採光のために広く取られた窓から漏れる日差し。その日差しの中でひらひらと動く羽根ペンを何となく目で追う。もはや指と一体化しているんじゃないかというくらいに馴染んで見えるペンが縦横無尽に紙の上を走り抜け、あるいは弧を描く。
ペン先のインクが切れたのか、インク壺に先をちょんちょんと浸し、ペンの持ち手は続きを促すようにこちらに視線を向けた。
一つ頷くと、代筆してもらうお話の続きを語るために頭の中で軽く整理する。
「んー、そうだなあ。そして人の言葉を喋る犬に連れられ、辿り着いたのはアルノーの守護竜の巣。身の丈は山を抜く程大きく、丈夫な大顎は雄牛を一飲みに出来るほど。ただ、そいつは見る見る間に小さくなり、気付けば目の前にいたのは到底人間とも思えない綺麗な男だ。主人公の少女はそいつに必要な事と、もしかしたら必用になるかもしれない知識を教わったんだ」
「ほう、それはそれは……竜退治といかなくて何よりです、祭りも近い事ですしな」
ほっほと笑いを上げ、白い髭を蓄えた代筆屋の主人が再び筆を動かし始める。
何かと言えばミラベルさんに不定期で送っている報告書、ちょっとばかり荒唐無稽なフィクションの形をとった旅行記だった。
そんな三流ファンタジー仕立てのそれとは別に、一応の報告書、どの道を取り、一日どのくらいの距離を行き、宿について、食事や町の人の様子なども別口で書いている。もっともこちらも報告書というには大分緩めのものだった。むしろ大雑把で良いらしい、細かい報告より、商人でない立場から見た印象が聞きたいのだとか。本分はジラットやミラベルさんをやきもきさせているフレッドの護衛兼お目付でもあるわけだけども。
む、と腕を組んでふと考える。
おれが思うのもあれだが、フレッドもまた常識の枠外の奴だ。
怖いモノ知らずというか、別に死にたがっているわけでもなさそうだけど、それにしては危険なところにあまりに易々と入ってしまっていけるというか。自分の強さに自信があるからと思っていたけど、何となく引っかかりを覚えなくもない。
そんな疑問を覚えたのも束の間、代筆屋の主人が手紙を書き終え、確認のために読み上げる。
……うん。ほとんど冒険譚になってしまった。話を盛ったとはいえ、そう嘘でもないとはこれいかに。
ともかくそれで良しと頷くと、代筆屋の主人は手紙を丁寧にたたみ、幅広の紐で縛ると、蝋で封をした。固まらないうちに机に置いてある印を押す。何でもその印に描かれた絵でどこの町の誰が筆を取ったのか判るらしい。人の秘密を簡単に知ってしまえる仕事なだけに、そのあたりの事はきっちりしているようだ。
手紙を受け取ると、紙の手触りがこれまで触ったものとは違う事に気がつく。むしろ紙というより布のような。
「……原料でも違うんかな」
指で撫でながらそんな事を呟くと、代筆屋の主人は笑みを見せ、言った。
「ええ、その通りですよ。お嬢さんは東かたから来なすったのでしょう。あちらは桑の紙が主流ですからね。こちらは亜麻が素になっているものが多いのですよ」
「ほほー」
ところ変われば品変わるという奴だろうか。
紙の事なんてまるで気にしていなかったけど、考えてみればあれも作り方は色々あったはず。
後でフレッドにでも聞いてみるとしようか、などと思いながら代金を払い、代筆屋を後にした。
◇
屋外に出れば空は快晴、雲一つ無い青空が広がり、一足も二足も早いだろう夏らしい日差しが照りつける。活気溢れるアルノーの人達もどこかこの強い日差しには辟易しているようにも見えた。なまじ地面が石畳で舗装されているだけにこれで本格的な夏到来となったらほぼ石焼き状態になってしまうのでは、なんて余計な心配も抱いたりする。
軽い傾斜のついている街路を歩き、ひときわ古い内壁に囲まれた中央へ。
途中でデーツだかなんだかという大きめのブドウの実のようなもの、それを干したものが売られていたので、買い食い。干し柿に近いんだろうか。食感は割としっかり、こってりした甘さがある。
街の中央というのは概ね重要な施設があるような気がする、ただこのアルノーではちょっとばかり事情が違うようだ。
昔はもしかしたら違ったのかもしれないが。今では北、南、西と住み分けている商会により三頭政治じみた事になっているらしく、その中央、何層にも重なる城壁に守られた中央区画は、そんな商会同士の緩衝地帯としての役目を果たしているのかもしれない。
中央の丘には大きな教会がでんと建てられ、付近には出店が立ち並び、あるいは十本も弦のある楽器を弾き流している者もいる。祭りやパレードなどもここで行われるそうで、市民の憩いの場でもあり、旅人がまず立ち寄りたがる場所でもあるのだとか。
出店には様々なもの、色とりどりの食べ物やら工芸品やら、目を惹くものが所狭しと並べられ、威勢の良い掛け声がひっきりなしに響いている。
先日行った古物市とは違い、こちらはとにかく人が多い。巡礼の人の姿もまた多く見る事ができた。旅のための足がかりでもあるのだろう。あるいはもしかするとお土産でも買って行くつもりなのかもしれない、何しろ聞いた分では巡礼の旅と言っても、今ではすっかり宗教的なものは薄くなってしまっているらしいし。
買い手はもちろん外部の人間だけじゃない。フレッドが言うにはここの市民もまた、物を買う事売る事は幼い頃から慣れ親しんだ日常的なものらしく、確かにそこかしこで楽しそうに買い物をしている姿が見える。
ふと、感ずるものがあり、何となく手を打った。
そうだ、こう……風景がどことなく現代風というか、市場がしっかりした枠組みの中で動いているというか。アルノーに入ってからどことなく既視感を感じてもいたのだ。よくよく考えてみればこういう光景はこちらに来てから初めて見たものかもしれない。値段がしっかり決まっていて、分かり易く提示してあり、商品のここが良い、ここがオススメ、というアピールと共に店主は接客用の愛想を振りまく。
ありそうでいて無かった光景だ。
すっきりしたものを感じて気分が良くなる。うんうんと頷きながら、人波に混じって歩いていると、ひときわ大柄な体が身を屈めるようにして露天の品を眺めている姿が目に入った。
「……と、いたいた」
仮にも商人の片割れでありながら、相も変わらずその表情は柔和とは程遠い。ただ、好奇心を湛えた黒い瞳と口元に浮かぶかすかな笑みが多少その顔を穏やかなものにしているかもしれない。
ちょっとした悪戯心を起こして、品物に集中しているその姿に向かい、そろりそろりと足音を消して忍び寄ってみる。
どうやらフレッドが熱心に見ているのはガラス細工を扱っている店のようだった。
ガラス細工……と言っても、基本的にはお高かったはず。とはいえ、お土産としては丁度良いのかもしれない。敷物の上に木の板で段差を付けてあり、そこに品を置いている。ガラスの小瓶、それにアクセサリーに使うのだろうか、複雑な色合いをつけたビーズのような物なども所狭しと並べられている。
そのうちの一つ、インクでも入れるような形の小瓶、何の変哲もない透明なそれにフレッドは興味を惹かれているようだった。
手に取り、ふむ、と口の中で呟く。ひとしきり眺めたのち、店主に顔を向けて言う。
「何か新しい製法でも伝わったのか?」
痩せた壮年の店主はほう、と感心したようにつぶやく。
「分かりますか。専門に扱っている私共でも中には見逃す者もおったのですが」
「アルノーで出回っているものについては訪れる度に見ていてな。幸い、記憶力も悪くない。これほど色の無いガラスがこの界隈に出回った事は無かっただろう?」
「ははあ、なるほど良く見ていらっしゃる。確かにこの水晶のごときガラスが作られるようになったのはここひと月、ふた月ほどの事でしてな。なんでも北方から流れてきた技術だとかで、これまでより格段に簡単に透明なガラスが作れるらしいのです」
ほほう、とフレッドは興味深げに目を細め、髭の伸び始めた顎を撫でる。
「徒弟にも作らせているとなると、余程熱が入っていると見える。職人達は今頃尻に火がついた牛のごとく、じゃないか?」
「まさに、熱心にやりすぎて火傷をこしらえている者ばかりですよ。何分作る費用も期間も半分どころかさらにその半分にまでなってしまいますからな。それはもう身につけなければ今後仕事になりません」
フレッドはなるほどな、と一つ頷くと、端の方に置かれている青い小瓶を手に取った。あまり目立たなかったが、細かい装飾がついていて、他のものと比べると随分出来が良さそうだ。
「良い話を聞かせてもらった。これと併せて買わせてもらおう。それとエフィ、何か欲しいものでもあるか?」
こちらを見もしないままに声をかけてくる。
……あれか、気とかやっぱり読めたりするのかこの変人は。息を殺して静かに後ろから見ていたというのに。
驚かしてみようなんて少し考えていたものの、結構な難題だったかもしれない。溜息を一つ落とし、フレッドの横に並んだ。
「しかし、何で気付くかなー」
「店主の視線が行き来していたからな。それに後ろが少々静か過ぎた。人混みの中で気配を殺すのは独特の技術が要るものだ」
「……さよでっか」
適当に流し、並んでいるガラス細工を眺める。お土産に持って帰ったりすることを想定してか、割れやすそうな大きな物は置いて無く、荷物となることも無さそうだ。
ふと篭の中のガラス玉に目がとまり、自分の髪と似た色のものを二つ取り出す。
「じゃあ、これを」
と出すと、店主が妙な笑みで、じゃあそれはおまけにしておきましょう、などと言う。得はしたが、何だろうか。
ガラス玉といってもビー玉のようなものではなく、中心部に穴が空いていて紐を通せる。この間買った古着の止め紐にでも付けておこうかと思ったのだ。
そのまま中央広場を買い食いなどもしながらぶらつき、一通り見て廻った所で、フレッドはお目当ての場所があるらしく中央から外れて西寄りの城壁二層目、ちょっと路地を入った場所に行く。
付近には小さい水路が通っているらしく、潮風とは違った淡水の臭いがした。石畳の路地であるのは変わりないものの、あまり掃除する人もいないのか、表通りとは違い、ちょっと小汚い感じだ。両側は民家らしく、洗濯物がロープに干され、隣では老婆が木臼で何かを練っている。
生活感溢れる路地の一画、フレッドを出迎えたのは片足が無く、杖をついている壮年の男だった。
気むずかしげな顔を崩さず、フレッドを見てふむと頷き、無言で入ってこいと手招きをする。それでも歓迎しているのか、水瓶から水を組み、長椅子代わりらしい、壁と一体化している台に腰掛けたフレッドとおれに差し出してくれた。
「久しいな、レドリック、変わらず壮健そうだ」
「あんたもピンピンしてるようで何よりだ、しかし相変わらず義足を使わんのだな」
「ありゃあどうにも合わなくてなあ、いっそ無い方がすっきりしていい」
フレッドはかすかに笑い、水を飲み干す。
しかしなんだ……
「レドリック?」
フレッドの下の名前とか……なんだろうか? いや、フレッドのフルネームとかそういえば知らなかったか。今更すぎる。
おれの顔を一瞥すると、フレッドは苦笑し、片足の男に向かって言った。
「ドニーノ、今の俺はフレッドと言う名で通っている。商いをやるのに前の名は些か不味い」
「……ああ、そういえばそんな事を言っていたな。偽名か?」
「前の名がな」
「ん、ああ。なるほど、本来に戻ったという事か。なら俺もこれからはお前の事をフレッドと呼ぶようにしようか」
フレッドは肩をすくめ、好きなようにしてくれ、と言う。自分の呼び名にはどうもこだわりが無いらしい。
ドニーノと呼ばれた男は気むずかしい顔のまま器用に口だけで笑った。
しきりなおすように、それで、と続ける。
「旧交を暖めに来たにしては時間が早い。用事か?」
「ああ。剣を用立てて貰おうと思ってな、多少鈍くても頑丈な物が良い、シャルムから入った剣で出物は無いか?」
「ほう……得物に拘らないあんたにしちゃ珍しい事だ、ふむ」
ドニーノは目を細め、何か意味ありげにこちらをちらりと見、再びフレッドに目を戻す。
「女でも守るのか?」
フレッドは思わず、といったように吹き出した。笑いを噛み殺しながら言う。
「ふ……くく。ドニーノ、それは一流の冗談だ。こいつはこんなナリだが、俺が守れる手合いじゃない」
「あァん?」
いとも納得いかなげな顔をし、ドニーノのしかめ面がこちらを覗き込む。
「……うむ、判らんな、結局何だ?」
不思議そうに首を捻り、フレッドに再び視線を戻した。フレッドは未だ余韻が残っているのか、微かに笑いながら口を開く。
「こいつ用だ。刃渡りは短くて良い。丈夫なのを頼む」
「丈夫……ふむ、だからシャルムか。ディマス鋼を求めるかい。しかし……あんたの言うこったから何かあるんだろうが、お嬢ちゃんにゃ包丁かそこらの短剣で良いんじゃないか?」
「お嬢ちゃん……お嬢ちゃんね。だそうだぞエフィ。そこらの短剣でいいか?」
「む?」
──そうだ。遅ればせながら思い出した。
そういえば、木目模様の鋼があるのだとか言っていた。ダマスカス鋼みたいなものがあるのかとちょっと心惹かれていたのだ。フレッドはしっかり覚えていてくれたらしい。
「ええと、そのディマス鋼ってのが前言ってたアレなのか? 錆びなくて扱いが楽とか言ってた」
「おお。ついでに言えば丈夫極まりない、求める者も多く、常に品薄なものだが……ドニーノは研ぎ専門でやっている珍しい奴でな、研ぎ師としての腕はアルノー一だ。あちこちの鍛冶屋、武器商人に顔が効く。心当たりの一つもあるだろう」
ふむ、とドニーノは腕を組んで口をへの字に曲げ、やがてぼそりと呟いた。
「銀貨で十、即用意できるなら、当てはある」
「……十か? 随分安いな、倍は見込んでいたが」
「だから即だ、今日中に金を返さねば色々無くしてしまう鍛冶屋が一人居る。蹄鉄でも打っていれば腕の良い奴なんだが、剣に取り憑かれちまっててな、真似しようとして取り寄せたシャルムからの武器も何本か持っていたはずだ」
「なるほどな、弱みに付け込むようだが……借金は自業自得か。しかし、腕を惜しんでいるようだが、お前は助けてやらんのか?」
何となく、と言ったようにフレッドが聞くと、ドニーノはうんざりしたかのように天井を見上げ、肩をすくめる。
「あいつに貸した金が戻ってきた試しがねぇんだ。鍛冶屋としちゃ良いが人間としちゃ酷ぇもんだからな」
「……なるほど、困った奴らしい。さて、エフィ、こんな所だがどうする?」
「お、おお。なんかぽんぽん話がまとめられてしまった気がするけど、えっと、銀貨で十なら何とかなるかな」
財布代わりの革袋を探るとまだそれなりにお金には余裕がある。
出そうとしていると、頭をとんとんと小突かれた。
見ると、いつものごとく皮肉げな笑みを作るフレッドの顔があった。
「おいおい、俺は勝手に商談を進めておいて人に払わせる趣味は無いぞ。ここのところ面白い事に巡り会えているからな。その礼だ」
「いいのか? 太っ腹だなフレッド」
太いか? と自分の腹をさするフレッド。意味が通じなかったらしい。そんな事もある。
物が手に入ったら宿に届けるというので、ドニーノの家を後にし、積荷の確認のためにハーマン商会の支所に足を運ぶ。支所長のヨセフは留守にしているとかで不在らしい。どこか神経の細そうな若い男性が応対に出てきた。こちらもちょっとばかりあの人は苦手だったので、内心ほっとするものを覚えたりもする。
木板に書かれた積荷のリストをフレッドは思いの外真面目な表情で確認し、ざらりと顎を撫でてゆっくり頷いた。
「無難だが良い揃えだ。香に薬、宝石も良い場所のが入っている、龍涎香が手に入ったのは大きいな。苦労したろう?」
「ええ、そう言って貰えると甲斐があります。なかなか所長は地道な手回しはしてくれないですし」
男性が少し疲れたような溜息を漏らす。フレッドは軽く苦笑を浮かべ、目録を返した。
「そう言ってやるな。アルノーでは仕入だけでなく他の手腕が殊更に必用な場所だしな」
「ええ、判ってもいるのですが。ともあれフレッドさん、荷積みと出発はいつ頃にしますか? 港の船乗りが言うには明日は少し天気も悪くなってくるらしいですが」
「……まあ東に向かう分には雨雲は追いかけて来ないからな。それにせっかく手際よく手配してくれたんだ。明日の朝には出立するとしようか」
「あ、いえ。急かしたつもりはないのですが」
「なに、前回の日程では少し遅れを出してしまったしな、今度は早く着いてやろうってだけさ」
フレッドは気にするな、と言うように手をひらひらと振った。
倉庫に積まれた荷をフレッドは一つ一つ見定めてゆく。最初から東に定期的に持って行く品はともかく、その他に運ぶ荷の裁量は任されている。品はリーファンを経由し、そこからさらに王都と東方に流れるものらしく、そちらで高く売れる物を選ぶのもまた役割らしい。
さらに細々とした手続きを終え、宿に帰る頃には既に日が半分海に沈んでいた。
夕焼けで赤く染まった町並を歩いていると、フレッドがふと思い出したかのように振り返り、海の方を見、目を細める。
「確かに少し海の色が悪いな、あまり強い雨なら少し見合わせるか」
「んー、雨は駄目なのか?」
「街道も水が溜まらないようにはなっているものの限界はある。さらにアルノーからはすぐに登りの斜面だ。人はよくても馬がきつい、蹄が滑る上に大荷物を引くわけだからな」
なるほど、と納得。そういえば来る時も向かい風の時は休憩を多く挟むようにしていたような気がする。色々気を使う事は多いらしい。
「それでエフィの方は、あの黒いお仲間には挨拶して行かなくていいのか?」
「黒いお仲間……っておいおい。まああいつは特に時間の尺度も違うしなあ、一年や二年くらいだと、人間の感覚で言うところの、ちょっと席外す、ってなもんだ」
「……先日会った時は久しいって言ってなかったか?」
「二百年ぶりくらいだったからじゃないか?」
それは確かに久しい、とフレッドは呆れた声を宙に吐く。
気を取り直すようにごきりと首を鳴らすと、さて、と呟いた。
「これでアルノーともしばらくの別れだ。今日は海の幸を存分に味わう事にしよう」
無意識に喉が音を立てそうになる。
かといって、ここで反応を示してはまたもやからかいのネタにされてしまう。機嫌よく動きそうになる尻尾と翼を抑え、気付かれぬように静かに深呼吸。それがどうした、と取り澄まし見返してみせた。
「エフィ、目がその言葉を待っていた、と言っているぞ」
「ぬむ……」
小さく唸り、息を吐く。
どうにもこの体は無類の正直者で困る。とはいえ仕方無い、今は欲求に素直に従う事にしよう。
手を伸ばし、にやつく大男の腕をむんずと掴む。
「おっし、行くぞフレッド。可能な限り全速力で!」
「な……! 待ッ」
言葉は最後まで言わせず、一息で肩に担ぎ上げ、力強く道路を蹴った。
◇
鯨の油を使っているらしい。店内は独特の香りが漂っている。
その穏やかながら光量に乏しい明かり、それに照らされた短剣を眺める。
木目のような模様。
冷たく、滴を発するような冷たい剣身。長さは二十センチほどだろうか。装飾は無く、シンプルでずしりとした重さがある片刃の剣だ。
……握りはちょっと手に余るけれども。
昼に会ったドニーノが宿としている酒場に短剣を届けてくれたのは、勢い込んで魚料理を食べ、皿の山を築き上げた後だった。
酒場の常連客は短い期間ながらも見慣れてしまったようだったが、ドニーノはそれなりに驚いたらしい、気むずかしげな顔のままあんぐりと口を開ける顔を見て、おれもフレッドも思わず吹き出しそうになってしまった。
食後の満足感も手伝い、上機嫌になっているのを自覚しながら短剣の刃を指で撫でる。
「うーん何とも格好いい」
「切れ味そのものは普通のと大差はないがな」
フレッドが杯を傾けながらそんな夢のない事を言った。
せっかくのダマスカスソード……みたいなものだというのに。
もっとも、聞いた限りでは、伝説の凄い金属というわけでもなく、錆びにくく耐久性に優れているというだけらしいけども。
おもちゃを貰った子供のような気分を自覚しつつ、短剣を皮の袋に入れ、紐で縛る。
──ふと足に重みを感じた。見れば琥珀色の瞳がこちらを見返す。砂ネコのミアが暗くなった事で起きだしたらしい。音も無く忍び寄るさまはさすがに砂漠で生きるハンターなだけある。
「ん、腹減った?」
と聞けば、にゃあと鳴く。
テーブルの上に残っていたカルカスだかカラカスだかというでっかいヒラメの蒸し物からなるべく塩気の無さそうな所をむしり、咥えさせる。
テーブルの上には顔を覗かせようとはしない、膝の上でもそもそと食べ、食べ終えると催促するかのように尻尾を立て、顔をすりつけてくる。
あまり甘やかすのもどうかと思いながら、もう一ちぎり。
手の平の上に乗せて出すと、直接食べ始めた。
ミア自体はまだまだ体も小さい、それにしてはよく食べるものの、量としては何ほどでもない。二つ三つと食べさせているうちに満足したのか、膝の上で丸くなり寝始めてしまった。
「……太りそうだなこいつ」
長い耳の後ろを撫でながら呟く。フレッドが酒のつまみにとヒラメを小さなナイフで削ぎ取り口に入れる。空になった杯に酒を注ぎ足しながら言った。
「リーファンに着いたら館の貯蔵庫でも守ってもらうか、毎年ネズミがつまみ食いをしていくからな、いい運動になることだろう」
「あー、やっぱりその手の悩みはあるのか」
「ああ、特に干した果実などは真っ先にやられる。少し町から離れれば地味の悪い土地だからな、ネズミもそこを心得ていてあの付近に結構な数が住んでいるんだ」
「だってさ、ハーマン商会のネズミ取り猫としてなら就職先があるらしいよ」
半分寝ているらしいミアに語りかけながら軽く撫でると、ゆるゆると尻尾を振って答えた。
◇
空は暗い色の雲に覆われ、届く太陽の光は鈍い。
早朝から街を行き交う人達もどこか元気や明るさに陰りを見せている気もする。
朝市で新鮮な食料を買い込み、篭の中に山と積んで歩く。バランスが崩れれば悲惨な事になりそうだ。道行く人の中には頭の上に布を巻いて、その上に大きな篭を乗せて荷を運んでいる姿も結構見られるのだが、到底真似できそうにない。なんせ力だけはあるので大きな篭を抱えてもそりゃ平気なのだが、バランスとれるかどうかはまた別問題なのだ。篭の中の芋が転げ落ちないようにそろそろと歩く事にかえって精神的な疲れをすら感じる。
「んー、ひとまずこんな所かな」
頭の中で買い出しリストを思い出しながら呟いた。パンや小麦、水といったものは商会の方で用意してくれたらしい。今頃馬車に荷積みをしている最中だろう。
途中で舟形のパン……の中に細切れ肉だの野菜だのの煮物が詰め込まれて焼かれたピザのようなものを買い食い、ピザに近い発音だったか、もちもちしてて腹持ちが良く、朝食に食べている人も多いようだ。カロリーの程はどうかといえば、食べている人にドラム缶のような体型が結構目に付く事でしっかり保証されている。
「買ってきたぞー」
商会支所の裏手に回り、馬車に荷を積んでいるフレッドに声をかけた。すでに馬具を装着しているトーリアが耳をピンと立ててこちらに顔を向ける。篭の中の野菜に目移りでもしたかもしれない。
見ればまだハミをつけていないようなので、買ってきた中からリンゴを一つ取り出し、一口大に割って差し出す。手の平に乗せて出すと慣れた様子で齧り付き、もぐもぐとやりだした。
馬車の幌の中からフレッドが出てきて、ご苦労さんと声をかけてくる。
「荷物はもう積んだ?」
「ああ、大物はもう済んだ。最後に馬の食料と隙間に敷布を詰めて終わりだ」
荷を固定していたのだろう、余ったロープを腕でぐるぐる巻き直しながら答える。
なお物欲しげなトーリアにさらにリンゴを食べさせていると、倉庫となっているらしい奥の方からここの支所長であるヨセフが出てきた。こちらに目を向けると、穏やかな笑顔を作って軽く会釈をする。フレッドに何やら封をした書簡らしきものを差し出しながら言った。
「もう行くかねフレッド。私としては少々別れを惜しみたいところだよ」
言われたフレッドは呆れたような息を吐きつつその書簡を受け取る。
「ぬかせよ、お前が惜しみたいのは俺じゃないだろう」
「ああ、まったくその通りだとも。飾らずとも既にして美しい花、手を入れればなお、という女性を前にして気を引く間もないとは!」
少し笑ってしまうような大仰な仕草で嘆きながら、こちらに近づき、膝をまげて目の高さを合わせる。先程の大仰な仕草の間に手品のごとく取り出したらしい、手の中には花の形の銀細工、ブローチか何かだろうか、それをこちらに差し出した。ずずいとおれの目の前に。どうしろと。
「どうかお受け取り下さい、銀は旅中の災いを払います」
「え……あ、えーと」
「さ、どうぞ、どうぞ。巡礼のクロークも清楚で良いものですが、飾り気の一つ程度はあってもよろしいでしょう」
と、それを強引に手に握らせると、にっこりと微笑む。
「是非またお会いしたいものです、アルノーでは楽しんで頂けるところが多いですからな」
何を求めるわけでもなく、自然な動きで身を引く。
手には残されたブローチ。
うむ、何と言うか。どうしよう。
「エフィ、そう固まるな。あまり深い意味もないぞ、貰っておけ」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべたまま、フレッドが言う。
一つ頬を掻き、礼は言っておかないと……と思い直して、ヨセフにありがとうと言っておく。
「何の何の、フレッドの言う通り、さほどの深い意味もありませんからな、気軽に使って頂ければ嬉しいものです。次にお会いする時まで今と変わらぬ純心さを、との願いからモチーフは百合の花です、寂しい男やめもの身勝手な願望と思われるやもしれませんが、返り燕は白い花を目印とする、とも言いまするゆえ」
こちらでも百合の花は純心とかそっち系の花言葉でもあるんだろうか。知りたいような知りたくないような。何とも微妙な気分のまま、おれは少々こわばった笑いで返した。
商館を後にし、途中、宿泊していた宿で挨拶と、部屋に置いてあった荷物を引き上げる。寝台の下で寝ていたミアが気配に気付いたのか起きてきた。しゃがんで手招きをすると心得たもので、手を伝って駆け上がり、首の後ろのフード部分に潜って落ち着く。
「おう、お嬢ちゃん、機会があったらまた来なよ!」
コックもやっていた宿の主人がそう言い、道中食ってけと、特製のものらしい、大きなパン、一抱えもありそうなそれを持ち出す。
「うおっ! でっか! 良いの?」
「おうさ、たんまり食べて、金払いも良い。これ以上無い上客だ。このくらいはしないとな、道中の無事を祈ってるぜ」
「おお、ありがと、おっちゃん」
抱えたパンを空いてる袋にしまいこむ前に少し千切り、一口食べてみる。
焼きたての香ばしさが口に広がり、もちもち系の生地の、中々に食べでのあるパンだ。肉と相性が良いかもしれない。
「うん、やっぱり作りたてだよなあ、パンは」
「朝飯もあんだけ食べたってのになあ、ほんっとお嬢ちゃんみたいなのは初めて見たぜ」
呆れ顔の宿の主人に手を振り、馬車に戻った。御者台に上って、待っていたフレッドに獲物のパンを取り出し見せる。
「どうよこの大きさ。食いでがあるぞ。きっと釜一杯に使って焼いてくれたに違いない、美味かったし!」
「……まったく色気より食い気だなあんたは。ヨセフも報われんもんだ」
「と言われても困るなあ、そういえばブローチどうしようか」
「こだわりが無ければ服の留め具にでも使っておけばいいだろう、見たところあいつが懇意にしてる職人の作らしいしな、質自体はなかなか上等だ」
上物らしい。審美眼に欠けているのでちょっと判らないのだが。ともあれ安全ピンのような構造になっているので、前重ねになっている服を留めてみる。大きいボタンくらいのサイズなのでそう派手派手しくもない。
百合の花を横から見たような形をしていて、こてこて飾られたリング状の外枠がある。
「銀細工の本場は南方なんだが、そっちは身につける細工物の種類で身分を判りやすくしていてな。一国の王のものともなるとそれは絢爛豪華なものらしい。余りの眩しさに目が潰れるので表に出せないというが、単に重すぎて身につけたくないというもっぱらの噂だ」
「ほほー、重すぎて身につけたくないブローチってのも凄いな。どんだけでかいんだよ」
「さてな、それは目もつぶりたくなってしまう程の金額で作られたものだろう。特に国の高官がな」
さらりと含みのありそうな事を言いながら、トーリアに手綱でもってゆっくり歩く事を指示する。
幾重にも重なる城門を通り抜け、一番外側の、ひときわ高い城壁の近くまで行くとフレッドが怪訝そうな声を上げ、幾らか考えた後、馬車を道の端に止めた。
大きな葉を持つ木の下で敷物を広げ、香炉を前に座る老婆がいる。
目が不自由なのか、フレッドが前に立ってもその焦点が結ぶ事はなく、どこか遠く、あるいは別のところを見ているかのようだ。
「占いですか」
誰かが前に立った事には気付いたのだろう、青い瞳は焦点を結ばないまま、白い顔をかすかに上げ、言った。
「ああ、以前少し占ってもらったが、面白い当たり方をしたものでな」
「それはようございました」
「もっとも言葉は少々重すぎたようだが……今一度、今後について占ってもらおうかとも思ってな」
「はい。ではどうぞお座り下さい」
フレッドが差し出した銀貨を受け取ると、占い師らしい老婆は香炉の前にフレッドを座らせた。
息を楽に、目を閉じ、と静かに語りかける。言葉に従い瞑目したフレッドの息づかいでも感じたのか、老婆はゆるりと一つ頷くと、香炉に木箱から出した香を二、三加え、その目を空に向けた。
何となく厳粛な雰囲気があり、何かの儀式が行われているようで、御者台から眺めているこちらも、ちょっと息を潜める。
老婆は何を見ているのか、ぼんやりした目で空を見、時に何かを呟くように口が動く。おれの目からすれば曇り空しか見えないのだけど。
実際にはわずかな時間だったのだろう。老婆は顔を下げると静かに、長く息を吐き出した。
香炉に蓋をし、周囲に聞かせないための配慮だろうか、フレッドの間近に顔を寄せると、小さな声で何事かを囁く。聞かされたフレッドはふむ、と言葉ごとに頷き、最後に片頬を持ち上げ、ふてぶてしく笑いを浮かべた。
何を聞かされたのか、フレッドはそれまでと何ら変わる事ない様子で御者台に戻り、馬の歩を進めさせる。おれは多少気に掛かり、聞いてみた。
「で、一体どういう占いだったんだ?」
「俺は火消し役らしいぞ。そして運命と共にあれば死ぬ事がないそうだ」
「……なんだそりゃ?」
「占い師の言葉は解りにくいのが常だ。何でも運命というのも常の意味じゃあ無いらしい、じゃあなんだと聞けば、命であり川の源流、なんてことを言っていたがな」
ますますもって判りにくいものだ、とフレッドは肩をすくめる。
やっぱり占いは占いということではぐらかすような物言いしかしないのだろうか。話半分に聞いておく方が良いのかもしれない。
「火消しってのは?」
「さて、捻れた縦糸を持つ布が燃え、それを俺が消すのだとか」
「……なんなんだろうなあ」
「まあ、占いってのはそういうもんだ。解釈次第でどのようにでもなる」
フレッドはそう言ってニヤリと笑みを浮かべるとまるで歓迎するかのように言った。
「だが火がつくというなら、厄介ごとには違いない」
物騒な奴め、とおれは独り言にしては大きな声で、聞こえるように言い、頭の後ろで手を組んで曇天を眺める。
雨が降ってきそうな、風が吹いてきそうな。
まったくもって一荒れ来そうな空模様だった。