三脚の悪魔   作:アプール

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第31話

 ズシン、という重々しい振動が地面を伝導し、その地に足を付けている人・物を問わず全てが揺れる。

 その振動は地震のように不規則ではなく、規則性を持ち、なにより途絶える事が無い。

 そしてその振動を生み出している張本人―――トライポッドは眼下で蠢いている人間を展開している光線兵器で薙ぎ払い、殺戮を開始していた。

 

 光線が薙いだと思うと衣服が飛び、白く美しい建物はただ無残な瓦礫と化す。

 そんな中で、人々は狭い街道を埋め尽くしながら少しでも離れようと悲鳴を上げながら必死に逃げ惑っていた。

 我先にと逃げ出そうと目の前にいる人を突き飛ばし、突き飛ばされた人は後続から続々とやってくる群集に制止の声も虚しく無残に踏み尽くされ、圧死によって不本意な死を遂げる。

 普段ならば犯罪物……だが、それを咎める者は誰一人としていなかった。

 皆、顔を恐怖で歪ませ目の前で起こっている殺戮現場から逃げようと逃げ回る事に必死なのだ。そんな時に平時のモラルなど、むしろ邪魔である。

 生き残りたければ、他者を降ろせ。極限状態において、人は動物では誰しもが持っている闘争本能を剥き出しにしていた。

 

「今だっ! 一斉射撃!」

 

 しかし、そんな中でも未だに秩序を保ち、統率が取れた人々も存在していた。

 これまで討伐してきたモンスターの鱗で作られた鎧や、鋭利な爪や牙などで作られた武器を手にし勇敢に戦うハンターがそれである。

 そしてそのハンター達は、建物の屋根に上り手に持っている太く、長い筒――ボウガンを握り締めその銃口を逃げ惑っている群集を追いかけている1体のトライポッドに向けて一斉に向けて、発砲を開始した。

 トライポッドが放つ光線とはまた違った破裂音が人々の耳を引き裂くように鳴り響き、そしてその銃口から勢い良く弾丸が発射される。

 弾丸の種類は『貫通弾』 その名の通り貫通力が他の弾丸に比べ非常に勝っているのが特徴だ。普段では厚い鱗に阻まれて貫けないモンスターでも、貫通弾ならば貫けるといった事例も出ている。ただ、その性能と相まって値段が高いのがネックなところであるが。

 

 弾丸を放ったガンナーのハンター達は弾倉が空になるまで撃ち続け、そして空になるとすぐさまその場から散開する。

 トライポッドが貫通弾を受けてよろけている間に、さっさと身を隠して狙いを付けられないようにするというのが目的だ。

 だが、その目的は呆気なく崩れ去った。

 

「―――な、なにっ!?」

 

 1人のハンターが心底驚いたような声を出す。

 ボウガンから放たれた貫通弾は、あろうことか標的を貫通するどころか数m手前で”緑色の何か”に着弾し、そしてその”緑色の何か”すら貫通する事が適わず、無情にも粉々となって風に煽られ空を舞う。

 

 これまでの人間とモンスターとの対抗の歴史に、ハンターの攻撃がモンスターに通用しないといった話はごまんとある。

 だが、その何れもモンスターの鱗が堅硬で分厚く、攻撃が鱗に阻まれて通用しないといった類や、古龍の超自然現象によってそもそもモンスターに近づく事が出来ないといった類だ。

 トライポッドには、クシャルダオラのように風に覆われた鎧や、テオ・テスカトルのような炎に包まれた鎧を身に纏っている訳でもない。

 

 ”何も無かった筈だ。現にトライポッドのブレスはカルパンドラを壊滅させ、そして民間人たちを殺戮している。トライポッドとの間には、確かに何も確認できなかった。なのに何故俺達が放った貫通弾は遥か手前で叩き落されたのだ―――?”

 

 ハンター達は初めて見る奇怪な現象に目を丸くし、僅かながらに足を止めた。止めてしまった。

 戦場では、動揺は時として命が奪われてしまうほど危険な存在だ。僅かながらに思考が鈍り、そしてその影響が身体にも及んでしまうからだ。

 そして今、ハンター達は動揺を起こし、動きを鈍らせてしまった。この事が、致命傷となった。

 

 走りながらも、銃撃されたトライポッドはハンター達の位置を、音や飛んできた弾丸の飛距離を計測し、位置を瞬時に割り出す。

 そして、その割り出された位置に人がいるか熱探知機で探知し、人がいることを確認するとその位置に向かって光線を放ったのだ。

 放たれた光線はコンピューターによって精密に計算された弾道によって一直線にハンター達が乗っていた建物に突き刺さり、そして薙ぎ倒した。

 動きが鈍り、その建物の屋根に取り残されたハンターはその衝撃によって空を漂い、同じく空に吹き飛ばされた瓦礫を全身に浴びながら重力に従い落下し、最終的には数十メートル上空から地面に叩きつけられた。

 普通の人間ならばこれで即死、あるいは生きていたとしても瀕死の状態であろう。しかし、流石は日々獰猛なモンスターを狩る事によって生計を立てているハンター。骨折はしているが生き延びている。

 しかし、そんな中で吹き飛ばされ宙を舞っていた瓦礫が霰のように降り注ぎ、こんどこそ墜落したハンター達の意識は途絶えた。

 

「総員、かかれえええぇっ!!!」

 

 だが、彼等の犠牲は無駄ではなかった。トライポッドがガンナーのハンターに注意が向いている隙に、剣士であるハンターが潜んでいた建物から飛び出し、突撃を開始したのだ。

 雄叫びを上げながら、ハンター計十数人が飛び出し、雄叫びを上げながらトライポッドに向かって突貫していく。

 そしてそんなハンター達の姿に、逃げ惑っている群集達は一筋の光が照らされたような感覚を覚えた。

 

 ―――あのハンター達が、時間を稼いでくれる。

 

 雄叫びを上げ、勇ましくトライポッドに突撃していくハンター達の姿に、絶望を感じていた群集がそう希望を覚える事は無理は無かった。

 ただし、その希望は何度目となる失望と絶望に変わってしまうのだが。

 

 熱反応で眼下のハンター達の存在に気付いていたトライポッドは既にシールドを展開しており、トライポッドはむしろそのハンター達はひき潰そうと速度を上げて突っ込んでいく。

 そしてその反応を突進と判断したハンター達は、サッと横にある建物の中へと身を翻しその突進をやり過ごそうとする。

 そしてやり過ごした後にできた隙を突き、トライポッドの脚を攻撃しようとしていた。

 だが……

 

「ッ!―――ガアアァァッ……っ!?」

 

 突如としてハンター達に鋭い衝撃が遅い、そしてその衝撃によって勢い良く後方に吹き飛び、壁に叩きつけられる。

 何が起きたのか分からないハンター達に、またもやシールドが襲い掛かった。

 ハンター達は何も無いはずなのに壁と”何か”に押し潰され、潰れた蛙のような苦悶の声を搾り出した。

 一体目の前で起こっているこの摩訶不思議な現象は何なのか? 今まで聞いたこともないこの現象に、ハンター達は混乱しもがこうとする。

 だが、それもほんの一瞬の事。何が起こっているのか分かっているトライポッドは、そのハンター達を押し潰そうと歩む事を止めない。

 機械と人間。いくらハンター達が人間離れした身体能力を持とうが、機械には勝てなかった。

 壁が圧力に負け、崩れ落ちる。ハンターは後ろに吹き飛ばされるが、またもやシールドが襲い新たな壁に押し付ける。

 その壁が崩れるとまたもや吹き飛び、そしてまた挟み潰される。

 それが、壁が尽きるまで行われた。

 時間にして数十秒。だが、身体的損傷は致命的であった。

 ハンターは身体の外部は非常に頑丈たが、内部ではそうもいかない。生命体である宿命か、一般人よりかは臓器の耐久力は高いが、それでも連続して続いた圧力には耐えられなかった。

 臓器が内部で破裂し、体内で出血が発生する。続いてモンスターに食われると同等な痛みを伴った激痛が襲い掛かり、ハンター達は力弱くもがき苦しむ。

 戦闘の継続は、不可能であった。

 

 そして一向に入った建物から出てこないハンター達と先程から鳴り響いていた轟音から何が起こったのか察した群集は、再び絶望する。

 何度目となる金切り声の悲鳴が轟き、人々は逃げ惑う。

 そしてトライポッドはその意識を眼下のハンターから群集へと移し、再びリアル鬼ごっこが始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 トライポッドがカルパンドラに襲撃してから一体どれくらいの時が流れたであろうか?

 群集は一向に追う事を止めないトライポッドに対し狂ったように逃げ惑っている。

 そしてその群衆の中に、ギルドの服を着た人も存在していた。

 

「だ、大丈夫かっ……?」

 

「はぁっ、ええ、今はまだね……」

 

激しい息切れを起こしながら、ヨロヨロトした足取りで走っている女に付き添うように走っている男が身を案じ、声をかける。

 それに対し、女のほうは当たり障りのない返事を返したが、限界は近いという事は分かっていた。

 男女の服装はギルド専用の服。そしてその服の胸に縫い付いているワッペンには、モンスター調査団の所属を示す紋章が埃を被っていた。

 そう、この男女は、つい先程カルパンドラに帰還した調査員である。

 

 

 

 数時間前、調査員の男女は乗っていた馬車でギルド支部にたどり着き、そこで案内役のギルド事務員に案内され重要な目撃者であるアイルー達と共に、ギルドマスターの下へと参っていた。

 そこでギルドマスターとご対面し、調査中にどのような事があったのか、アイルー達の証言も交え説明をしていた所に、突然の咆哮。

 

 ギルドマスターと調査員の男女は突如として現れた聴き慣れぬ咆哮に驚き、そして外が騒がしくなっていくのを感じて部屋から飛び出していった。

 アイルー達は忘れもしない”あの日”の記憶からあの咆哮がなんであるのかをいち早く気付き、そして顔を青くして身を震わせた。しかし、それでも確認しようと飛び出していった3人の後に続いて部屋から出る。

 先に部屋を出たギルドマスターと調査員の男女は窓の傍で固まっている事務員達の姿を見つけ、なにがあったのか声をかけた。

 しかし、答えは返ってこない。本来ならばギルド支部で一番地位の高いギルドマスターにそのような行為をするなど、不敬もいいところだ。だが、事務員達の様子がおかしい事にギルドマスターは気付く。

 皆、目を見開き口をだらしなく開けている。まるで信じられない物を見てしまったかのような顔だ。

 ギルドマスターと調査員の男女は人々の視線に何かが映っているのだと確信し、そして事務員達の目線に合わせるようにその目を窓の外にへと動かし―――絶句した。

 

 そこには、沖合いに仁王立ちをしている6体の超大型モンスターがいた。

 超大型モンスターなど現れる筈の無いこのカルパンドラに、超大型モンスター出現。このタイミングで超大型モンスターが現れるなど、考えられる事は1つしかない。

 

 ―――ありえない。

 

 ギルドマスターはその光景を、まるで自分がボケて錯覚を起こしたかのような面持ちで見つめた。

 調査員の男女にいたっては口をだらしなく広げ、そしてこれが夢で無い事を確かめる為に腕を交互に交わせて互いの頬を引っ張っている。

 

「夢……じゃない……」

 

 若干赤くなった頬を擦りながら、女がそう呟く。その呟きは、静粛となったこの場において液体のように染み込み、浸透させていった。

 

「っ! 何をしておるお前らっ! さっさとやることをやらんか!!」

 

 喝っと、いち早く正気に戻ったギルドマスターが声を張り上げ、怒鳴り散らすように固まっている事務員達に対して叱咤を発する。

 そしてその声によって固まっていた事務員達は、ビクッとその身を直立不動のような格好を起こし、そして蜘蛛の子を散らす様な勢いで各地へと散らばっていった。

 

「ハンター達に伝えろ! 少しでも多くの時間を稼ぐようにとっ!

 そして手の空いている者は民間人の避難作業を守衛隊と共に行え! 一人でも多くの民間人を壁の外に避難させるのだ!」

 

 ギルドマスターは手短にそう命令する。

 本来ならば、人々を守ってくれる壁の外に民間人を出すなど、狂ったかのように聞こえるだろう。

 だが、常識が崩れた。あれほどの超大型モンスターが6体も海を渡って直接カルパンドラを強襲するなど、一体誰か考えられただろうか?

 当然、避難計画はその常識に従って作られている。民間人を壁から離し、港の方角に向かわせ停泊しているギルド船や民間船を徴用して一人でも多くをカルパンドラから避難させるのだ。

 海からの攻撃が起きた場合の避難計画はあるにはあるが、作られた時期はかなり昔の代物だ。これは海からの攻撃の可能性が皆無に近かったためギルドが改良を重ねるのを怠った怠慢であろう。

 当時と今では市街地の町並みも大きく変わっており、この計画通りに避難指示を行えば数々の齟齬が発生する事は容易に想像がつく。

 故に、避難計画は役に立たない。即決で、避難をさせる他に術が無かった。

 

「私はこれから指揮につく。君達もギルドの一員として民間人の避難活動を手伝ってやってくれ。」

 

 ギルドマスターは振り返り、突っ立っている調査員の男女を見るとそう言い放ち、そして早歩きでその場を去っていった。

 ”モンスター調査員の自分たちが避難活動を?”

 まさかモンスター調査員になって守衛兵の真似事をさせられるなど夢にも思わず、男女は少し戸惑った。避難活動といっても、一体どこに誘導すれば良いのか全く聞いてないし、聞かされてもいない。

 避難経路については男女も知っているが、それは陸からモンスターが来たときの場合のみだ。まさか海から来ているのに船で脱出する訳にはいかないだろう。

 もっとも、窓からの情報によれば港の方角に凄まじい勢いの黒煙が吹き上がっているため脱出する船が残っているかどうかも怪しいが……

 

 とにかく、自分達は自分達の使命を果たすのみ。

 そう考え付いた男女は,まずは足元で縮みこんでいるアイルー達を避難させるべく声をかけた。

 

「見ての通り、非常事態だ。これから君達を門まで誘導するから、しっかり付いてきてくれ」

 

 調査員の男がそう言い、アイルー達はただ頷くしかなかった。

 自分達がいたところで、むしろ邪魔になるだけだと先の戦いで理解しているからだ。

 アイルー達は再び目の前に現れたトライポッドの姿に腰を抜かしそうになりながらも、足手まといにならないよう己の腰に鞭を打ち、走る。

 こうして、調査員の男女とアイルー達はギルド支部を出て、ここから一番近い南門へと向かっていったのであった。

 

 

 

「なんで……なんでこんなことに……」

 

 荒く息を吐きながら、調査員の女は項垂れブツブツと小さく呟きながら走り回る。

 

 あれから民間人を誘導させ、調査員の男女は客であるアイルー達を連れながら無事に南門へとたどり着いた。

 だが、そこは既に阿鼻叫喚な場所へと変化していた。

 トライポッドの攻撃に恐怖と混乱に陥った人々がカルパンドラから脱出しようと一斉に門へと群がり、門の通行許容範囲は一瞬でパンクした。

 だが、そんなことは知った事ではないとばかりに次々に人々が集まり、遂には通りを埋め尽くしてしまった。

 細々とした門の出入り口では脱出は延々と遅く、痺れを切らした者達が罵声を浴びせ、そしてそんな状況が格好の獲物となったのか、トライポッドから放たれた光線が集中し始める。

 これに何の訓練も免疫も身に付いていない群集は泡を吹き、気持ちだけが焦り無意識に身体を前に動かす。各地で人々が転び、踏み潰され息絶えたり、光線を浴びて灰になった者や瓦礫を見に浴びて出血多量を起こす者など、まさに地獄が現れた。

 

 ―――そして、悪夢の瞬間。

 

 あるトライポッドから放たれた光線が門を真っ二つに割り、重心の均衡が崩れた門が一気に崩落してしまったのだ。

 その衝撃的な出来事に、人々は言葉を失い、そして半発狂した。

 だが、ある守衛兵の「西門へ行け」という言葉によって我を取り戻した人々は我先へと西門に這いずりまわるように駆け寄り――再び絶望する。

 西門も、南門と同様にトライポッドの光線を受け、崩壊していたのだ。

 ”閉じ込められた”信じたくない。しかし事実なこの現状に、人々は途方に暮れた。

 そして、そこからが本当の地獄の幕開けであった。

 

 「また来るぞぉ!」

 

 調査員の男が叫び、そして後ろから淡い光が迸る。

 光線を浴びた民間人がその顔を恐怖に歪めながら灰になり、そしてその身を消滅させる。

 あたりにその民間人の灰が撒き散らされ、しかしそんな事を気にする人は誰もいない。

 既に、全員が人間の灰を全身に浴びているのだ。

 

「もうだめだっ! アイツは俺たちを全員殺すまで追ってくるんだ!」

 

 逃げ惑っている群集の誰かが、うわずった声で悲観的に叫んだ。

 民間人を護衛する守衛隊は指揮系統が滅裂し、既に組織としての機能は失われてしまった。モンスターを迎撃するハンターは逆に迎撃され、その戦力は著しく失われている。

 緊急クエストが発布され多数のハンターが終結していたこの時期であるのに、その大多数のハンターがなす術も無く殺されてしまったのだ。この閉鎖されたカルパンドラ内ではそんなハンター達の死を見るのも珍しくない。

 ”助けは、来ない。”

 幾多もの死を見てしまった人々の心は、諦めが徐々に染み込んでいった。 

 

「も、もうだめ……」

 

 っと、ここで最後尾で走っていた女性が力なく地面に座り込む。

 そのお腹はぷっくらと膨らんでおり、細い手足を見るところ妊娠をしている事が分かる。

 女性の身でありながら、お腹に数㎏の子供を抱えてしまったハンデに、遂に力尽きてしまったのであろう。

 

「に、妊婦さんっ! 諦めちゃだめですよっ! 」

 

 そしてそんな姿を偶然目に捉えた調査員の女が、その妊婦に向かって声を張り上げる。

 ”一人でも多くに民間人を助ける。”

 そんな使命感による叫びであった。

 

 だが、そんな願いも虚しく、妊婦は自分に声をかけてくれた調査員の女を見つめると、微笑みながら首を横に振った。

 事実、妊婦の足は数時間にも及ぶ移動や極度の運動によって限界に達しており、歩く事さえ困難な状態であった。

 そしてそんな状態に見かねた調査員の女は肩を貸そうと妊婦に近寄ろうとするが、後ろからやってくる群衆によって押され、強制的に前へと押し込まれる。

 

「ちょ、ちょっとっ! あの人を助けに行かさせてよ!」

 

 必死の懇願も虚しく、己の生存が第一であるこの極限状態において、そのような申し出を受け入れる者は誰一人としていなかった。

 調査員の女は必死に手を伸ばすが、その距離は遠くなるばかり。

 妊婦は自分を必死に助けようとするその姿に感謝の念を抱き、調査員の女に対し安らかな笑顔で手を振り―――展開されたトライポッドのシールドに轢き殺された。

 

「――――っ」

 

 シールドに弾き飛ばされ、壁に頭から激突し、血をダラダラと垂れ流す妊婦。その光景を、調査員の女は呆然とした顔持ちで見つめた。

 身体の中の何かが崩れ、ガクガクと足が震える。

 調査員の女はそのまま地面へとへたり込みそうになるが、ガッと自分の右手を誰かが掴んだ事により立て直した。

 

「……」

 

 調査員の女は、すこし虚ろになりながらも自分の右手を強く握り締めている人を見る。

 右手を掴んだ人物の正体は、調査員の男。

 その顔は無表情で、しかし悲痛な顔であった。

 恐らく彼もまた、一部始終を見たのであろう。

 

「あの人と赤ん坊の分まで生きろ……何としてでも」

 

 呟くように、調査員の男が女に対しそう語った。

 もはや、この状況下ではあの妊婦が助かる可能性など万の一にも無かった。ならば、せめてもの悼みとして微笑みかけた妊婦の信頼に背かないよう、寿命でこの世を去らなければならない。

 それが、生ける者の努めなのだから。

 

「みっ! 道がッ!?」

 

 調査員の男女が互いに手を繋ぎ、しんみりとした表情で走っていると、群集の最前列から悲鳴に似た叫びが聞こえた。

 声に釣られ前を見ると、トライポッドから放たれた光線が建物を破壊し、その瓦礫によって前方の道が断たれてしまっている。

 

「右だ! 右の街道へ行け!」

 

 最前列を走っている30代の男性が煽動するように声を張り上げる。

 既に右にしか道が無く、後ろからはトライポッドが迫ってくる。必然的に群集は我先へとその街道に詰め寄ってきた。

 だが、そんな群衆の目の前でまた光線が過ぎ去っていき、また建物の瓦礫で道を塞いでいく。

 

「左だ左ッ!」

 

 再び30代の男が大声で次の進路を告げる。

 右の街道に曲がった群集は、数十メートル走った後に左へとその身を向かわせる。

 左の街道に入った群衆の先には斜め左右に曲がっているY字路であった。

 

 ”どこでもいい。とにかく逃げなくては。”

 トライポッドに追われているこの状況下では考えている暇は無い。とにかく、道あるごとに逃げなくてはならない。

 群集たちは既にそう理解しており、そして行動を起こしている。

 今回も、どちらかに逃げれば良い。そう考えていた。

 ―――がっ

 

「なにッ!?」

 

 最前列の幾人かが、驚愕の声を上げる。

 そしてその声は、新たに現れた2つの”群集”にも漏れていた。

 そう、Y字路にある2つの街道からも群集が押し寄せてきていたのだ。

 

「ど、どけお前らっ!」

 

「お前こそ退けッ!!」

 

「お、おい! 後ろから押すな!」

 

「俺だって押されてるんだよっ!」

 

「どうしたの!? 早く行ってよ!」

 

 3つの群集がY字路へ詰め掛けた事によって、一瞬にしてその場は大混雑へと陥った。

 進む事も引くことも出来ず、人を掻き分けガムシャラに進む者。

 後ろから迫ってくるトライポッドの姿に慄き早く進めと罵倒する者。

 建物の中に入ろうとするが鍵がかかっており、必死に解錠を試みる者。

 だが、そんな事など無意味だと言わんばかりにトライポッド3つの群集を追い立てていた3体のトライポッドがその独自の起動音を響かせながら群集へと追いついてきた。

 その姿に、全ての群集の顔が凍りついた。

 

 ―――あの封鎖は、罠だったのか。

 

 まんまとトライポッドの誘導によって罠に引っかかった群衆に、複数の絶望に染まった悲鳴が木霊する。

 既に退路は断たれ、そして動こうにも動けない状態に晒されている。

 今攻撃されたら――確実に、やられる。

 誰もがそう思い、そして諦めの表情が浮かんだ。

 だが、その表情はトライポッドが群集の目の前で停止した事によって呆然とした表情へと変わった。

 

 その光景は、群集達は一瞬夢でも見ているのかと感じた。

 群集達は、そのままトライポッドが突っ込んできて全てを轢き殺そうと企んでいると考えていたからだ。

 これまでのハンター達の抵抗の中で、ハンター達は無残にもトライポッドによって消滅させられ、轢き殺されていた。

 今度は、自分達がやられる番だ―――

 誰もがそう考えていた。だが、当のトライポッドは佇んでいるだけで何もしてこない。これは一体――?

 もしかしたらと、群衆の間に淡い気持ちが湧き出てくる。なんの根拠も無い、稚拙な考えだ。だが、もしかしたら、見逃してくれるのではないか?

 戸惑った人々の心に、そんな思考がよぎってくる。

 そして―――そんなうまい話などあるわけがないと、すぐに気付かされた。

 

 トライポッドが身体から生えている触手を展開させ、そして触手を群集の下へと向かわせる。

 そんな世にも奇妙でおぞましい光景を見た群衆は皿が割れたような悲鳴を上げ、そして最後尾にいる人々はさらに奥へ逃げようと詰め寄っていく。

 しかし、すでに隙間などは無く、触手との距離は縮まらない。

 その事を計算済みであったトライポッドは逃げられない事をいい事にどんどんと触手を群衆の最後尾に送り込み、そして人々を捕獲し始めた。

 

「うわああああァァッ!!!?」

 

「嫌っ! 離してぇ!!」

 

「助けてっ! 誰か助けてくれええェッ!!」

 

 捕獲された人間は地から離れ宙を舞い、そして絶叫を上げる。

 必死に振りほどこうともがきにもがくが、身体に絡められた触手はびくともしない。

 そしてそのまま捕獲された人々は成す術も無くトライポッドの下へと連れ去られて行き、丁度3本脚の間の所に寝かされた。勿論束縛は解かれていない。

 

 ―――このまま食われるのか?

 

 捕獲された人々はこの状況下で浮かび上がった事態を想定し、そして顔を青くさせる。

 モンスターが人間を捕まえる。それは、捕食以外の何物でもない。

 人々は食われまいとこれまで以上にギシギシと身体を揺らして暴れ周り、そして発狂した悲鳴を上げる。

 

 彼ら、彼女らの考えは半分正解で、半分間違っていた。

 確かに、トライポッドはエネルギーを補給するために人間を捕獲した。

 しかし、エネルギーを補給するといっても、トライポッドは兵器。口などある訳も無い。

 では、一体どうやってエネルギーを補給するのか?

 答えは、簡単だ。

 

 トライポッドは触手内で暴れまわっている人々の上に触手を展開させ、槍を出現させる。

 シャキンっと、鋭く残虐な音が響き渡る。

 その音に、暴れていた人々は自分の上空に何かがあると気付き顔を上げ――顔面蒼白となった。

 上空には、鋭利な針のような物体がこちらを向いて佇んでいる。そして、その意味はもはや明確でった。

 

「―――っま、待てっ!?」

 

 これから身に起こるであろう惨事に身を震わせ、恐怖に引き攣った声を上げる人間。

 だが、それが最後の遺言であった。

 

 その声を合図として空中に待機していた槍を展開させた触手が一気に振り降ろされ、捕獲された人々に深々と突き刺さった。

 それに続く悲痛な悲鳴。

 胸や腹に突き刺さった触手の痛みに身を捩じらせ、のた打ち回る。

 身体が引き千切れんばかりと身を狂ったように振り回し、地面に頭を打ち続ける。

 だが、痛みは和らがない。むしろ、ここからが地獄であった。

 

 槍の部分がトライポッドのエネルギーの元である生血を吸い上げ始めたのである。

 肉を食い破られ、骨を粉砕し、内臓を粗食される事とは全く次元が異なる痛みと感覚に、人々はもはや言葉にもならない羅列の絶叫を吐き出す。

 吸い上げられた生血は黒い触手を鈍い赤に染めながら上へ上へと昇り、最終的にトライポッドの体内へと吸収されて行く。

 その姿を、群衆は呆然とした顔持ちで見つめていた。

 

 吸血されていた人々は初めは抵抗していた。

 しかし、血が大量に吸い上げられた事により血の循環が極端に悪くなり、酸素が身体全体に行き渡らなくなってしまった。

 その結果、抵抗は長くは続かなかった。

 

「ぁっ……ぁ……」

 

 風が吹けば吹き飛ぶような弱弱しい呻きを発した後に、次々と捕獲された人間の息が絶える。

 その身体は全身が青く染まり、一目で見て血が足りない事を示している。

 だが、トライポッドは吸血を止めない。最後の一滴まで絞りつくすまで吸血を止めるなとプログラムされているからだ。

 

 そしてそんなトライポッドの姿に、群衆の錯乱は限界地を突破した。

 目の前で世にもおぞましい死に様をまざまざと見せ付けられたのだ。しかも今度は我が身に降りかかってくるのかもしれない―――

 そんな状態で、冷静になれと言うほうが無理な話であった。

 どうにかトライポッドから逃げようと群集達は3方向から押し寄せ、隙間などある訳も無いのに早く行けと怒鳴りながらぐいぐいとその身を押し込む。

 Y字路の中心に居た人々はその圧力によって悲鳴をあげ、そして圧力に抵抗すべく押し返す。

 あちこちで怒号が翻り、人間の欲望が渦巻いた。

 

 しかし、その怒号も長くは続かない。

 吸血を終えたトライポッドが捕獲した人間から触手を離し、そして新たな得物を捕獲すべく動き出したのである。

 その光景を見た最後尾の人々はあの悪夢のような光景が鮮明と脳内に蘇り、狂ったような悲鳴を上げながら後ずさる。

 しかし、その後ずさりは人の壁によって阻まれ、更に焦燥が生まれるだけであった。

 

「ヤダヤダヤダヤダッ!!?」

 

「く、くるなぁ! あっちへ行け!?」

 

 迫ってくる触手を少しでも遠くに弾き飛ばそうと手を振るい、しかしさしたる効果も無く逆に標的にされ無情な叫び声が木霊しながらトライポッドの元へと連れ去られる人々。

 そして抵抗虚しく、その身に触手が突き刺さる。

 

「止めろおおぉっ!!」

 

 人間の身体に触手が巻きつかれ、そしてもう片方の触手が束縛されている人間の身体を突き刺している。

 そんな惨たらしい惨状を遅れて救援に来たハンター達が見て息を呑み、続いて制止の声を張り上げながら己の得物を振り上げ、突撃を開始する。

 しかし、その突撃は展開されているシールドによって阻まれ、吸血されている人間を救出するどころか近づく事すらできない。

 ガンナーのハンターがトライポッドに向かってボウガンや弓を撃ちまくるが、弾や矢がシールドに弾かれ結果は同じであった。

 そして、どうすることもできず心を打ちのめされながらただ助けを求めるかなきり声を上げながらのた打ち回る人々の姿を傍観をするしかなかった。

 最終的に、沖合いに居たトライポッドの熱探知機に捕捉され光線の雨が降り注ぎ、救援に来たハンター達は壊滅した。

 

 もはや望みなど無く、そして次々に触手に捕らわれその生血を吸い上げられる。

 希望など、どこにも無かった。

 有るものは―――地獄と、絶望。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『人間の捕獲が完了しました。これより帰還します』

 

 電子的な声が頭の中から駆け巡り、脳がそれを理解する。

 その内容は、無事に作戦が成功したとの報告であった。

 作戦の内容は、まず先に襲撃したトライポッドのエネルギーを人間達の生血を吸い上げて補給し、続いて俺を含め計3体のトライポッドのエネルギーを補給するために後頭部に付いている2つの厚い円盤型の檻に人間達を捕獲するというものだ。

 もしかしたら、作戦の途中でハンター達が奇策を用いてトライポッドに損害を与えるかもと危惧していたが、実際は傷1つ負う事も無く全機無事に帰還している。

 すべては、シールドのおかげだ。火星人の科学技術さまさまだ。

 

(さて、エネルギーに関してはこれで心配事は無くなったな)

 

 俺はそう考え、そして思考する。

 後は檻に捕らわれている人間から生血を吸い上げ、そしてそのエネルギーをまだ補給していない俺を含め3体のトライポッドに分ければエネルギー問題は解決だが、何か味気ない。

 せっかく特等席へとご案内させたのだから、何か御出し物をご覧にいれさせないとお客様の失礼に当たるだろう。

 今、俺が出来る最高の出し物といえば、”アレ”しかない。

 どうせ死ぬ定めの人間だ。最後くらい派手なショーを見せてやろうじゃないか。

 

 そう意気込んだ俺はトライポッド達に新たな命令を下す。

 光線の種類を変更。通常弾から殲滅弾へと移行する。

 全トライポッドに指令、巨大都市を破壊せよ。

 

 指令内容はいたって簡単。殲滅光線であの巨大都市を月面に変えるだけだ。

 トライポッド達はその指令に従い、その身体を再びカルパンドラの方へ向ける。

 頬から光線兵器を展開し、そしてその先端部分に赤く淡い光が凝縮し始める。

 通常の光線の色はどちらかというと白色だが、この殲滅光線は違う。色は赤だ。

 何故色が違うのかは分からないが、恐らく撃つ光種の認識と人間に恐怖心を煽るためだと俺は推測している。

 

 赤い光が凝縮し、鈍い光が鋭い輝きへと変化する。それと同時に、エネルギーを充電する際に発生する超高音が周囲に響き渡る。

 その音は、やはり通常の光線との充電音とは違う。何よりも、音に凄まじい重みがあるのだ。一聴してその攻撃が高い破壊力を伴っていると理解する事ができる。

 そして―――充電完了、射撃体勢万全。

 

(見るがいい、恐怖のパレードの始まりだ)

 

 そんな事を宣言しながら全トライポッドに射撃命令を出し、そして12本の赤い光線が巨大都市へと深々と突き刺さった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地震が落ちてきたかと震撼してしまうほどの激烈な激動。天地変動が起きたかと思えるほどの壮烈な熱風、衝撃波。

 赤い光線がカルパンドラのある地点に着弾したかと思うと、その地点の地下数十メートルまでの距離で猛烈な大爆発が発生し、その上にあるもの全てを抉り出し、上空へと吹き飛ばす。最終的に、着弾した地点には半径数十メートルの深々としたクレーターが出来上がった。

 膨大な量の土が空へと舞い上がり、そして市街地へ落下する。逃げ惑っている人々はその土を容赦なく浴び、生き埋めになってしまう。

 ある者は大爆発の衝撃で土と瓦礫と一緒に上空へ高々と打ち上げられ、金切り声を上げながら綱の無いバンジージャンプを体験する事となった。

 カルパンドラの綺麗な町並み、歴史と伝統、文化と経済。その全てが、粉々へとなってゆく。

 

「あ……ぁぁ……っ!」

 

 そんな光景を、トライポッドの後頭部に設置されている檻の中に捕らわれている調査員の女が弱弱しい絶望の呻きを吐きながら見つめていた。

 ”友達と一緒に服の買い物を楽しんだ服屋。熱帯地域から産地直産で届けられた砂糖をふんだんに使った甘いお菓子を作っていた菓子屋。同僚と苦労しながらそれでも楽しんで努めていた仕事場のギルド支部。”

 全ての思い出が、無情にも赤い光線によって破壊し尽くされている。

 止めろと、叫んだ。しかし、攻撃は止むどころかむしろ激化している。

 まるで、人間の歴史など何の価値も無いように、家畜の如く殺戮している。

 

「終わりだ……」

 

 ふと、そんな声が聞こえた。

 調査員の女が視線をその声のした方向に向けると、そこには檻を力なく掴み、ぐったりと項垂れ消沈としている調査員の男の姿があった。

 ”自分達は新種に捕まり、カルパンドラは文字通り殲滅された。”

 もはや、助かる術などどこにも無いと悟ったのであろう。

 そしてそんな男を慰める余裕など、女にも無かった。心が、完全に折れてしまった。

 

 奇妙な音が頭上から聞こえる。トライポッドの起動音や光線の発射音とはまた違った音だ。

 女はその音に釣られる様に生気の無い顔でゆっくりと視線を上に向ける。

 そこには、赤い何かがあった。例えるならば、乳首のようにモノが赤く染まっているような代物であった。

 そして、どうやったのかは分からないが上部の鉄格子の部分が自動で広がり、そこから赤い何かに空いている穴から這い出てきた赤い触手が檻の中へと入っていった。

 

「なっ! 何だあああぁぁ!?」

 

「キャアアアアァアッ!?」

 

 その身の毛もよだつような触手に、人々は逃げ回る。

 しかし、元々檻は狭い。逃げ場などどこにも無かった。ただ叫び、少しでも触手から離れようとその身を鉄格子へピッタリとくっ付ける。

 だが、赤い触手はそんな努力など無駄だと言わんばかりに一人の人間に狙いを付け、そしてその足に触手を絡ませる。

 狙われたのは、10代の若い女性であった。穏やかそうなその顔は、今や涙と鼻水でグシャグシャにして元の原型など留めていない。

 そんな時に、足に触手が絡まったのだ。女性は一瞬のうちにパニックに陥った。

 

「イヤアアアアァァッ!! 離してぇっ!?」

 

 女性はヌメっとした感触に生理的な嫌悪感と得体の知れない恐怖感を同時に覚え、絶叫をあげる。

 だが、そんな女性の悲鳴も虚しく、触手は穴へと戻り始める。

 それにより、触手が足に絡まっている女性も触手に引きずられるようにしてその身体が持ち上がる。

 女性は絡まっている触手を解こうと足に手を伸ばすが、届かない。着ているスカートが重力に従い下に落ち、着ている下着を周囲の目に晒そうがお構い無しに手を伸ばす。

 周囲の人も女性を助けようとして駆け寄るが、間に合わなかった。

 

「アアアァァッ!」

 

断末魔を響かせながら、女性は穴へと吸い込まれていった。

 それと同時に、またしても奇妙な音が響きその赤い何かが黒い壁に覆われていった。

 その光景を、檻に入っている人々は呆然とした顔持ちで見つめ、硬直していた。

 

「もうだめだ……っ! 俺達全員コイツに食われちまうんだっ!!」

 

 数十秒後、われに返った男が先程起こった悲惨な惨状を思い出し、次は我が身だとばかりに怯え、喚き散らす。

 そして頭を抱え、その場に泣きながら蹲った。

 

(もう、駄目だ……)

 

 あちこちで絶望した人々のすすり泣く、または号泣する声が聞こえる。また泣きはしないが、生きる事を放棄したのか目が虚ろで、一切身動きをしない人などがいる。

 皆、この極限状態において精神がすり減らされ、遂に限界点を超えてしまったのだ。

 

(私たちは……ここで、全員死ぬんだ……)

 

 調査員の女は力なく内心でそう呟くと、ある事を思い出した。

 何時も化粧品やら何やらを入れ、肌身離さず持ち歩いているウェストポーチ。

 その中に、護身用にと密かに入れておいた―――

 

「あった……」

 

 調査員の女が持っているそれは、刃渡り5cmの小型ナイフ。

 モンスターには全くと言っていいほど役には立たないが、悪漢相手には昔習っていたナイフ護身術と合わせてそれなりに力となる。

 だが、今女が考えている事は……

 

「私の……血は……」

 

 ナイフの刃の方を上にして握り締め、そしてそのままナイフを首筋押し付ける。

 そんな姿を人々は目を見開いて見ていたが、誰も止めはしない。むしろ、そのナイフを欲しがっているようであった。

 ―――生きたまま血を吸われるくらいなら、いっそ自分で―――

 誰もが、そう考えていた。

 

「誰にも、あげない……っ!」

 

 そう叫ぶと、調査員の女は勢い良くナイフを引いた。

 首筋が綺麗に裂け、そこから鮮血が噴水の如く噴出してくる。

 力が抜け、ナイフが手からこぼれ檻の外へと落下する。

 人々の悲痛な叫び声が聞こえたが、女は身体を支える事が出来ずその場に倒れこむ。

 全身が血濡れになり、声も発する事が出来ない。

 そんな状態であるのに、女の顔は晴れやかであった。

 

(ああっ……これで、やっと終われる)

 

 女はそんな事を思いながら、徐々に視界が鈍ってくるのに任せて目を瞑り、そして永遠の眠りへとついたのであった。

 

 

 

 

 




ちょっとリアルの方が忙しくなってきたので1ヶ月ほど更新が滞ります。

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