予想通り、説明会からの2カ月間は、毎日日付が変わるまでの残業を繰り返す激務の日々となった。
日系企業からの視察出張者の確認、現地パートナーとの視察スケジュールすり合わせ、移動工程にかかる打ち合わせ、追加の資料作成等、いくつもの作業を並行して進める。
社内のみでなく、葉山の事務所と連携しながらファンド組成の契約書内容のチェックも遅滞なく進めなければならない。
俺は槇村さんの指示で、タバコをカートン単位で仕入れ、缶コーヒーを段ボール買いし、オフィスに常備させた。
上司と二人で大量のニコチンとカフェインを摂取して、この難局を乗り越えた。
ちなみに、渡された万札でマッ缶を大人買いし冷蔵庫に保管しておいたところ、何も知らずに口にした槇村さんがデスクで盛大に噴き出すという事件が発生した。
俺は過去にない勢いで槇村さんからボロクソに怒られ、コーヒーの買い直しを命じられた。
槇村さんは、お裾分けと称し、俺に余ったマッ缶をディーリングルームの宮田さんへ届けさせた。
当人は嫌がらせのつもりだったようだが、宮田さんはマッ缶の味をえらく気に入った様子だった。
「味覚異常師弟コンビ」、俺と宮田さんの呼び名がまた新たに一つ追加された。
☆ ☆ ☆
出張前夜
俺はこの日、早朝5時に出社し17時までの12時間で、全速力で業務を片づけた。
17時にオフィスを飛び出し、沙希を呼び出した高級レストランへと向かった。
当初、沙希は二人の記念日よりも、姪の誕生日会を優先させるべきと言って譲らなかった。
結局、今日二人でデートすることとなったのは、30代未婚にも関わらず、結婚の話も出てこない俺たち二人の関係を懸念した小町が気を回した結果だった。
――今年はお義姉ぇちゃんのために、二人だけで記念日を祝ってもらうことに決めました!今大志君に雰囲気のいいレストラン選んでもらってるから、二人で楽しんで来てください!誕生日会の様子は後でビデオ送るから、気にしないでね!
1週間前に俺の携帯に入った、小町からの留守電。
小町の気遣いがなければ、沙希は意地でも誕生日会に参加すると言って聞かなかっただろう。
「今日はありがとう。こんな素敵なところ、よく見つけたね。かなり高そうなレストランだけど、大丈夫なの?」
ドレスコードにあわせて着飾った沙希が遠慮がちに聞いてきた。
「レストランを選んだのは大志だ。激務に見合う給料は貰ってるし、金は使う暇がなくて溜まっていく一方だ。問題ない」
「・・・ハァ。あんたらしいと言えばあんたらしい受け答えだけど、相変わらず女心なんてこれっぽっちも理解してないんだね。もはや致命的というか・・・」
「・・・すまん。」
「いいよ、べつに。・・・あ、この前菜美味しい!」
ジト目でつまらなそうな顔をしたかと思えば、食事を口にして喜びの表情を浮かべる。
沙希は普段、あまり喋ったり感情を表に出したりする方ではないのだが、今日のようにクルクルと表情が変わるのは機嫌がいい証拠だ。
仕事を頑張って片付けた甲斐があった。ご機嫌な沙希を見ていると心底そう思えてくる。
「なんかさ、専業主夫志望とか言ってたあんたが、外資系金融マンだなんて、笑っちゃうよね」
デザートを食べ終えた時、ふと沙希が口にした。
ワインは二人で1本空けており、二人とも既にほろ酔いだった。
「黒歴史を掘り返すなっての。いつの話をしてんだ」
「・・・・仕事さ、きつかったら辞めたっていいんだよ?こういうレストランに頻繁に来るのはキツイけど、私もそれなりに稼ぎあるし、今の私ならあんたの夢、叶えられると思うんだけど」
沙希の言葉に、酔いが醒めていくのを感じる。
「沙希・・・お前」
「あ、ごめん!今の無し!別に無理に結婚してくれなんて言う気はないの。ただ、あんたともっと一緒にいる時間が欲しいというか、ずっと一緒にいたいって言うか・・・・何言ってんだろ私!忘れて!」
30過ぎの未婚女子であれば、結婚願望が強いのが当然だ。
沙希が俺に貴重な時間を捧げてくれていることを考えれば、責任を取ることも真剣に考えなければならない。
沙希のことは愛しているし、自分が一生をかけて守ってやりたいと考えている。
だが、俺は結婚には踏み切れないでいた。
誰かと結婚することを考えると、どうしても雪乃と結衣の顔が脳裏にちらついて離れなくなる。
これは未練以外の何でもない。
ただ、ことあるごとに過去の女のことばかり思い出してしまう俺が、沙希の人生を預かるなんてことは、申し訳なくて言い出せなかった。
沙希はそんな俺の気持ちを見透かしているのか、決して自分から結婚を迫ってくることはなかった。
今のやり取りのように、結婚が話題に上がっても無理やり誤魔化した。
☆ ☆ ☆
夜、自宅寝室にて
「今日は、その、ごめん。」
隣で布団を被っていた沙希が急に謝罪の言葉を告げる。
「何か、お前が謝るようなことがあったか?」
「・・・専業主夫になる?って聞いたこと」
「気にしすぎだろ。というか、俺の方こそすまん。これまで沙希の好意に甘えすぎていた。将来のこと、ちゃんと考えてはいるんだが・・・」
「私は別にいいの。アンタが隣にいてくれるなら、入籍なんてしてもしなくても、関係ないし」
「・・・沙希のことは、心から愛してる。他の男には渡したくないし、今後もお前を悲しませるような行動は絶対にとらないと誓える・・・・ただ」
「雪ノ下と由比ヶ浜のことでしょ?付合い出す前から言ってたもんね・・・忘れられないって。それでもアンタに横にいて欲しいって言ったのは私だから、別に気にしなくていいの。」
「すまん」
「・・・出張頑張ってね。1週間、ちょっと長い分、今日は充電させてもらうから」
抱擁と口付け。
お互い、衣服を纏わず裸で抱き合ってしたキスに年甲斐もなく興奮を覚え、鼓動が高鳴る。
沙希の唇、頬、首筋にキスをし、胸のふくらみに手を乗せる。
「んぁ!」
その反応を聞く度、自分の中で、沙希に対する支配欲が急激に高まっていくのを感じた。
「・・・八幡、ちゃんとここに帰ってきて。私、待ってるから」
目を潤ませながら沙希が言う。
口付けした沙希のまぶたから涙の味がした。
沙希は何故泣いているんだろう。
俺の煮え切らない態度に対する悲しみか、1週間会えなくなることへの寂しさか、性的興奮から生じた生理現象なのか、その答えは沙希にしかわからない。
舌先に涙の味を感じた瞬間、俺の頭の中を、2人の女性との行為の記憶が駆け巡った。
だから、俺は女の涙とセックスの組み合わせが大嫌いだ。
幻惑を振り切るかのように、その晩、動物のように俺は沙希の体を求めた。