荒れた道を馬車が走る。
整えられた街道とは違い、こちらの旧道と呼ばれる道は山有り谷有りの厳しい道だった。フレッドの馬車があまり大きくないからこそ何とか通れたような場所も多い。帝国が街道を引くまでは大量に荷を運ぶ事が出来ず、海に面した西側と比べ、この辺り一帯は商業も細々としたものだったらしい。
路面が荒いのでそれはもう揺れる。荷は紐で結わえられ固定されているのだが、人はそうもいかない。フレッドなどは慣れているらしく「馬に乗るのも馬車に乗るのも一緒だ」などとうそぶいていたが……縄で縛られ、気絶したまま馬車に積まれてしまった男などにとっては堪ったものではなかっただろう。
五つめだか六つめのパンを口に咥えながら車内の様子を伺う。
「隊長さん起きないな」
パンを噛みちぎり、次は羊のチーズを囓る。濃厚で美味い。
馬車の車輪が起伏に乗ったらしい。大きく揺れ、積まれている男はごろりと転がり荷箱に頭をぶつけた。この調子では気がついた頃にはたんこぶだらけになっているんじゃなかろうか。
ちなみに服は脱がせて上着のジャケットを下半身に巻いてある。さすがに尿で濡れたまま馬車に積むのは、何かとものにこだわりの無いフレッドとしても抵抗があったものらしい。
フレッドは横目で気絶したままの男を確認するとおれに言った。
「捕まえる時に余程強く殴ったりでもしたのか? それらしい跡は無かったが」
「まさか、ただ、半狂乱で馬にしがみついてたから馬ごと攫っちゃっただけで」
「半狂乱?」
「おお、おれが飛んで追いついてきたからびっくりしたんじゃないか? 何度か斬りつけられたが……ほら、知っての通り傷一つ付かないし。あ、肌着が少し切れてた、後で縫わないと」
「……ああ。その上馬ごと空を飛べばな、生きた心地も無かったか」
フレッドは空を見上げ嘆息した。
「なんだ、傷一つ付けないで捕まえたけど不満か?」
「いいや、まあ、今起きられても困る、尋問するにしても手狭だしな」
そう言い手綱を微妙に操る。フレッドが手狭、と評したように今通っている道は、山の斜面に刻まれた狭い道だ。斜面と言っても崖に近い、誤って馬を暴走させようものなら転落して転げ落ちて行きそうな場所だった。
「尋問って、あれか、ええと。結構えぐい事でもするのか?」
「拷問のすべも心得ている」
「駄目だこの商人、物騒過ぎる」
思わず天を仰ぐ。毒盛られる事に慣れてたり、剣や棒どころか弓まで達者だし……
「本当に何者なんだかなお前は」
頬杖をつき、パンを囓りつつ、何となくいつもの会話になってしまった事を言う。素直に答えたらチーズを進呈、と目の前にちらつかせながら。
「なるほど、チーズは魅力だ。では包み隠さず教えてやろう」
「ほう?」
「実はこの国の王子様だ、平伏せ平民」
「お前のようなマッチョ王子がいてたまるか、王子に失礼だろ、玉子投げんぞ玉子」
フレッドはくっくと喉の奥で笑った。おれはちらつかせたチーズを引き上げ囓る。マッチョ王子なんているか、と自分で言っておいて何だがどこかで見かけた気がしなくもない。牛丼……何か微妙なキーワードが頭に浮かんできて首を一つ捻った。それは置いておき、適当な事しか言わない隣のこいつをどうしたものかと思い悩む。
「そういえば、国があるんだな、この辺りを治めてるのは何て国なんだ?」
「ミラベルから教わらなかったか?」
「時間が無かったんだよ」
「ああ……そうだな、とりあえず、今いる地方をかつてあった帝国名に因んでロライナと言う、これは地方の名称なのだが、国の名前もまた同じだ。王都はずっと南の砂漠の中心部、ラウ湖の湖畔にある」
ほうほう、と相槌を打つ。つまりロライナ地方のロライナ国、地方名から国名になるというのはよく聞く話だが、どうも順序が逆らしい。
「ロライナ地方を治めているとも言えるが、実質的には街道沿いの実力を持った町や都市群が守っているような国だな、主要な町には行政官が派遣されているが、リーファンのジラットのように有力な商会の力の方が強くなっているのが現状だ」
ジラット・ハーマン、やはりお偉いさんだったか……その名前でふと思い出した事があり手をぽんと打つ。
「そういえば、ハーマン商会の商売敵が絡んでいるとかいう話だったよな、何も知らせてないけど平気か?」
フレッドは苦笑した。さすがに同じ姿勢で疲れてきたのか、肩を回しゴキリと鳴らす。
「問題ない、気になるなら次の宿で手紙を出せば良いだろう。ただ、ジラットとて海千山千の商人だ、ここまで大きくなった事態ならおおよそを既に掴んでいるだろう、時期的に王墓の建築利権を巡っての争い、互いに懇意にしている貴族達も入り乱れ、とんでもない化かし合いがされている頃だろうさ」
「随分詳しいな、実は王子とかって本当なのか?」
「俺は様々な事が得意だが嘘だけは苦手でな」
「嘘をつけ嘘を」
突っこむのも疲れてくる。大きくため息を吐くと、そんなおれを見てさも愉快そうに含み笑いを浮かべる、まったく悪趣味だった。
山を越えると、相変わらず荒涼とした景色の中にぽつんと緑が見えてくる。
中心部にはそれほど高くないものの、木々の姿も見える。その木々に埋もれるように物寂しげな建物が並んでいた。かなり朽ちている、廃墟なのかもしれない。フレッドは目を細め、空を見て言った。
「この旧道が使われていた頃に宿場として栄えたオアシス集落の名残だ。まだ日は高いが……今日はここで野営だな。少し働かせ過ぎた。トーリアを休ませよう」
オアシスに近づくと湿気を含んだ風が吹いた。何となく快くなる。
周囲も水気が段々多くなるのか雑草がぽつりぽつりと見え始め、やがて細い枝を持つ低木も目立つようになってきた。赤くて細長い花をつけている。
「クレヤナギの木だ、この時期だとディギがあるかもしれんな」
「ディギ?」
「木の根に寄生する芋のような奴だ……ほら、そこの木の根元に生えている」
フレッドが指さしたのはキノコのようなものだった。何となく松茸を連想させる。馬車を止めるとフレッドはナイフを手にそれを掘り始めた。
山芋のようなものなのだろうか、そのキノコの下部は丸々と太り、表面はパイナップルのような鱗状の皮がある。ある程度まで掘り出し、細くなっているところでぽきんと折った。
「これの皮を削り、輪切りにし、羊肉と煮て食べるんだ。ほのかな甘さがあり煮ると柔らかい、美味いぞ」
渡される、しかし、なんだこの形は。いや多分百合根みたいなものだとは思うのだが。形が……
「そうか……食べちゃうのか」
「どうした? 食い物には目が無いと思っていたが」
フレッドは不思議そうにこちらを見る。おれはと言えば自分が無くした「ある物」に似た根っこを手に虚しいため息を空に吐いていた。何とも言えない寂寞とした感情がある。
オアシスの辺に着くと案外まだ使えそうな廃屋があった。煉瓦造りで他の土壁のものより丈夫だったのだろう、中を確認すれば使っていた形跡もある。数は少ないとはいえ、旅人が使っているものなのかもしれない。よっし、と腕まくり、廃屋に置かれていた箒で埃を掃き出す。
──突如として背後から押し倒され、そのまま首を絞められた。
「ひひひ、死ね、死ね、化け物、悪魔め」
耳元で聞こえる声からするとどうやら気絶していた男が目を覚ましたらしい。どうやってか、拘束も外している。
ぎりぎりと首を締め付けてくるが、何となく申し訳なくなってしまうくらいに効いてない。
とりあえず絞めている腕をタップしてみたが、まったく放す様子がない。このままだと服が埃まみれに……いやもう遅いか。
はぁと、ため息混じりに体を起こす。
「ひ、ひ、ひぃいいいい」
何だか悲鳴を上げながらさらに締め上げてきた。困って頬を掻き、そのまま引きずって歩きだす。
表に出ると、声を聞きつけたのかフレッドが少々慌てた様子で駆け寄ってきて、呆れた顔になった。
「……変わった首飾りだな」
「似合うか?」
「少しうるさいかもしれん、何でもぎ放さん」
「無理やりやるのは加減が判らない、手首もいでしまいそうだ」
優しい事だ、とため息をつかれる。結局フレッドに外してもらった。
再び拘束された男だったが、相変わらず我を失っている。
フレッドが汲んできた水を被らせると大人しくなった。頭が冷えたらしい。
諦めた様子で胡座をかき俯いている……というか、腕を縛られ、足を曲げた状態で足首を縛り首に掛けられている。捕縄術という奴だろうか。他の姿勢が出来ないようにされていた。
尋問すると言った割にフレッドはあまり気に止めてないようで、馬の世話をした後は料理に取りかかっていた。先程言ったディギと羊肉の煮物というやつだ。
その間におれはやりかけの廃屋の掃除にかかっていた。
「さて、こんなもんか」
一通りの掃除を終え手をはたく。頭に巻いた布もほどき、埃を払った。廃屋から出るとフレッドが男と何やら話している。
これはあれだ。シチュエーション的にあれだ。
足音を殺し、そっと建物の陰から様子を伺う。
しかし即気付かれてしまった、感覚が鋭すぎる。こいつ気とか使えるんじゃないか。
「何やってるんだあんたは」
「か、家政婦は……見た」
「また訳のわからん事を」
うむ、またもや通じないネタを言ってしまった。フレッドは少し呆れた様子で肩をすくめる。建物の陰から出て近づくと、男の方がぎょっとした様子でこちらを見ていた。唇を引き攣らせている、苦手意識を持たれたかもしれない。
「で、何か聞けたのか?」
「氏族と名前くらいはな、バルニ氏族のダヤンというらしい。む……丁度いいな、エフィちょっとこっちに来い」
「ぬ?」
手招きされて近寄ると、男……ダヤンは拘束されたまま器用に後ずさる。フレッドは屈み込み、視線を合わせるとおれをちらりと一瞥し、言った。
「お前もその目で見ての通り、この娘ははるか辺境に住む亜人の娘でな、その力は牛馬を捻り切り、矢も剣も肌を通らん。人の肉が何よりの好物でな、俺には懐いているもののたまに人肉を忘れると怒り出す、その時ばかりは手に負えなくてなあ」
「ぐ……ぬ」
フレッドはとんでも無い事を吹き込み始めた。ダヤンは顔色を青ざめさせ、ちらちらとおれを見ている。まて信じるな、おい。
「さて、お前もそろそろ自分がなぜ捕獲されたか判っただろう、聞けば先の町では酒宴に飽食を繰り返していたそうじゃないか、さぞかし脂も乗っているんじゃないか?」
「やめろ、やめろ、そんな脅しなど信用するものか……」
「エフィ、先程の煮込みの事だが、それはそれは肉と相性が良い、骨付き肉だと特に。出汁がディギに染み渡ってえもいわれぬ仕上がりになる」
急に振られた料理の話に反応しておれの腹が盛大に反応した。せつない。
「ひい……」
ダヤンも盛大に反応していた。口をわななかせ、小刻みに震えている。フレッドは趣味の悪い笑みを浮かべると、気持ち悪いほど優しい口調を作った。
「話の腰を折ってしまったな、まあどうせ戻れたとしてもあれほどの失敗だ、命はあるまい。どうせ無くなる命なら無駄にするのも忍びない。まずは脛あたりからいくか」
そう言い大振りのナイフを膝に当て、目印をつけるように薄く切る。ダヤンは情けない顔で唇を噛んでいたが、しばらくして限界がきたのか。がっくり項垂れた。
「話す……俺の知る事は全て話す、助けてくれ」
「ああ、いいだろう、その娘も正直者の肉は好かないのでな」
……おれはこの嘘付きの二の腕あたりに齧り付いてやろうかどうか真剣に悩む。
話自体は尋問とも呼べないものだった。フレッドとしては文字通り、ちょっと聞きたいだけだったのかもしれない。おれからすればよく判らない断片的な事……氏族の長が交代しただとか、国王の具合はどうだとか、一連の事に絡んできた商人の名前だとか。
フレッドも既に頭の中で予想は出来ていたのだろう、裏付けるための情報が欲しかったのかもしれないが、はたから聞いている身としてはちんぷんかんぷんでもある。
やがて聞き出す事はもう無くなったのか、フレッドはあっさり拘束を解いた。驚いて固まるダヤンを前にフレッドは温顔を浮かべる。
「なかなか実直な男のようだからな。お前に知恵をやろう、幸いにしてお前の手下だった兵達はあの場に居なかった。さらに言えば町の者はあの戦いを無かったものとしておきたい。お前は何食わぬ顔をして家に戻り、全財産をダーハル氏族の長に賄賂として渡し、自らの助命を頼め。ダーハルはバルニと手を結びたがっている。お前のところの長も本心では自らの民を殺したくはあるまい、頷くはずだ」
ダヤンの顔に見る間に生気が戻る。忙しく頭を働かせているのか、視線が彷徨っている。うわごとのように「確かに……確かに」と呟くのが聞こえた。
「分かったら行け、ここから北西の道筋を行けばシュクという小さな村がある」
そう言い、フレッドは無言で銀貨を十枚ほど渡してやった。ダヤンは声も出ない様子で手の中の銀貨を見ている。深く頭を下げると、きびすを返し逃げて行く。
「……お優しいのはどっちなんだ?」
おれが呆れ半分そう言うと、フレッドはにやりと笑った。
「無能な味方は少ない方が良く、無能な敵は多い程良いと聞く」
おれはその意味を考え理解すると、ため息を吐いた。
「酷いやっちゃなあ」
「蔑むか?」
思いのほか真面目な顔で聞く。何か妙な琴線に触れてしまったのかもしれない。おれは頬を一つ掻いて答えた。
「……よく解らないってのが正直なところだよ」
「そうだな、あんたには理解できまい。誰にもまして強いというのはそういう事だ」
「お、おう?」
妙に突っかかるというか、絡むというか。らしくないような。
困惑していると、フレッドはこちらの様子を一瞥し、力を抜くように肩をすくめて笑う。
「人が酷薄になれるのも弱いからだ。弱いから恐れる、知恵を巡らせ、時には必要のない殺しも行う。あんたみたいに何よりも強ければ恐れる必要もないだろう」
フレッドは空を仰ぎ、誤魔化すように乱暴に頭を掻き、忘れてくれ、と言った。
黄色い実はまるで薩摩芋のよう、歯ごたえは百合根で味はじゃが芋。
ディギというものは不思議な食材だった。あの形をしていたなんてまったく思えない。
羊肉の癖のある臭いは香草で上手いこと風味と呼んでも良いものになっている。こってりと濃厚な肉の出汁がディギに染みこみ、フレッドが言うようにそれはそれは美味いものだった。
こちらでもソバは栽培されているらしい、麺にはしないようだったが。ソバ粉に水と塩をいれて練ったものを焼いてクレープのようにしてくれる、煮物を載せ、刻んだチーズを乗せて食べる。ガレットというのだったか、何か違うような。
「ディギは強壮効果があると昔から言われている、ソバもまた、厳しい気候の砂漠を渡るためには食べた方が良いとも、そういう南部の料理だ」
「ほうほう、ところで……」
「たっぷり食っていいぞ、あんたの胃袋を考えて食料は多めに積んである」
「なんと!」
歓声を上げる、焼いてくれたものを次々と食べる。食べる。食べる。
「翼は動かなくなったが、尻尾が動くようになったな……犬か?」
背中は意識するようになっていたのだが、どうもその分尻尾が暴れていたらしい。困った。でもまあいい、美味いものがあればとりあえず細かい事は言わない。
「わんわん」
「……人の言葉を忘れたか」
「犬語だ察しろ。意味は、おかわり、だ」
たっぷり食べた後、淹れてくれたお茶を飲む。口がさっぱりして良い。脂の乗った料理の後だったのでなおさらか。
空を眺める。さすがに日はとっぷりと暮れ、一面の星空が広がっていた。毎度思うのだが本当に星や月が明るい。空気が乾いているせいかもしれない。月は妙に大きい気がするし、知った星座はない。
ふとフレッドのさっきの言葉を思い出した。
人は弱いから恐れる、そんなような事を言っていた。おれは恐れる感覚が残っているんだろうか。
手元の小石を握りこみ握りつぶす。意味もなく。さらさらと指の間から砂になりこぼれ落ちた。
「……やめた」
どうもシリアスな思考にはなれそうもない。とりあえず生物としては頂点に立っている感覚がびんびんしているので、最強生物的にのんびりパン食って生けていれれば文句はない。恐れる感覚云々は判りようもないが、とりあえず暢気な性格にはなっているようだ。今更人間の感覚を思って悩むのも馬鹿らしい事だろうし。ゆるく行こうゆるく。
月と星、それに竃の乏しい灯りとを頼りに、いつかもやっていた木彫り細工をするフレッドを何となく眺める。
小さいナイフを手に、無表情のまま黙々と木片を削ってゆく。彫っているのは鳥だろうか、かなり複雑な作りのようだ。敷物の上で胡座をかき、冷めてしまったお茶を一息で飲み干し、声を掛けた。
「なあ、お前の国の話を聞かせろよ」
フレッドは木彫りの手を止める事なく、少しの沈黙を挟み一言ぽつりと返す。
「退屈な話だぞ」
「お前は退屈でもおれにはそうじゃない」
「お前の国、とわざわざ言ったのは?」
「結構良いとこの出なんだろ? 思い出したがジラットも坊ちゃんとか呼んでたし」
それを思い返されるとは考えていなかったのか、フレッドは軽い渋面を作って額を指でこんこんと叩いた。おれはさらに続ける。
「なんたら氏族とか話に出てきたし、それも一つじゃなさそうだ。おれの予想だとその長とかの息子。それなら商家の娘のはずのミラベルさんと幼馴染みでもおかしくない、それに占いで出たからって、雇われた商人が思い付きめいた理由で進路を変えるか? 遅れが出るかもしれないのに。むしろ付き合いのあった商家に世話になってる客分みたいな奴、力を持て余して飛び出た良いとこ出の放蕩息子って考えるとぴったりじゃないかと思ったんだ」
「……確かに親不孝者の放蕩息子には違いない」
「やっぱりそうなのか?」
フレッドは苦笑を滲ませた。
「なにぶん兄達が多いからな、俺は俺で好き勝手やらせてもらっている。父の顔も数年見ていないな、もはや忘れられているかもしれん」
「数年って、たまには顔見せろよ……」
まったくだ、と言って肩をすくめる。もっとも、親に顔向け出来ないだろうってのは、人の事を言えたもんじゃないのだが。というか親の顔思い出せない、親に忘れられるのでなく親を忘れてしまっているおれの方がどちらかというと重傷な気もしてきた。そんな事をぼんやり考えている傍で、フレッドはどこか思いを遠くに馳せるように目を細め話を続ける。
「そうもいかん、兄達とは少し仲が悪くてな、長兄を除いてあまり顔を合わせたいものではない。まあ、察しの通りそれなりの一族の生まれだ、いろいろ面倒も起こる」
「面倒?」
「どこの家にでもある、つまらない揉め事だ」
困ったものさ、と肩をすくめる。肩を揉み、首を鳴らす。木彫りしてたら凝ったか。
「しかし、国の話か。話せというなら王都生まれのこの俺だ、郷土料理から庶民に大人気の花街の店まで話してやれるが?」
「ほうほう花街とな……今度ミラベルさんに告げ口しても?」
「……普段から男だ男だと言ってる割に男心を察せんな。あんたにはそれと正反対の堅苦しい話をしてやろう。歴史だ。ロライナという国は元々は東の地の辺境の民の名でな。ロラが地の名前を示し、イナは古い言葉で蛮族という意味がある」
「う……おお?」
なんでも蛮族と蔑まれたロライナ人は牧畜を行い、広くあちこちを巡っていたらしい、部族同士で緩い連合のようなものはあったが纏まりはなく国家の体を成してしてはいなかったそうだ。
ある時、一人の男がロライナの部族達を完全に纏め上げ、一つの国としてしまった。ロライナ人はもとより兵は精強で馬の扱いに長ける、これが一人の王の下に纏まるとその力は凄まじく、瞬く間に東の地を平らげ、翻って西へ、途中で中原と南方の諸国を飲み込み、西の海にある沿海の国々をも併呑してしまったと言う。
「そして出来上がったのが帝国だ。一代目は国を広げ、二代目は国を作り、三代目は国を壊したと言われる。この二代目がどこから持ち出してきた概念だか知らんが皇帝を名乗り、それまではただのロライナとだけ呼ばれていた国を帝国と呼ぶようになった」
フレッドは沸いたお湯で再び茶を淹れる。今度のはまた別の茶らしい。差し出されたので口を付けるとカモミールティーに似た香りのお茶だった。フレッドもそれを一口含む。
「この二代目は根っからの為政者だった。法を整え、道を整備し、わだちの幅を統一し、当時ばらばらだった通貨、文字、度量衡を定め、水の多い場所では治水を、少ない場所では井戸を掘った。前言ったと思うが伝馬制が整備されたのもこの時期だ」
……まあなんだ。話せと言っておいてなんだが、そろそろ頭が追いつかない。左の耳から入って右の耳から抜けてる感じだ。先程のお茶のほっとする感じも相まって眠気が、しかしフレッドはそんなおれの様子をちらりと見、片頬を上げて含んだ笑みを浮かべると話を続けた。わざとかこの野郎、負けん。負けんぞ。
「そして三代目の皇帝は、悪い意味でよく知られている。奢侈であり、珍奇な物を好み、女に溺れた。芸術家になっていれば成功したかもしれん、音楽や絵に造詣が深く、人々が酒の席に楽しんでいる何てことの無い歌や物語も実はこの皇帝が作ったものがかなりある」
前の町を出る時に門衛の爺さんが引用した「砂漠の娘」もこの皇帝の作品らしい。元は民間の間で伝わっていたおとぎ話で、それを物語にしたのだとか。フレッドはそこまで語ると腕を組んで嘆息した。
「だが、為政者としては最悪の部類だった。この皇帝は華々しい活躍を歴史に刻みたかったのだろう、まだ数十年は掛かるものと見られていた街道の設置を一代のうちに終わらせようと欲し、南の砂漠をさらに行き、山を越えるとぶつかる大国、一代目も手が出せなかった国に兵を出した。失敗に終わるとそれを隠すかのように北の山岳民族を征しに行く。それをも失敗すると、今度は西の海から大運河を引き、街道と合わせ交通の要所とすべく工事を始めた」
ハッとする。うとうとしていた、長い。というかどこかで聞いたような話だ。
……そうだった、確かリーファンに行く前にフレッドがちょっと言っていた部分だ。北と南に兵を出しすぎて内乱起こったのだったか。思い出したついでに欠伸が出そうになり噛み殺す。
「民は困窮し、反乱が相次いだ。鎮圧に出した兵は独立し、小国が乱立。弱りに弱ったロライナの皇帝と最初期から付き従っている四氏族は、かつて征服した砂漠の小国、ラウ湖のほとりの国ウテンに逃げ込んだ。これが現在の王都だ。百年程戦いに明け暮れた時代があり、国と国の境も曖昧になり、まあ、戦は何にもならないとでも思ったんだろう。いつしか連合国として纏まり、権威としてかつての栄光であるロライナを推戴するようになった」
眠い。おれはてっきり文系だとばかり思っていたが、単に頭が弱くなっているだけかもしれない。
だとしたら困った。こまった。
「そんな体制が続いてざっと百年と言ったところだ、戦争が終わると今度は商人の時代になった、半世紀は荒れ果てた国土の復興に費やされたが、その間に様々な豪商が現れ、未完成だった街道もこの時期に完成する」
「う……む、さすがに何だ。頑張った、ロライナ頑張ったおれもがんばった……」
適当過ぎる言葉と共に横倒れに倒れる。敷物のふかふか具合が気持ち良い。
せっかく廃屋を綺麗にしておいたのに不覚、眠い。
意識が落ちる前にフレッドがさも愉快そうに笑った気がした。
がこり、という鈍い音と共に馬車が止まる。
馬車の車輪が窪みにはまっていた。おれが後ろから押すと抜けだし、再びゆっくり馬車が動き出す。ポケットからビスケットを取り出し囓り、馬車の横に並んで歩いた。
道が荒れている。というかすでに道じゃない。
昨日のオアシス集落跡地からひたすら西に進んでいる。途中で北に分岐する道があった、あれがシュクという村へ通じる道筋なのだろう。ただフレッドの目的地はそこではなく、西にあるアルトーズという町らしい、北の山脈が南に出っ張っているような場所だそうで、二つの小高い山に囲まれた盆地にあるのだとか。良質の岩塩が採れるので、ここで岩塩を仕入れ交易中心の町で捌くというのが手堅い商売らしい。
普通に街道を行けば四日はかかるところをこの道で行けば一日で到着できるというのだが。
「なあ、こんなゆっくりで本当に近道になってるのか?」
「なっているさ、大きい街道は敷設に土地の条件がある、山を大きく迂回するように作られているからな」
ほう、と気のない相槌を返し、車輪が噛みそうになった石を蹴飛ばす。
周囲は山を越えた時よりもさらに荒涼としていた。というかこれは砂漠地帯と言ってもいいんじゃないだろうか、目に映るのは縞模様の見える脆い岩山と、同じ色の大地。草の一本も見あたらない。
途中までは道沿いに石が並べられていたのだが、気付いたら見えなくなっていた。砂埃がかなり舞っているので、埋もれてしまったのかもしれない。南の空を見れば黄色い砂で薄ぼんやりしていた。風で砂が巻き上げられているのだろうか、絶対に飛び込みたくない。口の中がじゃりじゃりになりそうだ。何となく首元に巻いた布を引き上げ口を覆った。
途中岩陰に入り短い休憩を取る、パンに燻製肉と葉菜の漬け物を挟んだもので簡単に食事をし、トーリアにも先のオアシスで汲んだ水と積んであった秣を食べさせた。
手持ち無沙汰だったので、御者台の後ろに結わえ付けられているケースを手に取ってみる。
「フレッド、ちょっと弓触らせてもらっていいか?」
「構わんが無理に引いて壊すなよ」
どうも信用がないようだ。弓を取り構えてみるとそんなに大きくはない。一メートルあるかないかといったところか。M字型にカーブしていて、向きを変えると何というかブリティッシュな紳士の鼻髭にも見える。弓弦をつまんで引いてみると結構引きが強い。思い切り引くとぶちっと切れてしまいそうだし、力加減がなかなか。
「あのなあ、エフィよ。弓は肘を曲げたまま引くもんじゃない」
見ていたフレッドが呆れた様子で口を挟んだ。
「というかな、普通は引けん。それで力が入る方がおかしい」
一つ頭を掻くとおれの後ろに立ち手を取った。右手の弦のつまみ方も違ったらしい。というか親指を引っかけて引くのか。フレッドは矢を一本取ってくると弓につがえてくれる。こうだ、と腕を取り教えてくれた。親指で弦を引いたまま人差し指で矢を支え胸の前へ、左手の弓を押し出す感じで引く……と。
うむ、何だか形になってる気がする。
地面に水平に矢を射る。ぶん、と弦が響いた。結構な勢いで矢は真っ直ぐ飛び、やがて地面に刺さる。
「おおー、結構飛ぶんだな、五十メートルは行っただろ」
「メートル……? まあ、軽いやじりで遠射用の弓を使えばこの十倍は飛ぶ。今のは一番重い矢だ」
「十倍っておい……」
「戦争やってた頃には城壁の外から町の中の見張り台、その上の兵士を射落とした話もあるくらいだからな」
弓矢のイメージが崩れた。もうちょっとこう、原始的なものだとばかり。これがカルチャーショックか。違う気もする。
「気に入ったなら貸してやるさ、狩りにでも使っていれば自然と上手くなる」
「いいのか? いや待て、フレッドの武器が無くなってしまうんじゃあ、いざって時困るだろ」
「俺は武器は選ばん、一応棒とナイフもあるしな、いざとなればトーリアで逃げればまず足の速さで捕まる事もない」
器用な奴だった。そういえば最初会った時は剣使っていたか。ふと思い出した。
「なあ、フレッドが襲われてた時、剣使ってただろ、あの剣は?」
「あの時は無手だったな。敵が持っていた物を奪っただけだ。あまり質の良い物でもない、あのまま捨て置いたよ」
「護身の武器とか持っていかなかったんかい」
「占事で動くのに武器は不祥だからな。生き残ったのだから良しとしてくれ」
命知らずというか何というか、ジラットが言ってた命を軽んじているって奴だろうか。
ともあれ、こちとらちょっとやそっとで危険に陥る事がないので、弓矢は丁重に返しておいた、やってみたかった気もしたが。
「こんな世界だし、リーファンの町に戻ったらおれも護身の武器の一つくらい調達しておくべきか」
「殴れば石を割れるあんたにことさら武器も要らんと思うが、買うならアルノーで見てみると良い、シャルムから入ってくる武器も流通している。木目模様の鋼でな、錆びなくて扱いが楽だ」
木目模様の鋼という部分が何か頭に引っかかった。何だったか、そう、ゲームなどではお馴染みだったはず。あれだ、あれ。もどかしい、喉に引っかかって出てこない。
「……ダマスカスソードだッ」
「なんだそれは?」
通じるわけがなかった。
しかし、ダマスカス鋼のようなものがあるのなら胸が弾むというものだ。確か現代では技術が廃れて幻の製法になってたはず。別にナイフマニアとかその手の趣味はなかったと思ったが。
なんにせよこれからの楽しみが一つ増えたというもの。
ニヤつくおれを胡散臭そうに見ながら、そろそろ行くかとフレッドが促す。
岩陰から出れば、真上にある太陽が燦々と荒れた景色を照らしている。きっと夏になれば焼き付けるような日差しになってくるのだろう。ふと、空を飛び続ければあの太陽にもたどり着けるんじゃないかという思いがよぎった。果たしてあれはおれの知るように恒星が輝いているものなのか、確かめてみたくもある。
苦笑して頭を振った。ゆっくりとした速さで進む馬車を追いかける。砂埃を含んだ乾いた風が吹きつけ、慌てて首元の布を口まで引き上げた。