やはりというべきなのか、まず一番に騒ぎが起こったのは、幽々子が座る席の周辺だった。月見の場所からでは人影に隠れてよく見えないけれど、騒ぎの内容だけははっきりと伝わってくる。
「いっただっきまーっす!」
「幽々子様、ゆっくり食べてくださいね?」
「わかってるわよお。――あ、妖夢、ご飯おかわり」
「はいは――って早っ!? ちょっと待ってください、今の会話のどこにご飯を食べる余裕があったんですか!?」
「ご飯は飲み物です」
「飲んだんですか!?」
「……おい、信じられるか? 俺、幽々子さんがいつご飯食ったのかわからなかった。幽々子さんが茶碗を手に取ったのは見てたはずなのに、気がついたらご飯がなくなってた。なにを言っているのか自分でもよくわからねえ……」
「ふっ……そうか、お前は知らないんだな。これがかの有名な『冥界の掃除屋』の真骨頂よ……。彼女の前では、ご飯も野菜も魚も肉も、すべてが等しく飲み物となる……」
「……! なんてこった、こいつは噂以上だぜ……!」
『冥界の掃除屋』……字面は物騒だが、つまるところの残飯処理班だろう。月見がかつての幻想郷で宴会をやった時も、食べきれず余った料理を片付けるのはいつも幽々子の仕事だった。
「まったくもう……ちょっと待っててください、すぐに持ってきますから」
「うん。あ、ついでに天麩羅のおかわりもよろしくね」
「だから食べるの速すぎですってばあっ! ゆっくり食べてくださいって言いましたよね!?」
「お刺身もおかわり」
「もおおおおおっ!!」
頭を抱えてヒステリックに叫ぶ妖夢の姿に、先代の妖忌の面影が重なる。ほとんど底なしを誇る幽々子の胃袋に、彼もしばしば振り回されてはヒステリックになっていた。
ちなみに幽々子におかわりを出す時のコツは、ご飯なら釜ごと、その他の料理であれば鍋ごと放り投げてしまうことである。小さい皿に盛ったところで一瞬でカラにされるだけなので、最初からできるだけデカいものを与えてやればよろしい。行儀という概念が消し飛ぶ幻想郷の宴会ならではの裏技だ。
「ほら月見、なによそ見してるのさっ! 呑めっ、どんどん呑めっ!」
ヒステリックに座敷を飛び出していった妖夢の背中を見送ったところで、隣の萃香に伊吹瓢で肩を叩かれた。月見は猪口の中の酒を一気に呷り、萃香の前に差し出す。そこに彼女が、またなみなみと伊吹瓢の中身を注いでいく。
膝の上のフランが、ご飯を食べる手を止めて、興味深そうに月見の猪口を覗き込んだ。
「ねえねえ、このお酒って美味しいの?」
「ん? そうさな……」
伊吹瓢が作り出す酒は超辛口だ。恐らく日本酒を飲み慣れていないであろうフランには、もしかすると合わないかもしれない。
月見は少し考えて、
「まあ、大人の味ってやつなのかな……」
「呑んでみていい?」
「いいけど」
「おや、本気かい? あんたみたいなお子様には、ちょっと早すぎるんじゃないかなー?」
からからと笑って伊吹瓢を呷る萃香に、フランが口をへの字にして抗議した。
「そんなことないもん。私だって大人なんだから、これくらい呑めるよ」
「じゃあ呑んでご覧よ。言っとくけど呑むだけじゃダメだからね。呑んで、ちゃんと美味しいと思えて、初めて大人だ」
外の世界に行けば酒を取り上げられた上で確実にランドセルを背負わされるであろう二人が、一体なにを言い合っているのだろうか。
「というわけで月見、ちょっとちょうだい?」
とはいえわざわざ揚げ足を取るほどでもなかったので、月見はフランに猪口を渡し、その間に料理を食べることにする。あいかわらず胡座の上に居座る彼女のお陰で、大分食べづらいが。
フランは、猪口の中でたぷたぷ揺れる酒を、実に大人らしく一気に呷った。ちょっとちょうだいと言いつつ全部行った。萃香が「おっ」と面白そうな顔をする。レミリアがはらはらとフランを見守っている。月見は焼き魚の骨取りで悪戦苦闘している。
猪口を口から離したフランは、初めの五秒くらいは、鹿爪らしい面持ちで酒の味を吟味していた。けれど六秒目を数えたところで苦虫を百匹噛み潰したような顔になって、うええ、と泣きそうな声をもらして、
「おいしくなーい!」
「おっと」
月見の胸に抱きついた。その衝撃で月見の箸から焼き魚の欠片がこぼれ落ち、哀れ、ぽちゃんと汁物の中に消える。あーとため息をつく月見をよそに、フランは月見の着物に顔を押しつけたまま、鼻が詰まった声でひーひー叫ぶ。
「なにこれっ、喉がヒリヒリするー! おいしくないーっ!」
「なんですって!? ちょっと、あんたまさか毒盛ったんじゃないでしょうね!?」
血相を変えたレミリアが月見の膝上を侵攻し出すが、萃香はどこ吹く風と伊吹瓢を呷り、つまらなそうに言い返す。
「んなわけないでしょうが。だってこいつが呑んだの、もともと月見に注いだ酒だよ? 月見に毒なんて盛ってたまるかい」
「そ、そういえばそうね……」
「ま、この酒は超辛口だからね」
にやりと笑い、見せびらかすように伊吹瓢を揺らして、
「さすがに、お子様の口には合わなかったみたいだねえ」
「……ぶー」
フランが、少し涙目になりながら萃香を睨みつける。その反応が優越感をくすぐるのか、萃香は愉快げにころころと笑って、伊吹瓢を逆さまにするくらいの勢いで口に傾ける――
「「――その手があったかあああああっ!!」」
いきなり膳に両手を打ちつけたのは、向かいの席の藤千代と操だった。なにか衝撃的な光景でも目にしたのだろうか、彼女たちは鬼気迫った顔をして、そして一方で羨ましそうな目をしながら、涙目のフランを凝視していた。
フランがたじろぐ。
「えっ、な、なに?」
しかしその頃には、藤千代たちの視線は既に月見へと向けられており、
「月見、月見っ。なんだか儂も萃香の酒を呑んでみたいなあ! ちょっと猪口を貸してくれんかっ?」
「はあ?」
「私も呑みたいですっ。操ちゃん、次は私ですよ!」
「応ともさ!」
なに言ってんだこいつら、と月見は思う。萃香の酒が呑みたいのなら自分たちのに注いでもらえばいいだろうに、なんでいちいち私のを――と、そこまで考えたところで、ふと気づいた。
フランは先ほど、月見の猪口で、萃香の酒を呑んだ。
月見の猪口で。
ああ、なるほど。
つまり、こいつらは。
少し遅れて、萃香とレミリアも気づいたらしい。
「ハッ、なるほどそういうことか! よし月見、いちいち猪口に注いで呑むなんてじれったかったね! このままぐっといってよ!」
萃香が満面の笑顔で伊吹瓢を差し出してくるけれど、月見は怒り狂ったレミリアによって胸倉を締め上げられていてそれどころではない。
「つ、月見いいいいいっ!? あああっあなたっ、フ、フフッフフランになっ、なんてことをおおおおおっ!!」
「お姉様どうしたの? なにかあったの?」
「フランは知らなくていいのよっ!」
月見の猪口で酒を呑む行為が俗にいう間接キスにあたるのだと、どうやら無垢なフランは気づいていないらしい。まあ、気づいた上でやったのなら相当な策士だ。見た目子どもな彼女が相手だったから、月見も完全に失念していた。
「ってかお姉様、月見に乱暴しないでよっ! 許さないよ!」
「フランッ……! あなた、どうして月見の味方ばかりするのよっ!」
「月見は私を助けてくれたんだから、味方して当たり前でしょっ!」
「ちょっと月見聞いてる!? ほら! 私のことは気にしなくていいからぐいっと呑んじゃってぐいっと!」
「待ってください萃香さん! その前にもう一度だけ、月見くんに猪口で呑ませてあげてください! 主に私の幸せのために!」
「いやいや、儂もやりたいから二回じゃよ! 千載一遇のこのチャンス、逃すわけにはいかないっ!」
「……」
スカーレット姉妹は胡座の上で喧嘩し出すわ、萃香は息吹瓢をぐいぐい押しつけてくるわ、藤千代と操は席を立って迫ってくるわで、汁物に落ちた魚を救出する暇もない。月見は意識を放棄したくなったが、紫と輝夜がいないだけマシかと思い、今のうちに制圧してしまうことにする。
まず萃香を見て、
「萃香、座れ」
「なんでさ! いいでしょほら、ちょっとだけだから、」
「 座 れ 」
「……はい」
次に操。
「操、座れ」
「そんな冷たいこと言わないで! ほら、猪口でお酒を呑むだけの簡単な作業じゃよ!」
「ところで私、無性に焼き鳥を食べたくてね」
「すみませんでした」
次に藤千代。
「千代、座れ」
「月見くんの膝の上なら喜んで――」
「嫌いになるぞ」
「冗談です! 私は月見くんの嫌がることはしませんよ!」
最後に、スカーレット姉妹。
「そういえばレミリアは、よくフランをここまで連れてくる気になったね」
そう言ってやれば、レミリアはすぐに喧嘩の手を止めて、笑っているような怒っているような、どちらともつかない中途半端な表情で自分の席に腰を戻した。
ため息、
「初めに言い出したのはフランよ。……そりゃあ、私だって最初は反対したわ。猛反対よ」
百名を超えるこの大宴会に、レミリア自らがフランを連れ出すはずがない。もしなんらかの理由でフランが皆に拒絶されてしまえば、鴉天狗を介して噂があっという間に広がり、幻想郷に彼女の居場所を作れなくなってしまうのだから。
「でも、咲夜に言われちゃったわ。……フランを信じてないのか、って」
咲夜は、妖夢や鈴仙ら従者たちと集まって、朗らかに談笑しながらワインを飲んでいる。レミリアはそんな咲夜を遠目に眺めて、もう一度、ゆっくりとため息をつく。
あんな台詞をわざわざ言われてしまったことを、悔しがるように。
「まったく。……そんなこと言われたら、信じてあげなきゃいけないじゃない」
フランが、くすぐったそうに照れ笑いして月見を見上げた。月見もまた微笑んで、フランの頭を撫でるように叩いた。まだ大分ぶっきらぼうでわがままだけれど、それでもレミリアは、少しずつ優しいお姉さんになってきているようだった。
そんな月見とフランの反応を、少し気恥ずかしそうに横目で見ながら。
「ま、まあ、結果的に上手く行ったからよかったけど……。本当に身が削れる思いだったんだから、当分は勘弁してよ」
「お姉様ね、私がみんなに挨拶する時、私以上にびくびくしてたんだよ。あんな小動物みたいなお姉様、初めて見たなあ」
「し、仕方ないでしょう。本当に心配だったんだから」
「あのスカーレットデビルが信じられない! って大騒ぎになってね。でもそのお陰で、私もみんなにすぐ受け入れてもらえたの。……なんだっけ、ぎゃっぷもえ? っていうの? 鴉天狗の人が言ってたんだけど」
「ああ、そういえばそんなこと言ってるやついたわね。月見、どういう意味か知ってる?」
「……」
一応知識として知ってはいるが、さてどうやって説明したものだろうか。月見は少し考えて、
「……まあ、そうだね。その人のイメージに合わない仕草とかを、前向きに褒めて言う言葉だよ」
ざっくばらんに当たり障りなく噛み砕けば、そんな感じだろう。『萌え』という単語については言及しない。月見だって、説明できるほど詳しくは知らない。というかツンデレ然り、なぜ鴉天狗がこんな外の言葉を知っているのだろうか。
幸い、スカーレット姉妹から追及されるようなこともなく。
「へー。じゃあ、お姉様は普段からえらそーにしてるから、びくびくしてるのがぎゃっぷもえだったんだ」
「多分ね」
「わ、私、そんなに偉そうにしてないわよ」
「ほう。ということはお前は、初対面で私になにをしたか忘れてしまったのかな」
レミリアは月見からさっと視線を逸らし、冷や汗を浮かべながら気まずそうにご飯をもぐもぐした。
「あ、それ咲夜から聞いたよー。いきなりグングニル突きつけて脅したんでしょ?」
フランにずばり言い当てられて、レミリアの肩がびくんと跳ねる。
「や、その、あの時は、起きたばっかりで機嫌が悪くて」
宙で箸を彷徨わせながらなんとか弁解しようとするものの、フランは止まらない。
「鴉天狗たちから聞いたんだけど、今の紅魔館ってあんまりイメージよくないんだってね。もしかしてお姉様のそういうところが原因なんじゃないの?」
「う、ううっ」
「変にカッコつけてないで、素直になればいいのにー。ほら、前にも言ってたじゃない。もっと月見に」
「わ、わあわあっ!」
なにか都合の悪い話でもされそうになったらしく、顔面を一気に沸騰されたレミリアが、ほとんど体当たりに近い勢いでフランに掴みかかる。するとバランスを崩したフランの頭が月見の左腕にぶつかって、ちょうど持っていた猪口から酒が大きくこぼれてしまった。フランに至っては、驚くあまりワイングラスを完全に放り投げてしまっていた。
左に座っていた萃香の頭に、ダイレクトで。
「「あ」」
日本酒と赤ワインを頭から被り、萃香は血塗れになった。
「つめたー!? な、なになに!? 確かにお酒は浴びるほど好きだけど、別に本当に浴びたいって意味じゃ――ってあんたらかーっ!! いきなりなにしてくれてんの!?」
萃香が二つの意味で顔を真っ赤にして叫ぶけれど、頭にすっかり血が上ったレミリアはまったく聞いていない。フランも、レミリアに両手で口を押さえつけられて、半分以上押し倒されそうになっていて、とても返事ができるような状態ではなかった。
月見の膝の上で、スカーレット姉妹がくんずほぐれつ暴れ回る。
「フ、フラアアアンッ!! そそそっ、その話は私たちだけの秘密だって言ったでしょ!? なにナチュラルにバラそうとしてるのよっ!?」
「もがもが」
「いい、とにかく絶対に言うんじゃないわよ月見も全然大した話じゃないんだから気にしないようにっ! わかったわね!?」
「あ、ああ」
レミリアがグングニルの一発でもぶっ放しそうなくらいの剣幕で睨みつけてくるので、月見はついつい頷いてしまうのだけれど、それよりも、血塗れの顔に引きつった笑顔を咲かせてわなわな震えている萃香は、放置なのだろうか。
なんだか嫌な予感がしてきたので、月見は中身が半分になった猪口をそっと膳の上に戻しておく。
萃香が爆発したのは、その直後だった。
「……ふ、ふふふ。あんたらがあんまりにも月見のこと好きそうだったから今回は譲ってあげてたけど、要らない気遣いだったみたいだね。――くぉらああああああああっあんたらそこどけえええええっ! 月見の膝の上は私のもんだあああああっ!!」
ワインの雫をあちこちに振りまき、萃香がスカーレット姉妹に――すなわち月見の膝の上に突撃する。そして、幼女三人の小さなキャットファイトが巻き起こった。
もし猪口を手に持ったままだったら、また酒をどこかにこぼしてしまっていただろう。月見は膝の上に三人分の重さを感じながら、釣行灯の天井を振り仰いで、ため息をついた。
せっかく静かになったと思ったのに、またこれだ。
「うわっ、ちょっとなによあんた!? ってかなんでワインまみれになってんのよ、お洋服が汚れるから近づかないでくれる!?」
「一体誰のせいだろうね!? そっちこそなにさ、二人して月見の膝の上でじゃれつくとか見せつけてくれてんの!? あのね、一応言っとくけど月見の膝の上は元々私の特等席なんだよ!?」
「もが――えっ、なにそれ! 独り占めなんてずるいよっ!」
「さっきまで満面の笑顔で独り占めしてたあんたに言われたくないね! さあそろそろ時間切れだ、今度は私が座る番だぞー!」
「うっ……や、やだよ。まだ全然、月見と一緒にご飯食べてないもん……」
「あれだけのことやったんだから充分でしょ! 姉貴に負けず劣らずわがままなやつめっ!」
「わ、私そんなにわがままじゃないよ!」
「私だってわがままじゃないわよ! これでもお淑やかな大人のレディーで――ちょっとなんで二人して鼻で笑うの!?」
「そんなのどうだっていいからあっち行け――――っ!!」
「やだー! 月見と一緒にご飯食べるの――――っ!!」
「どうだっていいってどういう意味だ――――っ!!」
……。
あまりの騒がしさに、窓の外から美しい夜の幻想郷を眺めて現実逃避をする、月見なのだった。
微笑ましいものを見る眼差しが周囲からじっくりと注がれ、体に穴が空いてしまいそうだ。鴉天狗たちが、「いいネタを見つけた」と口々に言い合って素早くメモを取っている。一部の子ども好き――もちろん綺麗な意味ではない――な連中が、男涙を流しながら浴びる勢いで自棄酒を呑み合っている。あー私もー! と立ち上がりかけた紫が、蠢く金毛九尾であっという間に押し潰される。
「月見くんは、あいかわらず子どもから人気がありますねえ」
まるで湯呑みのように大きな猪口で酒を呑みながら、月見の正面の席で藤千代が羨ましそうに笑った。やはり鬼だからなのか、彼女は小さい器でチビチビと酒を呑むのを嫌う。
頬に手をやって緩くため息、
「月見くんの膝の上でこんなに騒いでも怒られないなんて……。しかも、フランさんは間接キスまで。純真無垢な、清らかな幼心があってこそ為せる技なんですね」
「儂らの心は、もうとっくの昔に汚れてしまったからのー……。大人になるって悲しい……」
確かに、藤千代と操が月見の膝の上で喧嘩していたら、問答無用で尻尾で引っ叩く気がする。もちろんそれは、二人が月見にとって、それだけ気が置けない相手だからなのだが――言えば一気に調子づかれそうなので、口にはしないでおく。
そうこうしている間にも膝の上の争いは激しさを増し、力自慢の萃香が、スカーレット姉妹を外野へと突き飛ばす。すると意地悪されたフランがじわりと涙目になって、それを見たレミリアが修羅となって萃香に掴みかかる。
これではまるで幼稚園児の喧嘩だ。恐らくこの三人と一緒の席にいる限り、月見はいつまで経っても料理を食べられないのだろう。
特別助けを期待したわけではないが、なんとなく周囲の席を見回してみる。藤千代と操は酒を呷りながら大人になる悲しさについて語り合っていて、助け舟を出してくれる気配はなし。まあ、座れといったのは月見なのでこれは仕方がない。
幽々子はいつの間にか与えられたご飯の釜を幸せそうに箸でつついていて、そもそもレミリアたちの争いには気づいていないらしい。紫と輝夜は初めから論外。勇儀は仲間から呑み比べを仕掛けられたようで大いに盛り上がっているし、咲夜に始まる従者の面々も、席を寄せ合って女子会みたいなテリトリーを形成していて、期待はできそうになかった。やはり、自力でなんとかするしかないのだろうか。
と、
「つーくみー! ちょっとこっち来てよーっ!」
本大宴会四人目の幼女である洩矢諏訪子が、蛙みたいにぴょんぴょん飛び跳ねながら月見に向けて両手を振っていた。二粒の綺麗な星ご飯をした口で、
「早苗が訊きたいことあるんだってー! だからほら、お酒持って早く来ーい! そんで尻尾ーっ!」
隣の早苗が、飛び跳ねる諏訪子を少し恥ずかしそうにしながら、控えめな会釈をする。早苗に呼ばれたというのがそこはかとなく不安だったが、目の前の騒ぎから抜け出す理由としてはなんとも都合がよかった。
ガキ大将さながらに月見の膝の上に君臨していた萃香の頭を、軽く叩いて。
「ほら萃香、降りた降りた。ちょっと呼ばれたから行ってくるよ」
「ぅえー!?」
萃香は体を激しく上下に揺らし、全身で不満を顕にして叫ぶ。
「なんでさ! 私、まだ座ったばっかだよ!?」
「だから、向こうに呼ばれたんだって。というかワインまみれの体で人の膝の上に乗らないでくれるかい。風呂に入って着替えておいで」
「ちぇー……。じゃあお風呂入ってきたら今度こそ乗るからね! はい予約したーっ、他のやつなんか乗せちゃダメだよ!」
「はいはい」
正直、今日はもう誰も膝の上に乗せたくないのだが、口答えするとまた面倒になりそうだったので、適当に相槌を打っておく。
それから、横でさりげなく目を輝かせていたフランに、
「フランも『じゃあ私が』みたいな顔しない。ここで大人しくレミリアと呑んでなさい」
「……えー」
すこぶる嫌そうな顔をされた。喉に泥を塗ったような、こうも露骨に不機嫌な彼女の声を聞いたのは、初めてかもしれない。
「そ、そうよフラン。あんまり月見にべったりしても迷惑でしょ、いい加減にしなさい」
珍しくレミリアが正論を言うのだが、別に月見を気遣ってくれたわけではなく、ただフランが自分を見てくれないのが寂しいらしい。フランの袖を控えめに引っ張って、いかにも心細そうだった。
しかしやはりというべきなのか、フランがレミリアの視線に気づくことはなく。
「じゃあ私も月見と一緒に行くー」
「!?」
レミリアの表情が妹に裏切られた絶望で染まった。肩をふるふる震わせ、じわりと涙目になって、彼女はこれ以上の屈辱はないとばかりの上目遣いで月見を睨みつけるのだった。睨みつけられても困る。
「まあまあいいじゃないですか、フランさん」
やんわりと助け舟を出してくれたのは、藤千代だった。
「フランさんが月見くんのことがだーい好きなのはよくわかりましたけど、でも今日は宴会ですよ? せっかくの機会ですもの、もっと色々な人たちとお話してみたらどうですか?」
「……それは」
曖昧に笑って、フランが少し不安げに周囲の人々を見回す。一度受け入れてもらえたとはいえ――いや、受け入れてもらえたからこそ、改めて輪に入っていくのが怖いのだろう。熱心に月見の後ろをついて回ろうとしているのは、月見と一緒じゃないと不安だからなのかもしれない。
だが、そんなのは杞憂だと月見は思う。かつての狂気に支配された状態ならいざ知らず、今のフランは、どこにだっている普通の女の子と変わりないのだから。普通の女の子を訳もなく除け者にするほど、ここにいる連中は冷たくない。
というか、現在進行形で、
「フランちゅあああああ! もし月見さんの膝の上が飽きたならこっちに、というかいっそ俺の膝の上にぶげら」
鼻息を荒くしながらフランを手招きした天狗の青年が、座敷を一直線に切り裂くレミリア渾身の飛び蹴りで吹き飛ばされた。美しい後方三回ひねりが決まった。
ついさっきまで萃香のほっぺたを引っ張ったりなんだりしていたのに、思わず目を疑う一瞬の早業である。下心アリで妹と仲良くなろうとする不届き者に、姉の過保護センサーは全開だった。
着地したレミリアは吸血鬼の犬歯を剥き出しにして、
「きっさまあああああっ、鼻息荒くしてフランを呼ぶなっ! イヤらしい目でフランを見るなあっ! ぶっ飛ばすわよ!?」
もうとっくの昔にぶっ飛ばしているのだが、それをわざわざツッコむのは野暮だろう。部屋の隅までゴロゴロ転がっていった青年を、レミリアは更に羽を打ち鳴らし、踏みつけで追撃する。
「ぐえ」
「汚らわしいことを考える頭はここか? 貴様、フランに妙なことをしてみろ。グングニルの錆にしてやるからな」
ゴミでも見るような目と、吐き捨てるように冷たい声音。恐らくは、他にもフランに興味津々な子ども好きな連中――繰り返すが綺麗な意味ではない――を、牽制する意味合いもあったのだろう。大切な妹を守るため、圧倒的な力で一方的に語り合おうとする肉体言語至上主義の考えは、まことに妖怪らしい。
しかし残念なことに、レミリアは天狗の男という生命体を甘く見ている。文の時もそうだったが、彼らは一度や二度蹴っ飛ばされた程度で、自分たちの信念を曲げたりはしない。
それどころかレミリアに側頭部を踏みつけられる彼は、至って真面目な表情と真面目な口振りで、
「あの、もう少し強めに踏んでくれません?」
「――……」
ぞぞぞぞぞ、とレミリアの肌が一気に粟立ったのが、それなりに離れた月見の場所からでもとてもよくわかった。引きつった笑顔でぶるりと大きく震えた彼女は、右手を固く拳にし、そこに妖力を集中させ、振り上げ、
「――さて、そういうわけだフラン。せっかく席が近いんだし、千代たちとも話をしてご覧よ」
「いいいいいいやああああああああっ!!」
「ぎいいいいいやああああああああっ!? ありがとうございまああああああああっす!!」
直後響いたレミリアの悲鳴と男の断末魔を、月見は努めて聞かないふりをしつつ、
「心配は要らないよ、基本的にはいいやつらばかりだから。たまにおかしくなるけど」
「あ、うん。それは現在進行形でとってもよくわかるっていうか……」
肉を打ち貫く重く激しい打撃音なんて、聞こえないったら聞こえないのである。
藤千代が頬に手をやって、響き渡る男の断末魔がまるで幻聴であるかのように、やんわりと言う。
「私も、フランさんと色々お話をしてみたいですねー。是非、月見くんについて熱く語り合ってみたいです」
「え、月見についてっ? うん、それだったらいいよ!」
月見の名前が出た途端あっさりと掌を返し、フランが藤千代の方へと大きく身を乗り出す。キラキラと目が輝いている。
「私も、月見のこと色々と聞きたいっ」
「いいですよー。月見くんってあんまり昔話をしてくれないんですけど、私の知りうる限りすべてのことをお話しましょうっ」
「あーっ、儂も儂もっ! 儂も月見のあんなことやそんなことを知りたいのじゃー!」
藤千代が自分のことのように胸を張って言えば、間髪を容れずに操も食いつき、早速意気投合した彼女たちはそそくさと座布団を寄せ合ってテリトリーを形成し始める。一体なにを言い触らされるのやらと月見は少し不安だったが、知られて困るようなことを知られた覚えもないので、まあ大丈夫だろう。
続け様に、ようやく月見の膝から降りる決心をした萃香が、ぃよぉーし! と元気よく気合を入れて立ち上がる。
「そんじゃあみんなー、ちょっと早いけど温泉入るよー! 温泉でお酒呑むよ――――っ! 一緒に入りたい人挙――――手!!」
「「「は――――っい!!」」」
「よーし今手ェ挙げた男ども、全員立ってこっちきてー! ……あーよしよしよく来たね、じゃあぶっ飛べへんたあああああいっ!!」
「「「ぐあああああああああっ!!」」」
さりげなく萃香と一緒に温泉に入ろうとした野郎どもが、情け容赦ない正拳突きで鳩尾を打ち抜かれてまとめて吹っ飛んでいく。鬼の中の鬼、鬼の四本指に座す大妖怪の一撃に、さすがの彼らも「もっと強めに」などとお茶目を抜かす余裕はなかったらしい。揃いも揃って部屋の隅まで転がり、幸せそうな顔で気絶していた。
「……」
ようやく膝の上が軽くなった月見は立ち上がり、凝り固まった体を伸ばしながら周囲を見回してみる。さっき萃香に殴られた連中が吹っ飛んでいった近くで、レミリアが例の特殊性癖な青年からマウントを取って、半泣きになりながら激しく拳を振り下ろしている。青年は鼻血を流してがふうげふうと悲鳴を上げながらも、やはりどこか、満更でもなさそうな顔をしてレミリアにされるがままになっている。周囲では野次馬が指笛を吹いたりしたりしながらレミリアを囃し立て、青年があと何発でダウンするかをネタに賭けを繰り広げている。咲夜が、レミリアの暴走を止めなければと思いつつも、周りが盛り上がっているからいいのだろうかと思い悩んで、少し離れたところでおろおろしている。
騒がしいのはそこだけではない。
「だからその話は、もうほんとに深い意味はないんですってば! みんなだって、なんとなくパッと浮かんだ名前が結構いいやつだったー、なんてのはよくあるでしょう!?」
「そりゃーそうだけどさー、だったらそんなムキになって否定しなくてよくない? 余計怪しく見えるよ?」
「みんながしつこいから頭にきてるんですよ! いい加減にしてください、みんなが期待してるようなのは未来永劫一切ありませんからッ!」
「まあ文がツンデレなのはよくわかったけどー」
「もおおおおおっ!!」
文はあいかわらず色恋好きな同僚たちに突っつかれては暴走寸前になっているし、
「ちょっと待ったあああああっ! 今の話はさすがに聞き捨てならないよ! 移動要塞の最大の浪漫は多脚型でしょ!? 履帯型なんて夢がなーいっ!!」
「ふっ……浪漫に溺れて現実性を見失うのは阿呆のすることだぜにとりよ……。お前だって、多脚型の歩行とバランス制御の難しさはわかってるだろう? 最新技術がいついかなる時も優れているとは限らない。時には過去の技術を踏襲することも必要だ」
「過去の技術に胡座かいて夢を見ようとしない方がよっぽど阿呆だね! 私らが夢を見なくなったら、一体誰が幻想郷の技術を変えてくのさ! 確かに多脚型の難しさは私もわかってるよ。でもそれを乗り越えてこそ河童の技術でしょ!?」
「上おおおおお等だにとりいいいいい!! お前とは一度拳で語り合った方がいいみてえだなあああああ!?」
「望むところだあああああっ!! 女だからって甘く見てると痛い目見るからね!?」
にとりを始めとする河童たちは、移動要塞について多脚型派と履帯型派の二派に分かれて、熱く拳で語り合いを始めているし、
「ねーねー勇儀、勇儀も一緒に温泉入ろうよー!」
「んー? ああいいよ、ちょうど呑み比べも一段落したしねえ」
「じゃあ、次は温泉に入りながら私と勝負しようじゃないか。――はいそこの『勇儀さんが入るなら……』って途端に目ェ輝かせたお前えええええ!! どぉーせ私はおっぱい小さいですよ悪かったなあああああっ!!」
「えっ誰もそんなこと言ってなもるすぁ」
「つーか萃香さんは小さいってか皆無ぼぐろ」
また萃香の正拳突きで新たな犠牲者が生まれたし、
「ちょっと藍ー!? あなたの尻尾がもふもふで気持ちいいのは認めるけど、いい加減放してくれないとお料理が冷めちゃうんですけどっ!」
「そうですね、蓬莱山輝夜ともう二度とあんなみっともない喧嘩をしないと約束できるなら、放してあげます」
「なに言ってるの藍私の話聞いてたのかしら蓬莱山輝夜は私の恋路を邪魔する女郎なのよまあこの私があんなガキに負けるなんて天地が引っ繰り返ったってありえないことなんだけど邪魔な芽は早めに摘んでおくに限るじゃないだから宴会の騒ぎに乗じて今のうちに消すしかって待って待って藍絞まってる絞まってるあああああ紫ちゃんボディのあちこちからミシミシって致命的な異音がー!?」
紫は藍の九尾に絞めつけられてビクビクしているし、
「あっほら永琳、なんかちょっと怪我人増えてきたんじゃない? 私のことなんてほっといて、応急処置しに行った方がいいわよ!」
「そうね、あなたが八雲紫ともう二度とあんなみっともない喧嘩をしないと約束できるんだったら、行ってくるわ」
「なに言ってるの永琳私の話聞いてたのかしら八雲紫は私の恋路を邪魔する女郎なのよまあこの私があんなやつに負けるなんて月が地球に落ちるくらいにありえないことなんだけど邪魔な芽は早めに摘んでおくに限るじゃないだから宴会の騒ぎに乗じて今のうちに消すしかって待って待って永琳なによその注射器『初めからこうしておけばよかった』ってどういう意味なのあっちょっやめてやめてストップストップあのね永琳人間の体内にはそんな緑色のマーブルな液体なんて打ち込んじゃダメなのよってあっ、」
輝夜は永琳に変な色の注射を打たれて動かなくなったし、
「つ――――く――――み――――ッ!! こっち来てって行ってるでしょ、無視するならそのステキな尻尾を引きちぎって私専用の抱き枕作っちゃうぞ――――わ――――いっ!!」
諏訪子はあいかわらずぴょんこぴょんこと飛び跳ねて、物騒なことを宣っているし。
「ちょ、諏訪子様っ……落ち着いてください、騒ぎすぎですよぅ」
「なに言ってるのさ早苗、どこもかしこも似たようなもんじゃない」
諏訪子が早苗に向けて放った何気ない一言を、まったくその通りだと月見は思った。外の世界で人間たちが行う宴会とは似ても似つかない。肉体言語的な意味で盛り上がる馬鹿騒ぎこそが、外の世界の非常識を集めて創られた幻想郷の宴会なのだ。現状、一番大人しくしている人外が幸せそうにご飯の釜をつついている幽々子なのだから、幻想郷の宴会もここに極まれりである。
そのうち、酔った勢いで弾幕ごっこをし出す連中が現れるかもしれない。
「今日の宴会は、いつにも増して盛り上がってますねえ」
フランたちとの話を中断し、藤千代が月見を見上げて言う。
「やっぱり皆さん、月見くんが帰ってきて嬉しいんですね」
「どうだか……。普段はもう少し落ち着いてるのか?」
「そうですね、こんな風に賑やかな殴り合いはなかなか起こりませんよ」
どうやら月見が帰ってくると、幻想郷の宴会では殴り合いが起こるらしい。あんまり嬉しくない。
「それだけ、みんな自分の気持ちに素直になってるってことですよ。人の心を素直にするのは、月見くんの一つの美点ですから」
「……そうかね」
恐らく褒められているのだろうが、人の心を素直にした結果がこの馬鹿騒ぎなら、それもそれで、あんまり嬉しくはなかった。
「……ああ、これもう完璧に無視されてるよね。よし待ってて早苗、ちょっと月見のステキな尻尾刈り取ってくるから。もっふもふの抱き枕ゲットだぜ」
「いや、月見さんも連れてきてくださいよ!?」
ともあれそろそろ諏訪子の目からハイライトが消えかけているので、月見は酒を持って彼女たちのところへと向かう。
途中、嫉妬に狂った子ども好きな天狗が男涙とともに殴りかかってくるのを、適当に尻尾で吹っ飛ばしておく。
○
とある従者の集まりがある。座敷の一角にて座布団を寄せ合いちょっとしたテリトリーを形成しながら、魂魄妖夢は、従者仲間である咲夜、椛、鈴仙らと一緒に談笑の花を咲かせていた。
少し前まで馬鹿騒ぎが続いていたこの宴会場も、暴走の発端となる連中が軒並み物理的にダウンしたことと、温泉に入りに行ったことで次第に落ち着きを取り戻しつつあった。レミリアの暴走は天狗の青年が完全に気絶したことで収束し、河童たちの大乱闘も、にとり率いる多脚型派とかいうチームが僅差で勝利したらしい。馬鹿騒ぎをしている連中はもうほとんどおらず、部屋の隅に積み重ねられた犠牲者の数は、今や四十を超えていた。
妖夢も、初めのうちは暴れ回る幽々子の食欲に振り回され酒を呑む余裕すらなかったが、「ここから勝手に取って食べてください!」とご飯の釜と料理の鍋を放り投げてからは平和になった。さすがの幽々子もそれらを平らげれば大分満足したようで、今は親友である紫のところで一緒に酒を呑んでいる。どうやら、蓬莱山輝夜の存在について、愚痴を聞かされているらしい。
――蓬莱山輝夜。
「……実際、輝夜さんと月見さんってどういう関係なの?」
紫と月見の間柄は既に幽々子から聞かされているし、嘘を吹きこまれたわけでもないと思っている。月見が紫の想い人であるというのは、今日の紫の行動を見ていればなんとなく納得が行くところだ。月見の膝の上でじゃれ合っていたスカーレット姉妹、及び伊吹萃香を心底羨ましそうに睨みつけていたし、隙を見つけて月見のところに行こうとしては、何度も藍の尻尾で拘束されていた。
けれど、輝夜と月見が親しい関係だったとは初耳だ。それは幽々子も同じだったようで、だから彼女は今、紫の愚痴に付き合いながらさりげなく輝夜について情報収集をしている。
妖夢の問いに、鈴仙は少しの間考えてから、曖昧に笑った。
「昔に色々あったんだけど……まあ結局は、姫様の片想いなのかな」
そうだろうな、と妖夢は思う。これは幽々子から聞かされた話だけれど、月見は、さほど色恋に熱心な性格ではないらしい。ある意味では、某古道具屋の店主と同じで、絶食系ということになるのだろうか。
「へえ……そうなの」
咲夜が咀嚼するように頷く。椛はおかわりした焼き魚に夢中で半分聞いていなかったのか、「そうなんですかーすごいですねー」とひどく適当な相槌を打っている。
鈴仙は更に肩を竦め、
「で、その昔の色々が原因で、賢者様とすこぶる仲が悪くて……いや、仲が悪くなっちゃったっていうべきかな、昨日の話だし」
そこからいきなり悟りを開いた眼差しになって、悟りを開いたため息をついた。
「今日も顔合わせるなりいきなり喧嘩始めて……。姫様さ、月見さんのこと好きなやつなら鬼子母神様にまで喧嘩売るんだよ? もう、これからずっとこんな感じなのかなあ……」
「……」
今の鈴仙の気持ちは、多分妖夢には痛いほどによくわかった。初めて月見と出会った日――幽々子と紫が喧嘩をおっ始めそうになった時は、場所が場所だったというのもあるけれど、妖夢は割と本気で泣きそうになったのだ。あれが事あるたびに続くのだとしたら、妖夢は間違いなく『捜さないでください』の書き置きだけを残して失踪するだろう。
つくづく思うが、幻想郷において従者とはかなりハードな立ち位置だ。妖夢と鈴仙についてはこの通りだし、椛は主人である天魔のサボり癖のせいで、一時期は胃に穴が空きかけたらしい。咲夜だって、主人に振り回されることこそ少ないものの、広大な紅魔館の家事を一手に担わされている。あとは藍だって、紫から幻想郷の管理者の仕事を押しつけられることがままあるし、彼女が巻き起こした騒動の後始末に奔走させられたりもしている。従者のことをちゃんと労ってくれるような心優しい主人など、幻想郷では幻想なのだ。
ふと、月見さんみたいな人が主人だったらよかったのに、と思う。彼のように物腰の穏やかな主人であれば、妖夢の気苦労は減り、無茶な命令に振り回されることもなくなり、更には対等な立場で接してもらえるはず。なんと素晴らしい三拍子だろうか。
……念のため断っておけば、月見の従者になりたいという意味ではない。祖父から受け継いだ大切な仕事だ。妖夢が幽々子のもとを離れるのは、きっと彼女との縁が切れる時なのだろう。
「まあ、それはともかく」
自棄酒するように酒をぐっと呷って、鈴仙が話題を変えてくる。意味深な流し目を咲夜へ向けて、にやりと笑った。
「咲夜は、月見さんのことどう思ってるの?」
「……どうって?」
意味深な問い掛けに、咲夜の片眉がわずかに跳ねる。
「いやほら、レミリアさんが公認だとかなんとか。あの時、結構大慌てしてたでしょ? 私、あんな風に可愛い声上げてすっ転ぶ咲夜なんて、初めて見たんだけど」
「あ、あれは……完全に不意打ちだったから……」
大分恥ずかしそうにして、咲夜がきゅっと縮こまった。確かにあの時は、話題が話題だった。なんの前触れもなく結婚だのなんだのと言われたら、たとえ冗談であったとしても、動揺しない女などいるものだろうか。仮に妖夢が咲夜の立場だったら、すっ転ぶかどうかは別として、顔中を真っ赤にして楼観剣を抜き放つくらいの自信はある。
揺れた心を落ち着かせるように、咲夜が咳払いをする。
「月見様は恩人よ。お嬢様と妹様を仲直りさせてくれた、かけがえのない」
妖夢は、自然と上座の方に目をやった。月見と守矢神社の面々と、鬼子母神、天魔らが談笑をする中に、フランドール・スカーレットの姿が交じっている。みんなを一緒に円を作って、誰かの話を聞いては驚き、笑い、楽しげに輪の中へ溶け込んでいる。
「……レミリアさんの妹さんは、初めて見ました」
「妹様が今ここにやってこられたのも、月見様のお陰」
狂気のせいでやや気が触れており、長年幽閉されているという噂を聞いていた。けれど実際のフランドール・スカーレットは、噂がまったくの事実無根だったと思わされるほど、明るくて素直な女の子だった。遠くから見つめる自分たちまでが、つられて自然と笑顔になってしまいそうになる。
心の中の温かさを慈しむように、咲夜がゆっくりまぶたを下ろす。
「妹様があんな風に笑えるようになったのも、月見様のお陰」
「……」
月見がフランたちになにをしたのかはわからないし、とりわけ知りたいとも思わない。ただ、小さな女の子が一人、素敵な笑顔で笑えるようになったのだと、その結果さえわかれば充分だった。
「……いい人なんでしょうね」
月見とちゃんと顔を合わせてからまだ間もないけれど、それは間違いないのだろう、と思う。八雲紫と蓬莱山輝夜が想いを寄せている。西行寺幽々子が友人だと認めている。フランドール・スカーレットが救われている。
その人柄は、百を超える妖怪たちが一丸となって、彼のためにこんなに立派な屋敷をつくってあげるほど。
「ええ、もちろん」
咲夜が、自信たっぷりと深く微笑む。
「そうなんだろうね。私も昨日会ったばっかりだけど、悪い人とは思えなかったし」
鈴仙が、くすぐったそうな苦笑いをしながら頬を掻く。
「そうなんですかーすごいですねー」
最後に取っておいた焼き魚の頭を幸せそうに噛み砕く椛は、もう焼き魚と結婚してしまえばいい。
「……これから、賑やかになりそうですね」
死屍累々と化しつつある宴会場を見渡す。今日一日だけでこれだけの馬鹿騒ぎだったのだ。明日も、明後日からも、月見の周りには様々な者たちが集い、のびのび賑やかに笑うのだろう。
きっと、妖怪も人も、関係なく。
「……」
なんとなく、幽々子が月見を友と慕う理由の一つが、わかった気がする。
緩く息をついて、咲夜が立ち上がった。
「……さて。じゃあそろそろ、できるところから片付けを始めましょうか」
妖夢は宴会場の惨状を再確認する。膳は散らかり酒瓶は散乱し、座布団は吹き飛び酒に潰れた者たちはあちこちに雑魚寝し、広々とした屋敷からは軽く足の踏み場が消滅しつつあった。確かにこれは、今のうちから少しでも片付けを始めておかないと、明日の朝が大変になりそうだ。
頷いて、妖夢は猪口に少しだけ残っていた酒を片付ける。
「そうですね。ぼちぼちやりましょうか」
「私たちくらいしか、やる人もいないしね」
従者四人で、一緒になって苦笑する。宴会の前準備と後始末は、いつだってどこだって従者の仕事。本当に、ハードな役回りだ。
けれどこうして、起きている者はもちろん、寝ている者までが笑顔を絶やさない空間で働けるのならば、それはそれで、悪い気はしない。
料理はもうほとんど片付いている。酒も、準備していた分はすべて封が切られており、間もなく完全に底をつくだろう。そうすれば、いつまでも続くように思えたこの宴会もいよいよお開きだ。
水月苑にもようやく、遅めの夜が訪れようとしていた。