北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
「ということだから、敵が退こうとした時に叩き、進もうとした時に退く。戦略的な勝利はこの戦術論では覆せないが、戦略を側面から輔弼することは可能だ。この理論は用兵上の要訣であり、口で言うことが簡単なものこそが極意であることを示している。
この極意は天性のものが経験で磨かれることによって君たちに備わることになるだろう。しかし、私としてはその天性とは誰にでもあるものだと考えているんだ。詰まるところ、どんな天性でも本人の磨き方次第、ということだね」
心持ち背筋を伸ばしながら教鞭をとっているも李師がそう話すと、彼の前に立っている数十人の歳若い少年少女たちが一つ頷く。
その謹直さに苦笑しつつ、李師はポリポリと頭を搔いて話の続きに―――と言うよりも、兵法書ではなく地形図と駒を使った授業の締めに入った。
「私としては、努力次第で才能の差が完全に何とかなるなどと気楽な台詞を吐く気はない。歴史で度々証明されているように、用兵というのはこの世で最も才能が物を言う世界だ。だから、熟練の将が素人に負けるということも往々にして起こる。そんな事態を可能な限り起こさない為にするのが、経験と努力と思考における柔軟性だ、ということを憶えていてほしい」
才能。一言で言えばあまりにも残酷なものがあるその一言を、李師はあまり好まない。しかし好悪で現実を歪め、その歪んだレンズで物を見ることが如何に愚かしいことかも知っているだけに、この言葉を用いざるを得なかった。
だから、蒼衣青髪がその冷静さを象徴しているかのような氷肌玉骨の美女に、このような言葉を吐かれるのだろう。
「お前の性格を知っている私からすれば才能がうんたらなどと言うと違和感が凄まじいが、不思議と嫌味や自分誇りには聞こえんな」
「この手の才能に関して、自分を誇ったことなど一度もないんでね」
「らしい言い草だ」
じっくりと淹れた紅茶の如き深い茶色の瞳を閉じ、口元を片側だけ上げる独特の笑みを見せたのは、夏侯淵。李師とは正反対ともいうべき性質と好みをしている箇所が多々ありながら、何故か馬の合う彼の友であった。
その目を閉じながら口元を片側だけ上げる笑いには、ともすれば皮肉などの嘲りや風諌などが含まれているように見える。というより、そういう方にしか見えない。
目を開けていたら瞳の色も相まって悪戯っぽい笑みであるという色がより増すのだが、本当にこういった笑みを見せる時の彼女は基本的に目を閉じていることが多い。さらに言えば、あまり笑わない質であるためにその常に何事かを皮肉っているような笑みが記憶に残る、というのもあった。
彼女は確かに美人だが、美人は美人でも動物的美貌である呂布・趙雲・夏侯惇・楽進らとは違う。
(鉱物的な、というのかな)
動というより静であり、挙措による魅力よりも、ただ佇んでいる方が美しい。
彼には文学的な才能が乏しいからうまい言い回しではない。が、前者が動いている時のほうがその美しさを輝かすことができるのに対し、後者は動かない、即ち愛嬌が無い方が一際その美貌が際立つのだ。
この感想から導き出したのが、この『鉱物的』という表現だった。
「で、何しにきたんだい?」
「いや、出仕していない時は何をしているのかと思ってな」
基本的に有事以外にも出仕するが、鄴に出仕しても庭に植えられた木の下で爆睡しているこの男。決まって出仕、出仕、休み、出仕、出仕、休み、の韻を踏んで日々を暮らしている。
夏侯淵の北方統治ははや二ヶ月に達したところで基幹とすべきシステムの構築を終えているし、それによって各城主に素早く情報を伝達・大規模攻勢に打って出ることができた。
実際に役に立ったことはないものの、備えあれば憂いなし、と言う。
ともかく、各城から一人ずつ人質と連絡要員も兼ねた人員がこの北方都督府たる鄴には集まっていた。
李師は別に人質というわけではなく、ただ単に夏侯淵の副将だからという理由でここに居る。易京は審配に任せ、内政関連の出来事は宛で募集した下働き文官の中から抜擢した費禕に任せ、彼の主な配下は鄴に集まってきていたのである。
これは公孫瓚勢力の彼に対する感情的な撃発によって戦端を開く、ということを防ぐ他にも名誉と節義を重んじる降伏した李師と公孫瓚を戦わせたくないという配慮からであった。
特別扱いだ、といえばそうなのかもしれないが、能力が特別であるし何よりも公孫瓚と戦えばまたあの愚痴と自己嫌悪のフォローをせねばならなくなる。
形式に乗っ取るあまり実利を失うのは、思考の硬直化と言うものだった。そもそも形式というのは無いよりもあったほうが良いと先人が判断したからこそ出来たものであるはずなのである。
それを『形式だから』と無闇矢鱈に重んじる人間には、柔軟性がないのだと言えた。
「ご覧の通り、物好きな教え子たちに戦術戦略を教えているよ」
「物好きな、か。目の前にその道の名人がいるならば一つ話を聞いてみたいと思うのが人だろう」
「……そんなものかね」
李師はこの人を教えるということを、公孫瓚に易京を任されてから―――と言うよりもある程度広大なスペースを使うことが許可されてから複数人にやっている。
彼が尊敬するところが厚い李膺も同じようなことをやっていたが、より親切になったのが彼のこの自宅を開放しての学舎だった。
「教師はお前だけ……では、なさそうだな」
「武芸は星、内政は賈駆、馬術は成廉。恋も馬術で私は戦術基礎、華雄が攻勢戦術、張郃が守勢戦術、馬鈞が作図工学。あくまでも有志でやっている感じだね」
「ほう、金はいくらとっているんだ?」
「教育というものは誰しもが人生上の選択肢を広げるために受ける権利を有しているんじゃないのかと、私は思っている。だから、取らないさ」
数年前までは都にいた、高額を払った名家の子弟たちを学問に励ませていた兵法家たちが歯噛みして悔しがりそうな台詞をほざきつつ、李師は適当に案内をはじめた。
夏侯淵は仕事をサボらない。昼ごろに来たということは、昼までに己に課せられた仕事を今終わらせたということなのだろう。
「ここが今各地から集まっている教え子たちの居住地」
「……ここは、お前の屋敷ではなかったのだな。やけに大きいから、らしくないとは思っていたが」
李師が思い上がっているのではないか。
ここ鄴に彼が空き家を十軒ほど潰して無駄にデカイ屋敷を建てた事に対し、曹操軍の中級指揮官たちは曹操にその才能を愛されている新参者に対しての嫉妬と共に、密かに囁いたものだった。
上級指揮官である夏侯惇は別にそこらに関してはなんの感想も持たず、荀彧らは別に趣味は人それぞれだと考えている。
曹洪は倹約家でもありながらそう言った派手趣味にも一定の理解を示すために好意的な見方に改め、曹仁もそれに釣られる形で見方をマイナス方向には変えなかった。
曹操は別に臣下の私生活に一々口を挟むほど狭量ではなかった為に特に反応を見せず、夏侯淵や楽進は首を傾げたという曰く付きの邸宅に、こんな裏事情があったとは。
夏侯淵はさして驚きはしなかったが、それでも意外なのは確かだった。
「私の家は、ほら」
ひたすら空き家十軒ほどを潰して作った巨大な学舎を外周をつたっていくと、そこには小屋というべき質素極まりない家がある。
昼寝用の縁側と木を備えた庭だけが小屋に似つかわしくないが、その本体は三人が暮らせるか暮らせないかという程に小さかった。
「これだよ」
「如何にも、お前らしいな」
「だろう?」
これが人間の格というもんさ、とまたも自分を小さく見積もったような発言をする李師を窘めるように一瞥し、夏侯淵はちらりと横目で天下屈指の群雄である曹操の十三人しか居ない軍団長の家を見遣る。
庶民が住んでいるならば『分不相応』というような感想も出ようが、名士としては質素だと言えた。曹操軍の軍事力における実質的なナンバーツーであるということも加味するならば、少し異常である。
中級指揮官たちが危惧することも無理はないことに、現在人材の層の厚みからしても、動員兵力からしても、軍団長個人の力量からして李師は曹操軍のナンバーツーなのだ。
曹操直轄の三軍・四万五千に次ぐのが、李家軍の一万五千に旧李家軍の第十軍団を足した三万。それに五千人ほど劣るものの、比すると言えるのが北方で再建中の夏侯淵軍団。
再建が終われば四万にまでなるが、夏侯淵はわざと自軍の再建のために使われる軍費を他の大被害を被った軍団に譲っている。
彼女は曹操からの信頼も厚く、家中においても最古参に入るがゆえに中級指揮官たちの非難と反感を買いにくい自分が李家軍を取り込んだように見せている。
これで夏侯淵の軍は元の四万に、内訳は兎も角戻っていた。
「で、少し話したいことがある」
「ほぉ?」
趙雲が槍術を教えている広い庭まで歩き、李師は都合よく用意された二つの切株の内の一つに腰掛けながら、夏侯淵にも着席を促す。
特に表立ってそれに抵抗する意味もない彼女としては、割りと素直にそれに従った。
「ここには司隷とか、色々なところから集まってきた人間が居る。殷の裔も居るし、今星と撃ち合っている阿鴦なんかは、私に付けられた将の娘だしね」
単刀直入な切り出しで、夏侯淵は要件を悟った。
つまり、逃げてきた黙っていてくれ、ということだろう。
「文欽のか」
「うん」
敢えて要件から外すことで己が理解したことを示すと共に、他に挙げられた人名また有能だが性格的に難がある将を、と夏侯淵は思った。
自分が李師の頼みに従い、敢えて無視した前者に代わって名を挙げた後者こと文欽は、文稷の妹だった。文稷は旗揚げの時から曹操について武勇を誇った人格者であるが、文欽の勇はあまり著名ではないがそれに勝る。
戦術的にも拙くはなく、寧ろ優秀である方に属するが、性格的に難があった。
武勇を鼻にかけて計算高く、次女でありながら長女である文稷よりも高位に立とうとした為に疎まれている。才能的には文欽が勝る所が多いものの、彼女にはとにかく敵が多かった。
素行も良いとは言えず、上にも反抗的である為に評判も悪い。同僚からの人気もなく、上司からの受けも悪い。有能な厄介者、といった感じであろう。
今回の人事も、李家軍と言う外様に厄介者を押し付けようという風が強かった。
「お前の周りには野心的な、野望が高い人間が多いな。所謂、有能な厄介者揃いだが、有能さは群を抜いている奴ばかりだと言うのは運命すら感じるな」
「ああ。君も含めてね」
「まさかその代表格であるお前に言われる時が来ようとはな……」
殷の裔と言い、文欽と言い、こいつの周りには次子が多い。
次子とは謂わば嫡子の代用品、世を拗ねた捻くれ者が多いのも確か。
その捻くれ者からしたら、李師のような非主流派の頭領の元が居心地が良いのだろう。
自分の主も次子だからということで、才能の多寡に関わらず嫡子とはなれなかった。
同じ経験をしているという認識も、その居心地の良さの元である。しかし、彼は非主流派、つまりアウトローに好まれやすい性格をしているのではないか。
だいたいこのようなことを、自分をひとまず棚上げして思った夏侯淵は、また怜悧か口元を綻ばせて微笑した。
(つまり私も非主流派であり、同じ穴の狢という訳か)
そこまで自嘲気味に思ったところで、夏侯淵は信じ難いことを耳にしてその思考をふっ飛ばすことになる。
その一言とは、これだった。
「嫌だなぁ。私は人畜無害な無能者さ」
「笑止」
脊髄反射で否定され、李師は口をへの字にして黙り込む。
背後に迫る、白い影。
「まあ、私から見れば御二方は大して変わりのない狢ですな。私こそ、その人畜無害には相応しいと思いますぞ?」
横並びに座っている二人の肩にほぼ同時に手を置きながら、汗一つかいていない趙雲が極彩色の諧謔と共に現れた。
「星、お前が言うな」
「いい諧謔だ、趙子龍」
何となく染まってきた感のある夏侯淵を横目で見つつ、李師はいつも通り天を仰いだ。
(非主流派に、好かれやすいのかな?)
いやそんなことはないだろう、と。
李師は現実を目を曇らせたままにそう判断した。
殷の裔……殷王(司馬叩)の後裔。
文家の阿鴦……所謂文鴦。趙雲の再来と言われた。