銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第72話 「すとらいくあっぷ・ふれんどしっぷ ②」

 

 

 

 

 

 咲夜はよく、月見に料理の差し入れをしてくれる。

 曰く、作りすぎて余ってしまうとのこと。お裾分けの理由としては実に定番だが、それにしたって少々頻繁すぎるというか、いつも決まって二~三日おきに持ってくるのはなぜなのだろうか。「今回もまた作りすぎてしまってみたんです」とか、なにかおかしい気がするのは月見だけだろうか。「次はなにを作りすぎてしまいましょう?」とか、絶対おかしいと思うのは月見だけだろうか。咲夜の料理はとても美味しいからありがたいのだけれど、なんだろう、この餌付けされているかのような感覚は。

 ともあれ。

 昨日の夕方、咲夜がそうやって料理を持ってきたついでで、フランの状況を報告してくれた。

 やはりというべきか、上手く行っていないらしい。毎回毎回気合いを入れて出掛けていっては、しょぼくれて帰ってくるそうである。

 ここまではいい。いや、決してよくはないが、予想できていたことなのでとやかくは言わない。

 問題はその次だ。

 レミリアの限界が近い。

 愛する妹が落ち込む姿を否応なく見せつけられているお姉さんは、そろそろ堪忍袋の緒が千切れ飛ぶ寸前なのだそうだ。今は咲夜が必死に宥めて我慢してもらっているが、それでも、もってあと三日。三日後、もしフランがしょぼくれて帰ってくるようなことがあれば――

 

「……霧の湖の地形が変わる、か」

 

 冗談に聞こえないから怖い。というか、先日は美鈴がいなければまさにそうなっていただけに、月見はそろそろ頭痛がしてきそうだった。

 できることならなんとかしてやりたいとは、月見も咲夜も、それどころかレミリアも美鈴もパチュリーも小悪魔も、みんなみんな思っている。しかし当のフランが、「絶対に諦めない!!」といよいよ着火してしまったらしく、なんとかしようにもなんともできない状況が続いている。

 無論、フランが着火してしまったのは、月見が傷心した彼女を慰めた翌日からである。

 ひょっとすると月見は、余計なことをしてしまったのかもしれない。フランが諦めるか、チルノが折れるか、レミリアが爆発するかの三つ巴の我慢比べ。一番初めに根を上げるのが一体誰かなど、いうまでもなく――。

 そんな憂鬱な気持ちで迎えた、その日の朝。

 月見は水月苑の庭の隅で、こそこそと動く人影を見つけた。

 

「……」

 

 恐らく本人は隠れているつもりなのだろうが、丸見えであった。岩の陰から、新緑さながら鮮やかな髪と、それを結わう黄色のリボンと、昆虫を思わせる透き通った翅がはみ出している。

 名前はすぐに出てきた。

 

「おーい、ふみうー」

 

 月見が縁側からそう声を掛けた瞬間、人影が岩陰から飛び出して叫んだ。

 

「ふみうって呼ばないでくださいっ!! ……あ」

 

 しかしてふみうこと大妖精は己の失態に気づき、「うわあ……」と観念した様子で項垂れたのだった。

 月見は喉で笑いながら、

 

「どうした。お前が一人で来るなんて珍しいね」

 

 大妖精が水月苑にやってくるのは大抵、相方のいたずらに無理やり付き合わされた時だ。最近だと、チルノが水月苑の露天風呂を凍らせ「さすがあたいね!」とドヤ顔を炸裂、その後月見に拳骨を落とされ気絶、大妖精が「ごめんなさいごめんなさい本当にごめんなさい」と平謝りするなんてことがあった。

 大妖精が両手の指同士を絡ませながら、言いづらそうに口を開いた。

 

「……えっと、そのー。なんといいますか、ちょっとお話を聞いてほしいことがありましてー……」

「もしかして、フランのことか?」

「え!? な、なんでわかったんですか!?」

 

 なんでもなにも、大妖精が一人で水月苑を訪ねてくる理由となればそれくらいだろう。

 

「未来予知というやつだよ。こう見えて、私はすごい狐でね」

「そ、そうなんですかー……。感心しちゃいます」

「嘘だけどね」

「!? だ、騙したんですか!?」

 

 もー! とぷんぷん怒っている大妖精に微笑んで、月見は縁側に腰を下ろし、隣を平手で叩いた。

 

「おいで。そこで立ちながら話すのもなんだろう」

「むー……」

 

 大妖精はしばらく頬を膨らませていたが、やがて「月見さんだし言うだけムダか……」みたいな顔でため息をついた。庭の飛石を跳んでとてとてとやってきて、月見の隣に腰を下ろす。

 なにやら失礼な反応をされたようだが、まあ気にしない。

 

「なにか飲むか?」

「いえ、大丈夫です……」

「そうか。……じゃあ、話を聞こうか」

 

 はい……と大妖精が浮かぬ顔で頷く。少しの間どう話すか悩んでから、彼女はぽつぽつと語り出す。

 曰く。

 ここのところずっと、紅魔館からフランドール・スカーレットがやってきては、チルノに弾幕で撃退されている。大妖精はそれをいつも隠れて見ているのだが、フランがなにか話をしたそうにしているので気になっている。自分たちと友達になりたがっていることにも、なんとなく気づいてはいる。しかしチルノは「そうやってあたいたちを油断させて、隙を見て食べちゃうんでしょ!」と言っていて、実際その通りなのかもしれない。そうでなくとも吸血鬼と話をするのは怖くて、どうしても見て見ぬふりをしてしまう。

 

「……悩んでるんです。このままでいいんだろうか、それともこのままがいいんだろうかって」

 

 大妖精にとって、吸血鬼は恐怖の権化である。紅魔館の傍で生活しているだけ、その力がどれほど強大なのかは身を以て知っている。最近は落ち着いているが、以前は紅魔館で凄まじい妖力が発生するのも珍しくなく、大妖精を何度も震え上がらせた。

 決定的なのは、その時に感じていた妖力が、フランのものと一致していること。

 恐らくは、フランの心がまだ狂気に冒されていた頃の話なのだろう。

 

「吸血鬼の人たちと比べれば、私なんて――ううん。チルノちゃんだって、きっと足下にも及ばないんだと思います」

 

 あんな恐ろしい力を持つ吸血鬼の前では、自分なんか一瞬で殺されたっておかしくない。

 だから、怖い。話がしたいと何度も訴えるフランの姿を、まっすぐに見つめることができない。

 どうすればいいのか、わからないと。迷いの多い口振りで、大妖精はかく語った。

 

「自然と一体の私たちは、怪我をしても……死んじゃったとしても、緑がある限りすぐに再生します。だからチルノちゃんみたいに、後先考えないというか、『怖い』っていう感情をあまり感じない妖精がいるのは事実です。……でも、こうして生きている以上は当然痛みを感じますから、それを怖がる妖精がいるのも事実です。私だってそうです」

「うん」

「なので、チルノちゃんがあの吸血鬼――フランさんを追っ払って、私たちを守ってくれてるんですけど。でもフランさんは、紅魔館に戻っていく時……すごく、辛そうな顔をしていて」

「……仕方ないかもしれないね。話すら聞いてもらえないのでは」

 

 だがそれでも決して諦めず、フランは声をあげ続けている。他でもない、妖精たちと友達になりたいという彼女の心が、本物だから。

 大妖精が頷く。

 

「わかってます。私たちを油断させて食べちゃうんだってチルノちゃんは言いますけど、そんなの全然関係ないんですよね。わざわざ油断なんかさせなくたって、フランさんが本気になれば力ずくでどうとでもできる」

「でもフランはどうにもしない。それどころか、チルノの弾幕に反撃すらしない」

「はい。……だから、本当に私たちと話がしたくて来てるんだって、わかってはいるんです。わかってはいるんです、けど……」

 

 頭ではわかっていても、体が恐怖に負けてしまう。

 

「月見さん。……私、どうすればいいんでしょう」

「……ふむ」

 

 月見は腕を組んで、考えるふりをした。思っていた通りだった。なにからなにまで、月見が予想していた通りの内容だった。先日湖を覗いた時は姿が見えなかったが、いつもチルノと一緒にいる大妖精のことだから、きっとどこかから様子を窺っていて。そして妖精とは思えないくらい聡明な彼女のことだから、きっと悩んでくれているのだろうと。

 だから月見の答えなんて、話を聞く前からとっくに決まっていた。

 

「それで、私に背中を押してもらいにきたと。そういったところかな」

「――え、」

「あの子はいい子だ。危ない子じゃない。本当にお前たちと友達になろうとしてるんだ。だから仲良くしてやってくれ――そう言ってほしい。そうやって自分を安心させたい。違うか?」

「っ……!」

 

 大妖精が顔を苦痛で歪めた。それは、知られたくなかった図星を衝かれたという、言葉なき肯定であった。

 月見は、できる限り優しく微笑む。

 

「ごめんな。でも、いじわるを言ってるわけじゃないんだ」

 

 大妖精の気持ちはわかる。未知の存在にたった一人で向かい合うというのは、とても心細くて怖いことだ。ついつい、誰かを頼ってしまいたくなる。助けてもらいたくなる。勇気を振り絞って立ち向かうよりも、目を逸らして自分を守る方に心が傾く。

 それは高い知性を持つ生き物として逃れられぬ業だから、非難はしない。けれど、気づいてほしい。

 

「お前は、私に『仲良くしてやってくれ』と言われたから。人にそう言われたから、仲良くしてあげる(・・・・・・・・)のか?」

「――、」

「友達って、そういうものだったかな」

 

 少なくともそんな作られた(・・・・)関係を、フランは望んでなどいない。フランが願うのは、他でもない、自分の力だけで作り上げた友達だ。だから誰にも助けを求めず、フランはたった一人で頑張っている。

 大妖精が、愕然としたように顔を伏せた。月見は続けた。

 

「なあ、覚えてるか? 私とお前が初めて出会って、お前とフランが初めて出会った時のこと」

「え? えっと、」

「あの時、私はこう言ったよ」

 

 ――初めから悪い吸血鬼だとは決めつけないで、この子のこと、見てあげてくれないかな。ちょっとずつでいいから、ゆっくりと、どんな子なんだろうって、気に掛けてみてほしい。

 

「仲良くしてやってくれとか友達になってやってくれとか、私は一言も言っていない。……そしてそれは、今も変わっていないよ」

「……」

「それにね」

 

 俯いたままの大妖精を、しかし月見はまっすぐに見据えて、

 

「あの子は、一人で頑張ってる」

「……!」

「誰の力も借りずに、たった一人で勇気を振り絞って、お前たちと話をしようとしてる。……怖いのは、あの子も一緒だよ。お前と同じさ。たとえ強い力を持っていても、中身はお前と同じ、女の子なんだ」

 

 もしもダメだったら。友達になれなかったら。そう考えると、胸が苦しくて、泣いてしまいたくなることだろう。とりわけフランは、誰かと一緒にいた時間よりも、ひとりぼっちで過ごした時間の方がずっと長いから。

 だがそれでも、あの子は、一人で戦い続けている。

 

「だから、もう一度言おう。……あの子のことを、見てあげてほしい。吸血鬼としてではなく、一人の女の子として。一人で頑張っているあの子の勇気を、見て見ぬふりだけは、しないでほしい。

 そこから先は……お前が考えて、決めることだ」

 

 妖精と吸血鬼としてではなく、同じ女の子同士として。そうしてお互い歩み寄ることができれば、それはきっと、素晴らしいことだから。

 

「……私、」

 

 大妖精が、ぽつりと言った。俯けていた顔を上げて、

 

「私、月見さんに相談して、よかったです。ありがとうございます」

「……どういたしまして」

 

 その微笑みが、迷いを吹っ切ったように晴れやかだったから、月見も笑った。

 

「そうですよね。フランさんは私たちと話をしに来てるんですから、私たちが決めないとダメですよね」

 

 見違えるほどまっすぐで、揺るぎない言葉だった。

 

「私、フランさんと話をしてみます。フランさんが、どんな女の子なのか、知ってみようと思います。フランさんと同じ、自分一人の力で」

「……そっか」

 

 大妖精は、本当に妖精なのだろうか。人間の子どもと比べても遜色ない――いや、人間の子どもですら、ここまで聡明な子は稀だろう。

 たまらず、大妖精の深い緑の髪をくしゃくしゃと撫でた。

 

「お前は偉いな、ふみう」

「ひあっ……ちょっ、撫でないでくださ――っていうか、またふみうって呼びましたね!? もおーっ!」

「もうこれ、お前のあだ名でいいんじゃないか?」

「絶対に嫌ですッ!!」

 

 ていっ! と手を払い除けられた。ほっぺたをりんごみたいにして大妖精がなにかを言おうとするが、その前に月見が、

 

「頑張ってな」

「え? あ、はい……うー、なんか丸め込まれてるような」

 

 大妖精はしばらくほっぺたを膨らませたままだったが、やはりというか、また「月見さんだし言うだけムダか……」な顔でため息をついて、縁側から飛び降りた。

 

「……話を聞いてくれて、ありがとうございました。なんだか素直に感謝できませんけど」

「気のせいさ」

「気のせいじゃないですっ! アレで私を呼ぶのは、もうこれっきりにしてくださいよ!?」

「わかったよ、ふみう」

「……お、怒ってもいいですよね!? これは私、本気で怒らないとダメなんですよね!?」

「気のせいさ」

「……あ、頭に強い衝撃を与えてピンポイントに記憶を……そうすれば月見さんも正常に……」

「ははは、どうしたそんな太い木の棒なんか持ち出して――危なっ!?」

「よ、避けないでください! 大人しくぶたれてください、これはあなたのために必要なことですっ!」

「なるほど、これが撲殺妖精大ちゃんというやつかい」

「もおおおおおおおおおおっ!!」

 

 木の棒をぶんぶん振り回して暴走する大妖精、それをのんびり尻尾でいなす大妖怪。

 二人のじゃれ合いは、やがて庭の手入れにやってきた妖夢が「月見さんを狙う刺客っ!?」と盛大に誤解し剣を抜き放つまで続いた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……ふーん。じゃあ結局、今回もあなたの世話焼きは発揮されたわけね」

「向こうからきた相談に乗っただけだよ。だからノーカウントだ」

 

 月見が断固として言い返すと、パチュリーは無言のまま肩を竦めた。まったくもう、とでも言いたげな反応だった。

 住処へ戻る大妖精を見送った月見は、妖夢に庭の手入れを任せ、すぐに支度をし紅魔館までやってきていた。昨晩、咲夜に頼まれたのだ。もしレミリアが本当に暴走してしまったら自分たちでは止められないから、様子を見に来てくれないかと。

 もちろん、二つ返事で了承した。ようやくあと一歩のところまでやってきたのだから、今更台無しにされるわけにはいかないのである。

 

「フランにバレたら怒られるわよ? ……って、もう何度も言ってるけど」

「なあに。狐だし、誤魔化すのは得意だよ」

 

 なにも知らないフランがいつも通り出発したら、咲夜が知らせに来てくれる手筈となっている。それまで月見は大図書館で待機し、パチュリーとのんびり世間話なのであった。

 館内に置かれた休憩用の丸テーブルで談笑していると、小悪魔がお茶を淹れてきてくれた。

 

「月見さん、お茶が入りましたよー」

「ありがとう、こぁ」

 

 今となっては小悪魔に、『こぁ』という愛称で呼ぶことも許されるようになった。

 

「日本茶を淹れてみましたよー。まあ、咲夜さんと比べればお粗末だと思いますけど」

「いや、咲夜は……なんというか、例外だろう」

 

 咲夜が淹れるお茶の美味さは、上手く言葉にできないが、普通とはひとつ違う次元に昇華されているように思う。外の世界で喫茶店でも始めれば、瞬く間に超有名人気店となって大繁盛するだろう。

 小悪魔からコーヒーのカップを受け取ったパチュリーが、ふっと笑った。

 

「頑張って練習――というか、あれはもう研究ね。この前、レミィが実験台にさせられてたわ。もう当分、日本茶は見たくもないそうよ」

「……そうか」

 

 確か何ヶ月か前の春に、レミリアは同じ理由から紅茶で泣かされたのではなかったか。お茶が弱点な吸血鬼が誕生するのも、そう遠い未来ではないのかもしれない。あまり深くは考えないようにしようと月見は思う。

 小悪魔のお茶を一口飲んでみると、普通に美味しい。

 

「なんだ、私なんかよりもよっぽど上手じゃないか」

「あ、本当ですか? よかった、ちょっとだけですけど練習した甲斐がありましたー」

 

 小悪魔のこめかみあたりから伸びた一対の羽が、ぴこぴこと照れくさそうに揺れた。彼女の感情と連動しているらしく、嬉しいことがあった時は今のようになり、悲しいことがあった時はへんにゃりと垂れ下がる、犬の尻尾みたいな羽であった。

 

「ところで当たり前みたいに付き合ってもらっちゃってるけど、研究の方は忙しくないのか?」

「大丈夫よ、ちょうど一区切りついたところ。……そうでなくとも、あなたと話をするのはいい息抜きになるからね」

「こんなこともあろうかと、朝一でシャワーも浴びましたしね――はうっ!?」

 

 パチュリーが、魔導書の角――金具で武装済み――で小悪魔の脇腹を思いっきり殴った。運悪く骨に当たったらしく、だいぶ痛烈な音がした。

 

「ふおおおぉぉ……」

「こぁ。私は、からかわれるのが嫌いよ」

 

 テーブルの縁に手を掛けて座り込み、脇腹を押さえてぷるぷる青くなる小悪魔を、七曜の魔女はとても冷ややかな眼差しで見下ろしていた。

 苦笑している月見に気づいて、空咳。

 

「……ところで、新しく魔導書を読んでみる気はないかしら。この前、よさそうなのをひとつ見つけたのよ」

「そうだね……それじゃあ借りてみようかな。最近読んでなかったし」

「そう。……わからないことがあったら遠慮なく訊いて頂戴。私にとってもいい復習になるしね」

 

 別に、今更になって魔法使いを目指しているわけではない。だが月見は元々読む本を選ばないし、パチュリーも、魔法理論について落ち着いて語り合えるパートナーを欲しているフシがあった。一応、魔法使い仲間の魔理沙とアリスがいるものの、片方とは価値観が違いすぎてすぐ口論となったり、もう片方とは性格が噛み合わずなかなか話ができなかったりと、パチュリーにとってはいささか物足りないらしい。

 一見すると口数の少ない寡黙な少女だが、根はお喋り好きなのだ。そういえばこのところ、月見に対して笑顔を見せてくれる頻度が増えた気がする。

 うずくまってぷるぷる震えている小悪魔が、青い顔で無理やり笑った。

 

「パチュリー様、月見さんから質問してもらえるようにわざと難しい本――はぎゃあっ!?」

 

 今度は脳天だった。床に崩れ落ちた小悪魔は両手で頭を押さえ、おおおぉぉ……と少女らしからぬ低音で悶絶していた。

 パチュリーがまた咳払い、

 

「あなたの知識なら問題ないはずよ」

「……そうか」

 

 それが照れ隠しの類なのは、微妙に赤くなった頬から一目瞭然だったが、月見はなにも言わなかった。ただ今度から、わからないことがあったら頼りにしてみようと思う。

 それから涙目な小悪魔を慰めたり、パチュリーとまた世間話を続けたりして、お茶がそろそろ飲み終わる頃合い。

 

「――だ~れだ」

「む」

 

 いきなり目の前が見えなくなった。どうやら目隠しをされたらしく、月見の体温よりも少し温かい、ほんのりとした指の熱を感じる。

 気配などまるで感じなかったから、犯人など言わずもがな。

 

「……咲夜。時間を止めてやってくるのはやめてくれないかな、心臓に悪い」

「ふふ、正解です」

 

 指の感触が消え、元の視界が戻ってくる。肩越しに振り返れば、楽しそうに、そして少し恥ずかしそうに、はにかみながら月見を見下ろしている咲夜がいる。

 パチュリーがぽつりと、

 

「うん……なかなか積極的になってきたじゃないの」

 

 確かにこのところ、咲夜からのスキンシップがやたら親密に――というか、小悪魔的な一面を覗かせるようになってきている。今のようなちょっとしたいたずらもそうだし、時にはさらりと文句を言ってみたり、これみよがしに不機嫌な態度を取ってみたり。お陰様で、初め出会った頃とはもう随分と印象が変わってしまった。

 もちろん、年頃の女の子らしくて大変結構だと思う。時々困るけれど。

 さておき、そんな彼女がやってきたということは。

 

「時間か?」

「はい。妹様が霧の湖に向かいました。お嬢様も、間もなく出発すると思います」

「ふむ。では、私も行くか」

 

 残りのお茶をひと飲みで片づけて腰を上げると、パチュリーが呆れるようにため息をついた。

 

「本当に世話焼きなんだから」

「別になにもしやしないよ。レミリアが暴走すると困るから、様子を見に行くだけだ」

「それが世話焼きなんだってば」

 

 まあ、フランは月見にとって娘みたいな存在だから、その分どうしても気になってしまうのだ。

 

「悪いけど、魔導書はまた今度ね」

「はいはい。いってらっしゃいな」

「こぁ。お茶、ご馳走さま」

「あ、はい。お粗末さまですー」

「……月見様、小悪魔のお茶を飲んだのですか?」

 

 と、咲夜が空になった湯飲みを見下ろし目を眇めた。若干不機嫌そうな声で、

 

「……美味しかったですか?」

「ん? ああ、それはもちろん」

「ちょ!? 月見さん、咲夜さんの前でそれは」

 

 小悪魔が顔を真っ青にして叫んだが、遅かった。

 例の、かわいらしいのにやたら有無を言わさぬ圧力がある笑顔だった。

 

「小悪魔。今日の夜のお茶の練習、付き合ってくれないかしら」

「……あー、せっかくなんですけどそのー、パチュリー様から本棚の整理を頼まれてて」

「別にあとでいいわよ、急ぎでもないし」

「パチュリーさまあああああっ!?」

「じゃあ決まりね。付き合いなさい」

「…………ぐすっ」

 

 ああ、と月見はようやく合点が行った。咲夜は、お茶で客をもてなすことに対して並々ならぬこだわりと誇りを持っている。そんな彼女の前で他の人が淹れたお茶を褒めたのは、少々迂闊だったかもしれない。

 咲夜は、意地になった子どもみたいな顔をしていた。

 

「月見様。私、負けませんから」

 

 いや、どちらが美味しかったかとなればもちろん咲夜の方なのだが、しかし小悪魔の前でそれを言うのもどうかという話であり、

 

「……まあ、なんだ」

 

 結局、

 

「その……頑張って」

「はい。頑張りますから」

「月見さーん!?」

 

 すまない、こぁ。

 がっくり膝から崩れ落ちた小悪魔に、月見は心の中で詫びた。

 日本茶がトラウマな悪魔の誕生まで、あと半日ほど。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あ、月見さん。ついさっき、お嬢様が湖の方に行きましたよー」

「ああ、ありがとう」

 

 ここへやってきた時はまだ背の低かった太陽が、いつの間にかすっかり高くなって、伸びる白雲や突き抜ける青空とともに空を眩しく彩っている。夏本番を乗り越えいくらか暑さも和らいだとはいえ、まだまだ秋の足音は遠い。

 月見が咲夜と一緒に外へ出ると、門の近くにこしらわれた花壇で、美鈴が花たちの手入れをしていた。日頃から紅魔館の門を守る彼女のささやかな息抜きが、武術の型稽古であり、シャベルやジョウロを片手に花壇の世話をすることだった。

 

「幽香さんからもらった種、もうすぐ咲きそうなんです」

「ふうん……幽香か」

 

 月見の脳裏で、赤いチェックのスカートがふわりと翻る。幻想郷を代表する大妖怪である彼女は、月見が未だ再会できていない古馴染みの一人だった。『フラワーマスター』の異名を取るほど緑を愛する所以か、昔から四季の彩りを求めてあちこち放浪する癖があって、今も長らく太陽の畑を留守にしているらしい。恐らく、もうそろそろ帰ってくるとは思うのだけれど。

 美鈴がタオルで流れる汗を拭き、苦笑した。

 

「で、お嬢様ですけど。だいぶ根詰めた顔してたんで、よろしくお願いしますね」

「そうか……じゃあ、早く追いかけた方がよさそうだね」

「お留守番よろしくね」

「はい、わかりま――って、あれ? 咲夜さんも行くんですか?」

「私が頼んだんだよ。一緒に来てくれると心強いからね」

 

 もしも万が一があった際、彼女の能力ほど頼りになるものもないだろう。咲夜は一見クールな表情を装っていたが、ほんのちょっぴりだけ、口の端が得意そうに緩んでいた。

 

「どこかの門番と違って、月見様にご迷惑はお掛けしません」

「だから、なんで私が迷惑を掛けた前提になってるんですかっ。私、むしろ活躍したんですからねあの時!? いくら私が月見さんと一緒に出掛けたのが羨ましいからって」

 

 咲夜の瞳がギラリと光り、前回に引き続きチャイナ帽子のはやにえができあがった。

 美鈴が涙目で、

 

「咲夜さんっ、それ本当に危ないのでやめてくださいよおっ!? っていうかまた帽子があああっ!」

「あなたが私をからかわなければいいだけの話よ」

「い、いいじゃないですかこのくらいぃ~……! 月見さんからも、なにか言ってやってくださいっ」

「仲いいね」

「……ぐすっ」

 

 至って本心から言ったつもりなのだが、美鈴は両膝を抱えて座り込み、シャベルでザクザクと土いじりを始めてしまった。

 

「では月見様、早く行きましょう」

 

 それを、咲夜は息をするように無視した。美鈴の土いじりが激しくなった。

 

「……美鈴。今度、差し入れでも持ってくるから」

「あ、本当ですか? わあい、楽しみにしてますね。……ふふふ、私に優しくしてくれる人なんて月見さんくらいですよ。いや構ってもらえるのは嬉しいんですけど、もう少しこう、労りというか思い遣りというか……」

 

 やっぱり嬉しいんじゃないか。

 いじられることに喜びを見出す美鈴を操と同じカテゴリーに分類しつつ、月見は霧の湖へ向かった。前回同様、湖が近くなったあたりから忍び足で進んでいくと、レミリアの姿はすぐに見つかった。この日もやはり手頃な茂みに隠れて、ハラハラドキドキと目の前の光景を見守っている。

 ハラハラドキドキしているということはつまり、

 

「――あんたもいい加減しつこいわねっ! もっとてってーてきにやっつけてやんないとわかんないの!?」

「だ、だーかーらー! 私は、話を聞いてほしいだけなんだってばーっ!」

 

 前回見た光景となにが違うのかといえば、今日は霧が濃くないので離れたところからもよく見える、といった程度だろうか。問答無用で弾幕をぶっ放すチルノと、それを日傘片手で必死に回避するフランの姿は、数日前からまったくといっていいほど進展していなかった。

 咲夜が小声で、

 

「……とりあえず、お嬢様と合流しましょう」

「そうだね」

 

 レミリアの一生懸命なささやき声が聞こえる。

 

「フランッ、どうしてやり返さないの……!? そいつは言葉が通じないいじめっ子なんだから、立ち向かわなきゃダメよっ!」

 

 心配性なお姉さんは、エキサイトしすぎて見事な中腰になっていた。首から上が完全に茂みからはみ出ていて、バレていないのが奇跡に近い。

 すぐに咲夜が動いた。

 

「先に行ってますね」

「ああ」

 

 咲夜の姿が隣から消え、レミリアの真横に屈んだ体勢で出現する。咲夜の便利な能力を大変羨ましく思いながら、月見は物陰にこそこそと隠れて、四つん這いの恰好で進んでいく。

 

「お嬢様」

「――ッ!?」

 

 名を呼ばれるまで、レミリアは真横の咲夜に気づかなかったらしい。

 

「さ、咲夜? あなたも来てたの?」

「はい。月見様も一緒ですよ」

 

 レミリアがこちらを振り返る。月見は四つん這いの体勢のまま、とりあえず、やあと片手を挙げてみる。

 変なモノを見る目が返ってきた。

 

「……あなた、そんな恰好でなにしてるのよ」

「私はお前みたいに小さくないんだ。普通にしてたら見つかっちゃうだろう」

 

 まあ、いい歳した男が四つん這いで地面を進む姿の間抜けさは認める。今更だが、狐の姿になっておけばよかったかもしれない。

 ともあれようやくレミリアたちと同じ茂みまで辿り着いたので、胡座を掻いて、頭を低くした。

 

「レミリア、お前もしゃがまないと。完全にはみ出てるぞ」

「おっと……」

 

 レミリアが帽子を両手で押さえ、ぺたんとその場に座り込む。脚を『ハ』の字に開く女の子座りは、彼女の幼い外見にとてもよく映える。フランもよくこういう座り方をしているから、性格が正反対でもやはり姉妹なのである。

 レミリアは、だいぶ邪険な目をしていた。

 

「……あなたまで、なにしに来たのよ。言っておくけど私は戻らないからね」

「なに、私もフランが気になってね」

「あなたもフランが心配なのねっ?」

 

 一瞬で嬉しそうな目になった。

 

「よしわかったわ、一緒に出てってあの生意気な妖精をぶっ飛ばしましょう! ついてきなグエ」

「待て、待て」

 

 勝手に自己完結して飛び出していこうとしたレミリアを、月見は襟首引っ掴んで強引に連れ戻す。なにすんのよ! と暴れる彼女を膝の上に乗せて、

 

「落ち着けって。ここでお前が出て行っちゃったら、フランの今までの頑張りが水の泡じゃないか」

「で、でも!」

「フランを信じて、もう少し様子を見てみよう」

「ぐぬ……」

 

『フランを信じて』の部分を強調して言うと、レミリアはあっさりと大人しくなった。束の間、月見の膝の上という自分の状況について葛藤したようだったが、結局抵抗することもなく、

 

「……でも実際、このままじゃ進展があるとは思えないわ。あの妖精、フランの言葉にまるで聞く耳持たないんだもの」

 

 月見の膝にすんなり収まった主人を見て、咲夜が目を丸くしている。月見もどういう風の吹き回しなのか不思議に思ったが、どうあれ大人しくなったのは好都合なのでなにも言わない。

 

「確かに、チルノだけが相手なら難しいだろうけど……このあたりに棲んでる妖精は他にもいるだろう?」

 

 具体的には、大妖精とか。

 

「それはそうだけど、ここで出てこないならいないのと一緒よ! やっぱり私たちが止めるしかないのよ!」

「それで悲しむのはフランだよ」

「……うー!」

 

 レミリアが両足をばたばたさせて不満を露わにするが、確かに。

 迷いの晴れた微笑みで、話をしてみると誓ったのだ。大妖精が、今の状況に見て見ぬふりをしているとは思えない。まさか、どこかへお出掛けしている最中とでもいうのだろうか。

 最悪のタイミングである。チルノの弾幕は途切れることを知らないし、フランも、情け容赦ない拒絶の弾幕に気力と集中力を削がれ、動きが目に見えて悪くなってきている。体を何度も弾幕が掠り、そのたびにレミリアがじたばたと暴れる。月見が両腕で抑えつけ、咲夜が言葉で説得してなんとか宥めているものの、これでは時間の問題だ。チルノの弾幕がフランを直撃すれば最後、咲夜を押しのけ月見を蹴散らし、霧の湖に怒りのスカーレットデビルが君臨し――

 そんな最悪の想像が月見の脳裏を過ぎった、その時であった。

 

「チルノちゃ――――――――ん!!」

 

 待ちに待った声が響いた。湖の薄霧を全身で切り裂いて、小さな人影が妖精らしからぬ猛スピードですっ飛んでくる。驚いて振り返ったチルノは、流星みたいに迫ってくる緑のサイドテールを見て目を輝かせた。

 

「あ、大ちゃん! いいところに来たわね、この吸血鬼やっつけるの手伝ってよ!」

 

 フランの表情が張り裂けるように歪み、レミリアの暴走はいよいよ最高潮へと到達する。顔を殴られるわ腕を引っかかれるわ、胸にヘッドバットされるわかかとで脚を蹴りつけられるわ、月見はもうほとんど前を見ることもできず、咲夜の何事か必死な声を聞きながら、辛うじてわかったことといえば大妖精が猛スピードのままチルノに

 

「チルノちゃんのばかあああああぁぁぁ!!」

「ガッ」

 

 チルノにラリアットをかました。

 ラリアットをかました。

 ラリアット、

 

「……うわぁ」

 

 それは果たして、誰の声だったのか。レミリアだったのかもしれないし、咲夜だったのかもしれないし、ひょっとしたら月見自身だったのかもしれない。呆気にとられるあまりそんなこともわからなかったが、しかしこれだけは断言できた。みんなドン引きだったのだと。

 時が止まった、気がした。

 撲殺妖精大ちゃんが放つ流星ラリアットを喰らったチルノは、竹とんぼを上から眺めるように回転し、そのまま湖へ真っ逆さまに落下。首をモロに刈り取られた以上耐えられるはずもなく、控えめな水柱を上げて、湖をぷかぷか漂う物言わぬ屍と化した。

 

「……」

 

 沈黙する月見たちの先で、くるりと縦に一回転して立ち止まった大妖精が、ほっぺたをぷんすかと膨らませて、

 

「チルノちゃんっ、ちょっと出掛けてくるから吸血鬼さんが来たら待ってもらっててって言ったでしょ!? 私の話聞いてなかったの!?」

 

 少なくとも今は聞いてないだろうよ、と月見はぷかぷかするチルノを眺めながら思う。

 

「……な、」

 

 レミリアがようやくそれだけ言った。

 

「な、……なかなか筋のいい一撃だったじゃない。喰らったら私もただじゃ済まないわね」

「……お嬢様、落ち着いてください」

「……敵ながら哀れだわ」

 

 チルノだって、決して悪いことをしていたわけではない。フランの言葉に耳も貸そうとしなかったのは事実だけれど、それだって仲間を守ろうとしてのことであり、仲間を強く想うが故の行動だった。

 その結末が、相方の情け容赦ない流星ラリアット。

 もしかすると妖精の中で一番強いのは、チルノではなく大妖精なのかもしれない。

 

「チルノちゃん、聞いてるの!?」

「……あ、あのー……その子、気を失っちゃってて聞こえてないと思うんだけどー……」

 

 ようやく我へと返ったフランが、おずおずと大妖精に声を掛ける。腰が完全に引けている。「こ、これ、逃げた方がいいのかな?」と考えていそうな顔である。

 大妖精がすごい勢いで振り返って、すごい勢いで頭を下げた。

 

「ごめんなさいっ! うちのチルノちゃんはほんっっっとにバカで、こうでもしないと話を聞いてくれないの!」

「……えっと、うん、大変だね」

 

 大変なのは、チルノに振り回される大妖精なのか。それとも、大妖精に撲殺されるチルノなのか。

 

「今までも、ずっとチルノちゃんが迷惑掛けてたよね! ごめんなさい!」

 

 フランが慌てて両手を振った。

 

「う、ううん! その、私って吸血鬼だし、こうなっちゃうのも仕方ないかなって……」

「……ごめんなさい。私、あなたのこと怖がってて、今までずっと隠れて見てるだけだった」

 

 ずっと――本当にずっとだった。幽閉を解かれたフランと初めて出会った時からずっと、恐怖に負けて目を逸らし、耳を塞ぎ、なにも知らぬふりをしてきた。こうして言葉を交わすのも、フランの前に自分から姿を現すことすらも、今が紛れもない初めてだったはずだ。

 フランが一人で頑張っているから、自分も頑張ると決めた。

 

「でも……あなたがこんなに頑張ってるのに、私だけ逃げてちゃダメだって、思ったから」

 

 迷っていたのも、怖がっていたのも、もう全部昔の話。

 そうして大妖精が紡いだ言葉は、フランがずっと願い続けてきた――

 

「……話、しよっか」

「……!」

 

 小さな笑顔と、小さな掌。フランが息を呑み、動きを止めたのなど一瞬で。

 あっという間に目元が潤み、頬が引きつり、こらえきれず崩れた唇からかすかな嗚咽がこぼれる。それを両手で覆い隠しながら、フランは頷いた。

 震える体をいっぱいに動かして、何度も、何度も。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……さて。ここからはもう、私たちが見守る必要もないだろうさ」

 

 茂みから覗けば、湖の畔に並んで座り、たどたどしくも楽しげに言葉を交わす二つの背中が見える。湖から引き上げられた物言わぬチルノが傍で転がっているが、それも大したことではないと思えるほどに、その光景はあたたかかった。

 もう心配は要らない。

 月見は胸を撫で下ろすように一息ついて、ぽけーっとしていたレミリアの肩を叩いた。

 

「それじゃあ、お邪魔虫はさっさと退散しようか」

「……え? あ、ああ、そうね。そうしましょう」

 

 レミリアは、拍子抜けするほどに大人しかった。普段の彼女なら、「いいえっ、まだ油断はできないわ!」とでも言ってしつこく食い下がりそうなものなのに、抵抗らしい抵抗もせず月見の膝から降りてしまう。

 そして茂みの向こうに広がる光景を見て、またぼんやりと固まってしまう。

 

「……お嬢様?」

 

 咲夜が小首を傾げた。レミリアの顔に浮かんでいたのは、フランの想いが届いたことへの安堵でもなく、意地悪妖精を懲らしめられなかったことへの未練でもなかった。ただその場で、ゆっくりと息を吐いて、

 

「……そうね。帰りましょう。きっともう、大丈夫」

 

 小さく笑い、月見の隣を通り過ぎて、不気味なほどあっさりとその場をあとにしてしまう。

 あれだけフランを心配していたのが、まるで嘘のように。

 咲夜すら置いて、たったひとり。

 

「どうしたんでしょう……?」

「……」

 

 レミリアが一体なにを思っていたのか、長年の付き合いである咲夜ですらわからないのだから、当然月見にだってわからなかった。ただ少なくとも、これだけは断言できた。

 あれは嬉しい時に浮かべる笑みではない。寂しい時に使う笑みだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――正直ね。私、フランにはできないと思ってたのよ」

 

 私の部屋に、ひとりで来なさい。必ずよ。

 紅魔館へ戻った月見に美鈴が伝えた、レミリアからの伝言であった。それは月見が、紅魔館の住人たちと出会って以来初めて、レミリアの部屋へ招かれた瞬間でもあった。

 紅魔館の主人としてのプライドなのか、はたまた単純にそういうお年頃なのか。レミリアは、自分の部屋に身内以外の者が近づくのをひどく嫌っていた。身内とは要するに、フランと咲夜、美鈴、パチュリー、小悪魔の五人であって、それ以外ではお手伝いの妖精メイドすら入室は許されていないという徹底ぶりだった。

 部外者でしかも男の月見など、まさに以ての外である。いつだったかフランに連れていかれたことがあったが、その時部屋の主から飛んできたのは、赤面絶叫付きの情け容赦ない飛び蹴りであった。掠れかけた意識の中で、「かかかっ勝手に入ってこようとすんじゃないわよ! いくらあなたでもそこまで気を許した覚えはないわよ! まだ!」とか叫んで暴れるレミリアを、フランが必死に羽交い締めしていたのは覚えている。

 そんな気難しいお嬢様が今日になって突然、一体どういう風の吹き回しなのか。首を傾げながら部屋を訪ねた月見に、レミリアはなにも言わなかった。

 なにも言わずにベッドの縁を叩いて、月見を座らせ。

 そうして自分はベッドの上に寝転がり、天蓋を見上げて。

 意地っ張りなレミリアが初めて月見に見せる、小さくて弱い、お姉さんの姿だった。

 

「妖精相手に話なんて通じないとか、そんなんじゃなくて。フランにはまだ、自分だけの力で誰かと友達になったり、できないんじゃないかって」

 

 レミリアの性格が妹とほぼ百八十度違っているように、部屋の内装もまた、フランのそれとは正反対だといえた。ぬいぐるみや絵本といったものは影のひとつもなく、フランの部屋を鮮やかに彩っているピンクや黄色などの色合いが、ここからはすっかり抜け落ちてしまっている。広い間取りと立派な家具のお陰で一見すると豪華絢爛だが、一方で余計なものはほとんどなにも置かれておらず、数世紀を生き続けた歳月そのものを表すように落ち着いている。

 背中の方から、レミリアの声が聞こえる。

 

「私のせいとはいえ、今まで外とほとんど交流がなかった子だもの。あなたの屋敷で宴会をやってからは、みんなから妹にしたいとか言われてたけど、それもその場限り。とても友達って呼べるような人はいなくて……だから、誰かと友達になる方法なんて、あの子は知らないはずなのに」

 

 月見は肩越しに後ろを振り返る。両腕をめいっぱい伸ばせそうなほど広いベッドで横になり、レミリアは顔を反対側へ傾けている。空色の髪に隠れて表情は見えないけれど、さっきからやたら饒舌なその声音に、普段の威勢のよさはかけらも見えない。

 

「だから最終的には、私が出て行かないとって思ってたのよ。最後には私が出て行って、橋渡しをしなきゃなんないんだって。……でも結局、考えすぎだったみたいね」

 

 天蓋を見上げた彼女は、右手の甲を額に乗せて、くしゃりと目を細めた。

 

「過保護だって自覚はあったわ。でも、必要だとも思ってたのよ。あの子にはまだ、紅魔館の外で一人でやっていけるほど知識も経験もないから、私が見ていないとダメなんだって。

 ……でも、違ったみたい。あの時のフランの背中を見て思ったわ。ああ、この子は私が思ってるほど弱くなんてなかったんだな……って」

「……」

 

 月見はベッドの縁で斜めに座り直し、レミリアを見下ろした。まるで見上げる先に太陽があるかのように、彼女は眩しそうな顔をしていた。

 脳裏に焼きついているなにかが、眩しすぎて、妬ましい。

 そんな、唇を噛むような、か細い声だった。

 

「あの子は私が思ってた以上に強かった。だから、なんていうのかしらね……ちょっとだけ悔しかったのよ。こう言うと言葉悪いけど、本当に自分だけでやっちゃったフランが、生意気だなあって。少しくらいは私を頼ってほしかったなあって」

 

 ああ、そうか。霧の湖を去る間際に見せた、レミリアのあの寂しそうな笑みは。

 すべて合点がいって、月見は知らず識らずのうちに、レミリアの頭へと手を伸ばしていた。

 

「……ちょっと、なにするのよ」

 

 半目で睨まれる。レミリアの綿毛みたいに柔らかな髪を指で梳きながら、月見は微笑む。

 

「なに。お前は本当に、いいお姉さんだと思ってね」

「んなっ……」

 

 レミリアの頬が、じわじわと真っ赤に染め上がっていく。なにかを言い返そうとして、口がぱくぱくと動いている。しかし結局それらしい言葉も出てこなかったのか、逃げるようにそっぽを向いて、

 

「ちゃ、茶化さないで頂戴っ」

「茶化してなんかないさ。……本当に、いいお姉さんになったもんだ」

 

 家族が頼ってくれなかったから、ちょっとだけ寂しくて、悔しい――初めて出会った頃の、歪んだ愛情を抱えていた彼女からは想像もできない。変わっているのはなにもフランだけではなかった。レミリアだっていつの間にか、月見が見違えるほどに成長していた。

 レミリアはそっぽを向いたまま、寝返りを打って月見に背を向けた。

 

「……ま、まあ」

 

 きゅっと体を丸め、もぞもぞとした声で、

 

「私だって、学ぶ時は学ぶわよ。幸い、近くに世話焼きな誰かさんがいるし……手本には困らないというか……」

 

 青い髪の隙間から覗く耳たぶは、まるで茹でダコのようで、

 

「だ、だから、その、」

 

 最後はもう、蚊が鳴くように弱々しく、

 

「あなたと出会ったのは、まあ……それほど悪くはなかったって、思わなくも……ない、かしらね」

「ッハッハッハ。それはまた、光栄だね」

 

 一体誰が予想しただろう。あの意地っ張りでわがままなお嬢様から、こんな言葉を掛けられるなんて。

 ここでレミリアの頭をわしゃわしゃと撫でくり回したら、台無しだろうか。けれど、そうやっていじってやりたくなるほど光栄だったのは紛れもない事実だ。

 

「あ、あー……そういうわけだから、そのー……」

(……ん?)

 

 と。レミリアがまだなにかを言おうとする中、月見は廊下をとてとてと走ってくるかわいらしい足音に気づく。

 紅魔館の廊下をああやって走る人物を、月見は一人しか知らない。ただこの日はいつもよりずっと上機嫌で、スキップを踏むように明るく弾んでいた。

 だから月見は、ああそうか、と思って。

 

「い、いいかしら。一回しか言わないわよ。だからよく聞きなさい」

 

 レミリアがぶつぶつと何事か言っているが、足音はもうすぐそこまで近づいてきていて、

 

「あっ、……ありが」

「――お姉様っ!!」

 

 次の瞬間飛び込んできたフランに、なにもかも掻き消されてしまった。

 驚いて跳ね起きたレミリアの口が、続きを紡ぐことなく『が』の形のままで固まった。元気いっぱい飛び込んできたはずのフランも、くるりと目を丸くして固まっていた。しかしその原因である月見が「やあ」と手を振ると、フランはすぐもとの笑顔を弾けさせ、

 

「つっく、みーっ!」

「おっと」

 

 両手をいっぱいに広げて、月見の胸に飛び込んでくる。普段の突進攻撃みたいな勢いはなく、ボールが跳ねたようなフランの体はすっぽりと月見の腕の中に収まった。

 フランが月見の胸にほっぺたをぎゅうぎゅう押しつけていると、レミリアがようやく再起動した。

 

「フ、フラン、あなたなんてタイミングで」

「おねえさまー!」

「きゃあ!?」

 

 フランがレミリアにもアタックする。不意を衝かれたレミリアは受け止められず、二人仲良くベッドに倒れ込む。

 

「こらっ、いきなりなにするの!」

「えへへー」

 

 過保護スイッチをポチッとオン、レディとしての嗜みに欠ける妹をレミリアはすぐさま説教しようとしたが、自分の胸の上でふわふわ笑うフランを見るなり一秒で玉砕した。「ガフッ」と一撃必殺だった。普段ではありえない積極的なスキンシップに、妹大好きお姉ちゃんは早くも息絶え絶えであった。

 レミリアが顔を両手で覆ってぷるぷるするばかりなので、代わりに月見が、

 

「どうした、フラン。随分とご機嫌じゃないか」

「あ、そう? やっぱりそう見える?」

 

 そりゃあもう、全身から幸せのマイナスイオンが放たれて、レミリアが過剰摂取で死にかけているほどだ。

 レミリアは、だらしない笑顔を必死にこらえるあまり顔のあちこちが引きつって、ちょっと不気味な感じになっていた。それでもなんとかフランを見返し、

 

「い、一体どうしたの? なにか、いいことでもあったのかしら」

 

 なにがあったのかなんて、本当はレミリアも月見もわかっているのだ。それでもわからないふりをした。レミリアと月見は、フランの頑張りなど露も知らないという設定になっているし。

 なにより、フランの口から直接、答えを聞きたかったから。

 フランは、うんっ! と大きく大きく頷いた。

 

「あのね! とっても――」

 

 月見もレミリアも、今日という日をきっと永遠に忘れないだろう。

 甘えん坊だった少女が。

 弱かったはずの妹が。

 

 

「――とっても、いいことがあったの!」

 

 

 ――自分の翼で、大空へと羽ばたいていった日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……そういえばレミリア。フランが部屋に入ってきた時、なにか言いかけてなかったか?」

「え!? ……な、なんでもないわよ、バカッ!!」

「え、なになにー? ……あ、もしかしてあれ? 今度こそ月見にありがとうって」

「わああああああああああっ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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