北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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邂逅

「私は敗けた、ということね」

 

全軍に停戦が命ぜられたのは、西暦百八十九年、五月十六日のことであった。

疲労の極みに達しているとは言え六千の軍に包囲された曹操が、自分の負けを認めて停戦要求を飲んだのである。

 

半包囲態勢に置かれていた左翼も、夏侯淵の指揮の元に再建されつつあった右翼も、軍が粉々にされた兵の集団が虚しく漂うばかりの中央も、皆等しく矛を収めて易京から南十五里のラインにまで後退して陣形を再編した。

 

そして李家軍も、まさに乱戦という名が相応しい戦線を収拾。何とかかんとか軍の再編を終えて易京へと戻る。

 

この会戦での曹操軍の被害は死傷者四万。李家軍の被害は死傷者一万二千。

だいたい二分の一を喪った曹操軍と、三分の一を喪った李家軍。これだけ見ればどちらが勝ったのかわからないという惨状だったが、実際的には『曹操軍が僅かにつんのめり、そのつんのめった分』程度で李家軍の勝ちだと言えた。

 

負傷者の収容と応急的な治療に三日を掛け、李師が会談を申し込んできたのは五月十九日のことである。

 

「……少なくとも、私は敗残者であることに変わりはないわ。この会談は受け、そこで撤退の案件なり、賠償金なり、捕虜の返還なりを話し合うことになりそうね」

 

変に律儀なところがある曹操は、実のところこの時に易京に攻勢をかけていれば勝てた。

李師は疲労の極みにあり、頼みの綱の頭脳も粥の様にふやけ切ってしまっている。更に、この会戦で兵員の三分の一を喪っており、先ず先程の如き乾坤一擲の戦法には出られないことはわかりきっていた。

 

だが、曹操は停戦の申し入れを守っている。一度交わした約束を破るなど、己のプライドが赦しそうになかったのである。

 

 

そして、明けて五月二十日。当然のように敗者として易京に向かう準備をしていた曹操のもとに、急報が齎された。

 

 

「降伏の使者として参りました、李瓔と申します。曹兗州殿にお目通り願いたいのですが……」

 

後ろに呂布を従え、どうにも冴えないような風貌をした男が曹操軍の本営を訪ねてきたのである。

無論、曹操軍の高級将校たちはその報に接して各指揮官が指揮する部隊から離れて見物に行った。

 

自分たちが敵わなかった敵将を見たい。それは決して感情の発露として不自然ではなく、ごく自然なものだと言えよう。

しかし、そこで目にした物は『智将』や『名将』と言うにはあまりにも相応しくない冴えなそうな男の姿だった。

 

(失望してるのかな。それとも、期待などされてはいなかったのかな)

 

李師は、好意的でもなければ害意を抱いているわけではない、首を傾げているような疑念の視線に晒されている。

彼は自分の容貌が『英気と覇気に満ちて人の上に立つ風格を有す』などと言われた檀石槐の如きものではないことを自覚していた。

 

故に、この様な『え?』みたいな視線には慣れていたのである。

 

「仲珞」

 

直前まで刃を交えていた者達とは思えないほどフレンドリーに、夏侯淵は極めて無防備な肩に左手を置いた。

自軍の高級将校たちの疑念に背中を押されたこともあり、また単純に再開を祝したかったこともあり、夏侯淵はさらさらと視界外から近づいてきたのである。

 

「あぁ、久しぶり」

 

「見事な戦だった。私としては、してやられた側に立ってしまったことのみが、心残りだがな」

 

久しぶりに会えたからか、また遠慮のない限りなくグレーな―――つまり、勝ちたかったのか李師側に付きたかったのかがわからない発言をしている夏侯淵の前で遠慮なく肩を竦めた。

 

そのことを察したのか、夏侯淵は僅かに眉を顰めておどけて見せる。

要は、夏侯淵のこの発言は李師を前にしてしまったからこそポロリと出てしまっていたのだった。

 

「そちらも迅速極まる行軍だった。ただ……」

 

「ただ?」

 

「ただ、君の軍はいやに数が少なかった。何かあったのかい?」

 

李師はこの時、自軍の惨状と敵軍の惨状を作り出したのが己だということを目に見て、自分の罪の深さを自覚してしまっている。

正直なところ、彼は英雄特有の陶酔や勝利の美酒に酔えるような性格ではなかった。故に、謂わば他者が巧みに自己の中で逸らしている責務と罪をまともに受けてしまった、というわけである。

 

この上、自分の目の届かない所で自分関連の出来事で人が死んでいるという事実を、彼は受け入れる義務があると思っていたのだ。

 

「易城の審配が苛烈に抵抗してな。動きを止める為に一軍に包囲させるより他になかった」

 

彼と配下の将の評価は、戦闘に関して安定性のある張遼以外は彼を含めて総じて低い。

『思考に手脚が伴わない』李師、『思考に独創性が欠片もない』田予、『武を頼み過ぎる』呂布、『危険人物』の趙雲、『実力に自信を持ちすぎ』な華雄、『水賊上がり』周泰、『融通のきかない』張郃、『忠誠心に期待できない』麴義、『退き時を知らない』淳于瓊、『勝ち運がない』賈駆、『意志と能力に欠ける』審配。

 

全てに禰衡曰く、と言う頭言葉が付くものの、これはだいたい合っている。それを上回る長所と使い時の巧さが、この評価を不当なものへと変えていた。

 

「へぇ」

 

「何だ、貴官の差配ではないのか?」

 

「いや、私としては抵抗よりも君を領内奥深くにまで誘い込むことをこそ期待していた。最初、君が反転してくるとは思っていなかったのでね」

 

彼の作戦案の最善としては、中央突破で曹操を捕らえる。捕らえたら和議を呑ませてそれで終わり。

捕らえられなかったならば敵が要塞攻撃を不可能な打撃を与え、全軍の三分の一ほどを残して直ちに反転。領内奥深くにまで侵出した夏侯淵の補給線を絶ち、飢えたところで叩く。

 

これが、李師の作戦だった。故に彼は配下の城将たちの降伏をおおっぴらに認可してしまったのである。

審配の猛戦は夏侯淵が反転攻勢をかける場合は良いベクトルに傾いた。

 

もし夏侯淵が反転攻勢をかけようとしなかったとしても、審配の猛戦は変わらない。彼女は審配の守る易城と李師の率いる軍で挟み撃ちに合わせたことだろう。

どちらにせよ対応できるように周到に配置しておいた―――と言うよりは味方の勇戦に期待できない為に次善の策を常に取らざるを得ないことが大きいが、それが却って李師の作戦における柔軟性を生んでいた。

 

「予想していなかったのに、対処はできたというのか?」

 

「どうにも、私の思考が読まれている気がしてね。張った罠を発動させず、かと言って回収もせずに放置しておいたのさ。土壇場で気づいて、何とか発動させたというわけだ。

あと、反転は君の意志じゃあ無いんじゃないかな?」

 

李師は、夏侯淵の気性を知っている。夏侯淵が最初から『曹操は李師に敗ける』とわかっていたならば、敢えて補給を無視して一路薊にまで進撃し、敵の意表をついて速やかに降伏させたことだろう。

 

退嬰的な、即ち負わせられた傷を治すような動き方は、夏侯淵らしくないものだった。

負わせられた傷はそれ以上の傷を負わせて刺殺を測るのが夏侯淵と言う指揮官の癖である。

 

だからこそ、李師は当初の計算に夏侯淵の参戦を入れていなかった。

故に、土壇場での対応と言う形になってしまっている。

 

「相変わらず異常な柔軟性と洞察力だな。恐れ入る」

 

「で、私をやすやすと超えていった参謀は誰だい?」

 

「天の御使いだ。私に入れ智恵し、華琳様の危機を救わせようとしたのはな」

 

髪に隠されている方の眼が妖しい虹彩を持ち、両眼ともに閉じられた。

いつもの左腕と右腕を鳩尾の直ぐ下辺りで組んだ姿をしている夏侯淵の前で、李師は帽子を取って頭を掻いた。

 

「……参ったと同時に嬉しくもあるな、これは」

 

「ほぉ……是非、内情を聴かせてもらおうか」

 

「参ったのは、単純に智恵比べで敗けたから。嬉しいのは容姿・能力・年齢の全て完全に下位互換となった吾が身では、曹兗州殿の勧誘の対象には、万が一にもなり得ないことさ」

 

李師はどこかで見ていたのか、と。夏侯淵はすんなりと理解した。

どこかで、という表現は正しくないであろう。彼女は状況を整理し、天の御使いと李師とが顔を合わせる機会があることが黄巾征伐時のみであることを推理し終えていた。

 

そしてその邂逅が外見を物色し、内面をこじ開けるにまで至らなかったということも。

 

「能力はともかく、完全に下位互換ではないな」

 

「へぇ?」

 

未来を知っているのが能力と直結するのか、という疑問に関しては夏侯淵は未だ回答を出せていない。

結果的に見れば未来を知っている無能と小才子とでは前者の方が能力としては高いと言えよう。

 

しかし天の御使いは無能ではないし、抜群の、それも多種多様の人物に対する人望があるし、未来知識もある。

李師には癖者に対する圧倒的な人望と、未来知識はないがそれに等しい洞察眼と推理力を持っている。

 

正規の能力で表すならば間違いなく後者が優れていることは疑いがないが、未来知識とやらも侮れないと、人を見る時に感情を排す質の夏侯淵は判断していた。

 

智恵に関しては、前者が集積された智、後者が積み上げていく智という種類の違いがある。

限界も見えていない現状では比べることは困難だが、間違いなく言い切れることが一つあった。

 

「声はお前が上だ。人それぞれだと言うかもしれんが、味がある」

 

「それは随分と主観的だね」

 

「その通り。私の好みだ」

 

顔は比べるに『如何に異性に好かれるか』という実績を必要とするし、それでは確実に李師は負ける。

頭の中身も異端と言う点では同類項で括れるが、前者が知識のフィルターに視線を通してしまって膠着しがちなのに対して、後者は儒教という誰もが掛けるフィルターすらなく、柔軟性と洞察力に富む。

 

どのように育てたらこの様な異端児に成長するのか、夏侯淵は大いに興味があった。

しかも、彼を育てたのは実益を尊ぶ宦官ではなく、儒教を重んじる清流派の領袖。どうなればこうなるのか、皆目見当がつかない。

 

そこまで話したところで、どこかで『どうせそうだろうな』と高を括っていた彼女は、そう言えばという形で切り出した李師が自分の意志を汲んだことを悟る。

 

「君の姉は健在だよ。捕えておいて、なんだけどね」

 

「姉者は牢を壊さなかったか?」

 

「牢に入れなかったけど、代わりに入れた客室の備品が壊れたよ。大暴れだったからな」

 

「寝相か」

 

「ご明察」

 

最初から殺す気など毛頭ない李師が、曹操の将を意図的に殺すはずも無い。作為的な行動の中に殺されてしまった将も居るが、捕虜を処刑するほど馬鹿ではないと、夏侯淵は確信していた。

故に、夏侯淵は敢えてそこには触れなかったのである。

 

そのことは、李師もわかっていた。だからその意思を理解し、汲んだ上で自分から切り出したのである。

 

「では、案内しよう。そろそろ準備も終わる頃だ」

 

「有り難いね。こういう厄介事は、一刻も速く処理するに限る」

 

今まで刃を交えていたにしては自然すぎる会話を刃の代わりに交えつつ、二人は曹操の元へと出頭した。




李瓔
親愛←夏侯淵、華雄、趙雲、張郃、陳慶之、田予、李牧、呂布
親愛→夏侯淵、華雄、堯帝、趙雲、張郃、田予、呂布

嫌悪←荀彧、鍾会、単経、檀石槐、田偕
嫌悪→単経、田偕


曹操
親愛←于禁、郭嘉、楽進、夏侯淵、夏侯惇、許褚、荀彧、程昱、典韋、李典
親愛→于禁、郭嘉、楽進、夏侯淵、夏侯惇、関羽、許褚、荀彧、程昱、典韋、李典

嫌悪←袁術、袁尚、張飛、馬休、馬岱、馬超、馬鉄、馬騰
嫌悪→孔融、楊修、左慈


夏侯淵
親愛←夏侯惇、毌丘倹、諸葛誕、曹操、典韋、李瓔
親愛→夏侯惇、曹操、李瓔

嫌悪←鍾会、黄忠
嫌悪→なし


呂布
親愛←魏越、高順、成廉、檀石槐、李瓔
親愛→李瓔

嫌悪←鍾会
嫌悪→なし


鍾会
親愛←なし
親愛→曹操

嫌悪←なし
嫌悪→夏侯淵、李瓔、呂布

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