比企谷八幡 「・・・もう一度会いたかった」   作:TOAST

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10. 比企谷八幡は恩人の妹と出会う

 

 

とある放課後、俺は平塚先生からの呼び出しを食らい、職員室へと向かった。

 

 

平塚先生は、最近の俺達の活動状況を気にしているらしい。

結衣のクッキー作り以降、奉仕部へ持ち込まれた依頼はなく、俺達は各々がバラバラに時間を潰しながら過ごしていた。雪乃は本を読み、結衣は携帯を弄るか、それに飽きると雪乃の読書の邪魔をするといった具合だ。俺はというと、新聞を読むか携帯で株の売買注文をひたすら繰り返している。

俺達3人の関係に特段問題が発生しているワケでもないため、雪乃は平塚先生にも活動報告を上げていなかった。それが却って平塚先生の心配を煽ったようだった。

俺は、自分が株の売買をしていることは伏せ、平塚先生に近況を説明した。

 

「そうか。まぁ問題がないのは良いことだろう。ところで比企谷、君の進路希望調査の取得資格欄を見たが、何かと頑張っているようじゃないか。どういう風の吹き回しだ?」

 

「風の吹き回しって・・・素直に褒めてくれても良いんじゃないですか?まぁ奉仕部に入って、雪ノ下から色々と刺激を受けたんですよ」

 

「ほう、それは良い知らせだな。一つ尋ねるが、君にとって雪ノ下雪乃という生徒はどんな人間に見える?」

平塚先生が目を鋭く細めて聞いてきた。

 

「彼女のことは人として尊敬してます。自分を高めるための努力を厭わないところとか、何事にも全力で取り組もうとする姿勢には好感が持てますね。だが、彼女にも未熟で脆い部分がある、そんな気がします。俺は、何かの弾みで彼女の心が折れてしまわないように、支えてやりたい」

 

平塚先生は、へぇ、と感心したような声を出しながら、タバコを取り出し火をつけた。

広がる煙の臭いが鼻をくすぐる。俺はこの時代に戻ってきてから、ずっと禁煙を強いられていた。

コンビニでは販売を断られ、自販機では年齢認証カードを求められて、どこに行ってもタバコを買うことができなかったせいだ。一度タバコを吸いたいと思うと、そわそわして落ち着かなくなる。目の前でプカプカ煙をふかされるこの状況は、正直拷問に近い。

 

「ちなみに、君が思う雪ノ下の未熟で脆い部分というのを教えて貰えるかな?」

 

「そうですね。例えば、彼女は何事に対しても努力を厭わない。その一方で、彼女が必死に努力するのは何のためなのか、それが不透明だ。そこに彼女なりの意思や自分で定めた目標が有れば、言うことは無いんすけどね。だが、彼女にはそういったものがか欠けているような気がします」

 

平塚先生はその小さな口から紫煙を細く吹き出しながら目を細める。

俺は自分の中の雪乃の人物像を続けて説明した。

 

「少々大げさな表現ですが、彼女は与えられた課題をこなすことについては誰よりも秀でている。だが自分で目標設定を行い、その達成のために必要なものとそうでないものを自分の意思で取捨選択して、自分なりの道を模索していく・・・といった行動を取る力はまだ備わっていない」

 

「国語以外の成績がぱっとしない君の言葉だ。雪ノ下の立場に立てば理不尽な程に上から目線な物言いではあるが、君が言わんとすることは何となく解る気がするな」

 

平塚先生は俺の意見に同意しながら、難しい顔をして何かを考え込んでいる。

俺は構わず持論の展開を続けた。

 

「俺の成績のことには触れないでください。まぁ、普通の高校生でそんなことが出来る奴のほうが珍しいんでしょうけどね。雪ノ下はなまじ優秀なだけに、周囲からの期待だけじゃなく自己効力感(self efficacy)も高い人間だ。だが、世の中上には上がいるって言いますけど、もし仮に何かの分野で雪ノ下よりも秀でた人間が出てきたら、彼女は自分の存在意義を見失いかねない」

 

「・・・何故なら彼女には、自分の意志で定めた目標がないから、か」

 

「そうです。自分で定めた明確な目標がある人間にとっては、その達成に不要な分野で人に勝とうが負けようが全く関係のない話です。では自分というものがない雪ノ下はどうしてきたか?簡単ですよね。とにかく全てにおいて他者より秀でていればいい」

 

「だが、それにはいつか限界が来る、そういうことか」

平塚先生は俺の発言に対して、言葉を補いながら、俺の考えを探っていく。

コミュニケーションを苦手とする俺は、いつも言葉足らずになりがちだが、このようにある程度俺の考えを先回りしてくれる人間と話すのは、なかなか心地良い。

 

「そういうことです」

 

「・・・取得した資格から察するに、君にはある程度将来の目標と言うものがあるんだろう。だから、君は君自身の取捨選択に基づいた行動が出来ている。まぁ、だからといって理系科目を完全に放棄して良いとは、私の立場上は言えない訳ではあるが。・・・とにかく比企谷、君の観察力は大したものだ」

 

「俺は、そんな立派な生徒じゃないですよ。結果(アウトプット)を努力(インプット)で割って求められる関数(Function)が効率だとすると、俺は昔からその効率を最大化することをとことん重視するタイプの人間です。だが、最後にホンモノの成功者になれる人間は、大抵、雪ノ下のようなインプット重視型の愚直な人間だと思います。だからこそ俺は彼女のことを高く評価しているんです」

 

「なるほど、良くわかったよ。私は君のことを見誤っていたようだ。捻くれた孤独体質などと思い込んでいたことは侘びよう。だが、君と会話を交わせば交わす程、なぜ君があんな酷い作文を書いたのか、益々解らなくなってくるな」

 

平塚先生は吸い終わったタバコを灰皿に押付け、微笑みながらそう言った。

そのいたずらっぽい笑顔にドキッとする。

今の俺から見ると、平塚先生は理想の女性のタイプに近い。美しい外見もさることながら、生徒を思いやる姿勢にも好感が持てる。本当に、何で恋人の一人も出来ないのか、不思議で仕方が無い。

 

「いや、あれは何というか・・・徹夜明けのテンションで書いてそのまま提出してしまった事故のようなものですから」

 

そんな言葉でごまかしながら、俺は俯いた。

タバコの臭いに紛れて流れてくる香水の香りに、またも恩師平塚静の「女」を感じとってしまった。

異性として意識すると先生の顔を直視できなくなってしまう。

 

――俺は発情期の犬かよ

そういやこの時代に戻ってきてからセックスなんてしてないし、自慰的な行為も殆どしてない。今は高校生の体だ。枯れかけたオッサンの習慣に従って日々を過ごしていても、溜まるものは溜まるのだ。

自分が何か間違いを犯す前に、これからはそういうシモの処理もきっちりしておいた方が良さそうだ。

 

微笑む恩師を前に、俺はとんでもない思考を廻らせていた。

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

「あ~、なんて言ったら伝わるんだろう!平塚先生、ちょっと助けて貰えませんか?」

俺の思考は、突然平塚先生に話しかけてきた中年女教師によって遮られた。

その横には困った顔をした女子生徒が立っている。

 

「どうしたんですか?」

平塚先生が女教師に問いかけた。

 

「この子、私のクラスに転入してきた留学生なんですけどね。挨拶程度なら問題ないんですが、そうは言ってもまだ日本語が不自由で、進路希望調査の説明に困っていまして・・・」

 

その留学生は一見すると日本人とは区別がつかない。テンパっている女教師の話は要約するとこうだ。

本人は至って真面目で努力家。日本以外の留学経験は無いのに、英語にも不自由しない程、学業のレベルは高い。

将来有望な生徒のために、しっかりと進路の希望を聞き、力になってあげたい。だが、あいにく今日は英語の先生が捕まらない。

 

女教師は筆談でも良いから、通訳をして欲しいと平塚先生に迫っていた。

 

「ひ、筆談って中国からの留学生ですか?わ、私の担当は現国ですよ。そんな高度なやり取りはとても・・・」

 

――中国人留学生?

ふと、自分の中で何かが引っかかる。

 

「ア、アノ私、迷惑をカケテスミマセン。私、1年B組ノ劉海美(リュウハイメイ)トモウシマス」

 

 

――実は私には妹がいましてね。千葉の高校に2年通っていたので、私よりも日本語は上手なんですよ。名前は確か、总武(zong wu)高校だったかな

 

留学生の名前を聞いた瞬間、頭の中で響く恩人の声。

 

――マジかよ。この子、もしかして劉さんの妹・・・なのか。

件の留学生は、田舎っぽい野暮ったさが残っているものの、良く見ると目元がキリッとしており、兄に似た整った顔立ちをしていた。

 

『・・・你是不是中国人?』

君は中国人か?教師陣の会話を遮るように、恐る恐るそう尋ねてみた。

 

『天呢!你也是中国人吗!?』

そんな俺の言葉に、彼方も中国人なんですか!?と、嬉しそうな顔で切り返す留学生。この反応を見るだけで、今まで言葉もろくに通じない世界で苦労してきたことが窺われる。

 

『不是,我是千叶本地人。不过,我会中文・・・一点点 (ちがう、俺は筋金入りの千葉人だ。だが中国語は出来る・・・・少しな)』

 

 

「比企谷、君は・・・・確か中国語検定を取ったと書いてあったが、会話も出来るのか?」

平塚先生が会話に割り込んできた。

 

語学の資格を持っていて会話出来ないわけ無いだろ。

そう心の中で突っ込んだが、日本人はこと語学において、オーラルコミュニケーションを致命的な程苦手とする人種だ。平塚先生が驚くのも無理は無い。

 

『君は何処の出身?こっちに家族はいるの?』

とにかく情報が欲しい。この子は本当に劉さんの妹なのか。

平塚先生には構わずに会話を続ける。

 

『私は江蘇省の田舎出身です。こちらには大学の交換留学プログラムで一緒に来た兄と共に、親戚の家に世話になっています』

 

――こりゃ、ほぼ確定だな。

 

この子も中国で一人っ子政策が敷かれていた時代の生まれだ。実の兄妹がいるだけでも相当に珍しい。名前はハイメイと言ったが、おそらく漢字は海美。空に海とは、どこかゲームのキャラクターのような名付けセンスだ。

よりにもよって、自分の一つ下の学年にいたとは。改めて世界の狭さを実感する。

 

「比企谷、どんな会話をしているのかは分からんが、さっきから女子留学生を相手に楽しそうじゃないか」

再び平塚先生の介入を受けて会話が中断される。

 

「いや、別に楽しんでなんかないですよ」

心外だ、と言わんばかりの態度で俺は応戦した。

 

「ちょうど良い。君に通訳をお願いしよう。やってくれるな?」

平塚先生の言葉に合わせ、女教師も嬉しそうな顔で同乗した。

 

「・・・しょうがないですね」

 

こうして4者による進路希望調査会が開始された。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

俺は今、劉さんの妹、海美嬢を連れ、奉仕部へ向かって歩いている。

 

先の職員室の一件で色々なことが分かった。

一つ。海美は留学後に中国に戻り、兄が学籍を置く北京の大学への進学を希望していると言う点。その大学は日本人でも名前を聞くことがある中国の最高学府である。彼の国の大学入試制度は日本とは異なり、地元戸籍の学生が優遇される、ある種不公平なシステムとなっている。言い換えれば、地方出身者で難関大学に通うには、学業に相当に秀でていなければならない。

 

本国の高校生は皆、大学受験を目指して1年生の時から、朝7時から夜の10時まで学校で勉強に励むという。日本とは比較にならない競争社会の中で、社蓄も真っ青な生活を送っている。

この話を通訳したとき、平塚先生と海美の担任は軽く引いていた。

 

総武高校のカリキュラムは、そんな環境が当たり前と考えている海美にとって、不安になる程に緩い。緩いにも関わらず、日本語の壁のせいで、自分の試験の成績は芳しくない。そんな状況に海美は焦りを感じていた。

 

 

「比企谷、これは難しい問題だが、君と雪ノ下の力で、何とかこの子の面倒を見てやってくれないか?それに折角日本に留学に来たのだから、勉強以外にも日本の高校でしか出来ない体験もさせてあげたい。由比ヶ浜がいればその点も心強い。私も協力は惜しまない。中国の大学受験制度等は私が調べてみよう。本件、ひとまず奉仕部預かりということに出来ないだろうか?」

 

「平塚先生の頼みなら、俺に断る理由はないですね」

俺の恩人の妹の問題解決を願う、恩師の姿。

平塚先生は幾分遠慮がちだったが、俺は快諾してみせた。

 

 

 

 

『あの、すみません。私達は何処に向かってるんですか?』

不安気に俺に質問をする海美。

 

『奉仕部っていう部活の部室だ。俺はそこで、生徒の悩み相談のような活動をしている。お前の担任と平塚先生と相談した結果、お前の面倒もそこで見てやることになった』

 

『面倒を見るって、補習でもしてくれるんですか?』

 

『その内容は部長と相談して決める。悪いが、俺の成績は国語を除けば下から数えた方が早いレベルだ・・・英語は次の試験で順位が多少は上がるかもしれないが、理系全般、それに地歴のような暗記系科目はもはや点数が取れるかも怪しい。よって、お前に勉強を教えるのは難しい』

 

『・・・そんな』

 

『心配するな。うちには学年首席の部長もいる。それに平塚先生からは、勉強以外にも、お前が日本の学校生活に馴染めるように、サポートしてくれと頼まれている。俺はお前が日本語になれるまで通訳してやる』

 

『どうしてそこまでしてくれるんですか?どうして自分の勉強時間を削ってまで、見ず知らずの生徒のために奉仕活動なんてしてるんですか?』

 

『それは、なんでだろうな。まぁ、そういう世界もあるってことだ』

 

劉さんの言う「世界を変えたい」。日本に来てその思いが形作られたと言っていた。

この子にも、そういう体験をさせてやりたい。それが、少しでも劉さんへの恩返しになると良いのだが。

 

『そういえば、自己紹介がまだだったな。俺は比企谷、ここの2年生だ。宜しく』

 

『は、はい。宜しくお願いします』

 

海美とそんな会話を交わしながら廊下を歩いていると、突然携帯電話が震え出した。

メールの着信を受けたようだ。

 

【比企谷君、いったいどこで油を売っているのかしら?】

奉仕部のグループチャット。雪乃からだった。

 

【すまん。今部室に向かってる。お客さんを連れて行く】

即座に返信を打ち返す。

 

【お客さんって何?とにかく、ヒッキー早く来てよ!なんか部室に変な人がいる!】

今度は結衣からの着信。

一体何だってんだ。ひとまず、俺は部室への歩みを速めることにした。

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

雪乃と結衣は奉仕部のドアから、怖がるように中を覗き込んでいた。

後ろから二人に声をかける。

 

「遅れてすまん。大丈夫か?」

背後から俺が話しかけると、雪乃と結衣は背中をビクッと震わせてこちらを振り向いた。

 

「ひ、比企谷君、驚かさないで。ようやく来たのね。その人が例のお客さん?」

 

「ああ、そうだ。平塚先生の依頼で奉仕部で面倒を見ることになった。ところで部室に変なヤツがいるって話だったが・・・」

 

「むぅ、ヒッキーが知らない女子を連れてきてる・・・って、そうなの!あれ見て!」

 

結衣は頬を膨らませたかと思うと、ドアの隙間から部室の中を指差した。

音を立てないように注意しながら教室を覗き込む。

中にいたのは良く見知った他のクラスの男子、材木座義輝だった。

 

「なんだ、材木座じゃないか」

 

「え?ヒッキーの知り合い?」

 

「まぁな。体育の時間に良くペアを組んでる」

 

材木座と再会したのは、俺が高校生活をリスターとして3日目の体育の時間のことだった。

 

---本当に懐かしい。

こいつに会ってまず浮かんだのは、そんな月並みな感想だった。

30を過ぎて、材木座がどんな大人になったのか、俺は知らない。流石に中二病を拗らせたままということは無いだろう。だが、あの時間軸の中で、こいつは作家になるという夢を叶えていたのだろうか。そんな疑問が湧いた。そしてはたと気付く。何年も連絡を取って来なかったくせに、今更そんなことを気にかけている自分の思考はひどく偽善的ではないか。俺は再び自己嫌悪に陥った。

 

だが、材木座はそんな俺に対し、さも当然のように声をかけてきてくれた。無論、材木座は当然俺が社会人として経験を積んで、ここに戻ってきたことは知らない。奴からすれば、体育の時間に俺に声をかけるのは、いつもと何も変わらない日常の必然なのだろう。だが、俺にはそれがとても嬉しかった。

 

 

俺は奉仕部のドアを勢い良く開けた。

 

「ハッハッハ!待ちわびたぞ、比企谷八幡!」

 

「相変わらず元気な奴だ。用があるならメールでも送ってくれば良いだろう」

 

「我は、平塚教諭に聞いてここに来たのだ。奉仕部とやらには我の願いを叶える義務があるらしいではないか!」

 

「んなドラゴンボールみたいな部活があるわけねぇだろ。俺達は悩みを持った生徒の問題解決のサポートをボランティアでやっているだけだ」

 

「幾百のときを超えてなお主従の関係にあるとは・・・これも八幡大菩薩の導きか・・・・この我、剣豪将軍、材木座義輝の願いを叶えて見せろ!八幡!」

 

「少しは人の話を聞け。見ろよ、お前のせいで海美が怯えてんぞ」

突然大声で騒ぎ出す材木座に恐れを抱いた海美は、俺の背中に隠れて様子を伺っていた。

 

「比企谷君、ちょっと・・・何なのあの剣豪将軍?って。 それにハイメイってこのお客さんのことかしら?」

 

 

俺は海美の件と、材木座の中二病について、雪乃と結衣にかいつまんで説明する。

結衣も雪乃も、材木座に対して殆ど興味を示すこと無く、この留学生を大いに歓迎しながら取り囲んだ。

特に結衣は興味津々と言った様子で、口早に色々な質問を投げかける。

だが、ネイティブの日本語のスピードに海美が着いていけるはずも無く、海美はただ困惑の表情を浮かべていた。

材木座は半ば無視に近い扱いを受けて、泣き出しそうな顔をしていた。

 

「まぁ、世の中ってのは常に女を中心に回っているもんだ。依頼の内容は後で俺が聞いてやるから、しばらく待ってろ」

小声で材木座に伝えると、俺は海美に向かって状況の説明を始めた。

 

『海美、悪かったな。今日はお前の他にも客がいたようだ。普段は依頼なんか滅多に無いんだが。・・・奉仕部のメンバーは俺と、ここにいる雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣の3人だ。件の学年首席の部長がこの雪ノ下だ。皆歓迎すると言っている』

 

「・・・私ワ、1年の劉デス。ヨロシクオネガイシマス」

 

海美は俺の言葉に頷くと、慣れない日本語を繰り、恐る恐る挨拶の言葉を口にする。

だが、俺を除く3人の誰もが、その挨拶に反応することなく固まっていた。

結衣、雪乃、材木座の3人の視線は海美ではなく、俺に集まっている。

 

「は、八幡?変なものでも食ったのか?」

 

「え?ヒッキー、今の・・・英語?なんで?」

 

「英語ではないわ。おそらく中国語。・・・貴方、何故中国語ができるのかしら?」

 

――そりゃ普通は驚くよな。どうしよう、ちょっとめんどくせぇな。

 

「NHK中国語講座の先生が美人だったから、ちょっとした気まぐれで勉強してんだよ」

 

「何それ!ヒッキーキモイ!ってか、さっき劉さんのこと海美って、名前で呼んでたよね!?何で!?」

結衣が物凄い剣幕で詰め寄ってきた。歩幅を詰められた瞬間、結衣の髪からシャンプーの香りが漂ってきた。その距離感に少しだけ心臓が高鳴る。

 

「中国語を喋っただけでキモイとはあんまりだな。中国人に謝れ。それに、外国人なんだから下の名前で呼ぶのは当たり前だ」

俺は微妙に論点をすり替えながら、結衣に謝罪を促した。

ちなみに、海美を呼び捨てにするのは、劉さんと呼ぶと、どうしても兄の顔が思い浮かぶからだ。

別に必要以上に仲良くしたいとは考えているわけではない。

 

結衣は俺の説明を聞いても納得いかないといった表情を維持していた。雪乃は俺に対し、観察対象を注意深く見るような怪訝な目を向けていた。

 

 

『海美、黒板に名前を書いてやったらどうだ?漢字が分かった方が良いだろう』

結衣たちの視線を振り切るように、俺がごまかし半分でそう促すと、海美はチョークを手に取り、黒板に遠慮がちな小さな字で「劉海美」と書いた。

 

「へぇ、海がハイで、美がメイなんだ!なんか不思議!」

 

「上海の海もハイと読むでしょう。北京語ではそういう読み方をするのよ」

 

「北京語?中国語じゃなくて?」

 

「中国には様々な方言があるの。例えば、香港を含めた広東省では広東語が使われているわ。日本とスケールが違って、中国の方言は最早別言語と言っても過言ではないわ。だから中国には全国共通の普通話(プートンファー)と呼ばれる言葉が存在するの。そしてその普通話は北京の方言をベースに作られている。だから北京語とも言われるわ」

 

「出たな、ユキペデア。流石、良く知ってるな」

結衣と雪乃の会話を遮って、雪乃の博識ぶりを褒める。

 

「知識として知っていても、貴方のように中国語を話すことは出来ないわ。それに、その不愉快な渾名はやめてもらいたいのだけれど」

雪乃は、キッと鋭い目つきで俺を見返してきた。

褒めてるのに、ツレナイやつだ。

 

「じゃあさ、じゃあさ!私たちの名前は中国語で何て読むのかな!?」

結衣が海美にそう尋ねる。早口な質問に海美は戸惑っていたが、結衣はそれに気付くと、もう一度ゆっくりとした口調で聞きなおし、黒板に3人の名前を漢字で書き出した。

 

「由比ヶ浜サンノ“ヶ”ノ字ハ中国語ニアリマセン。雪ノ下サンノ“ノ”も無イノデ、ソレハ省キマス」

 

「うんうん!」

結衣が目をキラキラさせながら海美の言葉を待つ。その姿を見て、結衣は本当に良い子だと、改めて感じた。日本の学校生活に馴染めない海美に対し、早くも話題を振って自分達の輪に招くといった行為を、無意識かつ自然にやってのけた。これは俺にも雪乃にも出来ない芸当だ。

 

「由比浜・結衣ハ、ヨウビィバン・ジェイー、雪下・雪乃ハ、シュエシャー・シュエナイ、デス」

 

「よ、ようびー?難しいよ!」

 

「日本人の苗字は中国人と比べて長いからな。ファーストネームが分かれば十分だろう。結衣はジエイー、雪乃はシュエナイだ。覚えやすいだろう?」

頭を抱える結衣に対し、俺はそう応えた。

 

「うーん、じゃあヒッキーは?」

 

「俺の名前なんか、どうだっていいだろう」

 

「比企谷サンハ “ビィチィグゥ” デス」

話題を逸らそうとした俺の意図に反し、海美は嬉しそうな顔で俺の苗字を中国語読みした。

雪乃、結衣、材木座の三人はその瞬間目を丸くし、一呼吸置いて肩を震わせて笑い出した。

 

「おい、お前ら、何故笑う。失礼だろうが」

そう口にしつつも、こうなると思ったから俺は話題を逸らそうとしたのだ。

 

「ビチグソ八幡よ!我は!?我の名前は中国語で何ていうの!?」

 

「材木座、ぶっ殺すぞ。おれは何処のジョジョだ!」

 

「ク、クク・・・ビチグ・・・・」

 

「雪ノ下、それ女が口にしたら駄目な単語だから!」

イメージ崩壊に繋がりかねない言葉を口にしかけた雪乃を必死で止める。

雪乃の可愛らしい口から下品な単語が出るのは個人的に許せない。

 

「ぷ、ぷぷ・・・じゃあ、これからはヒッキーじゃなくて、ビッチーだね!」

 

「由比ヶ浜、お前が俺をビッチ呼ばわりすんな!」

かつての高校時代、俺はリア充の結衣をビッチキャラ扱いしていたことを思い出した。

長年の付き合いで、今では結衣が純情な女だというのは承知しているが、結衣の方からビッチ呼ばわりされるとは思っても見なかった。

 

 

全員でギャーギャー騒ぎながら海美を取り囲む。

始めは困った顔をしていた海美も、いつの間にか笑みを見せていた。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

さて、そろそろ二人の悩み相談を始めなければならない。

俺は先ほどとは言語を切り替えて海美に切り出した。

 

『Hey, Haimei. You speak English as well, don’t you? :海美、お前英語も喋るんだろう?』

 

『S, Sure.: は、はい』

 

『Cool... Look, today Zaimokuza is here to discuss with us about his problem. I wanna help him out. Don’t worry, Yukino is a native English speaker. You can consult with her in English :良し。いいか、今日は材木座が相談に来た。俺はこいつの相手をしてやるつもりだ。なに、心配するな。雪乃は英語のネイティブスピーカーだ。彼女が英語で相談に乗ってくれる』

 

『Understood. Yukino-san, Thank you so much for your kind support : 分かりました。雪乃さん、わざわざお時間を頂くこととなってすみません』

 

『…Well, no problem. : 仕方ないわね。』

 

「済まんな、雪ノ下。由比ヶ浜と二人で海美の件は少し頼む。俺は先に材木座の依頼を片付ける。男女で別れた方が何かとスムーズだろう」

 

俺の言葉に雪乃は疑惑の目を向けつつも無言で頷いた。

 

「っていうか、ヒッキーも海美ちゃんもゆきのんもすっご!私には何言ってるのか殆ど分からないけど、みんな何かカッコいいね!」

 

「確かに、彼が英語まで話すなんて、ますます怪しいわね。本当に帰国子女ではないのかしら」

 

俺は雪乃の疑惑の視線を避けるように、部屋の隅に積まれた机と椅子を持ち出して、材木座と向き合うように座った。

 

 

 

材木座の依頼内容は、自ら執筆した小説の原稿を読んで、感想を聞かせてくれというものだった。

そう、あの時雪乃からボロクソに酷評され、俺が何のパクリ?等と言ってとどめを刺したあの小説だ。

しかし、改めて見ると凄まじい量の文章だ。材木座がこれだけの量のストーリーを書上げたことに素直に感心する。やはりコイツの熱意はホンモノなのだろう。

 

 

――さて、どうしたもんかな。

ここから俺が何をしてやるのが、最も材木座のためになるのか。それを思考する。

 

「材木座、お前、いきなりこの量の文章を人に読めってのは少し無茶が過ぎるだろ。会社で上司にこんな分厚い資料をいきなり出したら、十中八九激怒されるぞ」

 

「しかし八幡よ。我は小説を書いているのだぞ。原稿の量が多いのは当然だろう」

 

「俺が言ってるのは原稿自体の分量の問題じゃねぇ。まずはお前がこの小説を書いた目的とか、基本的な背景・情報を共有しろってことだ。この作品がお前にとって、ものの試しで書いた練習作品なのか、何かの賞を狙って書いた本気の作品なのか、それが分かるだけでも評価の仕方が変わるからな」

 

「・・・・」

 

「そうだな。まずはレジュメを作ってもらおうか。俺は出版業界には詳しくないが、仮に自分が編集者だったら・・・そうだな、こんな感じでどうだ」

 

俺はコピー用紙に手書きで項目を書き込んでいく。

 

1.作品を書いた目的

2.作品の主要キャラクターとあらすじ(章毎)

3.作品の見所、作品を通じて読者に抱かせたい感想

4.作品を書くに当って、参考にした他の作品

5.参考作品の主要キャラクターとあらすじ

6.参考作品と本作品の類似点・違い (競合作品と比べたアピールポイントは何か)

 

「まぁ、このくらいの情報があれば、読んだ後に何かしら役に立つアドバイスが出来るだろう。お前も次からまた物を書く時は、書き出す前にこのくらいの指針をまとめておいた方が、筆が走りやすいんじゃないか」

 

「う、うおおおおおおおお!八幡!やはりお前は我の救世主だ!」

材木座が興奮の声を上げる。少し離れた席で早速参考書とノートを開いて勉強を開始していた雪乃たち3人がビクッとしながら俺達二人を見てきた。

 

「い、いきなりでかい声を出すな。俺も小説は丸で素人だ。俺のアドバイスが正しいなんて確証は無いんだぞ。それでも良いのか?」

 

「我はお前を信じる!ちょっとまってろ!今すぐこのレジュメを埋める」

そういって、材木座は鼻息を荒くしながら、ノートに文章を書き出し始めた。

 

材木座がレジュメを書いている間、特段することが無くなった俺は、原稿の束をパラパラとめくって中身に目を通し始めた。

 

そうだ。確か内容は異能バトル系のストーリー。読書の虫である雪乃をして「凄まじくつまらない」と言わしめた作品だ。俺も当時、読むのを苦痛に感じたことを思い出す。

 

あの時雪乃が指摘した通り、てにをはの基本的な使い方が出来ていないことや、無茶苦茶なルビの振り方は、作品を稚拙に見せている原因の一つだ。また、結衣が「難しい言葉をいっぱい知っている」と評した通り、材木座は身の丈に合わない難しい言葉をやたらと使いたがる傾向がある。少し文章を読んだだけでこういった駄目な特徴がやたらと目に付き、俺は顔を顰めた。

 

そして、更に今回こいつの小説を久々に読み返して気付いた点が一つ。俺が致命的と感じるのは、パラグラフ構成が全く出来ていない点だった。材木座の文章からは、「自分が頭の中に思い描いた世界を、文字を媒介にして、高い再現率で他者の頭の中で再構築させるには、どのような順序で話を展開すれば良いか」、といった配慮を行った形跡が一切見られない。あるのは、ただひたすら己のリビドーに従って書かれたであろう、延々と続く細かい情景描写だ。

 

これはあくまでもビジネス文章の話だが、読みやすい文章というものは、例外なく全体像や結論をある程度説明した上で、必要な範囲で細部の補強を図るという原則に従って書かれる。また、論旨を語ったり、ストーリーを展開する際は、特定人物・事物等の対象を中心に捉えて主述関係を明確に示し、時間軸等の特定のベクトルに従って話を進めることも重要である。

 

たしかに娯楽作品である小説では、そういった理解の容易さを犠牲にしてこそ可能な表現もあるだろう。だが、材木座の文章は、正直に言ってその許容範囲を超えるものだった。言ってみれば、読んでいて、コイツが読者に対して何を伝えたいのかを、わざわざ俺が自分の頭の中で整理する、という作業が必要なレベルだった。読解という作業は、ストーリーのダイナミズムを感じ取るという、小説においておそらく最も重要な楽しみを徐々に奪い去っていく。結果、読者は段々と読むのが苦痛になる。特に簡潔なビジネス文章に慣れ親しんだ今の俺は、材木座の依頼でなければ、こんなもの、読もうとすら思わないだろう。

 

「材木座、レジュメを書きながら聞け。ストーリー云々は抜きにして、お前の文章には改善すべきポイントが一つある」

 

「何!?我の文章力に問題があるというのか!?」

材木座は鉛筆を止めて俺を見た。その鼻息は荒い。

 

「小難しい語彙を並べること=高い文書力だと思うなよ。確かにこれだけ細い情景描写を書き込むお前の熱意は大したもんだ。だが、それだけが続く小説は読んでいて面白くない」

 

「ぐぬぬぬ・・・」

 

「必要なのは、まずストーリーの骨組みとなるプロットをキッチリと立てること。そして、そのプロットを描写するのに必要な場面分けをすること。場面毎に誰が何をしたかを明確に書き記すことだ。基本に忠実に、物語を相手に伝えるには、どういう順番で何を説明すれば良いのか考えろ」

 

「しかし、そんなオーソドックスな書き方ではストーリーに深みが・・・」

 

「お前の小説はある意味、情景ごとの表現の深さに拘りすぎてるせいで、読み手にストーリー展開が伝わらねぇんだよ。バトルものなのに躍動感とか疾走間が殆ど感じられないのはどうかと思うぞ」

俺の言った点さえ改善すれば、雪乃も結衣も、読んでいて苦痛とまでは感じないだろう。是非とも後ほど、Before&Afterを二人に読み比べさせたい。

 

ガラガラ・・・

 

そんなことを考えていると、突然部室の扉が音を立てて開かれた。思わず顔を上げてドアの方を見る。そこには廊下に出ようとしている雪乃の姿があった。彼女の肌は普段から透き通るような白い色をしているが、今は先ほどより血色が悪いのか、若干青みが差さったような不健康な顔をしている。

 

「おい、雪ノ下どうした?」

雪乃は俺の問いに反応することなく、フラフラと外に出て行った。

 

「ヒッキー大変だよ!ゆきのんが!」

変わりに応えたのは結衣だった。海美はきょとんとした顔で、雪乃の出て行ったドアを見つめている。

 

「落ち着け由比ヶ浜。何があった?」

 

「ゆきのん、最初に海美ちゃんの学力を測ろうって言って、数学の問題集を解かせたの。日本語の能力が影響しないように、計算問題だけをピックアップしたんだけど、始める時に自分も一緒にやって相対的に力を把握するとか言って・・・・」

 

そこまで聞いて心の中に浮かぶ嫌な予感。先ほどの平塚先生との会話を思い出す。

 

「それで、海美が雪ノ下よりも高いスコアを出しちまったってことか?」

 

「そうなんだけど、それだけじゃなくって・・・海美ちゃん、ゆきのんが半分も解き終らないうちに全問正解しちゃって・・・ゆきのんは、飲み物でも買ってくるって言ってたけど、かなりショック受けてるみたいだった」

 

――劉さん、あんたの妹はいったいどんな頭脳をしてんだよ。マジで末恐ろしいな。

 

曲がりなりにも雪乃はこの進学校における学年首席だ。加えて、海美は一学年下の生徒でまだ高校生になって日も浅い。雪乃が半分も解き終らないうちに海美が全問正解してしまうなんてこと、誰が予想できただろう。これが日本と中国の教育制度の違いによる学生の錬度の差だとしても、物事には限度というものがある。やはり単純に海美の能力が凄いのだろう。

 

「って、海美に感心してる場合じゃねぇな。待ってろ、由比ヶ浜。俺が雪ノ下と少し話してくる」

 

そういって、俺は雪乃を追いかけ、廊下に飛び出した。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

――飲み物を買ってくる。彼女のその言葉通り、雪乃は自販機コーナーの前にいた。

ただ、ドリンクを買っている様子はなく、立ち尽くしているといった方が正しい様子だった。

俺は走って雪乃を追いかけてきたせいで若干乱れた息を整えてから、雪乃に声をかけた。

 

「雪ノ下、大丈夫か?」

 

「何かしら?私のことを嘲笑いにでも来たの?」

雪乃は俺の声に一瞬肩をビクッとさせ、俺の方を振り向かず自嘲気味に応えた。

 

「んなワケないだろ・・・だが、まぁ、その、なんだ。すまん、正直何て声をかけるのが良いのかよくわからん」

明らかに落ち込んでいる少女に対し、かけるべき言葉が思い浮かばない。下手な慰めは返って彼女のプライドを傷つけるだろう。だが、俺は今彼女を叱咤激励したいとも思わない。かけるべき言葉が見つからず、歯痒さを感じた。

 

「別に私に気を使う必要はないわ。結局私が井の中の蛙だった、その事実が明らかになっただけなのだから」

 

「そう言うなよ。お前が蛙なら、俺たち2年生全員ミジンコ以下ってことになっちまう」

 

「そうかしら?少なくともあなたはそうではないでしょう?」

 

「何でだよ?俺はお前みたいに数学出来ないぞ」

 

「あなたは私に出来ないことができるじゃない。中国語とか」

 

「んなもん、人それぞれの得手不得手や趣味によるもんだろ。比べること自体が間違ってる。それにそういうことなら、俺や海美にはお前のように綺麗なネイティブ発音で英語を喋ることもできないだろ」

 

「それは劉さんやあなたが後天的に努力して英語を身につけた結果でしょう。私は帰国子女で、あなたたちのように努力して英語を会得したわけではないの」

 

焦点が定まらない浮ついた会話のキャッチボール。お互いに自己批判と相手のフォローを続ける。自己批判を相手に否定して貰うことで、安心したがるような、慰めあいの会話を展開したいわけでは決してない。だが、他に雪乃にかけるべき言葉が思い浮かばなかった俺には、この流れを中断することが出来なかった。俺は今の二人の会話に対して若干の気持ち悪さを覚えた。

 

「・・・ところで、あなたには聞きたいことがいくつもあるわ。どうして私が英語を喋れることを知っていたのかしら?それからあなたが中国語や英語が話せる理由をはっきりと説明して貰えるかしら。これまで黙っていたけど、あなた、普段は株の売買をしているようね。どう見ても普通の高校生には見えないのだけれど・・・」

さっきまでの会話に違和感を覚えたのは俺だけではなかったようだ。だが、雪乃が切り替えた話題は、俺に対して溜まりに溜まった疑念をぶつけるものだった。

 

「お前が帰国子女だって話は校内じゃわりと有名だ。確か小学校の途中までアメリカにいたんだろう?それだけの情報があれば雪ノ下雪乃は英語ネイティブだって、誰でも判断するだろう。それから、俺の語学については説明のしようがないな。資産運用の話もそうだが、将来必要だと思ったから、勉強したり実践したりしているだけだ」

 

「あくまでもシラを切るつもりね・・・とはいえ、これ以上言及しても仕方ないわね。あなた、将来は金融の仕事に就くつもりかしら?あなたのように物事を取捨選択する力があれば、私ももう少し楽に生きられるのかもしれないわね」

 

「・・・やっぱ凄ぇよ、お前は」

雪乃は聡明な人間だ。30代になった俺がようやく見抜いた雪乃の問題点。それを、雪乃は俺とのわずかな会話から導き出した。俺はそのことに驚愕を感じると共に、興奮と喜びを覚えた。

 

「私の何が凄いのかしら・・・」

 

「自分の抱えてる問題、認識したんだろ?そういうのは大人でもなかなかできねぇよ」

 

「やっぱり、あなたは同級生という感じがしないわ。おかしな話だけれど、あなたと話をしていると、私は無意識にあなたに頼ってしまいそうになる時があるの・・・改めて言葉にすると、これは極めて屈辱的な事態ね。遺憾だわ」

 

「俺に頼るのがそんなに屈辱かよ。俺はお前に頼って貰えると嬉しいぞ。雪ノ下に認めて貰えたんだなって思えるからな。・・・・これはお前の矜持から外れる考え方かもしれんが、所詮人間一人に出来ることなんてタカが知れてる。自分一人でどうにかならないことは、とっとと他者に投げちまうことも重要だ。なんとしても成し遂げたいと思う目標が絡んでいるなら尚更な」

 

「そんな考え方、私はしたこともなかったわ。何事も、努力して解決しなければ自分の為にならないでしょう?」

 

「その考えを否定する気はねぇよ。だからこそ俺はお前を尊敬・・・いや、正直好意を抱いてる。でもな、だからお前が今回みたいな、どうしようもない壁にぶつかって潰れちまう姿なんか見たくないわけだ」

 

「い、いきなり何を言い出すのかしら、この男は。こ、好意って・・・申し訳ないのだけれど、あなたの気持ちに応えることは・・・・」

 

赤くなった雪乃の反応を見て、自分がどさくさに紛れて告白まがいの発言をしてしまったことに気がつく。俺は今、自分の考えを本心から雪乃に語りかけた。そうしなければ雪乃の気持ちを動かすことが出来ないと思ったからだ。だから好きだという気持ちを尊敬という表現で濁すことをやめたのだ。

 

「安心してくれ。別に交際を申し込むつもりはねぇよ。俺はお前が嫌がるようなことは決してしない。・・・それに、そもそも俺にはそんな資格ないからな」

先ほどの自分の発言は否定しなかった。だが、結衣と沙希の顔が思い浮かび、最後は消え入りそうな声でそう呟いた。

 

「資格?」

 

「雪ノ下!・・・さっきの、“人に投げちまえ”ってのは、少々表現が悪かった」

資格がない、は余計な発言だった。これ以上、突っ込まれることを回避するため、俺は大きめの声で彼女の言葉を遮る。雪乃は今度は何?とでも言いたそうな目で俺を見つめている。

 

「今のお前はプレーヤーだ。会社で言うと平社員だ。年次の近い同僚と比べて極めて優秀だが、それでも一般職員だ。優秀な職員はいつか管理職、すなわちマネージャーに昇進する。プレーヤーとマネージャーの違いは解るか?」

 

「・・・私に、マネージャーとしての振る舞いを学べと、そう言いたいの?」

 

「そういうことだ。お前は今まで、与えられたタスクを自力でこなすことだけを考えてきた。これからは、自分で目標(ミッション)を設定して、それを個別のタスクに落とし込み、適切な人材に振り分けるというプロセスを学ぶんだ。プレーヤーとマネージャー、どちらがより大きな仕事ができるかは明白だろう」

 

「やっぱり高校生とは思えない例えだけれど、さっきよりも説得力があるわね・・・」

 

「マネージャーの仕事はそれだけじゃないぞ。自分のプランに沿う形で人に動いてもらうには、自分が普段他者に対してどう振舞い、どう周囲の人間に接っするべきかを考えなきゃならん。他者とのリレーション構築と、人をモチベート(動機付け)する能力も、マネージャーの重要な資質だ」

 

「・・・耳が痛いわね」

 

「・・・言ってみた俺自身も出来る気がしねぇがな」

 

俺も雪乃も、お互いにクラスでは友達がいないボッチ同士。基本的に、二人とも他者と関わりを持つことが苦手だ。そんな前提も忘れて、熱くマネージメント論を語ってしまったことが恥かしくなり、俺はそっぽを向いた。恐る恐る視線を戻すと、雪乃は上目遣いでこちらを見ている。

そんな自分達の様子がなんだか可笑しくなり、俺たちはクスクスと笑った。

 

――ありがとう、比企谷君

 

小さな声で雪乃がそう言ったのが聞こえた。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

「遅くなってゴメンなさい」

 

奉仕部の部室に戻った雪乃はまずそう言って結衣と海美に謝罪した。

俺は全員に買ってきた飲み物を配りながら、その様子を黙って見つめる。

 

「先程、比企谷君と少し外で相談してきたの。・・・海美さん」

そういって海美を見る雪乃。結衣は心配そうに雪乃を見ていた。

 

――心配いらねぇよ、結衣。雪乃は俺が思ってた以上にしっかりした奴だ。

雪乃の目からは、先ほどは無かった強い意志が窺われた。

 

『ごめんなさい、まだ数学しか見ていないのだけれど、私の学力ではきっとあなたに教えられることは少ないわ』

 

『雪乃さん・・・』

 

『でも心配しないで。あなたの勉強をサポートする方法が無い訳ではないの』

 

『え?』

海美の反応を見た雪乃は俺へと視線を移し、優しく微笑んだ。俺もそれに頷いて返答する。

 

 

 

先程の一件。マネージメントの話をした後、俺と雪乃は知恵を出し合って海美の依頼にどう対応するか話し合った。業務を振り分けるという考え方は、雪乃にとってそれなりに価値のあるキーワードとなったようだ。雪乃は自分が面識のある教師に対し、それぞれの担当教科で、海美に対して補習を行うよう依頼するという案を思いついた。教員からの信頼の厚い雪乃からの依頼だ。雪乃や俺が、通訳として一緒に勉強会に参加すると言えば、無碍には扱われないだろう。平塚先生も協力は惜しまないと言っていた。きっと一緒に頭を下げるくらいのことはしてくれるはずだ。

 

俺はそのアイデアに乗っかると同時に、追加の提案を行った。それは海美の日本語学習だ。元々基礎学力の高い海美のボトルネックは授業で使われる言語の問題だった。これを解消してやれば、最初は通訳付きの勉強会が必要でも、そのうちに自立して学習を進めることが出来ることになる。俺は、海美の日本語学習の一環として、材木座を付き合わせることを思いついた。材木座は作家を目指すにあたって、簡潔な文章表現を習得する必要があると俺は考えた。毎日材木座に、学校生活における出来事をA4一枚分くらいの分量で分かり易くまとめさせ、その内容を海美が完全に理解するまで説明させる。海美の語彙力や表現力が向上する頃には、材木座も誰にでも読みやすい文章が書けるようになっているだろう。

 

 

 

「・・・というわけだ。材木座と海美の二人にはしばらく奉仕部に顔を出して貰うことになるが、大丈夫か?」

雪乃が海美に英語でプランを説明している間、俺は結衣と材木座に対し、事の顛末と今後の説明を行った。

 

「しかし八幡よ、我は小説を書きたいのであって、女子に日記を読ませるような真似は・・・」

材木座は困ったような顔をして俺の提案を受け入れることを渋る。

 

「材木座、よく考えろ。これはお前にとってチャンスだ。俺がお前に提供しようとしてるのは、文章の練習機会だけじゃない。お前、思春期以降で女子とまともに話をしたことはあるのか?」

 

「・・・ない」

 

「だろうな。これはビジネスマッチングだ。お前には海美の日本語学習を手伝って貰う。その代わり、お前は海美や由比ヶ浜、雪ノ下とコミュニケーションすることで、女性の考え方やものの感じ方を学ぶことが出来る。そうすれば小説の登場人物の行動や発言に少しはリアリティが増すだろ。特に海美は後輩でチャイナ娘だぞ。フィクションの人物でこれ以上キャラ立ちする設定もないだろ」

 

材木座は俺の話を聞くと、おお!っと納得したような顔で立ち上がった。その表情から、かなり興奮していることが窺われる。

 

「ハハハ、・・・二人ともちょっとキモイかも」

俺と材木座の会話を聞いていた結衣が乾いた笑いを浮かべた。

 

「でも、良かった。ゆきのんも、元気が戻ったみたいだし・・・やっぱりヒッキーはすごいね」

 

「んなことはねぇよ。由比ヶ浜。海美のついでだ。お前も勉強を見て貰ったらどうだ?」

 

「え!?私!?・・・いや~それはちょっと」

 

「そうね、私からもそれを提案するわ」

いつの間にか海美と話し終えた雪乃が話しに乗っかる。

 

「由比ヶ浜サン、一緒ニ頑張リマショ!」

海美も嬉しそうにそう言った。

 

「え~、そんなぁ!」

 

 

 

こうして俺達は、海美と材木座の依頼に関して、上手い具合に落とし所を見つけることに成功した。これから、奉仕部で定期的な勉強会が始まることとなる。

 

俺は、この場にいないもう一人の大切な女性の顔を思い浮かべた。沙希は学費を稼ぐために深夜のバイトをしていたはず。あの時は俺が塾のスカラーシップ制度を提案したことで何とか問題を解決した。海美のための勉強会、この取組みが上手く続けば、いずれ沙希に対して、もっと良い提案をしてやれるかもしれない。そんな考えが浮かぶと、心が軽やかになるのを感じた。

 

 

 


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