上海から始まった中国各地を巡る出張がようやく終わりを迎え、俺は羽田に戻ってきた。
一週間に及ぶ旅の途中、日系企業の参加者の面々とは腹を割ってアジアにおける投資にかける想いを語り合い、共にこのプロジェクトを成功させようと盛り上がった。
最後まで同行し、時に通訳まで務めてくれた劉副市長も、この案件を両国の新たな関係を築く為のシンボリックなプロジェクトとなるよう尽力したいと言い、日系企業からの出張参加者に感謝の念を述べて上海へ戻っていった。
今回の出張は大成功と言って良いだろう。大きな仕事の山場を越えた達成感に浸りながら、俺はタクシーに乗って、空港から都内の自宅への帰路についた。
マンションのドアを開くと、そこには沙希がいた。嬉しそうな顔をして、玄関へとやって来る。
俺は一週間分の衣類と書類の束が入ったスーツケースを床に放り投げて、沙希を抱きしめた。
「ただいま。わざわざ家で待っててくれたのか。ありがとな」
「…すぐに会いたかったから来ちゃった。疲れてるのにゴメン」
「いや、嬉しいさ。仕事が立て込んで一週間会えないなんてのは良くあるが、海外出張で離れ離れってなると、結構寂しくなるもんなんだな」
「電話くらいすれば良かったのに。仕事の邪魔になるかもって思うと、こっちからは中々かけられないんだから」
「いや、すまん。中途半端に沙希の声を聞くと、仕事放り出して帰りたくなっちまうからな…我慢した」
「何言ってんのさ…バカ」
玄関に立ったまま抱き合って沙希とそんな会話を紡ぐ。
体に伝わる沙希の温もりが、疲れ切った俺の身体中に染み渡っていくように感じた。
「しかし、今回の出張は流石に疲れたな。ちょっとだけ寝ても良いか?」
「そうだね、お疲れ。おいで」
そう言うと沙希はベッドに腰掛けて腿を軽く叩いた。
俺はそのジェスチャーに従うように自分の頭を沙希の太腿に乗せ、目を閉じた。
——ちょっと、そろそろ起きた方が良いんじゃない?
彼女の膝枕で眠りに落ちかけた時、不意に響く声と肩を揺さぶられる感覚に意識を呼び戻された。
目を開いた途端、自分を取り巻く世界がボヤけ、全てが溶けていくような感覚に陥った。
「…今日、勉強会の日でしょ?あんまり遅くなると雪ノ下にまた煩く言われるよ」
「ん…沙希?どうした?」
俺は半ば朦朧とする意識の中で、再会したばかりの恋人の腰を抱き寄せて、お腹に顔を埋めた。
「え!?ちょ、ちょ!? えっ!?」
硬直して、慌てふためく沙希の声を聞く内に、自分の感覚が急速にシャープになるのを感じた。
バッと顔を離すと、そこには高校の制服姿の沙希が真っ赤な顔をして混乱している姿があった。
教室には俺と沙希以外の生徒が誰もいなかったのは不幸中の幸いだろう。
時刻は既に放課後。皆部活へ行ったか、帰宅した後だと推測された。
「す、すまん!完全に寝惚けてた!」
慌てて謝るが、時既に遅し。沙希の動揺は尋常ではない様子だった。
短めの前髪を弄りながら完全に俯いてしまっている。
「謝って許されることじゃないと思うが、マジで悪意は無かったんだ。本当に済まなかった」
「…ちょっと…ビックリした」
沙希は小声で恨めしげにそう答える。その頬はまだ赤い。
「…悪かった。お詫びに何でもする」
沙希が人を呼ぼうと騒ぎ立てるような行動を取ろうとしていないことが確認できると、俺も一旦は安堵し、多少狡猾だと思いつつも、口止めの為の提案を行った。
「…缶コーヒー…ブラックがいい」
沙希は俺と視線を合わせないように、かつ自身の心拍を抑えるように胸に手を当てて、そう答えた。
☆ ☆ ☆
俺たちは並んで歩きながら自販機コーナーへ向かっている。
なおも沈黙を続ける沙希の雰囲気に耐えかねて、俺は必死に話題を探した。
「…今日は海美と材木座が部室に来る日だったか?」
取り敢えず今日の活動内容を確認する。俺が居眠りしていた間に、雪乃と結衣は既に部活を開始したようだった。
「…そうね。でも、あの劉海美って一年、ホントに勉強会なんて必要なの?あの頭の良さは尋常じゃないよ」
ようやく会話に応じた沙希が口にしたのは、海美の才覚に対する彼女の評価だった。
沙希が奉仕部の勉強会に参加し、海美とも面識を持つようになって数週間。
海美の学力は付き合いの浅い沙希にも十分過ぎるほどのインパクトを与えたようだ。
「元々は補習授業を通訳してやるのがメインだったんだがな。まさかこんな短期間で日本語があそこまで上達するとは、俺も想定外だった」
沙希の様子を伺いながら、会話を合わせる。
「…ところでアンタ、最近やたら眠そうにしてるけど夜何してんの?…さっきだって、5限目からずっと居眠りしてたし…」
話題を切り替えたのは沙希の方だったが、先程のアクシデントを思い出したのか、喋りながら声が小さくなっていった。
「まぁ、何つうか、ちょっとした内職だ…俺たちのチームが職場見学に行った例の会社への投資の絡みでな」
以前面談したベンチャーキャピタルファンドが本格的に総武光学に対する投資を検討するに当たって、シビアな情報開示を求めてきたのだ。
決算書、登記関係、銀行の融資契約、販売契約、仕入契約、特許関係、その他会社の運営を網羅する書面上の資料に隈なく目を通すつもりらしい。
俺と雪乃が面談で相手に合わせ、英語で完璧に近いコミュニケーションを取った事で相手の信頼を勝ち得たまでは良かったが、その所為で相手の此方に対する要求水準が大きく跳ね上がってしまった。
具体的にはそれら資料の翻訳、またはサマリーを英語で提出して欲しいと言った注文を付けられる形になってしまった。
流石にこんな作業まで雪乃に分担してもらうのは忍びない。
そう考えた俺は、1人夜な夜な武智社長や財務担当者と連携しながら資料の作成に当たっていた。
武智社長は、例え自宅での作業とはいえ、高校生の俺に夜間労働をさせる事に相当の抵抗を感じていた。
だが、ここは少しでも有利な出資条件を引き出すための踏ん張りどころであるとして、俺の方から全力で首を突っ込んで行った。
「…よく分かんないけど、やっぱりアンタって凄いんだね」
「んなこたぁねぇよ。ただの趣味だ」
俺は自販機に硬貨を投入し、沙希嬢ご所望のブラックコーヒーとMAXコーヒーを購入すると、一本を沙希に差し出した。
「…ありがと」
恥ずかし気に礼を述べると、沙希はチビチビとコーヒーを飲みだした。
そんな沙希の様子を見ると、自然と頬が緩むのを感じる。
安心したせいでまた長めの欠伸が出てしまった。
社会人になった俺にとって、深夜残業は日常茶飯事だったが、俺は業務中に居眠りをするような事は一度もなかった。
当初は、肉体が高校生に戻った今なら徹夜仕事も余裕だろうとタカを括っていたが、中々そういう訳にも行かないらしい。
むしろ育ち盛りのこの身にとって、睡眠欲というものは、オッサン化した時以上に大きな障害となっていた。
敢えて言えば、今の体は睡眠欲だけでなく、食欲、性欲と、人間の三大欲求に異常なまでに敏感に反応しているような感覚があった。
睡眠や食事は百歩譲って問題ないにしても、性欲の発露については危機感を覚える事がままあった。
先日の雪乃の件といい、先程の件と言い、一歩間違えれば大事な女性を傷付ける様な大きな過ちに繋がりかねないのだ。
こればかりは如何なる時も、鉄の理性で抑えつけねばならないと、改めて自分に言い聞かせた。
「…そう言えばさ、…さっき何の夢見てたのさ?」
手にしていた飲料を大方飲み終わった頃に、沙希が遠慮がちに先程の一件を蒸し返してきた。
「そりゃ…ちょっと言えねぇな」
一週間ぶりに会ったお前に膝枕してもらってたと、事実を伝えたら沙希はどんな反応をするだろうか。
さっきのやり取りから推察するに、怒ったりはしないだろう。
だが、俺の事を過剰に意識させる様な言動は慎まなければならない。
「……あたしの名前…」
「え?」
消え入りそうな声で呟いた沙希の言葉を耳で拾い切る事が出来ず、思わず聞き返してしまった。
「…寝惚けてたって言ったけど、起きがけに名前呼んだ…よね。…あたしの夢見てたの?」
女の感は鋭い。いや、ただ単に俺がとんだマヌケだっただけか。
「…かもな」
嘘を吐かないという最低限の誠意を意識していたせいで、言葉を濁したつもりでも、yesと殆ど変わらない返事をしてしまった。
「…そうなんだ」
心なしか嬉しそうにそう呟いた沙希を見て、俺の心は嬉しさと罪悪感の板挟みに陥った。
☆ ☆ ☆
「探したぞ、比企谷八幡!」
そろそろ部室に向かおうと俺が提案しかけた時、背後から大きな声がした。
「材木座、何やってんだ?海美が待ってんじゃないのか?」
自分の事を棚に上げて、声の主にそう答える。
沙希が横にいたせいか、材木座は一瞬前と打って変わって、途端に挙動不審になった。
「何だよ?何か用があったんじゃないのか?」
「いや…それがだなぁ」
歯切れの悪いレスポンスに加え、沙希の方を横目でチラチラと気にする様な素振りに、俺は溜息をついて沙希に話しかけた。
「すまん川崎、先に部室に行っててくれるか?雪ノ下と由比ヶ浜には適当に言い訳しといてくれると助かる」
「適当にって…まぁ、仕方ないね」
沙希は渋々といった感じで頷くと、1人部室へと歩きだした。
「で、一体何なんだ?」
沙希の姿が見えなくなったのを確認して、俺は話を切り出した。
「う、いや、そのだな…そうだ、八幡よ!我の考えた新作のストーリーなんだが…」
「そうだ、って何だよ?いい加減にしろ。本題に入らないなら、俺は先に部室に行くぞ」
材木座が本当に相談したがっている内容を引き出そうと、若干イラついている様な態度を取ってハッパをかけた。
「く…折り入って相談がある。海美殿のことだ」
材木座は話にくそうにしながらも、ゆっくりと腹の中を晒し始めた。
☆ ☆ ☆
「まさかお前から恋愛相談を受けるとは…しかももう告白したって…お前な」
勉強会やマンツーマンでの日本語学習に付き合ううちに、材木座は海美に惚れてしまったらしい。
免疫のない非モテ系男子にありがちなパターンだ。
「声が大きいぞ、八幡!人に聞かれるではないか!」
「いや、お前のが声デケェから」
今日一番のボリュームで喚く材木座に対し思わずツッコミを入れたが、普通相談するなら告白する前なんじゃないのか、といった追い討ちは、武士の情けで心の内に留めた。
まぁ、その勇気があっただけ大したものだと、上から目線で前向きに評価した。
「で、海美の奴はなんて返事したんだ?」
結果を察した上で、一応の報告を求める。
「海美殿は、母国の大学に進学を予定しているのだ。ご家族もそのつもりで帰りを待っているらしい。だから、留学中の現在、恋愛して日本に未練を残す訳には行かないと…」
——ま、禍根を残さない為の言い訳にしちゃ、上出来だろう。
断っておくが、俺は別に材木座がその見た目や、特異な趣味の所為で恋愛する事が不可能だと思っているわけではない。
そもそも、葉山の様な例外的な男を除き、一般的な男が女性の心を捉えるには、それなりの工夫と時間が必要なのだ。
ただ、材木座は女性への免疫の無さと、経験不足が相まって、男女交際を申し込むに足るプロセスを踏む事が出来ていない点が容易に想像された。
まさに惚れたら即告白を実践していた中学時代の俺自身の姿が重なって見えたという訳だ。
「それで、お前はどうしたいんだ?恋心を忘れたいって言うなら、遊びに付き合ってやるし、諦めずにセカンドチャンスを狙うなら、その方法を一緒に考えてやるが…」
「それも我は自分で考えたのだ…世話になっておいて、言いにくいのだが、我は小説家の夢を諦めるかもしれん。すまぬ」
「おいおい、辛いのは分かるが、そういう時は逆に打ち込めるものがあった方がいいだろ?今こそ心血を注いで作品を書いたらどうだ?」
俺には結衣に振られた後、異国で仕事の鬼と化していた時期があった。
それにしか縋るものがなかったせいだが、今考えれば、俺の人生であの時ほどのパフォーマンスを上げられる事はもう無い様に思える。
「いや、我は気力を失った訳では無いのだ。謝罪ついでに頼みがある…八幡!我に中国語を教えてくれ!この材木座義輝、一生の頼みである!」
「はぁ?また唐突だな。中国語で口説き直すつもりか?言っとくが、それだけじゃ多分無意味だぞ」
セカンドチャンスを狙うのであれば、フラれて傷付いた姿を見せるのは御法度。
一方、必要以上に相手に合わせようと頑張りすぎるのも、相手が煩わしく感じる可能性があるのでオススメしない。
適切な距離感を保ちながら、誠意ある行動を取り、印象改善を図る事が最優先だ。
俺自身、経験豊富って訳じゃ無いが、33にもなるとこの辺の機微が肌感覚で分かる様になる。
ただ、その年齢になると既にパートナーを有していることが一般的で、あまり活かすような機会が無いというのが世のオッサン達の実情だ。
「ウォーアイニーくらい我でも知ってる…むしろ、一回目はそれで失敗したのだ」
「あ、それ言っちゃったのね」
完全にやっちまったな。お前、全然タイプじゃ無い外人女性に何の前触れも無く「アイシテル」って言われて心が動くのかよ。むしろドン引きすんだろ。
「1度目の失敗には触れてくれるな…我は本格的にコミュニケーションが取れるまで中国語を学びたいのだ!」
「英語よりもハードル高いぞ。勉強してどうすんだよ?」
「…我は高校卒業後、大陸に渡る」
正気かこいつ。完全に逆上せ上がってやがる。
かつて俺は雪乃を追って米国へ渡った。女を追って海外へ行ったのは昔の俺も同じ。
だが、その事実は、かえって、材木座の衝動的な決意にある種の嫌悪感を抱かせた。
これが同属嫌悪というものなのかもしれない。
「…進路が絡む話は親御さんにも相談しなきゃいかん話だろ。焦ることは無えよ。まずはじっくり考えろ。いても立っても居られないってんなら、一先ずオススメの教材くらいは教えてやる」
材木座は俺の言葉に不服そうな表情を浮かべたが、一応の納得を示した。
俺は、また戸塚のテニス部騒動の時の様に、自分を取り巻く人間の若さ・青さに当てられた様な気分になって、その場を後にした。
☆ ☆ ☆
「遅いわよ、比企谷君」
部室では既に雪乃、結衣、沙希と海美が勉強会を始めていた。
既に教師による補講セッションが終わり、4人で自習を進めている所だった。
俺がドアを開くと雪乃と結衣が遅刻を咎める様な目で俺を見た。
沙希は俺と目が合うと、やはり若干気恥ずかしそうに下を向いたが、それ以外は何時もと何も変わらない様子だ。
「…悪ぃ、ちと色々あってな」
「こんにちは、比企谷さん。今日もよろしくお願いします」
軽めの謝罪の後、俺に最初に話しかけたのは海美だった。
「よぉ海美。よろしくっても、もう俺の通訳なんて必要ないんじゃないか?」
今の挨拶1つ取ってみても、その綺麗な発音から海美の日本語が相当なレベルに達していることが分かる。
勿論本人の努力があったことが大前提だが、材木座との日本語学習もそれなりに役に立ってきたのだろう。
「まだ細かい言い回しや、熟語、固有名詞が出てくると困ることがあるんです。辞書も引けるんですけど、やっぱり比企谷さんにいていただけると、何かと早いですから」
「…だってよ、由比ヶ浜。分からない言葉を放置してるお前より、既に海美の方が日本語上手いかもしれんな」
「う、言い返せない…けど、ヒッキー、なんかすっごいムカつくし!」
謙遜気味に言う海美を持ち上げる一方、ネイティブの結衣を冗談交じりに当て馬扱いした。
結衣は怒りを露わにした一方で、反論することは諦めている様だった。
「…ところで海美、今日は材木座は別件があって来られないそうだ」
海美は材木座の名を聞き、一瞬ビクッと反応した。
その後、何かを探る様な目で俺を見てくる。
「…ん?どうかしたか?」
「…いえ、別に」
わざわざ皆がいる前で材木座が海美に告白したことをペラペラと喋るつもりは無い。
海美は俺の目をジッと見つめたが、暫くするとその視線を外した。
俺はそのまま適当に空いている席に着いて、カバンから今日の課題を取り出して作業に取り掛かった。
その様子を見た他のメンバーも、各々、進めていた学習に戻り始めた。
奉仕部は今日も平和である。
今日は皆、あの結衣ですら集中して学習に取り組んでいる。
——今日はこのまま何事もなくやり過ごすのが良いだろうか。
いや、海美にはそれとなく、材木座の奴が何を考えているのか、伝えてやっといた方が良いのかもしれない。
付きまとわれて困るのであれば、そう言って止めを刺してやった方がお互いの為になるんじゃないか。
いやいや、海美への想いが届く届かないは別にして、あいつが留学したいというのであれば、そのキッカケを今の段階で奪う事はないだろう。
俺も雪乃を追って渡米してなきゃ、金融業界なんかに就職はしなかったはずだ。
そもそも、材木座は数少ない自分のダチじゃねぇか。
気乗りしようがしまいが、あいつの為に動いてやるのが友人というものだろう。
脳味噌を回転させながら、あれこれと思考を巡らせるが、これがベストな行動と自信を持って言える様なアイデアはまとまらなかった。
考えてもダメな時、人はどう動くか。
普段の俺であれば、アイディアが浮かぶまで物事を先送りし、その場は大人しくしておくと言ったパターンを選ぶだろう。
だがこの日の俺は少し違っていた。沙希との一件で、焦りを覚えたせいかもしれない。池に石を投げ込み、波紋がどう広がるか確かめることを、無意識に選択した。
俺は、深呼吸とも取れない様な深い溜息をつくと、海美に向かって口を開いた。
「海美、集中してる所悪い、ちょっと良いか?」
「何ですか?」
海美はペンを持つ手を止め、顔を上げて俺を見た。
「お前、3年になる頃には中国に帰るつもりだろ?」
「その予定です。あっちの大学を受験するつもりですから…それがどうかしましたか?」
唐突な俺の質問に、再来年の自分のプランを確認させる様に語る海美。
「もしも、だ。お前を大事に思ってる日本人がいて、お前と一緒に中国に行きたい思ってるとしたら、お前は喜んでくれるか?」
「そ、そんなこといきなり聞かれても…一緒に中国に行くって、大体、言葉はどうする気ですか?」
「独学で学んだとしたらどうだ?」
「…それって」
「まぁ、何だ。例えば…『この位のレベルに達したら十分だと思うか?』」
言葉の半分を中国語で伝え、確認を取る。
実際に今から勉強を始めた材木座が1〜2年で俺と同等の水準まで達するか、俺にはまるで予想できない。語学は努力と同じ位、センスがモノを言う。
それに中国語は発音が難しい言語だ。最初の頃はネイティブに頼んで基本的な発音を教わらないと、途中で確実に躓くだろう。
この点が英語圏の国に留学するよりもハードルが高いとされる所以だ。
だが俺たちはまだ10代だ。語学を習得するには若ければ若いほどいいと言われるが、まだ若い材木座にはこの点で大きなアドバンテージがある。
俺が社会人になって始めた中国語の学習は、留学中に英語を学んだ時よりも遥かに難易度が高いものに感じられた。
それは言語自体の難しさだけではなく、俺の頭が新しく語学を習得するには歳をとり過ぎていたことに起因する。
逆に言えば、今の材木座なら、難しい中国語もスポンジの様に吸収し、俺の水準を易々と超えて伸びることが出来る可能性があることを示している。
「…う、嬉しいですけど、やっぱりこんなの急すぎます!少しだけ考えさせてください!」
海美はそう叫びながら、バタバタと荷物をカバンにしまい、顔を真っ赤にして部室から飛び出していった。
「お、おい海美、どこ行くんだ!?」
純粋に材木座がどの程度の語学力を目指して学習したらいいのか、その目処を付けたかっただけなのだが、海美は俺との会話の後、いきなり取り乱した様な態度を見せた。
海美が部室を後にした直後、辺りには凍えるような空気が広がっていた。
海美を止めようと立ち上がったまま固まっていた俺の背後には、三人の女性が立っていた。
「比企谷君…あなた、そういうのはせめて他に誰もいないところでやったらどうかしら?」
雪乃がこれまでに見たこともない程不機嫌そうな表情でそう言った。
「そういうのって、何だよ。俺は一般論として質問を…」
「…さっきあんなことまでしたのに…わざわざ目の前で後輩の女の子に告白するなんて…流石にちょっと…ないと思う」
沙希が悲しそうな顔で呟いた。
「「…あんなこと?」」
——やべぇ!
その言葉に結衣と雪乃がピクッと反応したのを見て、俺は焦った。
しかし、これはマズイ事になった。
何故こんなことになっているのかはよく分からんが、状況が極めて芳しくないことだけは理解出来る。
「…ちょ、ちょっと待て、お前ら。告白とか、さっきから何の話してんだ!?」
雪乃と結衣が余計な詮索に乗り出す前に、大きめの声で注意を惹き付けた。
「…だって、ヒッキー、海美ちゃんのために卒業したら中国に行くんでしょ?…独学で中国語が出来るようになった人なんて、ヒッキー以外にいないじゃん…あんなこと言われたら、普通そう思うよ…」
結衣がそう言ったことで、俺は自分の失言をようやく認識するに至った。
「そいつは違う!完全に誤解だ!」
「私達が何をどう誤解してると言うのかしら?」
「それは…」
ここで俺が濡れ衣を晴らすには、材木座のこれまでの行動と新たな決意を三人に明かさなければならない。
だが奴は俺を信用して、俺に心中を打ち明け、相談してきたのだ。
自分の保身のため、しかも俺自身でヘマをした尻拭いのために、奴のプライバシーを踏み躙るのには相当な抵抗を感じた。
「…ある男子生徒から恋愛相談を受けてたんだ。その対象が海美だったって訳だ」
「…それって」
何か勘付いた様に沙希が呟く。
「川崎、すまんがそれ以上口にしてくれるな。俺が軽率だったのは認めるが、依頼人にもプライバシーが…」
「今更プライバシーも何もあったものではないと思うのだけれど」
「くっ…確かにそうだけどよ」
「私は、本当にヒッキー自身の話じゃないなら、ちゃんと証明して欲しいかも…」
結衣は少し不安そうな表情でそう呟いた。
「証明って、どうすりゃ良いんだよ?」
その結衣の希望に対し、どういう方法をとれば満足するのか、アイデアが浮かばない。
俺は彼女が望む解決方法を聞きかえした。
だが、俺のその質問に答えたのは、結衣ではなく雪乃だった。
その顔に浮かぶ笑みから、何か良からぬことを企んでいる事が窺われた。
「簡単ね。貴方が一番好きな女性の名をここで正直に言うか、依頼人が誰なのかを明かせば良いわ」
「ちょ、ちょっと待て…いくら何でもそりゃないだろう」
雪乃の余りにも横暴な提案に俺は抗議の声を上げる。
結衣と沙希は雪乃の提案を聞いて、一瞬固まったものの、今は固唾を飲む様にして俺の口元に注目していた。
「…御託を聞くつもりはないわ。さぁ、どうするのかしら、比企谷君?」
「…うっ」
三十を過ぎたオッサンとしては情けない限りだが、雪乃の眼力に俺は気圧された。
——すまん、材木座よ
お前には俺を罵る権利があることを認めよう。
「…分かった。依頼主の情報は共有する。但し、この件は部外者、依頼者本人、当事者の海美には絶対に漏らさないと約束してくれ。守秘義務契約ってヤツだ」
金融業界では他者と共に投資活動を行う時、必ず守秘義務契約を締結する。
投資プロジェクトへの出資や、シンジケートローンの参加者を募る時、相手方に参加検討の為の情報を受け渡す代わり、それを他者には漏らさないこと、漏らしたことで発生する経済的損失を補償する事等を契約書に規定するのだ。
但し、実務上は極めて儀式的・形式的なものと位置付けられることが多く、単に事務手続きを増やし、職員の残業長時間化に貢献するだけの厄介者として扱われるケースが大半となっている。
何が言いたいかと言うと、俺は、女子高生が言う”絶対内緒だからね!”をせめて社会人風に言い換えることで、材木座への罪の意識の軽減を図ったのだった。
☆ ☆ ☆
「…早く海美ちゃんを追いかけて!」
材木座からの依頼内容を三人に共有すると、結衣は思い出した様に突然俺にそう言った。
「い、いや、もう家に帰っちまっただろ?」
海美が部室を飛び出してから、かれこれ30分は経っている。追いかけろと言われても、当の本人が何処にいるのかも分からないのだ。
「じゃあ電話して誤解を解いて!今すぐ!」
結衣の要求はストレートだった。
そんなに急ぐ必要は無いとも思うが、確かに誤解を解くのは早いほうが良いだろう。
俺は黙って結衣の言葉に従い、携帯を取り出した。
「…スピーカーモード」
俺が携帯を耳に当てて電話を掛けようとすると、雪乃がそう呟いた。
その声は低く、従わなければどうなるか分からない、という脅しが含まれている。
俺はゲンナリしながら、雪乃の指示に従い、携帯をスピーカーモードに設定し、机の上に置いた。
「ひ、比企谷さん!もう少し待ってって言ったじゃないですか!まだ気持の整理が…」
電話に出るなり海美はそうまくし立てた。
その言葉を聞いていた三人の刺す様な視線を受けながら俺は言葉を慎重に選んで会話を続けた。
「…あのな、さっきの件だが…俺の聞き方が悪かったせいで、お前にとんでもない勘違いをさせたんじゃ無いかと思ってな」
「え?勘違いって……哎,哥哥,怎么了?」
海美が突然会話を中断して、中国語を口にするのが聞こえた。
電話越しだが、海美が誰かに話しかけられたことが推測される。
——今、哥哥(兄さん)って言ったか?まさか、劉さんが電話の向こう側にいるのか!?
海美の発した言葉を一瞬遅れで頭が理解した瞬間、俺の心拍数は急激に上昇した。
俺を庇おうとして先に吹き飛んだ劉さんが、今、海美の隣に居るのだ。
あの事故の瞬間を思い出すと、俺は恐怖感で体が強張った。
考えてみれば、海美は親戚の家に兄と一緒に世話になっているのだ。今この瞬間、彼が千葉にいても何らおかしくは無い。今まで彼の存在を確認しようとも思わなかったのは、俺の心が未だにこの恐怖感に支配されていたからだろう。
しかし、改めて考えれば、俺たちが死んだのはほぼ同じタイミングだった。
死の瞬間に精神が過去に戻るなんて非科学的な現象が、俺以外の存在にも起り得たのか、それだけは気になった。
「…比企谷? 顔色真っ青じゃない、大丈夫?」
海美はまだ劉さんと何か喋っている。その間、沙希が電話のマイクに拾われないよう、小声で心配そうに俺に話しかけてきた。
「何でもない…大丈夫だ」
俺はそう返して電話から発せられる音に再び集中した。
『…うん、学校の先輩…そうだよ…って、お兄ちゃん、ちょっと勝手に人の電話に出ないでよ!』
海美の抗議の声がしたかと思うと、向こう側からガタガタという音が伝わってきた。
「あ、もしもし。私、劉藍天と言います。海美の兄です。いつも妹がお世話になってます。ヒキタニさん…というのが貴方ですか?いや〜普段から妹から良く話は聞いているんです。親族皆で歓迎しますよ。…そうだ、式はいつ挙げます?是非私たちの故郷でやりましょう。爆竹で賑やかになりますよ」
「は!?」
劉さんの発した言葉に、事故のことなど忘れて、間抜けな声を上げてしまった。
一緒に通話内容を聞いていた三人も硬直している。
——や、ヤバイ。これはとんでもないことになった
「は、初めまして…って、あの、だからそれは誤解なんです!中国に行きたがってるのは俺じゃなくて…」
「ん?すみません、私まだ日本語が余り上手じゃなくて。今、何て言われました?」
絶対嘘だろ!
俺の心の叫びは誰にも届きそうにない。
「そうだ、今週末、お時間ありますか?折角です。妹がお世話になってる奉仕部の皆さんも誘って、食事でも行きましょう。場所と時間は後で海美から連絡させますので。では良い1日を」
有無を言わさないペースでそう言い終えると、劉さんは電話を切った。
☆ ☆ ☆
「ちょっとヒッキー!どうするの!?コレどうするの!?」
真っ白な灰になって立ち尽くしていた俺に最初に声をかけたのは結衣だった。
その声で俺は放心状態から抜け出した。
「…お前ら、週末、一緒に来てくれるよな!?…な、川崎?」
協力を求めて三人の顔を見回すが、結衣も雪乃も目が合うと、慌てて視線を逸らした。
俺は藁にもすがる気持ちで、反応が遅れた沙希を名指しして助けを求めた。
「あ、アタシに言われても…」
その微妙な反応を見て、俺は頭を抱えた。
「…今日はもうお終いにしましょう。川崎さん、由比ヶ浜さん。先に行ってちょうだい。私は記録と部室のカギを返したらすぐに追いかけるわ」
雪乃が本日の活動終了を告げると沙希も結衣もそそくさと部室を後にした。
「…あいつら、冷てぇな」
先に出て行った二人に対し、恨み言のように一人、窓の外を見ながらそう口にした。
「…この件はあなたの自業自得でしょう?」
雪乃は活動記録をノートに書きながらそう言った。
「そうだけどよ」
「…週末、皆ちゃんと来るわよ」
そう言いながら雪乃はノートをパタンと閉じて席から立ち上がった。
「なんでそんなこと分かんだよ?」
俺は視線を窓から動かさずにそう聞いた。
「何だかんだ言って、皆あなたのことが気になるの」
雪乃はいつの間にか俺の背後に立っていた。
かなり顔を近づけて喋っているのか、耳の後ろがくすぐったくなった。
「…それとね、比企谷君」
「あ、ああ?」
続けて発せられたその囁きは色っぽく、俺の鼓動が一気に高鳴る。
「…1つ覚えておいて欲しいの。私、こう見えて結構根に持つタイプよ」
一転して、凍えるように低く冷たい声が浴びせられた。
「川崎さん、さっき "あんなことしたのに" って言っていたわね」
「うっ…それは…」
今度は別の理由で自分の心拍が上昇していった。
「今日は可哀想だからこれ以上詮索はしないわ。それに私、別にあなたの彼女ではないし…」
「そ、そうか。正直そう言ってもらえると助かる」
そう答えつつも、雪乃のその言葉が彼女の本心から出ているものでないことは明白だった。
俺は肩の筋肉を強張らせて身構えた。
「ふふ…前にも言ったけれど…”嫌いではない”わ、比企谷君」
雪乃は俺の背中にその細い指を置き、背骨の線に合わせてゆっくりと上下になぞり上げながらそう呟いた。
「い、いや、それ、マジ怖ぇえから!勘弁してくれ!!」
俺は睾丸を握り潰されているような感覚に陥った。
——Prrrr Prrrr
不意に机の上に置いたままになっていた携帯が震えた。海美からのメールの着信だ。
雪乃に促されてメールを開くと、そこには週末の集合場所・集合時間だけが記されれていた。
——マジ、どうなるんだろ、これ
携帯の画面を消すと、俺は大きくため息をついた。