森のざわめきは、すっかり収まっていた。本当になんの物音もしなくて、痛いくらいに静かだった。
「……、」
雛は、まるでその静謐が縄となって全身を縛りつけているかのように、身動ぎ一つすることができないでいた。目の前には、月見の尻尾に打ち飛ばされ、十メートル以上に渡って地面を抉り、動かなくなった天狗の肢体がある。これを目の当たりにして一体どんな反応をすればよいのかがわからなくて、思考は混乱するばかりであった。
とりあえず、パッと思いついたことを言ってみる。
「え、えっと……ナイスバッティング?」
「ッハハハ、それはどうも」
いやいや、それは違うでしょう――雛は首を横に振った。褒めてどうする。訊かなければならないことは、もっと別にあるはずだ。
「……その、色々と前置きすっ飛ばして訊くけど、――いいの?」
「大丈夫だろう、操だし」
「操!? 操って、て、天魔様ぁ!?」
予想外の答えに、雛は思わず仰天した。すぐに、自分がらしくもない大声を上げてしまったことに気づいてハッと口を噤むのだけれど、
「うん? 確かにそうだが……それがどうかしたか?」
「いやいやいや! どうしたもこうしたもないわよ!」
事の重大さを理解していないのか。きょとんと小首を傾げた月見に、またしても大声で叫んでしまった。今度はもう、息を呑む気にもなれない。
だって、月見の言葉を鵜呑みにするならば、あそこで物言わぬ屍になっている天狗は、
「天魔様よ!? 天狗たちのトップよ!? それをあんな!」
天魔。幻想郷で一大勢力を占める天狗たちの、紛れもない頂点に君臨する大妖怪。
そんな相手を容赦なく尻尾で打ち飛ばして、あんな無残な姿にさせてしまうなんて。
「ど、どうするの!? 天狗たちに怒られるわよ!?」
天魔を故意に傷つけたとなれば、彼女の腹心の部下たちが決して黙ってはいない。怒られる――などという可愛い話で済めば万々歳で、普通なら間違いなく誅伐されるだろう。天魔を傷つけることは、幻想郷にいるすべての天狗に喧嘩を売るも同じなのだ。
だというのに、彼はこの期に及んでも、からから呑気に喉を鳴らしたのだった。
「大丈夫だよ。言ったろう、私と操は友人同士だと」
「で、でも」
「それに操は頑丈だからね。これくらいでどうこうなったりはしないよ」
「いや、あのね、そういうことじゃなくって」
結局、月見はなにを言っても「大丈夫だよ」の一点張りで、雛の方が根負けしてしまった。私は正論を言ってるはずなのにどうして、と頭を抱えてしまう。
「う、ううん……」
と、意識を取り戻したらしい天魔が、呻き声を上げて身動ぎをした。雛は息を呑んで、体ごとでそちらの方を振り返る。
まだ痛みが残っているのだろう。両腕を支えにしながらゆるゆると体を起こした天魔は、地面に座り込んで周囲を見回し、それからこう言葉を漏らした。
「む? ……ここはどこじゃ?」
――はい?
雛は目を丸くした。どこって、妖怪の山に決まっているのだけれど。
天魔はまだ雛たちに気づいていないらしく、腕を組んで、一人でうんうんと唸り続けている。
「む、むむむー……? おかしいの、確か儂は執務室で仕事をしとってー、そしたら椛がなんかの報告をしに来てー、……あれ? なんで儂は森の中に?」
もしかして、なにがあったのか覚えていないのだろうか。……充分にありえる話だ。冷静に考え直せば、彼女は十メートル以上にかけてド派手に地面を抉ったのだ。一体どれほどの衝撃が脳に加わったのか、想像するだけでも冷や汗が出てくる。これでは、記憶が混乱していない方がおかしいだろう。
そんな天魔に、すぐに雛の隣から月見が声を送った。
「操ー、大丈夫かー?」
「む? ……おおお、月見じゃないか!」
月見に気づいた彼女は、すっかり土だらけになった顔を満面の喜びで染め上げて、一直線に彼の胸へと飛び込んだ。月見も輪をかけてぶっ飛ばすような真似はせずに、素直に彼女を抱き止める。
「そうだ、思い出したぞ! お前さんがこの山に来てると椛が報告してきたから、仕事ほっぽり出して会いに来たんじゃ! 久し振りじゃの! ――でも儂、なんであんなところで眠りこけてたんじゃろ?」
「ああ、それか。――木にぶつかって墜落したんだよ。まったくびっくりしたぞ?」
「むう、そうだったのか……。すまんすまん。猿も木から落ちる、天狗も木にぶつかる、じゃな」
「……」
この狐、ちゃっかり操に嘘を吹き込んでいる。雛は半目で月見を見たが、嘘も方便だよとばかりに躊躇いのない微笑みを返されたので、まあいいかと諦めた。多少の後ろめたさはあるけれど、真実を明かしたら色々面倒になりそうなので、まさに嘘も方便なのだろう。
ともあれ、天魔である。正確な名は、
更に、その髪に負けず劣らず長く大きい黒の翼。他の天狗たちよりも一回り大きく見えるのは、彼女が天魔という特別な存在だからなのか。衣服は髪と翼に隠されてよく見えないけれど、どうやら黒の着物で、引き振袖のようなものを着ているらしい。よほど黒が好きなのだろうか、頭から足まで、とかく黒で塗り潰された天狗であった。
顔立ちは、『天魔』という肩書きの割には随分と若い。月見と同じくらいだ。月見に向ける笑顔には確かな若さの色があり、一方で鋭い線で形作られた相貌は、若さ以上に『女傑』という表現が似合いそうな気もする。
そんな彼女――未だ月見の胸元にひっついて離れようとしない操に、月見が困り顔で片笑んだ。
「ほら、いつまでくっついてるんだ。人が見てるんだからいい加減に離れろって」
「む? ……おお、本当じゃっ。お前さん、いつの間にそこにっ」
そこでようやく、彼女は雛の存在に気づいたようだった。むむっと芝居がかったように眉根を寄せてこちらを指差すと、
「儂に気づかれずにここまで近づくとは。さてはお前さん……できるな?」
「ええと、最初からいましたよ?」
「なんじゃつまらん」
「……」
この天狗、本当に天魔なのだろうか。雛は不安になってきた。
操は月見にしなだれかかり、猫撫で声で言う。
「月見ー、こやつは誰じゃ? 知り合いか?」
「そんなところかな。……名前は鍵山雛。厄神だそうだよ」
「あ? 厄神?」
操の声が、ふとして眉間に線を刻んだ。ビクリ、雛の肩が震える。見れば、操が先ほどまでのふざけた目線を一転、鋭い眼力を宿してこちらを睨みつけている。
「あっ……」
ハッとした。そうだ――月見との会話があんまり心地良かったものだからすっかり忘れてしまっていたが、雛は厄神。周囲から疎まれる存在。今までのように自分が厄神であることを気にしなくていい時間は、既に終わってしまっているのだ。雛の周囲を回っていたはずの厄が、操に向けて流れ始めている。
弾かれたように一歩、あとずさった。
「す、すみません。すぐに離れ――」
「ああいや、別にそこまでせんでいいぞー」
けれど、それをまた一転、今度は至って気楽に紡がれた操の言葉が制した。鋭かったはずの眦は既に柔らかく、すまんすまん、と彼女は髪を梳く。
「いやあ、厄神と聞いてちょっと警戒したが、そうか。お前さんが、椛の言っとった厄神なんじゃな」
「えっ――」
出てきたその名に、雛は知らず息を詰めた。
「椛が、なんて?」
「ん? あー、なんじゃったかなあ。いっつも寂しそうにしてるからなんとかしてやりたいんだー、とかなんとかだったような……」
「っ……」
少し、心が揺れた。昔から優しい子だとは思っていたけれど、まさかそんなにこちらを心配してくれていたなんて。
――椛……。
彼女の温かい心に、雛の琴線が静かに震えて――
「――でもぶっちゃけ儂、その時は仕事疲れのせいで舟漕いでたからな! すまん、あんま自信ない!」
「……」
台無しだった。ほんのり温かくなっていた心が、一気に冷めた。……本当に彼女、天魔なのだろうか。
思わず半目になる雛を知ってか知らでか、ハッハッハ、とひとしきり大笑いした彼女は、それっきりまた月見の体に飛びついてしまう。
「いやー、戻ってきて早々に厄神を攻略するなんて、さすが月見じゃね! ……しかし、溜まり溜まった厄がそんな二人の絆を引き裂こうとする! 果たして月見は見事ハッピーエンドに辿り着けるのだろうか!?」
もしかして彼女、月見にぶっ叩かれた影響で脳の配線がおかしくなってしまったのだろうか。操には非常に申し訳ないのだが、こんなのが天狗たちのトップだなんて、色々と信じられない。
「ね、ねえ、月見」
こちらの言わんとしていることを、彼は視線だけで察した。悄然と大きなため息を落とし、
「……悪いけど、これがこいつの平常運転なんだよ」
「そ、そうなんだ……」
天狗の未来は不安だな、と雛は割と本気で思った。
その反応に、操はぶーぶーと不満顔。
「儂は月見を心配しとるんじゃよお。別にあやつと仲良くするのはお前さんの勝手じゃけど、厄神に近づくと不幸になるというだろ? 大丈夫なのか?」
「ああ、それね。それだったら問題ないよ。この子の持っている厄は、もう私には影響しなくなったから」
「はあ? ……本当か?」
目を丸くした操の疑問は、正直雛自身も感じている。月見にはもう、雛の厄は影響しない――実際に目で見て体で体験した事実とはいえ、未だにいまいち現実味を得られない部分はあった。
けれど少なくとも、現時点で雛の厄が彼に影響していないのは間違いない。胡乱げにこちらを見遣った操に対し、はっきりと頷く。
「はい。それは本当です」
「ふうん……?」
操はしばし小首を傾げたままだったが、難しいことを考えるのは嫌いなのか、すぐにパッと破顔した。
「さすが月見じゃねっ。ハッ、これはつまりハッピーエンドのフラグが確定」
「あ、あの、それでですね」
また余計なことを言い出される前に、雛は矢継ぎ早に言葉をつなげた。月見が雛の厄に影響されなくなったのは事実だが、操は別だ。こうして話をする間にも、徐々に彼女の周囲に厄が引き寄せられていく。
さっさと離れた方がいいのは重々承知しているけれど、そうしようとして引き留められたのがつい先ほどの話。一体彼女は、なにを考えているのだろうか。
「私の厄があなたの周りに移り始めてます。ですから離れないと……」
「ん? おお、すっかり忘れとった」
そういえばそうだったの――神妙に頷いた操は月見から離れ、埃を払うように右手を浅く振り、己の周囲を薙いだ。
「――ほれ、邪魔じゃよお前ら」
その、言葉とともに。
瞬間。
「!」
操の周囲にわだかまっていた厄が、散り散りになって消滅した。――厄祓いだ。
「なっ……」
雛は瞠目した。
厄祓いは文字通りに己に取り憑いた厄を祓うものだが、同時に一種の神事でもある。例えば博麗の巫女などの神を奉る者が、供物を供えたり祈祷をしたりという必要な手順を踏むことで、初めて実現される“儀式”なのだ。
なのにこの女性は、手順などをすべて無視してただ右腕を振っただけで、それを。
絶句しているこちらを見て、操が得意げに口角を曲げた。
「ふっふっふー、驚いたろう? 尊敬してくれてもいいんじゃよ?」
「……すごいですね。驚きました」
素直に頷く。頷いてしまう。本当に驚いた。八雲紫や鬼子母神と並んで幻想郷を代表する大妖怪である、『天魔』。その計り知れない実力の一端を見たような気がして、思わず舌を巻いていた。
「この儂にできないことはないんじゃよ!」
「じゃあ逃げずにちゃんと仕事してくださいよ、天魔様……」
えっへんと大きく胸を張る操。それと同時に、空から疲れ声が降ってきた。目線を上げれば、椛がなにやら項垂れた様子で降りてくるところであった。
「あら、椛……」
「雛さん、お手数をお掛けしました。ありがとうございます」
「え、ええ」
降り立つなり律儀にそう頭を下げる椛だが、普段の元気のよさはまったくといっていいほど見受けられない。尻尾がへにゃりと地面に垂れてしまっていて、見るからに具合が悪いようだ。どうかしたのだろうか。
操が、心配そうに椛を覗き込んで問い掛けた。
「どうした、椛? お腹痛いのか?」
椛の鮮やかな平手が操の頭を打ち、快音を鳴らした。
「うええ!? も、椛、あなたなにして」
「雛さんは黙っててくださいっ!」
「は、はいっ!」
口を挟みかけた瞬間に大喝され、雛は反射的にその場で背筋を伸ばしてしまう。
あれ? と首を傾げた。おかしい。なんで私が怒られるんだろうか。だって操は天魔様で、椛の上司のはずで。上司を思いっきりぶっ叩いたりしたら、当然部下として問題行動になるはずなのに。
けれど、直後に目の前に広がった光景は、雛の予想を鮮やかに斜め上へと飛び越えていった。
椛が操を叱りつけている。
「天魔様、あなたバカですか!? 派手に突風起こして出ていくのはやめてくださいって何度も言ってますよね!? あれ、飛び散った書類を集めるのは私なんですよ!?」
「い、いたた……いや、それはあれじゃよ、椛。ほら、そっちの方がカッコいいじゃろう?」
再びの快音。
「あいたぁー……」
「バカですか、いいえバカですねあなたは! 全然カッコよくなんかないですよっ!」
「そうかのう。『悪い、椛。――少し出掛けてくる』。……決まったと思ったんじゃが」
快音。
「待って椛! これ以上は、さすがに儂の頭がおかしくなっちゃうと思う!」
「一周回って正常になりますから安心してください。あら、素敵ですね。そしたら天狗たちがみんな幸せになれます」
「ぎゃー!」
――あれ? 天狗の社会って、こんなんだったっけ?
雛はてっきり、自由奔放な鬼たちの社会とは違って上下関係がハッキリしていて、特に天魔の言動には皆が絶対的に付き従っていく――そんな明確な縦社会を想像していたのだが。
だとしたらなんで目の前で、その天魔が部下である白狼天狗にぶっ叩かれているのだろう。
「大体天魔様は! いっつもいっつも! 仕事を真面目にしなくて! なんでですかっ! 天魔様は本当は素晴らしい辣腕を持ってるじゃないですかっ! なんでそれを仕事の時に発揮しないんですかっ!?」
「いた、いた、いたたたたた!? ちょっ、椛、やめ……! さ、さてはこれが噂に聞く『愛のムチ』というやつじゃな!?」
「は? なに言ってるんですか? ――ただの鬱憤晴らしですよ」
「いやあああああ助けて月見いいいいい!!」
絶叫した操が、そそくさと月見の後ろに回り込んだ。膝頭を地につけ、彼の背中にぴったりと縋りつく。
椛はすぐに追おうとしたが、
「まあ、そのくらいでよしてやってくれないか?」
「あっ……」
それを、月見が苦笑交じりで引き留めた。操に必死に背中を叩かれたからだろう。
椛は彼の存在をすっかり忘れていたのか、慌てた様子で姿勢を正して、深く頭を下げた。
「その、先は失礼しました。どうやら本当に、天魔様の御友人のようで」
「いや、いいよ。むしろ私の方がすまなかったね。こいつに確認を取ってみろなんて言ったせいで、なにやら苦労を掛けてしまったようだ」
「い、いえそんな! あなたが謝ることじゃないですよ! 悪いのは天魔様です!」
「あの、椛!? そろそろ許してくれんか!?」
操の悲痛な叫びを、月見と椛はそろって無視した。
操はしょげた。
「ともかくほら、雛がすっかり固まっちゃってるからこのくらいにしておこう。なあ、雛?」
「――えっ?」
不意に名前を呼ばれて、雛はハッと我に返った。月見の言葉通り、本当に固まってしまっていたようだ。思考まで完全停止していたから、自分で気がつけなかった。
あっと声を上げた椛が、頭を下げる方向を月見からこちらに変えた。
「すみません雛さん、お見苦しいところをお見せしてしまって。――天魔様が」
「も、椛! 儂が悪かったからもうやめよう!? な!?」
操の悲鳴はとりあえず無視して、雛は応じる。
「そ、そうね……意外ではあったわね。天狗たちは、もっとこう、上下関係には厳しいんだと思ってたから」
「いえいえ。尊敬できる素晴らしい上司には、みんなちゃんとしてますよ」
「それって遠回しに儂が尊敬できないって言ってるのか!?」
「その、大丈夫なの? あんなに殴ったりして……」
「大丈夫ですよ。天魔様ですから」
「うわーん! 椛がいじめるー!」
椛はもはや、操のことは眼中に入れていないらしい。改めて月見に向き直り、微笑むと、
「名前をお伺いしてもいいですか? 私は犬走椛、白狼天狗です」
「月見。ただのしがない狐だよ」
「月見様、ですね……。天魔様の御友人ということですので、山には自由に立ち入られるように計らっておきますね。ただ、指示が他の天狗たちに行き渡るまでは、申し訳ないですが、色々とご迷惑をお掛けしてしまうかもしれません」
「おや、随分としっかりしてること。大したものだ」
それは雛も同感だと思った。哨戒天狗――誰もが面倒くさがる哨戒任務を押しつけられる、謂わば下っ端。なのに椛は、ただ山の近辺を飛び回るだけではなく、他の天狗たちに指示を与えられる発言力も持っているらしい。
加えてこの場では天魔に説教したりもしたのだし、もしかすると彼女、下っ端などではなくかなり優秀な天狗なのかもしれない。
感心した様子の月見に、椛は照れ隠しの笑みを一つ。けれど尻尾だけは、とても正直にパタパタと揺れていた。
「一応私、天魔様の目付け役みたいなものも任されてるんで。上の方には結構顔が利くんです」
「今みたいに仕事真面目なところを除けば、いい子じゃよー」
「まあ、仕事不真面目な天魔様から見れば誰だってそうなりますよねえ……」
「ひーん!」
「ほらほら天魔様、屋敷に戻りますよ! まだ仕事はたっくさん残ってるんですからっ!」
椛は月見の背後に回って、そこにひっついている操を引き剥がしにかかった。
当然ながら、操は月見の腰に両腕を絡みつけて猛抵抗する。
「い、いやじゃー! せっかく旧友と再会したんだから、もう少し思い出に浸る時間があってもいいじゃろー!?」
「本音を言うと?」
「仕事なんてしたくな――待って椛、剣を抜くのは反則! 反則っ!」
一体どこから取り出したのだろう、椛がいつの間にか両手で大剣を構えていた。その挙措には露ほどの淀みも躊躇いもなく、ゆらり、幽鬼のように体を揺らして、地に響く重い刃の声音を操へ突きつける。
「大人しく仕事をするか、ここで剣の錆になるか、どっちか選べ」
「……あ、あのー、椛さん? 気のせいか、口調が変わっているように思うんじゃが」
「選べ」
「……、」
「早く選べ」
「…………仕事、します」
「よろしいです」
途端、満足そうに微笑んだ椛の両手から大剣がどこかへ消えた。……麓近くにある紅い屋敷に仕えるメイドもびっくりの手際。取り出した時といい、このワンコ、手品師なのだろうか。
操はさめざめと涙を流し、時々しゃっくりをしたりしながら、月見の裾を掴んで駄々をこねていた。自分の中にある天狗たちへのイメージが、みるみるうちに崩れ去っていくのを感じる。上下関係ってなんだろう。天魔ってなんだろう。……もう椛が天魔でいいんじゃないかな、とすら割と本気で思った。
月見が苦笑しながら、あやすように操の頭を叩いた。
「ほら操、やることはしっかりやらないと駄目だろう?」
「は~い……。月見、今度一緒に酒でも呑もうな?」
「はいはい」
「約束じゃぞっ。月見はこのあとどうするんじゃ?」
そうだね、と月見はこちらを一瞥してから、
「とりあえず、もうしばらく雛と話をしてるよ。スペルカードについて教えてもらいたいからね」
「ほう、スペルカード……」
操の瞳が関心で細まる。
「確かにスペルカードルールが成立したのは最近じゃから、お前さんは知らんだろうなあ」
「でも、大丈夫なんですか? 雛さんは……」
心配そうに声を上げた椛が、しかしこちらを盗み見てから、言いづらそうに言葉を飲み込んだ。「雛さんは厄神なんですよ?」とでも言おうとしたのだろう。
だが先に操に教えた通り、その問題は彼の能力によって既に解決済みだ。
「大丈夫よ、椛。月見はどうやら、天魔様と同じで規格外な妖怪みたい。……むしろ私としては、あなたに厄が移ってしまいそうで心配だわ」
「それだったら大丈夫じゃよー儂が祓ってやるから!」
月見と酒を呑む約束ができてすっかり心を持ち直したらしく、元気よく片手を挙げた操が、先と同じようにして椛の周囲に溜まりかけていた厄を祓い落とした。
椛が、驚きで目を丸くする。
「て、天魔様、そんなこともできたんですか?」
「ふっふー、まあ『厄祓い』は必要な形式さえ整えれば誰にもできることじゃからの。だったら、『能力』を使えば儂でもできるさ」
「それに、月見さんも……」
「はっはっは、年の功ってやつかな」
年の功。その嘘を聞いて、雛は漠然と思い出した。そういえば彼、自己紹介の時に、500年ほど前に幻想郷で生活していた時期があったと言っていたか。
さすがに八雲紫の式神、金毛九尾よりも上ということはなかろうが、結構長生きしている狐なのかもしれない。初めて出会った時は、ただ尻尾が綺麗なだけの普通の狐だと思ったのに――やはり人も妖怪も、得てして見かけでは判断できないものである。
「そうなんですか……すごいですね、お二人とも」
椛が眉をハの字に曲げた。まるで、厄を退ける力を持つ二人を羨んでいるようだった。
そうして顔を俯かせた彼女は、唇をすぼませながらポソリと、
「私にもそういう力があれば、もっと雛さんと……」
「……、」
不意に、沈黙。風が木々を撫でる音だけが、さわさわ、さわさわ、妙に騒がしく聞こえて、耳の奥がくすぐったかった。いっつも寂しそうにしてるからなんとかしてやりたいんだ。天魔の言った言葉が、無意識のうちに雛の脳裏に反芻される。
果たして、こちらを見て照れくさそうに笑っている椛の行動が、なにを意味するのか。それがわからないほど鈍感ではないつもりだ。でも、まさかと、そんな思考が繰り返されるばかりで、身動き一つ返すことができなかった。
「よーし、いいこと思いついたぞ! いいこと!」
沈黙を破ったのは、操だった。パタパタ両腕を振り回して再度椛に近づきつつあった厄を祓った彼女は、こちらと椛を交互に見遣って、妙に張り切った様子で声を上げた。
「月見がスペルカードルールを知るために、ほれ、椛とお前さんが弾幕ごっこを見せてやればいいんじゃよ! そうすればお前さんらの親睦も深まるし、な?」
「え? はあ、私は別に――ああ、いや」
椛は一瞬頷きかけたが、すぐにかぶりを振って半目で操を睨む。
「天魔様、私と雛さんがそうやって弾幕ごっこしてるうちに逃げるつもりですね」
「ぎ、ぎっくー。い、いや、そんなことするわけないじゃないかー」
「私の目をまっすぐに見て言ってくれたら信じます」
「ソンナコトナイヨー」
「はいダウトー。ダメですよー逃がしませんからねー」
「く、くそー!?」
椛は笑顔で操の腕を掴んで拘束。その様子を眺めながら、雛は内心で吐息した。もし本当に弾幕ごっこを通して椛と仲良くなれたら、とてもとても嬉しいのだけど――やっぱり、高望みなんだろうか。
――仕方ないわよね。椛だって、忙しいんだし……。
そう無理に自分を納得させようとする。また、自分から遠ざかろうとする。
「いや」
けれど今回は、そのままでは終わらなかった。改まった顔持ちで、月見が間に入ってきた。
「ここは是非、私からもお願いしたいね。見せてくれないか、弾幕ごっこというやつを」
「そ、そうじゃよね月見!」
思いがけず得られた賛同の言葉に、俄然勢いづくのは操だ。バシバシと椛の腕を叩いて、
「ほれ椛、月見もこう言っとるし!」
「天魔様は黙っててください。……ですが月見様、そうしてしまうと天魔様がまた逃げ出してしまう可能性があってですね?」
「ああ、それだったらこうすればいいさ」
椛の懸念に、彼は笑顔で応じた。「こう?」と操と椛が同時に首を傾げた、直後。
月見の尻尾が、目にも留まらぬ速さでぐるぐると操の体に巻きついた。両腕両脚はもちろん、翼に至るまですべてを押さえ込んでいく。
「にょわっ!?」
操は突然の事態に反応できず、バランスを崩して、ビターンとその場に横倒しになった。
「あ、あれー、月見? 月見さん?」
水を失った魚のように身をくねらせ呆然と月見を見上げるも、彼は一瞥すらしない。ただ、椛に向けて笑みを深めた。
「とまあ、私の尻尾はこんな具合で伸縮自在でね。こういう使い方もできる」
「つ、月見ぃー。これってもしかして」
「これで操が逃げる心配もないだろう」
「裏切り者ー!!」
操がビッタンビッタンその場をのたうち回る。けれども、月見の尻尾の拘束は一瞬たりとも緩まなかった。
むしろ、
「ふぎゃあああすみませんすみません大人しくしてます! だから絞めつけはやめてっ、体中がミシミシいっとるんじゃよー!? あっ、」
すぐに操の方から大人しくなった。果たしてどれほどの力で絞めつけられたのか、すっかり大人しくなった彼女は、息絶え絶えになって痙攣すらしていた。……確かにこれなら逃げられそうにないわね、と雛は苦笑とともに思う。
それは、椛も同じだったのだろう。
「……じゃあ、お任せしていいですか?」
「ああ。任せておけ」
「月見のバカアアアアアあああごめんなさいごめんなさいなにも言ってないです大人しくしてますっ! ふぎゃあああああ……」
次第に痙攣することもなくなり、動かなくなっていく操。天魔が死にかけているというのに、椛は笑っていた。というか、もう操のことはすっかり意識から外しているようだった。
「じゃあ、やってみますか? 私としても――」
こちらを見遣り、照れ隠しするように目を伏せて、言う。
「それで雛さんがちょっとでも楽しんでくれたらいいなあ、なんて……」
「私からも頼むよ、雛」
二人からの言葉に、雛は迷った。厄のことではない。まだ雛自身の気持ちの整理がついていなくて、返事を返せなかったのだ。
――厄神の私でも、誰かと弾幕ごっこをして遊んだりして、いいの?
それで誰かと仲良くなったりして、いいの?
「……いいの?」
椛の眦をまっすぐに見返して、雛は問うた。
答えは、決して待たずにやって来る。
確信的な頷きと、笑顔を添えて。
「もちろんですよ! 私ずっと、雛さんとこういう友達みたいなことをしてみたいなって思ってたんです!」
屈託のないその顔が、雛の胸を打った。
「……いい、の? 本当に?」
「いいんだろうさ」
月見からも、言葉はやって来た。
「気にすることはないさ。今は厄を祓える操がいるんだし、椛だって、こう言ってくれてるんだしね。だから――」
一息、
「――今この時くらいは、厄だとか厄神だとか全部忘れて、普通の女の子になってみたらどうだ?」
その言葉を聞き、反芻し、飲み込むまでの数秒が、雛にとってこの上なく新鮮な時間だった。
思う。彼と知り合ってからまだ全然時間が経っていないのに、私の世界はすっかり変わっちゃったな、と。心地良い変化だった。今までの無機質で冷たかった世界が、感情豊かで暖かなものに変わっていっているのを感じた。
そしてその変化の中心にいるのは、間違いなく彼。
「……」
思うことは色々とあった。本当に不思議な妖怪ねとか、ありがとうとか、彼に対して言ってやりたいことはたくさんあった。けれど雛はそれらを一切無視して、シンプルな一つの想いだけを結論づける。
椛を見据え、スペルカードを抜き放つ音、軽やかに。
「――言っておくけど、手加減はしないからね?」
――私の世界を変えてくれたお礼に、精々美しい弾幕ごっこを見せてやろう。
応じる椛の声は、すぐに響いた。
「ええ! 負けませんよ、雛さん!」
「こっちこそ!」
飛揚する。空へと。
木々と枝葉を抜けて蒼穹を望むまでの道のりが、太陽に照らされて白く眩しく輝く。
その輝きが、今日はとっても綺麗だなと、雛は思った。