銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第78話 「フラワーマスターは友達に優しい」

 

 

 

 

 

 この幻想郷は、呆れるほど平和な世界である。

 それは、敢えて裏を返して意地の悪い言い方をすれば、平凡ということでもある。年に一回ほどの頻度で発生する異変を除いて、そうそう大きな事件もなく日々は緩やかに過ぎていく。もちろん平和であることは大変結構だけれど、一方で月見のように、無造作に過ぎゆく平々凡々な毎日を忌避している妖怪というのは決して少なくない。

 存在の比重が精神に偏る妖怪からすれば、心の渇きは命の渇き、すなわち退屈こそが最大の敵である。だから月見も含め多くの妖怪たちが、常日頃から己のセンサーを最大感度にして、面白い事件やらなにやらを探し回っている。

 たとえば外来人によって外の新しい文化が持ち込まれれば、すぐさま幻想郷中で一世を風靡するように。

 守矢神社の第二の巫女となった志弦が山中の有名人となるのは、まあ、当然というものだったのだろう。

 

「なかなか人気者みたいじゃないか、志弦」

「いやー、ただ珍しいってだけっすよ。客寄せパンダみたいなもんでしょ」

 

 水月苑の縁側でごろんと大の字な志弦が、苦笑いな声でそう言った。

 自由奔放なファッション文化が根付く幻想郷ではむしろ珍しい、小袖に袴の伝統的な巫女服を着ている。志弦の幻想郷デビューを祝して、霖之助が一手に製作した特注品だと聞いている。袴が濃い青色をしているのは、博麗ではなく守矢の巫女であることを示すためだろう。当然、腋は出ていない。

 かわいい服は苦手らしい。特に早苗や霊夢が普段から着ている、肩やらなにやらを惜しげもなく晒すようなものは。

 

「なんか毎日みたいに天狗さんの取材が来てさー。マスコミに追い回される芸能人の気持ちが、ちょっとはわかる気がするなー」

 

 その横で月見が眺める『文々。新聞』には、今回も志弦をメインに据えた記事が載っている。八坂神奈子直々の修行の成果を発揮して、不浄霊をひとつ祓ってみせたとか――。

 元々、才能があったのだろう。神奈子と早苗を師として巫女の修行に励む中で、志弦はメキメキとその才覚を開花させていた。記事の通り小さな霊を祓う程度なら造作もなく、また飛行術も習得し、こうやって一人で水月苑を訪ねてくるようにもなった。もっともまだ、あまり高いところは飛べないようだけれど――どうあれ、彼女がほんの少し前までただの女子高生だったと言って、果たして何人が信じるだろう。

 それほどに志弦は、幻想郷での暮らしによく馴染んでいた。

 

「どうだい、こっちでの生活は」

「やー、向こうよりずっといいっすよ。なんてーか、気楽で。勉強もしなくていーし」

 

 早苗に連れられて、幻想郷のあちこちを見て回ったそうである。北は妖怪の山、南は迷いの竹林、東は博麗神社、西は無縁塚の近くまで。そうすれば当然、小袖と青い袴という典型的すぎて逆に目を引く巫女姿のお陰で、志弦の存在はあっという間に幻想郷中へ知れ渡る。

 この前、温泉に入りに来た客が言っていた。――俺はああいうのを待ってたんだよ。古き佳き伝統のっつーか。や、博麗の巫女や早苗ちゃんの恰好だってもちろんかわいいさ。だがな旦那、俺ぁ実を言うと、巫女さんがああやって腋だの素脚だのを軽々しく晒すのはいかがなもんかって思ってる。懐古主義ってやつかもしんねえけどさ、やっぱり人前で極力肌を出さない、淑やかであり、かつ慎ましやかな佇まいこそが神に仕える女ってもんだと思うわけよ。つまり志弦ちゃんは最高だね。本人がすげえ明るくて元気な子ってのも、ギャップ萌えってやつで一向に悪くねえ。あとさりげなく胸もある。小袖を下から押し上げるあの隠し切れないボリューム……たまらん。もしも退治されるんだったら、俺ぁああいう巫女さんに退治されてえって思う。なあ旦那。俺、これから守矢神社信仰するわ。

 まさに志弦は今、時の人というやつなのだった。

 

「それに……霊を祓ったり空飛んだり、マンガみたいなことやってる自分がすげー楽しいんです」

 

 志弦はため息をついた。その口元には、確かな笑みの形があって、

 

「やっぱり私、こっち選んで正解でした。ありがとーございます、月見さん。月見さんがいなかったら、向こうから荷物持ってこれなかったし……そもそも、無縁塚で死んでたかもしれないわけですし」

「大したことじゃあないさ」

 

 月見も笑みを返した。

 

「お前がここにいてよかったと思うのなら、私も嬉しいからね。それだけで充分だ」

「……おぉー不意打ち。私なんかトキめかせてもいいことないっすよー?」

「本心を言っただけだよ」

「いや、本心でそういうことをさらっと言っちゃう方が……でもまあ、月見さんらしいか」

 

 志弦が寝転がったまま、んいい、と上に大きく伸びをした。

 

「……にしても、随分と涼しくなったっすねー」

「そうだね」

 

 具体的には、こうやって縁側でひなたぼっこができるほどに。夜は少し肌寒いくらいだ。もう、秋の足音はすぐ耳元までやってきている。

 

「夏も終わりっすねー……」

「そうだねえ……」

 

 ぽかぽかと心地よい日和のせいで、少し眠い。このまま昼寝をしたら最高に気持ちよさそうだ。志弦はすでにまぶたを下ろし、大の字で脱力しきって、寝息のように穏やかな息をしている。

 月見も気がついた時には、まどろんでしまっていた。

 

「…………」

「…………」

 

 このまま寝てしまうのはどうかと思いつつも、どうも抗いきれない。ぽかぽかな陽射しも、どこかから聞こえる小鳥のさえずりも、のんびりと吹き抜けていく爽やかな風も、すべてが月見を夢の世界へと後押しする。まあ、ちょっとくらいなら、いいか。そんな悪魔のささやきが聞こえたのを最後に、月見の意識は風のない中で消えゆくロウソクの灯火みたいになって、途切れた。

 あまり時間は経っていなかったと思う。

 

「――ねえ」

 

 突然近くから声が聞こえて、月見はゆっくりとまぶたをあげた。目の前に少女が立っている。どこかで見覚えがあるような気がしたが、まだ半分まどろんでいる月見はそれが誰だったか思い出せない。

 小柄な少女だった。月見の胸元に、ちょうどおでこが来るくらいだろうか。赤いチェックのスカートが強烈に目を引く。色白な両手で差した日傘をくるくると回し、癖っ毛気味の緑の髪を風でなびかせながら、やたらご機嫌な笑顔で月見を見下ろしている。

 まだ名前が出てこない。

 少女が言った。

 

「ねえ。私とあなたって、友達じゃない」

 

 ちょっとずつ、眠気が抜けてくる。

 

「なのに、連絡してくれないなんてひどいと思うの」

 

 日傘。

 緑の髪。

 赤いチェックのスカート。

 喉元まで出かかっている。

 

「今日久し振りに家に戻ってみたら、向日葵たちが『銀の狐が来てた』って教えてくれて、それで慌てて調べたのよ? 畑まで来てたんだったら、書き置きくらい残してくれてもいいじゃない」

 

 向日葵。

 畑。

 思い出した。

 眠気が吹っ飛んだ。

 

「あー……」

 

 月見はそんな声をあげて、

 

「……久し振りだね、幽香」

 

 少女は、向日葵みたいににっこりと笑った。

 

「ええ。久し振りね、ねぼすけさん」

 

 それから彼女は大きく息を吸って、

 そこから三秒ほどタメて、

 

「――帰ってきてたんなら教えてよバカああああああああああっ!!」

 

 衝撃波が飛んできた。

 後ろにひっくり返るかと思った。

 キンキンとした耳鳴りに耐える月見の横で、志弦が「寝てないです教官!?」と変なことを言いながら飛び起きた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 だいたい、ぜんぶ向こうが悪いのだ。

 その当時、自分の二つ名である『フラワーマスター』といえば、端的にいって『恐ろしい妖怪』の代名詞みたいなものだった。縄張りに足を踏み入れる者があれば、人間妖怪問わず一切容赦をしない恐ろしい妖怪である――そんな噂が、どうやら幽香の与り知らぬところでまことしやかに囁かれているらしい。

 理不尽な話もあったもんだと思う。

 なにも幽香だって、やりたいと思って侵入者をいちいち叩きのめしているわけではない。自分で言うのもなんだけれど、妖怪の中では優しいというか、気性が穏やかな方ではあるはずだ。そうでなければ、花という可憐で繊細な生き物たちを愛せはしないから。

 だから悪いのは全部、幽香の縄張りで無礼を働く侵入者どもの方なのだ。

 幽香の縄張りは『太陽の畑』といい、わかりやすくいうところのお花畑である。幽香が最も愛する花である向日葵をはじめとして、季節の植物たちが至るところで風景を彩っている。緑の絨毯の中を伸びる細々とした歩道以外は、すべてが植物たちの領域だ。

 だからだろうか。太陽の畑を訪れる無法者どもは、どうも軽い気持ちでこう考えるらしい。

 一本くらい手折って持って帰ってもいいだろうとか。

 ちょっとくらい踏んづけても大丈夫だろうとか。

 実際、草花が荒らされたことも少なくはない。それは幽香にとって、真正面から顔に泥団子をぶつけられるようなものである。最大級の侮辱である。どうぞ叩きのめしてくださいと言っているようなものなのであり、だから幽香は実際に叩きのめしてやっているだけなのだ。

 先に喧嘩を売ってくるのは、いつも決まって向こうの方。

 なのにその結果が『フラワーマスターは恐ろしい妖怪だ』なんて、理不尽すぎて笑ってしまう。

 

「……はあ」

 

 太陽の畑の最奥にある我が家の窓際で、幽香は元気のないため息をつく。

 はじめは、むしろその方が都合がいいのではないかと思っていた。幽香自身が世から恐れられることで、畑に余所者が近寄らなくなり、結果として植物たちを守ることができるのではないかと。

 甘かった。

 そうやって幽香の名が強者として知れ渡ることで、かえって幽香を倒して名をあげようとする連中を呼び寄せることとなってしまった。

 そうすれば当然、緑の絨毯を越えて幽香の家までやってくる連中が増える。であれば必然、家の手前で海のように広がっている花――向日葵たちを目にする連中が増える。

 幽香が最も愛する花を目の当たりにした連中は、一様に眉をひそめて、吐き捨てた。

 

 ――なんだ、この薄気味悪い花は。

 

「……はあ」

 

 この頃人々から愛されていた植物といえば、梅、桜、萩など、枝に小振りでかわいらしい花を結ぶものたちだった。だから人の顔ほどもある大輪をひとつ咲かす向日葵は、どうも一般的な美的感覚からは外れていたらしい。それが見渡す限り一面に花を咲かせ、かつすべてが揃って太陽の方向を向いているとなれば、冗談抜きで物の怪かなにかに見えるのだそうだ。

 冒頭で述べた噂話には、実を言えば続きがある。

 ――フラワーマスターは、縄張りに足を踏み入れる者があれば、人間妖怪問わず一切容赦をしない恐ろしい妖怪である。そしてその縄張りでは、巨大で黄色い薄気味の悪い花が、所狭しとひしめいているという……。

 ひどい。

 ひどすぎる。

 あんなにかわいいのに。あんなにいい子なのに。

 

「……なんで、わかってもらえないのかなあ」

 

 お陰でこのところ、幽香はずっと元気がなかった。植物たちの世話をするとき以外は、ずっと家に閉じこもってため息ばかりをついている。寝不足気味だし、食事だって満足に喉を通らない。

 鏡を見たら、隈のひとつでもできているかもしれない。

 

「はあ……」

 

 このすすり泣くようなため息は、今日でもう何度目になるのだろう。

 幽香は首を振って立ち上がった。このままではいけないと思った。家に閉じこもって、毎日ため息ばかりをついて、食事も睡眠も満足に摂らないで、その先に明るい未来があるなんて到底思えない。妖怪にとって、心の退廃は存在そのものの退廃だ。

 以前と比べて、力が上手く使えなくなってしまっているように思う。このままでは、花を貶す無礼者どもを追い払うことすらできなくなってしまう。

 いじけてばかりいないで、なんとかしなければならない。

 だからまずは、向日葵たちの世話をして気分転換をしようと思った。

 声が聞こえた。

 

「――……」

 

 それは、空気を振動させることで伝わってくる一般的な『声』ではなかった。『花を操る程度の能力』を持つ幽香だからこそ聞くことができる、植物たちの思念とでもいおうか。太陽の畑では幽香の力により植物のネットワークが形成させていて、なにかあったときはすぐ知らせが飛んでくるようになっている。

 誰か来た。誰か来たよ。

 そんな声だった。だから幽香はひどく顔をしかめ、舌打ちし、玄関へ向けて踵を返した。日傘を手に取り、肩慣らしにその場で振るう。鉄の塊を振り回したような、容赦なく空気を切り裂く音。

 悪くない。幽香は玄関を出て、植物たちが教えてくれる方向を頼りに、ゆっくりと歩を進めた。

 一歩足を動かすたびに、ふつふつと腸が煮えていく。植物たちが『誰か』と表現したということは、やってきたのは幽香の知人ではない。であれば当然、興味本位で、もしくは幽香を倒し名を上げるためにやってきた侵入者に決まっている。

 そして侵入者であるなら、幽香の花たちを見てなにをするのかもまた決まっている。

 今までがずっとそうだったのだから。だから今回の侵入者も、一面に広がる向日葵たちを見て、薄気味悪い、噂通りだと吐き捨てるだろう。

 感謝しなければなるまい。

 感情のまま敵を叩き潰す。ストレスを発散する方法としては、この上ないだろうから。

 

 やがて幽香が見つけたのは、綺麗な毛並みをした銀の狐だった。

 家からそう離れた場所ではなかった。その狐は幽香に背を向け、あたり一面を埋め尽くす黄色い海を微動だにせず眺めていた。向日葵たちが、見られてる、見られてるー、と声をあげている。

 やはり、見覚えのある姿ではなかった。狐の知り合いなんて幽香にはいない。上背と体格から判断するに、男の狐であるようだ。よほど目の前の光景に気を取られているのか、背後の幽香に気づいた素振りはない。

 少し、声を掛けるかどうか悩んだ。事実いままでの侵入者には、「なにをしているの?」くらいの最低限の問答はしてきた幽香だった。けれど声を掛けた結果、この男の口から出てくるのが向日葵たちを貶す言葉かもしれないと気づき、首を振った。

 なにも言わせず叩き潰してしまえばいい。

 挨拶なんて要らない。ゆっくりと日傘を持ち上げる。一瞬で妖力を全開放し、逃げる暇も与えず距離を詰め、一撃必殺で叩き潰す――『恐ろしい妖怪』の自分なら造作もないことだ。

 謝りはしない。『恐ろしい妖怪』がいるとわかってズカズカと足を踏み入れてくる、この狐が悪いのだから。どうしようもなく虫の居所が悪い今日このときの幽香と出会ってしまった、この狐が不運なのだから。

 息を吸った。

 数を数えた。

 三、

 二、

 一、

 

「綺麗な花だね」

「――はえ?」

 

 そして幽香は、頭の中が真っ白になった。

 今のは一体誰の声かという、そんな馬鹿げたところから考え始めなければならなかった。

 聞こえた声と、聞こえた言葉の二つが結びつかなかったせいだ。男の声が聞こえたのはいいとして、向日葵たちを褒めてくれる言葉が聞こえたのは一体どういうことだろう。

 男の人といえば、ちょうど目の前に。

 まさか、

 

「初めて見る花だけど、これはすごい。眩しくて、まるで太陽でも見てるみたいだ」

 

 また、男の声だった。褒められた、褒められたー、と向日葵たちが嬉しそうにはしゃぐ。それを聞いてようやく、幽香の頭の理解が追いついてきた。

 追いついてきたからこそ、余計に混乱した。

 

「え? え? ……えっ?」

 

 だって、もしも幽香の認識が正しいなら、目の前の狐が向日葵たちを褒めてくれたことになる。幽香が最も愛する花を。今まで誰しもが、薄気味悪いと言って忌み嫌った花を。

 それは、つまり、どういうことを意味するのか。

 男がこちらを振り返った。たったそれだけのことなのに幽香はひどくびっくりしてしまって、「ひぇ」とかよわい声が口からこぼれた。

 自分の胸元あたりまでしかない幽香を見下ろして、男が意外そうな顔をしている。なにか言わなきゃと幽香は思うが、そう思えば思うほど頭がこんがらがってさっぱり言葉が出てこない。混乱は焦燥を生み、焦燥は瞬く間に顔全体を覆う熱となる。心の中にいる自分が、混乱のあまり両目をぐるぐる巻きにして、両手をあちこちに振り乱して、あわわわわわとそのへんを走り回っている。心の中がこの有様なのだから、ひょっとしたら今の自分は湯気のひとつでもあげているかもしれない。

 男が笑みを作った。

 

「はじめまして」

 

 幽香は完全に勢いだけで答えた。

 

「は……は、はじめましてぇっ!」

 

 声が見事に裏返ってしまって、幽香はちょっとしにたくなった。

 燃えあがる恥ずかしさで逆に冷静になれたのが、なんとも皮肉だった。

 

「私は月見。ただのしがない狐だよ」

「か、風見幽香、です」

 

 自己紹介をしながら、深呼吸をする。とにかく落ち着かなければならない。幽香は『恐ろしい妖怪』と誤解されるのは嫌いだが、強大な大妖怪として名が知られること自体は決して吝かではないのだ。そして自分がある程度高名な妖怪となったからこそ、その事実に恥じないよう、瀟洒で大人びた『くーるびゅーてぃー』である必要があるのだ。

 目の前の狐が、幽香の花に無礼を働く『悪いやつ』でないのは明らかだった。ならば幽香も、向日葵を褒めてくれた彼の慧眼に見合うだけの態度を見せなければならない。それがオトナの女性というやつだ。

 咳払い、

 

「……ようこそ、太陽の畑へ。狐が来るなんて珍しいわね」

 

 なんとか自然に言えた。男――月見は笑みを崩さぬまま、

 

「噂はかねがね。見たこともない花が一面に咲き乱れる畑の主で、侵入者には容赦なく鉄槌を下すとか」

「あ、あれは、みんながこの花たちを薄気味悪いって言うからよ。……綺麗だって言ってくれたあなたには、なにもしないわ。当然でしょう?」

「そうなのか」

 

 意外そうな口振りだった。

 幽香の胸がチクリと痛んだ。そうなのかって、そうに決まってるじゃないか。まさかこの狐も、他のやつらと同じで噂を鵜呑みにしているのだろうか。幽香をただの恐ろしい妖怪だと思っているのだろうか。一度向日葵を褒めてもらえた分だけ、余計にショックだった。ひどい、なんで男の人はこんなのばっかり――と唇を噛んでいたら、

 

「日傘振り上げてるから、てっきりそれで私を叩き潰すつもりだったのかと」

「……あ」

 

 訂正。他でもない自分のせいでした。

 慌てて日傘を下ろして、

 

「……ご、ごめんなさい。その、てっきりまた、向日葵たちの悪口を言われると思って」

 

 ああ、と男は納得した素振りで、

 

「薄気味悪い花だとか聞いてたけど、噂は当てにならないものだね。こんなに綺麗なのに」

「ひぅ」

 

 あっいけない、と幽香は思う。ものすごく嬉しい。今まで散々悪口ばかりを言われてきた反動なのか、まるで自分が褒められているみたいにめちゃくちゃ嬉しい。やっぱり向日葵はかわいいのだ。わかってくれる人はわかってくれるのだ。今まで向日葵たちに注いできた幽香の愛は、なにも間違ってなんかいなかったのだ。

 いつしか、当初の混乱と緊張は空の彼方だった。

 

「ひまわりっていうんだね、この花」

「そうなの!」

 

 幽香はいきいきと身を乗り出して、

 

「私が、一番好きな花なのよ」

「この景色を見ればわかるよ。お前がどれだけこの花を大切にしてるかがよくわかる」

「そ、そう?」

「そうだとも」

 

 ああ、私いま、変にニヤついたりしてないかしら。

 

「あ、あなたはなにしにここへ?」

「見たこともない花が見られるって聞いてね、どんなものかと思って。……ああ、迷惑は掛けないよ。すぐ帰るから」

「ぇ……」

 

 捨てられる子犬みたいな声が出た。

 

「か、帰っちゃうの?」

 

 せっかく、向日葵の素晴らしさをわかってくれる人と巡り会えたのに。

 もしかして、長居するような場所ではないと見切りをつけられてしまったのだろうか。確かに花畑以外に、他の魅力がある場所ではないけれど。でも、ようやく出会えた仲良くなれるかもしれない人にそんなことを思われたのだとしたら、とても悲しい。

 月見は不思議そうに、

 

「あまり居座られても迷惑じゃないかと思ったんだけど」

「あ……そ、そういうこと」

 

 なるほど、どうやら気を遣われただけだったらしい。幽香はほっと胸を撫で下ろし、

 

「それは、私の花をいじめるやつらだけよ。あなたなら……別に、迷惑だとは思わないわ」

「そうか?」

「そ、そうよ。だから、ほら、ね? 別に、もうちょっと見てったりしても、私はなにもしないわよ? 怖くないわよ?」

 

 今だから白状しよう、自分が育てた花のかわいさが誰にも理解されなくて、幽香はとても寂しかった。だから、ようやく巡り会えた向日葵を褒めてくれた人と、このままさよならしてしまうのはとても嫌だった。もっとここにいてほしい。ここにいて、いろいろと話を聞かせてほしい。いろいろと話を聞いてほしい。一緒に、花の素晴らしさを理解し合いたい。

 そう切実に思ってはいるのだが、大妖怪としてのメンツが邪魔をして、

 

「お、お茶とお菓子もあるわよ? 美味しいわよ? 自信作よ?」

 

 もう少しマシな誘い文句があっただろうに。

 たぶん、ある程度見透かされてしまっていたのだと思う。やがて月見が浮かべた微笑みは、完全に愛くるしい小動物かなにかを眺めるそれだった。

 

「じゃあせっかくだし、花についていろいろ教えてもらおうかな」

「ま、任せて頂戴っ!」

 

 けれど月見の返事ですっかり舞い上がってしまった幽香が、そこまで気づけるはずもなく、

 

「そ、それじゃあ私の家まで案内するわね! ついてきてっ!」

「ああ」

 

 くるりと踊るように踵を返し、幽香は早速歩き出す。

 隠しきれない喜びを顔中で表現し、オマケに鼻歌まで口ずさんでいる『恐ろしい妖怪』の後ろ姿に、向日葵たちがくすくすとおかしそうな声をあげていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 要するに、『記念すべき友達第一号』というやつだ。

 風見幽香という少女は、友達という概念をかなりオーバーに捉えているフシがある。神聖視とまではいかないにしても、それと遜色ないほど崇高な存在として認識しているはずである。なにかあった時に連絡を取り合うのは当たり前、困った時に助け合うのは当然のこと、常日頃から協力し合うのは一般常識、家を訪ねて親睦を深め合うのは自然の真理、裏切りや隠し事など無礼千万。きっとそう考えているに違いない。

 原因は定かでないが、ともかく、風見幽香は超絶的な友達想いなのだ。

 あれから何百年と経った今でも、それはまったく変わっていなかった。

 

「……まったく、連絡の不徹底はもうこれっきりにしてよ? 次からは、せめて書き置きだけでもしていくこと。友達なんだから、だんまりなんてあんまりじゃない」

「悪かったよ。本当に反省してる」

 

 さっきからずっと、『友達』の部分を何回も何回も強調して、月見の耳にタコでも作る気なのかというほどしつこくぶーたれている。幽香にとって、友達から大切な連絡をもらえなかったというのはとてもショックな出来事なのである。それが、記念すべき友達第一号な月見ならなおさらだ。

 月見は苦笑、

 

「次からはちゃんと連絡するよ。だからほら、せっかく再会したんだし、もっと楽しい話をしないかい」

「話を逸らさないでっ」

 

 場所は縁側から茶の間へ移り、テーブルを志弦を含めた三人で囲んでいる。幽香は月見の向かい側で行儀よく正座し、人差し指を立てて、だいたいあなたはねえとどこぞの閻魔様みたいにぷんすかしていた。志弦がニタニタととても楽しそうな顔をして、月見と幽香を交互に観察している。月見は幽香にお茶を差し出す。

 

「ほら、お茶でも飲んで落ち着いて」

「……いただくわ」

「志弦もどうぞ」

「どうもっすー」

 

 夏の厳しさもすっかり和らぎ、熱いお茶が美味しい季節になってきている。

 ずっと喋り続けて喉が渇いていたのか、湯呑みを受け取った幽香は上品な手つきでそっと一口、

 

「あ、幽香」

「ひんっ!?」

「熱いから気をつけ――てほしかったなあ」

 

 幽香が涙目で舌の先っちょをふーふーしている。淹れたてをいきなり飲もうとすれば誰だってそうなる。ため息をつく月見の横で、志弦が顔を俯けてぷるぷる笑いをこらえていた。

 静寂、

 

「……コホン」

 

 なんとか火傷の痛みを耐えきり、涙目を素早く拭った幽香は咳払い、

 

「ま、まあ、そうね。せっかく再会したんだし、今はそっちを喜ぶこととしましょう」

 

 風見幽香について補足しておこう。彼女は友達想いで心優しい少女だが、一方で大妖怪たる己の力に、或いはレミリア以上の強い誇りを持ってもいる。大妖怪の誉れに恥じぬよう、クールビューティーでカリスマあふれる自分を目指しているようである。なので今みたいな恥ずかしい失敗をすると、素知らぬ顔でなかったことにしようとする癖がある。

 見て見ぬふりをしろというのは難しい話かもしれない。だが悪戯心で揚げ足取りや子ども扱いなどしようものなら、幽香は瞬く間にヒステリーを起こして暴走し、ひどい時は精神退行をも引き起こす。俯いて笑いをこらえるだけだった志弦の選択は大変正しいのだ。

 幽香がクールに微笑んだ。

 

「改めて、久し振りね。変わってないようで安心したわ」

「お前もね」

「随分と派手なお屋敷に住んでるのね。こんな贅沢する癖なんてあなたにあったかしら?」

「まあ、いろいろあってね。温泉もあるから、入りたい時は好きに入っていいよ」

「あら、ありがとう。そのうちね」

 

 それから、お茶をふーふー冷ましている志弦を横目で見て、

 

「で、こっちの人間は? 名前はさっき聞いたけど、こんな巫女なんていたかしら」

「あー。私はまあ、幻想入り? とかいうのをしたばっかで、最近になって守矢神社で暮らし始めたのです。だから巫女さん。まだ見習いだけどねー」

「ふうん……」

「月見さんには、いろいろお世話になっちゃって……いや、今でもお世話になりまくりかな。ともかく、仲良くさせていただいてますです」

 

 幽香は呆れたように笑った。

 

「人間を当たり前みたいに家に入れる妖怪なんて、あなたくらいでしょうね」

 

 ま、あなたらしくていいと思うけど。そうぼそっと呟いて、

 

「月見と仲がいいなら、これからも会うことになるでしょう。一応、よろしくね」

「あいあい。よろしくねー、幽香ちゃん」

 

 幽香の体にヒビが入った。気がした。

 五秒、

 

「……ゆ、幽香ちゃん?」

「え? ……中学生くらいだよね?」

「それは見た目の話でしょうがっ! 私はあなたなんかの百倍くらい長生きしてるんだから、いくらなんでもちゃん付けはないでしょ!?」

「そかな。かわいくていいと思うけど」

 

 確認するが、幽香は子ども扱いされるのが大嫌いである。

 

「ふ、ふふふ。確か、志弦とかいったわよね? 人間のクセして私に喧嘩売るなんていい度胸じゃない」

「いやいや、私はただ本心を」

「一発っ! 一発殴らせなさいっ!! 今すぐ!!」

「あはは。冗談だよ、幽香」

「むぎぎ!」

 

 おちょくられた幽香が顔を赤くしてぷるぷる震えている。傍で見ている月見は気が気でない。いくら幻想入りして日が浅いとはいえ、人間が妖怪を――しかも幻想郷最強格の大妖怪を――からかうなど、怖いもの知らずを通り越して命知らずの領域である。

 まあ、志弦らしいといえば、志弦らしいけれど。

 

「ほら幽香、落ち着いて。大妖怪たる者、いつも上品でお淑やかに、だろう?」

「ぐむっ……そ、そうね。時には寛大な心で見逃してあげるのも、大妖怪の貫禄ってやつよね」

 

 あっさり丸め込まれるちょろい大妖怪が深呼吸をしているうちに、月見は志弦を半目で睨んで釘を刺した。志弦は舌の先をちょろっと出して、反省しているのかいないのか、てへへと呑気に笑っていた。

 

「ところで月見。このお屋敷の庭って、誰がデザインしたの?」

 

 いくらか冷静を取り戻した幽香が、だしぬけにそんなことを訊いてきた。自分が愛する植物の話をして、上手く気持ちを落ち着かせたいのかもしれない。植物の世話に詳しい幽香は、その延長上で庭仕事にも精通している。

 ただ、妖夢渾身の力作を眺める眼差しは、少し不満そうだった。

 

「妖夢だけど」

「……なるほどね。まあ、あの子は日本庭園一筋だし、仕方ないか」

「なにかご不満でも?」

 

 幽香はテーブルに両手を打って叫んだ。

 

「花々の彩りが欠けてるのよっ! もっと赤とか黄色とか白とかピンクとか! 向日葵なんて一本もないじゃないっ!」

「お前は日本庭園をどうしたいんだ?」

「お花畑を作りましょっ!」

 

 そういう意味ではなく。

 

「でも日本庭園だし、あんま鮮やかにしない方がいいんじゃない? 向日葵も合わないっしょ」

「そんなのやってみなきゃわからないわっ!」

 

 志弦にそう叫び返して、幽香はすでに立ち上がっていた。フラワーマスターの頭の中では、もう水月苑の庭に花壇を作るのは決定事項である。

 

「早速やりましょっ! きっと素敵なお庭になるわよ!」

「……そうだねえ」

 

 月見は悩む。妖夢曰く、日本庭園は石ひとつの位置から庭の先に広がる景色まで、すべてが意味を為して調和しているものであるという。素人の手に負えるものではありません、手入れは私にお任せください、と何度も口を酸っぱくして言っている。勝手に花壇なぞ作ってしまっては、月見にはわからない調和が崩れてしまうのではないか。

 けれど幽香の瞳はあふれる希望と期待できらきら輝いていて、月見が頷いてくれるのを欠片も疑っていない顔で、断られた瞬間に絶望と失意のドン底まで墜落していきそうで、そう思うと月見はどうも断りきれず、

 

「……じゃあ、隅の空いてるところを使ってくれ。ただし、あまり派手になりすぎないようにね」

「さっすが、話がわかるわねっ」

 

 あたり一面に幸せのマイナスイオンを振りまきながら、幽香が小走りで駆け出した。茶の間から飛び出す寸前で振り返り、

 

「道具はどこにあるのかしら?」

「私が持っていくよ。庭を歩いて、どこに作るか考えてるといい」

「悪いわねっ」

 

 ぱたぱたとかわいらしい足音が、玄関の方へ遠ざかっていく。

 それが聞こえなくなったところで、志弦がぽつりと言った。

 

「……やっぱり、幽香ちゃんでいい気がするけどなー」

 

 月見はなにも言わず肩を竦めて、よっこらせと重い腰を持ち上げた。

 ここらへんがいいかしらー、あっこっちもいいわね! とそんな元気な声が庭から飛んでくる。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そろそろ修行の時間だという志弦を途中まで見送って、月見が水月苑まで戻ってくると、庭の一角で幽香がスコップを振り回している。たたみ一畳分ほどのスペースがごっそり掘り返されていて、そのあたりから取ってきたと思われる石で囲いが築かれている。その隅で、抜かれた芝が哀愁漂う小さな山と化している。

 月見は問うた。

 

「調子はどうだい」

 

 幽香は答えた。

 

「ぼちぼちね!」

 

 ざくざくと、スコップで土を耕す音が響いている。

 

「なにか手伝おうか?」

「あなたは黙って待ってればいいのっ」

 

 幽香は、とても楽しそうだった。無骨な軍手に指を通し、頬に土をつけて、庭仕事をする女の子の顔とは到底思えない。大好きなお菓子の掴み取りをしているような。犬や猫をかわいがっているような。そんなきらきらした瞳でスコップを振り回し、どんどん土を掘り返していく。

 風見幽香という少女は、本当に植物が好きだった。初めて出会い、家に招かれたときも、彼女は月見が圧倒されるくらいの勢いで植物の素晴らしさを語りまくっていた。今もまったく変わっていない。むしろ、初めて出会ったときよりも若返っているような気さえする。

 変わらない友人の姿は、いつだって月見を安心させてくれる。

 

「植えてほしいお花とかあるー?」

「任せるよ。思い思いにやってくれ」

「そう? じゃあ好きにやっちゃうわよー」

 

 月見は縁側の板敷きに座り、元気な幽香の姿を視界の隅に入れながら、中空を眺めて考え事を始める。そう大した内容ではない。幽香が花壇を完成させたあとはどうするか、夕食はなににするか、明日の朝食はどうするか、明日はなにをして過ごすか、幽香はどんな花を植えるのだろうか、昼ごはんはなににするか、食材はどれほど残っていたか、妖夢に怒られないだろうか、明日は晴れるだろうか。幽香は花壇作りにすっかり没頭し、月見に話しかけてくる様子はない。蝉はもう鳴かなくなり、小鳥は今でも元気にさえずっており、ざくざくとスコップの音が混じっている。

 幽香が再び口を開いたのは、次第に考えることもなくなってきた月見が、本を取ってこようかと腰を上げかけたときだった。

 

「……ねえ、月見」

「ん?」

 

 幽香は振り返りもせず、

 

「あなたはいつ、また外の世界に出て行くのかしら?」

 

 その問い掛けを、月見は少々意外だと思った。いつ、この幻想郷から出て行くのか。それを面と向かって尋ねてきたのは、幽香が初めてだった気がした。

 

「出て行かない、ずっとここにいるってのは……まあありえないでしょうけど」

「そうだね。……でも、お前からそれを訊かれるとは思ってなかったな。紫にも訊かれないようなことなのに」

「それは違うわよ」

 

 幽香が作業の手を止めて、振り返った。少し、咎めるような眼差しだった。

 

「訊かないんじゃなくて、訊けないんだと私は思うわ。――怖くて」

「……」

 

 月見は体を反らし、後ろに両手をついた姿勢で空を見上げた。鳶が飛んでいる。緩く息をついてから、答えた。

 

「……そのあたりは、適当だよ」

「……」

「三年か五年か。十年以上かもしれないし、案外、来年かもね。……ともかく、また行きたくなったときに行くつもりだよ」

「外の世界が、楽しいから?」

 

 月見は幽香を見て苦笑した。幽香はもう月見を見ておらず、ぼんやりとした手つきで、花壇にスコップを突き立てていた。

 

「そもそも私は、どこかの土地に五年以上留まった記憶がない。そういうタチなのかもね。それに、私だけに限った話でもないけど、向こうで生まれた妖怪だからね。生まれ故郷に帰るのは、むしろ当然のことだろう」

「……」

「今はまだこっちにいたい気持ちが強いし、ある程度時間を空けた方が、また向こうに行ったときの刺激が増えていいとも思ってる。でも――」

 

 吐息、

 

「――いつかまた、あの世界が恋しくなる時が来る。そのときは間違いなく。私はまた、この幻想郷を去るのだろうね」

 

 世界中を歩いてきた。住む場所を定めず、北へ歩き南へ進み、東へ行き西へ向かい、ずっとそうやって生きてきた。そして、これからもそうやって生きていくのだろうと思う。

 幽香はしばらく答えなかった。

 後ろを向いているため表情は見えないが、その背中は普段よりも小さく見えた。やがてポツリと、

 

「……私はあなたのことを大切な友達だと思ってるから、正直、ずっとここにいたらいいのにっては思うわ。でも、出て行くとしても私はなにも言わない。そういう生き方、わからないわけでもないしね」

 

 四季の彩りに合わせ、その季節の花々を求め、幻想郷中をほっつき歩いて生きている。幽香は恐らく、この世の妖怪の中で最も月見に近い生き方をしている。

 だから幽香は、月見の生き方を否定はしない。

 けれど、

 

「無理やり出て行くのは、もうやめにしなさいよ」

 

 500年ほど前――かつて自分が幻想郷から出て行ったときのことを言っているのだろうと、月見は思う。

 

「……ちゃんと話をして、納得してもらったはずだけど」

「んなわけないでしょうがバカ。ほんとに納得してもらえたと思ってるの? あなたが話をしたとき、みんなそういう顔してた? 諦めたような顔してなかった?」

 

 月見はなにも言えない。

 

「あれじゃあ無理やり出て行ったも同じよ。だから、次出て行く時は、ちゃんと(・・・・)そのあたり折り合いつけてからにしなさい」

「……それはまた、難題だね」

 

 特に紫は、月見がどう言葉を尽くしたとしても、きちんと納得して頷いてくれることはないように思う。

 

「できないんだったら諦めてここに腰を据えなさい。あらゆるものは常に変化していく。もう、あなたが今まで通りの生き方をできる時代でも世界でもないのよ」

「……まったく、耳が痛いね」

「そうでしょう。いっそすっぱり諦めたらどう? いいじゃない、あなたを好きでいてくれる人が、ここにはたくさんいるんだもの」

 

 そう言われて誰の顔も浮かばないほど、月見は鈍感ではない。事実として好きだと言ってくれる人がいる。熱心に家事を手伝ってくれる人がいる。何度も差し入れを持ってきてくれる人がいる。毎日のように会いに来てくれる人がいる。

 たった半年。幻想郷に戻ってきてまだたった半年だけれど、月見の周りにはもう随分とたくさんの笑顔が増えた。

 

「ちなみにその中に、お前はいるのかな」

 

 ちょっとした悪戯をするつもりでそう問うたら、幽香の肩がピクリと震えて、結構な間があって、

 

「……当たり前でしょう。友達なんだから」

 

 あいもかわらず後ろ向きで表情は見えないけれど、それは気恥ずかしそうにしぼんだ声だった。

 月見は笑った。

 

「ありがとう」

「……ふ、ふんだっ。礼を言ったからには、どうするのか本気で考えなさいよ」

「ああ」

「じゃあ私はこっちに集中するから。もう話しかけないでよ」

 

 月見は頷き、口を閉ざした。後ろにごろんと引っくり返って、頭の裏で両手を組んで、鳶が舞う青空を一人で見上げる。

 幽香の言う通りなのかもしれない。

 今はまだ大丈夫でも、いつか必ず、外の世界に戻りたいと思うときが来る。それは、他でもない自分自身のことだから、間違いないと自信をもって断言できる。

 けれどもう、月見が今まで通りの生き方をできる時代でも世界でもない。

 すべてに逆らって、また外の世界へ出て行くのか。

 すべてを受け入れて、この世界で生き続けるのか。

 

「~♪ ~♪」

 

 幽香のご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。秋らしい涼しさを孕んだ風が月見の頬を撫で、庭の木々たちがさわさわとささやくような声をあげる。

 鳶が鳴いた。

 空を覆う無数の青と白は、いつもより少し、高く見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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