山の夜は深い。日が落ちた後の暗闇もさることながら、山特有の静寂さはえも知らぬ妖しさを醸し出している。
時刻は丑三つ時。大学のレポートを書き上げていた私は、突如響いた物音に眉を顰めた。相棒が扉を叩く音ならわかる。だが、物音は目の前の窓から発せられていた。
ここがシロガネ山なら、相手は山男かイエティか。
私はもう一度聞こえたノック音に、聞き間違いではないと確信した。それならばすることは一つ。
「どちらさまですか?」
「わたしー」
「うちには『わたし』なんて子はいません」
「え、ちょ、シンクーっ!?」
慌てる声を聞きながら、私は窓の外を思い浮かべてみる。きっと右往左往に焦っているだろう姿が、その内泣き出すのは想像に容易かった。
私はずっと座り続けていた重い腰を上げて、閉めていたカーテンを開く。そこには涙目で窓ガラスに張り付く、小さな愛しい孫娘がいた。うずいた悪戯心がまだ開けるなと言うので、暫くそのままにしていたら必死に「あけてー!」やら「い~れ~て~……」と窓ガラスを叩くので、またもや大爆笑。
ひとしきり笑い終わった私は、拗ねる孫娘を優しく抱き上げて部屋の中へと迎え入れた。タオルに優しく包んで膝上に乗せると、伝わる体温の低さが長時間外にいたことを物語っている。暖めるように頭を撫でれば、甘えるように擦り寄ってきた。こんなになるまで外にいなくても、と私は内心ため息を吐く。
「今回の家出は随分長かったね」
含んだように言えば、孫娘は視線を逸らした。
詳細は知らないが、彼女が相棒と喧嘩したことは知っている。なぜなら、夕飯の時にこの子の姿が見えなかったから。
とりあえず、私は用意しておいたおにぎりをこの子に食べさせて、その間にメールを打つ。宛先は勿論、喧嘩した手前出るに出れず部屋の前でやきもきしている相棒にだ。娘に対して人一倍過敏な彼がこの子の帰ってきた音を聞き逃すはずもない。案の定「迷惑かけてごめん。ありがとう」という返信と同時に、微かに扉の閉まる音がした。
お疲れパパさん、おやすみ。視線だけ隣の部屋に向けて、私は胸中で呟いた。
「それで、喧嘩の理由は?」
「……べつに」
「言いたくない?」
「そういうわけじゃないけど……」
言いよどむ孫娘に、私はゆっくりと次の言葉を待った。
「今回の」という言葉を使った通り、最近うちの子たちは頻繁に喧嘩を繰り返している。彼女もだいぶ大きくなってきたことから言えば、単に反抗期なだけかもしれないが、私にはそうは見えなかった。
今だってそうだ。何かを耐えるかのように力を入れて、僅かに体を震わせる姿に胸が痛む。
口を噤むばかりではどうしようもない。少し、おせっかいをしてみるか。
「ジャンボがすごい落ち込んでたよ」
その言葉を聞くや否や、決壊したように泣き出す孫娘。私にしがみついて本来の鳴き声でむせび泣く背中を、トントンと一定のリズムで叩いていく。今まで随分と溜め込んでいたのだろう。全て吐き出し終える頃には声も僅かに枯れて、目は真っ赤に腫れていた。
落ち着いた頃を見計らって水を差し出すと、鼻をすすりながらも受け取ってくれる。ゆっくりと飲み干せば、先ほどよりも余程すっきりとした顔をしていた。まずは一安心かな。
「わたしね……パパにひどいこといっちゃった」
「どんな?」
「だいきらいって」
「年頃の娘はどこもそんなもんさ」
「ううん、ちがうの……」
頭を振って否定する孫娘の顔は、またもくしゃくしゃになって静かに涙を零していた。
「パパのことがうらやましいって……わたしのほしいもの、ぜんぶもってるから……わたしのつらいきもちなんてわからないくせにって、またおこっちゃったの」
彼女が涙を拭うその手を見て言う。否、正確には手ではなく
「こんな身体じゃなくて、わたしにもパパみたいな手と地面を走れる足が欲しかったっ!!」
嗚咽を堪えながら本音を語ってくれた孫娘に、私は何も言えなかった。
当たり前だ。私が人間である以上、彼女の悩みには答えられるはずもない。すがりつく腕の中の小さな身体を、私はぎゅっと抱きしめることしかできなかった。
彼女は2年前、イッシュ地方を旅していた時にジャンボが偶然見つけた卵から孵ったポケモンだ。特徴的な頭頂部、なによりも流暢な言葉を喋る珍しいおんぷポケモン、《ペラップ》。それが彼女の種族名だ。
この子が抱えている精神的な悩み、自己否定、それらを簡単に纏めてしまえば思春期という言葉で括られるだろう。まだ2歳だと思っていたが、どうやら彼女は相棒以上に成長が早かったらしい。
あんなに小さかった子が、もう大人になろうとしているのか。道理で私も年寄りくささに磨きがかかったはずだ。身体年齢はまだピチピチの10代なんだけどなあ。……いかん、死語を使っている時点で老人確定か。
「よーし、このシンクさんがとっておきを話してあげよう」
「なぁに?」
「とあるピカチュウのお話だよ」
首を傾げる孫娘に、パチンとウインクを一つ向けて。私は昔話を語るような口調で話し出した。
「そのピカチュウは人間に育てられ、自分も人間と同じように振舞って生活していました。一部の人間からは気味悪がれ同属からは嫌悪される、とても苦しい生き方を選んだのです」
娘の驚いた顔が私を見上げる。まさにあんぐりと口をあけて呆けている姿に、私は苦笑しつつも続けた。
「ある日、彼は一つの卵を見つけて育てることにしました。生まれてきたのはとても可愛いペラップの女の子。愛情を注いですくすくと育った娘を見る度、彼は嬉しさや誇らしさ、そしてある一つの複雑な感情を抱くようになりました」
そこで私は一旦止め、意地悪にも問いかけた。
「何だと思う?」
「………………わかんない」
「ヒントは家出の原因」
「え……、もしかして」
聡い彼女はあっという間に勘付いたようだ。私はそれに首を縦に振ることで肯定する。
ジャンボは自分と同じ生き方を娘に強制したつもりはつもりはまったく無かった。むしろ、最初は鳥ポケモン用の育児書を必死に読み込んでたくらいだったし。
だけどこの子は優秀な子だった。そして愛情教育の結果、見事なパパ大好きっ子に成長。それは自然とジャンボを見て真似るように、人間の言葉や仕草を覚えていく訳で。
「うそだ!! パパはわたしなんかよりずっと、なんでもできるんだよ!?
つよいし、ごはんだって作れるし、ポケギアもつかえる……!!」
「そうだね。それても唯一できないことが、あいつにあるのはわかるよな?」
「でもっ……、
俯く彼女は尚も信じられないとぼやく。が、私の心境は間逆であった。
初めてこの子が拙いながらも言葉を発せられるようになった時の、ジャンボが浮かべたあの顔を私は決して忘れない。
その日の夜、何年ぶりになるだろうか、相棒は私の腕の中でひたすら涙を流していた。
どれだけ求めても欲しても、決して手に入れられないもの。例え種族的な違いといえど、同じポケモン同士。自分の望んだそれを易々と手に入れた娘を見て、どうして羨まずにいられようか。
ただの醜い嫉妬なんだ。父親にあるまじきこと。僕はあの子のパパ失格だ。
そう己を責めながら苦しげに吐露するジャンボを、私は目頭を押さえながらひたすら抱きしめた。
きっと今この子にそれを伝えても、この複雑な感情を理解し受け入れることはできないだろう。
価値観の相違というものは、いくら頭がよくても子供には伝わりにくい問題だ。
ではどうするか。
無理やり理解しろと押し付けるつもりはない。それでも、分かってほしいと思う。だって家族だから。
私はお節介と知りながら、一つだけ孫娘に告げた。
「誰にだって出来ることと出来ないことがある。それでも努力して理想に近づけたり、長所を生かして欠点を補ったりすることは誰にだってできるんだよ。
ジャンボがなんでも出来るように見えるのは、すごく頑張ったからなんだ。お前も頑張ればきっとあいつみたいになれる」
泣いてばかりだった彼女の眼が、少しだけ明るくなった気がした。
それでも迷っているのが表情から見て取れる。少しの間を置いて、彼女は恐る恐る私に問いかけた。
「…………ほんとに、わたしもパパみたいになれる?」
「勿論。なんてったって、お前はジャンボの自慢の娘なんだから」
「うんっ! わたし、がんばる!!」
ようやく笑顔を見せてくれた孫娘をもう一度強く抱きしめれば、苦しいと言いながらも嬉しそうな反応を見せてくれる。
「明日になったらちゃんと仲直りするんだぞ」
「わかってますー!」
「よし、今日はもう遅いから寝るか」
「一緒に寝ていい?」
「布団暖めて待ってるから、口濯いでおいで」
「はーい!」
返事と同時にパタパタと飛び出して部屋を出て行った孫娘。戻ってくる前に机の上を片付けて着替えをしていれば、肩の上に覚えのある重みが乗りかかった。
おや、ずいぶん早いお帰りで。嘴を撫でてれば擦り寄ってくる可愛い仕草に、私も十分孫バカだと改めて自覚した。
自然と近づいた耳元で、彼女が囁くように言う。
「シンクがとっておきをはなしてくれたから、わたしもひみつをおしえてあげる。
あのね、わたしおおきくなったら――」
その言葉に、また相棒が泣く羽目になりそうだと、私は未来の相棒に合掌してしまった。
悩めるお父さんの苦労は、どうやらまだまだ続くらしい。頑張れ相棒。
と、いう訳で娘の正体は「ペラップ」でした!
そして娘ちゃんの名前募集中です。名前考えるの凄く苦手で……ピッタリなのってありませんかね?