北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
公孫伯圭は、悩んでいた。
《君は郡太守では終わらない。今は一流半でしかないが、精励を積めば一流になれるだろう》
《名士を受け入れろとは、言わない。君の生い立ちからしてそれは難しいだろうからね。
が、利用くらいしてみたらどうだい?》
相変わらず柔らかく、温和な語調を崩さない彼の言った言葉が、脳の中で反響する。
「私が、一流に……?」
産まれの悪さが、呪いの如く思考を縛っていた。
どう足掻いても、光の当たる道を歩く堂々たる名家の連中や、名士には敵わないのだと。
どうせ、己は平凡なのだと。
そう言った矮小さに閉じ込めるような自己規定が、彼女の翼をもいでいた。
《この国の、皆を笑顔にしたいんです》
廬植の塾に通っていた頃。
卒業式で廬植に将来の夢を尋ねられた時に桃髪の少女が吹いた大真面目の法螺を聴いて、その場に居合わせた卒業生たちは一様に馬鹿にして笑った。
そんなことが出来るわけがないというのもあったが、何よりもその問いは不可能な物を含んでいる。
ただ一人笑わず、『頑張りなさい』と諭した廬植を除けば、伯圭だけは笑わなかった。
桃髪の少女―――劉備と友達であったからでは、ない。
その理想を尊いと思ったからでも、ない。
皆が笑っているその光景を見た彼女が初めに思ったのは羨ましさだったのだろう。
羨ましかったのだ。己の夢を見ることができ、それを恐れげもなく口に出すことができる彼女の大きさが。
「私は、何をしたいんだ?」
廬植には、『故郷で孝廉に受かり、役所に務めたいと思います』と、そう言った。
そう答えられた彼女は少し哀しさを目に宿らせて、少し頷く。それだけだった。
あの時、何を伝えたかったのか。何が哀しかったのか。それは今までわからなかった。
しかしあれは、夢が見れないことへの哀れみと、それを変えることのできなかった己に対する虚しさだったのでは、ないか。
「私は……」
目の前には、積まれた仕事がある。
配下には、『登竜門』李膺に『昨日と明日を善く見透す』と評された傑物がいる。
自分には、郡を治める権限がある。
「……私にしか出来ないことも、あるんだな」
武略は李師に及ばない。
武勇は呂布に及ばない。
政治は袁家の田豊に及ばない。
器量は劉備に及ばない。
だが、遼西郡を良くしていけるのは、今のところは自分だけなのだ。
それが権力とか、権限とかでしかなくとも、自分はこの土地を良くすることができる。
その為には、何が必要か。
自分風情はここでいいと、留まることではない。
一歩ずつしか進めないならば進めないなりに、着実に歩んでいくことこそが必要とされているのだ。
「さあ、進むんだ」
殻を破って、一歩一歩。
そんな彼女の執務室に、とある乱入者が現れた。
「公孫遼西太守!」
「な、何だ?」
どうにも、今一締まらない。
決意の場面に水をさされたどころか頭から浴びせられたに等しい所業を無意識にせよ受けておきながら、怒りもしないのが彼女の美点だった。
だからこそ、非常勤も真っ青な勤労頻度且つ勤労意欲皆無な男にタダ飯食わせておきながら何も言わないでおけるのだろう。
「客将として自らを売り込んできた者が居りまして」
「通してくれ。人材は広く求めるべきだしな」
彼女の思考は、だいたいが甘さを残した寛容さで出来ていた。
名士であろうとなかろうと、仕えてくれるというならば適切な役につけて遇する。
尤も、この客将は非常に優秀でありながら名士でもなく、頼りになること甚だしいから『誰であれ適切な役につけて』と言うのはいい。
防諜対策としては非常によろしくないが、この場合は良かった。
客将となるべく戸を叩いた彼女の名は、趙雲。字は子龍。
普通は客将として自分を売り込んでくる人間は郡太守風情には売り込みに行かないことを考えると、当たりも当たり、大当たりの人材だと言える。
「あなたが公孫伯圭殿ですな?」
通された客将候補の姿を見て早々伯圭―――公孫瓚が見たのは、槍だった。
いや、突きつけられたわけではない。ただ、売り込みに行く相手に武器を持ったまま来るというところに、彼女は僅かにこの人物の破天荒さを掴む。
「ああ。そう言うあなたは……二又に分かれた槍から察するに、常山の昇り龍殿か?」
ああ、優秀そうだ。
だけど、あの非常勤と同じような匂いがする。
つまり、自分の仕事を補佐してくれるような人材ではない。そんな気がした。
「如何にも。鮮卑の軍五千を奇略を駆使して撃破し、先日また勇名を上げられた郡太守殿に、我が槍を預けられるか見定めに参った。ともあれ、私が見定めるまでの間客将として使っていただきたい」
「わかった。だが、奇略は私が考えたのではない。李師がやったことを覚えていてくれ」
先ず、趙雲は『ほう』とばかりに公孫瓚を認めた。
彼女は、常に慇懃無礼ではあるが決して弁えられない質ではない。つまり、無礼ではあるが礼を知らないわけではない。
それがわざと礼を失した、品定めをするような言動をしている。
即ち、彼女は公孫瓚を試していた。
このくらいで怒るものならば、それまでだと。
だが、公孫瓚はそれをさらりと受け流している。咎めるでも無く、功を誇るでもなく、事実のみを述べていた。
(面白味はないが、懐の深い御仁のようだ)
面白味がないとは言っても、硬すぎるわけではない。
これは当たりかな、と。公孫瓚が彼女を見た時に思ったことを、彼女も公孫瓚を見て思っていた。
「ほう。登竜門に才を認められし、彼女の孫ですか」
一般的に知られている定型文に頷き、公孫瓚は客将として認可する旨の書類と仮の住居としての兵舎を与える。
身分証明書と、住居。どちらも無くてはならないものだった。
「それだけではないが、そうだ。客将として軍事に関わるのは明後日から。軍事の責任者の厳綱、あと副官の単経に挨拶しておくようにな」
「奇略の主が李師だと言うのに、彼が責任者ではないのですか?」
「非常勤だからな。訊けばわかる」
解せぬとばかりに顔を疑念に染める趙雲をさらりと流し、公孫瓚は無言で地図を渡す。
厳綱と単経は調練場に、李師は自宅に居るはずだった。
「非常勤とはこれ如何に」
サボり癖のある自分ですら、役を割り当てられたら部所には行く。
それが非常勤と言うならばわかるが、指し示されたのは政務を司る府を囲むように建てられた住宅街。
つまりは、自宅ということになる。
ブツブツと呟きながら、彼女は厳綱の元へと顔を出した。
「私は趙雲。字は子龍。これから客将としてお世話になる故、軍務の責任者足る厳綱殿・単経殿両将に挨拶に参った次第」
「これはこれはご丁寧に。儂が厳綱じゃ」
「単経です。よろしくです」
白髯の老翁に、怜悧な印象を受ける実務家の副官。
爺様と歳の離れた姪のように見える二人に挨拶をし、軽く今まで回ってきた諸勢力の世間話をした後、趙雲は気になっていたことを切り出す。
「李師と言う方は、非常勤だと小耳に挟んだのですが……これはどういう意味でしょう?」
「そのままじゃ。彼は無役の相談役に過ぎんからの。伯圭様から指揮を取るよう依頼された時のみここに顔を出す」
「それで果たして、兵は言うことを聞くのですか?」
趙雲の疑問は、尤もだった。
兵の調練に将が立ち会い、監督するのは何も彼等を鍛え、己の兵の進退に対する緩急の腕を錆び付かせない為だけではない。
己の色に染め上げ、兵卒の信を得る為と言うのもかなりを占めるのだ。
「あの若いのは負けませんからな。出てこないということすら、何やら神秘的な物を感じる一因にこそなれ、不信を抱く一因にはならんのでしょう」
その一般論も好々爺ぜんとした笑みを浮かべる厳綱の言葉に否定される。
「どういう御仁なのですか?」
「武将というより、書庫の管理人が天職といったような平和な顔です」
少し言葉尻に悪意のある単経の一言に、鷹の目をした智将と言った風貌が瞬く間に消え去った。
残ったのは、理知的な相貌と顔の輪郭くらいなものである。
「……わからんな」
彼女は二又に分かれた穂先が特徴的な名槍龍牙を左の肘で挟み、細い右手の指を顎に当てていた。
もうすぐ確認できるから考える必要などはないのかもしれないが、今すぐわかるからといって考えるのをやめては将とは言えない。
武人であり、将としての資質を持ち合わす彼女は、自然とその癖がついていた。
「李師殿、伯圭殿から顔を見せておく様にとの助言をいただきましたので参りました。この戸を開けていただきたい」
ただの寂れた感じの一戸建て。ただし庭付き。
そんな印象を受ける家の扉を、趙雲はリズミカルに四回叩く。
できれば顔を見ておきたいし、この遼西郡でちらほら民衆の話に上がっていた護衛の腕とやらも見てみたい。
「……誰?」
僅かに門が開かれた隙間から漏れる誰何の声は、明らかに男のものでは無かった。
「趙雲、字は子龍」
本日三度目の名乗りを上げ、趙雲は扉の隙間からこちらを除く赤紫の瞳を類似の赤眼で見返す。
「知らない。知らない奴は、入れない」
「今日より客将として禄をはむ故、知らぬも当然でしょう。それに、誰と話すにせよ最初は知らない奴ではありませんか」
「……それもそう。でも、だめ」
「何故?」
「前に三日寝なかった分を、今寝てる。起こしたくない」
変な身体の構造をしているのかと、趙雲はそう考えた。
指揮に過失を見せないまま三日寝ずに指揮できるが、それ以上な休眠と怠惰を要求する。
戦いには向いているが、少々歪な私生活であろう。だが、武将は勝つことが職務であり、私生活を規則正しく営むことはそれに含まれていない。
「では、また伺わせていただく。李師殿は、いつ頃起きられるか?」
「あと一日で起きて、二日間読書と写本で体調を整え、それから」
つまり、再起動には三日掛かるわけだった。
いや、寝ている時間を合わせたら四日だろう。
「承知した。出直して参る」
「……ごめん」
「いや、こちらが事前に連絡しなかったこともある。お気になさらぬよう」
礼を一応弁えている彼女は、ここは一先ずおとなしく退き下がる。
しかし、まだ見ぬ人物に対する期待と高揚感は、更に増していた。