比企谷八幡 「・・・もう一度会いたかった」   作:TOAST

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転職や勤務地変更に伴う引っ越しなど、プライベートな事情が重なって、前回投稿からかなりの時間が経過してしまいました。頭の中にあった設定や、修正しなければ辻褄が合わなくなるような点がいくつかあったのですが、それを忘れてしまう等、酷い有様です。申し訳ございません。引き続き、時間を見つけてちょっとずつ書きたいなと思っています。

さて、世間はバレンタインですね。オッサン八幡もちょうど周回遅れで今回はバレンタインの話です。3人の女子との甘い恋のイベント……なんぞ私に書けるはずもなく、今回も自分の趣味全開でお届けしたいと思います。


35. 比企谷八幡はバレンタインに"あの日の真実"を知る

葉山からもたらされた貴重な情報を上司二人と共有した数日後。俺は都内の居酒屋にて、槇村さん・宮田さんと互いの進捗報告を兼ねた打ち合わせを行っていた。槇村さん行き付けのシャビーなこの居酒屋は、大学生と思われる若年層が客の太宗を占めており、社会人、特に俺達のようなオフィスワーカーは殆どいない。店内はガヤガヤと五月蝿く、人に話を聞かれる心配もなさそうだ。

 

「…アートファンドの件は何かわかりましたか?」

 

俺はウーロン茶を片手に、そう尋ねた。

 

「…ああ。この件、間違いなく市川が噛んでやがる…元々、ウェルスマネージメント部門でも、美術品で顧客向けの資産運用プログラムを立上げるのには相当揉めたらしい。なんせノウハウも人材もない分野での受託運用だからな。バブル期に美術品に手を出して手痛い思いをした人間も多い中、こんな投資プログラムをぶち上げて、失敗すりゃグループ全体のレピュテーションにも関わる…その反対意見を抑えて設立を推したのが野郎ってわけだ」

 

槇村さんはシシャモを咥えながら不機嫌層にそう答えた。俺が就職した時には既にグループのアジア部門は市川の一強独裁体制が布かれていたが、この時期にはまだ多少なりに派閥抗争が残っていた様だ。

 

「…富山との繋がりはどうですか?」

 

「奴がファンドの大口顧客なのは間違いない。だが、これも同期経由の噂話レベルの情報だ。証拠を抑えるのは…正直難しいだろうな。部門間のチャイニーズウォールは思ったよりも厄介だ」

 

槇村さんは俺の追加質問に、吐き捨てるように答える。システム部門に掛け合って、他部門のメールログを漁ることが可能な人間でもアクセスできないのだろうか。そんな疑問の表情を浮かべた俺を横目に、宮田さんが口を開いた。

 

「Need to knowの原則というやつだ…ウェルスマネージメント部門にとって、運用受託先の顧客情報は最重要機密にあたるということだろう。反市川派がシニアに多い部門となれば他部門に対する警戒は余計に厳重だ。それこそ公的機関の令状でもなきゃ、証拠を得るのは難しいだろうな」

 

「結局、その市川の持ち込んだクライアントの情報をご丁寧に覆い隠してんだから、世話ねぇって話だ…ったく」

 

二人の会話を耳にしながら、俺は静かに空になった料理の皿を見つめる。一歩進んだかと思えばまた停滞だ。中々真相にたどり着くことが出来ないフラストレーションを誤魔化すように、俺は飲みかけのウーロン茶を煽った。ビールのような爽快感もない、何とも物足りない味だった。

 

「あと一歩なんだがな…ウェルスマネージメント部門の人間をこちらに取り込めないのか?あそこの部長は市川をライバル視してるだろ?それに自分の庭でアートファンドの組成をゴリ押しされて、奴を快く思ってない人間も多いんじゃないか?」

「…そのつもりで内部調査を進めてるところだ。だが、組織内には市川の息がかかった人間も多いからな。トップが敵対してようが、あの部署にも市川派は紛れ込んでる…下手に動けば気取られる」

 

同じ組織とは言え、派閥抗争はかくも厄介なものなのか。学校でも会社でも、基本的に派閥というものに属した経験のない俺にとっては、理解し難い事象である。

 

「しかし、そうなるともう手が無いな…アートファンドの存在は投資銀行の関与を示す決定的な材料にはなるが、冨山への金の流れを掴むにはこれだけじゃ力不足だ」

 

「…仕方ない…一つ予定を繰り上げるか?」

 

数秒の沈黙の後、槇村さんがそう呟いた。

 

「予定の繰り上げ?」

 

「いや、繰上げというと語弊があるか…”予定になかった取引”とでも言うか…」

 

槇村さんは忌々しげな表情で自らの発言を訂正する。

 

「…村瀬か」

 

同僚の表情から何かを察した宮田さんは、とある人物の名を口にした。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

翌日の夕刻、俺は憂鬱な気分で奉仕部のドアに手をかけた。中からは結衣達が談笑する声が聞こえてくる。今日は俺の口から、皆にある種の譲歩を迫るような依頼をしなければならないのだ。皆はこの提案をどう受け止めるだろうか。そう考えるだけで気が滅入る思いだった。

 

「…皆いるか?今日は折り入って相談がある」

 

「相談?」

 

ドアを開けて語りかけた俺の言葉に沙希が反応した。

 

「ああ。例のアートファンドの件は、宮田さんや槇村さんが調査を進めてくれているが、正直、これ以上の情報収集が難しい所まで来てる…」

 

「…どうするの?」

 

結衣が心配そうな表情で尋ねる。

 

俺は、一呼吸おいて、昨日、槇村さん宮田さんと達した結論を口にした。

 

「村瀬と取引がしたい」

 

「…村瀬って、あの投資銀行の?」

 

沙希が確認するようにそう聞き返す。

 

「ああ。元々、決定的な証拠を掴んでから、内部告発で当事者全員の検挙に繋げる予定だったが…そうも言っていられなくてな。だから…奴を裏取引でこちらに抱き込む」

 

「ちょっと待って…裏取引ってまさか…」

 

沙希は睨むような表情で俺を見た。

 

「…単刀直入に言う。情報を吐かせる代わりに、実行犯の一人である奴を見逃す約束をする」

 

「そ、そんなことして大丈夫なのかな?」

 

「そんなの…何のためにアンタが今まで必死になって情報を集めてきたのか分かんないじゃん。それに…雪ノ下だって…」

 

結衣と沙希は非難の視線を俺に向けた。無論、この一件の最大の被害者たる雪ノ下雪乃を慮ってのことだ。俺は、雪乃へ視線を移すと、彼女の反応を待った。

 

「……姉さんはそれで納得しているの?」

 

雪乃は何かを考え込んだ後に、俺にそう尋ねた。

 

「ああ。陽乃さんには今朝、電話で伝えた」

 

俺は事実を淡々と述べた。

「…そう。なら仕方ないわね」

 

「「え?」」

 

ふぅと、小さめの溜息を吐いた後に、雪乃はそう口にした。

結衣と沙希は信じられないといった表情を浮かべて雪乃を見た。

「…富山と市川を検挙しない限り、この事件は解決されない…当の村瀬という人物は2月には海外へ転籍するという話だったわね。現実的に考えて、それまでに証拠を集めることも難しい…腹立だしくとも、結論としてそれしか方法がないのであれば仕方ないわね」

 

「「「…」」」

 

雪乃を除く3人はその言葉を無言で聞く。彼女は俺が用意していた説得の材料を、先回りして一つ一つ口にしていった。

 

「ただ…その代り、その交渉には私も同行させてもらうわ。姉さんと一緒にね」

 

「…分かった。すまん」

 

最終的に彼女は、この提案に一つの条件を付すことで合意を示した。安堵と罪悪感と少しばかりの後悔が自分の心の底に渦巻く。これで用件は終了した。だが、3人への精神的なケアまでは事前に気が回らなかった。嫌な沈黙が部室を支配する。

 

 

――コンコン

 

その沈黙を打ち破るように、不意にドアをノックする音が室内に響いた。

 

「あの〜、すいませ~ん」

ドアをガラガラと開いて入ってきたのは、生徒会長、一色いろはだった。若干間の抜けたその声に、皆、心なしかホッとしたような表情を浮かべつつ彼女を迎え入れた。

 

「ちょっとお伺いしたいんですけどぉ、先輩って甘いもの好きだったりします?」

 

「…あん?なんだよ、急に?…甘いもの…まぁ嫌いじゃないけど…」

 

俺は助かったとばかりに、彼女の提供した話題に乗った。酒飲むようになってから、maxコーヒー以外の糖分摂取はあまりしなくなったような気もするが、基本的に甘いものは嫌いではない。

 

「それがどうかしたの?」

 

沙希はそう言って、奉仕部へ来た目的を話すよう促す。

 

「あ、いえ〜。もうすぐバレンタインじゃないですかぁ」

 

「もう…二月だしな」

 

先ほど雪乃が口にした通り、村瀬出国までのタイムリミットが迫っている。奉仕部員は皆俺と同じことを想像したのか、表情が険しくなった。

 

そんな俺たちの様子を見て、一色は怪訝な表情を浮かべる。

 

「…えっと、どうかしました?」

 

「ちょっといい?」 「ハロハロ〜」

 

一色がそう尋ねた際、開けっ放しになっていた部室のドアから新たな客人が二人入ってる。声の主はF組の三浦と海老名さんだ。

 

彼女たちの登場で、一色の質問は有耶無耶となった。

 

「あんさ、手作りチョコ作ってみたいんだけど。その…来年受験だし…1回くらいなら試しにやってみても良いかな、とか…」

 

三浦が視線を泳がせながら、遠慮がちにそんな相談を持ちかけてきた。

 

「…葉山君なら、チョコレートは受け取らないわよ?」

 

雪乃は三浦の先回りをするように、その一言で切って捨てた。

 

「は?」

 

「え、えっと…どうしてですか?」

 

その言葉に対し、三浦が若干キレ気味の反応を示すと、空気を読んだ一色がそう聞き返す。

 

「揉めるからに決まっているでしょう。毎年、バレンタインの日はクラスがギスギスしていたもの…」

 

「ちっ」

 

――ムカつく奴

 

舌打ちの後、心の中でそう毒づくと、沙希と結衣から氷のように冷たい視線を向けられた。

 

「あんた、死にたいの?」「ヒッキーがやっかむ理由があるのかな?」

 

「…いえ、ないです。すみません」

 

普段よりも数オクターブ低い二人の声が腹に響く。俺は思わず謝罪の体勢に入った。そんなやり取りを嬉しそうな目で見つめる女子が一名。

 

「ムッハー!キマシタワー!ヒキタニ君ってば、嫉妬しちゃった?…女子に!!」

 

「ねぇよ」

 

海老名さんの有り得ない想像に辟易しながら俺はそう答えた。

 

「あの~ちょっといいですか?」

 

遠慮がちに手を挙げて、発言しようとする一色に皆の視線が集まった。

 

それを確認した一色は、ややもったいぶるように2,3回咳込んだ後、ゆっくりと口を開く。どうやら脱線しかけた話の軌道修正を図ろうとしているようだ。

 

 

「そういうことなら、皆さんに耳寄りな情報があるんです!」

 

「「?」」

 

三浦と海老名さんは不思議そうな表情を浮かべて彼女の説明を待っている。一方の俺たちは、また面倒事を持込もうとしている後輩生徒会長の姿に若干の警戒心を示した。

 

「ふっふ~ん!今ちょうど、生徒会主催のバレンタインイベントを企画してるんです!」

 

「…イベント?」

 

雪乃が怪訝な表情を浮かべつつ、得意げな一色に尋ねた。

 

「はい!チョコの量産販…じゃなくて、合同お菓子作り教室とその試食会です!元々、企画を練るにあたって奉仕部の皆さんにヘルプ頼めないかな~なんて思ってたんですけど、それなら葉山先輩もそのイベントに巻き込んじゃえば、自然に受け取ってもらえるんじゃないですかね?ね!?」

 

「「「「…」」」」

 

やはり一色は奉仕部を労働力として駆出そうとしていたようだ。

 

しかし、呆れる。前回はチョコを受取らない葉山に、どうすれば受取ってもらえるかを思慮した結果、奉仕部側からイベント企画を発案した経緯があったことを思い出した。それが今回は、生徒会サイドから自主的に似たような企画を立ち上げようとしているのだ。合同…ということは、今回も海浜総合高校を巻き込む算段なのだろう。

 

――ってかこいつ、チョコの量産販売って言いかけたよな

 

確かに総武高校側の女子面子に斉…折本を加えて、彼女たちの手作りチョコと言って売り出せば、かなりいい商売になりそうな気はする。しかし、またイベントにかこつけた金儲けを企むとは。一色も間違いなく吉浜達に毒され始めている。現生徒会長の彼女を含め、生徒会にはなまじ能力の高い連中が集まっている分、これからもこういった厄介な企画が立案される可能性が高い。

 

「…どうする?」

 

沙希は部長たる雪乃と、談合事件を追う俺に対して、意見を伺った。

 

「そうね…奉仕部は…事情があって今はまだ参加の確約は出来ないし、準備段階から手伝うというのも難しいかもしれないわね」

 

「え!?そんな~!先輩~、何とかしてくださいよ!」

 

一色は抗議するような声を挙げ、俺に縋る様な視線を向けた。

 

「…では、当日時間があれば参加させてもらうというのはどうかしら?一色さんが欲しいのはチョコレート作りの労働力と、指導係といったところでしょう?」

 

「いいんですか!?」

 

一転して譲歩案を示した雪乃に対し、一色は飛びついた。やはり雪乃も一色の算段を見抜いているようだ。一色はそれを見抜かれたことを全く恥じる様子もなく、嬉しそうな表情を浮かべて雪乃に纏わりつく。

 

「ゆきのん…ヒッキーも、大丈夫なの?」

 

「…まぁ、いい息抜きになるんじゃないか?」

 

雪乃の意見を尊重するようにそう答えると、結衣も沙希も表情を緩めた。

 

「…ヒキタニ君と隼人君の友チョコにも期待してるよ…グフフ」

 

「だからねぇよ」

 

眼鏡を怪しく光らせながら笑う海老名さんに対し、俺はやはり辟易しながらそう答えた。

 

 

 

☆ ☆ ☆ 

 

 

2月初週の最初の土曜日。

 

俺は作業服のようなジャンパーを着込んで、とある住宅街のマンション前で待ち合わせをしていた。今日は村瀬を捕まえ、取引を持ちかけるつもりである。槇村さん、宮田さんは既に到着しており、心なしか緊張した表情を浮かべていた。

 

「ひゃっはろ~。今日は呼んでくれてありがと、比企谷君」「おはようございます。お待たせしてすみません」

 

集合時間5分前に、雪ノ下姉妹がやってきた。まず俺に軽めの言葉をかける陽乃さんと、槇村さん・宮田さんにも丁寧な挨拶をする姉妹の表情は非常に対照的だった。

 

「いえ、こちらこそ忙しい中すみません」

 

俺の言葉に陽乃さんはヒラヒラと手を振って無言で、”気にするな”と答える。

 

「なんだよ。姉ちゃんの方はやけに楽しそうだな?」

 

「そりゃ、私達相手にやりたい放題やってくれた人間を今問い詰めに行くんですからね~。ワクワクしないわけがないですよ」

 

そう答える陽乃さんの眼光は極めて鋭かった。やはりこの人を敵に回さなくて良かったと、素直に心強さを覚えた。

 

「…姉さん、はしゃぎ過ぎないで。目的は取引をすることなのよ。打ち合せ通り頼むわ」

 

雪乃はそんな姉に釘を刺すように言った。

 

「わかってるよ。雪乃ちゃんってば本当に心配性なんだから」

 

陽乃さんは雪乃の言葉を歯牙にもかけず、村瀬が住まうマンションのエントランスに入っていった。

 

「…比企谷、手筈通りたのむ」

 

「はい」

 

俺は手にしていたキャップを深々とかぶると、共有エントランスに設置されたパネルを操作して、前回の尾行で突き止めた奴の号室の呼び鈴を鳴らした。4人はそれぞれ、パネルについているカメラの死角に隠れる。

 

――ピンポーン

 

チャイムの機械音が流れると、操作パネルに「呼出中」の表示が点灯する。

 

駐車場には奴の車が停車してあり、早朝、奴の部屋からは若干の明かりが漏れているのを確認してある。奴は必ず部屋にいる筈だ。

 

『はい?』

 

パネルの表示が「通話中」に切り替わると、奴の声がエントランスに響いた。

 

「バイク便です。市川様よりお届けものです」

 

俺は短めにそう答えた。カメラ越しに自分の姿が見られるのを感じる。

 

『…』

 

村瀬は無言だ。

 

ほんの数秒だが、この沈黙が俺を怪しんでいるのではないかと思うと、緊張で掌が汗ばんだ。

 

――ガーッ

 

操作パネルの「通話中」表示が消えた瞬間、ガラス張りの自動ドアが鈍い音を立てながら開いた。

 

「…不用心な奴め」

 

槇村さんはパネルのカメラが切れたことを確認すると、エントランスから通用口へと足を進める。

 

「上司から郵便が届けば慌てて開けますよね~私の読み通り!」

 

「お喋りは後だ…乗り込むぞ」

 

陽乃さんの軽口を窘めながら、宮田さんも槇村さんに続く。俺たちはそのままレベーターに乗り込み、奴の一室あるフロアまで上がっていった。そして部屋の前で全員が立ち止る。

 

俺は再び帽子を深くかぶり、ドアのチャイムを鳴らした。

 

奴が室内の廊下を歩き、玄関へ向かってくる音が聞こえる。

 

数秒の後、ガチャリと音を立てながら、ドアが開かれた。

 

「…よう、久しぶりだな」

 

「槇村!?」

 

開口一番、不敵な笑みを浮かべて挨拶をした槇村の姿を見ると、村瀬は慌てて扉を閉めようとする。

 

――ガコッ

 

「させるかよ」

 

だがそれも、槇村さんがドアの間に伸ばした足に阻まれた。

 

「な、何なんだお前!?宮田まで!…それにそのガキ共は!?」

 

村瀬はドアの隙間から俺たちを伺うようにして、がなり立てた。

 

「どうも、雪ノ下で~す。両親が大変お世話になってます、村瀬さん?」

 

陽乃さんはおどけるような口調でそう自己紹介する。だが、その声色は氷のように冷たい。

 

「な、何なんだ!?警察呼ぶぞ!」

 

「いいのか?困るのはそっちだと思うが?」

 

「…ちっ…なんの用だ?」

 

宮田さんの冷静な言葉に観念したのか、村瀬はドアを解放した。その機を逃すまいと、陽乃さんは一歩中へと入った。

 

「私達姉妹がこの場に来てるんだから、話なんて一つしかないですよね?」

 

「知らん!」

 

仁王立ちでそう口にした陽乃さんに対し、村瀬は顔を紅潮させて怒鳴るように言い切った。

 

「…言わなきゃ分からないですか?…ウチの会社に随分と沢山企業買収の話を持って来てくれたみたいで、ありがとうございます…どれも割高で大損でしたけどね」

 

試すような視線を村瀬に向けながら、陽乃さんは話を切り出す。

 

「お、俺の知ったことか!仕事で案をまとめただけで、意思決定は雪ノ下の社長が…」

 

「ですよね~。買収提案も市川さんって人が指示していたと、ウチの両親も言っていますし…」

 

「それを知ってるなら俺に用はない筈だ!あれも業務上の命令だ。今となっちゃ俺個人には関係ない!」

 

「でも、業務で関わったのなら、これが何か知ってますよね~?」

 

その瞬間に村瀬の顔が急激に青ざめた。

 

陽乃さんが奴に見せたのは、あの日、俺にもまだ渡せないと言っていた、談合の入札金額の手書メモの写しだった。それは正に、伝家の宝刀が抜かれた瞬間だった。

 

「…ご希望の新天地にあと少しでご栄転だったのに、残念だったな…これまでのツケを払って貰うぞ」

 

太い声でそう言いながら、槇村さんはドカッとドアを蹴り上げた。

まるでヤクザのような仕草で村瀬を威嚇する。

 

「うっ…」

 

「…悪いことは言わない。知ってることを全部正直に話せ」

 

槇村さんと対照的に、宮田さんが諭すように冷静な声でそう話しかける。

 

「宮田…」

 

村瀬はもう一人の同期を縋る様な視線で見上げるが、その顔には依然躊躇の表情が浮かんでいる。

 

「村瀬!」

 

「俺は何も知らない!確かに市川さんの指示で飛ばしのスキームを作ったが…これは雪ノ下建設にも頼まれたことだ!」

 

その表情からあと一歩で奴が堕ちると踏んだのか、宮田さんが珍しく声を張り上げた。村瀬は観念したのか、堰を切ったように弁明を始めた。

 

「…市川と富山への金の流れを掴みたい。知っていることを全て話せ」

 

槇村さんは村瀬の胸倉を掴んで脅すような口調でそう言った。

 

「俺は本当に知らないんだ!雪ノ下建設が管理する海外トラストの先はブラックボックスになってる!全部市川さんが握ってる!」

 

「ちっ、役立たずが」

 

見苦しく弁明を続ける村瀬に対し、槇村さんは苦虫を噛潰したような表情を浮かべて、掴んでいた襟元を突き放すようにして奴を解放する。

 

「…お、お前たちこそ、市川さんの闇を暴いてどうする気だ!?こんなことを嗅ぎまわって、タダじゃすまないぞ!それに雪ノ下建設だって完全に共犯だ!雪ノ下の娘が俺を告発するのか!?」

 

村瀬は半泣きの表情で、雪乃と陽乃さんに対して再び怒鳴り散らすようにそう言った。

 

「タダではすまないのは覚悟の上です。それでも私達姉妹はこの件を告発する…議員も、投資銀行の方も、両親も…不正は白日の下に晒します」

 

それに対して、雪乃は極めて冷静に、淡々と自分達の考えを告げる。それはまるで村瀬に対する死刑宣告のようだった。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ!そんなことをすれば…」

 

「すれば、何?ひょっとして、私たちの生活を心配してくれてるのかな~?」

 

今度は陽乃さんは挑発するような口調でそう言った。

 

「そ、そうだ。ご両親が捕まれば君たちだって今の生活は維持できない…君たちはまだ学生だろ?将来の就職だって…」

 

「ふざけないで…そんな不正の上に成り立つ生活など、維持できなくて結構よ。貴方のせいで私達姉妹がどんな目にあっていると思っているの?姉さんは…」

 

陽乃さんの発言に乗っかるように御託を並べ始めた村瀬に対し、雪乃が言い返す。その声は、徐々に怒りの色を帯び始める。

 

「ハイ、雪乃ちゃんストップ……村瀬さん、でしたっけ?どうも、立場を弁えていないようなので、一つ忠告させてもらいましょう」

 

「…」

 

陽乃さんは、そんな雪乃を制止しながら村瀬を見て、ニヤリと笑った。そしてポケットから携帯電話を取り出すと、その画面を村瀬に見せつける。

 

「ここまでの会話は録音させてもらいました~。市川さんの指示で動いたことを貴方は暴露した。これがどういう意味か分かるよね?」

 

「なっ!?」

 

村瀬はその言葉を聞いて硬直した。

 

”自分は何も知らない、全ては上司が計画したことだ"

 

この発言は、市川に対する明確な裏切りと取れる。

 

「…知っていることは全部話しなさい。どの道貴方に未来はないわ。だったら、私たちに少しでも協力した方が身のためよ」

 

雪ノ下陽乃は二十歳には似つかわしくない、極めて冷徹な声でそう言い放った。これは実質的な最終勧告だ。

 

「俺達がお前に接触したことも、市川や雪ノ下建設に報告するのはお前の自由だ…だがそん時は分かってんだろ?お前も無事に香港に行きたいよな?」

 

槇村さんは、陽乃さんの言葉を補うように村瀬を諭す。

 

「…きょ、協力する…させてくれ…」

 

全てを失ったかのように、村瀬は膝から力なく崩れ落ちた。

 

奴の哀れな姿を横目で見ながら、俺は過去の清算へ向けて物事が動き出していると確信する。

 

「まずは、念のため中を検めさせてもらいます。槇村さんはこの人に次の行動の説明をお願いします」

 

俺は村瀬の合意を待たずに奴の部屋に入り込んだ。村瀬は俺を止めようともせず、その場に項垂れたままだった。

 

 

☆ ☆ ☆ 

 

 

 

「…分かってんだろうな?しくじれば後は無いと思え」

「ぐっ…」

 

村瀬の家を漁った日の午後、俺達は再び千葉まで戻っていた。

 

奴の部屋には市川・富山の関与を決定付けるような目ぼしい証拠資料の類は無かった。やはり奴が自供した通り、全てをコントロールしているのは市川本人で間違いない。談合とその利益の配分にかかるスキームの構築を、巧妙に分散した上で自らの手駒にやらせていると見るのが筋だろう。

 

俺達は千葉のとあるカフェの前で村瀬を囲う様にしながら、次の計画内容を再確認する。

 

"次の計画"とは、証拠品が何も出ないことを見越して準備していた、村瀬を通じた雪ノ下建設への接触である。

 

 

「お久しぶりですね、村瀬さん」

 

「ご、ご無沙汰しております。急にすみません…」

 

数時間後、村瀬による呼出に応じた雪ノ下建設の責任者がその場に現れた。

 

その透き通るような声の主は、雪乃と陽乃さんの母、その人だ。

 

落ち着き払った女性のとは対照的に村瀬の声は上ずっている。

 

俺は二人の座るテーブルのすぐ近くに陣取り、会話に聞き耳を立てた。

村瀬には通話をオンにした状態で携帯電話をポケットに忍ばせている。現在、4人も店外でその会話を耳にしている筈だ。

 

「…海外の関連会社にご転籍なさる、と伺っていましたが」

 

「はい…今日はその挨拶と、今後のことについて話を進めるよう、市川から指示を受けておりまして」

 

村瀬はやや苦しそうな表情を浮かべながら、予め想定していた問答を口にした。

 

「そうですか。では早速ご用件を」

 

「あ、はい」

 

くだらない挨拶はそこまでだと言わんばかりに、雪乃の母は用件を述べるよう促す。

村瀬は若干慌てるようにして、襟を正した。その緊張感が嫌でも俺にも伝わってくる。奴の迂闊な行動が雪乃の母の不信を買うような形にならないか、気が気ではない。

 

「…公的機関が冨山氏に関する捜査を加速させているという情報を掴みました。現行のスキームがそう簡単に露見するとは思っていませんが、今後、何かしらの対策を立てる必要があると考えています」

 

すぅっと息を吸い込むと、村瀬は語り出した。出会い頭とは打って変わって、説得力のある声色だった。やはり、投資銀行で長年業務経験を積み、槇村さんをライバル視するだけはあると、俺は素直に感心する。

 

「捜査?…そうですか」

 

雪乃の母は、その言葉にピクリと眉を動かした。

 

「ついてはこちらで一旦、過去のYCCによる美術品取引の履歴を整理し、資金迂回ルート変更の是非を検討させていただきたい。加えて、過去の取引の中に、足が付く可能性のあるものが存在しないかを改めて確認させていただきたいと考えています」

 

「…なるほど」

 

「そのために、取引履歴やそれに関わる口座の資金移動記録を一時的にお預かりしたいのです」

 

これは先ほど打ち合わせした通りの内容だ。

雪ノ下の両親が握る情報。それが現状、俺達の最後の望みの綱となる。何としても、その資料を手に入れる必要があった。

 

「…仰ることは理解しました…ですが、YCCの取引はこれまでその殆どが市川さんからの連絡に基づいて行っていたのです。そちらでも概ね把握されているはずでは?」

 

「勿論です。ですが、中には当社の運用ファンドを仲介しない取引も存在したのではないですか?市川も全ての詳細を把握しているわけではありません」

 

その鋭い指摘に対し、村瀬は若干言葉を詰まらせながら、粘るように説明を加えた。

 

「…そうですね」

 

一呼吸おいて発せられたその一言に、村瀬も、横で聞いていた俺も安堵の表情を浮かべる。しかし、それもつかの間、雪乃の母は次の質問を問いかけた。

 

「…村瀬さんは、これまで企業買収の提案のみをご担当されていたように記憶していますが、YCCの取引を見直すのも貴方がご担当なさるのかしら?」

 

「市川と冨山氏が旧知の仲なのは公然の事実です。ですから、御社にご迷惑をお掛けしないよう、ほとぼりが冷めるまで、少なくともこの件について市川と御社の間で直接連絡することは避けた方が良いだろうと、そう申しております。そのために私が代理で参った次第です」

 

詰問するような雪乃の母の声色に肝を冷やすが、これも陽乃さんが考えた想定問答の範疇だった。彼女は本当に大したタマだと思う。

 

今は2月で年度末も近い。大規模な公共事業入札にかかる計画は、少なくとも年度が変わる4月まで公表されることはない。言葉を返せば、その時期まで、雪ノ下建設と市川が直接コンタクトを取る可能性は低いと見ていい。年度内に解決すれば、市川から先手を打たれる前に全て片が付く。そういう公算だった。

 

「承知しました。資料はどのように手配すればよろしくて?」

 

「電子媒体は避けた方が賢明です。現物をお預かりに伺います。なるべく早めが良いかと思いますが…」

 

「でしたら今から、子会社のオフィスまでお越しいただけるかしら?YCCにまつわる書類は全てまとめて金庫に保管させてますので、直ぐにお渡し出来ますわ」

 

その言葉を耳にして、俺はニヤリと笑みを浮かべた。

 

 

その日の晩

雪乃の母とのやり取りの後、雪ノ下建設の子会社から段ボール詰めの資料を運び出すことに成功した村瀬は精根尽き果てた表情を浮かべていた。用済みとなった奴を路上に放置して、俺達は足早に雪ノ下姉妹のマンションへと向かう。その場に、結衣、沙希、平塚先生にも足を運んでもらい、大量の書類との格闘を開始した。

 

「こっちのファイルは終わったよ」

 

「えっと、こっちはどうすればいい?」

 

「書類は順番を崩さないようにファイルに戻して、箱へ仕舞ってもらえるかしら?」

 

「しかし…民間企業というのはこんなに大量の記録を全て保管するものなのか。やはり学校とは違うな…」

 

奉仕部の3人は、このために購入した複数の家庭用のスキャナーを使い、膨大な取引ログのデジタルコピーを余すことなく取っていく。平塚先生は、出入金明細や口座情報が容易に確認出来るよう、データを整理しながらスプレッドシートに入力していった。

 

「これでも少ない方っすよ。海外のプロジェクト投資を始めるときは、関連契約書類だけでもこの倍はありますから。しかも全部英文ときたもんだ」

 

平塚先生の言葉に軽口を返しながら、槇村さんはデジタルコピー済みの原本を読み進めていく。その言葉に、結衣、沙希、平塚先生の3人は驚きの表情を浮かべる。

 

「…あった。投資銀行傘下のアートファンドとYCCの取引ログだ」

 

会話には混じらず、一人黙々と資料に目を通していた宮田さんが、不意に小さな声で呟く。

 

俺は直ぐに葉山が持込んだYCCの定款を取り出すと、宮田さんの手にしていた資料を横から覗き込み、シードアセットに関する規約と突合した。取引ログでは、複数の美術品を一括数十億円で購入している。取引時期を見ても、YCC設立のタイミングで間違いはなさそうだ。

 

「こっちにも大口の取引記録があったぞ。口座情報の裏付けが欲しいな…整理済のリストには?」

 

「こっちが入金履歴です…日付と金額で口座番号は特定できます」

 

「口座番号と開設者の一覧表は平塚さんが整理してくれたシートで確認出来るか?それを突き合せりゃ……ビンゴだ。富山の個人資産運用会社じゃねぇか。ファンドを経由せずに直接金を流すケースもあるってわけか…おいおい、個人への入金もあるぞ。トミヤマリュウイチ…こりゃ多分親族だろうな」

 

「随分大胆ですね」

 

「絶対にバレない自信があったんだろうな。取引された美術品…例えばこの絵画、今ネットで調べたが、ほとんどが無名の画家の作品だ。どう考えたってこんな値段が付くはずがない。こりゃ完璧な証拠だな」

 

俺の発言に、槇村さんは愉快そうに笑って答えた。

この記録があれば、美術品取引を通じて、雪ノ下建設が富山に対し、談合のリベートを支払っている、ということが完全に立証される。

 

「資料のコピーはこれで全部よ…ようやく掴めたわね」

 

コピー作業を終えた雪乃が安堵の表情を浮かべてそう呟いた。

 

これで全て終わる。俺もそう思った矢先、先ほどから俺達がピックアップした資料を整理しつつ、告発文を作成していた陽乃さんが、不意に作業の手を止めた。

 

「…ホントにそれで全部?」

 

そう呟いた彼女の表情は、俺の意に反して暗かった。

 

「まだ足りない情報があるのかしら?」

 

雪乃が怪訝な顔で陽乃さんに尋ねる。

 

「市川だな…あの人の関与を立証するのは村瀬の証言だけだ。完全な物証がない」

 

陽乃さんの懸念を察した宮田さんが説明すると、一転して暗い雰囲気が部屋に充満する。

 

「投資銀行のファンドはYCCにゴミを売却してリターンを出してますよね…成功報酬もそれなりに入りますし、であれば、そのファンドを立ち上げた市川の功績が買われる形となる…インセンティブとしては十分では?」

 

「確かにそうだ。だが、それも状況証拠の域を出んだろうな。仮に告発されれば、今度は態度を一変させて、ウェルスマネージメント部門とか、現場の担当者に責任をおっ被せることだって十分考えられる」

 

「…どこまでも用心深い奴だ」

 

自分なりの考えを述べた俺の発言は、槇村さんに否定された。宮田さんは忌々しげにそう呟いた。

 

「…もう一回全ての資料に目を通します…金額ベースで見れば、取引の大半は富山や投資銀行のファンドのものですが、相手先が良くわからない売買データもまだ多いですから」

 

取引ログにはファンドや、冨山の資産運用会社以外の小口取引が数百件確認されていた。だが、その全てに呼応する取引口座の開設人の情報がファイリングされていたわけではない。YCCも運用ファンドである限り、金を流すための取引を除けば、赤字垂れ流しの状況を相殺するために通常の投資取引を行っていてもおかしくはない。または、YCC設立の裏目的を隠匿するために複数の関係者とダミー取引を行っていることも考えうる。そう言ったノイズを一つ一つ取り除いていけば、市川の尻尾を掴むことが出来るかもしれない。

 

俺は薄い希望を繋ぐ様に、再びドッジファイルを開いていく。槇村さん、宮田さんもそれに続く形でまた資料をめくり出した。

 

だが、手元のログだけでは個別の取引の本質を判断するのは至難の業だ。

その日、とうとう市川の関与を決定付ける証拠を発見することは出来なかった。

 

 

 

☆ ☆ ☆ 

 

 

 

数日後、俺達奉仕部4人は市民会館に集合していた。

今日は生徒会主催のバレンタインイベントの日である。

 

あれから血眼になって、雪ノ下建設から手に入れたYCCの取引ログを読み漁ったが、市川の関与を決定付ける情報は見つけることは出来なかった。根を詰めていた俺達を慮ってか、陽乃さんは半ば無理やりこのイベントに参加するよう、薦めてきた。無論、俺達4人はそれどころではないと断ったが、「息抜きしなきゃ、いい仕事はできないよ」という何処かのCMのような言葉で俺達を追いやったのだ。

 

「…流石に気が進まんな」

 

「そうだね」「うん」

 

俺のボヤキに対し、沙希と結衣が同意を示した。

 

「仕方ないわね。姉さんの言う通り、気分転換は重要だもの。今日は調査のことは忘れてイベントに集中しましょう」

 

雪乃は部長らしい言葉で、その場を取り仕切った。

 

不意に、会場の調理室のドアから数名の学生が入ってくるのが目に入った。彼は、こちらの姿に気が付くと、ギョッとした表情を浮かべて視線を泳がせた。

 

――やっぱり呼ばれてたか。

 

その男子生徒は海浜総合高校の生徒会長、玉縄だった。この後、一色達に良いように利用されるのが目に見える。哀れな奴だ。

 

しばらくすると、続々と今日の参加者が集まってくる。そこには葉山や三浦、海老名さんの姿もあった。

 

――三浦、このイベントで葉山に少しでも思いを伝えることが出来ればいいな

 

先月のマラソン大会の出来事を思い出しながら、俺はそんな思いを胸に抱く。

 

「さぁ皆さん、今日は張り切ってチョコを作りますよ〜!あ、あと女子は作ってる所を写真に撮らせて貰うんで、宜しくです〜」

 

一色が高らかにイベント開催を告げた。

 

その補足の言葉を耳にして俺は眉間にしわを寄せる。まさか顔写真を付けて、チョコを売り出す気じゃないよな、コイツ?

 

後々、問題が出ねぇといいけど…

 

「…ねぇ、あんたたち、何個チョコ作る気なの?」

 

不意に沙希が溜息交じりの口調でに一色に質問した。

テーブルには材料の板チョコの山。どう考えても今日の参加人数で考えれば量が多すぎる。

それは俺も下準備を手伝いながら感じていた疑問だったが、敢えて口にしなかったのだ。

 

「あぁ、それ実際に作るのは海浜の男子達ですから、女子は写真さえ撮らせてくれれば大丈夫ですよ~」

 

一色はいつもの調子でそう答える。

やり口が1990年代に横行したブルセラ詐欺そのものである。やだ、なにこの子、怖すぎるんですけど。

 

「…しかし、作ったチョコを売り捌くったって、学校から許可を取るのも簡単じゃないだろ?どうする気だ?」

 

絶対に面倒なことになるから、極力関わりたくない。

ずっとそう思っていた俺だったが、とうとう観念して今回の生徒会の意図を確認することにした。

 

「売り捌くなんて人聞きが悪いよ、比企谷君」「そうそう」

 

俺の質問に答えたのは、元文実エースの一角、西岡と田村だった。

 

「これは募金活動だよ。募金額に応じてチョコを御礼に渡すだけなんだから」

 

「集まったお金から、元手の回収と生徒会活動資金に一部充当して、あとは全額寄付するもんね」

 

「成る程…そういう建前で教師を言いくるめたか」

 

正に言葉のマジックだ。学生間交流の文化イベントを募金活動にも繋げる。チョコはあくまでも募金へのささやかなお礼…赤い羽根や風船を配るのと変わらない。建前としては良く出来ている。

 

「だが、生徒会資金に充当するってのはどうなんだ?そんな許可、本当に取ったのか?」

 

止めておけば良いものを…

結衣たち3人からそんな視線を受けるのを感じつつも、好奇心が上回った俺はもう一歩、生徒会の闇へと切り込んだ。

 

「ぶっちゃけるとハードルレート15%、超過収益の50%を成功報酬にする許可を得てる」

 

今度は吉浜だった。

その端的で一切の無駄のない説明には感心を覚えつつも、俺は頭痛を感じて顔をしかめる。

 

「…どんだけ投資の勉強してんの、お前ら?そんな暇あるなら受験勉強しろよ。ってか、阿漕な商売してんじゃねぇよ。募金要素消し飛んでんじゃねぇか。教師はその分配方式(ウォーターフォール)を本当にちゃんと理解してんのか?」

 

今回、平塚先生はこのイベントに参加していない。前回は生徒会を監督する教師から面倒事を押付けられて参加していたはずだが、最近はその平塚先生も雪ノ下建設の件で随分と骨を折ってくれている。きっと時間の制約からこのイベントについては断りを入れたのだろう。ただ、そういうことであれば、今回の許可を出したのは平塚先生ではないということになる。やる気や能力のない教師であれば、その検閲がザルである可能性は極めて高い。

 

「理解してたら多分許可は下りてないだろうね。申請書もだいぶ言葉を濁して書いたし…書類上の最終的な許可は全部マージンの比率で取ったけど、先生は(仮)予算案の金額にしか注目してなかったから…ああいう大人って、悪質な投資信託とかで絶対損するタイプだよね」

 

西岡が得意げな顔でそう言った。

 

「意図的に利益が殆どでない前提で見積作って、承認自体は超過収益の50%報酬って条件を飲ませたと…」

 

「そういうこと」

 

こいつら、やはり知恵を絞って教師を謀ったようだ。末恐ろしい奴らだ。

 

「ねぇ…ハードルとか超過収益ってどういうこと?」

 

沙希が遠慮がちに俺に尋ねた。

俺は、苦笑いを浮かべながら解り易い例を考え説明する。

 

「…例えば今回、10万円のコストをかけてイベントを開催し、20万円の売上…募金を集めたとする。先にコスト分の金を回収して、残る利益は10万円だ。ハードルレート15%…この場合、利益のうち、まずコスト×15%の15000円までは全額寄付するって訳だ。収益の超過部分…つまり85000円の50%…42500円は生徒会の懐に納まり、残りはハードルと同じく寄付される」

 

「え?なんか、ややこしくない?」

 

結衣が目をパチクリさせながら、俺の説明を反芻するように計算しだした。

 

「何で15%のハードルなんて設定すんのさ?」

 

沙希は尤もな疑問を口にした。ハードルレートがあるせいで、儲けが少なければ、その殆どが寄付に持ってかれることになる。費用が10万円かかっているなら、11万5千円以上の募金を集めなければ、生徒会の儲けはゼロだ。

 

「それをカモフラージュに使ったのね。さっき比企谷君が言った通り、予算上の利益を低く見積もれば、一見、儲けの殆どが寄付されるように見えるでしょう?そういう資料で“慈善活動”であることを強調して教師を言いくるめた…儲ければ儲ける程に生徒会が潤う、という実態を巧妙に隠したのね」

 

不意に雪乃が俺に代って説明した。彼女の認識は正確だった。

 

「「怖!!」」

 

結衣も沙希も同様の反応を示した。何処かの投資銀行による不正スキーム構築を髣髴とさせる見事な計略だ。高校生がここまで考えたことに、俺も驚きを隠せない。

 

「この際だからついでに白状すると、このイベント、元々経理をこっちで担当する代わりに、材料買出しなんかは海浜側に頼んでて、金も立替えてもらってる状態でな…俺達が事前に負担した費用って、実は全体の1割位なんだわ。後で募金で回収した金から費用分は返すって話であっちはすんなり納得したんだけど、利益の処理はこっち任せ…これ実質、レバの効いた信用取引だよな?」

 

「レバ…ニラ?」

 

得意げな顔で暴露する吉浜の発した単語の一つに、結衣が可愛らしい反応を示した。

 

「レバレッジな……お前ら、流石に自重しろ」

 

俺は結衣のために、その単語がなんの略語なのかを耳打ちするが、その説明までしてやる気は起きなかった。

 

本当にこいつら早く何とかしないと、ヤバい。生徒会によるリスクテイクで公立高校が経営破綻する世界初の事例…それが我が母校となる可能性を真剣に憂慮しなければならないかもしれない。

 

ちなみに吉浜の言う、信用取引スキームを先程の例に当てはめると、以下のようになる。

 

海浜総合が負担した9割の費用(9万円とする)。これを募金が集まった後に返済し、儲けは総武高校側で処理をする、ということは、この9万円は実質的な借金と理解される。10万円のコストのうち、総武高校生徒会の出資金は1万円だ。売上20万円から、海浜総合に9万円を返金した後、自分たちも1万円のコストを回収すると残りは10万円。つまり、総武高生徒会は1万円の元手で10万円を儲ける計算になる。ハードルレート15%…1万円×15%で1500円を募金へ…超過収益の98500円の50%で49250円は自分達の懐に入る計算だ。総武高校生徒会が最終的に手にする金額は、海浜総合に費用を立替させた場合、単独で全てのコストを手当てするよりも15%増加する。

 

レバレッジとは、とどのつまり、借りた金を使って投資すれば、勝った時の儲けが更に膨らむ、というものだ。語源はレバー(梃子)。少ない力で大きなものを動かすことに他ならない。今回の例ではそんなに大した効果がないように見えるが、募金という条件を考えなければ、出資10万に対する10万の儲け(リターン100%)と、出資1万に対する10万の儲け(リターン1000%)の直接比較になる。如何に梃子の原理でリターンが持ち上げられているかが明確になるだろう。

 

レバ最強。これだけ見れば誰もがそう思うだろう。だが、ここにはリスクがある。逆に損を出した時のダメージはレバが高い程、深刻になるのだ。

 

例えば売上がコストを割込み、9万5千円だったとしよう。このビジネスは5千円の赤字である。借金は、利子を勘案しなければ元本以上に返済義務を負わない。だが逆に、借金であれば投資主体の資本が毀損しても優先的に返済する義務がある。損得を平等に分け合う"共同出資"とは性質が異なるのだ。従って、赤字が出たとは言え、売上で9万5千を回収した以上、この9万円は海浜総合に返済する必要がある。残価は5千円。総武高校生徒会は1万円を出資したにもかかわらず、5千円しか手元に残らない。ここで算出されるロス率は5000/10000円で50%だ。仮に10万円の費用を総武高校が全て出していたとすれば、ロス率は5000/10万円と、5%で済む計算になる。

 

ということで、レバレッジとは正に諸刃の剣。素人にはオススメ出来ない。

 

「…こういうイベントは、クラウドファンディングで資金を…」

 

ふと横を見ると、得意げな顔でビジネスごっこの会話を展開する玉縄の姿があった。面倒な経理事務を総武高に押し付けたつもりなんだろうが、そのファンディングでうちの生徒会にカモられたことに奴が気付く日は来るのだろうか。

 

「アハハ…お金の話は触れない方が良さそうだね」

 

「…だな」

 

俺達はそっと吉浜、西岡、田村達から距離を取った。

 

「…海外じゃ男性の方からプレゼントするのが一般的で…」

 

資金拠出どころか、労働力としても当て込まれていることに、まるで気付いていない玉縄は、器用に手を動かしながら、依然、得意げに語り続けていた。心底お気楽な連中である。だが、投資銀行のように血眼になって儲けようとする我が校の生徒会と比べ、その会話内容は余程可愛げがあった。

 

「へぇ~」「…そういうもんなの?」

 

結衣や沙希は玉縄の言葉をネタに話題転換を図ろうとした。俺もこれ以上、総武高生徒会の闇に立ち入るつもりはない。その話題に有難く乗っかることにした。

 

「まぁそうかもな。男からチョコとか花をプレゼントしたり、ディナーのエスコートとかが一般的かもな」

 

「じゃぁ義理チョコ配ったりもしないんだ?」

 

「本来、バレンタインは愛を象徴する日なのよ。それを四方八方へ投売りするような行為をするわけがないでしょう」

 

雪乃が遅れて俺達の雑談に混ざってくる。

 

「私も最初は、何で女性がチョコレートを作るのか、良くわかりませんでした」

 

不意にカメラを片手に会場を巡回していた海美が笑いながら語りかけてきた。

 

その笑顔に騙されそうになるが、この少女も元文実のエースであり、現生徒会の副会長、謂わば奴らのブレーン的存在である。今回のスキームを考え出した当事者である可能性すらある。

 

「そうか。中国でもバレンタインは男性主体だもんな」

 

俺は極力ビジネスの方向に話題が飛ばないよう、細心の注意を払いつつ、言葉を返した。

 

「そうですね。でも、バレンタインは中国語で情人節と訳しますから、恋人がいない人は男性も女性も、あまり関係ないと言った方がいいですね」

 

「なんか、それはそれで寂しいね」

 

「大半の男にとっちゃ、そっちの方がまだ平穏だろ?」

 

そう、平穏なのだ。

 

逆説的に、日本のこの風習は明らかに間違っている。

中国では、恋人のいないネット市民が結託して、2月14日に映画館の奇数席だけチケットを買い占める、といったバレンタイン破壊工作が往々にして行われる。そこに男女の壁はない。恋人のいる奴が敵で、いない奴が味方なのだ。素晴らしきかな男女平等主義。

 

「…それは、貴方がチョコレートと縁の無い哀れな男だったから、ではないの?」

 

雪乃が見下すような視線を向けて、冷ややかにそう言った。

 

「イヤイヤ、俺、超貰ってるから。全然僻んでないし」

 

キャバクラの姐ちゃんとかからな。

安っすいチョコをエサに人を呼びつけて、高い酒代払わせるんだ、コレが。

 

「…問い詰めるとこっちの気分が悪くなりそうだからやめとく」

 

沙希は俺の表情から何かを読み取ったのか、辟易しながらそう呟いた。

 

「ねぇ、比企谷?チョコの型余ってない?…なんか、材料の量が凄くて、器材がおっつかないんだよね」

 

横から折本が疲労の表情を浮かべながら、そう尋ねてきた。

 

「ここにあるぞ」

 

そう言いながら、余っていた型を手渡す。

 

「…私、比企谷にチョコあげたことあったっけ?」

 

型を受け取りながら、不意に折本はそう尋ねた。

 

「作りすぎた義理チョコの処分なら手伝うぞ」

 

こいつも、社会人になってから、よく会社でチョコを配り歩き、その余りを俺に処分させていた口だ。それを思い出しながら、笑ってそう答える。

 

「あはは、なにそれウケる。じゃぁ今年は”ちゃんとした義理チョコ”あげる。ホラ」

 

「ちゃんとした義理って、お前な…ま、サンキューな」

 

俺は差出されたトレーに乗っていた可愛らしいチョコレートを一つ摘み、ポイッと口に放り込んだ。

 

「「「あっ…」」」

 

その瞬間、奉仕部の女子三人が抗議混じりの声を発した。

3人の冷ややかな視線を感じて、俺は自らの行動が迂闊だったことを呪った。

 

「…食べたね?」

 

当の折本は、俺がチョコを飲み込んだことを見届けると、ニヤリと笑みを浮かべ、掌を上に向けてそっと俺の方へ手を伸ばした。

 

「500円」

 

「金取んの!?しかも高え!」

 

世知辛い、世知辛すぎるよ、かおりさん。

 

「募金集め…良く分んないけど、総武高の生徒会からノルマ課せられてんだよね」

 

その言葉を耳にして、俺はその場にいた海美に視線を向ける。彼女は、申し訳なさそうな表情を浮かべつつも、俺と目を合わせることなく、逃げるように別の調理台へと移動していった。うちの生徒会の発案と言われてしまえば、俺も抗議のしようがない。

 

「くっそ…まんまと一杯食わされた」

 

俺は渋々財布を取り出し、ワンコインを折本に手渡した。

 

「滑稽ね」「いい気味」「バーカ」

 

3人からの辛辣な言葉を浴びせられ、俺は背中を丸めた。

 

 

☆ ☆ ☆ 

 

 

 

現生徒会の闇の一端を知り、折本に金を巻き上げられ、3人から馬鹿にされると、散々な目にあったが、今日のイベントは中々に刺激的だった。

 

大量の材料が在庫化する可能性が見え出した夕刻、玉縄が「フードプロセッシングマニュファクチャリングエンジニアリングっていうのかな…生産ラインを自動化してオートメーションプロセスを取り入れれば…」と、最後まで自らのスタンスを貫き、意味不明な言葉を呟いたのを、一色は見逃さなかった。

 

「あ、いいですねそれ!」と、大きな反応を示したかと思えば、海浜総合高校生徒会の男子を集め、テキパキと業務分担を決めていった。湯を沸しボールへ注ぐ者、チョコを砕く者、湯煎でチョコをかき混ぜる者、型に流し込みデコレーションを行う者。会議ゴッコが大好きな彼らは、無情にも、ただひたすらに一作業のみを延々と繰り返すラインワーカーへと早変わりする。同時に、それまで使われていた電気ケトルや鍋は全て音の鳴るヤカンに取り換えられた。“ピーッ”という甲高い蒸気音が、全体の作業ペースアップの合図になるためだ。ガスコンロのツマミが、火力調整だけでなく、生産速度調整機能を得た瞬間だった。

 

だが、暫くするとその流作業の生産効率も悪化し始めた。自らが“オートメーションシステム”として扱われる事など想定していなかった彼らのモチベーションが著しく低下したせいだ。ガスコンロの火力を最大の位置で固定していた一色がムッとした表情を浮かべると、すかさず西岡と田村が「働く男子って素敵!」「一番頑張った人とデートします!」といった心にもない台詞で燃料を投下する。俺は「アホか」と思ってその様子を眺めていたのだが、信じられないことに、その後瞬く間に生産性が再び向上したのであった。

 

「…ヘンリーフォードがいかに偉大な人物であったかを物語っているわね」

 

そこにベルトコンベアが存在するかのような作業ぶり。それを目にした雪乃が、感慨深げにそう呟いた。その後、菓子作りは滞りなく進み、山の様にあった材料も全て"製品"へと加工された。総武高校生徒会女子は、「ご褒美は…全員頑張ったので、全員に配ります!」と、海浜高校生徒会男子が自ら製造したチョコを数個配って今日のイベントを締め括る。デート権を得るはずの「一番頑張った人」の存在は闇に葬られた。KPI (Key Performance Indicator)マネージメントの重要性が経営者に認識されるようになって久しいが、仕事に対する正当な評価を得るためには、労働者にとっても自らの業績評価指標を認識しておくことが極めて重要なのだと、この日、俺は思い知らされた。

 

 

 

「ゆきのん。それ、さっきヒッキーにあげたのと同じくらい綺麗なラッピングだね」

 

帰り道

薄暗い歩道を4人で歩く中、結衣がふとそんな質問を口にした。雪乃が手にしていたプレゼントは街灯の明かりに照らされ、包装用のセロファンが綺麗に輝いていた。

 

「誰にあげるの?」

 

「これは…その…姉さんに…」

 

沙希が質問を追加すると、雪乃は恥ずかしそうに答えた。

 

「…まぁ、今日は俺達に息抜きさせてくれたんだ…礼はしないとな」

 

「ええ」

 

彼女は今もマンションに籠って資料の再精査を一人で行っている筈だ。そう考えると、幾分申し訳ない気分になった。それを誤魔化すように、3人と他愛もない会話を続けるうちに、俺達は姉妹のマンションの前までやってきた。

 

マンションのエントランスで雪乃を見送ろうとしたその時だった。

 

「外出していたの?」

 

対面から歩いてきた女性に気付き、雪乃が誰かに声を掛ける。その人物の方向へ目をやると、そこには陽乃さんの姿があった。その手にはA4サイズの紙封筒が抱えられていた。

 

「ゆ、雪乃ちゃん…それにみんなも」

 

陽乃さんは珍しく慌てた表情を浮かべる。

 

「イベントの帰りよ。どうかしたの?」

 

「なんでもないよ。サボって外出したことがバレちゃったか」

 

誤魔化すように笑う彼女の表情には若干の影が見える、何となくそんな気がした。

 

 

――キキッ

 

改めて何があったのか尋ねようと思った矢先、エントランス前の公道に一台の車が停車した。

 

全員の視線がそちらへ向く。止まったのは黒塗りの車だった。それを目にして、俺は思わず身構えた。

 

後部座席から一人の女性が、ゆるりとした仕草でドアを開け、降車する。

この場にいた5人の間に流れる空気が、極度の緊張感を帯びていく。

パリッとした和服姿で身を包むこの女性は、雪ノ下姉妹の母親だった。

 

「陽乃…雪乃も…」

 

「母さん」

 

「診断の結果を取りに行ったのね…その封筒、預かるわね」

 

彼女は俺達に全く興味を示すことなく、陽乃さんに詰め寄った。

 

――診断?

 

その封筒に雪ノ下建設にかかわる資料が入っているものと勘違いしていた俺は、若干の安堵を覚えつつ、狐につままれたような気分になった。

 

「これは私自身のことだよ。先ずは自分で確認するから」

 

「陽乃、これは"家"の問題よ…そう言うなら今日は家に戻ってきなさい。一緒に見ましょう…ね?」

 

何やら抗議した陽乃さんの言葉を遮るように、その女性は更に距離を詰め、陽乃さんの手を取る。どうやら雪ノ下家にとって、非常に重要な書類であることは確かだ。だが、俺には全く心当たりがなかった。

 

「ちょっと、止めてよ」

 

陽乃さんがその手を振り払うと、母親はキッと目を細めて彼女を見る。その表情は機嫌を損ねた時の雪ノ下姉妹と瓜二つだった。沈黙による重たい空気が場を支配する。

 

「…母さん、私の友人の前よ。止めて頂戴」

 

静寂を破るように雪乃が静かに抗議する。彼女は視線を雪乃に向けた。

 

「…雪乃…貴女は、こんな時間まで何をしていたの?」

 

その鋭い視線を受けて、雪乃は押し黙った。

何か言葉を発しようと、その細い喉元が動くが、唇は閉ざされたままだ。

 

「…貴女はそういうことをしない子だと思っていたのに…貴女を信じていたから自由にさせていたけれど…いいえ、私の責任、私の失敗ね」

 

その発言を耳にして、俺はギリリと奥歯を噛みしめた。

自由にさせていただと?ふざけるのも大概にしろ。この人は、これまで姉にしか利用価値を見出さず、雪乃を放置していたのではないか。そして、いざとなればその雪乃をも支配し、誰かに差出すのだ。

 

「それは…」

 

「私が悪いのかしら…」

 

雪乃が言いかけた言葉は、一言でかき消された。その台詞は自省の念を口にする様でありながら、その実、他者からの責めを許さない、そんな一言だった。

 

「雪乃さんを失敗呼ばわりとは、親としては少々高望みが過ぎるんじゃないっすかね?」

 

陽乃さんですら口を閉ざす中、俺は一人、挑戦的な目で目の前の女性を見据え、そう呟いた。

 

「…そう、雪乃を送ってきてくれたのね。ありがとう。でも、もう遅いし、お家の方もきっと心配されてるわ…お友達の皆も…ね?」

 

彼女はそんな俺の言葉など歯牙にもかけない様子で、子供を諭すように柔らかい口調でそう言い放った。その態度に苛立ちを覚えた俺は、更に挑発的な言葉で食って掛かる。

 

「"俺達の"親父やお袋は、多少心配かけようが、きちんと説明すりゃ最後には納得してくれます。家族の信頼関係がありますから…な?」

 

「う、うん」 「そうだね」

俺が目線を向けた結衣と沙希は、その言葉に若干慌てながらも同意を示した。

そして二人も雪乃の母に対峙する覚悟を決めたのか、もう一度力強く頷いた。

 

「貴方は確か…比企谷君ね?…話には聞いているわ。総武高校の文化祭で活躍して、今は雪ノ下建設でバイトしているようだけれど、お仕事は順調かしら?」

 

彼女は突然話題を切り替えて、そんな質問を口にするが、その眼光は鋭さを増していた。

 

「…その件ではお世話になりました…色々といい経験をさせてもらってます」

 

警戒心を高めながら差障りのない言葉で礼を述べる。

 

「…そう…それは結構」

 

彼女は俺を値踏みするような目で眺めた後に、何かを悟ったように静かにそう呟いた。

 

「…ところで、交通事故の傷はもう治ったのかしら?…帰り道、車に気を付けて帰りなさいね。また事故を起こしたら、雪乃も悲しむわ」

 

――!?

 

氷で突き刺すようなその言葉と、その身から発せられた異質なプレッシャーに、俺は思わず身震いした。記憶の彼方にあった、奉仕部入部前の少年時代、その場に停車している黒塗りの自動車に撥ねられた経験がフラッシュバックする。

 

「ちょっと、母さん!」

 

硬直した俺の横で、陽乃さんが母を窘めるように声を張り上げた。

 

「…これは渡しとくよ。だから、今日はそろそろ帰ったら?」

 

陽乃さんはそう言うと、諦めたような表情で手にしていた紙封筒を母に手渡した。当の母親は、最早興味を失ったかの如く、受取った封筒に視線を落とすことなく、陽乃さんを冷めた目で見つめる。そして数秒の沈黙の後、今度は俺達奉仕部員へ視線を移すと、軽めの溜息を吐いて、口を開いた。

 

「…良いでしょう。今日は失礼させてもらうわ…でも、皆さんもあまり遅くならないようにね。どんな事情があろうと、貴方たちはまだ未成年なのだから」

 

そう言い残すと、雪乃の母は踵を返して車に乗り込む。

 

黒塗りのセダンは、闇夜に溶け込むように、あっという間に見えなくなった。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

「こ、怖かった…」

 

その後、俺達は雪ノ下姉妹のマンションへ上がった。

部屋に辿り着くなり、開口一番、結衣がそう呟いた。沙希も雪乃も疲れきった表情を浮かべている。彼女達も先程のやり取りに相当なプレッシャーを感じたようだ。

 

「アハハ、ごめんね~、ガハマちゃん。うちの母は昔からああだから」

 

陽乃さんは笑いながらそんな言葉を口にする。

 

「でもまさか、比企谷君に対して“殺害予告”までするなんて、私もビックリしちゃったよ…あれは絶対何かに感付いてるね…厄介なことになったなぁ」

 

――やっぱアレ、殺害予告なのか

 

先程の彼女の言葉を思い出すと、冷や汗が背を伝う。流石に冗談だとは思うが、警告めいた台詞であることには間違いない。嗅ぎ回っていれば痛い目を見る、そう言っているのは間違いないだろう。

 

「感付いてるって、あれだけの会話で一体何に…?」

 

沙希は半信半疑の表情を浮かべて、そう口にした。

 

「「私の母だからね(なのよ)?」」

 

重なった陽乃さんと雪乃の言葉が、事の重大さを告げるようだった。

その妙な説得力に俺達3人は押し黙る他ない。

 

「ところで姉さん、あの封筒は?」

 

長く続いた沈黙を破るように雪乃が姉に尋ねた。それは俺も気になっていたことである。

 

「あ~あれ?ただの健康診断だよ。パスポートの更新でちょっとね。雪乃ちゃんが留学するなら、私もついて行こうかなって思って、ちょっと早めに申請しといたの」

 

“何でもない”

極めて明るい口調でそう述べる彼女の発言に俺の耳がピクリと動く。余りに自然な雰囲気で、流れるように言葉を発した陽乃さんに危うく皆騙されるところだったが、それに一早く違和感を覚えた雪乃眉間に皺を寄せて姉に一方詰め寄る。

 

「姉さん…私達の間で隠し事はやめてちょうだい」

 

その説明は明らかにおかしいのだ。あの人は、「これは”家”にかかわる問題だ」と口にした。

 

「…ハァ」

 

冷静な態度を崩さない雪乃を見つめると、陽乃さんは諦めたように溜息を吐いた。

 

「婚前診断ってやつよ。良家に嫁ぐ女が不良品じゃ困るでしょ?だからそのチェックをしろって、実家が煩くてさ。きっと、富山に言われたんだろうね」

 

「ハァ!?」 「何それ、ありえない!?」

 

沙希と結衣が、その説明に瞬時に怒りの反応を示す。二人が怒るのも尤もだ。品質検査を指示するなど、まるでモノ扱いじゃないか。男の俺ですら不快感を覚える程だ。4人の女性、取り分け雪乃と陽乃さんが感じた屈辱感は筆舌に尽くしがたいだろう。

 

「…結婚するつもりのない姉さんが、結果を渡すことを拒んだ理由は?」

 

そんな中、雪乃は最後まで冷静だった。

淡々と事実確認を迫るその様子に、陽乃さんも若干たじろぎの表情を浮かべた。

 

「……流石は雪乃ちゃん、だね…」

 

長めの沈黙の後に発せられた、妹の洞察力を褒めるその言葉。

だが、その言葉には力がこもっていない。陽乃さんの雰囲気がガラリと変わる。その弱々しい姿を目にして、俺は、陽乃さんから俺と雪乃の関係の終わりを告げられた、あの雨の日のことを思い出した。

 

「…あの…俺、席外しましょうか?」

 

何があったのか、事実を確認したくない訳ではない。

だが、あの陽乃さんが、ここまで打ちのめされたような表情を浮かべるような、重大な事象が発生したのだ。彼女の人生に責任を負うつもりのない俺が、好奇心で立入ることは何となく憚られた。

 

「変な気を遣わなくていいの。比企谷君ならもう気付いたんじゃない?」

 

陽乃さんは、俺を見つめるとフッと笑みを浮かべる。

 

その言葉の通り、俺の中で仮説は既に立っていた。それは、あの時雪乃が俺の前から姿を消したことと、現在、雪乃ではなく陽乃さんが政略結婚を強いられそうになっている、二つの事実が抱える矛盾を説明する一つの答えだ。

 

「私ね…どうやら子供を授かりにくい体質らしいの」

 

絞り出すような声で呟かれたその言葉で、自分の仮説が確証に変わった。

 

本来、政略結婚させられるはずであった彼女の不妊体質が発覚し、急遽、雪乃がその替玉として連れて行かれたのだ。思い返せば、陽乃さんによる雪乃への嫌がらせとも取れる執拗な責めはこの時期から加速していた。お前には自分の意志がない、自分で決めろ、自分の言葉を持て、その全ては雪乃に対する警告だったのだ。自分の不妊体質を知った陽乃さんが、その事実を両親にひた隠しにしつつ、それが将来的に露見することを危惧して、妹を鍛えんがために取っていた態度だったとすれば、辻褄も合う。

 

「姉さん…その…」

 

雪乃は実の姉に声をかけようとするが、言葉が見つからない、そんな表情を浮かべる。その声音は震えていた。

 

少子高齢化が進み、女性の社会進出と経済的自立を進める方向へ世の中が動き出している昨今、子供を必要としない夫婦は山のように存在する。子供が産めないからと言って、彼女程の女性がその価値を失うことなどありえないと断言できる。だが、それは客観的な物の見方であって、彼女の主観ではない。

 

「雪乃ちゃん、ごめん。私、あの時ちょっと動揺しちゃって…これじゃ、お姉ちゃん失格だよ」

 

診断結果を渡したということは、政略結婚のお鉢が雪乃に回ってくることを意味する。陽乃さんのその言葉から、雪乃を面倒に巻き込む可能性を作ってしまったことを、酷く後悔していることが窺われた。

 

「私は望まない結婚を受け入れる気は毛頭ないし、そもそも、その計画自体を潰すために談合の真相を探ってきたのよ。何も気にする必要はないわ」

 

俺と同様の思考を辿っていたであろう雪乃は力強くそう言った。その言葉に、陽乃さんは安堵の表情を浮かべる。彼女の顔が徐々に、血色を取り戻していく。

 

「そうだよ!後は市川って人のことさえ分かれば、もう何も問題ないんだから!」

 

「あたしも、力不足かもしれないけど、ちゃんと最後まで手伝うから」

 

結衣と沙希は姉妹を鼓舞するようにそう口にすると、陽乃さんは再び顔を上げた。

 

「ガハマちゃん、沙希ちゃん…ありがと。私も弱音吐いてる暇はないか」

 

「その通りよ、姉さん。何も心配することはないわ…それに、体のことだって…必要ならば将来、私が代わりに子供を産むことだって…」

 

「へっ?」

雪乃は姉を気遣い、気高い家族愛を証明せんとばかりの勢いで1つの提案を持ち掛けた。幾分大胆な提案ではあるが、奉仕部員にそれを笑うことが出来るものはいない。

 

ただ一人、陽乃さんだけが、予想に反して素っ頓狂な声を上げた。

 

「…私、別に子育てするつもりとかないよ?」

 

「「「「え?」」」」

 

先程の悲壮感漂う会話は何だったのだろうか。ただただ、雪乃へかける迷惑を考えて落込んでいたということか。だとすれば、シスコンもここに極まれりだ。

 

「ちょ、ちょっと待ってね。言葉足らずだったかもしれないけど、私、不妊体質の”可能性”が判明しただけで、妊娠するような行為をしたこともないし、必要なら治療方法だってあるだろうし、さっきも言ったけど、そもそも子育てに興味は……雪乃ちゃんってば、大胆になったよね!…代理出産かぁ。雪乃ちゃんが産んでくれるなら、私も、子供、育ててみようかな~」

 

慌てた表情で弁明の言葉を述べ切った後、陽乃さんはニヤリと嬉しそうな笑みを浮かべて全力で雪乃をからかい始めた。雪乃は顔を真っ赤にして俯いている。しかし、この人処女だったのか…思わぬヴァージンカミングアウトに俺も年甲斐なく、若干赤面してしまった。

 

「でも、雪乃ちゃんのお腹を借りる前に、まずは自分で試してみないと。ね〜、比企谷君?」

 

陽乃さんのからかいがエスカレートして、その矛先が俺に向けられた。妖艶な表情を浮かべて手招きするその姿に、俺は身の危険を覚え、思わず距離を取る。

 

――バスッ!

 

「イッタ!何すんのよ!?……これなぁに?」

 

陽乃さんの言葉に腹を立てた雪乃は、彼女の顔に向けて力の限り何かを投げつけた。鼻を赤くしながら、床に落ちたその小包を拾い上げた陽乃さんは、不思議そうな顔で尋ねた。

 

「…バレンタインのチョコレートよ。有難く受け取りなさい」

 

「「「ハハ…」」」

 

姉妹の繰り広げるドタバタ劇に、俺と結衣と沙希は、力なく笑う。

 

――市川の件も、この調子で何とかなるだろう。

目の前の気楽なやり取りが、そんな前向きな思考を取り戻させた。

 

 

だが後日、俺はその考えには何の根拠もなかったと、思い知らされることになる。

 

雪乃は週明けの月曜も、その次の日も学校へ来なかった。

そして雪ノ下姉妹との連絡も、この日を境に取れなくなった。

 

 

 


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