北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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決戦(序・魏)

「降伏勧告は拒否、ですか」

 

「ええ。元々期待してはいないけれど、ね。こちらの差し伸べた手を払った以上、全力を以って戦わせてもらうわ」

 

降伏したいと愚痴っている親友の姿を幻視しつつ、夏侯淵は納得した。

 

この戦略的劣勢をわからぬほど奴は馬鹿だとは思えないし、こちらの求めるところも知っているわけだから降伏するにしても、もっと簡素な条件に留めるはずだろう。

 

「目前の仲珞と敵の間に、離間を仕掛けては如何でしょうか」

 

「離間?」

 

敵となるからには全く容赦をしない質の夏侯淵は、曹操が彼の用兵術の鮮やかさを目の当たりにする前に素早く戦略的有利を積み重ねることにした。

用兵術の鮮やかさを目の当たりにすれば、恐らく自ら決戦することを望む。

 

そうなる前に勝ちを決めておきたかった。

 

「敵は恐らく、前線に意見や意志を伺わずにこの外交折衝を開始し、終えたと思われます。そこを付けば、彼を失脚させることも可能なのではないでしょうか」

 

前線からすれば、防衛線を維持することは不可能だとわかっている。易京道以外に大軍が通れる道がないとしても、危険を冒せば兵力を敵防衛線の小穴を突き破るようにして幽州に兵力を結集させることができる。

 

先程までの外交折衝は、その現実認識能力を著しく欠いているとしか思えなかった。

 

「公孫瓚は矢の雨の中で盾を捨てるような無能ではないでしょう?」

 

「連合制を敷いている以上は、主が信じようが無意味かと。頭がどう考えようが手足が動かねば意味がないのと、同じです」

 

頭が信じようが、末端が信じなければ援軍を出しても却って敵を利することになりかねないし、君主自ら外交折衝に赴くことができない以上は教養と能力がある、つまりは豪族出身の外交官に任せるしかない。

 

更には自身が出陣しても名代となる人材に欠ける。

 

名士という型の人間を排斥した影響が、ここで強かに働いていた。

 

「なるほど、有効かもしれないわね。噂を広まるのを待つ、ということかしら?」

 

待つということも勝つ為には必要。果断速攻を得手とし、待ち構えるを苦手とするとはいえ、曹操はそのことをよく知っている。

趣味や嗜好のために有効な策を捨てるようなことを、彼女は滅多にしなかった。

 

「ただ座して待つは、御気性にそぐいますまい。一軍を以って幽州に直接侵攻されれば、いかがでしょうか」

 

「一方で本拠を突かしめ、もう一方は易京の李家軍を塞ぎ、策を以って紐帯を断つ。見事な策ね」

 

大軍の利を最大限に活用した一策である。

ただ兵力に物を言わせた力攻めをするのではなく、大兵力を複数の戦術単位として同時運用するというのは、如何にも夏侯淵の気宇の壮大さを示していた。

 

各個撃破の好機を敵に与えるかもしれないものの、その危険を補ってあまりある程の戦略的有利がある以上、この策は極めて有効だと言える。

 

「はっ。更に付け加えるならば、敵の豪族たちは仲珞が態と吾が軍を通したと思うでしょうし、そうは思わずとも頼りないと思うと考えられます。

義理を果たす為に戦うであろう仲珞と度重なる讒言を信じぬ公孫瓚の紐帯は先ず見事なものですが、中間から絶ち切ってしまえば自然とその紐帯は霧散するかと」

 

「『曾参人を殺す』とは、いかなかったものね」

 

『曾参人を殺す』とは、春秋戦国時代の名著、戦国策に載っている逸話である。

費という街で曾参と同姓同名の人物が人を殺した。

ある者『曾参が人を殺した』と曾参の母に伝えたが、母は『あの子が人を殺すはずがない』と取り合わない。

ところが同じ事を三度目に言われた際、 ついに信じてしまい、逃げ出そうか悩み出してしまったのである。

 

人と人との信頼関係が『距離』と『風聞』というものを挟んだ際に如何に脆いものかを示す皮肉な逸話だった。

 

「結果的にだけど、公孫瓚はあの稀代の用兵巧者を手元に置いておくべきだったわね。豪族との仲が悪いならば彼を餌にして暴発させ、それを口実に討滅してしまえばよかった」

 

その内紛によって一時的に外敵の侵攻を招いたかもしれないが、永続的に内紛と混乱、不信の種を孕んでおくよりは長期的に見れば遥かにマシであろう。

 

「国が滅びる時とは必ずしも外敵の侵攻によるものではなく、それを端緒に発した内乱に拠るものである所が過半を占めています。確かにその方が良策でしょう」

 

「えぇ。でも、所詮は後知恵ね」

 

頬杖をついて強敵との戦いに闘志を燃やす曹操の隣で、夏侯淵は燻り続けている火を露わにした。

彼女の聡明な眼には、既に公孫瓚勢力の敗亡が見えている。

 

その経過を一字一句正確に述べることはできないが、己の献策によって起こる事象は想像がついた。

 

(あらゆる外敵に対して鉄壁無敗を誇った要塞も、遂に内側から崩れ去る、か。眼が付いているものならば、それを予期し得ているはずだ)

 

先日送られてきた書簡には、『次に届く書簡は私の訃報が届いたら開けてくれ』というような内容が書かれていたのである。

 

(お前も、ここで死ぬか。それもいいだろう。主に殉ずるを咎めはしない。しかし、らしくはないな)

 

或いはこちらに勝ち、勝った上で降伏する気か。敗亡が決まっているにも関わらず、最後まで足掻く人種ではなかった。

 

(そうだ。そちら方がいい。無駄死にを強いることのできる男ではないし、なによりお前がこの劇場から退場すれば、この先の劇がつまらぬことになる)

 

劇場を賑わす名優には、最期の最後まで名優であるべきだという無言の期待と重責が課せられる。

その期待を裏切ってくれるな、と。

 

用兵家として夏侯淵が望むのは、勝利と死。

私人としての夏侯淵が望むのは、敗北と生。

 

(私は最初から敗けることを望んでいるとでも言うのかな)

 

公人としての己と私人としての己とが矛盾を起こしていることを面白がり、夏侯淵は自らに問うた。

敗北と死とは必ずしも同一ではない。敗北したとて死なず生き、最後の最後で逆転勝ちを収めた高祖という例もいるではないか。

 

ここで自分が敗けてやらずとも、仲珞は運次第では生きることができる。

 

(いや、戦うからには勝つべきだ)

 

そもそも、勝てると決まったわけではない。勝てるとわかりきっているわけではない。

 

(不敬も甚だしいぞ、夏侯妙才)

 

勝ちと敗けとはコインの裏表のようなもので、用兵家とはそのコインの回転数を操作して何とか表面を出そうとする人種なのだ。

勝ち敗けとは、一回の読み違いと一瞬の油断で決まる。

 

勝ちたいならば、雑念は捨てるべきなのか。或いは雑念を保持したまま戦うべきなのか。

 

少なくとも猛将と言われるに相応しい姉は前者であり、戦っている間にも用兵術以外のことを考えている李師が後者だった。

 

(人それぞれ、ということだろうな)

 

「秋蘭」

 

思考の泡を覇気がこもった鋭利な声が弾けさせ、彼女の視界が色を帯びる。

思考に耽っている時の無色のような空間から、曹操軍の最高幹部が居並ぶ軍議の場へ。視界は静かに移り変わった。

 

「はっ」

 

「貴方の案を採用するわ。一先ず全軍で押し出し、その夜の内に別働隊と本隊とで分ける。一押しして陥ちるようならばそのまま押しても良し、陥ちないならばそれでよし。野戦に引きずり込んだほうが、兵力の優位を活かしやすい。違う?」

 

無言で瞑目し、一つ頷く。

親友と戦う趣味はないが、用兵家としてはむしろ本望ではないか、と。

 

一分子も損なわれぬ友誼と畏敬に相反するように、高揚が鎌首を擡げ始めていた。

 

「桂花、説明を」

 

「はい、華琳様。易京要塞は十五本の望楼と繁栄の極みにある街二つ分を囲った城壁で武装された巨大な城郭都市として機能しています。

これは軍事的警戒の一環として道を封鎖するにとどまらず、人々の通行を保証するといったような意味を含んでいるので、経済的に無関心だというわけでもありません」

 

「寧ろ経済と軍事を両立させるが為に造られた要塞、ということか」

 

頭が弱いが馬鹿ではない夏侯惇が荀彧の発言の要旨を取る。

その立地の良さには、諸将も納得するところだった。

 

「ええ。武装については良くわからないわ。密偵や間諜の中に潜り込ませて帰ってきた者が居ないことから、かなり厳重な警戒態勢を強いていると、考えられるわ」

 

「外から見て弱点は無いのか?」

 

「私たちは北上して攻めるから南門が主戦場ということになるけど、門に向かうに連れて萎んでいくような地形の南門に比べて、西門が平坦で、一番攻め易い地形だったわ。并州道から都に出る道があるからなんでしょうけど」

 

「ならばそこを攻めればいいのではないかと思いましたが、桂花様が提案なされないのを見ると、何か難しい点でもあるのですか?」

 

夏侯惇の問いに対して返ってきた明らかに含みのある答えに対し、李家軍では先ず見ない、人種・真面目に分類される楽進が敬意を込めて丁重に問い、説明を求める。

 

この良く言えば個性豊かな曹操軍の面々においても、その貴重さは替え難いものがあった。

 

「迂回に時間が掛かるし、三人が並べる程度の道に入ったら殆ど直線。そこを守っているのは親衛隊隊長の呂布よ。三人で勝てるの?」

 

「無理ですね」

 

養父に良く似たやる気のなさ、養父に良く似たぼんやり気質、養父に良く似た突出した才能。

この三種が一芸の天才というものの人格的な骨格なのかと勘違いしてしまいそうなほどに似た人格構造を持つ二人は、敵にする分には恐ろしいの一言に尽きる。

 

誰でも起こる計算違いを指揮能力でプラスマイナスゼロにできる親に、力技で無かったことにする娘。

 

戦争というものが『如何に相手よりミスをしないか』という本質を持つ以上、この組み合わせは脅威でしかない。

何せ、滅多にしないミスを向こうがしても即座に自身の指揮でプラスマイナスゼロにされ、更には呂布がやってきて向こうのプラスにされてしまうのだから。

 

「……ねぇ、秋蘭」

 

「何だ」

 

荀彧の問いかけの猫なでっぷりに激しく嫌な予感を感じながら、夏侯淵はつとめて優しく返事をした。

 

「あの二人、引き離せない?」

「あれは離れん。何せ奴は仲珞が中華全土を敵に回そうが後ろから付いていくような懐きっぷりだからな」

 

『えー、男に?』とでも言わんばかりの微妙な顔をしている荀彧の男性蔑視癖は、これでもマシになっている。

それでもなお、戦場でスイッチできる程度には、だった。幼少からの教育・経験恐るべしである。

 

「第一、それはお前は華琳様から離れられるのか?と問うようなものだぞ」

 

「ごめんなさい。無理難題もいいところだったわ」

 

「わかれば、いい」

 

この互いの情報戦に於ける責任者の能力差によって情報不足が祟っている曹操軍がこの後何をもって情報を知ることになるか。

それは誰にもわからなかった。


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