北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
「だが仲珞。私が黙っているのは別に構わんが、結局これは先延ばしにしかならないのではないか?」
長い脚を組みつつ、切株から李師の家で有る小屋にある揺り椅子に腰掛けながら、夏侯淵は極めて真っ当な意見を友に呈した。
彼は政治的なセンスを無意識的にわざと鈍化させている節がある。
無意識ながらわざとと言うのは矛盾があるようだが、彼の心理を当て嵌めればそれは成立した。
つまるところ彼は政治から離れていたい。しかし軍権と言うのは、とかく政争の具になりかねないものである。
そのことを歴史を学んだ李師は理解しているが、理解したくない。この理解しているということが彼の政治的なセンスが全くない訳ではなく、寧ろ鋭敏だということを示しているが、感情的な嫌悪感が現実を見る目を損なっている。
彼は自分は何でもない一軍人だ、と思おうとしていた。更にはこの一軍人だ、という自己認識に不本意という感情がつくため、彼はそれに気づくことがない。
自分の心理を剥き出しにすることは、難しい。李師は敵の心理を読むことに長けるし、自己認識もまず悪くない。
だが、嫌悪感に自己認識が塗られ、自己認識に不本意と言う蟠りが塗られ、その上に更に現世の立場が塗られている。
「先延ばしは先延ばしでも、引き受けてやると言ってしまったからね。私は一旦吐いた言を曲げる気はないよ」
この一言にしても、そうだった。先延ばしは政治的なセンスの無さと鈍さを露呈しているが、一旦吐いたことを曲げないということは政治にしても生きて行くにしても必要なことである。
信用とか信頼とか言うものが必要だという事を、彼は肌で知っていた。
投獄された辺りで、察したのかもしれない。だから彼は自分の職業である軍人としての信用とか信頼とか言うものを得る為に義務は果たしている。
義務を果たし、なおかつその上を望んではいない。嘗て疑われて牢に叩き込まれたことで、政治家の血を受け継ぎ、軍人として名声があることがいかに恐ろしいかを肌で感じたのか。
兎に角彼は、元来の天性か、ないしは第二の天性による政治音痴だった。
「そういうことではない。お前が正直に―――そうだな、殷裔を召し抱えたいといえば譲るだろう。あの方は人材に対して執拗ではあるが、人材に対して狭量ではないしな」
「狭量ではないことは知っているし、恨みを抱かないこともわかる。だが、その執拗さを周りが知っている心配だ。それに私は、何かと疑われる立場にある、らしいじゃないか。主君が欲しがっていた人材を横から掻っ攫うというのは、どうかな。疑われることは別にいいし、軍権や領地を奪われるのはいいさ。だけど、後ろから槍を突き出されたくはない」
曹操は器が大きい。私人としての好悪を個人レベルに留めている努力をしているし、公人としては才能に対して公平である。
人材の蒐集癖も相当なものであり、召し抱えた人材を馬車馬の様に働かせるが、よっぽどなことがない限り理不尽な扱いをしない。
欠点としては、気に入った人材に対しての甘さがある。散々痛い目に遭わされた李師の才能に惚れ込み、実動部隊の三分の一と元々の所領を与えてしまっている。
死ぬ程の目に遭わされ、自分の計画を邪魔をされ続けながら、更なる大きな権限を与える形で許すその姿は器が大きいと言えるが、やはり周りからの危惧が生まれる。
曹操は寛容であり人材に甘い。李師が公孫瓚に再び口説かれて叛乱をしても、曹操はまた引き込みに動くであろうということを、家臣たちはありありと予想できた。
李師には、他の誰にもない才能がある。その才能に、曹操が惚れ込んでいる。そして降伏者を対して限りなく甘やかしている。
李師は己を討てた。討てたが討たなかったのだから、これは勝利した上での降伏であると言うのが曹操の見方だが、臣下からすれば早々寛容にはなれたものではない。
李師の才能を否定しているわけではない。寧ろ評価しているからこそ、曹操がこれから作る権力の保全の為に危惧の目で見ているのである。
「……まぁ、華琳様は甘い。君主としては公平だが、人材を愛すのはあくまで人として、だからな。かなり、というより相当に甘い。が、それが人を見る目を曇らせる、ということにはならない。
そのことをどうも、皆は忘れがちだ。だが、華琳様はどうも後継者に関しての思案を投げ出しがちだ。ここらが、主と臣の認識における差異なのだろうな」
曹操は自分が君主であることを前提として見ている。己が不老不死だと考えている訳ではないが、彼女はどうもそこらへんを忘れがちだった。
自分が、治める。
だからその為に有用な人材たちを、集める。
極端に単純化すれば、曹操の思考回路はそうなる。
集めた有用な人材たちを遺産とすることが国の為だと思っているが、曹操も人間だった。
自分しか使えない人間も居るし、その有用な人材たちは国の為にはなるが、後継者の為になるとは限らないという発想が抜け落ちている。
そこらを補完しているのが、荀彧だった。
「私が裏切らないと、曹兗州殿は見ている。家臣たちは、それは曹兗州殿が居てこそだと、思っている。そういことかい?」
「そうだ。そして、私もそう考える」
なぜなら、自分もそうだから。
曹操の器量は尊敬している。自分の一段上の発想力と企画力を持っている。
だが、その子がその発想力と企画力を持つとは限らない。その時に自分は、頭を下げるのを良しとできるのか。
李師は才能と野心が釣り合っておらず、釣り合うだろうと思われることによって、或いはその才能によって野心を隠しているのではないかと思われることによって、二代目になれば排除されるだろう。
そして自分は、己の器量に収まりきらない人材を誅殺していく様な事態になった場合、素直に頭を下げるのを良しとできるとは考えられない。
「……そりゃあ私は伯圭を裏切ったけど、主君との義理を出来る限り守っていくつもりだよ?」
「勘違いするな。私が言っているのは、そう言う型に当て嵌まる人間が居る、ということだ。お前はそうではないが、そう見られる」
そして私は、その型に当て嵌まる人間だ。
自分の言った一言に付け加えるように、夏侯淵は心中で一人ポツリと零した。
僅かに苦笑して、夏侯淵は瞑目する。
曹操は別に病弱というわけではない。が、慢性的な頭痛を抱えていた。
李師は十二年、夏侯淵は二年。
順当に行けば曹操より、この二人は速く死ぬ。
だが、順当に行かないのがこの世界の原理だった。
「お前は自分よくよく見直した方がいい。自覚し、少しくらいは誇れ。それが俗らしく、却って警戒心を削ぐことになる」
「人殺ししかしていないからねぇ、私は。もっと生産的なことに対して才能があるなら、誇ることもできるんだけど」
「偽りでいい。才能には野心と矜持と、驕りが付き纏うものなのだからな」
夏侯淵には才能と同質量の野心と、それよりも高い矜持を持っている。他者を貶めないが、殊更褒め称えもしない。更には自分を高く評価してもいない。
だが、その高い矜持が却って疑いを逸らさせる要因となっていた。
才能と、野心と矜持。夏侯淵を見る人間は目に見える野心が無くとも、その高い矜持で彼女を理解することができる。
だが、李師の矜持は民を巻き込まないというところに終結する。しかも、それを実に巧くやるので全く見ることができない。
つまり、民に巻き込まない為に努力しているというより、偶然に偶然が重なって常に民を巻き込まずに戦っている、という様に見えるのだ。
才能はある。だが野心も矜持のようなものも見られないと言うのが、不釣り合いな印象を与えていた。
「驕り、野心を抱く李仲珞か……柄じゃないね」
「まあ、そうだな。失言だった」
「いや、失言じゃあないさ」
「私が言いたいのは、その人殺しの才能の多寡で栄達を望めるのが今の世だ、と言うことだ。そのことを、頭の片隅にでも置いておけ」
「うん」
窘めるのも忘れない夏侯淵に心強い物を感じつつ、李師はゆっくりとその場から腰を上げる。
彼としては、ただフラフラと彷徨って切り株からここへ来たのではない。
方向音痴と言われればそうだが、流石に目の前の建物に着けないほどのものではなかった。
「話は代わるが、司隷攻めの作戦案を考えてみたんだが……」
「ほぉ、見せてもらおうか」
やはり、ある程度暇にしていた方がよく働く。
働きたくないならば、働かせず、自分から動くのを待つと言うような人の用い方をした許した曹操と、それを提案した夏侯淵の眼はやはり非凡だった。
現に李師は今、必勝の作戦案とでも言うべき腹案を複数、夏侯淵の目の前で開示している。
「……なるほど、実質的には五方向から、こちらは三方から同時に攻め込むのか」
并州方面に迂回してから南下、許昌からそのまま西進、宛を経由して敢えて遠回りをして子午谷から不意をついての北上。
敵の兵力をひとつに纏めないように鮮卑や羌と言った異民族が乱入した時を狙い、実質的には五方向から討つ。
長安政権にとっては日常茶飯事な異民族の乱入と言う自然災害のような出来事を陽動にすることによって時間差をつけることで自軍の損耗を抑えられ、こちらが策動したという証拠を残さずに済む。
何せ、異民族が来る日程を予想しただけで策動していないのだから。
功を争わせるような形にすれば、士気も上がるし角も立たない。欠点としては兵力分散の愚を犯すことだが、これも陽動を挟むことでカバーしている。更には、全軍は巨大に過ぎるので、分散出撃した後に長安まで合同進撃した後に合流した方が機動面においても秀でていると、言えた。
勿論それには高い練度と相互の連携が必要不可欠ではある。
だが、不本意ながら長江以北の主要な戦いの全てに参加し、そこを生き残るための効率的な訓練によって強化され続けた李家軍ほどではないものの、曹操軍の練度も高い。
この作戦は練度と指揮官の質の二点において、実行可能な筈だった。
「配役を予想するに、北が華琳様。軍団長の何れかに正面、私たちが南から、か」
「正解」
薄水色の髪に隠されていない方の眼が少し不審に歪み、夏侯淵はそれ以後暫し口をつぐむ。
彼女が感じた不審とは無論彼の作戦立案・指揮能力に関するものではない。人格的な面に疑いを抱いたわけでもない。
ただ、どうせ行かねばならないとはいえ、李師が自分を含む軍の出動を推してくる。ないしは自分から自分を推すような作戦を立案すると言うことがらしくないように思えた。
野心的な、つまり自分を初めとした曹操軍の前線指揮官などが作った、と聞かされれば素直に頷ける。しかし、李師らしくないといえば、らしくなかった。
「理由、わからないかい?」
「心当たりはない。お前は漢帝国に忠誠心や感傷を憶える性格ではないし、な」
「勿論、そんなものはない。だけど、今回は私らしくない動機で私は動いている」
「…………ふーん」
色々と考えを巡らせ、李師の思考の終着点から経路を辿る。
李師の作戦は、三路を攻める者全てに平等に功を挙げる機会があった。つまるところ李師は功を欲しているのか、ないしは長安・洛陽と言った都を自分の手で陥としたい。
「ああ、なるほど。やはりお前はお前だな」
「いやまあ、この作戦は褒められたものじゃないけどね」
「陥とす算段はあるんだろう?」
「ある。多分、楽に勝てる」
「ならいい。私の名で、この作戦は出しておこう。そうした方が、より良いだろうしな」
全部言わずとも悟り、了承してくれた友の度量に『流石』という念を濃くしつつ、李師は一言だけ感謝を口にした。
「ありがとう」
「私にも責任のあることだ。と言うよりもこれは、私たちにのみ責任があることだ。気づかなかったことを恥じるとしよう」