北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
華雄隊は、この時をこそ待っていた。彼女が出撃を許可される場合は、二つ。
一つ目は、李師が敵の本陣を直撃した時。二つ目は、右翼部隊に致命的な欠損を見せた時。
周泰率いる物見を一刻に一度放ち、李師直属の伝騎に出会した彼女は、『やるべき』と見て進撃を命じたのである。
「華雄様。正面に、敵右翼部隊!」
「―――打ち破れ!」
彼女が右翼部隊の穴を更に抉ってこじ開けていた時、本陣と第十軍団(荀彧)を突破してきた李家軍の間に入り込んだ楽進によって、完全に李師の脚が止められていた。
実質的に、彼女の手に曹操の命と勝敗の如何がかかっていた訳である。
「あれ、華雄だけやん」
「そうですな。どうやら李師殿が投入を決定されたようです」
夏侯惇の突撃を回避すべくギリギリのところで後退し、陣形を立て直し終えた張遼は、呆れたような、驚いたかのような声色でつぶやいた。
彼女の内心は、七割の感嘆と三割の疑念で構成されている。
七割の感嘆の内の半分は夏侯惇を捌き切るどころか壊滅させた手腕、もう半分は華雄隊の投入のタイミングの巧妙さ。
そして、三割の疑念は伏兵として配置されていた片割れである淳于瓊隊が投入されなかったことだった。
「淳于瓊は居らへんな」
「はぁ。遅れているだけか、また何か仕込んでいるのではありませんか?」
「まぁ、後者やろうけど……」
なら、何を読んで李師は淳于瓊を伏せたままなのだろう。
張遼が悩むのは、それだった。
「将軍。吾々も攻撃を開始すべきでは……」
「あぁ、せやな。はじめよか」
今にも駆け出しそうなほどに躍動感に溢れた馬が描かれた旗が風を孕んで靡き、全体の二割を失った張遼隊四千が突撃を開始する。
敵右翼部隊を取り巻く状況は、一刻前までの李師に似ていた。
側面から最大の破壊力を持つ部隊が突入し、正面から更に敵が攻め寄せる。
正面からの敵には第三軍団(于禁)、側面から的には第九軍団(毌丘倹)が対応したことが、似ていて非なるところだった。
第九軍団は、一日目に損害が多かったが為に二日目の戦いに参加せず、疲労を一切感じていない新鮮な部隊である。
この新鮮な部隊の横腹に、同じく疲労を一切感じることなく力を溜めていた猛虎が噛み付いた。
張遼と華雄は、この時李師の管制下から離れている。と言うよりも、李師の管制範囲がこの時、一時的に収縮していた。
役割分担をしている敵軍の動きに一々対応していたが為に、彼の指揮能力が僅かに鈍化していたのである。
李師は独善的な指揮官ではなかった。個々の司令官の意見をよく容れたし、その到底人の上に立つ者とは思えない風貌に現れている温和さで包んで統御している。
彼の頭は戦略と言う大枠を諦め、戦術方針という外枠を定め、枠内にある空白を各指揮官の適性と部署を加味して何とか曹操に対抗していた。
彼の初めての対戦相手であり、個人的に見れば最も苦戦したと言う実感のある檀石槐は、五人の才能がある族長と一人の軍師を自分の作戦に引き摺り込んで無理矢理にでも実行させている。
この方法は配下の才能よりも己の才能が上だと信じ切っており、なお且つその自己認識が正しかった檀石槐だからこそ出来ていたことで、檀石槐の将才を認めていた李師には到底できそうにもなかった。
だが別に、総指揮官がやっていることは誰であろうと変わらない。要は部下にどこまでの裁量を任せるかの問題だと言える。
猛烈な攻勢と、鉄壁の守り。左右両翼の戦線の配慮と伏兵への突入指示。これらを処理し、適確に捌き続けただけでも大したものだが、人である以上は限界があった。
一晩寝ても肉体的・精神的な疲労が全快するわけではなく、彼の頭は休眠期に入ったのである。
今働かせても赫々たる成果は挙げられない。ならば機に全力で乗じることができるように休む。
彼から見れば最低限の、平均以上の能力を持つ将からすれば極めて困難な、常人からすれば何の奇も衒わない指揮振りを、彼は頭を休めながら二倍近い敵を食い止めつつ篤実に続けていた。
華雄は、李師の指示が無いことに対して予め伝えられていた指示を実行に移す。
即ち、自分がすべきだと思ったことをその全力を傾けて実行したのだ。
「敵陣、亀裂を生じつつあり!」
「そのまま直進して敵の側面に雪崩込め!」
半刻も経たずに敵の右翼部隊を突き崩した華雄の突進に、突進に付き従ってきた兵自身が驚きつつ現在の状況を報告した。
それに対する華雄の命令はシンプルである。曹操の首元に斧を突きつけ、降伏条件を受け入れさせる。その為に突き進み、敵陣を切り開くのが華雄のすべきことだった。
突撃すべき一点を正確に見定め、突破する。
簡単に見えて、誰でもできることではないことを、華雄は整然とやってのけた。
「正面また別の敵が!」
「何?」
この突撃を受け止めたのは、李師の本軍を凹形陣で防いでいる楽進ではなく、敵軍左翼に居るはずの第十一軍団である。
乱戦の中で徐々に圧し込まれつつあった李典が第十一軍団の半数を急進させ、ごっそりと―――仕方ないとはいえ―――防御力を中央部の防御に持って行かれた右翼部隊の補填としていたのだ。
しかし、この部隊は間一髪で間に合わなかった。
華雄を右翼部隊と中央部の間で、しかも陣形を立て直す間もなく迎え撃つことになったのである。
最早曹操軍の各指揮官が各個に正当な判断を下して戦線維持と巻き返しを計っていた頃、この惨状に追い込んだ『統一性のある攻勢』のタクトを持っていた人物もまた、各指揮官の判断に任せて戦略的な思考に耽りはじめた。
李師は、どうにも自分の手が読まれているような気がしてきていたのである。
この思考は後に効果を発揮するが、彼が現実世界の攻勢に対処すべく思考を復帰させるまでの一刻を、外枠内の判断を任された各指揮官はどうにか乗り越えなければならなかった。
『どうなされますか』
各指揮官は、副官からの異口同音の問いに頭を悩ませる。
結果として、最初に、されど同時に判断を下したのは華雄と張郃だった。
「突撃。今退いても得る物は何もない」
「敵の最左翼の一隊を圧迫し、そこから麴義隊を突入させる。こちらの防御力が薄くなった以上、半包囲をしてしまえるのだからな」
二隊が攻勢に意志の指向を傾けた瞬間、張遼と呂布と趙雲の行動も決した。
積極攻勢に出た二隊を、掩護する。
「攻勢続行。それしかないやろ。あの奇略縦横の指揮官が居らんでも、機を見逃さんくらいの能はウチ等にもある」
張遼の一言はかなりの謙遜であったが、同時に今までの攻勢が李師の指示ありきで進んでいたことを端的に表していた。
張郃と麴義が提携して半包囲を六割がた成功させ、張遼と華雄が態勢を整えつつあった右翼部隊を二方面から圧迫していた時、哀れなベレー帽をしわくちゃにしながら戦線維持と攻勢をこなしていた李師は閃いた。
「敵の参謀は私より読みが深い。恐らくは私の初動から作戦を読み、対処をしている。その上でここまで何ら私の行動を阻害することなく、目的の達成のみを阻害してきたのだから、忍耐力もある。しかし、読みは私より粗い。知識と作戦への洞察はとても私の及ぶ所ではないが、経験が浅いのか、詰めが甘い。後手後手に回りすぎている」
側近の『こいつより優秀な参謀が居るのかよ』と言う恐怖の眼差しを気にすることなく、李師は対策らしき案を七個ほど滔々と述べる。
その異様な光景を中断させたのは、呂布の鎮静を促す一言だった。
「……どうする、の?」
「敵はわかっていた。ならば先手を打つはずだ。ここまで敵の読み通りならば―――そうだな。明命」
「はいっ!」
李師がさらさらと書いた書面を周泰に渡すと、周泰は速やかにその場を発つ。
最早、李師の中ではこの戦争の帰趨は敵との競争の帰趨によるものだった。
「恋。華雄に一言伝えてきてくれ」
「……なんて?」
「後背に敵部隊が急襲してくるだろうから、一隊を以って背後に気を配っておくように。更には、前面の敵をいつでも破断できるように急襲と退却を繰り返して薄弱化を計れ、と」
「わかった」
人中に呂布が在り、馬中に赤兎が在る。
この伝令行で謳われただけに、呂布の行動は怪物じみた勇猛さと氷の様な冷静さに彩られていた。
単騎で楽進隊の前の射程ギリギリを横切り、赤兎馬を疾駆させて第十一軍団を後ろから前に穿き、容易く華雄隊に到達した。
この伝令の為の道を阻んで撃殺されたのは百名に昇る。
まるで無人の野を行くが如き、と評されただけあって、呂布は汗一つかくことなく華雄に伝言を口頭で伝えて馬首を返した。
「帰るのか?」
それを受け取った華雄は、思わずといった面持ちで、吾ながら馬鹿げた問いだ、と後に己が述懐することになる問いを投げた。
「……嬰は、心配性」
呂布はそう答え、元来た道を汗一つかくことなく、その身に傷一つ追うことなく、返り血を浴びることもなく帰ってしまったのである。
呂布から伝えた旨を聴いた李師は、一つ頷いてちらりと右翼方向を見る。
「そろそろかな……」
「と、言いますと?」
「いや、吾が友がね」
懐かしみを漂わせた語気で李師が田予の問いに答えたのと時を同じくして、もうもうとした砂塵が李師の視界に入ってきた。
「夏侯妙才殿ですか」
「ああ。でも、いやに兵数が少ないな」
他人事のように呟く李師には僅かながら心の余裕が生まれていていた。勿論それは油断に結びつきかねないものだが、李師は戦ってこの方油断したことがないという、自分の才能に信頼を置かないこと甚だしい男である。
きっちりと、対策を張っていた。
「華雄隊を前に退却させてくれ」
「はっ」
旗と銅鑼を組み合わせて下した指令は、華雄の元に届いた襲撃報告と殆ど同じ時に届いた。
「将軍。後背から、敵接近」
「流石に速いな」
右翼を中央部を守る盾とすると、華雄隊はその盾に鋒から刃の付け根までを突っ込んだ槍のようなものである。
本陣からの旗の連絡を見て、華雄はすぐさま突撃に転じた。
要は追いつかれる前に敵をぶち抜いてしまえばよい。
「総員、後ろを見るな。活路は前だ!」
右翼という盾を、華雄は慣れない波状攻撃に晒しすことで、今に至るまでその強度を下げ続けている。
波状攻撃が拙くとも、その破壊力は尋常では無かった。
「敵陣、突破ぁ!」
「よし、突き進め!」
目の前に、曹の牙門旗。勝ったと思ったその瞬間。
「将軍、側面から!」
華雄は強かに逆撃を被る。
「何だ!」
「楽進隊です。どうやら敵に突破を読まれていた模様」
「敵は、機動性を含む攻勢が下手なのではなかったか?」
「その筈ですが、現に吾が総司令官殿は攻勢に於いても尋常ではないではありませんか」
その表現は正しくもあり、間違ってもいた。楽進は本当に機動性を含む攻勢が苦手なのである。
この楽進隊を用いた逆撃を喰らわせたのは、波状攻撃から突破地点を読み切っていた曹操であった。
その頃、猛追していた夏侯淵の前にも一隊が立ち塞がっている。
右翼を突き崩して夏侯淵の頭を塞ぐように動いたその部隊は、張遼隊であった。
華雄と曹操、張遼と夏侯淵。両者が無言の内にぶつかり合った時、李師の左手が静かに天頂方向を指し、垂直にまで下ろされる。
パタリと旗が靡いた瞬間こそ、この戦いの帰趨が決した時であった。
「指令は下された。敵を挟撃する好機は今ぞ!」
李家軍最後の予備隊たる淳于瓊隊が、曹操軍最後の予備隊に向けて後背から襲いかかる。
謂わば、夏侯淵は華雄の後ろをとっていた。その華雄の背後を守るように張遼が立ち塞がり、夏侯淵の背後に目掛けて淳于瓊が牙を剥いたのである。
この時既に、曹操に叩きのめされた華雄隊は劣勢から潰走へと移りつつあった。
「何とか―――計算通り、かな」
それを見た李師は、一人呟く。
彼は曹操が華雄隊の横腹に痛打を喰らわせた時点で策を実行に移していた。
それを実感したのは、彼の攻勢を四刻にわたって受け止め続けている楽進であろう。
彼女は、曹操に抽出した後に再編したが為に薄くなった両翼に、敵が攻勢をかけていることを察知した。
「両翼に二隊ずつ、突破力のある小隊が喰い掛かり、綻びを作ってきている。敵はこの綻びから兵を突撃させて点とし、四点を繋いで面として圧してくるつもりだろう。
中央部から迅速に兵力を割いて四点の綻びを紡げ」
この命令は、速やかに実行に移される。防御に長けた楽進の四点が必死で開けた穴は紡がれ、最早再突破も望めない。
両翼への攻勢の対処が完了し、凹形陣の中央部が僅かに薄くなった、その瞬間だった。
「呂布隊、突入してきます!」
「ッしまった!」
楽進は、悟った。
この期に及んで踊らされた、と。
「延ばした両翼を縮小させて中央部に厚みを取り戻させろ!」
「駄目です。右翼はともかく左翼は乱戦状態にあり、間に合いません!」
その返答を聴いた瞬間、楽進は馬から叩き落とされて気絶した。
呂布隊三千と、趙雲隊三千とが穴を抉じ開けて無理矢理に突破口を開いてきたのである。
「敵陣、突破……!」
中軍にあって突っ込みながら指揮を執っていた李師は、感嘆と感動を混じえたその声を聴いて、一つだけ言葉を発した。
「全軍、敵の牙門旗まで前進」