北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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汜水関決戦・弐

「妙才、ご苦労様」

 

「あぁ、そちらこそ」

 

杯の飲み口が合わせられ、軽いながら硬質な高音が鳴る。

三日目の戦いを終えて、この二人は昨日以来になる雑談の席を設けていた。

 

人と関わるのが下手だのなんだのと何だかんだと周りに言われていても、一度快諾した誘いを今更断るのは人間関係に齟齬を生む。

そんなことくらいは、彼もわかっていた。

 

「それにしても君は昨日今日の巧妙果敢な戦いで将として引退し、戦歴を終えても名将と言い表されるべきだろうね」

 

「それではただの一発屋に過ぎん。これからも継続して結果を残してこそ、その証は真に私に纏う」

 

珍しく酒を飲み乾すことなく、夏侯淵は飲み口をその白く細い指で以って軽く掴み、ゆっくりと酒を撹拌させている。

杯の底で円を描くような一定の周期を持つ運動が、彼女の基本的な几帳面さを表していた。

 

「どうしたんだい?」

 

「いや、今日は長く飲みたい気分なのでな。悪いが、付き合ってくれ」

 

「まぁ、指揮に関わらない程度までなら良いさ。明日は、どうせすぐに終わる」

 

常に、夏侯淵は破目を外さない。酔い過ぎそうになる前にさっさと撤退し、次回の約束を取り付けて自室に帰るのである。

だが、一見したところ今夜のように容易にわかるほどに節制したりはしなかった。

 

「……こうして飲むのも、あと何回になるかな」

 

ほんの僅かな寂寥感と共に、夏侯淵は舶来の硝子で出来た杯をゆっくりと回す。

中身の酒と外枠の硝子とが灯りを反射して煌めき、宝石の如き美しさを湛えていた。

 

「祝勝会で一回、劉焉を打ち破ればそこでまた一回。行軍中にも何回か機会はあると思うけどね」

 

「勝つのは既定事項なのだな」

 

陽だまりのような温和さで、割と辛辣な予言をした李師を口の端だけで笑いながら見た後に、夏侯淵は慢心をたしなめる意味も込めて念を押す。

彼は慢心などとは程遠いところにいるが万が一が頻発し、致命となりうるのが戦である以上は言わずにはおれない。

 

「ああ。前にも言ったけど、この戦いは明日で終わる。私は連合軍はこの三ヶ月間、想像を超えた動きをしたことがないという要素を見て野戦を仕掛けようと思えた。

他の不安要素と言えば敵に野戦において卓犖とした戦術指揮官がいて、私が粉微塵に打ち破られることだったが、そんなことがなかった以上は問題はない」

 

形のいい左眉を少し上げ、夏侯淵はまた少し酒を飲んだ。

違和感が、ある。つまるところ彼はこんなことを言うような男ではなく、こんなことを言うような将ではない。

 

己の能力に全幅の信頼の自信を置くのも、良かろう。しかし、それは己のような人格の型を持つ輩がすることであって彼には相応しくないと言えた。

 

「本音は」

 

「将は誰よりも勝利を信じ、勝利を疑わなければならない。いつもいつも疑っていたから、偶には全知全能を傾けた作戦案を信じてみた」

 

「らしくはないな。それはそれでよろしいことだが」

 

「自覚はしている。それに、冗談だよ」

 

「才能の殆どが軍事面に傾いている人間が、軍事に関わる冗談など言うものではない。境がまるでわからん」

 

一見できなそうな発言した者ならば冗談だと笑い飛ばすこともできる。

しかし、他の者はともかく発言者にはできそうなことを冗談だと全く笑えない。

 

「才能がないかな」

 

「それ以前に、感性に欠ける」

 

軽口を叩き合いながら酒を注ぎ合い、暫くしてから夏侯淵は問うた。

 

「で、どこからが冗談だ?」

 

「そんなことがなかった以上問題はないというところが、冗談だ。問題となりうる不確定要素はまだまだある」

 

「それではわかりようもない。九割真実だということだろう?」

 

今までの展開が掌の上で、卓犖とした戦術指揮官を恐れていたところは真実。

後者はともかくとして、前者は恐ろしいまでの先読みをせねばなし得ないであろう。

 

「この乱世の趨勢は、どこまでわかる」

 

「わかるところまでしか。この舞台だけが唯一無二の劇場だったらわからなくもないが、他の場所にも舞台はあり、劇場となっている。自分が関わっていないところの予測は難しいかな」

 

つまり、情報が入っていれば予測はできるが現場に居なければ誤差は修正できず、正確無比とは言い難い。

彼がコントロール下におけるのは、直接触れて、知れて、介入できるところだけだった。

 

「なるほど、まだ人間か」

 

「失礼だな。私は生粋の人間さ。今制御できているのは、汜水関近辺の戦域だけなんだよ?」

 

「敵には軍師も居ると思うが、それでもか?」

 

「私としては、素人の行動の方が読み難い。軍師はある程度は思考的な共通項がある以上、条件を科して自由度を狭めれば制御できないこともないのさ」

 

つまり彼の思考は如何に敵の行動の自由を奪い、こちらが動いてほしいと思う理想的な形と現実でとった行動とを擦り合わせることに特化している。

 

「敵には回したくないものだ」

 

「それはこちらの台詞だよ、妙才」

 

夏侯淵の軽く芝居がかった台詞に大仰な動作で返し、李師は少し酒を含んだ。

毎回ながら、美味い。飲む相手がいいのか、飲む相手が用意する酒がいいのかはわからないが。

 

「それより、意外だな」

 

「何がだ?」

 

「君は私と戦うことを喜ぶと思っていた。戦争狂とまではいかずとも、己が認めた相手と戦うことを喜ぶ人間だと」

 

様々な面で均衡の取れているのが、夏侯淵という人間である。

 

用兵家としての理性は速やかに楽に勝つことを望み、本能は認めた強敵と戦うことを望む。

武人としての理性は細かいことに囚われずに如何に敵を射殺するかを考え、本能は強敵と死力を尽くして戦うことを望む。

 

均衡が取れているだけに、『戦いたくもあり、戦いたくもないな』というような台詞がくると彼は予想していた。

 

「私は別に軍事的夢想に囚われているわけではない。犠牲なくして楽に勝つのが役割だが、強敵と戦えば高揚するし、やるからには徹底的に、持てる能力の限りを尽くす」

 

「もっとも厄介な相手となりうるな、それは」

 

「お褒めいただき有り難いな。老人と青二才に不覚を取った私も、まんざら捨てたものではないということか」

 

老人老人言われている黄忠は彼女と九歳差であり、青二才青二才言われている馬超は一歳差である。

 

彼女には、まだ二十歳だと感じさせない貫禄のようなものがあるから馬超を『青二才』といってもなんら違和感がなかった。

 

「二十九は、老人かな」

 

「まあ、この場に集った将の平均年齢を上げてることは確かだろう?」

 

「私も二十九だけどね」

 

ついでに、恋は青二才より下である。

そして、彼女が居たらこう突っ込むであろう。

 

『嬰は、もう三十』、と。

 

「そうだったのか」

 

「何歳に見えた?」

 

「二十八か、七だな」

 

二、三歳若く見えると言われる容貌が、外見上は魔の三十代への侵入を果たしていた。

 

更に言えば、彼は別にサバを読んだわけではない。単純に恋とボンヤリ過ごしていた時間が長きに過ぎ、年齢を意識するのをやめていたのである。

 

「……別に私は敵が二十九だから老人と形容したわけではないぞ。ただ、奴を馬鹿にしたかっただけだ。二十九は人間としてはまだ若いうちに入ると考えんでも、ない」

 

「無理しないでもいいよ」

 

「すまん」

 

誰しも年齢には触れられたくないものなのにも関わらず、さらりと踏み入ってしまったことを夏侯淵は素直に謝った。

割と早いうちから子供を産み、産ませるこの時代に於いては、三十というのはかなりの重みを持っている。

 

つまり、下手をすれば自分の親と二、三歳差ということもあり得てしまうのだ。

 

「君の親は今何歳なのかな?」

 

「母が四十と少し、父がまあ、うん」

 

「父が?」

 

「……若い。それ以上は訊くな」

 

この辺りで、李師は『夏侯家の家長は母なのだな』と悟る。

家長が男ならば母が若い。家長が母である以上、父が若い。

 

別に法則として定まり、決まっているわけではない。しかし、武人としての才幹と美貌を併せ持つものが容姿に衰えを見せにくい以上、彼女等が若い燕を捕まえるのは当然と言えた。

 

つまり、李師と誤差はあれどだいたい同程度の年齢だと思われる。恐らくは、だが。

 

「……まあ、それならしかないだろう。二十くらいになった娘からすれば、親なんか爺婆にしか見えないものさ」

 

その法則でいけば、後二歳で恋から爺さん呼ばわりされかねないという事実が待っている。

しかし、彼の中ではそんなことは綺麗に抜け落ちていた。

 

その後も用兵や敵の挙動、今日の戦いについての検討のようなことをした後、夏侯淵はそう言えばという形で切り出す。

 

「それで、明日の作戦を―――」

 

そこまで言い終わり、夏侯淵は突如として言葉を切った。

次いで手に大腿部から取った投擲用の手戟を持ち、投げる。

 

「覇、出て来い」

 

「……はい」

 

いきなり自分が居る方向に向かって手戟を投げられても、全く動じずに酒を飲んでいる李師の様に感心しながら、夏侯淵は敢えて怒りの体を作った。

 

「盗み聴きとは、感心せんな」

 

「……すみません」

 

今になってようやく後ろに人がいたことを気づいた李師の顔が少し驚きに包まれる。

無論、手戟にはただ単に反応できなかっだけであった。

 

「まあまあ、そう怒らなくてもいいだろう。何か報告があったのかもしれない」

 

「報告するという理由があるならば正面から入るべきだ。盗み聴きすべき必要を持つ報告などはない」

 

極めて真っ当な譴責で李師の擁護を退け、夏侯淵は夏侯覇に何故盗み聴きをしたのかを問い質す。

もとより冷静な質だけに、その誰何の声は底冷えするほどに怖かった。

 

「……それはその、今日御二方の指揮が芳しくなかったので、何かあったのかと」

 

「貴官に心配されるようなことは起こっていない。何を心配しているかは、知らんがな」

 

出て行った夏侯覇を見送り、夏侯淵は静かにため息をつく。

 

「今日はどうも、飲めるような空気ではないようだ」

 

「それには同意する。私もそれとなく諌められたし、問題だと思われている、らしいな」

 

「厄介なことだ」

 

念の為にしたためておいた作戦案を渡した後、李師は腕を上げて背伸びをし、頭にいつもの帽子を被った。

 

「じゃ、今日はこれくらいでお暇させていただこう」

 

「明日の夜はどうする?」

 

飲むか、飲まないのか。

相手の意思を尊重するような夏侯淵の問いを受け、李師は茶目っ気たっぷりにウインクをしながら答えた。

 

「明日の夜は、祝勝会さ。二人では飲めないだろうね」

 

「……それもそうだ」

 

互いにニヤリと笑いあい、その場で杯に残った酒を飲み干してその場で別れる。

 

四日目。対連合同盟軍最後の戦いが起こる日が、静かにその帳を落とした。

 

 




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