北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
「なあ、北郷」
「なんだ、春蘭?」
天の御遣いと、夏侯惇。
扉の隙間から眼だけを覗かせている二人の視線の先には、全体的に青い女性が酒を回しながら一人で飲んでいる姿があった。
背中を向けているから表情は分からないが、雰囲気的に溌剌さに欠けていることだけは確かであろう。
「秋蘭はどうしたんだ?」
「春蘭にわからないことが俺にわかるわけないだろ……」
「……だろうな」
いつもならば取り敢えず殴りかかってきそうな返答を敢えて選んでみても、夏侯惇の反応は鈍い。
それほど妹が心配なのかと考えれば、麗しい姉妹愛だと言えた。
傍から見れば、違和感しか感じない反応ではあったのであるが。
「それか」
「それか?」
「俺達には見えないものが見えてる、とか?」
何言ってんだ。馬鹿かこいつ。
露骨にそのような色が浮かんだ夏侯惇の眼を見て心の中で『お前が言うな』と感じつつ、北郷一刀は口を開いた。
「だって向かい側に杯があるだろ?」
「変なことを言うな、北郷!」
あくまで静かに、されど怒鳴る。
割りと難易度の高い行為を達成した夏侯惇は、少し納得しかけた己の心を戒めた。
亡霊かなんかと飲むほど、吾が妹は飲み相手に苦労しているわけではないと、思う。
再編と酸棗諸侯が抜けた後の兗州の不服従を示す豪族を踏みつぶし、中央集権化に邁進する主は置いておいても、まず、自分。
あと、典韋。夏侯衡も夏侯覇も夏侯称も夏侯威も、と。
ぞろぞろ挙げてみた辺りで、夏侯惇は気づいた。
「なあ、北郷」
「何?」
「お前、秋蘭が同僚と飲んでるところを見たことがあるか?」
「ない」
主、姉、部下。
挙げた中にいるのはこれだけで、同僚が居ない。いや、妹自身が望んでいるのならば姉の夏侯惇としてはいいのだが。
「……あのさ、俺なりに妙才さんを評するなら」
「人の妹を勝手に評すな!」
「あ、はい」
極めて真っ当に見えるお叱りをいただき、北郷一刀は黙る。
よく考えてみたら少しおかしいのだが、夏侯惇の言葉には謎の説得力があった。
「で、なんだ?」
「はぁ?」
「評を聴いてやろうというのだ。わからんか」
いつもの如き理不尽を軽く受け流しつつ、北郷一刀は一先ず夏侯惇を引っ張って廊下の角を曲がる。
距離をとってから、彼は『あくまでも私見だけど』という念を押してから喋り出した。
「社交性はあるけど、一線を引いてるのかなー、と思って」
「つまり?」
「知り合い以上友達未満を量産できるけど、一緒に飲むほどの友達を積極的に作ろうとしない、みたいな」
彼のこの評はあっている。実際夏侯淵は諸将や同僚に対抗意識と嫉妬心を燃やしている荀彧とも、ぽんやりとした独特の雰囲気を持つ程昱とも、残念な感じするが優秀で真面目な郭嘉とも、仲は悪くない。
しかし、良くもないのだ。
すなわち、社交性に富むが選り好みが激しい。
「あいつは少し、本音を出さないところがあるからな」
「春蘭とは真反対なんだな」
無言の鉄拳を喰らい、北郷一刀はうずくまる。
痛いことには痛いが、妹と同じく―――と言うよりはより深く沈んでいた夏侯惇がいつもの調子を取り戻したのは嬉しかった。
繰り返すが、痛いことには痛い。しかし、こうでなくては夏侯惇ではない気がする。
そんな微妙な感情と純粋な好意が、彼の身を捧げての元気づけを生んでいた。
「どうしたものかな」
珍しく悩むような春蘭を元気づけるべく、そして将来の決裂という悲劇を避けるべく、北郷一刀は念を押すようにそっと諭す。
彼は確かに夏侯淵を警戒していた。というよりも、今もしている。
歴史が歴史のままに動くとは限らないことは彼とてわかっているが、知っているということが彼の眼にフィルターをかけていた。
攻守、文武に優れた名将。彼女が配下である以上はその評価が正しければ正しいほど、彼女が強ければ強いほど、彼が愛する主にとっていい結果を産むはずである。
だが、夏侯淵は結局のところ名将として生まれ、忠臣として生き、謀叛人として生を終えた。
この歴史ではどうかわからないが、彼女は『覇王の部下に一人王の器あり』と評された通りに目的も不明瞭なままに謀叛を起こす。
その後侵攻してきた魏の討伐軍の前衛部隊を打ち破り、返す刀で侵攻してきた蜀軍を撃破。一将を自ら討ったところに流れ矢を左鎖骨の下に受けて致命傷を負い、漢中に帰還してその生涯の幕を閉じる。
その解釈は様々だが、悲劇的な、と、彼は思った。
しかし、口には出さない。夏侯淵の気性は掴みかねているものの、『貴方の生涯は悲劇ですね』と言われて唯々諾々としているほど誇りのない人物には見えなかったのである。
とは思いつつも幾度か言おうとした彼だが、李師がこれを聴いたならばやはり止めたに違いなかった。
彼女の気性からして、巻き込まれて強いられたことですら『己の決めたことだ』と強弁するであろう。
自分の生涯を川に流れる木の葉ではなく、それに追従する水でもなく、流れを作って逆に操ってやりたいと思うような高い矜持を持つ人間になりたいと思っていることを、李師は勘づいていた。というより、それらしいことを喋られていた。
あとはお得意の想像と心理洞察による補填である。
「話し合ってみた方がいい。何かあるにつけ、キチンと話を聴いた方が、絶対にいいよ」
ともあれ彼は、なるべく決裂を防ぎたい。欲を言えば、曹操一代で天下国家を築いてほしい。
人材には去って欲しくないし、寧ろ有為の人材は恨みや因縁を捨てて召し抱えさせたいとも考えていた。
「お前は本当に世話焼きだな、北郷」
「いや、俺は……」
色々と理由が交錯する内情を素直な善意と捉えられ、少し怯む天の御遣いの後ろから、一人の少女が姿を現す。
鮮やかな金髪に、覇気に満ちた碧眼。
「何をしてるのかしら?」
現在最も忙しいであろう、兗州牧の姿がそこにはあった。
「あぁぁ、華琳様!これは……そう。これは何でもないのです!」
曹操は領地に土着していた自分に恭順していない豪族―――つまり、酸棗諸侯についていった軽率者を根こそぎ李師率いる各個撃破の牙に貫かれた為、新たな秩序構築からやり直さねばならなかった。
つまるところそれは中央集権化の第一歩であるのだが、加害者が名士対豪族の仲裁に四苦八苦している公孫瓚勢力に所属している武将であるところに皮肉というものがある。
結局のところ公孫瓚勢力では名士対豪族の対立をその火種となっていた李師がその権益を犯さない冀州へと赴くことによって決着した。
割りと瞬間的に邪魔者を排除する曹操に比べて公孫瓚のこの苦労っぷりはすなわち、『甘いか甘くないか』の差であろう。
公孫瓚としては幽州で戦を起こしたくない。だからあくまで融和を望み、同じく戦を起こしたくない李師が南に去って事なきを得た。
曹操の場合は恭順していない豪族は厄介者でしかないと判断し、抜本的な、つまりは領内でも血を見ることを厭わない強硬的な姿勢で片っ端から踏み潰す。
どちらが正しいのかはわからないが、少なくとも人間的にまともなのは公孫瓚の方であった。
邪魔な奴は後々火種になる。だから殺すというふうな思考をすぐさま実行に移せるところは、曹操の天下人としての器を示している。
一概にどちらが間違っているのかとは言えないが、公孫瓚が望んでいるのは幽州という特定地域の平和であり、曹操が望んでいるのは天下であるところに思想と行動の正しさの基準があると言えた。
「華琳様はお疲れでしょうし、疾くお休みください。なあ、北郷!」
「あ、ああ!」
「あら、気遣っているのかしら?」
面白げな笑みを見せながら、曹操は誰何の手を休めない。
重臣と一応重臣が廊下の一角で喋っていることが、気になっていたのである。
「それより!」
「何?」
「それよりさ。兗州の支配は、どうかな」
「楽よ。一流の掃除人が邪魔者を一掃してくれたお陰でね」
と言ってもその中には、彼女の盟友もいた。
その恨みを持たず、口にも出さない辺りに彼女の彼女たる所以があった。
「動員兵力は三万を数えるし……そうね。一先ずは敵国の弱なるところ叩き、誘い出された強なるを天地人と合わせて討つ、という方針で進むと思うわ」
『高度な柔軟性を維持し臨機応変に』並に大雑把な方針だが、軍事行動に移る直前まで敵を明かさないのは用心であり、無策ではない。
敵となるのは、先ず袁紹の冀州。政変が起きれば或いは司隷。
一先ず彼女は、袁紹の没落によって支配が緩んだ青州に手を伸ばすつもりであった。
「で、何をしていたのかしら?」
話を逸らしたと思えば、その逸し先の話が終わった機を見計らって本道に戻す。
まあまず、機を逃さない敏活さがあるというべきであった。
「……秋蘭には飲み友達もいないのかなという話を、しておりまして」
「人の不名誉な噂を安易に広めないでくれ、姉者」
流石にうるさくなったのか、それとも一区切りついたのか。
腕を組みながら、怜悧な目に姉に対する敬愛を宿らせた夏侯淵が後ろから突如現れる。
「私にも飲み友達くらいはいる。ここには居ないだけだ」
無言で酒を飲んでいたとは思えないシラフっぷりを誰も訝しむことなく、曹操以外の二人が殆ど同時に疑問を投げた。
前者は誰何で、後者は確認だという違いこそあるが。
「おお、誰だ?」
「李瓔だろ?」
李瓔と呼んだ瞬間、夏侯淵の薄水色の眉がピクリと上がる。
別に怒鳴るほど気分を害したわけではないし、そこまで短慮ではないが、不快なことは確かだった。
「……一刀。呼び方」
「あ……ごめん」
「私に言うべきことではなかろう。初対面で夏侯淵妙才と言われたから貴官の知識の差異は認識していたが、人を呼ぶならば姓と字で呼ぶことだ」
一々区切って紹介したら姓名字を連結させられた経験のある彼女としては、苦言を呈す権利がある。
曹操から窘めは入っていたものの、夏侯淵は僅かにくどくそれを諌めた。
真名ほどではないにせよ、姓名を呼び捨てにするのは敵に回した相手くらいなものである。
「そうだぞ北郷。いい加減学べ」
趙雲ばりのブーメランを投げた夏侯惇で、この呼び方問答は終わった。
まあ、天の御遣いからすれば身に『字』という風習が染み付いておらず、更には歴史上の人物として呼ぶ時は姓名で呼ぶのが普通だったのである。
それを今更是正しろというのも難題な気もした。
だが、この後の彼がこの手の間違いをすることはなかったあたり、彼も中々に勤勉だと言えた。
「で、秋蘭。件の李師を見定めることはできたのかしら?」
「はっ」
「あなたからすると、どの役職が適すると思うのかしら?」
この次に言った夏侯淵の言葉に、さしもの曹操も驚きを隠せなかった。
李師が夏侯淵の内面を洞察することに優れていたように、彼女もまた洞察することに優れていたのである。
「太史令か、北郷の提案した兵法学舎の名誉教授ならば、確実に召し抱えることがかないましょう」
太史令は歴史を記し、今までの史書を公務で読める役職。
名誉教授は、実質無役。
つまるところはそういうことであった。