北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
包囲網を解き、敵を逃がす。
李師が言った言葉は、田予を僅かに混乱させた。
「親衛隊・華雄隊・義勇歩兵にはこの竹簡を頼む」
「わかっておられるとは思いますが、包囲網を解いては敵兵の頸に匕首を突きつけておいたのをわざわざ離してやるようなものなのではありませんか?」
「正しい。しかし、ここで残りの五、六万人を殺しても敵には三万の予備兵力がある。しかももうそろそろ再編成も終わるだろう。
我々の包囲網はどのみち断ち切られる運命にあるのさ」
だから早期に兵を引き上げさせるというのはわからなくもないが、それでも敵の精鋭三万が生きているのは変わらない。
これをどうするのかと思いつつ、田予は三騎の伝令を走らせた。
「兵の形は水に象る……という言葉がある。これと私のとった戦法は全く違うが、字面だけなら似ていなくもない」
「と、言いますと?」
「人は水が持つような流動性を持っている、ということかな。こちらが流れを作り、彼等が向かった先で蓋をし、包囲網は成った。
謂わば、逃げようとする勢いを堰き止められた訳だ。どこを見ても逃げ場はなく、河に行っても溺死。そこにいきなり逃げ道が現れれば人はそこに活路を見出して殺到し、氾濫する」
そして、氾濫した水たちの向かう先には隊列を整え終えた三万の黄巾の精鋭たちが居る。
「流されるか、水そのものを絶ってしまうか。彼等はどちらを選ぶだろうね」
「……最初から、このつもりで」
「兵がない。なら、作る。人は作れないが、集団戦闘を押し流し、破壊する為の勢いならば作れるという訳だ」
氾濫した水は、怒濤の如き勢いで味方の陣に殺到していた。
そこには呂布率いる親衛隊が勢子でもするかのように後ろにピッタリと付き、このまま行けば勢いそのままに雪崩込める。
山沿いに居る義勇歩兵も川沿いに居る華雄隊も共に両脇から襲い、三方向から敵を叩くことが可能だった。
「しかし、水を殺されるとはどういうことでしょうか?」
「雪崩込んで来る敵を押し止めるために、我らは矢を放った。そういうことさ」
つまりは、味方を撃つ。そういうことなのだろう。
「それでは、そうされた場合策は失敗するのでは?」
「やっこさん、私達より兵力があるばっかりに幅のある平地に陣を構えているからね。完全に堰き止めることなんかできやしないだろう」
流れの激しい河と山の間という狭隘部に陣を構えたからこそ、七万と言っても一度に向かってくるのは十数人だった。
しかし彼等黄巾賊左翼部の本営は大軍故に、割と開けた地に陣を敷いている。
「どちらにせよ、変わりはしないと?」
「いや」
端的にそれだけ返し、李師は僅かに乾いた喉を水で潤した。
敵が撃てば、敵前衛を降伏させやすくなると共に中央部・右翼部に相互不信の種を巻くことができる。
撃たなければ、敵の潰走で終わるだろう。
その為に彼は、呂布を前面に押し出させた。
士気の低い原因は、呂布の噂が蔓延しているからだということに気づいたからである。
恐らく呂布が出くわしたのは敵の精鋭部隊だったのではないか。そして、出くわした部隊の生き残りは緘口令を敷かれた。
しかし隠し通せるものでもなく、同陣にいる後衛の精鋭部隊の各員には伝わる。だが、離れていた前衛には届かなかった。
否、元々は精鋭部隊が前衛を務め、一挙に覆滅さしむるつもりだったのだろう。それが呂布という暴威によって崩され、本来後衛であった素人集団と位置を変え、作戦を変えるのに三日掛かった。こんなところなのだろうか。
どちらにせよこの場合重要なことはただ一つ。
敵の後衛が呂布を恐れること甚だしく、思わずといったような抜け駆け行為で味方を撃つ公算が極めて高い、ということだった。
だが、ここまで基本的に的中していた彼の予測は、ここで初めて裏切られる。
敵の左翼部総司令官である鄧茂が、重度の呂布恐怖症に掛かっていたということが、彼の予測がハズレたことの要因だった。
鄧茂からすれば華雄によって乱された三万の再編を終え、包囲されている味方部隊を助けるべく号令した瞬間に包囲が解けたのである。
当初何事かと思った彼には、この時側近と笑語するだけの余裕があった。
相手の指揮官も案外だらしない、とか、こちらの動きを予測したのではないか、とか。色々と予想を立てていたのである。
そしてその後、救援しようとしていた味方が怒濤の如き勢いで向かってくるのを目にして危機に気づいた。
「このままでは我々は味方に引き裂かれてしまうではないか!」
その怒声は、どう動こうが変えようのない現状に叩き込まれたことへの苛立ちと恐怖であったろう。
例えるならば、左に行こうが右に行こうが槍衾があるようなものだった。死ぬかは分からないが致命傷は負う。
「しょ、将軍!あれはぁ!」
側近の言葉が、動揺していた彼の耳朶を打った。
どうするか。その問いがどうどうに巡っている彼は、割りと簡単にそちらに意識を割かれる。
「何だ!」
「あの、赤い部隊の先頭に立っているのは……」
一際目立つ巨馬と、綸子のようにぴょこんと立った二筋の髪。
手に持つのは、彼等に恐怖を植え付ける原因となった長大な戟。
待ち受けていた槍衾が、死神の鎌に変わった瞬間だった。
「前方より迫ってくる敵部隊を迎撃せよ!」
「将軍、ですが―――」
「奴らはもともと信仰心も何もない烏合の衆。それが裏切ったのだ!裏切り者と敵が混ざって突っ込んでくる以上、こちらがとるのは迎撃であろうが!」
李師が恐怖に負けて『誰かが抜け駆けで』やると思った射撃は、非常に統制の取れた形で実行に移される。
将自身が抜け駆けてしまったと言ってもよかった。
何も知らない前衛の兵は、味方の陣に駆け込めば助かると信じて疑っていない。
弓を構えているのも敵に応戦する為だと疑っていなかったし、その頼もしさがより一層の加速になる。
「撃てぇー!」
恐怖に駆られた鄧茂の声が各部隊長に伝達され、各部隊長から各下士官に、下士官から兵卒へと伝達された。
そして、一万にのぼる矢が哀れな前衛の兵士たちに殺到した訳である。
これは彼にとって誤算だったにせよ、致命傷ではなかった。そして、策同士の歯車がズレたわけでもなかった。
逃げ込もうとしていた味方に助けてもらおうとした仲間が射たれたのを視認した前衛の兵たちには、止まろうとした者も居る。
しかし自分たちがこのまま進めば撃たれるなどとは知りもしない、後に続く残り五万の兵が止まる訳もなかった。
未だ脚は止まらない兵たちの方が多く、鄧茂の本営と言うべき三万の軍勢はその陣形を人の波によって崩されてしまっていたのである。
一定の行動に対する統制を保つ為に陣形が有り、統制を保っていない軍ほど脆いものもない。
そして、この脆さをはいはいと見逃してやる程、三人の現場指揮官は優しくはなかった。
「突撃」
「華雄隊と連動、敵の側面を襲う!」
「一人残らず踏み潰してやれ!」
逃げ惑う敵前衛の兵を矢避けにしながら呂布率いる親衛隊がたちまちのうちに前衛を、関羽を先頭にした義勇歩兵と華雄率いる涼州騎馬隊が敵側面を切り崩す。
ただでさえ前方より迫ってくる味方部隊に陣形をズタズタにされた挙句、川沿いに右方面から迂回してきた華雄隊、山沿いに左方面から迂回してきた義勇歩兵、正面から放たれた矢の如く突っ込んできた呂布隊に三方向から挟まれた黄巾賊三万に最早活路とよべるものは無かった。
二刻も掛からぬ掃討戦の末に敵将鄧茂はその首を華雄の大斧によって知らぬままに撥ねられ、組織的抵抗と呼べるものは脆くも潰えさる。
そして。
「貴様らは我らに負け、今また貴様らをご丁寧にも撃ち竦めてくれた味方の抵抗も潰え、死のうとしている!」
華雄は渡された竹簡に書いてある通りのタイミングで、出来うる限りの声量で全軍に響き渡るように怒鳴る。
ここらへんが、締めだった。
「武器を捨てよ!諸君らは元々罪のない農民。抵抗するからには容赦をする訳にはいかないが、わた……李仲珞殿は諸君らの罪を己の功績に換えても贖い、免罪を勝ち取るであろう!」
今まで味方と思っていた人間から裏切られ、殺し合っている相手から降伏という慈悲をかけられる。
明らかに異常事態と言うべき現状を、ただしく認識できた人間などは極少数でしかなかった。
しかし現状が極めて拙く、このままでは自分たちが死ぬということは彼等にもわかっている。
「降伏の意思ある者は、武器を捨てろ!」
馬鹿でかい声が戦場の喧騒を打ち消し、その後に硬質な物体が地を打つ音がカラリと鳴る。
降伏の意思を示した三万人の黄巾賊を囚え、壊滅した左翼の面倒を董卓軍に押し付けた後に、公孫瓚軍は粛々と撤退を開始した。
「将軍。では、私たちはこれにて本営と合流させていただきます」
「ああ、ご苦労さま。華偏将軍」
「御戯れを」
常はまず見られないほどの非常な礼儀の良さが彼女の抱く敬意の篤さを如実に感じさせられた、『猪突猛進』を体現したかのような銀髪の猛将が一礼して去る。
涼州牧である董卓の一将としてその武名と悪名を鳴り響かせている彼女らしからぬしおらしさは、噂でしか彼女を知らない田予の目をも驚かせるものだった。
「……実際と噂とは、掛け離れているものですか」
「いや、彼女はやさぐれていなければあんなものだと思うけどね」
常時バーサク状態な猛虎が猫になったくらいの差が、田予の聴いていた華雄と実際見た華雄との差にある。
先程見たある意味自然とすら思えるほどの見事な従順さと、戦場での頭の構成物質が二、三個落ちたかのような勇猛さの乖離っぷりが、年若ながら雪の如き白髪を持つ彼女の頭を混乱させていた。
「田国譲。貴女も疲れているようだし、ここらで一度休息といこう」
「お気遣い、感謝します」
「うん」
退出した田予の代わりに入ってきた呂布が己の指揮官を見た頃には既に、彼は休眠モードに入っていた。
左翼を崩され、脆い側面部からの攻撃を許すはめになった黄巾賊がどうなったか。
それは最早、誰が聴くまでもなく明らかな結末になったとしか言いようがなかった。