着物、というものがある。
ジパングに古くから伝わる伝統衣装であり、この衣服には一つの特徴があった。
とにかく、着る者を選ぶのだ。
着こなすには色々とあるが、似合わない人には絶対に似合わない。
ましてや、プロポーションに恵まれ、華美な雰囲気を醸し出す西洋人には似合わないという先入観が、自分達とは対照的であるがゆえに、ジパングの人間には存在していた。
「……美味しい」
綻ぶ唇は、綺麗な桜色。
波打つ金髪を結い上げ、覗くうなじが色気を醸し出す。
本人の醸し出す優美さ、体の線から窺わせる艶美さと合わせた、体現された究極の和洋折衷。
うっとりと細まる碧眼が、僅かな熱を帯びて正面へと投げ掛けられた。
「お口にあうでしょうか、ハートネット」
返答の言葉はない。
代わりにガツガツと音を立て、並べられた料理が次々に消えていく。
料理の質、座敷から覗く景観、部屋を彩る小物、従業員の応対、どれをとっても最高級の料亭。
それを、まるでそこいらの定食屋で食事をとるような雑な食べ方は、とてもではないが店の格式に見合うような客ではないことは確かだった。
「……どうやら、聞くまでもなかったようですね」
しかし、セフィリア=アークスは咎めない。
そして、トレイン=ハートネットもまた、気にする様子はない。
≪
本来は上司と部下の関係だが、休暇中にまで上下関係を持ち込むつもりもない。
トレインが≪クロノス≫に属して、今日で一年。
当の本人に自覚はなく、こうして食事に誘われて初めて気づいた程度の、どうでもいい記念日。
しかし、共に食事をするセフィリアにとってもどうでもいいかと問われれば、そうでもない。
ちょうど今から一年前。
それがトレインと初めて会った日であり、同時に敗北した日でもあった。
外部からスカウトされ、力量を図ろうと設けられた一対一の戦いの場。
僅差だったが、接戦の末セフィリアは敗れ、それからトレインを意識するようになった。
「アークス先輩」
自分としては距離を縮めたと思っていたが、それは思い違いだったのか。
他の≪
特に仲の良いジェノスを筆頭に、他の団員には名前で呼ぶのに、自分だけ苗字呼び。
何時ものように断られるのを覚悟で食事に誘ってみた結果、奇跡的に了承を貰ったというのに。
距離の遠さを滲ませる硬い声音に眉根を下げ、箸を置き揃える。
「今日はありがとうございます。昼メシ、ご馳走してもらって」
「いえ、構いませんよ。私の方こそ、無理に付き合わせてしまって……もしかして、迷惑だったでしょうか?」
「……いや、別に」
一瞬の逡巡。
言外の意味を感じ、気落ちし俯きかけたセフィリアの耳に、それは聞こえてきた。
「……先輩、着物とか着たりするんすね」
「え、ええ……」
会話の意図が掴めず、言葉に詰まってしまって。
「似合ってますよ」
そして、言葉の意味を理解した途端、火が点いたように顔が熱くなる。
そっと上目に盗み見たが、トレインは食事をする手を止めない。
箸と器が重なり合う音だけが、会話の途絶えた空間に僅かな彩を添えていた。
だが、その僅かな物音さえ、今は気になって仕方がない。
なにか、なにか喋らなければ、なにか会話の糸口になるものはないか。
出口の見えない思考の迷宮から抜け出そうと必死になったセフィリアは、咄嗟に口にしていた。
「せ、セフィリアとっ」
抜け出しと思ったら、再び迷い込んでしまう思考の迷宮。
焦燥と羞恥で一層熱くなった顔を隠す様に俯き、膝の上に乗せた両拳を握りしめる。
「そ、そのっ、何時までもアークスでは他人行儀ですし、ハートネットと出会って今日で一年が経ちますし、他のナンバーズのことは、なっ、名前で呼んでいますし……ですから……あのっ」
一気に捲し立て、何をやっているんだと後悔する。
これでは、≪
落ち着けと必死に言い聞かせ、気持ちを切り替えようと湯呑を手に取り、
「セフィリア先輩」
「っ!?」
予想外の熱さと不意打ちに、湯呑は中身を残したままトレインの方へ。
綺麗な山なりの放物線を描き、飲み口を逆さにして、やがてトレインの頭部へ不時着。
逆立った髪は濡れて垂れ落ち、突然の事態に箸と茶碗を持った状態で固まってしまう。
「す、すみませ――きゃっ」
急ぎ立ち上がるが、着慣れない着物の裾に足を取られ、前のめりに。
持ち前の運動神経は、パニックになろうが反射的に働き、姿勢を正そうとして。
それよりも早く割り込む黒い影が、倒れ込もうとするセフィリアの体を支えた。
何事かと目を白黒させ、仰ぎ見た先にあったのは、見慣れた金の瞳。
「……大丈夫っすか?」
垂れ落ちたお茶の雫が、セフィリアの頬を濡らす。
気まずい沈黙。
荒事ならば、幼少期から培ってきた経験でどうとでもなった。
だが、色事に関する経験など、セフィリアにある筈もなく。
湧き上がる途方もない羞恥に口元と横一文字に引き結び、キッと眦を吊り上げる。
何故か固まるトレイン。
思考はとうの昔に沸騰状態、呂律など回る筈もなく、謝罪の言葉すら出ない。
一向に打開策の浮かばない窮地に、涙すら滲み出しそうになった時だった。
「なにを、しているんだい?」
濃密な殺意が、部屋を充満する。
咄嗟に伸びた手は空を切り、忘れたように愛剣を帯刀していないことに気付く。
「……クリード」
トレインの言葉に、突然の乱入者の正体を知った。
華美な装い、煌めく銀の髪、野心に染まった双眸は憤怒に燃えている。
トレインと同時期に≪クロノス≫に入り、最強と謳われる≪
その実力は自分達≪
「何をしているんだと聞いているんだ女狐。早く僕のトレインから離れろよ」
今にも切られかねない、腰から下げられた愛刀≪虎徹≫の鯉口。
礼節を重んじるが故に、クリードの言動はセフィリアの目に余った。
「なんの真似ですか――」
「酷いじゃないかトレイン。僕からの誘いを断っておいて、こんな女狐と食事をともにするなんて。言ってくれればこんな店よりずっといい場所を用意するのに。さぁ、今からでも遅くはない。君のために用意していた最高の料理があるんだ。そこで僕達の輝かしい未来について語り合おうじゃないか。おや、でも今の今まで食事をしていたんだったね。こんな程度の低い粗末な品を口にしてしまうなんて、なおのこと口直しをしなければ。それとも、もう満腹になってしまったかな。ははっ、健啖家な君のためにと用意したフルコースだったんだが、無駄になってしまったね。なに、気にすることはないんだよトレイン。僕が勝手にしたことだ、君が気に病む必要はないんだ。なら、食後のティータイムとしよう。僕がワインで、君がミルク。トレインはパックよりも瓶のミルクが好みなんだよね。君の好みを全て網羅した僕に抜かりはないよ。僕自ら厳選に厳選を重ねた至高の瓶牛乳を君に味わって欲しいんだ。きっと君の舌を満足させることが出来ると思うよ。そして語り合おう、打ち明け合おうじゃないか。僕は知りたいんだ、君の全てを。代わりに打ち明けようじゃないか、僕の全てを。君になら僕の秘密を打ち明けていい。いや、違うな。知って欲しいんだよトレイン。僕の全てを、君に知って欲しいんだ。だから教えてくれないか、トレインの全てを。互いを完璧に理解してこそ、真の相棒たり得ると僕は思うんだ。僕の背中を任せられるのは君だけ。そして、君の背中を任せられるのもまた僕だけだ。例え今は力不足だとしても、いつか必ず、絶対に並び立ってみせるよ。今日はそのための決意表明でもあったんだが、早くも言ってしまうなんてね、僕は自分でも思っていた以上にせっかちだったみたいだよ。さぁ、こんなところで何時までも話さず、僕と一緒に行こうトレイン。最高の食事、最高のミルク、そして最高のホテルで一夜を明かそう。きっと長い話になるだろうからね、念には念をと思ってホテルを予約しておいたんだ。ホテル全てを貸し切ったから、邪魔者はいないよ。ふふ、今夜は寝かせないよ。休暇は今日までだけど、大丈夫。寝坊しそうになっても僕が起こしてあげるよ。なんなら明日も休暇にしてしまうかな。ちょうど此処には女狐もいることだし、手間が省けて良かった。という訳だ、セフィリア=アークス。僕とトレインの休暇は延長すると≪クロノス≫の老害共に伝えろ。そして今すぐ此処から消え失せるんだ。いい加減目障りなんだよ」
敬愛――いや、狂愛か。
トレインへ向ける眼差しは常軌を逸し、道端に転がる塵芥のような眼差しをセフィリアに。
醜悪な笑みと怒りを同居させた、同時にセフィリアの警鐘が全力で告げている。
クリードは、≪
武器はなく、服装は戦闘には不向き、だからどうしたとトレインの前に屹立する。
「聞こえなかったのか、女狐。消えろと僕は言ったんだよ?」
「消えるのは貴方の方です、クリード。私とトレインとの会食に突然割り込んでおいて、その言い草はなんですか。恥を知りなさい」
「恥を知るのは君の方だろ。大方嫌がるトレインを上司権限でも使って無理矢理誘ったんだろう? でなければトレインが僕の誘いを断るわけないじゃないか」
「それは……」
続けようとする言葉が、最後まで紡がれることはなかった。
避けられている自覚はある。
今日の食事だって、駄目元で誘ってみたのだ。
柄にもなく粧し込み、心なしか浮かれていたのだって、トレインが誘いに乗ってくれたからで。
なんて独り善がりなと、自己嫌悪に苛まれる。
「クリード」
今まで静観していたトレインが口を開いたのは、そんな時だった。
立ち尽くすセフィリアに並び、遠ざかっていく背中に、掛けれる言葉はない。
暗雲たる黒い感情が、セフィリアの心を巣食っていき、
「消えるのはテメェだ。俺は今、先輩とメシ食ってんだよ」
その力強い言葉が、陽光のように自分の心を照らし出す。
「と、トレインっ、僕は――」
「お前の誘いを断ったのは、先輩との先約があったからだ。妙な勘繰りしてんじゃねぇぞ」
「……すまない」
彼の背中は、クリードという脅威からセフィリアを守護するように不動を貫く。
大きくて、逞しくて――手を伸ばせば届くのに、遠いと感じてしまう。
初めて会って、敗北を喫したあの日から、研鑽を詰まなかった日はない。
それでも、トレインとの距離を縮めた気はせず、彼との距離は遠ざかっていくような。
だから、せめて今だけは。
「……分かったよ、トレイン。君の言う通り、消えるのは僕の方だ」
顔に悲愴を刻み付け、退室する背中に背負っているのは絶望の二文字。
まるで雨の中、道端に捨てられた子犬のように、今のクリードは儚い存在だった。
「次会った時にお前の言っていた牛乳、飲ませてくれ」
先程までの絶望の全てが歓喜に変換されたようだった。
切れ長な双眸を限界まで見開かせ、まるで童心に帰ったような笑みをクリードは刻み直す。
「や、約束だよトレイン! 破ったら絶交だからね!」
来た時同様、クリードは嵐のように去っていく。
張り詰めていた緊張感は霧散し、室内は元の静けさ取り戻す。
「…………」
殺すことも視野に入れていた。
物心付く頃から≪クロノス≫にいたからこそ、染み付いた
だからこそ、眩しく感じてしまう。
死よりも生を持って諍いを静める、彼の生き方が。
死を持ってしか世界の安寧を保てない自分には出来ない、選択する強さを持つ彼の有り様が。
「……ありがとう、ございます」
伸ばした指先が、彼のトレードマークである青いジャケットに触れた。
きゅっと掴んだ布地を手繰り寄せ、額の刻まれた≪I≫の刻印に突き合わせる。
決して消えることのない、≪クロノス≫という宿命を象徴する呪印。
命を奪った罪と返り血に染まり切った手は、決して拭い去ることは出来ないけれど。
「メシ、冷めちゃいますよ。早いとこ食いましょうや」
トレインと一緒にいる時だけ、忘れることが出来る。
自分の宿命も、己が
何物にも縛られない、自由気ままな黒猫と過ごす、この瞬間だけは。
ただの女として、セフィリア=アークスとしていることが出来るから。
「……追加、頼みます?」
「うす。ゴチになります、セフィリア先輩」
思えば、この時には既に芽生えていた。
彼への恋心は、この瞬間も、静かに育まれていたのだ。
◆ ◇ ◆ ◇
「――はっ!?」
跳ね起きた直後、グサッと何かが枕に突き刺さる。
真っ暗な室内に、唯一の光源は窓から差し込む月明かりのみ。
全身を汗で濡らし、不快感から顔を顰め、至った原因を思い出し顔を青褪めさせた。
「よりにもよってヤンホモと女剣士の夢、だと……!!」
速攻で悪夢認定。ついでに封印指定も忘れない。
さっさと寝て忘れるに限るが、バクバクと高鳴る心臓が否応なしに意識を覚醒させる。
というか、夢にまで出るとかどんだけトラウマになってんだ俺と軽く絶望。
唯一の救いだったのが、夢の内容が≪クロノス≫を抜ける前だった時のものぐらいか。
あの頃もあの頃で忘れ去りたい記憶など腐るほどあるが、逃亡生活の暗黒時代に比べれば月とスッポンくらい違いはあると思う。
思えば、ヤンホモと女剣士をクリードとセフィリアだと認識出来なかったのは何故なのか。
当時はまだ自分が転生者だという自覚はあっても、憑依者の自覚はなかった。
更に言えば、ヤンホモと女剣士の性格の違いも大きい。
スカウトされた組織が≪クロノス≫と知らず、なんか同期の中でハブられてる奴がいるなと、そんな軽い同情交じりな気持ちで声を掛けたのが、確かヤンホモだったはず。
以来、妙に懐かれてしまい、気付いた時には病んでいたが、それに目を瞑れば良い奴だった。
同様に、おっかない先輩だと敬遠していたのが、かの女剣士だ。
出会い頭に切りかかってきたので死に物狂いで撃退、それが自分の上司だと知って絶望した。
上下関係の大切さを知るが故に、適当に理由を付けて誘いを断り続けていた後ろめたさに限界を感じ、いびられるのを覚悟で食事に誘われれば、意外と気のいい人だと一時は心を許しかけた。
しかし、名前呼びを強要されたので名前で呼べば熱い茶を浴びせられ、転びそうになったのを抱き留めれば気安く触んなと睨まれるという理不尽。
これが噂に聞く後輩いびりかと戦慄したのは今でも記憶に鮮明に刻まれている。
ヤンホモと女剣士、どちらも親交を深めていく中で、違和感が芽生え始め。
≪クロノス≫を抜け、追われるようになって初めて、奴等が原作に登場するクリードとセフィリアだと、自分が主人公であるトレイン=ハートネットだと自覚したんだ。
「おバカっ、昔の俺ってばホント馬鹿。なに二大トラウマと仲良くなってんだ、クソがっ」
思いつく限りの罵詈雑言を当時の自分に投げ掛け続け、ふと感じた違和感。
現在、トレインがいるのは涼子所有の洋館の一室。
年頃かつ男性ということで気を利かせてくれた涼子のおかげで、自分の部屋は完全個室。
≪
とはいえ、内に彼女の存在を感じるため、力を取り戻すために休眠状態に入ったのだろう。
故に、今この部屋には自分以外誰もいない筈。
首を傾げたトレインは、なんとはなしに横を向いてみた。
「…………」
ギラリと妖しく輝く刃。
肌触りの良かった羽毛枕に突き立てられた刃物は、気のせいか途中でおさげに。
ゆっくりと刃物から髪の毛へと視線を伝わせ、後頭部から伸びるおさげを通過し、暗闇の中でこちらを凝視する一対の大きな瞳へと辿り着く。
襲撃時に気を失って以降、眠り姫となっていたが、様子を見る限り元気そうだ。
「……夜這い?」
「ネメちゃんを返せ!」
ネメシスの仲間――メアの激情は烈火の如し。
再び始める闘争に、長くなるだろう夜に、トレインは嘆息を零すのだった。
Q.どうして主人公はセフィリアを避けてたの?
A.主人公の力量を図る模擬戦で、負けそうになったセフィリアが≪滅界≫を使ったから。
結論:やはり≪滅界≫が悪い。