「あんた、ストーカーの・・・」
――は?
久々に対面した沙希が口にした言葉は自分が想定していたどんな言葉とも違っていた。
余りの突拍子もなさに、思わず眩暈がした。
「・・・これ、あんたの?」
沙希はそう言いながら拾い上げた希望票を、訝しげに眺めた。
「あ、ああ。助かった。・・・ってか、その不名誉な呼び名は何なの?」
俺は例を述べつつ、沙希が咄嗟に俺をストーカーと呼んだ件について言及する。
「クラスの連中がそう呼んでたから。アタシのことじっと見てたとか、毎日一人早く登校して、女子の私物に悪戯してるって話だけど、ホント?」
沙希はキツめの目を更に細めてそう言った。
――クソガキ共め、何てムカつく奴らだ
概ね、いつも俺を小馬鹿にしたような目で見ている相模南のグループあたりが、面白おかしく吹聴しているのだろう。
「私物に悪戯って、俺は変態かよ・・・俺は朝一人で新聞を読むのを日課にしてるだけだ。嘘だと思うんなら監視カメラでもなんでも設置してくれ。何なら、今朝のニュースの内容を今教えてやってもいい」
「・・・嘘はついて無さそうね」
「ただ、川崎のことを見てたってのは間違いじゃないかもな」
「え?」
俺の言葉を聞いた瞬間、沙希の顔が強張る。
「妹の友人に総武高に通う姉がいるって聞いてな。川崎って苗字が同じだから、もしかしてと思ってたんだが。・・・違ってもアレだから、声かけるか迷ってたんだ。不快に思ってたんなら謝る」
「なるほどね・・・別にクラスの奴らの言うことなんて、特に気にしてないけどさ」
「そうか」
咄嗟に考えた言い訳にしては上出来だろう。
元々沙希は、人を貶めるための噂に興味を持つような人間ではない。目線を俺から外すと、引続きつまらなそうな顔をして片手に持ったライターを弄りだした。
「ちょ、俺の調査票、燃やす気?」
沙希は喫煙者ではない。手に持ったライターは、バーテンのバイトの為に持ち歩いているものだろう。
俺はからかい半分にそう言った。
「え?いや、これは、違くて・・・アタシ、喫煙とかしてないから、勘違いしないで」
「別に素行不良を疑ってるわけじゃねぇし、仮にタバコ吸ってる奴がいても、いちいちチクったりしねぇがな」
むしろ、俺が吸いたくて吸いたくて、ここのところ貧乏ゆすりが激しさを増していたところだ。
高校生でもタバコが買える自販機を売出す企業があれば、俺は迷わず投資するだろう。
「吸わないのにライター持ってるってことは、バイトか?居酒屋とか・・・バーとか?」
まずは軽めのジャブで沙希の反応を伺った。
俺は沙希のバイト先を知っている。ホテルロイヤルオークラ最上階の高級バー、エンジェルラダー。
社会人となった後も、沙希と二人そろって千葉に戻る用事がある時は、良くこの店に飲みに行った。二人の思い出の場所として。
「ま、そんなとこ」
俺の言葉は軽く受け流された。
流石、俺が惚れたクールビューティーだけあってガードが堅い。
というよりも、そもそも前の人生において、どんな経緯でコイツが俺を好きになったのか、俺は今でも知らないのだ。何を切っ掛けに沙希の信用を得ればいいのか、さっぱり分かっていない自分に嫌気が差す。
「これ、返すね・・・あんたって、頭いいの?」
沙希はそう言いながら、俺の調査票を手渡してきた。
「サンキュ・・・総武校に入れた位だから悪くはないと思うが、残念ながら特別勉強ができるわけでもない。得手不得手が極端なんだよ、俺は。何でそんなこと聞くんだ?」
「別に。金融って学歴がなきゃ入れない業界でしょ?アンタみたいなのでも勉強してるのかなって思って」
「この間の実力テストは国語と英語が学年順位一桁だったな。数学も微積分とか対数とか、金融で使う分野は満点だったんだが、それ以外はケツから数えた方が早いレベルだ」
「スゴイけど、それじゃ進学出来ないんじゃない?」
「平塚先生にも同じこと言われたぞ。だが、別に優秀な成績で進学しなきゃ金融の仕事が出来ないかと言われればそうでもないだろう?自分で起業したっていいわけだし、国内受験を受けずに、海外の大学に行ってもいい」
「起業に留学・・・ね」
再び見せる興味のなさそうな表情。
沙希は堅実を絵に描いたような女だ。世間一般的に見て、現実味の薄い絵空事と見られかねような将来プランを語っても反応は薄い。
まして、現在沙希は学費のために時間を削ってバイトに勤しんでいる身だ。受験戦争を回避するために留学すればいい等と、気軽に言ってしまっては反感を持たれかねない。
――失言だったか?
「ま、いざとなれば色々な道があるってだけの話だ。一応、次の中間テストに向けて苦手科目の勉強は進めてる」
「ふ~ん」
とっさのフォローで何とか場を繋ぐ。幸い敵意を持たれるには至っていないようだ。
「もし良かったら、今度勉強会に参加しないか?今俺が入ってる部活で定期的にやってんだが、部長・・・国際教養科で学年主席の雪ノ下が色々教えてくれるし、国語や英語なら俺でも相応に役に立つだろうよ。同じ部員の由比ヶ浜の成績がどの位上がるか見てからでも構わんが・・・」
「へぇ、アンタたち、そんなことしてるんだ・・・そうね。考えとく」
そう言って沙希は屋上を後にした。
屋上に一人残された俺は、沙希の後姿が見えなくなるのを見て呟いた。
「ただいま・・・沙希」
今の俺の言葉に答える者はいない。
☆ ☆ ☆
中間テストが目前に迫り、総武高校はテスト準備期間に入った。
当然部活も停止となる。
沙希に言った通り、最近俺は苦手科目の勉強、というよりも、記憶の底に眠る歴史や生物等の知識の掘起し作業を夜な夜な行っていた。
高校受験を控えた妹、小町の勉強に付き合いながら勉学に打ち込むのは、何かと新鮮で、思った程の苦痛は感じない。
というよりも、期限の迫った仕事に追われるよりも100倍は楽だ。深夜まで残業して、就寝までの僅かな時間を削って資格試験に励んでいたことを考えれば、天国のような待遇である。このまま永遠に高校生をしていたいとすら思えてくる。
――世の学生は皆、学ぶ喜びを知らずに大人になってくんだな。もったいねぇ
そんなオッサンじみた考えを浮かべながら、参考書の問題をこなしていく
「・・・お兄ちゃん、真面目だねぇ。その集中力はどこから沸いてくるのかな?」
早くも集中力を切らせた小町が邪魔をしてきた。
「お前、もうギブアップか?早くね?次の章の問題まで頑張れよ。そこまで終わったらコンビニアイスでも買いに行こう」
「やった!頑張るであります!」
正直、安上がりな妹で助かる。
「終わった~!!お兄ちゃん、アイス!アイス!」
30分後、問題集を解き終えた小町が外出をせがんで来た。
集中力の波に乗ってるときは、もう少し継続してやりたいもんだが、約束しちまったものは仕方ない。
俺はペンを置いて、財布をポケットに突っ込み玄関に向かった。
「おい、小町。それ俺の服じゃねぇか」
ドアを開く直前に、妹の格好に気付いて声をかけた。
「気付くの遅!これ、ワンピースっぽくない?似合うでしょ?」
「別に着るのは構わんが、せめてズボンくらい履け。俺が変質者だと思われるだろうが」
「最近のお兄ちゃんなら大丈夫だと思うけどな」
「そうでもないぞ。クラスの一部の奴らから陰でストーカー呼ばわりされてる」
「うわ、それは小町的にちょっと聞きたくなかったかも・・・ハイハイ、履いてきますよ~」
――それでも俺と出かけたがるんだな。我が妹ながら、なんていい子。
妹との他愛もない会話から、そんなことを考えた。
小町のおねだりでしこたまアイスクリームを買い込んだ俺たちは、手を繋ぎながら帰路についていた。仲良きことは良いことかな。小町は幾分上機嫌だ。
「・・・世の中には色んなタイプの兄や妹がいるよね~」
「そうだな。この年で兄妹仲良くやって行けてるのは、お前の性格のお陰かな。普通はストーカー呼ばわりされてる兄貴と外出なんて、嫌がるもんだろ?ありがとうよ」
「いや~照れるな~。そういえばね、小町の塾の友達はお姉さんが不良化したんだって。最近仲良くなって相談されたの。その子、川崎大志君って言ってね・・・」
――来たか!
川崎大志。沙希の弟であり、小町の旦那、つまり俺の義弟だ。
あの時も、俺たちは大志からの相談が切欠となって沙希の問題解決へと動いた。
結論を言えば、大志の不安は杞憂であり、沙希は決して不良化などしていない。だが、大志は今や俺にとっても可愛い弟分だ(一時は呪い殺そうとしたが)。できれば早めに安心させてやりたい。
☆ ☆ ☆
1年前、都内某所
「義兄さん、お疲れ様っす!どうっすか、このクラブ?」
「流石、商社マン。夜の街を良く知ってるな」
ある日、俺と大志は、大志お勧めのキャバクラで酒を飲んでいた。
小町・沙希には内緒で、仕事を抜けて夜遊びに繰り出したのだ。
「今日は経費出ますから、思いっきり飲んじゃってください!」
「お前、親族間で経費接待はマズイだろ。金融業界のコンプラは滅茶苦茶厳しいんだぞ。バレたら首になっちまう」
「まぁまぁまぁ、あ、お姉さん、そこのグラス、もう半分空じゃないっすか。ちゃんと注いで!」
場を仕切りながら、キャバ嬢に指示を飛ばし、俺のグラスに酒を注がせる。
流石は俺の義弟、ちょっとした動作からかなり場数を踏んでいることが伺われる。
だが俺も一流金融マンだ。勢いに飲まれて懲戒免職のリスクを負うようなバカな真似はしない。
「煽っても無駄だ。派手に飲むのは構わんが、ここは俺が全額出す」
そう言ってグラスになみなみと注がれた酒を一気に飲み干した。
「キャー!お酒強いんですね!」
横に座った若い姉ちゃんが雰囲気を盛り上げてくる。さりげなく太ももを触るあたり、男の喜ぶツボをよく心得ていらっしゃる。
昔の俺なら勘違いして告白してフラれて、強面のお兄さんに奥の部屋まで連れて行かれていただろう。
2時間後
「おっしゃー!次はピンドン(ピンクのドンペリ \100,000~)持って来いやぁぁぁ!」
「ノッてきましたね、義兄さん!ピンドン入れちゃおう!!!」
「「「「キャーーー!!」」」」
この場の支払いがどうなったか、俺に記憶はない。
――息苦しい。窒息しそうだ。
失った意識が戻ってきた時、俺は呼吸困難に陥っていた。
なんかこう、暖かく柔らかい感触が俺の顔を包み込んでいたのだ。
辺りには、ドムドムドムと、腹に響く重低音が鳴り響いている。
「義兄さん!今日はサイコーっす!!」
大志の小うるさい声に呼び覚まされ、俺は完全に覚醒した。
「っぷは!死ぬ!シヌゥゥ!!」
顔を上げ、酸素を肺いっぱいに取り込む。同時に、周囲の状況を確認した。
二人がけのソファーに並んで座る俺と大志。
俺たちの腿の上には、それぞれ上半身裸の女性が跨っており、暗い店内に響くトランスミュージックに合わせてリズム良く胸を俺たちの顔に押し付けていた。
「おい、大志!ここは何処だ!?何で俺達はオッパブにいる!?」
「え?何言ってんすか?義兄さんが、二次会はここでって言って連れてきてくれたんじゃないっすか」
「・・・マジか。・・・後で反省会な」
「はは!了解っす!」
大志はそう言うと、再び目の前の双丘に顔を埋めた。
1時間後
俺達はひなびたラーメン屋で、脂ぎった麺を啜りながらの反省会(?)の最中にあった。
「大志、言わなくても分かってると思うが、今日のことは・・・」
二人とも、酔いが抜けきらない様子で馬鹿話をひとしきり続けた後、俺は切り出した。
「もちろん、姉ちゃんや小町ちゃんには内密で」
「よろしい・・・しっかし、何でよりにもよってオッパブなんだ。俺はオッパイには全く不自由してないんだが・・・」
結衣程ではないが、沙希のプロポーションは抜群だ。今更女性の胸部に劣情を催すような哀れな生活は送っていない。
「義兄さん、姉ちゃんとの性事情の話は流石に勘弁して欲しいっす」
大志は急速にシラフに戻ったかのように冷めた目で囁いた。
「だってよ、お前・・・こう言うのも何だが、沙希は男の願望をそのまま形にしたような体形だぞ。いくら酔ってたとは言え、正常な判断がつかないにも程ってもんがあるだろ」
「そりゃ、義兄さんは満足かも知れませんけどね。俺には必要なんです・・・確かに小町ちゃんは完璧な嫁さんっすよ・・・でも、やっぱり胸がないっす!」
これは明らかに大志からの反撃だ。確かに、いくら可愛い弟分とは言え、実の妹の性的な面を語られるのはキツイものがある。
「・・・俺が悪かった。この話はもう止めだ。おっちゃん、瓶ビール一本!」
話を切り上げながら、本日最後のアルコールを注文する。
「まだ飲むんすか!?」
大志が驚いたような目でこちらを見ているが、気にせずに片手でグラス2つにビールを注ぐ。
「シメだシメ。乾杯しようぜ。紳士協定、忘れんなよ」
「はは、義兄さん流石っす」
「「紳士協定に乾杯!!」」
ガチャっと強めにグラスをぶつけ合い、俺達はビールを飲み干した。
☆ ☆ ☆
小町から大志の悩みの話を聞いた翌朝、俺はいつも通り早朝7時には学校に着き、一人コーヒーを飲みながら新聞を眺めていた。
だが、今日は今一つニュースの内容も頭に入って来ない。
沙希への対応について、勉強会に誘った以上の妙案が思い浮かばないのだ。
前回同様、塾のスカラーシップ制度を教えてやれば、少なくとも表面的にはこの問題が丸く収まることは分かっている。
だが俺は、もう少しこの学校で沙希と同じ時間を過ごしたいという自らの欲求に加え、沙希にとって最良の解決策が他にあるのではないか、という考えの元、思考の迷路を彷徨い続けていた。
あれこれと考えているうちに、クラスメートがパラパラとクラスに顔を出し始めた。
「くそっ」
俺は苛立ち交じりに頭を掻きながらそう呟き、1限目の授業の準備に取り掛かった。
2限目の現国の授業が終わった頃、沙希が登校してきた。
平塚先生の小言を無言で受け流しながら席に着く姿は、俺が不慮の事故によって偶然にも彼女のスカートの中を覗いたことを除き、あの時のままの光景だった。
「川崎」
俺は席を立って、沙希の元へ歩み寄り、声をかけた。
「何?」
疲労が溜まっているのか、若干不機嫌そうに沙希はそう切り返した。
「これ、やるよ。MAXコーヒー買おうとして間違って押しちまったんだ。バイトと勉強の掛け持ち、大変だろ?」
朝自販機で買った缶コーヒー。無論間違って買ったわけではなく、最初から沙希に渡すつもりで買ったものだ。沙希は俺と違い、無糖のブラックが好きだった。
「あ、ありがと」
沙希は若干の驚きと照れが入り混じった表情でそれを受け取った。
あまり無理すんなよ。そう続けようと口を開くが、言葉を発する直前で思いとどまった。
――そんなに強がらなくてもいいんじゃないかな
――あ、そういうの要らないんで
結衣の提案で、あの時葉山に言わせた言葉。それを見事にぶった斬る沙希。
当時のやり取りを思い出し、沙希に対して極度なお節介は却って逆効果だと、俺の勘が告げた。
俺はそのまま無言で自席に戻った。
☆ ☆ ☆
その日の夕方、俺は、結衣が提案した奉仕部の勉強会に参加していた。
駅前のファミレスに集まり、各々学習を進めたり、問題を出し合うなんて青春イベントは、前の人生では無縁だった。そもそも、奉仕部の二人でさえ、あの時俺には声を掛けなかったのだ。今回、2人に勉強会に誘ってもらえたことに、俺は密かに感動を覚えていた。
ところで、実は今日は小町に、大志をこの場に連れてくるように伝えていたのだが、俺は2人にその話を切り出すタイミングが掴めないでいた。
そして、結衣の英語の面倒を見ているうちに、その余りの出来の悪さに俺はヒートアップしてしまい、大志のことがすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
「由比ヶ浜、英語・・・というよりも語学全般は単語やフレーズをどれだけ覚えたかで決まる。地道に勉強するのが一番の近道だ。単語は完璧に綴れなくても、発音できなくてもいい。見て意味が分かるようにさえしておけば、英文が自然と読めるようになる。これだけでスコアはだいぶ変わる・・・って聞いてんのかよ?」
「だって、こんなに沢山、覚えられないよ!」
「お前、どんな単語帳使ってんだ?ちょっと見せてみ」
そう言って結衣の使っている参考書を手に取った。派手目の表紙に≪高校生英単語5000≫と銘打たれたその本をパラパラとめくり、ため息をついた。
――結衣の奴、参考書の質も判断できないのか
「こりゃ酷い。品詞・アルファベット順の単語の羅列、これじゃ出来の悪い辞書だ」
「え?でも学校の推薦参考書だよ」
「それは、先生に文句を言った方がいいレベルね。この本は確かに酷いわ。比企谷君の言う通りよ」
横からテキストの内容を覗いた雪乃が俺の意見に賛同する。
「いいか、人間の頭はデータ記憶には向かん。"データ"が集まって意味を成した"インフォーメーション"を記憶する方が容易なんだ。"データ"も"インフォメーション"もどちらも日本語じゃ"情報"と訳されがちだが、実は意味が全く違う。単語を勉強する時も、インフォメーション単位で覚える癖をつけろ」
「ヒッキーの話はいつも難しくて、何言ってんのかわかんないよ!」
丁寧に説明してやったつもりが、結衣の脳には響かなかったようだ。理解できないフラストレーションからか、怒り交じりの表情を浮かべている。
「いくら"インフォーメーション"を発信しても、相手に届かなければ"コミュニケーション"とは言えないわね、ヒキペディア君」
いつだったか、ユキペディアと揶揄したことの仕返しか、雪乃が楽しそうに笑いながらそう呟いた。
「ちっ、上手いこと言いやがる・・・由比ヶ浜、後で書店で単語帳を見繕ってやる。単語帳は品詞やアルファベット順じゃなく、シチュエーション別に並んだものがいい。品詞がバラバラでも、同じ場面で組み合わせやすい単語が一緒に載っていた方が頭に入りやすい」
「へ~、そういうものなんだ」
「よっす、お兄ちゃ~ん!連れてきたよ!」
不意に、俺たちの会話を中断する声がした。
小町が大志を連れて店内に入ってきたのだ。
「ヤベ!・・・忘れてた。すまん、二人とも。今日は奉仕部に客がいたんだ。勉強会を始める前に伝えるべきだった」
「お客さん?また依頼人がいるんだ!」
「今はテスト準備期間で部活は停止中よ。依頼を受けないとは言わないけれど、事前に相談くらいはするべきではなくて?」
早くも勉強に飽きだした結衣と、それなりに集中力が高まっていた雪乃の反応は180度逆のものとなった。
「悪かった。俺も今妹の顔を見るまで忘れていたんだ」
「全く・・・で、そちらが比企谷君の妹さん?」
「初めまして、いつも兄がお世話になってま~す。比企谷小町です」
小町が自己紹介を始めると、途中で結衣の顔が曇った。どうやら小町の視線を避けるようだ。
――あぁ、そういや一時期、俺のせいで結衣とは険悪な関係になったな
再び過去の記憶がフラッシュバックする。
高校生活初日に巻き込まれた交通事故。原因は結衣の飼い犬、サブレを助けようと俺が車道に飛び出したことだった。
俺は犬の飼い主が結衣だったことを、この時期に小町に聞かされて知った。
そして結衣が俺に話しかけてくるのは、俺が入学直後の入院が原因でクラスで孤立したと思い込み、そのことに罪悪感を感じているためだと断じた。そして、俺は結衣を拒絶した。
「そういや、由比ヶ浜は小町と面識があったんだったな。わざわざ俺の家まで礼を届けに来てくれたんだろ?別に気を使う必要何てなかったんだが、ありがとな」
「え!?」
「あ~!やっぱりお菓子の人だ!」
結衣は俺の言葉に驚きの表情を浮かべ、小町は喉に詰まった魚の小骨が外れたようなスッキリした表情を見せている。
雪乃と再会した初日、俺は事故の件に関する二人の間のわだかまりを払しょくした。
結衣にも気にしないように、伝えておかねばならない。
「残念ながら、その菓子は全て小町に食われてしまったわけだが・・・由比ヶ浜にはお手製のクッキーも焼いてもらったし、小町への説教は無しでいいか」
「テへ!」
あくまでも軽い印象を残そうとする俺と、それに合わせるかのようなノリでリアクションする小町。普段の兄妹仲がこういう場面で活きるというものだ。
「ヒ、ヒッキー・・・もしかして、アタシのこと知ってたの?」
「忘れるわけねぇだろ。まぁ、2年になって由比ヶ浜もだいぶ垢抜けたから、最初は気付かなかったけどな。犬・・・名前はサブレだったか?今でも元気か?」
「あなた達、何の話をしているのかしら?」
蚊帳の外になっていた雪乃が割り込んでくる。
この話は雪乃がいない場でした方がよかったのかもしれない。わざわざ蒸し返して気に病まれるのは申し訳ない気がするが、今更後悔しても遅いだろう。
「例の入学式の日の事故の事だ。俺が車道に飛び出したのは、逃げ出した由比ヶ浜の飼い犬を捕まえようとしたのが理由だ」
「あ・・・」
思った通り、雪乃は暗い顔で俯いてしまった。
「蒸し返しちまって悪い。由比ヶ浜と二人の時に話すべきだったな。前にも言ったけど、ありゃ俺が悪いんだから気にするな。頼むから今まで通り接してくれ」
「何でゆきのんが事故の事知ってるの?」
今度は結衣が遠慮がちに質問を投げる。非常にめんどくさい事になってしまった。
「俺がぶつかった車に乗っていたのが雪ノ下だ」
「えぇ!?」
「そんなに驚くな。言ってみれば俺たち3人の関係は入学式からの"縁"ってやつだ。知ってたのは俺だけだったみたいだが、俺は密かにあのイベントに感謝して・・・って、今すげぇ恥ずかしいこと言ってる、俺?」
「ヒッキー・・・」「比企谷君・・・」
結衣も雪乃も、若干の申し訳なさ、嬉しさ、照れが入り混じったような表情を浮かべている。
とりあえず、丸く収めたと言って差支えないだろう。これぞ社会人の会話スキル。
小町が感心したような目で俺を見ていたので、こっそりとウィンクで答えた。
「さて、そろそろ仕切り直しをさせてもらうぞ。川崎大志・・・だろ?長話してて悪かったな」
俺は哀れにも放置されていた義弟、川崎少年に話を振った。
「どうも、川崎大志っす。皆さん、総武高ですよね?僕の姉も総武高に通っていて、川崎沙希っていうんですけど・・・」
俺のフリに頷いた大志が、最近の姉にまつわる悩みを打ち明けだした。
☆ ☆ ☆
「つまり、お姉さんが不良化したのは2年生に進級してからということね」
「帰りが遅いって、何時くらい?」
「朝5時過ぎとかっす」
「御両親は何も言わないのかしら?」
「うちは共働きだし、滅多に顔も合わせないんで・・・暮らし的にも結構いっぱいいっぱいなんすよね・・・たまに顔を合わせても喧嘩しちまうし、俺が何言っても”アンタには関係ない”の一点張りで・・・」
雪乃と結衣の質問に大志が答える形で、川崎家の状況が洗い出されていく。
「姉ちゃん、総武高に入った位だから、中学の時は真面目で・・・それに優しかったっす。それがこんなことになっちゃって・・・」
大志の呟きに皆が深刻そうな表情を浮かべて静まり返った。その静寂を打ち破るように、俺は口を開いた。
「ちょっといいか?・・・まず、大志、お前の姉のことはそんなに心配する必要はない。あいつとは最近少しだけ話すようになったんだが、決して不良化なんかしていない。帰りが遅いのには何か事情があるんだろう」
「え!?話したって、ヒッキーが!?川崎さんと!?なんで!?いつ!?」
大志を安心させるために言った言葉に結衣が過剰に反応した。
「俺が女子とコミュニケーションするのがそんなにおかしいか?ボッチだからか?」
「・・・由比ヶ浜さんはそういう意味で聞いているのではないと思うのだけれど」
雪乃がジト目でそう呟いた。
――いや、さすがにわかってるけどね
俺は結衣の好意に気付かないほど鈍感ではないし、今は”これは同情だ”なんて捻くれた自己解釈を以って受け止めるようなガキでもない。だが今の俺にはその気持ちに応えてやれるだけの資格がない。何せ、結衣と同じくらい雪乃も沙希も好きなのだから。
「はぁ?何言ってんだ、お前ら?」
2人を突き放すようにトボけた言葉を言い放ち、自分の気持ちを封印した。
「とにかくだ、川崎のことは俺たちに任せろ。また連絡するから、携帯の番号を交換しておこう」
俺たちは大志と連絡先を交換し、この場を切り上げた。
☆ ☆ ☆
翌日
――川崎沙希は不良ではない
そう言った俺を信用しているのか、結衣も雪乃も、前回試みたアニマルセラピーや葉山色仕掛け作戦を提案することはなかった。
ただ、どんな事情があろうと、帰りが朝5時過ぎというのは明らかに異常だ。2人は一先ず平塚先生に相談する方向で対応策を考えていた。
本件に関して言えば先生は全くの役立たずであることは俺は知っている。だが、敢えてこれに反対するのも不自然だ。俺は取り敢えず黙って2人に従うことにした。
「待ちたまえ、川崎、君は最近家に帰るのが遅いらしいな。一体どこで何をしているんだ?」
「・・・誰から聞いたんです?」
俺たちは少し離れた物陰から先生と沙希の会話に聞き耳を立てている。
「クライアントの情報を明かすわけにはいかないな。それより、質問に答えたまえ。」
「別に何処でも良いじゃないですか」
高圧的に聞き出そうとする先生に、全く臆することなく受け流そうとする沙希。思った通り、あの時と同じような会話が繰り広げられている。
「君は親の気持ちを考えたことはないのか?」
「先生・・・そういうの、親になってから言えば?あたしよりも、自分の心配した方が良いって。結婚とか」
――沙希、俺が言って許される言葉じゃないが、その台詞は30過ぎた時に、ブーメランになって返ってくるぞ・・・
崩れ落ちた平塚先生を無視するように、沙希はさっさと靴を履き替え、学校を後にした。
「あちゃ〜 先生可哀想」
結衣が同情しながらそう言った。確か、あの時の先生は半ベソかきながら”今日はもう帰る”と、職務放棄を宣言したはずだ。誰か、本当に貰ってや――
「待って、平塚先生が立ち上がったわ」
――ん?立ち直り早ぇな。
雪乃の言葉を聞き、違和感を覚えた俺はもう一度先生を見る。携帯電話を取り出して誰かと通話しているようだ。
「あ、もしもし?宮田君か?総武高校の平塚だ。先日はウチの生徒の件で世話になった。・・・ところで今日の夜、少し時間をもらえないだろうか?」
え、何これ?
「え?いや、大した用事ではないんだ・・・・何?深夜残業?大丈夫大丈夫、じゃあ0時頃にオフィス前で待たせてもらおう」
『ちょっと何なんですか貴女!?こっちは問題大有 ピッ』
先生が電話を切る直前に、携帯から宮田さんの抗議の叫びが聞こえてきたような気がするが、気のせいだろうか。いや、明らかに断ろうとしてましたよね、今の。っていうか、ここから都内まで結構距離もあるし、0時頃にオフィス前って、最早ストーカーの領域ですよ、先生。
しかし、平塚先生が宮田さんに目を付けるとは、とんでもない歴史改変の瞬間を垣間見たような気がする。そりゃ、2人をよく知っている自分からすると、それぞれ幸せになっては欲しいが、こういうのは、両親がイチャついてる瞬間を偶然目にしてしまったような、なんとも言えない微妙な気分だ。
俺は今見た光景を忘れるため、雪乃と結衣に声をかけ、その場を後にした。
☆ ☆ ☆
その後、結衣と雪乃を家に帰すと、俺は1人、ファミレスに大志を呼び出した。
大志は、怪しい店から自宅に電話がかかってきたと、気が気ではない様子だった。小町も結衣も雪乃もいない今日は、”姉ちゃんが風俗でバイトしてるかもしれないっす!”と、ド直球で俺に悩みをぶつけてきた。
「おい、落ち着け。風俗店のマネージャーが本人の携帯以外に連絡することはまずないから安心しろ。身内バレして女の子が辞めちまったら業績が悪化するからな」
「・・・なるほど、そうかもしれないっすね」
俺の言葉を反芻するかのように自分に言い聞かせ、最終的に大志は納得した。
「その店、エンジェル何ちゃらと名乗ったって言ったな?なら、川崎のバイト先は間違いなくエンジェルラダー、ホテルロイヤルオークラの高級バーだ。」
「なんでそんなことが分かるんですか!?」
「この辺でエンジェルと名のつく店を調べてみた。該当するのはメイドカフェかその店の2つだけだ。そして最近あいつは朝帰りばかりときた。深夜営業してんのはバーだけだからな」
「お兄さん、パないっすね」
尊敬の眼差しで俺を見つめる義弟。本当は最初から知っていただけ。さも推理が冴える名探偵の如く振舞っていることに、若干の申し訳なさを感じた。
「んなこたぁねえよ・・・大志、よく聞け。お前の姉ちゃんがバイトしてるのには理由がある」
「お兄さん、何か知ってるんですか!?教えてください!」
「それは学費のためだ。塾に大学・・・俺達の学年の生徒も、進学するとなるとこれからどんどん金がかかるからな。お前に黙ってんのは、お前に余計な気を使わせないようにするためだろう」
「そんな・・・」
「分かったか?川崎沙希は、今でも昔と同じ、真面目で優しいお前の姉ちゃんだ。疑った事は後で謝っておくんだな」
「はい・・・でも俺はどうすれば」
俺の情報からは、姉が怪しいバイトをしていたわけではなかった事が分かっただけで、決して根本的な解決が図られた訳ではない事は大志も理解していた。
どうやって沙希と大志の問題を解決するか、俺はここのところずっと悩んでいた。勉強会の提案も沙希が最終的に受け入れるかは分からない。塾のスカラーシップにしても、一時凌ぎに過ぎない方法だ。何故なら今後沙希が大学に進学すれば更に学費はかかるのだ。沙希はあまり言葉にはしなかったが、大学時代には経済的にかなり苦労したようだった。
幸い、今の俺には一般的な高校生にない一定の財力がある。だが俺が沙希を経済的に支援するには、それなりに合理的な理由が必要になる。それは俺たちがクラスメートや友達という、一般的な関係以上に濃い繋がりを有している事が大前提だ。
自惚れる訳ではないが、今の俺でも沙希とそう言った関係を構築する事は不可能ではないだろう。だが、それは結衣や雪乃との間に築いてきた今の関係のバランスを崩す事に繋がりかねない。そもそも俺が無償で沙希の学費を負担すると申し出たところで、沙希は100%それを断るだろう。
「大志・・・お前、姉ちゃんの為なら何でも出来ると、自信を持って言えるか?」
俺は、一呼吸置いて大志に覚悟の程を確認する。
「やります!何でもやります!やってみせるっす!」
少しは悩むと思っていた俺の予想に反し、大志は気持ち良いくらいの勢いで、そう即答した。そして、その勢いが俺に覚悟を固めさせた。
「よく言い切ったな、見直したぞ・・・全部俺に任せろ」
“その言葉が聞きたかった”
某モグリの天才医師が、似たようなシチュエーションでクライアントに言った言葉を俺は思い出していた。違うのは、俺が外科医ではなく金融マンだという点だ。言ってみれば、俺は金の問題を解決するプロだ。そして沙希は自分の女だ。彼女が経済的に問題を抱えているのであれば、それを解決してやれなくて、この先プロを名乗れるだろうか。
答えは否だ。