比企谷八幡 「・・・もう一度会いたかった」   作:TOAST

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32. 比企谷八幡は尻尾をつかむ

村瀬を追走した金曜の翌週。

俺は沙希と結衣に、学校では雪ノ下建設に関わる話は極力しないように確約させ、通常通りの放課後を過ごしていた。

クリスマス会にかかる依頼は、海美を含む現生徒会メンバーの尽力により問題なく進んでいる。

既に2学期の最終イベントである期末試験も終了し、冬休みに向けた独特の緩い雰囲気が校内を支配しつつあった。

「う〜寒っ…」

3人がいる奉仕部の部室。俺はコートも脱がずに着席し、背中を丸めてそう呟いた。

一年中一定の温度が保たれたオフィスで長年仕事をしていた俺は、季節感覚というものを失って久しい。いくらストーブが焚かれていようと、冬場の校舎というのは社会人の俺には最早過酷すぎる環境だった。

「コートくらい脱いだらどうなの?」

カチャっと小さな音を立てて雪乃が俺に淹れたての紅茶を差し出しながらそう言った。

「却下だ。今脱いだら凍死しちまう…紅茶、サンキュ」

俺はカタカタと震える歯を鳴らしながら応える。手にした紅茶のカップの温度が有難い。

「基礎代謝が低いんじゃないの?元の年齢になる頃にはお爺ちゃんみたいになってそう…」

沙希が呆れ顔でそう言うと、結衣も乾いた笑いを浮かべた。

「ところで…先週の金曜日なのだけれど…」

雪乃は話題を変えて俺たちに先週のサボりに関して尋ねた。

「あっ!あ〜風邪引いちゃって大変だったの! さ、最近寒いし気を付けないとね〜アハハ…」

――このアホ!

嘘・誤魔化しが苦手な結衣らしい反応だが、これでは突っ込んでくださいと言っているようなものだ。

「…へぇ。3人同時に?」

取り繕う様に結衣が口にした言葉を耳にし、雪乃はジト目になって俺たち全員に再び問い掛けた。

「アタシは妹の世話。保育園が休園で、両親が休み取れなかったら仕方なくね。先生には風邪ひいたって嘘ついたけど」

沙希は冷静な表情で危なげなくそう切り返した。

村瀬に話しかけた時もそうだったが、やはり沙希はクールだ。沙希の彼氏だった俺自身も、ひょっとしたら掌の上で転がされていたのかもしれない。いや、むしろ今彼女に転がされてみたい気分ですらある。

俺が少しだけ邪な願望を心に抱いている間、雪乃は訝しげな顔を浮かべて沙希をじっと見ていたが、それ以上の詮索は諦めて視線を俺へと移した。

「…俺も自主休校だ。総武光学の上場へ向けたリサーチをしてた。学校への連絡は川崎と同じで体調不良だけどな」

「…もういいわよ」

俺も沙希に合わせてそれらしい理由を述べると、雪乃は少しだけ怒った様な表情でそっぽを向いた。

「雪ノ下…アンタ、ひょっとして拗ねてるの?」

「ば、バカなことを言わないで…先週は久々に読書が捗ったわ」

「ふ〜ん、じゃあこれからも定期的に読書時間を確保したげるよ」

沙希の挑発するような言葉を受けて、雪乃は彼女を睨み付ける。

が、その目尻には涙が薄っすらと滲んでいた。

「うっ…」

沙希はその視線に捕らわれたように、言葉を詰まらせた。

「涙は女の武器、か…雪ノ下のは最早戦略兵器だな」

「…ハァ」

俺の小声の呟きに対し、沙希は溜息を以って同意を示した。

「ゆきのん!ゴメンね!」

一方、そんな雪ノ下に母性をくすぐられた結衣は、勢いよく彼女に抱き付いた。

「ちょ、ちょっと、由比ヶ浜さん?」

涙目で困ったような、照れたような、そんな表情を浮かべる雪乃。

その雪乃を慈愛に満ちた目で見つめ、豊満な胸で受け止める結衣。

見る者に倒錯した性的嗜好を植え付けかねないエロティシズムを感じさせる光景だった。

部室内に漂う危険な甘い香りに、俺は鼻腔が膨らむ様な感覚を必死で抑える。

「…この変態」

「だ、誰が!?俺は微笑ましいと思っただけだぞ!」

突き刺すような視線を向けながら非難の言葉を呟いた沙希に対し、俺は心外だとばかりに抗議する。

”いいぞ!もっとやれ! “ そんな自分の心の声は、決して外には漏れていないはずだ。

「そうだ、ゆきのん!もうすぐクリスマスじゃん?埋め合わせに、イヴの日は4人でクリパしない?」

焦る俺を尻目に、唐突に結衣がそんなことを言い出した。

その頭の悪そうな略語、数年後には死語だから。チョベリバと同レベルだから…などと無粋なツッコミはしない方が身の為だろう。

「クリスマス当日は生徒会のイベントがあるでしょう?」

「やっぱりあたし達も参加するんだ?」

雪乃の返答に対して、沙希は確認するようにそう尋ねた。

「乗りかかった船だもの…当然でしょう?」

「ええっ!?」「…雪ノ下って真面目だよね」

雪乃の言葉に、結衣は抗議の声を上げ、沙希は仕方ないとばかりに両手を上げる。

「…イベント後の打上げってことならいいのか?夜遅くなっても良いなら、俺がプラン立てておくが?」

残念がる結衣が可哀想になった俺は、思わずそんな助け舟を出した。

「まぁ…それはそれで…アリかも」 「…そうね。悪くないわ」

沙希と雪乃はチラチラと俺の方を見ながら、そのアイデアに同意を示した。

「…じゃあ、そう言うことで」

そう口にしながら、俺は3名のレディをエスコートするに相応しいデートコースについて、思考を巡らせた。

昔デートで使って、結衣がやたらと気に入っていた都内のワインバーが思い浮かぶ。

って、アホか俺は。今の俺たちに飲酒は出来ないだろう。

同時にいくつか頭に浮かんだプランは、同じようにどれも未成年には不可能なものばかりだった。

――あれ?これ、実は結構シンドイ約束しちまったかも…

俺は自分の大人としての経験が全く役に立たないことを呪った。

「…あのさ、比企谷」

「ん?」

暫くの静寂の後、唐突に沙希が俺に話しかけた。

「…その…クリスマスはいつもどうやって過ごしてたわけ?」

「あ!あたしも気になるかも。ヒッキーって意外にロマンチストな所あるし、器用だし…ひょっとして、手作りのディナーとか毎年準備してたりして…」

沙希が尋ねているのは無論、未来の俺の姿のことだろう。結衣もまた、その質問に被せるようにそんな想像を口にした。

俺は少しだけ目を閉じて、社会人になってからのこの時期の記憶を呼び起こした。

その鮮明な映像が脳裏を駆け巡る。

――おい、決算着地の見込みはまだか?このペースじゃ年末も泊り込み確定だぞ?

――比企谷ッ!今期の収益目標までまだ全然足りねぇのが分かってんのか!?ボサッとしてる暇があったら案件クローズしてこい!

――玩具メーカーと小売企業のクリスマス商戦の動向は、細かいニュースも見落とすなよ。株価が動くからな。

――NYが休みだからって、お前ェまで浮かれてんじゃねぇぞ!顧客向けのクリスマスカードと年賀状は準備できてんのかよ!?

仕事の出来る上司2人による、止むことのない叱咤の嵐の中で、泣きそうになりながらデスクに齧り付く自分の姿。

それ以外に何も思い出すことが出来ず、俺はいつもの濁った目を更に曇らせた。

「…四半期末…決算…収益…市場…商戦…顧客対応…」

「どうやらロマンスとは程遠そうね…」

俯いてブツブツと呟くだけの俺に対し、雪乃は呆れ顔でそう言い放った。

☆ ☆ ☆ 

後日

クリスマスを目前に控えながらも、雪ノ下建設でバイトに精を出す日々は変わらない。

潜入捜査と並行して仕事と格闘するのはそれなりに大変だった。

村瀬追走後、俺は雪ノ下建設による公共事業入札の談合にかかる情報収集を試みたが、目ぼしい証拠は未だ集められずにいた。

「すみません、年末仮決算の件でお伺いしたいんですが…」

「どうした?」

12月31日は四半期末だ。クリスマスに前後して決算関連業務が忙しくなるのは投資銀行も建設会社もさほど変わらない。

俺は財務システムを操作しながら湧いた疑問を隣席の先輩職員にぶつけることにした。

「足元、子会社の売上が一気に伸びてきていますよね。過去のデータを見ても、毎年この時期に売上が拡大してますけど、これって公共事業の工事進捗に関係してるんですか?」

「ああ、秋口から春にかけては小規模な公共事業の着工が多いからな。実際に外を歩いてても、道路工事とか、この時期から増えるだろ?建設会社は工事進捗に合わせて、受注したプロジェクトを売上に計上するんだよ」

「それってひょっとして、巷で言われる”お役所の年間予算使い切り”って奴ですか?」

「…それは違うよ。そんな都市伝説を比企谷君が信じてるなんて、ちょっと意外だね」

俺の追加質問に対する答えは、隣で会話を聞いていた別の人物から返ってきた。

「主任…不勉強ですみません」

やや恰幅の良いその中年男性は、丸いフレームのメガネをクイっと持ち上げて、俺に笑いながら近寄ってくる。

「ま、この業界にいなきゃそう思うのが普通かもな」

謝罪の言葉を口にした俺をフォローするように、先輩職員はそう言った。

「国や県は4月から通年で重要なインフラプロジェクトを入札にかけて土木・建築会社に発注していくんだけど…それは裏を返すと、行政にとって大規模で重要なプロジェクトにかかる経費がこの時期にようやく概ね固まるというワケなんだよ。そこで初めて、水道管やガス管の取替えだとか、そういった細かいインフラ修繕に充てられる資金がどの位残るのか見えて来るんだ」

主任は筋道の通った説明で、俺の認識錯誤を指摘する。

「なるほど。だからマイナーなー道路工事なんかは年度の後半に偏るって訳ですか」

俺はその説明に感心してそう呟いた。

「そういうこった。ついでに言うと、道路工事で同じ個所を何度も掘り起こしたりするのも税金の無駄遣いと勘違いされるんだが、そっちもちゃんとした理由があったりする」

「どんなですか?」

「複数の建設会社が同じ場所で同時に工事すると、地中インフラを傷付けちまった場合に、責任の所在がアヤフヤになる可能性があるだろ?それを避けるために、一旦、水道管工事で掘り起こした場所で、別の会社がガス管工事する場合でも、一度仮舗装するんだよ」

先輩職員も主任の説明に加える形で、土建業に関する誤解を解くべく言葉を足した。

「…言われてみれば合理的ですね」

説明を受けて得た納得感を素直に口にすると、先輩職員は気を良くしたのか、自慢げな表情を浮かべた。

「ま、最近営業がでっかいプロジェクトを受注したから、第四四半期はグループ子会社のチンケな工事の積み上げなんか霞んじまうくらい本社の業績は拡大するぞ…これで俺たちも給料上れば最高なんだけどな」

「!」

彼が続けて口にした話に俺は思わずピクリと反応した。

――ひょっとして例の案件か?経理にも情報が伝わってんのか

談合で獲得したばかりの案件であれば、現段階では社内で知っているのは一部の人間に限られるのではないか。そう考えていたが、どうやらそうではないらしい。

「大規模プロジェクトって、どんな案件ですか?」

俺はこの機を逃すものかとばかりに、些か興奮気味にそう尋ねた。

「首都高湾岸の橋梁再開発だよ。2000億円を超えるプロジェクトだね」

――ビンゴ!

主任が口にしたプロジェクトの概要は、あの時市川が漏らしたキーワードと合致している。

「…2000億超えですか。ウチの決算規模からすると随分金額がデカいですね?」

「余所の大手ゼネコンとコンソーシアムを組んで共同落札したのさ。流石にその規模の案件を単独で手掛けるのはウチじゃまだ無理だ」

「そんな案件、どうやって刺さりこんだんですか?それだけのプロジェクトとなると、相当な企業が応札してますよね?大手のコスト水準にウチが合わせられるんでしょうか?」

正当な競争入札を経ているのであれば、雪ノ下建設のコンソーシアムは、各社がコストカットの限界水準を折り込んで提示した価格を、更に下回る金額で落札したことになる。

ゼネコンによる施工発注に関するコスト競争力は、革新的な建築技術がある場合を除けば、通常、サブコンに対する価格交渉力が大きくモノを言う。だが、地方企業に過ぎない雪ノ下建設には大手並みの交渉力はない。コストカットが出来なければ、費用が入札価格を上回り、雪乃下建設は損失を被る。

「…まぁ色々あるんだよ。馬鹿正直に価格競争に乗って入札してたら、建設会社なんてどこも破綻しちまうよ」

――やっぱりか

これはつまり、馬鹿正直な価格競争は回避した上で案件を落札した、ということだ。

先輩職員が口にしたのは談合の核心に迫る言葉だった。

「ちょっと!」

「あ…すんません」

主任に諫められて、先輩職員は謝罪の言葉を口にする。

「談合…ですか?」

より情報を引き出すため、この会話の流れを切りたくなかった俺は、思い切ってその単語を口にする。その瞬間、2人は渋い表情を浮かべた。

「はぁ、仕方ない…比企谷君、過当競争にある日本の建設業界では、正攻法だけじゃ生き残れないんだ…なんて言っても言い訳にしか聞こえないだろうけどね」

主任は暗に俺の質問を肯定するようにそう言った。

彼の言う通り、日本の土建業界の構造は歪だ。公共事業の入札については制度そのものの不備も一部では指摘されている。損失の発生も覚悟の上、売上の計上と一時的な資金繰のために、落札ありきで無茶な価格で札を入れる業者は後を絶たない。そんな状況が続けば、正常な建設会社でも事業を継続しにくくなる。

そういった業界では、弱者をさっさと市場から退場(倒産)させ、労働力を他の産業に再分配する方が国家の経済成長に繋がる、というのはどの経済学の教科書にも書かれているセオリーだ。

だが、現実はテキスト通りにはいかない。雇用の流動性の低い日本では、企業倒産が従業員の人生に与える影響の大きさは計り知れないし、そもそも長らく雇用の受け皿となってきた建設業界でバタバタと会社が倒れれば、社会の安定を脅かす問題になりかねない。

しかし、どれほど言い訳を並べ立てようと、公共事業を通じて建設会社が手にする金は、元を辿れば国民の血税だ。談合という不正を通じてその金額を不当に釣り上げるのは、公的資金の着服と相違ない行為である。

雪ノ下建設がそのような行為を土台に会社を成長させてきたとすれば、これが社会通念上、許されざることであるのは火を見るよりも明らかだ。

「…難しいですね。こういう業界体質のしわ寄せを黙って受け入れるか、清濁合わせ呑んで生き残るか…」

俺は少し考えた後で、そんな言葉を口にした。

仮に自分が雪乃の両親…会社の経営者だったら、果たしてどうするだろうか。

自分の興した会社に勤める従業員のため、そして何より家族の生活のため。

経営環境が厳しくとも、会社を発展させ、存続させることでしかそれを守ることが出来ないのであれば、不正のリスクが分かっていてもそれに手を染めるのかもしれない。

やはり俺には勧善懲悪など似合わない。

今の俺に必要なのはとにかく事実を把握すること、そして、行動指針を見失わなないことだ。

「色々と業界事情を教えてただいて感謝しています…悪いようにはしませんよ。安心してください」

俺がそう言って作り笑いを浮かべると、主任は溜息をついて安堵の表情を浮かべた。

――悪いようにはしない、か。曖昧で便利な言葉だな

正義感を振りかざして雪ノ下建設の違法行為を咎めるつもりは俺にはない。

しかし、この不正が雪乃の将来を揺るがすのであれば、俺は何の躊躇もなく雪ノ下建設を弾劾し告発する。それが例え目前の2人の生活を脅かす結果となろうと容赦はしない。

俺の指針は極めて単純かつ明快だった。

☆ ☆ ☆ 

その日の夜、俺は再びオフィスに残り、PCに表示されるデータを必死で目で追っていた。

内容は雪ノ下建設がこれまでに参加した公共事業に関する資料だ。

通常、社内ネットワークで経理部門がアクセス出来ないドライブに保存されている情報だったが、主任に聞いたアクセス方法でデータの閲覧が可能となった。

――このプロジェクトの件、もう少し詳しく把握しておきたいです。口にして良いことと、マズイことが判断出来ずに思わず口を滑らせそうで不安なんで

――おいおい、勘弁してくれよ

――データの場所さえ教えて貰えば、後は自分で勝手に見ますよ。主任の名前は出しません

――ハァ…仕方ない。これが営業部門の共有ドライブのアクセス方法だ…好奇心旺盛なのは結構だけど、くれぐれも内密に頼むよ

そんな脅迫に近い方法で手に入れた情報源だった。

「…首都高湾岸の橋梁再建設…あった」

雪ノ下建設は大手ゼネコンとのジョイントベンチャーへの30%出資を通じてこの案件に参画。パートナーは年間売上高5000億強の準大手…最近上場したばかりの企業だ。

って、この会社、上場の主幹事を務めたのはウチの投資銀行じゃねぇか。そうであれば、裏でこの談合の絵を描いたのが市川である可能性が益々高い。

――しかし、本当に投資銀行の関与だけでこの不正が成立すんのか?

そんな疑問が頭から離れない。

雪ノ下建設の不正関与が分かっても、雪乃の両親が彼女を誰に差し出したのか、そして差し出すに至った背景は未だに不明だ。

全容を見るにはこれでもまだ情報は不足している。

「ひゃっはろー、比企谷君!」

――!?

PCの画面に釘付けになっていた俺は、突然背後からかけられたその声に飛び上がりそうになった。

「何探してるのかな?」

その人物、雪ノ下陽乃は、業務室のドアを開いて入ってくるなり、俺のデスクへと歩み寄ってきた。

「…こんな時間にどうしたんですか?」

俺は彼女の問いには答えずにそう聞き返す。

「やだなぁ。比企谷君に会いに来たに決まってるでしょ」

棘を含んだ甘い声でそう囁きながら、彼女は背後から俺に抱き着く。

俺の肩に頭を乗せるようにして、後ろからPCの画面を覗き込んだ。

――まずいな

俺は焦りを覚えつつも、身動きを取ることが出来ず、身構える他なかった。

「なになに?あ~この前ウチが落札した公共事業?…何でそんなもの見てるのかな?」

「後学のためです」

「そんなわけないでしょ?それを見てるってことは、比企谷君も気が付いたんだよね?…私に嘘ついてバイト斡旋させた時にはもう知ってたってことかな?」

彼女は飄々とした表情でそう言った。

この発言、この人も雪ノ下建設の談合参加の事実を知っているのだろうか。

「…その時はまだ具体的なことは殆ど分かりませんでしたよ」

俺はこれ以上の誤魔化しは逆効果だと悟り、素直にそう答えた。

「ふ~ん…でも予兆は察知してたってことか。雪ノ下建設の闇を暴いてどうする気?」

彼女の口調には殺気が籠っていた。

場合によっては俺を潰す、そう言っているようだった。

「まだ決めてません…でも、貴女の妹が不利益を被る可能性があるなら…それをぶち壊します」

「へぇ~。ちゃんと付合ってるわけでもないのに、比企谷君もずいぶんと雪乃ちゃんに執着するよね?それって結構残酷だよ?」

「…ですね」

今の彼女の発言には全面的に同意だ。

自覚のあった俺は、短くそう答えた。

「認めちゃうんだ?…やっぱり比企谷君は信用ならないな」

「それで俺の監視に来たんですか?」

俺は自分の疑問を口にし、彼女に探りを入れる。

彼女が何の目的でここに来たのか、見当がつかなかった。

「それもあるけど、こっちもちょっと訳アリでね。私も最近、自分の両親が何をしているのか調べるようになったんだ…比企谷君には遅れを取っちゃったけどね」

――どういうことだ?

以前劉さんは、雪ノ下陽乃も両親の事業については詳しいことは知らないだろうと言っていた。

今の発言からも、談合の事実を認識していることを除き、彼女が両親のやっていることを詳しく知っているようには思えない。今更、彼女がそれを調査する理由は何なのだろうか。

俺に遅れを取った、ということは、もう少し早く彼女が調査を開始していれば、俺にはバイトの斡旋はしなかったと言っているようにも聞こえる。

彼女の発言を不可解に感じた俺は、言葉と態度を慎重に選びながら会話を続けた。

「調べてどうするんです?」

「どうもしないよ。自分にも関わることだもの。せめて何が起きてるのかくらい、把握ぐらいしておきたいじゃない?」

「…何かあったんですか?」

「う~ん…ナイショ」

雪ノ下陽乃は笑みを浮かべてそうはぐらかすと、俺から体を離して主任のデスクへと向かっていった。

そして、以前俺がやったのと同じように、職員のキャビネットのダイヤル式ロックを解除して中から資料を取り出すと、その場に広げて目を通し始めた。

俺は彼女の行動を気にしないように自分に言い聞かせ、再びPC画面に営業部のデータを表示させて必要な証拠を集めていく。

「う~ん」

「これかなぁ?」

「もう!なんでこんなに数があるのよ!」

が、彼女の独り言が気になって作業が捗らない。

ちらりと様子を見ると、彼女が格闘していたのは、投資銀行から提供された資料の束だった。どうやら雪ノ下建設が買収した会社のバリュエーションを眺めながら、何かを考えているようだ。

「…ご両親のやってること、どこまで把握したんですか?」

「ん?気になる?…残念だけど、教えてあげない」

雪ノ下陽乃はしたり顔でそう言った。

――このクソ女め!

あれだけ独り言を口にして、構ってくれってことじゃないのかよ。

俺は少しだけ苛立ちつつも、冷静さを失わないように自分に言い聞かせる。

「…それは俺が信用できないからですか?」

「うん」

確認するように尋ねると、彼女は間髪入れずに肯定した。

屈託のない笑顔を浮かべている彼女を見て、俺は溜息を漏らす。

「…そっすか…じゃあ取引しませんか?」

これは一種の賭けだ。だが、現状のままではこちらもジリ貧だ。

俺は少しだけ考えて、雪ノ下陽乃に話を持ち掛けた。

「取引ね…どんな?」

「雪ノ下雪乃の人生に影響が出ない限り、俺はこの会社を告発しません。それを条件に、情報をお互い共有するっていうのはどうですか?」

雪ノ下陽乃がどんな理由で会社の情報を洗っているのかは不明だが、彼女の行動原理は俺と同じだ。彼女にとっても、雪ノ下雪乃の存在は大きい。それは文化祭の準備の時の会話で俺が感じたことだった。

そうであれば、これは彼女にとって悪い話ではないはずだ。

「う~ん。雪乃ちゃんのためってのは本当みたいだけど…却下だね。やっぱり比企谷君と私じゃ触れられる情報量が釣り合わないもん」

雪ノ下陽乃は少しだけ考えた後で、再び意地悪そうな表情を浮かべてそう言った。

「一次的に触れられる情報量は少なくても、俺には雪ノ下さんにはない分析力がありますよ。貴女も自分で理解できない情報は持っていても意味がないでしょう?」

俺は挑発気味にそう言い返しながら、彼女のデスクへと近寄る。

「言ってくれるね?私に向かってそんな挑戦的なこと言う人、雪乃ちゃん以外じゃ初めてかも」

彼女は若干の苛立による攻撃的な視線の混じった笑みを俺に向ける。

俺はそれを真っ向から受けて、ニヤリと笑った。

そのまま彼女の隣にデスクチェアを引き、腰を下ろす。

「今、見てるドキュメント…投資銀行から提供された中小建設会社の適正買収金額の算定資料ですね。どれも異常にプライシングが高い…雪ノ下建設にとって損な買い物ばかりです」

俺は、論より証拠だとばかりに、彼女が格闘していた資料の解説を行っていく。

「…比企谷君は投資が趣味、なんだっけ?じゃあ、割に合わない買収の裏には何があるのかな?」

彼女は俺の腹を探るように、そう質問した。

「2点あります。一つは、一見損なこの買収には雪ノ下建設にとっての利点…つまり公共事業の談合との関連があるということ。もう一つは、このM&Aをまとめた投資銀行に何らかの思惑があるということ…ここから先は"有料情報"です」

いずれもここ数ヶ月間、俺達金融のプロが血眼になって調査し、導き出した結論だ。

幾ら雪ノ下陽乃が優秀であろうと、絶対にここまでの情報は持っていないという確証があった。

「…いいよ。その取引、乗ってあげる」

雪ノ下陽乃は少しだけ考え込んだ後、俺の持ち掛けた取引に応じることに同意した。

☆ ☆ ☆ 

雪ノ下陽乃との取引成立後

俺は数時間かけて彼女に対し、自分の持っている情報を一通り説明した。

時刻は既に深夜0時を回ろうとしている。

「…よくここまで調べたね。確かに私だけじゃこのスキームを解明するのに少し時間がかかったかも」

決して"辿り着けなかった"とは言わないあたりが、プライドの高い彼女らしい。

姉妹でそっくりな負けず嫌いな性格が可愛らしく思え、俺は思わず笑みを浮かべた。

「まだ核心的な証拠は集まってませんよ。推測も多分に交じってますし、最終的な金の行先も不明です…ところで雪ノ下さんはどうして談合のことを?」

「…これ、両親の書斎にあったんだ」

そう言いながら、彼女はクリアファイルに挟まれた、ノートの切れ端のようなものをカバンから取り出した。よく見ると、手書きで複数の建設会社名と金額らしき数字が書き込まれていた。

「これは…各社の入札金額?」

いずれも雪ノ下建設が所属するジョイントベンチャーの落札価格よりも数百億円高い金額だった。他社の予定入札価格。これがオークションの前に出回っていたとすれば、談合の決定的な証拠となる。

「おっと。悪いけど、コレはあげられないよ。見るだけね」

メモに触れようとした俺から、彼女はそれを取り上げるようにして再びカバンへと仕舞い込んだ。

「…誰から受け取ったものか分かりますか?」

俺は一瞬苦々しい表情を浮かべた後、追加情報を聞き出すべく彼女に質問する。

「例の投資銀行の人。先日、ウチの母親が会ってたんだ」

「…市川って奴ですね。同じ投資銀行の村瀬って手下を使って、このスキームを動かしてた人間です。でも、本当に投資銀行の人間だけ何でしょうか?他にも心当たりはないですか?」

「どうして?」

彼女はキョトンとした顔で俺に尋ねた。

「投資銀行の人間だけじゃ多分この談合は成立しないと思うんです」

俺は先程の調査を経てもなお、自分の心の中に引っかかっていた点を彼女に伝えた。

「今回高額の札を入れて案件を見送った他の建設会社には、別の見返りを示さなきゃなりません。次の公共事業の受注…とかね。その規模やタイミングは投資銀行の人間でも流石にわからない…公共事業を計画する側の人間の協力があるんじゃないかと思います」

彼女なら何か知っているかもしれない、そんな打算を込めて自分の推理を説明した。

「……」

俺の言葉を聞いた雪ノ下陽乃は無言で考え込んでいる。

その表情は険しかった。

「やっぱり…そういうことか」

数秒の沈黙の後、彼女は諦めたような笑みを浮かべて小さな声でそう呟いた。

俺は彼女の顔が一瞬曇るのを見逃さなかった。

「どうかしましたか?」

彼女は俺の質問に答えない。

「…雪ノ下さん?」

俺は返事の催促をするように再び彼女に問いかけた。

「…私ね…大学卒業したらすぐ結婚するんだ」

――!?

彼女の言葉に俺は思わず身を強張らせた。

一体どういうことだ?

俺の知る限り、雪ノ下陽乃がどこかに嫁いだという事実はない。親の決めた相手と結婚したのは雪乃だったはずだ。

――もう私達の問題に構うのは止めて

――どうしても雪乃ちゃんが忘れられないって言うなら、代わりに私のことを好きにすればいいじゃない…ほら、私たち良く似てるでしょ

雪乃の連絡先を聞くために彼女と対峙したあの雨の日のことを思い出す。

雨に打たれながら、自嘲的に笑う雪ノ下陽乃の姿は、これまでに見たことも無いほど弱弱しいものだった。

「あれ? そんなに驚くことかな?」

彼女は再び仮面を被ったような笑顔と明るめの声で、おどけるようにそう言った。

「…誰とですか?」

俺はそう聞きながら、自分の声がいつもより低くなっていることに気が付いた。

「興味ある?ひょっとして、お姉さんが嫁じゃったら寂しい?」

「そういうのはいいんで…」

何度かのそんなやり取りの後、彼女はフッと柔らかめの溜息をついて、話し出した。

「…ま、普通に親が決めた相手なんだけどね…国交省OBの国会議員、そのご子息なんだって。先日、その市川さんから紹介があって、本人同士で会ってもないのに両親が二つ返事でOKしたんだ。私も流石に文句を言ったんだけど、両親があまりにもヒステリックに怒るから、ちょっと不可解で…」

「…それで色々調べてたってわけですか」

「そういうこと♪」

彼女は努めて明るくそう答えた。

――国交省OBの議員か。所謂道路族って奴だろう…

談合のフィクサーというのなら、そのくらいの大物が出てきてもおかしくはない。

おそらくこいつが、市川と結託して一連の談合を仕組んだに違いない。

マネロンスキームによる資金の行先は未だ解明できていないが、これでようやくこの事件に関与した人間の尻尾を掴んだ。役者は舞台に出揃ったのだ。

それにしても、だ。

「…本当に結婚する気ですか?」

俺は再び真剣な表情で彼女にそう尋ねた。

この件は雪乃が結婚せざるを得なくなった俺の知る未来に関係している可能性が極めて高い。

「まぁね。家や従業員にも関わることだし…我儘を言う気はないよ」

これもあの時雪乃が言った、家柄、というやつなのだろうか。

冗談じゃない。違法行為に手を染めて、挙句の果てにそれを計画した人物に自分の娘を差し出すとはどういう了見だろうか。

今後、雪ノ下姉妹にも犯罪の片棒を担がせると言っているようなものだ。

「…雪ノ下はそのこと知ってるんですか?」

「雪乃ちゃん?…今はまだ知る必要ないことだよ」

彼女は少しだけ悲しそうな笑みを浮かべてそう言った。

「そうですか…貴女がそれでいいなら、俺にはとやかく言う筋合いはないんでしょうけど…それでも、それを聞いて黙って見過ごすことは出来なくなりました。アイツにも同じような問題が降って掛るリスクがありますから」

俺がそう言い切ると、雪ノ下陽乃は俯いて力なく言葉を口にする。

「…やっぱり比企谷君の存在は雪乃ちゃんには悪影響だよ。あの子には早く自立してもらわなきゃ困るのにな…いろんな柵を自分で断ち切る力がないと…きっと私みたいになっちゃうから」

「それを背中で示すのが姉の役割でしょ?早く自立しなきゃいけないのはアンタの方だ」

俺は若干語気を強めて彼女にそう詰め寄った。

弱冠二十歳でこんな事件に巻き込まれた彼女に同情しないわけではない。だが、雪ノ下陽乃には、雪乃に降りかかる家庭問題の防波堤になって貰わなければ困る。

自らの意思で親と対峙することを促した俺を、彼女は真剣な顔でじっと見据える。

数秒の後、フッと表情を緩めて声を発した。

「私がお説教までされるとはね~…比企谷君って本当に高校生?」

「違うかもしれませんね」

俺の間髪入れない返答に対し、彼女の表情から笑みが消える。

「…時期が来たら全部話す…確かそう言ってたよね?」

雪ノ下陽乃は眉を顰めてそう尋ねた。

これは、バイト斡旋を頼んだ際に、俺が彼女に条件として提示したことだった。

「はい。俺の最後の秘密です…それを貴女に話してもいい。でもそれは俺への協力が条件です。"雪乃"のために、ご両親と対立することを厭わない覚悟があるなら、俺に力を貸してください」

そう言って俺は彼女に頭を下げた。

俺の持つ最後の手札を切った。その結果を手に汗握る思いで彼女の反応を待つ。

ほんの数秒の時間が永遠にも感じられた。

「…その秘密、雪乃ちゃんは知ってるの?」

彼女はYesでもNoでもない、別の疑問を口にする。

「はい」

「…ふぅん、ならいいや」

雪ノ下陽乃は毒気の抜けるような声でそう言った。

どうやら俺を質問攻めにするつもりはないらしい。やはり彼女の考えていることは良くわからない。

「秘密なら無理に打ち明けなくてもいいよ…でも、今後の対応については少しだけ考える時間をちょうだい?自立するにも準備ってのが必要だろうしね」

「…わかりました」

俺がそう答えると、彼女は一瞬だけ笑顔を浮かべて、無言でファイルをキャビネットに戻し始めた。

言葉の途切れた空間に妙な緊張間を覚え、居心地の悪さを感じる。

暫くすると、彼女はオフィスの出入り口まで歩き、ドアに手をかけた。

今日はもう帰るのだろうか。

そう思った瞬間、彼女はもう一度俺の方を振り向いた。

「…富山」

その場で、ボソッと人の名前を呟く。

「?」

「私、この苗字あんまり好きじゃないの…もうしばらくは雪ノ下のままがいいかな。よろしくね、比企谷君!」

そんな言葉を残して去って行く彼女の姿を、俺は呆けながら見ていた。

☆ ☆ ☆  

後日

俺は入手した新たな情報を槇村さんと宮田さんに共有した。

2人は今、市川と富山という議員の繋がりを洗いつつ、資金の流れを引き続き調査してくれている。俺の方といえば、あれから雪ノ下陽乃との接触もなく、談合にかかる追加的な情報も特段得られずに数日が過ぎていた。

今日はクリスマスイブである。

かねてからの約束通り、俺たち奉仕部4人は生徒会の合同イベントの運営のヘルプに入ることとなった。

「ルミルミ、久しぶりだな」

俺はイベント進行の合間、会場の準備室で見知った少女を見つけて声をかけた。

「…ルミルミ言うな」

少女、鶴見留美は拗ねたような表情を浮かべてそう小声で呟いた。

「その、なんだ…友達…は出来たのか?」

「…」

俺の質問に対し鶴見は無言で俺を見つめる。

夏休み以降、奉仕部員は各々鶴見の友人作りに協力してきたはずだったが、俺は無反応な彼女の姿をみてバツが悪さを感じる。

ひょっとしたら彼女は未だに学校で孤立しているのかもしれない。そう考えると不安になった。

「Rumy! Hurry up! 早くしないと着替え、間に合わないヨ!…あれ?Hachiman?」

そんな俺の不安を吹き飛ばすような元気のいい甲高い声が控室に響いた。

「…エミリーじゃないか。久しぶりだな…そうか。上手くやれてるんだな」

俺はその声の主を見てふっと肩の力が抜けるのを感じた。

彼女はマーティンさんの一人娘。夏祭りで出会ってから、俺が鶴見に紹介した女の子だった。

エミリーは日本語に難があるというのはマーティン氏の弁だったが、そんな心配は無用そうだ。海美しかり、この子しかり、女子の語学習得ペースは何故こうも早いのだろうか。

そんなことを考えながら鶴見留美の方に目をやると、彼女は照れ臭そうに頬を少しだけ赤く染めて俯いていた。

「Hachiman, Yuiはいないの?」

不意にエミリーは結衣の居場所を俺に尋ねた。

「来てるぞ…今は舞台袖でバンド演奏の進行を手伝ってるとろこだ」

「やった!後で会いに行く! RumyはYui知ってる?Hachimanの彼女! 優しくて私大好き!」

――あいつ、やっぱり子供に人気が有るんだな

俺ははしゃぎながらそう口にするエミリーを微笑ましく思いながら眺めた。

ふいに自分服の袖口がくいくいと引っ張られる。

「八幡は沙希さんか雪乃さんと付き合ってるんじゃないの?」

「…」

俺を見上げながら問いかける鶴見留美に言葉を返せず、ただ苦笑いを浮かべた。

その瞬間、準備室のドアが開かれ、ケーキの準備を終えた雪乃と沙希が部屋に入って来た。

「鶴見さん、久しぶりね。良い観察眼を持っているわね。私たち3人はこの男に振り回されて大変なのよ。あなたは将来、こういう男に引っかからない様に気をつけることね」

「こんな女たらしの変態オヤジはそうはいないから、大丈夫でしょ?」

長い黒髪を掻き分けながらそう言う雪乃に同調して沙希が俺をディスる。

「お前ら…小学生相手に…」

「やっぱり…サイテー」

鶴見留美に軽蔑するような視線を向けられ、嫌な汗が背中を伝う。

「さぁ、あなた達二人もそろそろ更衣室へ行って着替えなさい。もうすぐ出番が来るわ」

雪乃が話題を切り替えてそう促した。

「あんたの友達、3人とももう着替え終わってるよ。それから、今日はアタシの妹もお手伝いするから、よかったら面倒見てやって」

沙希は優しい声で鶴見とエミリーにそう言った。

俺はそれを聞いてもう一度安堵の溜息をついた。どうやら俺たちが画策した鶴見留美の友達作りの計画、リレーション構築対象の選択と集中作戦も順調に進んでいたようだ。

サマーキャンプ以降、女性陣に任せきりとなっていた支援活動だが、これも無事に成功したといえるだろう。

「わかった…じゃあまたね、八幡」 「See ya!」

「おう、頑張れよ」

退室間際に鶴見留美とエミリーの二人が浮かべた、年相応の屈託のない笑顔は非常に印象的だった。

「…さ、今日の手伝いは概ね終了したし、アタシたちも会場に行こ」

「そうね。客席には私達のテーブルも用意されているわ。由比ヶ浜さんも合流する予定よ」

「了解」

2人の誘いに従いながら俺は準備室を後にし、会場へと向かった。

「ヒッキー、ゆきのん、サキサキもお疲れ!」

「お疲れさん。早かったな」

奉仕部用のテーブルには既に結衣が陣取っていた。

今回のクリスマス会で運営の手伝を半分に減らし、舞台から遠い末席とはいえ、客としてもてなしてくれたのは、一色たち生徒会の粋な計らいだった。

舞台袖に目をやると、インカムを付けた一色が細かい指示を飛ばしている姿が目に入った。海美たち文実メンバーと共に業務をこなす中で、どうやら彼女もメキメキと力をつけているようだ。

――戻って、やり直して…いろんなことが変わったな

そんな彼女の姿を見て、最後まで運営側にいたあの時のクリスマス会のことを思い出していた。

修学旅行の嘘告白に端を発した奉仕部の関係の変化。

結衣と雪乃の前で涙目になりながら、「それでも俺は本物が欲しい」と心の内をさらけ出したこと。

今思えば、俺も結衣も雪乃も、全員が純粋で繊細な青二才だった。

感情を廃して、言葉の裏を探り、心理を読む。俺は石橋を叩いて渡るように慎重に、2人と互いの距離を縮めていった。

そんな臆病なコミュニケーションこそが、大人の取るべき行動なのだと考えていた。

――誰かを大切に思うということは、その人を傷つける覚悟をするということだ。お互いがお互いのことを思うからこそ、手に入らないものもある

これはあの頃、様々な問題にぶち当たって行き詰った俺に対し、平塚先生が言った言葉だ。今なら痛いほどにこの言葉の意味が分かる。

しかし、意味が分かるだけで、未だにそれを実践出来ない自分は、果たして大人と呼べるのだろうか。

そんなことをボーっと考えていると、ふと一色と目が合った。

一色は俺に対し、遠目にウインクを送って来た。

――あん時、壊れかけた奉仕部の関係修復に協力してくれたのは、あのあざとい後輩だったな

それを思い出して、応えるように軽く右手を挙げて俺は表情を緩めた。

途端、左手の甲に痛みを感じて俺の意識は現実に引き戻された。

「今、誰に手を振ったの?」

結衣が膨れ顔で俺の手を抓りあげている。

そんな結衣の表情を見て、俺は彼女の頭を無性に撫でたい気持ちに駆られるが、雪乃と沙希が俺たちのやり取りに注目していることに気が付き、それを止める。

「よ、吉浜だ…」

「「「…」」」

俺の苦しすぎる言い逃れに対し、3人は無言で刺すような視線を向けた。

『お待たせいたしました。次はクリスマスケーキと小学生による聖歌隊パフォーマンスです』

会場にアナウンスが響き渡る。海美の声だった。

次の瞬間、広間にケーキを持ったちびっ子がなだれ込むように入ってきた。

沙希はその中から一人の少女を見つけると、カバンからカメラを取り出して写真撮影を開始する。

撮影対象は無論、沙希の妹、川崎京華だ。

「お~、けーちゃん。よく似合ってんじゃねーか。可愛いな」

「「「!?」」」

思わず呟いた俺に対し、またも3人が過剰反応を示す。

口には出さないが、視線がロリコンという単語を連呼している様だった。沙希に至っては、俺を見る目に半分殺意が混じっている。

「…あんた、うちの妹と面識あるの?」

そんな沙希のドスの効いた呟きに、この時代に戻ってからはこれが初対面であることに気が付く。

「お、お前と付き合ってたんだからあたりまえだろ」

俺はそう答えるのがやっとだった。

少女は奉仕部のテーブルにケーキを乗せながら、俺に質問した。

「…お兄ちゃん、誰?」

「はーちゃんだ。ケーキ、ありがとな」

「うん!」

川崎京華は嬉しそうな表情を浮かべて、広間から退出した。

「「「はーちゃん?」」」

残された俺たちが囲うテーブルに寒い空気が流れる。

「…だ、大学に上がる頃には俺に対して超そっけなくなるから心配すんな」

本日何度目かわからない不可抗力と呼ぶべき事故に、俺はまたも苦しい言い訳を口にした。

ケーキを運んでくれたちびっ子達が退場した瞬間、場内のライトが落ちる。

続けて、舞台にスポットライトが当てられると、鶴見達、小学生の聖歌隊がスタンバイしていた。皆一様に天使の衣装を着ている。

「OMG! Emily! (オーマイガッ!エミリー!)」

まだ合唱が始まってもいないのに、一人スタンディングオベーション状態のハイテンション中年外国人に会場の視線が集まり、場がどよめいた。

「…マーティンさん…そりゃ来てるよな」

俺の呟きに反応したその中年は、興奮した表情を俺に向けた。

目が合った瞬間、俺は黙っていれば良かったと後悔する。

「Hey Hachiman! Look at her ! She is an angel, isn't she !? (ハチマンじゃないか!彼女を見てくれ!まるで天使だ!そうだろ!?)」

俺の名前を口にして詰め寄る外国人の姿に、奉仕部女子3名は俯きながら、他人のふりを決め込み、恥ずかしさを堪え忍んでいた。

「ハハ…whatever」

俺は引き攣った笑みを浮かべて、今日一日の疲れを込めながらそう口にした。

☆ ☆ ☆  

クリスマス会終了後、俺は会場入口のホールでコーヒーを飲みながら3人を待っていた。

俺たち奉仕部はイベントの後片付けの手伝いを申し出た。片付けが概ね完了すると、3人は先に打上(エスコート)の準備をしろと言って俺を会場から追いやったのだ。

この後のプランには準備もクソもないのだが、なんだかんだ言いつつ彼女たちがイブの夜を楽しみにしていてくれたことが分かり、俺は少しだけ喜ばしい気分だった。

現在、3人は一色たちと最後の整理と記録作成を行っているところだ。

「よっ」

ふいに、会場から出てきた女子高生に声をかけられる。

「…さい…折本。お疲れ」

折本かおりも今回のイベントで海浜総合高校側から運営を手伝ったチームの一員だ。

迂闊にも再び斉藤と呼びかけたことを誤魔化しながら、俺は彼女の名を口にした。

「前にも言おうと思ってたんだけどさ、比企谷って、ほんと変わったよね」

折本は屈託のない笑みを浮かべながらそう言った。

「そうか?」

「普通に中学の時とは別人じゃん」

「まぁ人間年食えば、少しは変わるかもな」

「何それ、ウケる」

「ウケねぇから。若さって大事よ」

成人した後もあまり変わらなかった折本との会話パターン。

自然と俺も笑みを浮かべた。

「…昔は比企谷のこと超ツマンナイと思ってた。けど、人がつまんないのって、結構見る側が悪いのかもねー」

折本は少しだけ遠くを見るような仕草でそう言った。

「いや、んなこたぁねぇよ。実際俺は超ツマンナイ奴だったと思うぞ…ていうか、あん時は悪かったな」

「へ?何が?」

「いやその…まともに話してもないのにいきなり告白するとか、普通に考えりゃないわな」

そういえば、折本とはこの時代で再会した後も、さほど話をする機会がなかった。

俺は、斉藤姓となった彼女と再会し、ある時何気なく彼女と交わした大人同士の会話をなぞっていた。

奉仕部で過ごした高校生活が青春だったとすれば、折本に恋した中学生時代もまた、俺にとっての青春だったのかもしれない。いや、本当は消し去りたい黒歴史なのだから黒春と言った方がいいのかも知れないが。

「あはは、やっぱりフったの根に持ってるワケ?」

折本は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべるも、笑いながらそう尋ねた。

「いや、そうじゃねぇよ。そりゃ恥ずかしい過去だから、思い出して身悶えることもあるけどな。今考えりゃ、玉砕覚悟の突発的告白ってのはあれだ…あわよくばって下心が丸見えで行動に誠意が伴ってない。ワンナイトスタンド誘うのとやってんのは同じレベルだ。女からすりゃ、安く見るなって思うんじゃねぇの?」

「ワンナイト…?」

「…ワンチャンってやつだ」

俺は、折本が理解しなかった単語を、敢えて自分があまり使い慣れない戸部語に翻訳して再度口にした。

「なんか意味深なのにシモイ…っていうか私のことそんな目で見てたわけ?比企谷キモ」

「"今思えば"って前置きをちゃんと踏まえろよ。セクハラするつもりで言った訳じゃないから」

白い歯を見せながらケタケタと笑ってそう言う折本に、俺は少しだけ慌てて言い訳しながら周りを見渡す。

幸い3人はまだこちらにはやってきていないようで、俺は安堵の溜息を漏らした。

学習しない俺も俺だが、万が一今のが彼女達に聞かれていたら、どうなっていたか分かったものではない。

「でもさ、中学生とか高校生の恋愛なんてそんなもんじゃない?イケメンに告られたら取り敢えず付き合っちゃう、みたいな」

「それ、暗に俺がイケメンじゃないって言ってるよね?」

「だよね。ウケる」

「確かに今のは少しウケた…けどまぁ、お前はたぶんそういう女とちょっと違うだろ?」

"折本かおり"のメンタリティは今一つ分からない。だが、"斉藤かおり"はお世辞にも見た目がカッコいいとは言えない旦那との惚気話を臆面もなくする女性だった。彼女は相手の見た目だけでパートナーを選ぶ様な女ではない。こいつに何度も旦那と撮ったツーショット写真を見せられたことを思い出しながら俺はそう言った。

「ん〜どうかな?」

「ま、とにかく俺は男女関係の作法って奴を知らないガキだったんだよ…だから昔のことは水に流してもらえりゃ助かる、って話だ」

「へぇ~男女関係の作法ね。それを身に付けたから、今はあんな可愛い子達を3人も振り回してるってわけ?」

「いや…そういうんじゃねぇけど…」

からかうようにそう言った折本に対し、俺は言葉を詰まらせる。

「それに、比企谷は一つ勘違いしてるけど、あの告白…あれはあれで実は結構嬉しかったかな」

「ハァ?何でだよ?」

突拍子もないことを言い出した折本に対し、呆れ顔で聞き返した。

「告られる回数って女子にとっては一応ステータスだし…ん〜、痴漢被害を自慢する心理?みたいな?」

「おいおい、中学生男子が勇気を振り絞った結果が痴漢扱いかよ。血も涙もねぇな」

「だね、ウケる」

前言と矛盾する様な自己肯定の発言を口にして俺は折本と笑い合った。

その最中、世間ではこういう腐れ縁を持つ相手も友人と呼ぶのだろうかとふと考える。

未来の世界で斉藤かおりは、当時俺と付合っていた結衣と仲良くなった。2人で俺をネタにして笑い、時に俺抜きで2人で出かける程に近しい間柄を構築した。

にも拘らず、不幸にして俺と結衣が別れた後、あいつは俺との腐れ縁を手元に残すことを選んだ。

俺はその取捨選択を以て、彼女を自分の友人と見做すような稚拙で穿った考えを有しているわけではない。ただ、結衣と斉藤かおりの友情も、俺とこいつの10代からの奇妙な縁の上に成り立っていたという点に気付かされたのだ。

言い換えれば、俺と斉藤かおりとの関係性には、新たな別の人間関係構築の土台となるに足る厚みが有ったということだ。その考えは、後に彼女が沙希と親交を深めた時に確信に変わった。

「おーい、ヒッキー!」

俺の思考は、会場から出てきた結衣たちの声で中断される。

どうやら3人は最後の片付けを済ませた様だ。

「ほら、呼んでるよ。比企谷を呼び止めてたのがバレたら、また拉致されちゃう」

折本はそう言いながら俺の背中をバンと叩いた。

「…お前、あいつらに何されたんだよ?」

「それは言えない…じゃ、またね!…メリークリスマス!」

「…おう」

友情、特に男女間のそれは、俺には未だによく分からない。だが、こいつが俺にとって気楽な付き合いの出来る、数少ない相手の一人であることは確かなのだろう。

雪ノ下建設絡みの調査で長く気を張ってきたが、今日は特別な日だ。

心に新たに余裕を与えてくれた折本に感謝しながら、俺は3人と合流した。

☆ ☆ ☆  

「うわぁ!」

「やっぱり東京の夜景ってすごいね」

「確かに…綺麗だわ」

東京タワー展望台。

一面に広がる都心の夜景を前に、三人は感嘆の声を漏らす。

クリスマス会の後、俺は3人を都内へと案内した。

選択肢としてはありきたりなデートコースであり、混雑も予想されたため、特に人混みが苦手な雪乃が若干気になったが、どうやら杞憂だったようだ。

内心、この選択はかなり不安だった。

俺のよく知る都内のワインバー、ジャズバーは飲酒不可のため除外。

クラシック鑑賞はクリスマス会の演目と重なるため不可。

ホテル…言うに及ばず。

大人としての経験に頼らないデートコース決めは新鮮ではあったが、やはりハードだった。

「…あの光の一つ一つがサラリーマンが現在進行形で身を削って働いてる証明…いわば社畜の命の灯だ。それが汚いわけないだろ。っていうか、汚いとか言われたら俺は泣く」

俺は東京の夜景が何故美しいのかを、3人に懇切丁寧に説明した。

「なんか色々台無しだ!?」

「少し黙っていてくれるかしら?前途ある私達に悪影響だわ」

自分の大切な何かを一蹴されてヘコタレそうになる。雪乃さんはひょっとして、

俺には前途がないと、そう言っているのだろうか?

「…アンタも大人なら、もう少し夢のある話をしたらどうなの?」

そんなやりとりを見ていた沙希が、諭すような口調で俺に言った。

「夢って言われてもな…俺が目を輝かせてそんなもん語ったら、お前ら引くだろ?」

「確かに、とても似合わないわね…でもそれは偏見よ。進路や将来…貴方でも若者に向けて語ることができるものがあるのではないの?」

「そうだよ!ヒッキーが何で金融の仕事してるか、とか…前に海美ちゃんのお兄さんと会った時に少しだけ言ってたかもだけど、あたし良く分からなかったし…ちゃんと知りたいし!」

「そりゃお前…」

「給料が良いから、とかは無しね」

俺が口にしようとした言葉は、沙希の先回りによって禁止された。

「…わぁったよ……その代わり、絶対笑うなよ!?」

俺の念押しに対し、3人は期待感のこもった視線で俺を見据えて頷いた。

俺は咳払いを一つして、窓の外の光景をもう一度目に入れる。それを見ながら思い浮かんだ自分の漠然とした職業観を言葉に転換しつつ口にした。

「…この夜景の輝きを支えてんのは、人間の経済活動だ。生産する側の人間も、消費する側の人間も、等しくこの光の一部なんだ。こういう人の営みが作る光を広げてくってのが投資のあるべき姿だと、俺は思う…」

茶々を入れてくることを予想していたが、3人は意外にも真剣に聞いている。

ここで話を切ろうと思っていたが、皆、続きを待つ様な表情を浮かべている。

俺は無理矢理言葉を捻り出すように話を続けた。

「俺は自分が光り輝けるような人間だとは思ってないし、そんな風になりたいとも思わない。そもそも、あまり目立ちたくないしな…だが、そういう眩い輝きを持ってる奴を支えてやる位はしてやってもいい…そう思ってる」

ハッとした表情を浮かべる雪乃と目が合う。

「世界を変えたい」そんな大それたことを口にする奴は往々にして、夢想家で終わらないための努力を厭わない。

劉さんしかり、武智社長しかり、雪乃しかり。

それを支える、というのはこの時代に戻ってすぐの頃に雪乃に伝えたことでもあった。

「…投資は多分それと同じだ。人間の経済活動の中で、輝くポテンシャルのある分野に、そのために必要な金を流す。そいつがより明るく輝けば世の中全体が更に照らされる」

弁舌を続けるうちに段々と饒舌になってくるのを感じた。

自分の思考が、感情の表層に近い部分から、より核心的な部分へと入り込んでいく。

「だから…俺は知りたいんだ…世の中を動かす仕組み…その根底にある人間の気持ちってやつを理解したい。知って安心したい。分からないってのはひどく恐ろしいことだから…」

完全に理解したいだなんて、ひどく独善的で、独裁的で、傲慢な願いだ。浅くておぞましい願望だろう。

自身の言葉と思考に既視感を覚えながら、俺は自分の掌を見つめた。

「…これまで、この手でいくつもディールをクローズさせてきた。そのいくつかは成功し、いくつかは失敗した。成功した案件は、当然高額な報酬を齎した…でも俺は経済的に成功したかったわけじゃない。投資の成功は俺が理解していたことの…いや、そうじゃないな……完全に理解できなくても、知ろうとして、判断したことが、少なくとも間違えじゃなかったことの証明なんだ。だからそれを必死になって集めた…そうしてるうちにこういう仕事に憑りつかれちまったんだ」

そう言いながら俺はその手をぐっと握りしめた。

顔をあげて三人に視線を移す。

「「「…」」」

呆けた表情で、終始無言を貫く彼女たちの姿を見て、俺は自分の言動を冷静に客観視しながら振り返る。

急速に顔が紅潮するような恥ずかしさを覚えた。

「こ、これ以上はもう無理だ!酒も入ってないのに何言わせてんだよ…」

俺は先ほどまでよりもやや大きめの声で早口にそう言い訳した。

「ヒ、ヒッキーっぽくていいんじゃないかな?ね?」

「そ、そうね。最初の下らない話に比べればまだマシかしら…」

結衣と雪乃は俺に気を使うようにそう口にした。だが二人とも視線を俺と合わせようとしない。

その気遣いが却って俺の羞恥心を煽る。

そんなやり取りを見ていた沙希が口を開いた。

「由比ヶ浜も雪ノ下も大概素直じゃないよね…あたしは見直したよ。やっぱり聞いても良くわかんなかったけど…それでも、比企谷を好きになって良かったって思った」

沙希は俺に柔らかい笑みを向けてそう言った。

俺は年甲斐もなくその言葉と表情に自分の心拍が高鳴るのを感じた。

「あ!ずるい!」

「…ここで足並みを乱すとはいい度胸ね」

「いいじゃん。クリスマスだし」

即座に抗議した2人を尻目に、沙希は少しだけ子供っぽい表情を浮かべてそう言った。

「…そろそろ行くか…腹減ってないか?この後の店も予約してあるんだが…」

「やった!」

俺が恥ずかしさを誤魔化すように口にした言葉に結衣が嬉しそうな反応を示すと、雪乃と沙希もフッと笑った。

「街の夜景も綺麗だけど、こっちも凄いね!」

展望台をエレベーターで下り、タワーを後にして数分歩いた後、結衣が後ろを振り返ってそんな声を上げた。雪乃も沙希も、口には出さないものの、夜の闇にぼんやりと輝く巨大な塔の姿に釘付けとなっていた。

クリスマス仕様のライトアップで色鮮やかな光を放つタワーの姿は、それを見る多くの人の心を惹きつけている。

――50年以上も前に竣工した錆び臭い鉄塔が、未だに人の心を奪う…か

そんな光景を目にして、俺は少しだけ捻くれた考えを頭に浮かべた。

「…あ、雪…」

不意に、沙希が空から降ってきた雪に気が付く。

「…ホワイトクリスマスね」

雪乃は舞い落ちてきた雪を手の平で受け止めながら、そう口にした。

目前の景色を前に、今彼女達3人が感じていること、考えていることは、ひょっとしたらそれぞれ違うのかもしれない。

いや、そもそも違う人間が、物事を同じように感じることなど、永遠にないのかもしれない。

――それでも…それでも俺は…

叶うならば、彼女達とずっと、同じ景色を眺めていたい。

そんな望みを胸に抱きながら、俺は3人の姿を自分の目に焼き付けていた。


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