北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
張郃たちは、一路易京を目指して駒を進めていた。
四千の兵の先導をする彼女の道選びは的確で、しかも迅速である。
この冀州上四郡が元は袁紹の領土であることが、彼女等にとって大きなプラスに働いていた。
要は、全ての土地に地元民レベルかそれ以上の土地勘を持つ田予ほどではないにせよ、土地勘がある。
行く先々で民の自発的な施しを受けながら、敗軍は粛々と易京を目指して進んでいた。
「ここの民は皆笑顔ですね、儁乂様」
「兵役がなく、税も安い。両者共に戦をしていないからこそだろうが、漢にはなし得なかったことだ。統治者の腕がいいのだろうな」
最初は警戒されたものの、李瓔に仕えるべく易京を目指していることを話せばどこの邑でも饗応を施してくれたのである。
「士卒の心を捉えるもの、よく民の心も捉える、か……不敗である軍事指導者は、また善き政治指導者になりうるのかもしれませんね」
一度だけ志願兵の募集があったものの、兵として受け入れられたのは十分の一にも満たぬ千人。
他の領土が、例えば袁紹が村々から徴兵して戦っていたのとはえらい違いであった。
更にはその軍の少なさを民が危惧していないことが、高覧には意外だったのである。
「儁乂様、何かお悩みのようですが……」
「いや、吾ながら浅はかなものだと思ってな」
「失礼ながら、袁本初様は吾々を見捨てて冀州から逃げ去りました。儁乂様は最後まで忠義を尽くしたと、小官は思いますが」
軽く首を横に振り、張郃は睡たげな眼を僅かに開けた。
彼女は戦歴は十二からはじまり、二十四まで続いている。
高覧は十六からはじまり、二年しか経っていなかった。
「袁本初様には話していなかったが、私は雁門と易京で李仲珞様と共に戦ったことがある。あの頃には老将軍と段将軍と皇甫参軍が居て、更にそこに李仲珞様が居られた。私は一兵卒に過ぎなかったが、その私ですらこの方たちの元ならば敗けないと、死が無駄にはならんと確信したものだ」
「涼州三明と、李仲珞様が共闘されたのは噂に聴いております。雁門というのは……」
「北方進行作戦に繋がる、雁門の撤退戦でな。吾々は指揮官が逃げたこともあって、その場の最高責任者であった主簿の李仲珞殿を戴いて戦うことになった。風采の上がらない、それどころか馬にも乗れない文官の如き風体をした李仲珞殿を笑い、吾が身の不運を呪った。不慣れな指揮官を戴いて戦うことほど、兵の命が容易く刈り取られることもない」
しかし、雁門の一般人は一人の犠牲者も出さず、それどころか彼に任された千人のうち一人とかけることなくやり遂げたのである。
逃げ出した指揮官を囮にして、如何にも何かあるようにして整然と退く。
彼が親に『戦場を見てこい』と強制された先の職場で、いつもどおりの成り行きで指揮を執ることになった最初の戦だった。
「だが、李仲珞殿は指揮下に容れた人間を一人も殺すことなく撤退戦を成功させ、辺境に配置された全兵力の七割が屍となった北方侵攻作戦でも、あの方の部所だけは勝った。最後に殿を務めなければ、損害は二割を越すことはなかったろう」
「それほどの、用兵巧者だったのですか?」
「ああ。だからこそ、最古参の吾々からすれば易京で数十万の敵を迎え撃った時も全く敗ける気がしなかった。現に、十倍の戦力差をもってしても李仲珞殿から『不敗』の二つ名は奪えなかったのだから、その判断は正しいということになる、が」
その後、道は別れる。
李師は宦官に嵌められて獄中に叩き込まれた末に隠居し、張郃は袁紹に仕えた。
「袁本初様が謀略に手を染めた時に。出兵時ではなく、あの時に私がお止めすればこうはならなかったのではないかとも、思う」
張郃には、二つの柱の如き誓いがある。
国軍とは国を守る為にあり、国とは民だ、ということ。
そして、武官は政治に口を出すべきではない、ということ。
これら二つは李師と呼ばれる前の李瓔の姿勢から学んだことだが、彼女はこうも思う。
謀略に染めた手は、いずれは自らを貫くのだ、と。
そして臣はそれを無理矢理にでも押し止めなければならないのではないか、と。
「今更ながら知り得た臣の本道を守ることをしなかった私が新たな主を得ようとしている。これを浅ましいと、私は思う」
「ですが、それは……」
高覧の弁護を軽く手で制し、張郃は背を凭れかけていた壁面を押すようにして空を見た。
「こうして、一つずつ罪とあやまちを積み重ねていくのが、指揮官というものなのだろう」
ゆっくりと立ち上がり、張郃は前を見つめる。
易京要塞が、見えていた。
一方その頃易京では。
「豪族というのは何故人の命よりも自分の権益を優先させるんだ?」
「それは豚に何故お前は豚なのか?と問う程度には無益で、無意味なことでしょう」
平行を行っていた論戦に爆薬と火と油とを突っ込み、ご丁寧に起爆させた完全放火性能を持つ趙雲は、あくまで人を喰ったようなスタンスを崩さずに問いに答える。
趙雲は、今日も今日とて通常運行だった。
「と言うよりも、君の言いぶりも良くない。少しは敬意を払ったらどうだ」
恐ろしい程の『お前が言うな』を、李師は趙雲に投擲する。
彼も単経に敬意などは持てそうもないし、顔も見たくない。見てしまったら道を変えるか、顔を逸らしてやり過ごすであろう。
嫌いなものはとことん嫌い、別に理解を求めようとしない彼の気性は、ほとほとああ言う手合いと相性が悪かった。
「失礼ながら、私は敬意とはそれに値するだけの人物にのみ払われるものだと思っておりましてな。小官の意見は、間違っておりましょうか?」
「単経の真似をするな。仕事をしたくなくなるし、気分が悪くなるじゃないか」
内容・語気・形式・声色をすべて揃えた後半部分の台詞を聴くに連れて表情を歪めながら、李師はひらひらと手を振る。
今まではどうでもいいだけだったが、『兵の命よりも己の権益が大事』と公言したあたりでその無関心は明確な嫌悪に変わっていた。
「後者はともかく、前者は元々でしょうに」
「私は最低限の仕事はこなしているさ。それすらしたくなくなると言っているんだ」
「おお、温厚柔和、政戦両略に一流の腕を併せ持つ御方が申したとは思えぬほどの酷き言い草。この趙子龍、噂と実物の落差に思わず落涙を禁じませぬ」
「よく言うよ、本当に」
話していても見ていても飽きないともっぱらの噂である皮肉と愚痴の応酬を終え、二人は同時に黙りこくる。
聴こえる足音は、災いの証。
「おさらば」
「待とうか」
窓から飛び降りようとした趙雲を逃がすものかと掴んだ瞬間、ばたりと執務室の扉が開いた。
「予算案のことなんだけど、募兵による増員は後回しで良い?」
初手経費削減を提言したのは、賈駆。字は文和。真名は詠。この冀州四郡の影の大元締めというべき辣腕なる官吏である。
「袁紹が滅びて冀州・青州・兗州を曹操が手に入れた今、増員しないと侵攻に耐えられないということを鑑みて増員が決定したと、私は聴いた覚えがあるんだが……」
「アテがないわけではないし、それに―――」
ジロリと底冷えのする視線で睨め回され、趙雲と李師は背にはしる冷気を身体を震わせた。
何か怒られる気がすると、この二人の本能は悟っていたのである。
「―――あんた等がやらかしたから、配慮がより必要になったのよ!
予算はまあ、減らされなかったからいいけど」
「だが、私としては兵の命よりも己の権益を拡大するというような言い草は許すわけにはいかなかった。ここは譲れない」
「言い方ってもんがあるでしょうが!」
後から見れば至極ごもっともな意見を言いながら、賈駆は思った。
自分もその場に居たら、似たようなことを言っているだろう。程度の差と彼の持つ生来の、嫌いなものに対する毒舌ぶりが更にその『似たようなこと』に辛辣さを加えたとはいえ。
「そうですな。豪族連中も悪いが、李師殿もお悪い」
「あんたもよ!」
「おぉ、心外な」
所詮後知恵に過ぎないと言っても、こうやって自重やら何やらと組織力学を駆使した保身を学ばせなければ大過を招く。
この予算が減らなかったのだって、公孫瓚が骨を折ってくれた結果であろうし。
「あのね。私達……まあ仮に李家軍とでもするけど、李家軍は異色なのよ」
「異色?」
「幽州の豪族から見たら、宿敵の異民族と信用ならない他国人と馬の骨でしかない亡命者の連合体でしょう?」
そもそも李家軍と称せる辺りに異色さが滲み出ていた。
更には称せて違和感がないあたり、割りと救いようがない感じに。
夏侯淵も彼以上の権限と軍を持った上で上四郡を抜いた冀州に駐屯し、政治と戦争を独自に判断して行っている。
しかし、それはあくまでも曹操軍の一将帥としてしか見られない。
「それは夏侯淵が主と同郷とか一門で周りを固め、身内とかを曹操のもとに残しているから。だからそういう目ではあまり見られないの」
「私は無責任に、己の権益を拡大する為に兵を殺す彼女等よりも亡命者とか、他国人とか、異民族とかの方が信頼できるんだけどね」
彼の親は死に、姉や妹は揃いも揃って曹操陣営についていた。
身内は敵、周りは異物、そして有能。
疑われるすべての要素を兼ね備えながら、彼は今までただ実績のみでその忠誠を示してきている。
「もうこの疑いはどうしようもないからいいわ。だけど、せめて不干渉でいて」
「私だってできれば関わり合いになりたくはない。向こうが突っかかってきたり、無用無益な出兵案を出すからこうなるのさ。一応言っておくが、私は最初は彼女等に悪意も好意もなかったんだ。あくまでこの間隙の端緒は向こうにある。
そもそも何だ、近頃の豪族なんていうのは、無駄に誇り高いだけで兵のことなんかちっとも考えてない奴等じゃないか」
「申し上げます!張郃と言う方が、亡命を申し込まれておりますが……どうなさいますか?」
張郃。
豪族に対する怒りが消え、李師の頭にあったのはどこかで聴いたような名前だった。
「華雄」
「ハッ、なんでしょうか!」
お前どこから来たと言わんばかりの複数の視線に貫かれながら、華雄は僅直に姿勢を正して李師の前に跪く。
戦がないと実質兵の訓練しかやることがない彼女は、無軌道且つ無規則に要塞内の見張りと警邏をやっていた。
偶然、呼ばれた時に近くに居たのである。
「張郃って、どこかで聴いたことがあるんだが、君は知ってるかい?」
「主公が最初に率いられた千人隊に私と同じくらい所属していた同僚です。儁乂がどうかなさいましたか?」