比企谷八幡 「・・・もう一度会いたかった」   作:TOAST

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19. 比企谷八幡は夏休みを謳歌する(上)

――お願いです、あいつの…雪乃の居場所を教えてください!

その日は土砂降りの雨だった。俺は全身ずぶ濡れになりながら、目前に立つ一人の女性に縋るようにそう叫んでいた。

「…繰り返すけど、雪乃ちゃんが比企谷君に会うことはもうないの」

「何でです!?一体何があったんですか!?」

伝えられる拒絶の言葉。それに対して掴みかかるような勢いでそう食い下がった。

「それも君には関係ないことだよ…」

この女性が、俺の熱意に折れて味方してくれる、なんてことは絶対にない。そんなことは分かりきっていたが、諦めが付かなかった。

「もう私達の問題に構うのは止めて…どうしても雪乃ちゃんが忘れられないって言うなら、代わりに私のことを好きにすればいいじゃない…ほら、私たち良く似てるでしょ」

彼女はそう自嘲的に笑いながら言い、自分が差していた高そうな傘を俺に差し出した。

俺は彼女の言葉に激昂した。他人の言葉にこれ程感情を掻き乱されたのは自分の人生で初めてかもしれない。

傘の柄が握られた彼女の手を無言で払い除けると、開いた傘が風を受けてコロコロと転がって行った。

彼女が着ていた綺麗なワンピースはあっという間に雨を吸い、長い髪が肌にべっとりと張り付いた。

数十秒の沈黙。不快な雨音だけがが俺たちを包み込んだ。

「…ふざけないでください」

俺は苛立ち交じりにそう伝えるのがやっとだった。

「…これ以上騒ぐなら警察を呼ぶよ」

俺の言葉に帰ってきたのは、相手を腹の底から凍りつかせるような、そんな冷たい声だった。

俺はそれ以上何も言うことができず、その場に立ち竦んだ。

「…もう終わったんだよ…解ってよ」

最後に彼女が残した言葉。彼女には似合わない、今にも泣き出しそうな弱々しい声だった。

それを聞くと、自分の心が無力感に支配され、視界がどんどん曇っていった。

気付くと彼女の姿はそこに無かった。

――もう終わった

悲しそうに最後にそう言った女性、俺の初めての彼女であった雪ノ下雪乃の姉、雪ノ下陽乃の言葉は、いつまでも俺の耳の奥に響いた。

「……雪乃…」

米国西海岸サンノゼと成田間の直行便。俺はその機内の座席で女性の名を口にしながら目を覚ました。

乗客の多くは座席で眠りに就いており、通路の非常灯がぼんやりと薄暗い機内を照らしていた。ジェットエンジンの轟音が鳴り響いているが、既に耳が慣れてしまったせいか、特段不快には感じなかった。

――久々にあの時の夢か。めっきり見なくなってたのに。やっぱ、夏休み前のアレが原因か…

アレ、とは、劉兄妹とランチに行ったあの日の出来事のことだ。

あの日、俺は失言で雪乃を傷付けてしまった。

後日、俺たちは表面上は何事もなかったかのように夏休み前の1ヶ月を過ごしてきた。だが、特に俺と雪乃の間のコミュニケーションには、どことなくぎこちなさが残る結果となってしまった。その様子は沙希や結衣にも伝播してしまい、表面的な交流が場を支配し、奉仕部は皆がどことなく居心地の悪さを感じる場と化した。

あの日、劉さんたちと別れた後、俺はショッピングモールで結衣の誕生日プレゼントを買ったのだが、結局それも渡せずじまいとなってしまった。

俺は溜息を吐きながら窓の外へ目をやった。

外は真っ暗で何も様子がわからない。薄暗い機内の光が反射して、死んだような目をした自分の顔が飛行機の2重窓に映り込んでいた。

――ちっ、いつにも増して腐った目だ

俺は大きめの欠伸をしながら固まった背中をストレッチさせ、座席に設置されたエンターテイメント用ディスプレイに、フライト情報を表示させた。

成田到着までまだ6時間以上あるようだ。

ペットボトルに手を伸ばし水を一口飲むと、再び座席にもたれかかった。

『…Hachiman, how many more hours to get to Tokyo?』

不意に横から神経質そうな細身の白人中年男性が、眠たそうな声で到着までの時間を俺に尋ねてきた。

『Sorry, did I wake you up? We still have six hours to go :起こしちゃいましたか、すみません。まだ6時間もありますよ』

この男性は総武光学に出資をしたファンドに所属する技術アドバイザー、マーティン・ホワイト氏だ。この人物と初めて会ったのは、槇村さん・宮田さんの紹介を受けて、武智社長と雪乃と共にファンドメンバーとの面談に乗り込んだ時のだった。

俺はマーティンさんの質問に答えながら、少しだけ背筋を伸ばして、やや離れた座席に座る人物の姿を確認した。そこには、長時間のフライトにはまるで慣れていないと言った雰囲気で、寝苦しそうな表情を浮かべている武智社長があった。

俺たち三人は、夏休み初日から一週間半をかけ、総武光学の紹介のため、世界中のテクノロジー企業との面談、工場見学等を目的とした出張を敢行した。

今、ようやくその旅も終わりを迎えようとしている。

『we’d better go to sleep then. No one wants to suffer from jet lag : じゃあ寝たほうが良い。時差ボケは避けたいしね』

『haha you are right : ハハ、そうっすね』

このマーティンという人物、理系の技術畑出身で、武智社長が驚く程の光学モジュールに関する専門知識を披露したのが前回の面談時点だった。今回の旅の途中、想定通り、

俺という通訳を挟んで二人は勝手に意気投合していた。

一見すれば、ただの細身メガネ白人のオッさんにしか見えないのだが、元々、今回の企業訪問も、その殆どが彼の個人的なリレーションがあってアポイントメントが取れたものだった。

本来、この出張は武智社長とファンドの面々で7月上旬に予定していたものであった。そこを敢えて、高校が夏休みに入るまでスケジュールを後ろ倒しして欲しいと俺が頼み込んだのだ。

その甲斐あって、得るものが多い出張となった。最後に訪問したシリコンバレーの企業からは、マイクロモジュール商用化時の独占契約締結をその場で迫られる程、高い興味を示してもらえた。現状、総武光学への投資は、極めて順調と言っていい。

――あいつらとの関係も、このくらい順調なら良いんだけどな

そんな事を考えながら自嘲的な笑いを浮かべ、機内エンターテイメントディスプレイの電源を落とす。

薄っぺらいブランケットを身体にかけて、俺は再び目を瞑りかけたその時だった。

『…Hachiman, ひょっとして、君は何か悩んでいるのかい?』

眠れと言ったマーティンさんが俺を呼び止めた。出張中、この人はいつもこんな具合に、何かと俺を気にかけるような発言が見られた。

『…まぁ…でも大したことじゃないですよ。マーティンさんが言った通り、そろそろ寝た方が良い』

俺はやんわりと会話を終わらせるように言葉を返した。

『…悩むのは良いことだ。特に若いうちはね。賢い君のことだから、どんな問題でも合理的な思考で一歩ずつ解へと近づくだろう。だが、覚えておくと良い。どれ程合理的な解であっても、それが君の根底にある欲求や情熱を肯定するものでない限り、それは誤りだということをね』

『…何すかそれ?映画のセリフか何かですか?』

分かったような顔で良くわからない事を口走る中年男性に、思わず呆れ顔でそう呟いた。武智社長に対してだったら決してこんな口の利き方は出来ないが、英語だとストレートに地が出てしまう時がある。

『ハハハ、君は失敬だね…僕は理系の技術職だろう? 昔はステレオタイプのイメージのまんま、勉強しか出来ない根暗だったんだ。ハイスクール時代はずっとヒエラルキーの最下層だったよ。だが、そんな人間でも大人になって、恋をし結婚もした。経済的にも成功したと言って良い。だから君のような子にはつい構ってやりたくなるのさ』

『…俺は確かに学校じゃ浮いてるかもしれませんけど、別に虐められてるわけじゃありません。充分学生生活を満喫しているつもりですよ』

『そうかい、それならいいんだ…僕には小学生の娘がいてね。日本語で苦労してる様だが、幸い妻に似て学校では上手くやっているみたいだ。だから尚更、君のような男子は若い時の自分と重なって親近感を覚えるのかな…なんてね。じゃあ、お休み』

そう言うと、マーティンさんは座席の上でゴロンと体を半分ひねり、俺に背を向けた。

『…ヒエラルキー、ね』

そういや、あの頃はスクールカーストがどうとか、良く口にしてたよな、俺。

まぁ、俺が今頭を悩ませているのは、別にそういうことじゃないんだがな。

根底にある欲求や情熱を肯定する解、か……ん?カッコつけてるけど、要するに、やりたいようにやれって言ってるだけじゃねぇか。

俺に背を向けて先に寝入ってしまったこの人物を見て、フッと笑みが浮かんだ。

こういった小難しい言い回しを好む所に、マーティンさんがスクールカースト底辺のガリ勉だった頃の面影を感じ取り、少しだけ微笑ましさを覚えた。

悩みのポイントはズレていたものの、この人が俺という人間を理解しようとし、過去の自分と重ね合わせて言葉をかけてくれたことは思いの外嬉しかった。

死に戻りして再び与えられた、あいつらと共に過ごす時間。

俺は、あいつらと一体どんな関係を築きたいのだろうか。

現状は、付かず離れずの欺瞞に満ちた関係だ。こんなものがいつまでも続くとは到底思えない。

だが、俺の心はそんな「今」に心地良さを感じている。そして今回の雪乃とのすれ違いでハッキリしたように、俺は3人との関係を失うことを明確に恐れている。

――あいつらに…早く会いてぇな

そんな正直な気持ちがつい口をついて声に出そうになるのをぐっと抑え込んだ。

成田までの6時間、こうなってしまえば眠れそうに無い。

長く孤独なフライトの時間をどうやり過ごすか、俺は考えることにした。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

「いや〜、お疲れ様!一緒に来てもらって本当に助かったよ、比企谷君」

成田のスーツケース受け取り口で、武智社長は満面の笑みで俺に礼を述べた。

「いえ、俺の方こそ無理を聞いて貰って、連れて行って頂いて有難うございました…これ、持って行って下さい」

俺はそう言いながらUSBメモリーを武智社長に差し出す。

「これは?」

「出張中の面談の議事録です。飛行機の中で書いときました。それから相手先企業の写真データもいくつか入ってます」

「!?…そんな事までしてくれたのかい?」

「眠れなかったので…良い暇つぶしになりましたよ」

武智社長はメモリーを受け取ると、改めて俺に礼を述べた。会社のメンバーに直ぐに出張報告すると息巻いている。

『Takechi-san, Hachiman, 今回、お陰様で良い出張になりましたよ。これからが総武光学のビジネス拡大の本番です。引き続きもよろしくお願いします』

『こちらこそ…本当に有難うございました、マーティンさん』

武智社長は、たどたどしいながらも英語でそう礼を述べた。初めてファンドマネジャーを訪れた日から、武智社長は必死で英語を勉強しているらしい。まだまだ本格的なコミュニケーションが取れるレベルには至っていないが、今回の出張でも一部の発言は直接英語で言ったり、俺の通訳無しに相手の発言を聞き取っていたりと、その努力の成果が随所に伺われた。

『所で、僕はこれから社用車で家に帰ります。お二人はどうしますか?よろしければ一緒に乗って行きませんか?』

ゲートを出たところ、マーティンさんが帰りの足をオファーしてくれた。

『ありがとうございます…でも俺は家から親父が迎えに来ることになっているので結構です。武智社長を送って頂けますか?』

『No problem. じゃあ行きましょうか、武智さん。また近いうちに会おうHachiman, …学校生活も頑張ってな』

マーティンさんはそう言残すと、武智社長の方を軽くたたいて入国ゲートへと消えていった。

――俺もそろそろ行くか。親父に電話しねぇと

俺は家族の顔を思い浮かべながら、ずっと電源を落としていた携帯電話のスイッチを入れた。

――ヴヴヴヴヴヴ

電源が入り、電波を拾った瞬間から、俺の携帯は小刻みな振動を続けた。数秒たっても止まる気配が無い。

――おいおい、着信何件入ってんだよ…これ、俺の携帯だよな?

携帯のディスプレーに表示される着信履歴、メール受信数は50を超えている。

あまりの数に、一瞬、武智社長の携帯を手違いで手にしているのではないのではないかと、疑念を抱いてしまった。

内容を確認すると、その大半は平塚先生によるものだった。

画面をタップして一番上にリストされていた最新のメッセージを表示させる。

【 比企谷君へ どうして電話に出ない んですか。 君を待っています 絶対逃し ません】

――怖!

怪文書にしか見えない恩師からのメールに戦慄を覚える。

そう言えば、過去の夏休み、平塚先生が突然連絡を寄こして来て、小学生のキャンプ同行に参加させられた様な気が…

俺はその場で平塚先生に電話するかどうか、30秒程悩んだ末、一先ずゲートの外で待っている親と合流することに決め、税関へと足を進めた。

税関ではマーティンさんや武智社長はスルーだったのに、何故か俺だけスーツケースを開けさせられた上に、ボディチェックも受ける羽目になった。

「ランダムチェックへのご協力、感謝します」

検査後、空港職員は背筋を伸ばしてそう礼を述べたが、この職員、明らかに俺を不審者扱いした。俺は相手を軽く睨みながらスーツケースを閉じたのだった。

「こんなんなら、2人と一緒に入国してから別れりゃ良かった…」

そう独り呟きながらスーツケースを引きずり、入国ゲートをくぐる。併せて親父へと電話をかける…が出なかった。

――何なんだよ、親父め。

心の中で悪態を吐きながら、今度は妹、小町の登録番号をタップする。

「あ、お兄ちゃん?空港に着いたの?残念ながらお父さんは迎えに行けなくなっちゃったから!」

直ぐに電話に出たものの、第一声から浴びせられた残念なお知らせに軽く凹む。

「え!?マジかよ?」

「大丈夫!ちゃんと替わりに迎えが行ってると思うから!がんばってね!」

「は!?おい、替わりってなんだ?」

「ピッ…プーップーッ」

俺の質問に答えたのは無機質な機械音だった。

はぁ、と、溜息を吐きながら、エレベーターへ向って歩みを進める。

流れに乗って、エレベーターへ乗り込もうとした瞬間、俺は何者かにグッと肩を捕まれた。

「比企谷…待っていたぞ」

振り向くと、そこには仁王立で俺を睨む恩師、平塚静の姿があった。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

「…で、その小学生の林間学校に俺たち奉仕部が参加することになったってことっすか?」

俺は平塚先生の車の助手席に乗せられて、成田空港を後にしていた。

先生から俺を待ち構えていた理由を聞く。それは過去にも、夏休みの奉仕部課外活動として参加した、小学生の林間学校の同伴であった。

どうやら今日は既にキャンプ2日目、最後の夜になるそうだ。

奉仕部以外にも、葉山、戸部、三浦、海老名、それに戸塚も参加しているらしい。

そして、小学生の中には、集団から孤立した女子生徒が1名。彼女をどう扱うかについて、皆で揉めているようだ。

――懐かしいな

俺は15年以上前のおぼろげな記憶の中から、件の少女を思い出そうとしていた。

名は確か…鶴見と言っただろうか。

あの時は俺の提案で、俺たち高校生集団が少女を取り巻く集団をバラバラに切り離し、問題の"解消"を図ったのだった。

時差ボケで眠たい目を擦りながら車のデジタル時計を見る。時刻はちょうど正午に差し掛かろうとしていた。

しかし、このタイミングの良さは何だろう。俺が3人に早く会いたいと願ったのが天に通じたのだろうか。長旅の疲れにもかかわらず、思いの外、気分は悪くなかった。

「そう言うことだ。君にはさっぱり連絡が付かなくて困ったよ。君が海外にいることは、先日妹さんが教えてくれたんだ…全く、旅行に行くなら先に教えてくれればいいものを」

「いやいやいや!おかしいですよね!? 先生こそ先に林間学校のスケジュールを教えてくれればよかったじゃないですか!わざわざ成田で待ち受けてるなんて、ストーカーじみてませんか?」

「比企谷…女性に向かってそんな言い方はないだろう」

「…普段無駄に男らしい癖に、こんな時だけ女を使いますか…って、先生!高速降りて下さい!一旦着替えくらいさせてくださいよ!」

1週間越えの海外旅行と言っても、俺が行ってきたのは純粋なビジネストリップだ。

俺は今、革靴にスーツという、およそキャンプ場には似つかわしくないいでたちであり、スーツケースには、着用済みの下着とYシャツが数枚入っているのみだった。

「私を傷つけた罰だ…それに君はタダでさえ遅れての参加だ。これくらい我慢したまえ…なに、気にすることはない。その恰好、よく似合っているぞ」

平塚先生はニヤリといたずらっぽい笑みを浮かべると、アクセルを踏み込む。

そしてそのまま、俺の自宅へのルートとなるインターチェンジを無情にも通り過ぎた。

 

唖然とする俺を乗せ、平塚先生の車は群馬方面へと加速していった。

 

 

 

 

 


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