銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第69話 「八雲藍のクロレキシ」

 

 

 

 

 

 当時の自分は普通に楽しんでやっていたはずなのに、何年か経ってからふと思い出すとなぜかどうしようもなく死にたくなる記憶のことを、外の世界では『黒歴史』というらしい。

 どういう経緯で生まれた言葉かは知らないが、『黒』は元々不吉、もしくは不幸といったニュアンスを持つ色だから、葬り去りたい過去を『黒い歴史』と表現するのは実に巧いと月見は思っている。

 それがどうしたか。

 黒歴史を抱えているのは、なにも人間だけに限らないという話だ。例えば文にとって例のスカート紛失事件は正真正銘の黒歴史だろうし、神奈子や諏訪子にとっての諏訪大戦も、立派な葬り去りたい過去のひとつだろう。

 妖怪も、神も同じなのだ。

 故に、冷静で思慮深い優秀な式神である藍が黒歴史を抱えていたとしても、別におかしくもなんともないのだ。

 

「――私と藍が出会った時の話か。ああ、よく覚えているよ」

「ちょちょちょっちょっと待ってください月見様!? 話すんですか、話してしまうんですか!?」

「いいじゃないの藍、橙が知りたいって言ってるんだし」

「はい! 私、藍様と月見様のこと、もっとよく知りたいですっ!」

「えっ、あっ、」

「私と藍が初めて出会った頃は、藍がちょうど九尾になったばかりでね、」

「うわああああああああああっ!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 遂に、なった。

 遂に、九尾になったのである。

 最高格の妖狐に、なったのである。

 後に八雲藍と呼ばれるようになる少女がこの世に生を受け、およそ五百年が経った頃のことだった。

 基本的に、妖狐の実力と尻尾の本数は対応する。一本から始まり、最大で九本まで増える。つまり尻尾を九本持っている狐というのは、妖狐の中で最も位が高い――いやそれどころか、妖怪という括りで見てもその最上位に君臨する、深く畏怖されるべき大妖怪なのだ。

 そんな九尾に、遂になったのだ。

 長かった気もするし、一瞬だった気もする。決して楽な道のりではなかった。弱かった頃の藍は、他の妖怪たちからいじめられることも少なくなかったし、人間から狩りの標的にされることもあった。力のない自分を呪ったことは一度や二度ではない。だから己の見聞を広めるため一人旅をし、行く先々で修行を重ね、いつかみんなを見返してやる気持ちで力を蓄え続けた。

 その集大成であった。今や藍は、妖狐の中でも最高格。日本に蔓延る魑魅魍魎(ちみもうりょう)から、一線を画して進化した存在。人間はもちろん、鬼や天狗からも畏れられ、神からすらも一目置かれる大妖怪なのであった。

 感無量だった。今でこそ多少は落ち着いたが、九尾になりたてほやほやだった頃の藍は、もう達成感と満足感と優越感の塊だった。

 すると、どうなるか。

 

 ぶっちゃけ調子に乗った。

 

 旅先で仲間たちに出会った時、それとなく自分が九尾であることを明かすと、彼らは決まって驚愕し、また口々に藍を持て囃した。それが嬉しかった。快感だった。自分がただの妖怪とは違う特別な存在になれたのだと、五臓六腑へ染み渡るように実感できて感動していた。

 酔っていたのだ。見聞を広めるためだったはずの一人旅が、いつしか持て囃されたいがためだけの行脚(あんぎゃ)へと変貌してゆくほどに。

 当時の藍は、とにかく己の九尾に絶対の自信と――そして少なからずの自尊を、乗せていた。

 

 

 

 

 

 激しい雨が降る日だった。気持ちのいい青空が広がっていたのは午前中だけで、午後になって藍が山を下り始める頃には、空は黒い雨雲で隅々まで征服されてしまっていた。

 

「……油断したなあ。まさかこんなに降ってくるなんて」

 

 あまりの雨足の強さで、ぼやく自分の声すらろくに聞こえなくなるほどだ。雨というよりかはもはや水飛沫に近い。おまけに風までひどいせいで、雨粒がほとんど真横から飛んでくる。水はけの悪い地面ではあっという間に水が溜まり、川のようになって下へ下へと流れ始めている。

 当然、木陰に避難した程度ではまるで意味がなく、服などとっくの昔にびしょびしょだった。

 元々野山で暮らす獣だった藍が、今更雨に濡れることを厭いはしないけれど。

 

(それにしたって、雨宿りする場所がほしいな)

 

 いくらなんでも強すぎだ。叩きつけられる雨粒に痛みすら感じるし、前もほとんど見えない。信仰心の厚い人間なら、神の怒りじゃ神の怒りじゃと喚いて一心不乱に祈祷を捧げ始めるのではないか。

 どこか小屋か洞穴を見つけなければ、一息つくことだってできやしない。袖で顔を守りなんとかかんとか視界を確保して、藍は篠突く大雨の中をひた走っていく。

 

 人の姿を偽り野山を巡るようになってから、随分と久しい。元々は修行目的で始めた一人旅だったが、見知らぬ妖怪や人間の営みに触れ、四季とともに移り変わる世界の中を巡り歩くのは、思いの外藍の性に合っていた。

 人の住む領域を歩き続ける中で、妖術の精度はどんどん上がり、今では都の中心まで何食わぬ顔で入り込めるようになった。

 妖の住む領域を歩き続ける中で、戦いの術と力を貪欲に吸収し、今ではどんな相手でもほとんど負け知らずになった。

 飽きることなく歩き続ける中で、気がつけば、尻尾も九本になっていた。

 

「あっ……洞穴がある」

 

 そうやって日本中を歩き回っていれば、今日のようにびしょ濡れになってしまう日もままある。ぬかるみに何度も足を取られながら頑張って走っていると、運よく、そそり立つ崖の懐にぽっかりと穴が空いているのを見つけた。それが洞穴なのだとわかった瞬間、藍は迷わず山道を外れ、火事場から逃げ出すように洞穴へと転がり込んでいた。

 救われた心地すらした。

 

「ふう……ああもう、本当にびしょ濡れだ」

 

 服のあちこちから絶え間なく雫が滴り落ち、足元にはあっという間に水溜まりができてしまった。これでは、足を滑らせて川で溺れたのと大差ない。濡れた顔を濡れた手で乱暴に拭い、藍は上を仰ぎ見た。

 藍が悠々立てる程度には、そこそこ高さのある洞穴だった。横幅は、ちょうど両腕を広げられるくらい。思った以上に深さがあるらしく、奥は荒涼とした闇で包まれており、

 半裸の男がいた。

 

「――へっ、」

 

 思わず変な声が出た。濡れた髪を手拭いでわしわし拭いている、若い男がいた。

 繰り返すが、半裸――上半身裸で。

 

「……、」

 

 一瞬、どこから湧いて出てきた!? と思ったがなんてことはない、藍が気づいていなかっただけだ。大雨がひどくて、とにかく一刻も早く洞穴に入りたくて、前なんてロクに確認してもいなかった。

 見た目は、まだまだ若いといえる部類であろう青年である。透き通る銀髪の上に白い手拭いを乗せて、闖入者の藍を不思議そうに見返している。背が高く体格は細目だが、貧弱な印象は受けず、むしろ洗練された引き締まり具合で大変目の保養

 

「……お前も休んでいくか?」

「はっ」

 

 声を掛けられてようやく、藍は我に返った。

 首が変な音を立てるくらいの勢いで、横を向いた。

 

「す、すみません! ええとこれは偶然というか事故というか決して他意があったわけでなく不可抗力であって覗こうとしたとかそういうのは断じてありえないわけですみません申し訳ありません」

 

 焦るあまり自分でもなにを行っているのかよくわからない藍とは対照的に、男の反応は穏やかだった。

 

「気にしなくていいよ。むしろ、こっちこそ見苦しいものを見せてしまってすまないね。まさか人が来るとは思ってなくて」

「い、いえ、見苦しいだなんて……」

「え?」

「なんでもないですっ!!」

 

 危なかった、つい本音が。……本音なのだ。そうでなかったら、思いっきり横を向きながらも横目でちらちらと男の体を盗み見ていたりする道理はない。筋肉質で屈強な男というのもまあ魅力的ではあるけれど、藍としてはやはり過ぎたるは及ばざるが如しで、彼のように固さと靭やかさが絶妙に調和した肉体美こそ

 

「そこ、濡れるだろう? 遠慮しないで、火に当たるといい」

「は、はあいっ!!」

 

 煩悩にまみれすぎたせいか、返事は完璧に裏返っていた。ぶんぶんと首を振って、すーはーと深呼吸までして、藍は改めて目の前の状況を把握し直すことにした。

 藍と同じで、山越えの途中で雨に降られたのだろう。荷物は足元に大きめの巾着がひとつあるだけなので、近くの村か集落にでも住んでいる青年なのかもしれない。手拭いを頭に乗せたまま、脱いでいた上着を拾い上げて、湿って重くなった袖に腕を通していく。

 ああ、服を着てしまうのか。ちょっと残ね――煩悩退散。

 吹き込む雨が当たらない程度に進んだ場所では、焚き火が煌々と明かりを灯している。なるべく入口の近くで火を(おこ)しているのは、噴き上がる煙を外へ逃がすためだろう。洞穴はまだ奥へと続いているようだったが、闇に包まれているせいでその先はわからなかった。

 

「使うかい」

「あ……ありがとうございます」

 

 巾着の中から、男が新しい手拭いを引っ張りだしてくれた。隅々までシミひとつない新品だ。ちょっぴり申し訳なかったが、手持ちがあるわけでもないのでありがたく拝借する。

 髪を拭いたり服の水気を搾ったりしながら、藍は男に、

 

「それにしても、よく薪を確保できましたね。この大雨の中で」

「一雨来そうな気配はあったからね、降り出す前から集めてたんだ。……まあ、途中で結局降られてしまって、この通り服は濡れてしまったけど」

 

 そうかそういうやり方があるのか、と藍は素直に感心した。一雨来そうだとわかった時点で、無理はせず雨宿りの準備をする。降り出す前に山を越えようと、そればかりに気を取られていた藍は考えもしなかった。

 

「ところで」

「はい」

 

 異性の前で変な癖がついてしまわないよう注意深く髪を拭いていると、男が火に薪をくべながらぽつりと、

 

「お前は、狐かい」

「……!」

 

 幸いにも雨宿りできる場所にありつけたことで、すっかりに安心し、油断しきってしまっていた。震えた肩、強張った表情。図星を衝かれたと、なによりも馬鹿正直に語る反応となってしまった。

 だがそれで藍が早まったことを考えるより先に、男が静かに反応した。笑みを見せ、

 

「私も、狐だ」

「……、……なんだ、そういうことか」

 

 ふー……と長い安堵のため息が藍の口から出た。藍は、人の命を奪うことに抵抗はないが、かといって無用な殺しをしたいわけでもない。相手が誰であれ争わずに済むのであれば、それに越したことはないと思っている。

 がっくり肩から力を抜いて、火の傍に腰を下ろす。男が、くつくつと喉の奥で笑った。

 

「お互い、人に化ける必要もなさそうだね」

 

 かすかな妖力の流れとともに、男の変化の術が解ける。その髪の色と同じ、くすみのない銀色の尻尾がひとつ現れる。それを見た時、藍の心にむくむくと込み上がってきたのは自尊心だった。

 男は一尾の妖狐。ということは、ここで藍が九尾であることを明かせば――。

 この男の、度肝を抜ける。びっくり仰天というやつだ。「金毛九尾様とは知らずとんだご無礼を!?」なんて感じになるかもしれない。

 想像しただけでニヤニヤしてきた。

 それを誤魔化すように、わざとらしく咳払いをした。

 

「そ、そうだな。隠していないと、少し邪魔になるんだが……」

 

 これ見よがしにそんなことを言って、藍は颯爽と変化の術を解く。藍の背後で波打った金毛九尾に、男が思わず目を見開いたのがわかった。

 よし、驚いてもらえた。どうやら言葉も出てこない様子だ。心の中でぐっと拳を握る。やはり何度経験しても、九尾を明かしたこの瞬間というのは耐え難い快感であった。彼は見たところ物静かな青年のようだが、それが間もなく大混乱に陥るのだと思うと、口端が吊り上がらないよう抑えるのに大分苦労した。

 さあ、おどろけえっ!

 なんて、思っていたのだが。

 

「へえ――九尾か」

「そ、そうなんだ。実は」

「そうか。それはまた」

 

 男はそれだけ言うと藍から目線を外し、火に新しい薪を一本放り込んだ。

 ――あれ?

 

「まさかこんなところでお目に掛かるとはね。一人旅か?」

「え? あ、うん、そんなところだけど――いや、ちょっと待て」

 

 パチパチ弾ける焚き火みたいに高揚していた藍の心が、一気に冷めた。

 

「? どうかしたのか?」

「……いや、なんというか、その」

 

 逆に訊きたい。なぜお前はそんなにも冷静なのかと。

 男が驚いた顔をしたのは初めの数秒だけだ。あとはこの通り、特に動揺した様子もなく火の世話を続けている。藍が格上の大妖怪だと明らかになったにもかかわらず、口の利き方を改める素振りもない。

 藍は口の端をひくつかせながら、

 

「わ、私は、九尾なんだ」

「ん? ああ、それは見ればわかるが」

「うん」

「……」

「……」

「……それで?」

「えっ」

 

 今度は藍が驚く番だった。本気で言っているのかこいつは。

 

「お、驚かないんだな」

「九尾には会ったことがあるからね。昔の話だけど」

 

 なるほど、九尾を見るのは初めてではないのか。だとしたらこの冷静極まる態度にも納得――いやいやいや。

 

「あ、あのなあ。お前の尾の数は一で、私は九だ。お前のその態度、どこか改めるところがあるんじゃないのか」

 

 ちょっとイラッとしたので、はっきりと言ってやった。つまりは、おうおう目上の相手に敬語も使わねえたぁご挨拶じゃねえか、というやつである。

 実際、この男の態度はそこそこ問題だった。妖怪は人間と違って貴賤の差に囚われないが、一方で実力に基づく上下関係には敏感な者が多い。弱肉強食の世を生きる妖怪たちにとって、格下からナメられてしまうのは大問題なのだ。

 その場でボコボコにされたって文句は言えない。今ここにいるのが、妖怪の中では比較的温厚――だと自分では思っている――な藍だからよかったものを。

 

「その態度、改めないとそのうち痛い目を見るぞ」

 

 表面上は、年長者のありがたい忠告として。その裏には、びっくり仰天してもらえなかったことへの不平不満落胆その他諸々を込めて。藍が唇を尖らせながらそう言えば、男はまるで予想外だったみたいに目を丸くして、それからふっと頬をほころばせた。

 ああそうか、と腑に物を落とすような微笑みだった。

 

「それは失礼。……んんっ、ではこれでよろしいでしょうか」

「……まあ」

 

 少々わざとらしい咳払いが気になったが、自分も同じことをやった身なので強くは言えない。

 それにしても、言葉遣いを改めたにもかかわらず、未だ格上(らん)に対する恭順と敬服の心が見えない気がするのは、邪推というものだろうか。

 

「お前は些か、相手との格の違いに無頓着みたいだな」

 

 男の反応はどこまでも涼しい。

 

「お気に召さなかったのなら、申し訳ありません」

 

 逆に訊きたいが、お気に召すとでも思っているのだろうか。なんだか噛みついてやりたい気持ちになってきたが、そんなことをしたら九尾としての品格を疑われるので、我慢する。

 

「……まあいいさ。私もそこまで狭量じゃない」

 

 つまらないやつと一緒になってしまったものだ。聞かれないようこっそりと、ため息をついた。

 男は藍と同じで、住む場所を定めず一人気ままに旅をしている狐だった。藍とは反対方向からやってきたらしく、山を下ると集落があること、住人の部外者への警戒は薄く、人間に化けていれば簡単に宿を取れることなど、一応耳寄りな情報を教えてくれた。雨が上がったら是非立ち寄って、着物を洗濯するなり湯浴みをするなりしたいと思う。

 

「そちらの方には、なにがありましたか?」

「しばらく山が続くよ。それ以外はなにも……強いて言えば修験者の姿を見かけたから、面倒にならないよう気をつけることくらいかな」

「修験者ですか。よくやりますね、人間も」

 

 本来人外の領域であったはずの山に、人間が進んで立ち入るようになったのはいつからだったろうか。特に近頃は山を修行の場と捉え、験力の会得を求めて自ら足を踏み入れる仏教徒が随分と多くなった。中には実際に験力を得たことで調子づき、あたりの魑魅魍魎を退治して回る輩まで出てくる始末なのだから、妖怪としてはいい迷惑この上ない。

 藍も、そんな修験者に何度か喧嘩を売られたことがある。まあ、みんな尻尾でぶっ飛ばしてやったが。

 

「妖怪には妖怪、人間には人間の領域があるだろうにな」

「まあ、人に紛れて生きている私たちが言えた義理でもないですがね」

「……揚げ足を取るな」

 

 軽く睨みを利かせたら、申し訳ありません、と男は苦笑していた。それがまったくもって申し訳程度の謝罪だったから、ぐぬぬぬ、と藍は心の中で低く唸った。

 頭ではわかっている。この世界に存在する妖狐すべてが、格の違いに従順なわけではない。この男のように、格上を格上とも思わない、人を喰った性格の悪い狐も少なからずいるだろう。わかっている。ああわかっているとも。

 

(……うぬぬぬぬぬっ……!)

 

 けれどやっぱり、悔しかった。九尾の藍が、妖狐の中でも最高格の藍が、たった一尾の妖狐にこうも軽んじられるなどあってはならないことだ。これはあれだろうか。本気で怒らないとわかってもらえないやつだろうか。礼儀を体に直接叩き込んでやらないといけないのだろうか。暴力は好きではないが、このままでは一尾相手に負けたみたいで大変気に食わないので、実力行使も決して吝かではない。

 

「……ところで」

「……なんだ」

 

 言い返してやる、と思う。なにを言われても、男が二の句も継げなくなるくらい華麗に言い返して、そのまま礼節とはなにか、敬う心とはなにかということについて、逃げ場も与えずみっちり教え込んでやろうと

 

「すぐ後ろに、やたらと大きい蜘蛛がいますけど」

「ひゃい!?」

 

 思わず跳び上がりそうになった。しかし腰が浮きかけるすんでのところで堪えて、いや待て、と冷静に分析した。

 ――あからさますぎる。つまりこれは、私をからかうための真っ赤な嘘。ここで驚いてしまってはこいつの思う壺……っ!

 咳払いをした。

 

「あ、あのなあ。いくらなんでもそんな見え透いた嘘」

「いや、本当で――あっ首に」

「ひやわああああああああああっ!?」

 

 うなじあたりをゾワッとした感覚が駆け抜けたので、今度こそ藍は跳び上がった。両手で必死に首を払いながら横に吹っ飛び、這う這うの体で恐る恐る振り返ると、確かに今まで藍の頭があった空間に、天井からぶら下がったやたらと大きい蜘蛛がいた。

 保護色のせいで見づらいが、どうやら拳大くらいの大きさはありそうだ。というか、さっきうなじに悪寒が走ったのって、まさか本当に一瞬とはいえあれが冗談抜きで首に――

 その光景を想像してしまい、全身鳥肌まみれでぷるぷる涙目になっていたら、男にからからと笑われた。

 

「蜘蛛はお嫌いですか」

「あんなのがいきなり首に来たら誰だって怖いよ!? 鳥肌だよ!」

 

 動揺しすぎて、少々語尾がおかしい藍である。

 

「すみません、もっと早く気づけるとよかったんですけど」

「わざと黙ってたんじゃないかってくらいだよ!」

「まあ、こんな洞穴ですしね。蜘蛛に限らず、他にも色々といるのかもしれません」

「ばかっ!!」

 

 なんかもう、洞穴全体をこの狐もろとも狐火で消毒したい藍なのだった。

 

「しかし、あれですね」

 

 他にもいやしないだろうな!? とびくびく周りを確認する藍に、男はあいかわらず、愉快げに肩を揺らしながら、

 

「金毛九尾ともあろう御方にも、かわいいところがあるのですね」

「……っ!」

 

 血の気の引いていた藍の顔が、羞恥と怒りで一気に白熱した。一見褒め言葉のふりをして、これは暗に「九尾なのに意外と情けないんデスネー。ハハッ」と人を見下げた発言である。つまるところ、藍はまたこの男に馬鹿にされたのであって。

 気がついたら、男の頭を尻尾でぶっ叩いていた。

 

「あ痛ー……」

「お前はぁ! なんでそんなに、意地が悪いんだっ!」

 

 涙目のまま距離を詰め、男の胸倉を絞め上げて揺さぶる。なんだかもう踏んだり蹴ったりで、藍は軽い錯乱状態に陥っていて、

 

「九尾なんだぞ!? 偉いんだぞ!? 強いんだぞすごいんだぞっ!? なのになんでそうやってバカにするんだっ、バカって言った方がバカなんだぞばかぁっ!!」

「う、お、お、お……ちょっ、落ち着」

「うるさいうるさいうるさいうるさいばかばかばかばかばかばかあああぁぁっ!!」

 

 男を前に後ろに揉みくちゃにし、頭を尻尾でビシバシビシバシ叩きまくる。

 半泣きになりながら錯乱する、とても九尾の大妖怪とは思えない少女の姿を、拳大の蜘蛛だけがぷらぷら左右に揺れて見つめていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ひどい目に遭った。

 

「……ああ、まだ頭が痛い」

 

 九尾を振り回し半泣きで暴走する少女を落ち着かせる頃には、月見はすっかりボロボロになってしまっていた。数分間に渡り頭をひたすら叩かれまくったせいで、髪があちこちに飛び跳ねてしまっているのがわかる。それと前後にひたすら揺さぶられまくったせいで、服も乱れに乱れてほとんど半裸みたいな有り様だ。

 自分のみっともない恰好で手で整えながら、月見は細く長いため息を吐き出した。

 決して他意があったわけではない。蜘蛛を怖がって涙目になる少女の姿は、金毛九尾の大妖怪とは思えないほどに微笑ましくて、それ故の純粋な「かわいいところがあるのですね」だったのだ。しかし今思い返せば、確かに皮肉と受け取られても仕方なかったかもしれない。

 そんな微笑ましい大妖怪の少女は、もふもふの九尾にくるまってすっかり不貞寝してしまっていた。また蜘蛛に襲われたりしても大丈夫なよう、全身を包み込んで完全防御しているので、傍目からは黄金色のデカい饅頭が鎮座しているように見える。足の先っちょがちょっぴりだけはみ出しているのが、また随分とかわいらしい。

 恐らく、九尾になってまだ間もない若い(・・)妖狐と思われる。見た目はもちろん、九尾を得たことで少々自信過剰になっているあたりがなんとも初々しい。大妖怪になった喜びからあれこれ大人ぶろうとしている姿は、かつての紫と重なる部分もあって、十一尾の月見からしてみれば微笑ましい以外の何物でもなかった。

 ちなみにあのやたらと大きい蜘蛛は、月見が尻尾に乗せて外へご退場いただいた。降りしきる雨をものともせず、新しい安息の地を求めて茂みへ消えていったその背中は妙に逞しかった。

 

「……しかし、九尾か」

 

 鎮座する特大饅頭を眺めながら、月見はぽつりと独りごちる。

 正直、自分が十一尾だと明かすべきかどうかは何度も考えたし、悩みもした。しかし九尾を明かした時の少女が、なんというか、ものすごく得意げな、いかにも「どぉだあっ!」みたいな顔をしていたので、茶々を入れるのも大人げないと思いなにも言わずにいた。

 もし月見が十一尾を明かしていたら、果たして少女はどんな反応をしていただろう。非常に気になるところだったが、自分の実力をひけらかすようで恰好悪いので、首を振って考えなかったことにした。

 

「どれ、私も少し寝ようかな……」

 

 外の雨はまだまだやみそうにない。黙々と火の番をするのも退屈だし――というか火が消えても狐火で点け直せばいいだけの話だし、月見も少女を見習って、昼寝をするくらいがちょうどよいのかもしれない。

 地べたの上で寝心地は悪いが、最低限尻尾を枕にして月見は横になる。

 不貞寝をする少女の呼吸に合わせて、黄金色のもふもふ饅頭が膨らんだりしぼんだりしているのを観察していたら、月見もあっさりと眠りに落ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、このもふもふ饅頭に包まれた少女を起こすにはどうすればよいか。

 体内時計で、二時間ほど寝ていたと思う。ふと目を覚ました月見が外を見てみると、空はあいかわらずの鈍色(にびいろ)ながらも、雨はすっかりあがっていた。豪雨だったので山道はぬかるんでいるが、歩けないほどではなさそうだ。

 なので月見が眠った時とまったく変わっていないこのもふもふ饅頭を、どうにかしようと思うのだけれど。

 

「……」

 

 月見は試しに、饅頭を軽く小突いてみた。もふっと手が尻尾の中に埋もれていって、もふんっと跳ね返された。素晴らしい肌触りと弾力の尻尾だ。

 月見は試しに、饅頭を前後に揺すってみた。もふんもふんと揺れ動くだけで、少女からの反応は返ってこなかった。素晴らしい柔らかさと靭やかさの尻尾だ。

 感心している場合ではない。どうやら少女は爆睡しているようで、もふもふ饅頭は絶えず膨らんでしぼんでを繰り返している。九尾の狐だし、このまま放っておいても問題はないだろうが、かといって眠る女の子を置き去りにするのも気が引ける。

 

「……ふむ」

 

 その時月見は、もふもふ饅頭から少女の足の先っちょだけがはみ出しているのを思い出した。

 足の指の裏を、ちょんちょんとつついてみた。

 

『ん~……んぅ……』

 

 饅頭の中からくぐもった声が聞こえたが、覚醒までは至らない。

 小さい足の指を摘んで、くいくいと引っ張ってみた。

 

『んんぅ~……!』

 

 もふもふ饅頭がもそもそと揺れ動いた。もうちょっとだろうか。

 では満を持して、足の指の付け根あたりをこしょこしょこしょこしょ

 

「ふにゃああああああああああっ!?」

 

 少女が猫みたいな悲鳴で飛び起きた。そしてそのまま、動かせる尻尾を総動員して月見の頭をぶっ叩いた。

 

「いたー……」

「ふあっ、あ、あぁ……あ?」

 

 真っ赤な顔で荒い息を吐く少女は、ぐぬぬと呻いている月見に気づくなり目を吊り上げて、

 

「……あああっ、またお前か!?」

「……ああ、うん。起こそうと思ったんだけど」

「はははそうか一瞬で起きられたよありがとうっ!」

「った」

 

 また尻尾で一撃。

 

「一体なんなんだっ、なんなんだお前はぁっ! 九尾の私に、こんなっ、こんなっ」

「だって、尻尾を叩いたくらいじゃ起きてもらえなかったし……」

「敬語ッ!!」

「あ、はい」

「私をからかうのもいい加減にしろぉ! い、いくら私でもそろそろ怒るぞ!?」

 

 既に怒っている気もするが。怒り心頭で涙目な少女は、今にも狐火をぶっ放しそうな気迫で尻尾を逆立て、ぐるるるるると月見を威嚇しているのだった。

 

「まあまあ、落ち着いてください。雨があがりましたよ」

「……そうか」

 

 やっとか、と大きくため息をついた少女は、すぐに冷たくそっぽを向いて、

 

「ふん。これでもう、お前なんかと一緒にいる必要はないな」

「そういうことになりますね」

「じゃあ私は行く。これ以上お前と関わるのは御免だ」

 

 月見としても、雨があがった以上は暗い洞穴に引きこもっている理由などない。ちゃっちゃと火の後始末をして、少女と一緒に外へ出る。

 

「む、大分ぬかるんでるなあ……まあ、背に腹は代えられないか」

「滑って転ばないように、気をつけてくださいね」

「誰が転ぶか! あのな、お前ほんとにいい加減にひゃわっ!?」

 

 言っている傍から少女が足を滑らせたので、月見はすかさず尻尾で抱きとめた。

 

「……」

「……なにか言うことは?」

「うるさいうるさい! お前なんか知るかばーかっ!」

 

 その後、真っ赤な顔で暴れる少女がまた足を滑らせ、また月見が尻尾で抱きとめ、また少女が暴れて足を――というのを三回ほど繰り返してからやっとこさ、

 

「では、お達者で。縁があればまたどこかで」

「私はお断りだ! お前なんか、大っ嫌いッ!!」

 

 月見は登る道を、のんびり笑顔で。少女は下る道を、半分ベソをかきながら。月見が手を振って見送る間、少女は振り返りもせずズンズン大股で道を進んで、

 転んだ。

 

「……おーい」

「う、うううぅぅ~……っ!?」

 

 泥だらけになった少女が、屈辱と恥辱でぷるぷる震えている。大股で歩いたりなんかするからだと月見は思う。

 生温かい目をする月見の先で少女は起き上がると、こちらに向けてべーっと舌を出して、木々の向こうへあっという間に飛んでいってしまった。

 静寂が戻ってくる。さわさわと葉擦れの音だけが響く山のささやきを、ゆっくりと大きな呼吸とともに感じながら、月見はぽつりと呟いた。

 

「……いやあ、元気な子だったなあ」

 

 妖狐は総じていたずら好きだが、同時にどこか腰の据わった連中が多いので、少女のように感情剥き出しで驚いたり怒ったりする狐は新鮮だった。できればまた弄――いや、色々と話をしてみたいので、縁があればいいなと思う。

 どうやら手酷く嫌われてしまったようなので、難しいかもしれないけれど。

 でも案外、あっさりと再会できる気がした。その時は、いい加減に十一尾を明かしてやろうかねと――そんなことを考えながら月見は歩き出して、すぐに立ち止まり、

 

「……そういえば、名前を聞いてなかったな」

 

 月見はこの日、金毛九尾の少女と出会った。

 けれど『八雲藍』と出会うのは、まだしばらく、先の話。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――ねえ、らーん。藍にちょっと紹介したい人がいるんだけど、いいかしらー?」

「? ご友人ですか?」

「そうそう。世界中をのんびり一人旅してる人でね、どこほっつき歩いてるのかしばらくわかってなかったんだけど。この前ようやく見つけたから、いい機会だと思って」

「いいですよ。……というか、私はもう紫様の式なんですから、あなたの都合に合わせるのは当然のことです」

「ふふ、ありがと。……絶対びっくりするわよ! なんてったって、尻尾が十一本もあるお狐さんなんだからっ!」

「――……、…………はあっ!? え!? えええっ!? 紫様、あの御方とお知り合いだったのですか!?」

「え? うん、そうだけど……ひょっとして藍も知り合いなの?」

「いえ、お会いしたことはないんですけど……で、でも十一尾の妖狐といったら、私たちの間では半ば伝説というか、神格化されてるというか……とにかく妖狐で一番すごい御方なんですよ!?」

「あ、うん、そうみたいね。自分より昔から生きてる狐は知らないって言ってたし」

「そ、そそそっそんな御方とお会いするなんて……ああっ、日頃からもっとちゃんと毛繕いをしておくんだった!」

「大丈夫よ! 藍の尻尾はいつも綺麗でふさふさもふもふだって、私が保証するから! ……それじゃあ今から連れてくるから、準備して待っててね!」

「まっ待ってくださいまだ心の準備が、あっ、紫様ー!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 藍は死ぬかもしれない。心臓が破裂して。

 だって、十一尾の妖狐なのだ。十一尾の妖狐といえば、同族でただ一人、九を超える尾を持つに至った妖狐の中の妖狐であって、仲間の内では神聖視する者もいるくらいなのだ。人の世界に紛れて人の姿で生きているため、その御姿を見た同胞はほとんどおらず、一部ではただの噂話だと疑われているほど――。

 そんな御方が、これから藍の目の前に。

 死ぬ。心臓が破裂して。

 

「あ、あわわわわわ……」

 

 紫の屋敷である。お茶の支度は終わった。部屋の掃除も済んだ。間に合わせながら毛繕いもしたし、それ以外の身嗜みも整えた。しかし唯一、心の準備だけがいつまで経っても終わらなくて、藍はそのへんをうろうろしたり、正座してそわそわしたりしていた。

 寿命がものすごい勢いで減っていっている気がする。

 

「ひ、ひいいい……」

 

 藍はぶんぶん首を振った。違う、ここは逆に考えるのだ。十一尾の妖狐様に、これからお会いすることができるのだ。仕える主人のご友人という、信じられないほど近い関係で知り合うことができるのだ。なんと身に余る光栄なのだろう。なんと思いがけない僥倖なのだろう。明日いきなり死んでしまうことになったとしても、もう藍に一切悔いはない。

 

「――よいしょっと。お待たせ、藍」

「う、うわあああっ」

 

 なんの前触れもなくスキマが開いて、紫が屋敷に戻ってきた。そして藍は逃げ出した。

 

「ちょっと藍、どこ行くのー!?」

「だ、だってえ!」

 

 押し入れに逃げ込んだ藍は、半開きの戸から顔だけ出して震えながら、

 

「や、やっぱり無理ですよお! わ、私なんかが、あの御方をおもてなしするなんて」

「なにちっちゃいこと言ってるのよー。私の式神なんだから、私と初めて会った時みたいに堂々としてればいいんだって」

「あっやめてください紫様その話はダメです」

 

 念願の九尾になってからしばらくの間、色々と調子に乗ってしまった時期があったのは、藍の立派な葬り去りたい過去だった。紫に「私の式神になってみない?」と誘われた時、力ずくでやってみろ! と勇ましく啖呵を切って割とあっさりボコボコにされたのを思い出すと死にたくなってくる。境界を操るなどという、反則中の反則みたいな能力を持っている紫も紫だけれど。

 

「大丈夫よー、礼儀とか気にしない人だから。いつも通りの藍なら平気平気!」

「なあ紫、まだ顔出しちゃダメか? あまり長居したくないんだがここ」

「あっ、もうちょっと待っててね。藍ったら恥ずかしがり屋さんで」

 

 スキマの奥の方から、優しい響きをした男性の声が聞こえる。不思議とどこかで聞いた覚えがあるように思うのだけれど、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 心臓が破裂寸前だったが、押し入れに隠れた今の状態の方がよっぽど失礼なことに気づいて、意を決して外に飛び出した。

 紫がぐっと親指を立てた。

 

「それでこそ私の式神よ! ……あ、そういうわけで月見、もういいわよー」

「はいはい」

 

 心臓ってここまで暴走しても破裂しないものなんだなー、とどこか冷静な感想を抱きながら、藍はめいっぱいに背筋を伸ばした。けれど正面を直視する勇気まではなく、俯きがちになりながら、ぎゅっと目を閉じて、ほとんど沸騰しかけた頭で必死に初対面の挨拶を搾り出そうとした。

 とりあえず、礼儀は気にしない人だと言っていた紫の言葉を信用するとして、堅苦しい言葉を選ぶ必要はない。大事なのは、はっきりと、聞き取りやすい声で挨拶すること。緊張に負けて噛んでしまったり、早口になってしまったりした瞬間、藍の葬り去りたい過去に新しい記憶が並ぶこととなる。

 目を開ける。スキマから降りた紫の小さな足が、音もなく畳を踏んだのが見える。少し間を空けて、今度は男の立派な足。そして、くすみのない銀色の尻尾。美しい銀色だった。なぜかどこかで見たことがあるように思うのだが、やはり十一もの尻尾を持つ御方は毛並みも素晴らしいんだなあと、

 見惚れていたら、声を掛けられた。

 

「ああ、やっぱりお前だったか。久し振りだね」

「……え?」

 

 久し振り? それはおかしい。だって、こんなにも綺麗な銀色をした狐に、今まで出会った記憶なんて――

 

「……」

 

 あれ?

 そういえば、この銀って。

 顔を上げた。

 

「やあ」

「――…………」

 

 周囲を彩っていた小鳥の鳴き声や葉擦れの音が、波が引くように一気に遠くなっていった。代わりに藍の耳を満たすのは、全身の血の気が滝みたいな勢いで落ちていく音だ。一瞬、目の前が真っ暗になりかけた。そのまま気を失えたなら、一体どれほど楽だっただろうか。

 

「……あれ? 月見、ひょっとして知り合いなの?」

「知り合いってほどでもないけど、一度会ったことはあるね」

 

 脳裏に浮かぶ記憶がある。今となっては百年以上前のことだろうか、篠突く雨に降られ逃げ込んだ洞穴で、藍は一匹の狐に出会った。一尾のくせに九尾の藍をまったく敬ってくれず、それを注意したらわざとらしく慇懃無礼な敬語を使い、挙げ句の果てには眠る藍の足をこしょこしょくすぐってくれやがったあの生意気な狐――

 ひくっ、と口の端が引きつった。

 

「あっ、…………あなたが、月見様、ですか?」

「ああ。あの時は、名乗るのも忘れちゃってたけど」

 

 なにかの間違いだろうと思いたかった。しかし彼の尻尾がふいに揺らめくと、あっという間に十一尾にまで増えてしまったので、いよいよ藍は気絶しそうになった。

 というか、気絶させてください。

 

「それじゃあ、改めて名乗ろうか」

 

 体は震えるどころか一周回って石化しているのに、頭の中だけは目まぐるしい渦を巻いている。あの時出会った一尾の妖狐は、実は十一尾の大妖狐だった。藍よりもずっと格上だった。妖狐で一番すごい御方だった。

 ――ところであの時、自分の方が偉いのだと疑いもしなかった藍が、彼にしたことといえば。

 ひとつ。敬語を使わない彼に、「いつか痛い目を見るぞ」と偉そうに説教をしました(痛い目を見たのは藍でした)。

 ふたつ。お前は格の違いに無頓着なんだな、と偉そうに睨みを利かせました(無頓着なのは藍でした)。

 みっつ。尻尾でぶっ叩きました(ぶっ叩かれるべきなのは藍でした)。

 よっつ。胸倉を掴んで、ばかばかばかばかと罵りました(ばかなのは藍でした)。

 いつつ。また尻尾でぶっ叩きました(ぶっ叩かれるべきなのは以下略)。

 むっつ。「お前なんか、大っ嫌いッ!!」と思いっきり叫びました(燃やされても文句は言えません)。

 ななつ。この御方に向けて、べーっと舌を出しました(やはり燃やされても以下略)。

 おまけにもうひとつ。あの日以来もたびたび思い出しては、生意気な狐めっ今度会ったらヤキを入れてやるっと毒づいてました。

 誰に。

 十一尾の、大妖狐様に。

 妖狐の中で、一番すごい御方に。

 藍の中で、ぷっつんとなにかが切れた。男は優しく微笑んだ。

 

「私は月見。ただのしがない狐だよ」

「――、――――――」

 

 そうして藍は灰になった。

 

「……藍? らーんー? どうしたの白眼剥いて、……し、死んでる……ッ!」

「いやいやいや」

 

 なんだろう。なんなのだろう。なんといえばいいのだろう。恥とか後悔とか嫌悪とか絶望とか、そんな簡単な言葉で説明できるほど生易しい感情ではなかった。何百年もの時を生きた藍の知識ですらまるで表現しえない、途轍もないほど凄絶で、とてつもないほど陰惨で、藍の体には到底収まりきらない巨大なナニカ。どんな方法でもいいから今すぐ吐き出さないと自分の心が耐え切れないと感じているのに、藍という存在そのものが圧倒され、蹂躙され、最後の最後までなにもすることができなかった。

 絶対に越えてはいけない一点を、全力疾走で飛び越えた気がした。

 その結果藍の心にもたらされたのは、悟りだった。

 悟りに満ちた、穏やかな微笑みだった。

 

「――紫様」

「あ、はい。よかった生きてた……あの、よくわかんないけど大丈」

「短い間でしたがお世話になりました」

「はい?」

「首を吊ります」

「えっ」

「首を吊ってお詫びします」

「……ええと、うん、とりあえず一回落ち着いて」

「腹を斬る方がいいでしょうか?」

「……あの、」

「ああでも、紫様に介錯をお願いするわけにもいきませんね。やっぱり首を吊ります」

「ねえ藍、待って落ち着いて!? 死んでるっ、目が死んでるっ!」

「もう生きていけない」

「藍ー!?」

 

 死を恐れ、仏の救いに縋り、悟りを求めて神に祈る人間たちの気持ちなどわからないと思っていた。しかしなるほど、悟りというものがこんなにも晴れやかで心穏やかな境地であるならば、仏の教えが長年人の心を掴み続けているのも頷けるかもしれない。

 もうなにも怖くない。

 さて、丈夫な縄を探しに行こう。

 

「ちょっ藍、どこ行くの!? だ、ダメよよくわかんないけどとにかくそっち(・・・)に逝っちゃダメえええええ!? 月見、あなた藍になにしたの!?」

「なにをしたというか……なにをされたかって話かな。九尾になってまだ間もなかった頃のその子が、私に礼儀」

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」

「いやあああああ!? 藍が壊れちゃったあああああ!!」

 

 そこから自分がどうなったのかは覚えていない。気がついたら日付が変わっていて、自室の布団で寝ていて、ああよかった夢かと思った瞬間枕元に紫と月見がいることに気づいてまた発狂しかけて、紫に羽交い締めにされながらボロボロ泣いて月見に謝ったらそれはもういいんだよと許してもらえて、この御方の広い心と比べたら私のなんと矮小なことかとまたボロボロ泣いて、なんかそのうち紫が酒を持ってきて宴会が始まって、酌をされるまま呑んでいたらまた記憶が飛んで、目が覚めたら紫と一緒に月見の腰にひっついて寝ていた。

 乗り越えるのに、一ヶ月以上掛かったと思う。

 そして藍は、『八雲藍』となるより前の記憶を封印すると決めた。そうでないとやってられなかった。八雲藍の黒歴史、いやもはやトラウマは、そうして闇の奥底に葬られ厳重に封じられた。

 時折些細な会話から思い出してしまいそうになっては、奇声を上げて発狂寸前になるけれど。

 それでも八雲藍は今日に至るまで、強い心で生き続けている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――とまあ、そんな感じのことがあってね。いやはや懐かしい」

「そうだったんですかー。藍様って、昔は結構やんちゃ(・・・・)だったんですね!」

「私と初めて会った時もねー、こう、すごい澄まし顔で『私を式にしたければ力ずくでやってみろ!』って」

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」

 

 その日、藍は再び壊れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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