北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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使者

兵站線を脅かすか、と。李師は唐突に考えついた。

自分は何故いまさら、二段回程前の行動に立ち返ろうとしているのか。それを穴埋めしていく作業が、瞬時に彼の脳裏を支配した。

 

諸葛亮の内政手腕は見事な物である。彼が寝ていた三日間で敗残の軍の集結と統合を終え、その後二週間で完全な再編と内通者の洗い出しを終えた。

 

その間、内通者が居るという噂を利用して不穏分子を粛清していると言う情報も入ってきている。

 

諸葛亮は将帥でなく、軍師なのだ。そう悟ったのは、それからだった。

 

李師は戦いに政治を持ち込まない。勝敗による勢力の浮沈すらも、持ち込まない。

見るのは己と敵のみであり、持ち込むのは兵の生命のみである。

 

純粋な才能の量と質、運の良し悪しによって己が敗けなかったのではないのだと、李師はこの時はっきりと自覚した。

 

つまり、自分は百ある能力の全てを人を如何に効率的に殺し、味方の被害を利用するかという非生産性しかない行為に注ぎ込んでいる。

だが、軍師や君主は政治を考える。考えなければ、そうは呼ばれない。だから、考えなければならない。

 

今まで敵としてきた全ての人間は、八割と二割、ないしは六割と四割の割合で自分と相対してきたのだろう。

更に、その二割、ないしは四割は生産性のある政治という物だった。だから、非生産性しかない戦という行為を遂行するにあたって邪魔になった。

 

戦いに勝つには、先にある生産性よりも目の前にある非生産性を直視し続けて歩まねばならないのではないか。だからこそ、己は他人の意識の穴に付け込み、その脚を払って敗けずに居られたのではないか。

 

戦争の前は、百と百。戦場についてからは、百と八十か、百と六十。

将と将の戦いが戦の本質であると言う言葉を当て嵌めるならば、自分が敗けなかったのは、そういうことではないか。

 

軍師ではなく、将軍である李師は、ぼんやりとした風貌を崩さずにその考えを頭の中に沈めた。

 

韓信も、白起も、李牧も。皆政治を戦に絡めず、その結果、政争に殺されている。

彼女等は戦場に於いては無敵であり、平時においては無防備であったのか。

 

趙の李氏の血を継いでいる身としては、その性質に血脈の因果を感じずにはいられない。

 

「恋。地図を持ってきてくれないか?」

 

「……ん」

 

床の上で半身を起こしただけと言う怠惰な格好で、膝の上の被保護者の触覚めいた髪を弄っていた李師は、膝の上から重みが消えたことを感じつつ溜息をつく。

 

平時にただ考え事をしているだけでも、味方の殺戮を援護する手段を考えついてしまう己の罪深さとは如何程か。

考えるならばともかく、実行に移してしまえることがまた度し難い。

 

「……地図」

 

「あ、うん」

 

宛に、指を置く。

敵の補給路に目星をつける時は、やはり地形が記された地図が必要だった。

 

彼は神ではない。何もかも知っていて、その上で作戦を立てる、というわけにはいかなかった。

 

「明命が帰ってきて、三日になるな?」

 

「ん。往復二日、速い帰還」

 

既に動いていたと言う夏侯淵に報告を上げ、周泰はその後更なる迅速さを以って宛に帰還。報告を上げた後に汗を流し、速やかに休眠している。

堪え性があり、一つの職務に精励し始めると自身の限界を超えて働ける周泰だが、その反動としてそれが終わった時に一気に負荷が来た。

 

故に、李師はわざわざ問うたのである。

 

「なら、今から私の指定した箇所に一部隊は出撃。明命には宛以北の情報収集を行うように伝えてくれ」

 

「ん。出撃、どこ?」

 

幾つかの地名を挙げると、それを呂布が竹簡に彫り、手を叩いて密偵を呼び出す。

それを渡せば、速やかに周泰のもとに行き渡るようになっていた。

 

「主、趙子龍です」

 

「どうぞ」

 

入ってきたトラブルメーカーを見て、李師の頭ははたまた歴史方面へと回転する。

常山出身のこの曲者の姓は趙。そして常山は戦国七雄の趙国の故地でもある。

 

案外と、この槍士は趙と縁ある人物なのかも知れなかった。

尤も、各地に劉氏が腐るほど居るように、趙氏も腐るほどに居る。

 

例え合っていようが、それがどうした、で終わるのだが。

 

趙の李牧、李左車と続いた趙の名族李氏も、潁川に引っ越してしまった訳であるし、信憑性がある訳ではなかった。

 

「許昌より、使者が来ております。お会いになりますか?」

 

「会わなければならないだろう、それは」

 

「では、今すぐ通しますかな?」

 

「星。察してくれ」

 

「わかっておりますとも」

 

それが昼頃になっても起きてこない主への皮肉であることは間違いがなく、投げられた方はその皮肉に一々怒る程狭量でもない。

 

いつものような会話を交わし、李師はさらさらと将としての装束である動きやすい胡服に着替え、掛けていた帽子を収まりの悪い黒髪に乗せる。

 

「さて、人選は任せるよ、恋」

 

「嬰。恋が、行っていい?」

 

「無理をしないなら行っていいよ。手勢は?」

 

「五百騎」

 

「まあ、順当なとこだね」

 

別に荒らす(?)だけなのだから、五百騎では過分とすら言えた。

呂布が李師の心配を見透かしてこの兵数を選択したということになるならば、彼女も中々の眼を持っているということになるだろう。

 

「じゃあ、任せた。星、護衛を頼む」

 

「安んじて、お任せあれ」

 

槍を室内で持つわけにもいかず、腰に剣を佩いているだけの趙雲が李師の斜め後ろにつき、呂布がそれを確認して離れて行く。

 

呂布が逆方向に進んでいく姿をちらりと振り返って見ながら、李師はぽりぽりと後頭部を掻いた。

 

「何の用かな?」

 

「さぁ?」

 

「私は味方の捷報だと思う。さしずめ吾らに下される次なる指令は、宛以北の調略を任せる、ではないかな」

 

「決着が付くには、速すぎはしませんかな。敵も鳳雛と謳われた傑物ですぞ」

 

現に並び称される臥竜こと諸葛亮には、李師が一度してやられている。

彼の再構築の素早さで撃ち破れた物の、油断できる相手ではないであろう。

 

そのことを、趙雲は聴いただけながら意識していた。

寧ろ、聴いているだけだから良いのかもしれない。

 

殆どの従軍者が、あの後の諸葛亮の罠を逆手に取った逆転劇に目を奪われてしまっていた。

魔術的な、芸術的な蠱惑さを持つ李師の用兵に酔いしれては敵を見誤ると、趙雲は自分に刻み込んでいる。

 

彼の用兵は、危機を同質量の好機に変える、ということを容易に為す。だからこそ、兵たちはどんな危機でも『李師殿ならば勝てる』と楽観して、その場で逃げることなく戦うのだ。

 

この戦線の崩れにくさと士気の低下のしにくさは、同時に危機感の欠如にも繋がりかねない。

美点は欠点を産む。この場合、李家軍の兎に角堅いという美点は危機感の欠如という欠点を産んでいた。

 

趙雲は、その空気に誰よりも染まっているように見えて客観視しているところがある。

この辺り、彼女はただの戦術屋ではなかった。

 

「傑物だから退き時を間違えない。そして妙才は、可愛げのかけらも無い速攻果断の用兵には定評がある。一度腹背に一撃加え、敵の逃げ足を早めさせたのではないかと、思うんだが」

 

「それには吾等が勝っているとの確信が必要でしょう。攻撃用と対陣用では、軍の編成も変わるのですから、周泰が来陣する前に悟っていなくてはならないのでは?」

 

「私の指揮なら二、三倍と城一つを何とかして敵の後方を扼すと、思ってそうではないかな。自惚れかもしれないが、現にそうなっているわけだし」

 

「……有り得ますなぁ。それを計算に入れて陣を組めば、追撃も容易で、更には効率的に終わりましょう」

 

一通りの予想を立て、李師と趙雲は広間へ入る。

許昌からの使者、と思しき女性が、恭しく礼を取っていた。

 

「単刀直入で悪いと思うが、用向きは何だい?」

 

あまりこういう礼儀に通じているわけではない李師は、使者の前に立ちながら用向きを問うた。

彼の礼の無さはその容貌と合間ってその使者を面食らわせたが、そこは曹操に見込まれて使者の任に預かっただけあって、対応力は素晴らしかった。

 

才能さえあればいい。煩雑な礼儀など必要ない。

常々そう言っている程の人材マニアに仕えているだけあり、彼女もその考えを受け継いでいた。

 

更には、容貌。

 

使者はこれまで李師を見たことがない。見たことがないが、実績とその指揮の鮮やかさは知っている。

故に容貌怪異な大男であるとか、峻烈な巌の如き声を想像していた。

 

しかし、無駄な重さがなく、水に浮きそうな軽さと陽気さのある声である。顔は見る者が見れば良く見えるという所謂普通の顔で、特に美男でも醜男でもない。

将軍というよりも、駆け出しの学者のなり損ないのような感じがあった。

 

「これを」

 

「うん」

 

己が両手で捧げるように差し出した竹簡に李師が一通り目を通すと、何故か斜め後ろで覗き込むように読んでいた趙雲が笑う。

 

「まぁ、そんなとこだろうね。ご苦労様」

 

予め想定していたような口ぶりに僅かな驚きを覚えつつ、使者は速やかにその場を辞した。


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