「月見様ー!」
「お狐様ー!」
「「釣り竿貸してくださーいっ!」」
「はいはい。今日も気をつけてね」
「「はーいっ!」」
橙とルーミアは、初対面でいきなりケンカしていたのが嘘みたいに仲良くなった。
それもこれも、偏に釣りという共通点があってこそだといえる。橙はもともと魚が好きだし、ルーミアもルーミアで釣りの奥深さとやらに目覚めたらしく、こうしてしばしば二人元気にやってきては、水月苑備え付けの釣り竿を借りていく。今日はいないようだが、ときにはここに妹紅が加わって、釣りのなんたるかをアツく指導していたりすることもある。橙とルーミアと妹紅の三人組が、月見の中で釣りバカトリオと呼ばれているのは今のところ月見だけの秘密だ。
「よーし、今日もどっちが多く釣れるか勝負だよ、ルーミア!」
「負けないよー!」
釣り竿引っ提げ仲良く飛び出していく二人の背を見送り、月見は息とともに優しく笑んだ。二人が親友みたいに打ち解けるきっかけとなってくれたのだから、本来ある必要のなかったこの巨大な池にも少なからず感謝の念が湧いた。食べたいときにいつでも魚が食べられるし、紅葉とともに庭の景色を彩る様は見事の一言に尽きるし、なんだかんだでこの池には世話になることが多い。
反橋の上で危なっかしくちょこまかしている二人を、縁側に腰掛け、秋の涼しさに身を浸しながらそっと見守る。
結局ルーミアは、『お狐様』という仰々しい呼び方を改めてはくれなかった。一応、月見がただの妖怪であることは理解してくれたようなのだが、「でも私にとっては恩人なので」と言って頑に譲らなかったのだ。ちょっぴり、発音が気に入っているというのもあるらしい。
もちろん月見としてはできれば普通に呼んでほしいのだが、「……ダメですか?」と不安げな上目遣いをされてしまえば降伏せざるをえず。幼い子どもの上目遣い攻撃ほど、大人を困らせる厄介な兵器も他にはあるまい。
それにしても、二人の少女が元気に釣りをしている以外は、今日はまこと静かな日であった。つい一昨日にあんなことがあったものだから、余計にそう感じるのかもしれない。昨日なにをしていたかは大雑把にしか思い出せないのに、一昨日なにがあったかは隅から隅までよく覚えている。あの愉快極まりない抜け首少女は、今もどこかで賑やかな騒動を巻き起こしているのだろうか。
と物思いに耽っていたら、早くもルーミアが一匹目を釣りあげていた。あのくらいの女の子なら触るのを嫌がったって不思議ではないのに、実に慣れた手つきで針を外し、水を張った桶に放り込む。なんだか仕事人のようである。実際、子どもが興味本位で釣り竿を振るっているのとはワケが違う。どっちが多く釣れるかと釣り勝負をすれば、月見ではもうほとんど歯が立たなくなってしまっている。
負けじと橙の釣り竿もしなった。まるで池の中へ落ちていくように、
「っ、来た! ……ってわわわ!? す、すごい大物……! ルーミア、手伝って!」
「わかった!」
はて、と月見は首を傾げた。女の子が一人で釣りあげられないほどの大物なんてこの池にはいないはずだが、どこからか迷い込んできたのだろうか。それとも紫がまた勝手に突っ込んだのか。
月見が縁側から見守る先で、竿を一緒に握り締めた橙とルーミアが、せーのっと声を合わせ、
「「それーっ!!」」
「ひえええええっ!?」
……最近、こういう予想外の光景に出くわしても動揺しなくなった自分がいる。
竿に引っ張られ水面から顔を出したのは、悲鳴を聞けばわかる通り少女だった。より詳しくいえば、人魚――日本妖怪の人面魚体ではなく、人の上半身と魚の下半身を持つ、所謂西洋のマーメイド――だった。どうやら服に針が引っ掛かっているらしく、
「や、やーめーてーくーだーさーいー!? 服が、服が破けちゃいますーっ!」
「わっ、本当にすごく大きい!」
「今日のお昼はご馳走だね!」
「いやあああああもう私のこと食べる前提でお話してるううううう!? たっ、助け、お助けください旦那様ーっ!!」
たぶん、月見のことを呼んでいるのだと思う。
ルーミアが「やっぱり素焼きかな」と言い、橙が「お刺身ってのも……」と喉を鳴らし、人魚少女が「うえええええ」と涙目になっている。賑やかでいいことだと思いながら、月見はよっこらせと腰を上げた。
○
「……あっ、月見様! 見てくださいっ、すごい大物ですよ!」
「今日のお昼はご馳走だよー!」
「いやああああああああ」
「こらこら、食べちゃダメだよ」
「「えーっ!」」
と。
食いしん坊な少女二人から人魚を救出し、月見はひとまず、池のほとりで詳しい話を聞いてみることにした。月見は地べたに尻尾を引いて座り、人魚は水辺に沈んだ岩を椅子代わりにする。尾びれで水面をちゃぷちゃぷ鳴らしながら、人魚はしょんぼりとしたため息をついた。
「はあ……どうもありがとうございました。お陰で命拾いしましたぁ……」
「災難だったね」
「まったくですぅ……」
やはり、何度見ても、見紛うことなく人魚である。上半身だけが萌黄色の着物を着た少女で、下半身だけが淡い天色をした魚である。なんらかの妖術を使っているのだろう、品よく着込んだ着物もふわふわロールが利いた髪も、まるで蓮の葉のように強く水を弾いている。雫が着物のあちこちできらきらと光って、さながらお洒落なアクセサリーだ。尾ひれと同じ色の髪と瞳は日に大変よく映え、透き通った湖を覗き込むような錯覚を月見に抱かせた。
これで笑顔でも浮かべていようものなら非の打ち所もなかったのだろうが、生憎と彼女の表情は曇りがちで、
「はあ、最近のお子さんはとても食欲旺盛なんですねえ。自分より大きな相手もぜんぜん怖がらないで、すごく元気ですー」
「え? ……ああ、うん、そうだね」
危うく食べられそうになったというのに、随分と呑気な反応だった。……やはりこれはあれだろうか。お互い脳天気なところがいかにも『類は友を呼ぶ』という感じだし、あの子もちょうど人魚の友人がいると言っていた。
しかし結論を急がず、まずは自己紹介。
「水月苑にようこそ。私は月見、ただのしがない狐だよ」
「あ、はぁい。霧の湖からやってきました、人魚のわかさぎ姫と申します」
思った通りの返事だった。
「赤蛮奇から教えてもらったよ。自慢の友人だって」
あの抜け首少女が口にしていた、自慢の友人の一人目である。曰くいつか紹介したいという話だったが、それより先に向こうからわざわざ訪ねてきてくれたらしい。
わかさぎ姫の表情が、ぱあっとたんぽぽみたいに明るくなった。
「私もばんきちゃんから教えてもらいましたぁ。ばんきちゃんの恩人だって。ばんきちゃんを助けてくれて、ありがとうございました」
「大袈裟な、ちょっと捜し物を手伝っただけだよ」
「でもばんきちゃん、すごぉっく感謝してましたよー。とっても賑やかで楽しかったって」
……ああ、体を捜したことに感謝してたわけじゃないんだ。
「それで私、お礼を言わなきゃって思って。久し振りに川登りをして、ここまで泳いできたんです」
「それはわざわざ」
「楽しかったですー」
ほんわかとした少女だった。脳天気なところがあるのは同じだが、赤蛮奇のようなアクの強さはなく、人を穏やかな気持ちにさせる親しみやすさを感じる。例えばアリさんの行列を眺めていたらお昼になっていたとか、ひなたぼっこでウトウトしていたら太陽が沈んでいたとか、そういうことを平気でやっていそうな子だと月見は思う。
「実は私、前から旦那様のことは存じておりましたぁ。たびたび霧の湖で、チルノちゃんたちと遊んでらっしゃいましたよね?」
「ああ」
より正確にいえば餌付けをしていた。大いに誤解を招きそうなのが悩みの種だが、しかし、事実としてあれは餌付けだったのである。
「チルノとは仲がいいのか?」
「はぁい。よく湖ごとカチカチに凍らされる仲なんですー」
仲良しとは一体なんであったか。友達どころか、一方的な加害者と被害者の関係ではあるまいか。そして、なぜわかさぎ姫はのほほん笑顔のままでそんなことを言うのだろうか。天然か、ツッコミ待ちか。わかさぎ姫の真意が読み切れず反応に悩む。
そうこう考えているうちに、
「そのときから、きっとお優しい方なんだろうなあと思ってたんですけど。ばんきちゃんからお話を聞いて、こうして助けてまでいただいて、やっぱり旦那様はお優しいのですねー」
「……ありがとう」
そりゃあ幻想郷の逞しすぎる少女たちと比べれば、月見なんて弱っちい優男の部類である。
「ところで、旦那様ぁ」
自分の頬にやんわり手を当てて、わかさぎ姫が小さく首を傾げた。
「実は、ご迷惑でなければご相談したいことがありましてー」
「? 聞こうか」
「はぁい。私、ここに棲んでみてもよろしいでしょうか?」
予想のナナメ上を行く申し出だった。一瞬深読みしかけてしまったが、すぐに彼女が人魚で、霧の湖に棲んでいる妖怪であることを思い出し、
「ああ、ここの池にか?」
「はぁい」
その場でぽよんと弾むような、とても柔らかい返事だった。
「私、知りませんでした。ここって、私の仲間がたぁっくさんいるんですねー」
「ああ、そうだよ」
「ですから、ここで暮らしたら楽しそうだと思ったんですー」
「それは……まあ、構わないけど」
もちろん霧の湖と比べれば見劣りするが、水月苑の周囲をぐるりと囲む池はかなり広い。しかも諏訪子が相当張り切ったらしく、優美な見た目からは想像もできない深さがある。その気になれば、人魚や河童の団体様だって気ままに生活することができるだろう。
月見は、反橋の上で元気に釣りをしている少女二人を指差した。
「ああやって釣りをする子がままいるけど、それはいいのか?」
「あー、そうですねぇ」
わかさぎ姫は少し考え、
「でも、あれも大自然がお定めになった摂理のひとつですしー……それに、ああいう小さな女の子の栄養になれるなら、みんなも本望なんじゃないでしょうかぁ」
「……」
それは一体どういう意味で解釈すればいいのだろう。まさか最近、釣り勝負で橙とルーミアにまったく勝てなくなってきているのは、彼女たちが腕前を上げたからではなく――。
――いや、バカな、そんなことがあってたまるか。天狗どもが取り憑いたわけじゃああるまいし。月見は首を振った。
ともかく。
「変に荒らしたりしなければ、好きにしてくれて構わないよ」
これが「ひとつ屋根の下」のような話であれば月見とて断ったが、池は屋敷と空間的に切り離されている。まあちょっと珍しい魚が増えるようなものだろうと、このとき月見は軽い気持ちで考えていた。
ありがとうございますー、とわかさぎ姫が両手を打った。嬉しそうに動いた尾ひれが、水面でちゃぷちゃぷと小気味のいい音を鳴らした。
「霧の湖はお友達があんまりいないですし、ヌシさんのも怖いので、ちょっとお引っ越ししてみたい気分だったんです。助かりましたぁ」
月見の感覚でいう膝の上あたりに礼儀正しく手を置いて、ぺこりと頭を下げた。
「ではー、これからよろしくお願いいたします。私のことは、『ひめ』とお呼びください。ばんきちゃんやかげちゃんからも、そう呼ばれてるんですー」
「わかったよ、ひめ」
かげちゃんとは、もう一人の友人であるという今泉影狼なる妖怪だろう。ひょっとするとそのかげちゃんも、近いうちに水月苑を訪ねてくるのかもしれない。
「私、早速向こうから荷物を持ってきたいと思います。思い立ったが吉日ですー」
「また釣られないようにね」
「はぁい」
ぽよんと返事をしたわかさぎ姫が水の中に飛び込む。飛び込むとはいっても、さすがは人魚というべきか、水面にわずかな波紋を立てるだけの、まるで吸い込まれるように見事な動きだった。あっという間に池の一番深いところから顔を出して、
「旦那様~」
なんて、月見に向けて愛らしく手を振っていたので。自然と頬が緩むのを感じながら、月見もひらひらと手を振り返した。
えへへーと満足げにはにかんだわかさぎ姫が、また水の中に消えて、
「――来たっ、大物だ! たあーっ!」
「ひえーっ!?」
その五秒後、反橋のところでルーミアに一本釣りされていた。
釣られないように気をつけろと言ったばかりのはずだが。
「あれ、またさっきの人魚だ」
「ほんとだ……ハッ! こ、これはまさか、暗に私たちに食べてもらいたいっていう」
「ちーがーいーまーすーっ! うええええええええ」
涙目でビチビチしているわかさぎ姫を、能面の顔で眺めながら。やっぱりあの子は赤蛮奇の友達なのだと、月見は改めて思い直した。
よっこらせ、とまた腰を上げる。
○
というわけで、水月苑に新しい住人ができた。
正確にいえば「水月苑の池に」である。すべて月見が暮らす屋敷の外の話なので、一晩明けてもさして一緒に暮らしているといった実感はなかった。敢えて例えるなら、気紛れな野良猫が庭にやってきた、くらいの感覚だろうか。本当にただの気紛れなのか、それとも本気で棲みつくつもりなのかは、わからないけれど。
「旦那様~」
明くる朝、月見が出掛けようと反橋を渡っていると、橋の下からのほほんとした声に呼び止められた。覗き込んでみると、水面から胸より上を出して、ぴょこぴょこと手を振っているわかさぎ姫がいた。
月見も手を振り返し、
「おはよう、ひめ」
「おはようございますー。お出掛けですか?」
「ああ、適当にぶらっと」
行く場所は特に決めていない。紅魔館、香霖堂、人里、太陽の畑、博麗神社など、散歩がてら知り合いのところをのんびり回ってみようと思っている。
「で、どうだい棲み心地は」
「はぁい」
わかさぎ姫はぽよんとほころび、
「お友達がたくさんできましたぁ」
「それはよかった」
「やっぱり、ここは素敵な場所ですねー」
それは月見も同感だ。自画自賛ではなく、この場所を作り上げてくれたみんなに感謝するという意味で。
「ところで旦那様、今日は迷いの竹林へは行かれますかー?」
「ああ……どうかな。もしかしたら近くへは行くかも」
竹林の近くには妹紅の家があるので、彼女の顔を見に行くのもいいかもしれない。永遠亭には、恐らく行かない。竹林で迷う可能性が大だし、行ったら最後、あのお姫様は間違いなく夜まで解放してくれなくなる。
そうですかあ、とわかさぎ姫はゆったりと頷き、
「竹林にはかげちゃんが棲んでますので、もしお見かけしたら声を掛けてみてください」
「そうだね、見かけたら。……どんな妖怪なんだ? 見た目の特徴とか」
「犬ですー」
犬。
「……いや、赤蛮奇の話だとルーガルーで」
「はぁい。でも、犬みたいにかわいいんですよー。お手とかおすわりとか、ちゃあんとできるんですー」
「……犬だね」
「犬ですー」
操曰く、椛にビーフジャーキーをあげると、そんなの興味ないという顔をしつつも尻尾がふりふりしているという。犬みたいな振る舞いはすまいと気をつけつつも、体がしっかり反応してしまう少女なのである。けれどそれに引き換えかげちゃんは、ビーフジャーキーを見た瞬間目を輝かせて飛びつきそうな感じがした。
わかさぎ姫がくすりと笑う。
「かげちゃん本人は、私は誇り高きルーガルーだ~! ってえばってるんですけどね。……本当は私たちの方から連れてくるべきだとは思うんですけど、場所が場所なので、私もばんきちゃんも思うように会えないんです」
「なに、そのうち会えるだろうさ」
「ぜひ、お手! ってやってみてくださいねー」
それは親友であるわかさぎ姫だからこそ許されるのであって、月見がやろうものなら噛みつき攻撃一択な気がする。
ともあれ。
「引き留めちゃってごめんなさぁい。いってらっしゃいませ~」
「ああ。いってきます」
わかさぎ姫に見送られ、月見は橋を渡りきったところで飛揚する。思えば、誰かに見送られて屋敷を出たのははじめてだろうか。貴重な時間を割いてまで丁寧に見送ってもらえると、気分も自然と上向きになるものである。
空の上まで来たところで下を見る。小魚よりも小さくなったわかさぎ姫が、まだ元気に手を振ってくれている。
その屈託のない姿に自然と頬が緩むのを感じながら、月見は向こうからでもはっきり見えるように、大きく尻尾を振り返した。
○
残念ながら、かげちゃんには会えなかった。
幻想郷の東西南北をのんびりと巡り、月見が水月苑に戻ってきた頃には、太陽もほとんど沈んだ彼誰時になっていた。そして、反橋の上にゆっくり降り立ったところで、
「月見――――――――――ッ!!」
「ごふっ」
屋敷の方から突如としてすっ飛んできたフランに、久方振りとなる弾丸鳩尾タックルを喰らった。モロに入ったが、月見は男と大人の根性で耐え切って、
「ケホ……フ、フラン」
「こんばんはーっ!」
あいもかわらず、百点満点の愛くるしい笑顔。
「来てたんだね」
「来てたっ。チルノちゃんと大ちゃんもいるよ!」
フランが背後を指差す。見れば、ちょうど大妖精が向こうから橋を渡ってきているところである。
デカいたんこぶ作って動かないチルノを引きずって。
「……」
「こんばんは、月見さん」
「……あ、うん。こんばんは」
普通に挨拶された。
にこにこしているフラン、あくまで自然体の大妖精、たんこぶチルノ――月見はこの光景の意味を考える。まあ、犯人は十中八九、撲殺妖精大ちゃんだろうが。しかし彼女とて、なんの理由もなく友達に暴力を振るう悪い子ではない。つまり、大ちゃん必殺の拳骨をもらってしまうようななにかを、チルノがこのあたりでやっていたのだと思われる。
はてさて、どんないたずらをしてくれていたのやら――と、そこまで考えたところでふと気づいた。
なんだかあたりが妙に涼しい。
「……ああ」
ようやく事の次第を察して、月見はそんな納得の声をもらした。それに間髪を容れないタイミングで、大妖精が勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさいっ! チルノちゃんはこの通り、私がおしおきしておきましたので!」
月見はカチンコチンになっている庭の池を眺めながら、
「……久し振りにやられたね、こりゃ」
薄暗いせいで今の今まで気づかなかったが、少なくとも見える範囲はすべて凍らされてしまっているように見える。
チルノは氷の妖精で、珍しく並の妖怪に匹敵する強い力を持っているので、よくいろいろなものを凍らせて遊んでいるのだ。主な被害者は霧の湖や周辺の動植物だが、今日は不幸にも水月苑の池が標的となったらしい。大妖精の拳骨が飛んだのにも納得が行った。
餌付け作戦、もといお菓子プレゼント作戦が功を奏して、最近はいたずらされていなかったのだが。
「ほんとにごめんなさいっ! チルノちゃんったらほんとにバカで!」
近頃の大妖精は、チルノの相方というより保護者みたいになりつつある。
月見は苦笑、
「今更とやかく言わないけど、魚だっていろいろ棲んでるんだから、目を覚ましたらよく言って聞かせて――」
魚。
思い出した。
弾かれたように月見は欄干から身を乗り出し、広がる池の隅々まで目を光らせた。カチンコチンになった水辺、まさかどこで、引っ越してきたばかりのわかさぎ姫までカチンコチンになってはいまいか。彼女ならば充分にありえる。
「どーしたの?」
こっちにはいない。疑問顔のフランにも応えず、月見は続けざまに反対側へ目を凝らす。左、右、手前、奥、水の底、庭園の景色に隠れた物陰、
「…………」
ああ。
嗚呼。
月見の全身に押し寄せる、筆舌に尽くしがたい凄絶な諦観。
「う~ん……あれ? なんであたい、こんなところで寝てるんだろ……」
折よく、チルノが目を覚ました。見た目相応に知能が高くない彼女は、自分が寝ていたのではなく気絶していたのだということもわかっておらず、しぱしぱおめめで周囲を見回し、
「あ、月見だ」
「やあ、チルノ。また随分とやってくれたね」
「? なにが?」
おバカだから忘れたのか、それとも脳に強い衝撃を受けたせいで記憶が飛んでしまったのか。
大妖精がぷんぷんと怒った。
「もーっ、なにがじゃないでしょチルノちゃん! 月見さんのお庭のお池、こんな風にしちゃって!」
「……あっ、思い出した!」
チルノがすっくと立ち上がり、得意げな顔で胸を張りつつ、カチコチになった池を指差した。
「見て見て、すごいでしょ! カチコチよ!」
「カチコチだね」
「ふふふ、そんなに褒めないで!」
「いや褒めてないけど」
「なんだとーっ!」
「あーっ、月見のこと叩いちゃダメだよ!」
「ってか、まず謝らなきゃダメでしょもおーっ!」
途端にわいわいぎゃーぎゃー賑やかになった三人娘を眺めながら、月見は微笑み混じりのため息をついた。仲がいいのは大変結構だけれど、今はそれよりも、
「お前たち、ちょっとついておいで」
月見が今しがた見つけたものを、この三人には見せなければならない。月見が歩き出すと、すぐにフランがついてきて、少し遅れてから大妖精が続いて、そうなればチルノも動かざるを得なくなる。三人娘を連れて月見は反橋を渡り、緑の輪郭に沿って庭を隅の方へと進んでいく。
傷めてしまわないよう気をつけながら、妖夢が手入れする草花を避けて水辺へ向かう。その、橋の位置から見るとちょうど岩場に隠れた場所で、
わかさぎ姫が、カチンコチンの氷漬けになっていた。
「……わぁー」
フランが、どう反応すればいいのかわからないけどとりあえず、みたいな感じでそう言った。
「あれ? 人魚だ」
「うわあーっ!?」
チルノがきょとんと首を傾げ、大妖精が顔を真っ青にした。
マンガのように見事な氷漬けである。厚さ数センチの牢獄で覆われ、夜が近い薄暗闇の中、わずかな光を反射してテカテカと透き通っている。きっと、チルノのいたずらに巻き込まれまいと逃げる最中だったのだろう。水の中から這い出ようとする恰好のまま凍ってしまっているのが、また随分と哀愁を誘った。
「チルノちゃん、また人魚さん凍らせたの!? 可哀想だからやっちゃダメだって言ってるでしょーっ!?」
「し、知らないってば。なんでこいつがこんなところにいるの?」
どうやらチルノに気づかれることもなく凍らされたらしい。カチコチになったわかさぎ姫が、なんだか涙目に見えるような気がした。
大妖精がおろおろして、
「ご、ごめんなさいっ! ひょっとしてこの人魚さん、月見さんのお知り合いだったんですか!?」
さっきからチルノの代わりに謝ってばかりな大妖精が、ますます保護者に見えてくる月見である。
「昨日知り合ったばかりだよ。……ともかく、まずは氷を溶かさないと」
「はいっ!」
フランが元気に手を挙げて、
「私も手伝う! レーヴァテイン出すよっ」
「うん、やめてくれ」
ここであんなものをぶっ放されたら、氷が溶けるどころか、庭が火の海に呑まれて人魚と狐の丸焼きができあがる。
結局月見が狐火と妖術を駆使し、四半刻ほどでわかさぎ姫を救出した。その頃には黄昏時の闇はますます深くなり、空では月が青白い光を帯び始めていた。
「はあー……また凍らされちゃいましたぁー……」
体温が極端に下がったせいで冬眠気味なのか、わかさぎ姫はとても眠そうだった。声がいつにも増して間延びしていて、体はうつらうつらと左右に揺れている。尻尾の狐火で彼女を温める月見としては、こっちに倒れてきやしないかとハラハラドキドキである。
大妖精がぺこぺこと頭を下げている。
「ほんとごめんなさいごめんなさいっ、チルノちゃんがいっつもご迷惑を……! ……ほら、チルノちゃんも謝ってっ!」
「えー? こんなところにいるこいつが悪」
「チ ル ノ ちゃ ん?」
「ご、ごめんなさい……」
「私じゃなくて人魚さんに謝るのーっ!」
「こらこら、喧嘩はダメですよぉー」
月見の背中におんぶのようにくっついているフランが、ころころと笑った。
「大ちゃん、ほんとチルノちゃんのお姉ちゃんみたいだねー」
「そうだね」
月見は保護者という言葉を思い浮かべていたが、それもまたしっくり来る。自由奔放すぎる妹に手を焼かされる、礼儀正しいお姉ちゃんといったところだろうか。さとりとこいしの姿が脳裏を過ぎった。
大妖精にガミガミ言われて観念したらしいチルノが、わかさぎ姫の前でほんのちょっぴりだけ頭を下げた。自分のプライドと葛藤しながら、もじもじと伏し目がちに、
「そ、その、ごめんなさい。今度から気をつけるわ」
わかさぎ姫はかくりと首を傾け、
「……すやー」
「むきーっ!!」
「ひえあああああ冷たあああああい!?」
「チルノちゃんなにしてるのーっ!!」
「だって! だってこいつ、あたいがせっかく謝ったのにいーっ!!」
怒り狂って冷気を振りまくチルノ、それを羽交い締めで止めようとする大妖精、ひえええっと月見の狐火を盾にするわかさぎ姫。
フランはにこにこして、
「変なのー。面白い人魚さんだね」
月見は浅く肩を竦め、
「ほんと、賑やかだこと」
いい意味でも悪い意味でも、事あるたびに騒動を巻き起こす。もっとも、自ら騒動の火種となる赤蛮奇とは違って、わかさぎ姫は巻き込まれる場合が多いようだけれど。
彼女がこの池に棲み続ける限り、賑やかな生活には事欠かなそうだと、月見は期待半分不安半分の心地で思った。
○
わかさぎ姫は、やはり巻き込まれ体質、もしくは人気者体質らしかった。
あるとき。紫と輝夜が水月苑で鉢合わせし、いつものように口喧嘩からの弾幕ごっこに発展。その流れ弾が容赦なく直撃し、目を回して水面を漂っていた。
あるとき。「あら、なんでこんなところに人魚が……え、ここに棲んでいる? ……ここに棲んでいる!? そ、それってまさか同せ……ちょ、ちょっとあなた、ここに直りなさい! 少し話がありますっ!」と映姫に説教されて涙目になっていた。
あるとき。水月苑へ遊びに来た早苗と志弦に、「すごーい本物の人魚だーっ!!」「やべーっすげーっ!!」ときらきらした目で詰め寄られ、どうしたらいいかわからずおろおろしていた。
あるとき。永琳から「そういえば、人魚の肉が不老不死の妙薬なんて伝説があるわね……」と研究対象的な目で見られ、ひえええと縮こまって震えていた。
あるとき。水辺でひなたぼっこをしていたところ、水月苑床下で暮らす妖怪鼠にガブリとやられ、ふみゃああああああ!? と一人でビチビチしていた。
あるとき。月見が朝起きて池を見てみると、なぜか頭にたんこぶをつくってぷかぷかと気絶していた。一体なにをやっているのだろう。
そんなこんなで、わかさぎ姫が池に棲みついてからというもの、水月苑はますます賑やかなのだった。
○
絵に描いたような三日月の夜だった。
叢雲のない空の上で、欠けた月は嘘のように明るく、きめ細かな無数の星々を従えて輝いていた。豊かな自然の広がる庭では秋の虫たちが歌い、風に揺られる草花の囁きはまるでそれと語らうかのようである。水月苑の名が示す通り、水上の夜空には青白い幻の月が浮かび、水面に幻想的なまでに澄んだ光を息づかせている。
しかし、この日は。
虫たちの歌に混じって。いや、そのりんりんとした響きすら無粋と思わしめるように、蕩々と天へ伸びゆく歌声があった。
月見がそれに気づいたのは、入浴を終え、濡れた髪を拭きながら茶の間へ戻る途中のことだった。
歌声を聞いた瞬間、足も手も、呼吸すらをも止めていた。
「これは……」
普通の歌ではない。形容の言葉が咄嗟に出せぬほど月見の琴線を刺激する。耳から入ってきた響きが、そのまま体の芯へ染み込んで溶けていくような。そしてその過程で、えも言われぬ極上の快楽を伴うような。
人外の歌。魔に属する者が奏でる、魔性の力を帯びた歌。
この途方もなく美しい歌声を持つ種族を、月見はひとつしか知らない。足の向ける先を変え、月見は玄関から外へ出た。夜空に響く歌声を頼りに進み、ほどなくして、水辺の石に腰掛けて歌う一人の少女の背中を見つけた。
人魚の奏でる歌はこの世のものとは思えぬほど美しく、ときに人を死に至らしめることすらあるという。
ちょうど歌が終わったようだったので、月見はその場で拍手をした。少女――わかさぎ姫が、「ひゃえ!?」と小さな悲鳴をあげて振り返った。
「いい歌だったよ」
「あ、あー、旦那様ー……」
うわわっとわかさぎ姫はたじろいで、
「え、えっと、いつからそこに?」
「つい今しがただよ。とんでもなく綺麗な歌が聞こえたものでね」
「わわわ……お、お恥ずかしいですー……」
青白い夜の中ではわかりづらいが、わかさぎ姫が赤くなった頬を押さえて俯いた。
「ごめんなさい、その、月がとても綺麗だったものでつい……お、お騒がせしましたぁ」
「とんでもない。アンコールを聴きたいくらいだよ」
本当に素敵な歌声だった。確か人魚の奏でる歌は、人を惑わそうと邪な心で歌えばその通りになり、清らかな心で歌えば比類なき極上の音楽となるのだったか。歌で稼ごうと一念発起したら、あっという間に幻想郷中のアイドルになってしまいそうだ。
「わわわ……あ、アンコールですかぁ」
わかさぎ姫はますます顔を赤くして、
「実はそのぉー、私、歌うのは好きなんですけど、人前では恥ずかしくて苦手でー……」
「ああ……じゃあ屋敷の中で聴いてるよ。私はここには来なかったということで」
「あ、あーっ、お待ちください!」
踵を返そうとした月見を呼び止め、告白でもするみたいに思い切った顔で、
「や、やっぱり歌いますっ!」
「え、でも恥ずかしいんだろう? 無理をすることはないよ」
「そ、それはそうなんですが……でもその、いつもお騒がせしているお詫びと申しますか、ここに棲まわせてもらっているお礼と申しますか……あ、あっち向いて歌えば平気だと思いますので!」
月見に背を向ける方向を指差しそこまで言ったところで、不安げに表情を曇らせた。
「私の歌なんかじゃ、お詫びにもお礼にもならないと思いますけど……」
「そんなことはないさ」
とんでもない、とばかりに月見は大袈裟に否定した。微笑み、
「ありがとう。それじゃあ、特等席で聴かせてもらおうかな」
手頃な芝生のところを探し、尻尾を座布団にして座り込む。いよいよ緊張してきたらしく、わかさぎ姫が両手を振ってわたわたしている。
「あ、あのー、失敗しちゃうかもしれないので、あんまり期待はしないでくださいねっ?」
「いやー、あんな綺麗な歌声を聴かされちゃったあとじゃ難しいねえ」
「ひ、ひええ……」
わかさぎ姫はますますあたふたしていたが、やがて腹を括ったらしく、顔と身を引き締めて大きく深呼吸をした。
背を向け、静かに、天へと伸びゆく声音で、歌を奏でる。三日月と星空の下、水月が浮かぶ青白い水面の上で歌う人魚の姿は、脳天を突き抜けるほど幻想的で、蠱惑的で、月見は知らず識らずのうちにため息をついていた。
緊張しているせいか、わかさぎ姫はたまに歌詞を忘れてしまったり、声が裏返ったりしてしまっていたけれど。
それを差し引いても――いや、それを含めて一生懸命歌う少女の背中はとても愛らしくて、久し振りに、心ゆくまで満足できるコンサートだった。
○
それからというもの。
「旦那様~っ!」
月見が出掛けようと家を出ると、いつも決まって池の方から飛んでくる声がある。月見が振り向くと、今日もわかさぎ姫が元気に手を振ってくれている。
「お出掛けですかぁー?」
「ああ。お留守番よろしく」
「はぁい」
いつも決まったやりとりだった。わかさぎ姫はいつも池から月見を呼び止め、月見はいつも反橋から水面を覗き込んで。
手を振り、こう、言葉を交わすのだ。
「いってらっしゃいませ」
「いってきます」
――水月苑の池には、人魚が棲んでいる。
「――うわわっ、なんじゃこりゃ!? せんせー! せんせーすごいよ人魚釣れたーっ!」
「うええええええええ」
そして、偶に釣られている。