地霊殿からの帰り道に、ふと空を見上げたら聖輦船を見かけた。
太陽がない地底のため判断し難いが、月見の体内時計では夕暮れの頃合いだった。何度見ても不思議な空飛ぶ船が、旧都の外れあたりを、中心から遠ざかる方角に向けてゆったりと泳いでいる。藤千代や勇儀の顔を見に行くか悩んでいた月見は一秒で決断した。鬼のところはまた今度でいいだろうと即決し、進む方角を変え歩くのをやめ、離れゆく聖輦船の尻尾をまっすぐに追いかける。
いつでも同じ場所で月見を待ってくれている地霊殿とは違い、聖輦船は空のあちこちを泳いでいるので出会えるときと出会えないときがある。前回地底に来たときは、どこを見渡しても見つけられなかった。なので今回こそは、ご無沙汰だったみんなの顔を見に行こうと思った。
船幽霊の水蜜に、入道使いの一輪、入道の雲山、そしてぬえ。みんな気のいい連中で、いつも暖かく月見を迎え入れてくれる。
聖輦船に追いつくと、甲板ではぬえが暇そうな頬杖でだらけていた。退屈で退屈で今にもぶっ倒れそうな有様だったけれど、それも月見に気づいた瞬間空の彼方へ消し飛んで、
「おーいっ!」
両腕をぶんぶん振って歓迎してくれたぬえに、月見も手を振り返す。甲板に降り立つと、彼女は一目散で駆け寄ってきて、
「久し振りじゃない! 元気にしてたーっ!?」
と、月見の肩を一発元気に叩いた。少し痛かったが、これが彼女なりのスキンシップらしいので甘んじて受ける。吸血鬼砲弾と化して突撃してくるフランに比べれば、肩がヒリヒリする程度はなにするものぞ。
頷く。
「ああ、特に変わりなく。お前は?」
「暇で暇で死にそうだったわ!」
はじめてやってきたときに、『鵺』の姿で襲われたのが嘘のようだ。もしかするとぬえは、この聖輦船で一番月見に心を開いてくれているかもしれない少女だった。彼女もまたフランやこいしのように、もう少し打ち解ければ腹やら背中やらに飛びついてきそうな人懐こさがある。
なぜそこまで仲良くなれたか。
「そうそう、聞いて聞いて! あんたが来てない間に、マミゾウから手紙の返事が来たの!」
「おお、よかったじゃないか」
「うん。ほんとにありがとね。あんたと出会ってなかったら、賢者様に手紙届けてもらうなんてできなかったもん」
その理由がこれだ。ぬえは佐渡で名を馳せる化け狸・二ツ岩マミゾウの旧友なのだが、いかんせんここに封じられてしまってからはまったく連絡を取れていなかった。そこで頼みを受けた月見が奇跡的に忘れることもなく仲立ちし、紫に手紙を届けてもらうよう計らったのだ。
夏の間に無事届けてもらえたらしい。そしてその結果に大きな恩を感じたぬえが、月見を友達認定してくれたというわけなのだった。
「やっぱり持つべきものは友達ねー。あんたと出会えてよかったわ!」
「光栄だよ」
「うむ、光栄に思うがよいー」
機嫌がすこぶるよいとき、彼女の口はかわいらしい『ω』の形を描く。
「それで、マミゾウはなんて?」
「うん、息災でなによりって。いつか地底から出られたときはまた会おうねって書いたんだけど、そんときはマミゾウも幻想郷に移り住もうかって考えてるみたい」
「……」
月見は沈黙、
「……あんたの言いたいことはわかるわ。えっと、ちょっとこれ見て」
ぬえが綺麗に折り畳まれた二枚重ねの紙を取り出し、月見の目の前で広げた。マミゾウから返ってきた手紙のようだった。二枚目をめくり、
「この、最後のとこ」
ぬえが指差したところを見てみると、
『ところでぬえ。ひとつつかぬことを訊きたいのじゃが、「月」の字で始まって「見」の字で終わる狐が幻想入りしたとかいう噂を聞いてはおらんか? 地底から出られないお主に地上の噂が届くかはわからんし、聞いておらんとしても今は確かめたりせんでよい。じゃが、お主が地底より出られた暁にはなんとしても確認し、必ず儂に知られるようにしておくれ。もし、万が一あの狐めが幻想郷にいるようなことがあれば、今度こそ討ち果たすために入念な戦支度をせんとならんからの』
「……」
頭が痛くなってきた。
「……えっと、一応まだ知らせてはないから安心して?」
「……ありがとう」
「ってか、わざわざ名指しで警戒されるって、あんたどんだけマミゾウから嫌われてるのよ。戦支度とか書いてあるし」
月見は無実だと切に訴えたい。だいたい、突っかかってくるのは毎回マミゾウの方なのだから、月見が自分の身を守るのは正当防衛であり不可抗力であるはずなのだ。なのに月見が反撃すれば「おのれ卑劣な!」と言い、逃げ回っていれば「おのれおちょくっとるのか!」と言い、被害を最小限に抑えつつやられてみれば「おのれ本気で戦え!」と言う。結果、月見がなにをやってもマミゾウの狐恨みパワーだけがこんこんと蓄積されていくのである。ひどい袋小路もあったもんだと思う。
吐息。
「……とりあえずこれは、お前がいつか地上に出たときまで保留で」
「それはいいけど……大丈夫なの? いろいろと」
新しい友達が旧友の敵、という事実にぬえは複雑な様子だった。勝ち気でわがままな性格かと思いきや、存外友達想いなのだ。そういうかわいらしいところがマミゾウにも受け入れられ、千年近く連絡が途絶えてもなお変わらぬ絆を結んでいるのだと思う。
それより、マミゾウ。大丈夫かと言われればあまり大丈夫ではないのだが、
「まあ……なんとかなるだろ」
今までがなんとかなってきたのだ、きっとこれからもなんとかなるであろう。……それに、ぬえがいつか地上に出られるそのときまで、月見が幻想郷で生活しているとも限らないのだし。
「伊達に今まで喧嘩を吹っかけられ続けてきたわけじゃないしね。上手くやってやるさ」
「……マミゾウはほんっとあいかわらずねー」
ぬえが苦笑した。自分の思い出とまるで変わっていない友人に呆れつつも、それをどことなく懐かしんでいるようでもあった。
月見から手紙を受け取り畳んでしまうと、船室の方を指差して、
「で、せっかく来たんだし寄ってくでしょ? ムラサたちも会いたがってたわよ」
「是非、お邪魔させてもらうよ」
ご機嫌なぬえの足取りに続いて、聖輦船の船室へお邪魔する。何百年分もの歳月がまるで感じられない小綺麗なドアを、ぬえは張り手を打つようにして勢いよく開け放ち、
「ムラサーっ、いちりーん! 月見が遊びに来たよー!」
「「……はえ?」」
月見は見る。部屋の真ん中にドデンと置かれた大きなテーブルで、二人の少女が溶けかけの蝋人形みたいになって突っ伏している。村紗水蜜と雲居一輪である。月見に気づくなり水蜜は笑顔で席を立ったが、一輪は対照的に顔面を蒼白にした。
そんな一輪の水色の髪は、まるで起き抜けみたいに見事な寝癖でバサバサになっていた。妖怪の身でありながら仏の教えに帰依する修行僧としては――いや、そもそもの話女として、だいぶズボラでみっともない恰好だった。「月見さんいらっしゃいですー! お久し振りですねー!」と人懐こく歓迎してくれている水蜜の隅で、ふるふる震える一輪はじわじわと赤くなって、
「つ」
立ち上がり、手元で湯呑みを載せていた
「月見さんが来たときはすぐに教えてって言ったでしょばかああああああああっ!!」
「みぎゃあっ!?」
フリスビーよろしくぶん投げ、カコーン! と見事ぬえのおでこを打ち抜いた。
「――てかさー、見られて困るなら普段からしゃんとしてなさいって話よー。修行僧のくせしてズボラすぎるんじゃないの一輪ってー」
恥ずかしすぎて完全に本気だったのだと思う。一輪の放った剛速球で見事ストライクされ、おでこをぷっくりと赤くしたぬえが、テーブルに伸びながらぶーぶーと頬を膨らませた。いつもなら地獄耳で聞きつけた一輪が雲山に拳骨を命令するところだが、あいにく彼女は身支度で忙しいので、奥からドタバタと物音が響いてくるのみである。
ぬえの向かいの席で、水蜜がころころと笑った。
「一輪は昔から、私たちの前ではズボラなところ多いよねー。今はこんな生活だし余計に」
月見が初めて聖輦船を訪ねたときも、一輪は呑み会明けの女子大生みたいな有様で出てきたし、事実仏僧なのに酒を呑んでいた。確か僧侶は不飲酒戒のもと飲酒を禁じられているが、実際のところは『般若湯』といった隠語を使用して、堕落しない範囲で飲むなら罪ではないと主張する者が後を絶たないのだったか。
「月見さんの前ではおめかししてますけど、実際は寝起き悪いし部屋は散らかってるしで、結構ダメな女なんでっ。騙されちゃあダメですよー」
ぬえが、テーブルに伸びたまま両脚をバタバタさせた。
「一輪のズボラー、ダメ女ー」
「いえーいダメダメ女ー」
二人とも仲が良くてなによりである。ところで、奥のドアから音もなく般若が入ってきたのには気づいているのだろうか。
「――ムラサ、ぬえ?」
水蜜とぬえがこの世の終わりみたいな顔をした。見た目は聖女、心は鬼神な一輪は言う。
「ねえ。今、なんだかズボラとかダメダメ女とか聞こえた気がするんだけど。私の聞き間違いかしら?」
ぬえは血の気の失せた顔で、
「きっ、きききっ気のせいじゃないかなー。今ちょうど、一輪のこと褒めてたところだったしっ」
水蜜が冷や汗をダラダラ流して、
「そそそっそうそう! 一輪は寝起きがとってもいいしー、部屋は綺麗だしー、結構いい女だよねって!」
一輪は、微笑んでいる。
「ふーん、そうなの」
「「そ、そうそう!」」
とってもステキに、微笑んでいる。
「……ふふふ」
「「あ、あははははは……」」
「ふふふふふふふふふふ」
ごちん。みぎゃあ。
ごちん。ふぎゃあ。
「――まったく。確かに私は朝に弱いし、お掃除も決して上手くはないわよ。でも、だからって笑い話にするなんてひどいと思いません?」
「……うん、そうだね」
月見の向かいの椅子に座って、たっぷりおめかしした一輪がぷりぷりと頬を膨らませた。月見の視界の端では、デカいたんこぶができた頭でテーブルに突っ伏し、ぴくりとも動かなくなっている哀れな二人の少女。調子に乗った水蜜とぬえを、一輪――もとい雲山――が拳骨で断罪するのは、聖輦船でしばしば見かける恒例行事である。
いやー、と一輪が気恥ずかしげに片笑み、
「それにしても先ほどは失礼しました。どうも地底の生活は退屈で、そのせいかつい気が緩んでしまって……」
「ということは、私が来なかった間も特に変わりはなしかい」
「ですねえ」
旧地獄と呼ばれる荒涼とした土地故か、はたまた住人の大半が鬼だからなのか、地底は酒を呑んで騒ぐ以外の娯楽がいかんせん乏しい。悪い場所でないとは思うのだが、正直なところ、みんなよく元気に暮らせるなあというのが月見の本音だった。仮に月見がここで生活を始めたら、一月ほどでやることがなくなり干涸びる気がする。
「地上のお話、またいろいろと聞かせてくれると嬉しいです」
「私の話でよければ」
なので一輪たちの退屈を少しでも紛らわすため、地上で起こったあれこれをみやげ話として話して聞かせるのが、ここを訪れた月見の果たすべき最も大切な役目なのだった。
ちょうど、水蜜とぬえが復活した。
「うぐぐ……ようやく痛みが抜けてきたよぅ……」
「……あれ、私どうしてたんだっけ……」
ぬえなんて、強くぶたれすぎて記憶の欠落を起こしている。ちょっとやりすぎなんじゃないかい――月見がそんな目で雲山を見ると、厳つい顔の入道は複雑そうに眉を歪めて俯いた。お嬢の命令なのでいかんせん……と、口数少ない老爺は語っている気がした。お嬢の一輪は、素知らぬ顔でお茶をずずずとすすっていた。
「わたくし村紗水蜜は、聖輦船でのパワハラ撲滅を強く訴えますぅぅぅ……」
「じゃあ私は、聖輦船での悪口撲滅を訴えましょうか」
「ぶー。あれくらいいーじゃん、私たちと一輪の仲なんだからぁー」
「親しき仲にも礼儀ありよ」
「ぶーぶー」
むくれる水蜜とうんうん唸っているぬえを無視して、
「ほら、月見さんがまた地上の話を聞かせてくれるって」
「ぶー……まあ、地上の話は面白いからいいけどさー」
前回月見が聖輦船を訪ねたのは夏がまだ暑かった頃で、そのときは天子が起こした異変のことを話した。あれ以来はこれといって大きな事件もなく、平和で賑やかな毎日が続いている。ある鴉天狗の少女が月見の命を狙う刺客に仕立てあげられたり、紫と外の世界へ遊びに行ったり、守矢神社に新しい巫女さんが増えたり、話せそうな話題には事欠かない。
揃って脳天のたんこぶを擦っている水蜜とぬえの不憫な姿を見て、月見の脳裏に甦る思い出があった。幻想郷の平和を陰ながら支えている、働き者で苦労性な従者たちの話であれば、きっと彼女たちも共感してくれるだろう。
「じゃあまずは、この前私が新しく見つけた鰻の屋台での話なんてどうだろう」
「「「鰻……」」」
途端に涎を垂らしそうなった三人に苦笑し、月見は語り始める。鰻の味についても、しっかり話さないとなと思いながら。
○
「……なんていうか、その、拳骨くらいで文句言ってる自分が贅沢に思えてきました」
その言葉で、水蜜は月見が語った話を総括した。
「なんなんですか、十年以上休みなしで働き続けてたとか、薬の実験台にされてるとか……私だったら逃げ出しますよそれ」
苦労している者同士共感してもらえるかと思ったのが、スケールが違いすぎたらしく水蜜は逆に引いていた。そうか普通はこういう反応なのか、と月見は思った。従者たちの苦労を間近で見つめ続けてきたせいで、どうやら月見の感覚も狂ってしまっているらしい。
一輪も戸惑いを隠せない様子で、
「た、大変なんですね、地上の従者の方々は」
「いや、もう大変なんてもんじゃないでしょこれ……。あー、私たちのご主人様はいい人でよかったー」
「ん?」
――私たちのご主人様?
初耳だった。
「……お前たちにも主人がいるのか?」
月見の反応に、水蜜はあーと間延びした声をあげた。
「そういえば、月見さんにはまだぜんぜん話してませんでしたっけ。聖のこと」
「初耳だね」
船内でそれらしい姿を見かけたこともない。聖輦船で生活を共にしているのは今ここにいる三人の少女と、一人の強面な入道だけであるはずだ。故に『聖』は船の外で別居している人物ということになるが、主人だけが他所で暮らすというのも妙な話に思う。
話してもいい? と水蜜が一輪に目配せをした。一輪は少し考えてから、
「そうね、いいわよ。月見さんはもう、私たちの立派な友人だしね」
ぬえが月見だけに聞こえるささやき声で、
「ムラサと一輪の大切な人なんだって。私も詳しくは知らないけど」
水蜜が『ご主人様』というくらいなのだから、そうなのだろう。しかしならばなぜ、この船で一度も姿を見かけたことがなく、また今の今まで話にもならなかったのか。よくよく思い返してみると、ここに来たときはいつも月見が話をしてばかりで、彼女たち自身のことはあまり教えてもらっていなかったと気づく。
ちょうど同じことを考えたらしい水蜜が、
「思えばいつも月見さんに話をしてもらってばっかで、私たちのことってほとんど話してなかったかもですねー」
「そうだったかもね」
「じゃあじゃあ、これを機に私たちのことを知っちゃってください!」
さてどこから話したもんですかねーと腕を組んで考え始めた水蜜に、横から一輪が、
「まずは姐さんのことからでいいじゃない。ちょうどその話だったし」
「……だね! というわけで聖ですね。名前は聖白蓮っていいまして、まあご主人様ってのもあながち間違いではないんですけど、私たちにとっては家族同然に大切な人なんです」
テーブルに肘をつき、水蜜は懐かしげに両手の指を絡める。
「もう千年より前の話なんですけど。私と一輪って、昔は結構荒れてたんです」
すかさず一輪が補足した。
「荒れてたのはあんただけでしょ。――あ、ちなみに当時の記憶はムラサの黒歴史らしいので、ご希望とあらばついでにお話」
「わ、わあわあっ!?」
水蜜が大慌てて一輪を黙らせた。
「そ、そこは気にしなくていいところです! 訊かないでくださいよっ、半狂乱になって暴れますからね私!?」
「……訊かないよ」
月見の知り合いにも、蒸し返されれば首の根をかきむしりながら暴れるほどの黒歴史を抱えた狐がいる。そっとしておくのが水蜜のためであり、ひいては月見自身の身のためである。水蜜の目は本気だった。興味本位で片足を突っ込もうものなら、水蜜は本気で暴れる。
咳払い。
「……ともかくですね、当時の私たちに救いの手を差し伸べてくれたのが聖なんです。珍しいですよね。妖怪を退治するんじゃなくて、救おうとした人間なんて」
「……待った、その白蓮って人間なのか?」
千年より前の話、なんて言うものだから月見はてっきり。
「あっそうでした、そこ抜けてましたね。聖は人間の僧侶なんです。見た目は……一輪と同じくらいかな? 女なので、尼僧、尼さんってやつです」
思っていた以上に興味深い話だった。人間が妖怪から、主人と認められるほど強く慕われるなんてよっぽどのことだ。その聖白蓮なる尼僧はよほどの才媛であるらしい。
しかしだとすれば、千年以上前の話というのは一体――という疑問は、口にはしなかった。とっくの昔に仏の世界へ旅だった故人なのか、なんらかの手段で現代まで生き延びている超人なのかは、黙って聞いていればわかるはずだ。
水蜜は続ける。
「聖は人間でありながら、妖怪を救うことを使命にしていました。……人間を救わなかったわけではないですよ。『妖怪と人間がともに暮らせる世界を創る』。それが聖の口癖でした」
――妖怪と人間がともに暮らせる世界、ね。
そのとき月見は、きっと笑ったと思う。呆れるのでも嘲るのでもなく、ただ慈しむように。まったく同じ夢物語を声高に語り、本当に幻想郷という世界を創りあげてしまった少女を月見は知っているから。見ず知らずの人間に古馴染みの姿がピタリと重なって、他人事とは思えないくらいの親近感が胸に満ちた。
「そんな経緯で、私と一輪も救われちゃったクチでして。当時からすれば考えられませんけど、まあ、なかなか上手くやってたんですよ聖は。私たちの他にも、妖怪なのに神様の代理人になっちゃったのとか、その監視役でやってきてすっかり居座っちゃったのとかいたんです。寅丸星と、ナズーリンっていうんですけど」
「ナズーリン?」
突然知り合いの名前が出てきたので、月見は目を丸くした。
「お前たち、あの子の知り合いなのか?」
「え?」
水蜜と一輪もまったく同じ顔で、
「……月見さん、ナズーリンを知ってるんですか?」
「ああ。幻想郷で暮らしてるよ?」
「うそぉっ!?」
水蜜が椅子を蹴飛ばして立ち上がった。驚くあまりそのまま一歩よろめき、
「そ、そうだったんですか!? 月見さん、なんでそれを早く言ってくれなかったんですか!」
「まさかお前たちと知り合いだとは思わないだろう」
「ナズーリンから聞いてなかったんですか!?」
「あの子、自分の話はほとんどしないからねえ」
だーっ! と水蜜は帽子の上から頭を掻き回して叫ぶ。
「確かにナズーリンはそういうとこあったなー! あーもうっ、こんなだったらもっと早くこの話しとけばよかったーっ!」
一輪が、目を輝かさんほどの驚嘆で前に身を乗り出した。
「そうだったんですか! こんなことってあるんですね!」
「そうだね。まさかこう話がつながるとは」
厳つい顔つきで凝り固まった雲山も、今ばかりは丸くなった目を何度もしばたたかせていた。月見たちの心は一致しているはずである。――まさか、知り合いが知り合いの知り合いだったなんて。
なるほど、と思う。
今になって思えば、ナズーリンが言っていた『会わせたい人』とは白蓮のことではないか。恐らく白蓮は、人間でありながら今もなんらかの方法で生き長らえていて。月見も大概人間に肩入れしすぎる妖怪だから、そこに妖怪を救う白蓮の姿を重ねられたのかもしれない。
水蜜がゆるゆると椅子に
「うー、まったくなんてこったいですよ……。もっと早く知ってれば、私たちもぬえみたいに手紙でも届けてもらったのに……」
「というか幻想郷に住んでるんだし、私が届けようか?」
「……そっか!? そういう手もありますね!?」
またガタンと立ち上がる。さっきから座ったり立ったり忙しい少女である。
「じゃあちょっとお願いします! この話が終わったら、超スピードで一筆したためるので!」
「ああ、いいよ」
「やったー!」
喜ぶ水蜜が、雀のようにあたりをぴょんぴょん飛び跳ね始めた。胸の前で両手を合わせ、「あー連絡取るのなんて久し振りー、元気にしてるかなー」と嬉しそうに言い、くるりと一回転してみたりする。マミゾウに手紙を送れたときのぬえもこんな感じだった。普段であれば一輪が静かにしろと叱る場面だが、今回ばかりはさすがの彼女も、なにも言わず穏やかな笑みを浮かべるだけだった。
一輪は月見を見て、
「ところで、星のことはなにかご存じですか?」
「いや、そっちはわからない。ナズーリンに訊いてみるよ」
「ありがとうございます。……今度月見さんがいらっしゃるときを、心待ちにしてますね」
そうだね、と月見は頷く。地霊殿でこいしと約束した手前もあるし、次回の地底訪問は今までよりもずっと早くなりそうだ。
またくるりと回った水蜜が声高に言った。
「そうとなれば話の続きですっ。そういうわけで妖怪の味方でもあった聖は、私たちから妖力を分けてもらうことで特別な力を身につけたのです! えーっと、確か『しゃしょく』とか『しゃちゅう』とかなんとか」
捨食と捨虫の術だ。前者が食事と睡眠を魔力で補い、後者が老いを捨て長寿を得る人外の術である。月見の知り合いだと、パチュリーがよく捨食の術を使って部屋に閉じこもり、不眠不休で魔法の実験を行っている。魔法使いと呼ばれる種族の中では、この二つの術をマスターすることが一人前の条件であるともいう。
だんだん話がわかってきた。聖白蓮は生まれ自体は人間だが、捨食と捨虫の術を身につけたことで人外の領域に足を踏み入れており、今でもどこかで生きている。しかし簡単に会うことはできないなんらかの事情があって、だからナズーリンは『いつか会わせたい』と表現した。
当たっていたのだろう。椅子に座り直すなり、元気いっぱいだった水蜜の声音が暗く落ち込んだ。
「……ただ、ここからはちょっと辛気くさい話になっちゃうんですけど。聖は人間で、人間だったからこそ、その思想は他の人間たちに受け入れられませんでした。聖が妖怪を助けて回ってるって、バレてしまって……悪魔呼ばわりされた聖は、魔界に封じられてしまいました」
だから、『いつか』だったのだろう。
悲しくはあるが、それが時代の定めともいえる結果なのだと月見は思う。今はまだしも千年前は、まだ妖怪と人間の溝が深く隔たれていた時代だった。妖怪が人間を喰らうということ、そして人間が妖怪を退治するということが当たり前のように行われていた時代だった。弱肉強食のヒエラルキーでは、妖怪が上で人間が下だった。
なにも、妖怪を救うこと自体が悪だったわけではない。妖怪を救うことが、結果として人間を救うことにつながるなら話は別だったはずだ。だが白蓮の場合はそうでなかった。少なくとも人間たちの目には、白蓮が世のため人のためではなく、単なる私利私欲のために妖怪の味方をしていると映った。妖怪は人間の敵で、敵の味方は敵で、すなわち妖怪に味方する人間は敵だ。
だから、消された。
「月見さんって、かなり長生きな妖怪なんですよね。ひょっとして、噂とかで聞いたこともあるんじゃないですか?」
「……どうだったかな。ピンとは来ないよ」
そんな人間がいるらしいとどこかで聞いたような気もするし、聞かなかった気もする。正直なところ――力を求めて妖怪に近づいた人間の噂というのは、当時はさして珍しいものではなかった。妖怪が持つ強大な力は、しばしば非力な人間たちを誘惑する。人外の力に取り憑かれ人の道を踏み外した者は、文字通り後を絶たなかったといっても過言ではない。だから、妖怪を助ける見返りに力を求める人間がいたとしても、大した話題にもならなかったはずだと思う。
「……まあ、そんなわけで聖が魔界に封じられて、私たちも、それを助けようとしたところを逆にやられてしまいました。情けない話ですけど、神古とかいう腕だけは確かな陰陽師だったんです」
「なるほどね――って、」
ちょっと待て、
「――神、古?」
「? ええ。詳しくは知りませんけど、仲間の陰陽師からはそう呼ばれてたと思います」
「――……」
肉体の感覚が喪失した。しばらくの間月見は思考だけの存在となって、水蜜の言葉の意味を必死に理解しようと足掻いていた。
もちろん、反射的に脳裏に過ぎった最悪の想像を、なんとか否定する形で噛み砕こうとしてだ。まだ
「どうしたの?」
「っ……」
ずっと黙っていたぬえの声を久し振りに聞いて、月見は正気を取り戻した。水蜜が、
「あ、もしかしてこっちは聞いたことがあるとか? 聖を封印したんですから、相当な腕利きだったとは思うんですけど」
「……そうだね。そんな噂を聞いたことがあるよ」
嘘だ。
水蜜が天井を振り仰ぐ。
「あー、やっぱりですかー。うぐぅ、何度思い返しても忌々しいです。私たちの生活がめちゃくちゃになったのって、ぜんぶその陰陽師のせいっていっても過言じゃないんで」
一輪がため息、
「そうねえ……何度復讐してやりたいと思ったことか」
「……」
月見はなにも言えない。心の底から褒めちぎってやりたい。志弦の名を、偶然とはいえこの場で一度も口にしていない今までの自分を。
そして、これからも口にすることはないだろう。
「……話を戻しますね。といっても、もう話すことはあんまりないですけど。その陰陽師のせいで私たちはバラバラになって、現在に至るというわけです。とりあえず当面の目標は、なんとかしてこの地底から抜け出して、星やナズーリンと合流して聖を助けに行くことですね」
「……そうか」
――そうか。
こんな風に。
こんな風に、話がつながるのか。
かつて月見の友だった『神古』と、水蜜たちを封印した『神古』と、今幻想郷で暮らしている『神古』が、すべてつながるのかはわからないけれど。
「――というわけで、まずはその第一歩として、月見さんにナズーリンへの手紙を託したいと思います! よろしくお願いしますねっ!」
「……ああ。任せておいてくれ」
上手く笑えたはずだ。
これは、少なくとも今だけは、絶対に知られてはならないのだから。
○
妖怪鼠のネットワークは、幻想郷のだいたいあちこちに張り巡らされているという。その中には水月苑も例外なく含まれているようで、よく庭をちょろちょろ走り回っている姿を見かけるし、時には橙に見つかって狩られそうになったりしている。
水月苑に戻ってきた月見はその日のうちに魚で鼠たちをおびき寄せ、食事の対価としてナズーリンへの伝言をお願いした。妖怪故に普通の鼠より高い知能を持つ彼らは、人間の言葉も難なく理解する。翌日の昼も近くなる頃には、無縁塚から遥々ナズーリンが訪ねてきてくれた。
「ご足労すまないね、ナズーリン」
「構わないさ、君もあそこには近づきたくないだろうしね。……しかし、私に渡したいものってなんだい?」
座敷に招いてお茶を出してから、月見は綺麗に封をされた二通の手紙を差し出した。
「お前の友人から、手紙を預かってきたよ」
「手紙? なんでわざわざそんなもの、」
胡乱げに手に取ったナズーリンは、差出人の名を見るなり息を呑んだ。だが同時に、それだけですべて理解もしたようで、静かなため息とともに両の肩から力を抜いた。
「……そうか。君、地底でムラサと一輪に会ったんだね」
「正確にいえば、すでに何回か会っていたんだ。ただ、お前たちが知り合いだとは気づかなかった」
「仕方ないさ。私だってなにも話さなかったんだから」
童女ほどの見た目に反して知的な言葉遣いをするナズーリンは、事実頭の回転が目覚ましく速い。余計な問答などなにひとつすることなく、
「ありがとう。あとで大事に読ませていただくよ」
それだけ言って、二通の手紙を丁寧にしまった。
「……それにしても驚いた。まさか君が地底を行き来していたとは」
「友達のよしみというやつなのかな。賢者殿や鬼子母神殿とは、付き合いが長くてね」
「なるほど。鼠たちのネットワークで聞き及んでいるよ、十一尾の大妖狐殿?」
「おや、バレていたか」
ナズーリン相手にはあまり隠し事もできなさそうだ。その気になれば水月苑に居座る鼠たちを通して、月見の私生活すら丸裸にできるのかもしれない。
「こうして手紙を預かってきてくれたということは、私たちの昔話も聞いたんだろう?」
「ああ」
「ならもう隠さず言ってしまうけど、私が君に会わせたいと思っているのは聖だよ。人間でありながら妖怪に手を差し伸べようとするけったいな変人でね。妖怪でありながら人間を弔った君と、なんだか似ていると思わないかい?」
暗にお前も変人だと言われた気がするが、それはさておき。
「なかなか手厳しい評価だね、変人とは」
「おっと、これはムラサたちには黙っていてくれ。二人は聖を深く敬愛しているからね」
ということは、ナズーリンは違うのだろうか。
「ムラサたちからどこまで話を聞いたかはわからないけど、私は聖に救われたわけでもなんでもなく、毘沙門天様から監視役で派遣された客分みたいなものさ。敬愛しているかといえば……まあ、答えに悩みはするね。信頼できる人間と認めてはいるが」
「……ああそうだ、それで思い出した。確かお前たちにはもう一人、寅丸星という仲間がいたとか」
「ああ、ご主人のことかい? 私の監視対象だよ。元々は妖怪だったんだが、聖の推薦で毘沙門天様の代理人となってね。だがそれが、まあ正式な手続きで許しを得たわけではない、毘沙門天様の寛大な黙認というやつだったから、それで監視役として私が派遣されたわけだな」
きっと、昔を思い出して少し楽しくなっているのだと思う。元々よく喋る方ではあるが、ナズーリンはいつにも増して饒舌だった。
「普段はいかにも頼りなくて情けない方なんだが、これが仕事をさせたときだけは不思議と優秀でね、監視なんてほとんど名ばかりだったよ。人間たちの信仰も上手く集めていた。……だからこそ、聖が魔界に封じられたときはなにもできなかったのだけどね」
やや眉を下げ、
「まさか、自分を信仰してくれている人間を裏切ることなんてできないからね。はっきりと言ってしまえば、私とご主人は聖を見殺しにした。だからムラサたちと違って、地底に封じられることもなかった。私は仕方のないことだったと割り切っているんだが、ご主人はどうも居ても立ってもいられなかったみたいでね、今は毘沙門天様のところで一から修行し直しているよ。いつかムラサたちの封印が解かれたとき、今度こそ一緒に聖を助けに行くんだとね。……私はそのときを、ここで待ち続けているというわけさ」
苦笑した。
「すまないね、思い出したら止まらなくなってしまった」
「構わないよ。ちょうど、星の行方を訊かれていてね。今度地底へ行ったときに、ムラサたちに報告させてもらうよ」
「ああ、そうしてくれたまえ。いつでも、待っているとね」
そうだね、と月見は曖昧に笑った。ナズーリンや水蜜たちの願いが叶うとき。それはすなわち――
「……なあ、ナズーリン」
「うん?」
ひょっとすると、これは藪蛇なのかもしれない。けれど、月見はどうしても問わずにはおれなかった。
「白蓮を封印したっていう、陰陽師のことなんだけど」
「……それが?」
「ナズーリンは、その人を知っているのか?」
なにかを考える間があって、
「……いや」
ナズーリンは、ゆっくりと、はっきりと首を振った。
「さっきも言ったけど、私とご主人は聖を見殺しにした。聖が封印されたところも、ムラサたちが封印されたところも見ていない」
少し、月見を窺い、その上で言葉を選ぶような一拍があった。頭の回転がいいナズーリンは、きっとおぼろげながら察していたはずだ。
「……名前も顔も知らない相手だよ。それに私とご主人はね、別にその陰陽師とやらを恨んではいない。聖とて、なんの理由もなく、不条理に魔界に封じられたわけじゃないからね。そうされてしまうだけのことをやっていたのは事実だ。その陰陽師とやらを恨むのは、お門違いというやつだろう」
「……」
白状しよう。月見は今、心の底から安堵している。
「……少しは、気が休まるかい?」
月見はただ、ありがとう、とだけ言った。ナズーリンは頷き、切り替えるように明るい声音で、
「まあ、十一尾の大妖狐殿ともなれば、いろいろと複雑な過去をお持ちでもあるだろう。これはたとえ話だがね、もしムラサたちがあのときのことを根に持ってあーだこーだするようなら、私とて黙ってはいないよ。毘沙門天様を信仰していた人々を恨むなら、それは毘沙門天様を恨むのと同義だ。……だから、」
けれど最後の一言だけは、無防備に微笑み、暖かく言うのだ。
「……私はたぶん、君の味方だ」
月見は、そっと静かな吐息を返した。
「……お前は将来、いい女になりそうだね」
「む……」
予想外の返しにナズーリンは少し赤くなり、
「ふ、ふふん、そうだろう。うっかり惚れたりしないように気をつけたまえよ」
「ああ。肝に銘じておくよ」
「……まあ、なんだ」
熱っぽい頬を指で掻いて、大きめの咳払いをし、
「なかなか一悶着ありそうな気配だが、私が望むことは変わらないよ」
月見をまっすぐに見て、どこまでもまっすぐな言葉で、
「君を聖に会わせたい。そのためなら、いつだって力を貸すさ」
「……ありがとう」
藪蛇かもしれないと覚悟はしていた。けれど終わってみれば、まさかここまでナズーリンに救われることになるとは思ってもいなかった。無論、すべての問題が解決したわけではない。自分に都合のいい事実に縋って、都合の悪い現実から目を逸らそうとしているだけなのかもしれない。
けれど、それでも。
ナズーリンと話ができて、本当によかった。
「これじゃあ手ぶらで帰すのもなんだな。……生け簀に池で釣った魚がいるけど、何匹かどうだろう」
「くれるというならありがたくいただくよ。魚はなかなか食べられないしね」
尻尾がくるくる動いたナズーリンに笑みを返し、月見は立ち上がる。一人で庭の一角にある生け簀へ足を進めながら、ゆっくりと、けじめをつけるように深呼吸をする。
覚悟が決まった。
慧音のところに行こう。
かつて月見の友だった『神古』と、白蓮を封じた『神古』と、今幻想郷で暮らしている『神古』。慧音の歴史を編纂する力で、そのすべてを解き明かそう。
たとえその結果として、後悔することになるとしても。
遅かれ早かれ、いつか志弦の存在が知られてしまうときはやってくるはずだ。そうすれば間違いなく、月見が脳裏で思い描いている通りのことが起こる。そのとき揺るぎない意思で水蜜たちと相対するために、月見は知っておかなければならない。
月見が『門倉銀山』を名乗っていたあの頃から、ぜんぶつながっていることなのか。
それとも、なんてことはないただの取り越し苦労なのか。
誤算だったのは、たったひとつ。
『そのとき』の訪れが、月見の予想よりずっとずっと早かったということだけだった。
○
「――月見さーん、こんちはー」
「……、志弦」
「……? なに、どったの?」
「ああ、いや……こんにちは。いらっしゃい」
「えっと……なんかあった? 今一瞬、すげー深刻な顔してたような……」
「なんでもないよ。……ああ、大丈夫。本当に、なんでもないから」
「……??」