北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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易京の戦い・前哨戦(壱)

曹操軍対李家軍。

明らかに勢力同士の対決構造としておかしいが、不思議と違和感のない両軍の戦いは互いに互いを得難き友と思う二人が同時に発した、この言葉によってはじまった。

 

「子龍」

 

「士季」

 

同じ時間、別の場所。

互いに属将の字を呼び、両者は僅かに違う言葉を発する。

 

「君の兵の練度を見せてくれ」

 

「貴官の兵の練度を確かめてこい」

 

これに対して二人の指揮官はどこでその調練をやるかを上司に問い、二人の指揮官は異口同音にこう答えた。

高陽だ、と。

 

 

夏侯淵はこの時期鄴を離れ、武遂に令下の八割の軍を集結させて豪族を威圧し、河間郡南部への調略によって袁紹に味方していた豪族を寝返らせることで最前線を鄚に固定。

 

親友との争覇戦という、想像しただけで気が沸き立つような戦を前に、彼女は己の持つ全知と全能を傾けて軍の編成と情報収集、訓練に勤しんでいたのである。

政務も担当しているが故に基本的に篭もりきりにならざるを得ない夏侯淵に代わり、専ら鍾会が訓練の任にあたっていた。

 

李師は軍事関係しかやることがなく、張郃の望みを叶えるべく公孫瓚に許可を得て客将待遇から正式に部下とし、ついでに袁紹軍残党の意思統一を任せた為、実質的には無役となっている。

 

最も忙しかったのは、淳于瓊らが手土産代わりに持ってきた物資の数々を惜しみなく投入して内政に勤しむ文官とその統括たる賈駆であった。

 

他の軍事担当者も地図を作ったり辺りの地形に慣れさせたり、ただ走らされたりという様々な方法で兵士を鍛え上げ、『一斗の汗が十斛の流血を防ぐ』とばかりにただひたすら訓練に訓練を繰り返させ、自分も参加していたりしている。

次の戦争の為のモラトリアムである平和を、流血を少しでも防ぐ為に使わなければならないということの虚しさは、当人達がまったく気づいていないことだった。

 

こうして李師は馬車に、趙雲は白馬に、鍾会は黒馬にのって高陽へ赴く。

李師が高陽に着いたのは四月七日、鍾会が高陽に着くのは四月九日。

 

武遂から高陽への距離と易京から高陽への距離は同等である。

同等の距離を進みながらも二日の差が出たのは、田予の地形把握と李師の指揮の卓抜さが大きかった。

『三日で五百里、六日で千里』と謳われた夏侯淵の疾風怒濤の進撃に勝るとも劣らない程度には、彼も行軍速度に気を遣っていたのである。

 

そして高陽とは、遮蔽物のない真っ平らな高原であり、練兵をするに相応しい良い地形だった。

互いの勢力圏がここらへんを境に曖昧なのを利用し、両軍とも大軍の進退が自在なここで練兵を行おうとしていたのである。

 

「……目の前に敵軍が居る、だと?」

 

「はっ。旗は李と趙。三色の地に五稜星の牙門旗があることから、敵将李瓔直々に訓練の督励をしているのだと思われます」

 

鍾会は遅れた結果、先手を得る機会を得た。

そう言うとおかしな話ではあるが、事実として彼女は偶然とは言えども後の先を得たのである。

 

(……仕掛けるか)

 

普通、仕掛けない。だが、敵は奇略縦横の不敗の名将。それに何よりも、これについては夏侯淵の命令が下されていた。

 

『観津は領土の境。李家軍と出会すこともあるかもしれないが、向こうはこちらから手を出さない限りは手を出してこない。挨拶の使者でもやってやり過ごすことだ』

 

現に、国境線代わりの柵の修理に来ていた夏侯淵率いる四百と視察に来ていた李師隊五百が出くわした時、将がのこのこ出てきて互いに会釈し、世間話をして何事もなかったかのように去るといったような珍事も起こっている。

 

最前線では、このような遭遇戦未満はよくあることだった。

 

(だが吾等は一万二千、敵は五千。全体としては吾等七万、敵は三万三千から五千。戦力差的にも今は寧ろここで仕掛け、数の優位で以って押し切り、李瓔の首を挙げるべきではないか)

 

鍾会は俊英を謳われた齢十九の将である。攻防ともに巧妙果敢な指揮ぶりを見せ、全体的には夏侯淵の下位互換と言っても良い優れた能力を持っていた。

 

特に梁期の戦いでは張郃に翻弄されてまんまと逃げられてしまった同格の夏侯覇に比べて、彼女は敵一翼の将である沮授を討ち取っている。

 

だが、彼女には悩みがあった。それは出世の困難さについてのものであり、己の野望についてのものである。

彼女は将として、武官としてより高みに昇りたい。それには夏侯淵と言う能力・貫禄・信頼・功績の四点において己を凌駕するいささか以上に大きな壁が有り、それを越すには尋常一様な功を立てているだけでは無理だと言わざるを得なかった。

 

だが、名将の誉れ高き李瓔を討ち取れば、どうだ。公孫瓚勢力が攻め込まれなかったのはあの男が易京という天険により、その実績と名声とで敵を恐れさせ、味方を纏めていたからではないか。

 

(彼亡き易京を陥とすことは容易い。戦争の帰趨を決めるのは装備でも要害でもなく、将の質なのだから)

 

この思考をした彼女は、伊達に俊英と言われてはいなかったろう。

幽州の豪族たちがそう考えているように、易京さえあれば敵を跳ね返せると考えている者がこの世には多い。

 

だが、彼女は戦の帰趨を決める条件として否定される項目に、自身が優位に立っている原因である『数』をいれるべきだった。

敵との兵力差というものは戦略的優勢に立つためには必要不可欠なものだが、戦術的には却って敗北の要因ともなりかねない。

 

自身の優位を信じるような気持ちが強いことが、この一事を彼女の視界から失せさせている。

 

(たとえ陥とせずとも、何らかな手段を講じて戦略的に無価値な物にしてしまえばいい。だが、易京とは違い、李瓔という男は動く。ここで始末しておいた方が、いいのではない か。いや、その方がいい)

 

北郷一刀が居たら、止めた。『兵力差が戦力の決定的差ではないことを教えてくれるような奴に、たかが兵力で勝っているだけで仕掛けない方がいい』、と。

 

夏侯淵が居たら、止めた。『不意討ちをするのは結構だが、失敗した時に惨めだぞ』と、戦術的見地と戦略的見地を敢えて排した、であるからこそ伝わりやすい方法で。

 

だが、両者は居ない。だから、鍾会は仕掛けた。

 

「全隊、訓練中止。敵要塞司令官、李瓔を討つ」

 

「鍾将軍、夏侯都督の命を無視なされるのですか?」

 

「将、軍に在っては、君令も受けざる所有りと言う。その場に合わせて臨機応変に対処してこその将だ」

 

一応納得して引き下がった副官に全隊に敵と戦うことを伝えさせ、半刻の後に鍾会は素早く前進を開始する。

だが、この時既に彼女の敵となる李師は敵の来襲を察知していた。

 

特にタネがあるわけではない。単純に、周泰の隠密が報告したのである。

 

「……仕掛けてくるかぁ」

 

「どうなさいますかな?」

 

「戦略も何もない、ただの戦術同士を戦わせるような戦はやりたくないな。第一、こちらの戦力は有限なんだ」

 

彼は戦術で何倍もの大軍を破ってきたが、別に好きでそうしてきたわけではない。

初めて指揮を執った時からそうしなければ勝てなかった。だから、そうせざるを得なかった。

 

戦略家としての彼は、ごく正当かつ真っ当な考えを持っている。

愛娘にまで『嬰は邪道の極みだから、強い』と言われてしまう戦術で戦略を覆す邪道っぷりは、色々と過酷な条件のもとに辛うじて成立する勝利を引っ張り込むか細い糸を掴む為に過ぎなかった。

 

「よし、逃げよう」

 

「一戦もせずに逃げられるので?」

 

「そう。逃げる。必要のない戦いは、避けるのが賢明だ」

 

彼からすれば、これは無意味極まりない戦いだった。

そもそも、ここで一万二千を葬ってもどうにもならない。勝てるには勝てるが、被害はおそらく千から五百を彷徨う。

彼が野戦を行うのは、それを強いられた時と強いられたことを利用して敵の戦略や攻勢を瓦解させる時だけだった。

 

「……だが、手は打っておこう。鄚の張将軍と淳于校尉に連絡。鄚より南方五十二里の森林部にそれぞれ五千ずつの兵を率いて伏せ、私の到着を待つように、と」

 

「万が一でそれほどの備えを為さりますか?」

 

「仕掛けられた以上は、退いてもらわなければならない。察知してくれれば万々歳、察知してくれなければ少し痛い目にあってもらわなければ、ね」

 

こうして、荷物を纏めて乗せた輜重隊を先頭にして李師率いる五千の軍は素晴らしく迅速な判断のもとに逃げることを選択する。

 

舞い上がる砂塵に逃げられたことを悟った鍾会は、まともに抗されるよりは追撃戦の方がやりやすいと判断してあっさりと追撃に踏み切った。

 

こうなると、もはや戦は追いかけっこのような様相を呈してくる。

 

一日経っても追いつけない逃げ足の速さに辟易しながらも、鍾会は二日目で敵を捕捉した。

 

「軽騎兵千を出して敵の背後を討ち、その脚を止めよ!」

 

「軽騎兵二千で迎撃。蹴散らしてしまって構わない」

 

連続で仕掛けて脚を止めてやろうと判断したが為に却って少数で仕掛けねばならなくなった鍾会に対して、李師はその二倍の兵力で迎撃を行わせる。

 

迎撃側の指揮官は三叉槍を縦横に振るう曲者、撤退戦の名手である趙雲。

 

「李師様、敵軽騎兵が退いていきます!」

 

「軽騎兵を最後尾につけてくれ、追撃は無用」

 

李師は思わず溜息をついた。

敵の指揮官には、大局観がある。おそらくは僅かな兵力で幾度も襲撃を仕掛け、疲労と消耗を誘っておいて追いつく頃には必勝とする。

 

戦いは長期間続くよりも、終わり始まりが繰り返されることの方が疲労を誘う。

 

「敵も有能だな、まったく」

 

「また来ます!」

 

案の定というか、恐らくは先ほどとは別の軽騎兵部隊が仕掛けてきた。

予想ができても逃げるより他にない。逃げて逃げて逃げ続けて、油断を誘って叩く。

 

最終的に勝っていさえすれば、中途で一本取られようが取り返せるのだ。

 

逃げ始めてから一日、追いつかれてから三刻。

そろそろ、件の地点が朧気ながら見えてくるころであろう。

 

「よし、軽騎兵隊を撃退したら反転。敵全軍を迎え撃つ」

 

幸いにも、まだ距離にはそこそこの余裕がある。

向こうも走る勢いのまま、無策無謀に突っ込んでくることはしない性格をしていると、李師はこの追いかけっこのような戦いの中で掴んでいた。

 

整然と陣を整える敵の前で己も陣の解れを直し、両翼に千ずつ配置して鶴翼の陣形を取る。

 

色々と因縁のつくことになる二人の、最初の対決が始まろうとしていた。


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