北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
「あぁ……平和が終わる」
「もう終わっております。目と思考は現実を見ておられるのですから、さっさと愚痴をおやめなさい」
現実たる戦闘を真面目に指揮を執ることで直視していることを示し、思考もこれからの戦闘をどう運ぶか、どうケリをつけるかを考えている。
愚痴っているのは、一年ほどしか続かなかった平和を懐かしんでいた。
乱世に生きる人間や、野心に燃える人間、天下をその掌に収めようとしている人間からすれば彼の齎した怠惰で内政に注力し、軍をただ訓練をするしかは他にない様は退屈でしかないであろう。
だがしかし、彼としてはまた再び平和を齎す戦略を考えなければならなくなった。
「……次はどうやって、平和へと漕ぎ着けたものかなぁ」
「逆らう敵を一人残らず潰しておしまいなさい。対抗できる人材を取り込むか、殺すか。そうすれば貴方が斃れるまでは平和は維持されるでしょう。貴方の生きている間は平和です。実務は誰かにお任せになり、歴史研究なりなんなりすればよろしいでしょう」
平和を求めているのに、人を殺さねばならない。
趙雲はこの世の中の矛盾を矛盾のままに取り込んでいる。
その上で李師の中の矛盾を鋭く刺突し、彼女は不敵に笑いながら三叉の槍を大地に刺した。
彼に仕えると決めるまで二又だった槍を何故三叉に変えたのかは、誰にも語られていない。
本人が無意味にそういうことをする質ではないことを考えれば、何かしらの理由があるのだろう。
しかし、彼女はそれを全くと言っていいほど話さなかった。
「はぁ……」
「何ですか。人の顔を見て、態々顔を逸らしてから溜息をついて」
心の底から嘆息したとばかりの彼のため息を聴き、趙雲は軽く首を傾げて悪戯っぽく笑う。
実際に実行されれば越したことはないが、こうしたやり取りを楽しむこともできるのが趙雲という人間の味だった。
「君が言うことはまったく正しい。いや、過激だが本質的には正しいさ。だが、私にはできない。悪いね」
「よくおっしゃることで」
『悪いね』までは本音だが、『悪いね』からは冗談の茶目っ気の色が見える。
趙雲は地面に突き刺した槍を引き抜き、肩に担ぎながらふわりと一度あくびをした。
「それにしても、今回の用兵はあなたらしくはありませんな」
「誰らしく見える?」
「さぁーて、近いところで言えば張文遠の輪風陣が近い。ですが、あくまでも防御である以上、攻めの用兵と必ずしも同一視はできませんな」
彼のとっていた陣形は、鶴翼。それは既に両翼が押し返され、中央部を底に緩やかにカーブを描く横陣形へと無理矢理変化させられている。
正面には重歩兵と弩兵で防御陣を三重に作り、内部は重騎兵と軽騎兵が忙しなく、しかし一定の律動と規律を守って行動していた。
「田国譲。敵は横に十五、縦に二の地点に攻撃を集中させている。先ほど開いた横二十三地点の補填が終わり次第、敵を迎えてやってくれ」
「了解しました」
先程敵に突破された地点を重騎兵が駆け、敵部隊を三方向から攻撃して殲滅。
空いた隙間に右方向から来ていた重歩兵が入り、弩兵が再びその後ろにつく。
「よし、今だ」
一点が塞がれた瞬間、新たに敵の攻撃ポイントとして定められた場所の重歩兵が右斜めに崩れた。
その先には第二陣があり、その防御線は薄弱である。自分たちが李師を討ち、恩賞に預かろうとする欲が彼等を猛進させていた。
その部隊に待機していた樊稠隊が左側面から右へ突き抜け、第二陣の重歩兵が前方から有機的に結合されているが如く極めて密接に連動し、瞬く間に突入した部隊を葬り、第一陣の防御線前まで押し戻す。
続いて突入しようとした部隊はその光景に怯むが、後方に押されては止まることができる訳もなく、敢え無く二方向からの殺し間に吸い込まれては敗れた。
「こちらが敗けている、か」
「傍から見れば勝ちですが、本質的にはそうでしょうな」
なんども陣を突き崩され、その度に罠を仕掛けてこれを討つ。
その後に勇戦してこれを支える。
これだけ見れば、敗軍一歩手前の状況とは見えなかった。
「劣勢にあるのは確固とした事実だ。これもまだ完成ではないし、何よりも誤差が大きくなってきている」
彼の目算と部隊の破壊力が釣り合わず、一回行う度に微量の誤差が生じている。
その誤差を埋める為に、更に誤差が生じ―――といったように、本来対夏侯淵として、つまるところは大軍対大軍の戦法として生み出されたこの防御法は、この五千という寡兵では運用するに無理があった。
「妙才の戦略的な機動を防御に転用したのが悪かったのか、急ごしらえの横陣で戦ったのが悪かったのか」
「というよりは、樊稠隊の破壊力が足りず、小勢で運用するには向かないのでしょう。主の愛娘や華雄ならば―――っと」
ここで真面目に検討していた趙雲も、おかしなところに気づく。
テストもしていない新戦術をあたかも勝てると思って使用したかのようなところ。
悔恨の言葉を話すときの、表情と声色。
あまりに呆気ない、敗けに対する諦めの良さ。
「……主。主はこの戦法を取れば、元から徐々に不利になることを知っておられた。違いますかな?」
「敵が有能でいてくれてよかったよ」
味方をも欺く罠を、彼はあっさりと敷いていた。
「どれくらいで追いつかれるかを調整する為に、田国譲の力も借りた。軽騎兵が来ると思っていた。分割し、連撃でくることもわかっていた。
何せ、私の首に釣られた敵だ。騎兵を全騎投入するよりも、脚を止めて決戦に引きずり込み、トドメは自分で刺したいと思うだろう。そこを僭越ながら利用させていただいたというわけさ」
夏侯淵は散発的に、しかも戦力の集中を行わずに自分と戦おうとはしないだろう。
五千の兵で以って李師が高陽に居るとわかり、首を挙げたいと思えば七万近い全軍を率いてくるはずだった。
このことから彼はこの戦いが仕組まれ、意図されたものではなく遭遇戦だと理解し、遭遇戦で自分の首に釣られた敵の性格を追撃されている間洞察し、その用兵からも読み取り、掴む。
「敵は己の能力に比した自信を持つ、地位と栄達を求める型の野心家だ。己の立場を強化するために己の働きを際立たせようとようと、利に合わせながらも可能な限り目立つ用兵をしていたからね。更には、功を焦っている。これは理由は定かではないが、おそらくは妙才という有能極まりない用兵家の才を見たからだろう。兵の動かし方に彼女の風韻があるし、攻防において柔軟だ。
だからこそ、私を殺して妙才よりも派手で、確固とした戦功を立てようとしている」
「相変わらずの洞察眼で。ということは、敵の力量を測り終えられたのですかな?」
「ああ。敵は圧すことができるが圧し切れはしない。だから、圧してくれればそれでいいこの防御陣を選んだ」
五稜星の形に加工された金を側面に付けた黒い帽子を頭から外し、団扇のようにして首元を扇いだ。
久しぶりの用兵とあって、彼もどうやら緊張していたらしい。
変に人間味のある男だと、側で見ていた趙雲は面白げに微かに笑う。
そちらを好奇心と呆れを半々に含んだ眼差しで見て、李師は帽子を頭の上に戻した。
「圧してくれなければ、勝てたとしても被害が増える。変な言い方だが、有能な敵に圧された挙句に潔く負けた方がだらだらと戦って勝つより損害は少なくて済むのさ」
「それには、指揮官が撤退戦に耐えうるなら、という前提が必要でしょう?」
「それはそうだ」
肩を竦め、趙雲は肩に担いだ槍を片手に持ったまま馬に跨る。
「背後は安んじてお任せあれ」
「いつもいつも、悪いね」
「評価されていると解釈しておきましょう」
徐々に不利になり、李師はそれを察知して崩れる前に殿部隊を残して退く。一見すれば『有利なのに退いた』となるが、有能な敵将ならばこちらの表面上の意図に気づくはずだった。
こちらはなにせ、徐々に不利になってきているのだから。
「それにしても、主も人が悪い。人を騙す怪しげな術でも知っていらっしゃるので?」
「己の能力に自信を持つ人間を騙すには、自分の目論見が巧くいったと錯覚させること。その上で、相手の目論見を超えない程度の一手を打つこと。そして、功名心に燃える敵を騙すには極上の餌を背伸びすれば届く程度のところに設置すること、さ。要は望む時に望む物を用意して、誘引すればいい。心理学の問題だね」
趙雲が殿部隊の指揮を執り、李師が逃げる。
これは鍾会にとっては充分あると考えていたことであり、敵が優秀なればこそそう来るであろうと思っていたことだった。
「鍾将軍、何故敵は退いたのでしょうか?
敵は吾々の攻撃を撥ね返し続けていたではありませんか」
「敵もどうやら気づいた。徐々に不利になってきていることに、な」
「と、言いますと?」
「こちらが両翼に圧迫を加えて鶴翼から横陣への変更を強いた。そのことによって敵の防御線は徹底を欠いたのだ。最初から横陣をとっていれば、まだ持ち堪えられたのだろうかな」
それにしても見事な指揮ぶりだと、鍾会は内心で慨嘆する。
機動防御、とでも言うのか。一列として構成した防御線の内部に機動部隊とでも言うべき騎兵隊を置き、少数の兵力でも持ち堪えられるように工夫がされていた。
「敵は退いた。追撃をして一息に揉み潰し、不敗の魔術師殿に最初で最後の敗北を味わわせてやろうではないか!」
士気の上がった部隊を巧みに動かし、趙雲率いる殿部隊を撃ち減らしていく鍾会に、遂に趙雲も戦線を崩して敗走する。
ただし、その勇戦は七刻(三時間半)に及び、その堅牢さと風に揺れる柳葉のような受け流しの巧さには鍾会も舌を巻いた。
だがその必死さこそが、退いていく総大将を逃がそうとする何よりの証左に見えたのである。
「敵の逃げ脚は正に疾風、か。夏侯都督とは正反対だな」
軽騎兵だけに、逃げ脚が速い。
そして重歩兵を率いていながら、李師も異常なまでに逃げ脚が速い。
その速さは夏侯都督こと夏侯淵に比肩するが、進撃と退却というベクトルの違いが彼女等の笑いの種となっていた。
「李瓔の智略の泉も、この平和で涸れたと見える。ここは一気に追撃だ!」
「はっ!」
李師は逃げる。逃げて逃げて逃げまくった。
それを鍾会は、半日掛けて追い続ける。大軍であることが、その追い脚を却って遅くしてしまっていたのである。
「敵、捕捉!」
完全に釣られ、目前の功名に目が眩んでいるように見える鍾会だが、彼女はこれでも鄚より南方四十里までがギリギリの追撃ラインだと判断していた。
そこまで行けば、確実に敵の逃走成功してしまう。だからこそ、その直前で捕捉したことを喜んだ。
「よし、弩兵―――」
嬉々として命令を下そうとした、その瞬間。
その地点は、鄚より南方五十二里に達していた。
「李仲珞様をお救いするのだ。全隊突撃!」
「敗軍たる吾等を受け入れてくれた恩、返すは今ぞ!」
張郃が右から、淳于瓊が左から鍾会軍一万の横腹を突き、何故か現れた華雄が敗走から反転攻勢をかけようとしていた中央部を掩護する。
何故、伏兵として配置された張郃と淳于瓊に加えて華雄までもが居るのか。
それには、単純な事情があった。
そもそもこの両者を伏兵として李師が選抜したのは、亡命してきた彼女等の発言権を増させる為という理由の他にも『機動力的に鄚からしか掩護を頼むことはできない』という距離の問題があった。
戦略上、或いは戦術上は大した距離ではないが、一刻も速く来てもらいたい以上はそうする他なかったのである。
華雄は、張郃と共同訓練の為に鄚に来ていた。そして、当然のように張郃に着いてきた。
「李師様、ご無事で」
「いや、何故君が此処に居るんだい?」
「細かいことは気になさらぬよう。私もものの役には立つと思いますが」
ならば、と。
疲労の溜まっていた趙雲隊がそのまま鄚に逃げ去り、代わって華雄隊が李師の直衛を務めることとなる。
伏兵が現れた時点での兵力差は鍾会隊一万対李家軍一万八千。
趙雲隊が退いた時点での兵力差は、鍾会隊九千対李家軍一万五千。
兵力差は、逆転した。