつもの無表情な彼女ではなく、視線が少しを下を向き、悩んでいるのが分かるようだった。
気の遣える男であるなら、ここで相談にでも乗るのであるがレイジーにそんなイケてる男子要素は存在しないので、ものすごく面倒そうな顔で返事をした。
「何?」
「ディリジェントさんは、試合で負けた経験はありますか? 前回のような不戦敗や棄権と言ったものを除いて」
「鍛え始めた頃はシャッハちゃんにボコボコにされたけど、最近はないかな。勝とうと思った試合には全部勝ってるよ」
全く誇ることなく、それが当たり前であるかのように淡々とレイジーは告げた。
「私は負けてしまいました」
「聞いた。コロナにでしょ?」
こくりとアインハルトが頷いた。
「まあ、しょーがないんじゃない? ストラトスはあんまり強くないし、対策を立てれば今のコロナでも勝機はあるよ」
その対策らしきものを自分が教えたとは言わない。言うと面倒になるからだ。
「私は弱いですか……」
「少なくとも僕よりは。今のストラトスなら何回やったって負ける気がしないもん」
思いやりという言葉を母親のお腹の中に置いてきてしまったようだ。悩み落ち込んでいる美少女をさらに追い詰めた。
「弱い……」
しょぼーんと肩を落とすアインハルト。アスティオンが苛めるなとレイジーに向かって声を上げたが、「にゃ!」としか認識されず、お腹が空いたのかと勘違いされる始末である。
それから二人で無言のまま歩いていたが、学院の門が見える頃になって、アインハルトがぽつりと呟く。
「私の覇王流は弱いですか?」
「うん」
「覇王流が弱いと思いますか?」
「うーん、それはちょっと不明。実物を見たことがないから」
「ディリジェントさ――」
「模擬戦ならやらないよ」
「まだ何も言っていませんが」
「こうビビっと来た。僕の面倒センサーは高性能だから」
「では本日の学食、日替わりランチセットを対価にどうでしょうか?」
日替わりランチセット。そして今日は木曜日。木曜日に出てくるのは……肉! 丼ぶり物で、ご飯の上にこれでもかというくらいに肉を乗せる。ご飯と肉の比率は驚愕の2:8。肉好きにはたまらない逸品で、育ち盛りの生徒が好んで食べるものだ。
他のランチメニューよりも高額なため、レイジーも財布に余裕がある時にしか食べない。
「僕を食べ物で簡単に釣れると思っているな?」
全く失敬だとレイジーが肩をすくめる。
「はい」
「ごちになります」
ただプライドや見栄ではお腹はふくれないので、ものの見事に頭を下げるレイジーだった。
アインハルトはレイジー検定を5級くらい獲得しているかもしれない。
†
昼に肉料理を堪能したレイジーは上機嫌だった。そして気持ちの良いまま帰ろうとしたのだが、さすがに奢ってもらってさようならなど外道のそれなので、アインハルトの練習に付き合うことにした。アインハルトと昼食をともにしたことで、ヴィヴィオたちにも知られてしまい合同練習をすることになっている。ただレイジーはアインハルトの相手以外するつもりはないとはっきりと告げている。
だが、校門を出た時に意外な人物に出くわした。
「久しぶりね」
「お久しぶりです」
レイジーは手を取って挨拶をする。それはもう崇拝するように。
隣にいる雇い主には目もくれない。レイジーの円らな瞳に映るのは最高の料理人。実際の仕事は違うのだが、レイジーには大した問題ではなかった。
凛とした佇まいに、滲み出る気風。さわやか笑顔と端正な顔立ち。完璧だ、そう心の底から思えてしまうその人物にレイジーは少しばかり興奮していた。
「私に挨拶をなさい」
さすがにないがしろにされるのは嫌だったのか、お嬢様が話しかける。
「レイジー様、お嬢様がお怒りですので、私ではなくお嬢様に」
「……お久」
「貴方は相変わらずですね」
急に表れた来訪者は、ヴィクトーリアだった。レイジーはヴィクトーリアよりも執事であるエドガーを最優先していた。
彼の中ではお嬢様はエドガーのおまけ程度の認識でしかない。大切なのは――料理が作れる――エドガーなのだ。どちらを大切にするかなど考える価値もない。
「れ、レイジーさん! この方はもしかして」
ヴィヴィオたちが一斉に反応した。今年は参加しているとはいえ、去年までは見る側だったのだ。インターミドルで成績上位者として毎年上がってくるヴィクトーリアをヴィヴィオたちが知らないわけがない。
有名選手に出会ったファンのように彼女たちは目をキラキラさせている。レイジーに彼女を紹介してくれと目で訴えていた。
彼女たちの視線を理解したレイジーはエドガーの前に立つ。やはり年頃の女の子。イケメンに飛びついてしまうのだなと納得していた。
「うん、彼がたこ焼き作りでおそらくミッド一の執事、エドガーさん」
ヴィヴィオたちはぺこりと頭を下げるが、そうじゃないと視線で訴える。言葉に出さないのは、エドガーに対して失礼であるからだ。ただエドガーも彼女たちの言わんとしていることは分かっている。レイジーにさわやかな笑みを向けて、主であるヴィクトーリアの方を見るように促した。
「そこは私を紹介なさい」
呆れるヴィクトーリア。
「えーっと、エドガーさんの雇い主のお嬢様。名前は確か、ヴィ、ヴィ……ヴィーさん」
ヴィヴィオと言いかけたが、それは別人だと思いとどまる。本人が目の前にいるのだから必ず騒がれてしまう。ちゃんと気遣いができるんだと心の中で胸を張ったが、人の名前を覚えていない人間に気遣う心などあるわけがなかった。失礼ここに極まれり。
「ヴィクトーリア・ダールグリュンよ。貴方はこの学院で失礼って言葉を学んでいるのかしら?」
「教育プログラムが悪いと思うんだ」
「悪いのは貴方よ」
学院生たちは深く、深く頷いた。自分たちの学び舎は正しいのだ。間違っているのはお前だと視線で訴えている。
ただその中で一人だけそんなことはどうでもいいのか、目を輝かせる少女が居た。リオだ。
「先輩、せんぱーい!」
リオがはいはいと飛び跳ねるように質問をする。
「先輩とヴィクトーリア選手はお知り合いなんですか」
「うん」
「もしかして対戦したことがあるとか」
「ありますわね。恥ずかしながら私の惨敗でしたけど」
おお~と子供たちから声が上がった。インターミドルの強者として知っているヴィクトーリアをレイジーが倒した。その事は彼女たちにレイジーの強さを再認識させたようだ。
「それで何の用ですか?」
もう帰っていいですかと言わんばかりにレイジーが尋ねる。
「本当に変わらないわね。まあいいわ。今日ここにやって来たのは貴方と」
ヴィクトリーアは視線をレイジーの後ろに向けた。ヴィヴィオとアインハルトと目が合った。
「彼女たちをお誘いにあがったの。会って欲しい子がいるのよ」
「お断りです。今日は先約があります。すでに対価も貰ってしまっているので、契約不履行で犯罪者になるのはごめんです」
「そこまで大げさなものではないんですが、ディリジェントさん、私との約束であれば日を改めてもらってかまいませんが」
「嫌。なんで僕の予定を急に変えなきゃいけないの? 事前連絡もなく急に来て、付いて来いなんて常識のある人ならまずしない。お嬢様はお嬢様だから常識がないんだ」
「……貴方に正論を説かれるとかなり心が痛みますわね」
ヴィクトリーアの瞳は心なしか潤んでいるように見えた。胸を押さえ苦しそうにもしている。
自分が間違っていることも分かっているため、反論もできない。
模擬戦でレイジーと戦って敗れた時以上のダメージをヴィクトーリアは負うことになった。技名はレイジーの正論。
「その約束というのは、デートの類なのかしら?」
自分の心の平穏を取り戻すために、ヴィクトーリアは大人な会話に持って行こうとした。自分も決してその手の経験が豊富なわけではないが、家が貴族であるということから社交の場には何度も言っている。男性に誘われることも多くあったため、そちら側の話に持っていけば少しは経験の差を見せれると思った。
ただヴィクトーリアの予想は大きく外れる。
「ううん」
「そうですね。ただ練習に付き合ってもらうだけです」
全く動揺することなく二人はそう返した。むしろ聞いていたヴィヴィオたちの方が顔を赤くしている。
レイジーとアインハルトで男女の関係が構築されたことなど一度もない。
アインハルトやヴィヴィオたちはレイジーを一人の格闘家として尊敬しているが、人としての評価は決して高くはない。この人はダメだなと何度も思ったことがある。
レイジーの方も、綺麗だなとか可愛いなと思うことはあっても、それは美意識的な話で、別段恋愛感情などない。芸術作品に恋をしないのと同じだ。
期待していた反応と違ったため、ヴィクトーリアは少し困った。少しばかりからかって自分のペースに持っていきたかったのだが、からかうどころかツッコミの要素も起こらない。
困った、非常に困ったと考えていると、はっとアインハルトの言葉を思い出した。
さすが貴族ねと自分を褒めたたえることも忘れない。
「練習というのはどこでやるのかしら?」
「区民センターを予定していますが、別段どこというのはありません」
「そう……それなら私の屋敷に来ないかしら? それなら私の用件も済ませられるし、貴方たちの練習もできる。お互いに損はないと思うの」
「お嬢様の屋敷は広いから嫉妬心で5キロくらい痩せそう」
「貴方はその方が良いんじゃないかしら?」
レイジーの本来の姿を知っているヴィクトーリアであっても、今のレイジーの印象がかなり強いため、そう返答してしまう。無意識だったと思う。アインハルトもこくこくと頷いていた。
「もちろん、私も訓練相手になるのはやぶさかではありませんわ。こちらが迷惑をかけているわけですし」
インターミドル上位者との訓練。これはアインハルトにとっても願ってもないことだ。より強い相手と戦って自分を磨いていく。今の自分に必要なことだと思える。
「お嬢様は防御が固いから、今のストラトスじゃ手も足も出ないよ」
「それでもです。今は強くなりたいですから」
その言葉には明確な意思があった。ただヴィヴィオにはそれが少しだけ悲しく聞こえた。
まるで自分たちとの練習では強くなれないと言われているかのようだった。
「コーラもお出ししますわ。エドガー特製の」
「行かせていただきます、ぜひ」
コーラに特製も何もあったわけではないが、エドガーが用意するという点がレイジーを無性に引き付けた。
「あのー私たちも付いて行っていいですか?」
「ええ、構いませんわ」
リオとコロナが尋ねて、ヴィクトーリアが了承する。
いったい誰に会うのか、皆が気になってこそこそと話し出した。レイジーは全く気にすることなく、ヴィクトーリアが乗ってきた車の中でくつろいでいる。
そうして一同は、ヴィクトーリアの屋敷を目指すことになった。