目に留まったのは、妖怪の山をまっすぐ南に下った麓近くだった。慧音や藤千代、操の三人と別れたあと、月見は紫のスキマを使いながら幻想郷を回り、そしてこの場所に目をつけた。
妖怪の山は幻想郷の北側をほぼ占有する巨大な山で、その南の麓あたりとなれば、およそ幻想郷の中心点――つまりは、東西南北どこに向かうにしても平均的に都合がいい場所、ということになる。活動の拠点を置くには悪くないし、更に言えば山奥とは違って妖怪の住処が少なく、ほとんど手つかずの自然が広がっているため、一人でのんびり生活する場所としても好条件だった。
「それじゃあ私、地底に行って鬼たちを連れてくるから!」
月見が周囲の散策をしている間に、紫は鬼たちを集めに地底へと向かっていった。幻想郷と地底は、やはり足だけで行き来するにはやや距離があるらしい。いつか地底に足を向ける際には時間をたっぷり用意しておかないとなと、月見は木々の中を歩きながら思う。
長閑な森だ。天狗や河童を始めとした山の妖怪たちは基本的に奥の方に家を構えているから、このあたりは昼間でも静謐としている。星が瞬くような木漏れ日と、遠くからさらさらと聞こえてくる川の音が心地いい。ひと時、ここが夜になれば妖怪が蔓延る危険地帯となることを忘れてしまいそうだった。
そのまましばし森のささやき声に耳を澄ませていると、山頂の方から、操の要請を受けた天狗や河童たちが集まってきた。更にほどなくして、紫が地底から鬼たちを連れて戻ってくれば、
「……いや、確かに手伝いがほしいとは言ったけど」
鬼、天狗、河童がそれぞれ数十名ずつと、それ以外にも、興味半分でやってきた山の妖怪たちがちらほらと。目が届く範囲だけでも、ひょっとして百にすら届くかもしれない大所帯は。
「さすがに、多すぎやしないかい」
妖怪一匹の家を建てるにしては、明らかすぎる過剰戦力なのだった。
けれど月見の横で、紫ははっきりと首を振って言う。
「なに言ってるのよ月見、だって家をつくるのよ? 少なくて困ることはあっても、多くて困ることはないわ」
彼女は早くもやる気満々といった
「あんまりのんびりやってもあれだもの。今日明日くらいで完成させるわよっ」
「は? いや、そんなに急がなくても」
「そうは言っても、みんなもうやる気満々なのよ? ……ほら」
軽く微笑んで、紫が月見の背後を指差した直後だった。
「つーくみいいいいいっ!!」
「うわっ」
鼓膜が痛むくらいに元気な少女の叫び声と、なにかが後頭部に激突する衝撃が来て、月見は思わず前にたたらを踏んだ。肩の上から、木の枝みたいに華奢な脚が二本、垂れ下がってきているのが見えた。
顔はわからないが、声と、そして漂う強烈な酒の匂いから、誰であるかは容易に知れる。
「……萃、」
「月見いいいいいいいいっ!!」
「うおおっ」
続け様に背中に衝撃。今度は体が浮いたかと思うほどの威力で、完全に前へつんのめった月見が、なんとか踏み留まって体勢を持ち直せば、腰のあたりに手枷付きの腕ががっちり巻きついていた。
これもまた、何者なのかは言わずもがな。月見は緩いため息混じりに、ゆっくりと彼女たちの名を呼んだ。
「萃香、勇儀。離れてくれないかい」
「そうだよお。萃香、伊吹萃香だよお。久し振りだねえ」
「そんでこっちは勇儀だよお。いやあほんとにひっさりぶりだねえ」
月見の肩の上にすっぽり収まった少女――伊吹萃香が、躁状態みたいに両脚をぱたぱたさせながらしゃっくりをする。そして月見の腰にしがみついて半分地面に伸びた女性――星熊勇儀も、焦点の合わない間延びした声でしゃっくりをしていた。
同族の中でもとりわけ年長者で、鬼の四天王として名を知らしめる彼女らは、月見にとっては藤千代の次に付き合いが長い鬼だ。飲兵衛なのは昔からちっとも変わらず、もう早速酔っ払っているらしい。
堂々と月見に引っつく二人の鬼を少し羨ましそうにしながら、紫が大きくスキマを開けて言った。
「じゃ、萃香たちと適当にお話してて。私、もう一度地底に行って藤千代を連れてくるから」
「ああ、わかった」
「いってらあー」
萃香のでろんでろんな挨拶で見送られ、紫がスキマの奥に消えていく。なんでも藤千代は、鬼のトップだからか地底世界でもまずまず偉い地位にいるらしく、長く留守にする際には引き継ぎ等をしなければならないらしい。基本的には面倒見がいい性格をしている彼女は、仕事もそこそこ要領よくこなしているのだという。
「――天魔様ああああああああ!! 今更戻ってきて、しかも今日は仕事しないって、一体どういう了見ですかああああああああッ!!」
「ぎゃー!? つ、つつつっ月見のためなんじゃよ! これはとっても大切な公共事業じゃから、もう仕事ができなくなっちゃっても仕方ないんじゃよ! だからお願い剣をしまってえええええ!?」
空で
ともあれ。
「……お前たち、あいかわらず呑んでばっかりみたいだなあ」
顔をしかめるほどの酒くささとなれば、果たしてどれほどの量を呑んだのやら。
頭の上で、萃香が水を飲むように酒を呷った音が聞こえた。ぷはあと一息、
「さっきからは特に呑んでるよお。だって月見が帰ってきてたなんて知らなかったんだものー」
月見も呑む? と目の前に差し出された瓢箪の中身が、人間ならば数度口をつけただけで酔い潰れてしまうほど強烈な代物なのだから、伊達に鬼の四天王と数えられているわけではない。大して酒に強いわけでもない月見からしてみれば、飲み口から漂う香りだけで酔っ払えそうだった。
うんざり顔で手を振って、あたりの空気を入れ換える。
「お前たち、酒くさい」
「今日は特別だよお。ほらぁ、呑みなってえー」
「遠慮しておくよ。今から家をつくるんだから、酔ってる場合じゃないさ」
月見が伊吹瓢を押し返すと、あっはっは! と勇儀が背中に響くくらいの大声で笑った。
「なに言ってるのさあ、鬼たちはもう宴会始めちゃってるよ? 主賓が呑まなくてどうするのさ」
「……なあ。お前たち、手伝いに来てくれたんじゃないのか?」
「仕事始めの前祝いだよ。めでたいねえ」
なるほど確かに、向こうで輪を作って座った鬼たちは、どこからともなく持ち込んだ酒を互いに振る舞い合っている。これからつくる家について真面目に打ち合わせをしてくれるのだろうと、そう思った少し前の自分がバカみたいだった。
「あ、あのー……ちょっといい?」
「うん?」
と、背後から引っ込み思案な呼び声。振り返れば、水色の髪に水色の瞳に水色の服に水色の靴と、まさしく水の中から生まれてきたような河童の少女が、遠巻きからへっぴり腰になって月見を見つめていた。
「どうかしたか?」
「いや……その、ちょっとお話したいことがあるん、だけどー……」
恥ずかしがったり緊張したりしているのではなく、どうやら怯えているらしい。一瞬、私ってそんなに怖い顔してるだろうかと首を傾げかけたけれど、頭の上でまた萃香が酒を呑んだ音を聞いて、はたと思い至った。
胸のあたりでぶらぶらしている彼女の脚を叩く。
「ほら萃香、いい加減降りてくれないか。お客が来たみたいだからちょっと話してくるよ」
「んー?」
かつての鬼は妖怪の山の支配者であり、天狗や河童といった妖怪たちより明確に上に立つ存在だった。故に、当時は少なからず鬼に対して恐怖心を持ち、距離を置こうとする妖怪たちがいた。
その関係が今でも影響力を持っているとすれば、あの少女が怯えているのは月見ではなく、萃香たちということになる。
「ほら、勇儀も」
「はあい。……じゃあ月見、あとでちゃんとこっち来て呑みなよー?」
勇儀が左右にフラフラしながら月見の腰から離れ、続けて肩の上から降りようとした萃香が、酔っ払っているせいか途中で手と足を同時に滑らせて、背中から地面に落ちた。
「ぎゃん」
「あっはっは、なにやってるのさ」
「滑ったー。あっはっは、私も結構酔っ払ってきてるみたいだねえ」
けれど鬼である彼女はまったく痛がる様子もなく、前後にフラフラしながらすっくと立ち上がって、
「そいじゃあ月見、あとで一緒に呑もうねー」
「ああ、家づくりが終わったあとでね」
「ぶうー。そんなこと言ってると、月見の分のお酒なくなっちゃうんだからねー」
頬を膨らませた萃香はそのままそっぽを向いて、勇儀と一緒に鬼たちの酒盛りの輪に突撃していった。鬼を代表する飲兵衛二人の乱入で、周囲はいよいよお祭り騒ぎへと活気づいていく。よく見てみれば、いつの間にか天狗たちまで輪に交じっているらしい。
……こんな面子で、果たして本当に家づくりを始められるのだろうか。ひょっとしなくても、手伝いを頼む相手を間違えてしまったのかもしれない。
ともあれようやく肩の荷が下りたので、月見は河童の少女へと向き直る。
「それで、なんの話だ?」
「あ、うん」
萃香と勇儀がいなくなって、少女の表情には少なからず安堵の色があった。胸を撫で下ろすように深呼吸をして、掌大の小さな紙をこちらに差し出してくる。
受け取ってみれば、なんと名刺であるらしい。幻想郷にもこういう文化が入ってきてるんだなあ、と月見は感慨深く思った。
書かれた少女の名は、
「河城にとり……」
「うん。えっとね、今回の建設の、設計を担当させてもらうことになった河城にとりです。今のうちに挨拶しておこうと思って」
「なるほど。ありがとう、世話になるよ」
「いやいや、お礼なんていいよ! いつかこういうことやってみたいって思ってたからね!」
にとりは裏表のない素直な笑顔を咲かせると、丸めて脇に挟んでいた設計図をその場に広げた。ここに書かれているのが、これからつくる月見の家の草案なのだろう。
月見はどれどれと紙面に目を落とし、
「――」
絶句、
「ずっと前から考えてたこのデザインを使ってみようと思うんだけど、やっぱりそっちの意見も聞いておきたくて」
にとりはやや熱っぽくなった声で言う。
「ね、どんな感じにする? 装甲厚くして耐久力重視にするか、薄くして高速巡航型にするか。あと、対侵入者センサーとか防弾シールドとか光学迷彩とか色々オプションつけられるけど、なにかほしいのある? あっ、緊急時に備えた脱出艇は絶対必要だろうから、今回はサービスで仕込んでおくよ! それと、武器はA装備、B装備の二つから選べるよ! A装備は広範囲攻撃が魅力だけど、反面威力が低めの初心者向け。B装備は攻撃範囲こそ狭いけど、火力は折り紙つきの上級者向けさ! ――さあどっちにする!?」
「ところでにとり、それ、なんの話だ?」
「え?」
月見が冷静に問うと、にとりはきょとんと疑問顔になって、
「なんの話って、家の話でしょ? 移動要塞にしようと思ってたんだけど、どこかおかしかった?」
ツッコんだ方がいいのだろうか。
「……普通の家でいいって話は、伝わってないのかな」
「伝わってるよ? だからほら、ごくごく普通の移動要塞じゃん」
月見はもう一度設計図に目を落とす。設計タイトルは、住宅型移動要塞。ごくごくありふれた二階建ての家から、蜘蛛のように広がった長い脚が八本、鉛筆で描かれた大地を穿っている。これで歩いて移動するということなのだろうか。更に屋根の上から四本ほど棒状の物体が生えているが、これらはどうやら、煙突ではなく砲台らしい。
幻想郷も遂にここまで来たか、と月見は思う。
「……にとり。人里にあるような、本当に普通の家でいいから」
「え……そんなっ、移動要塞の浪漫をわかってくれないのっ?」
「わからなくはないけど、私の家でやるのはやめてくれ」
月見はただ、一人で静かに休める家がほしいだけだ。こんなものをつくってしまったら最後、月見の生活から平穏という二文字は永久に消え去ってしまう。
ぶー、とにとりが唇を尖らせた。
「なんでー? こんなにカッコいいのに……。あっ、もしかして多脚型なのが気に入らないの? まあ、確かに安定性には難アリだけどさ。でも仮に履帯型とかにしたとして、そうするとなんかイヤに現実的になっちゃうでしょ? やっぱり、移動要塞に必要なのは浪漫と夢だと思うんだー」
「そういう問題じゃないからね?」
「ぶー……」
頭の後ろで手を組んで、ちぇー、と足下の小石を蹴り飛ばす。
「やっぱりダメかあ……。まあ仕方ないよね、さすがにお金かかるし」
「そういう問題でもないからね?」
この少女、決して演技をしているわけではなく、本当に残念がっているらしい。家を動かすという根本からして間違っているとは考えないのだろうか。
「じゃあ普通の家で我慢するよ。……あ、でもさすがに脱出艇くらいはいるでしょ?」
「おーい紫ー、今回の作業からこの子を降ろしてくれー」
「うわあー!? ご、ごめんなさいごめんなさいっ、冗談だよ冗談!」
「……ああ、そういえばあいつは地底に行ってたんだっけ。まあ戻ってきてからでいいか」
「よくなあああああいッ!!」
血相を変えたにとりが、月見の腕にひしとしがみついた。
「ほ、ほんとにごめんなさい! ちゃんと普通のお家つくるからっ、だからお願い私にもやらせてえええええっ!」
「なぜ?」
「あの、ほんとに謝るんで許してください。移動要塞? 笑っちゃいますよね。なにバカげたこと言ってんのーって感じで。あははははは……」
にとりが段々涙目になって震えてきた。少しやりすぎてしまったかもしれない。
月見は彼女の頭をぽんぽんと叩き、
「変な工夫なんてしなくていいから、普通に生活しやすい家を頼むよ」
「も、もちろんだよっ。任せて、私嘘つかない河童!」
がくがくがくがくと必死に何度も頷くにとりの瞳に、うしろめたい色は混じっていなかった。どうやらわかってもらえたようなので、移動要塞の問題はクリアである。
――で、次の問題は、完全に酒が入ってお祭り騒ぎになっている鬼と天狗たちであって。
ついでに言えば、彼らから離れたところで別の輪を形成している河童たちが、「侵入者に備えた装備は……」とか「やっぱり男なら火力重視で……」などと、実に物騒極まりない打ち合わせをしているのも気になる。
月見がどうしたもんかと頭を痛めていると、隣にスキマが開いて紫が戻ってきた。彼女は意気揚々とスキマから飛び出し、金髪を天の川のように煌めかせて、
「ようし月見、役者も揃ったし早速始め――なんで宴会になってるのよー!?」
「なんでだろうね」
そして着地と同時に、膝からがっくり崩れ落ちていた。
「あらー、やっぱりこうなっちゃってましたかー。もう、仕方ないですねー」
続いてスキマからぴょこりと出てきた藤千代は、家づくりそっちのけで騒ぎ散らす仲間たちに驚くでもなく呆れるでもなく、ただやんわりと微笑んでみせた。
ただし普通の笑顔ではない。嵐が起きる直前の、不吉な黒い笑顔である。
「宴会は月見くんのお家をつくったあとでって言ったのに。これはどうやら、物理的教育が必要みたいですねー」
藤千代は表情を変えぬまま腕まくりをして、宴会の輪へとゆっくり歩を進めていく。鬼と天狗たちは、振舞われる酒にすっかり気を取られて、彼女が放つ死神のオーラに気づくことはなかった。
そして一息、藤千代は、
「――うりゃぁっ」
○
「――はい、それじゃあみんなで確認しましょうかー。今日みんながここに集まったのは、一体なにをするためですかー?」
「「「はい、月見さんの家をつくるためですっ!!」」」
「じゃあ、私たちが今しなきゃいけないことは一体なんですかー?」
「「「はい、月見さんの家をつくる準備をすることですっ!!」」」
「宴会なんてしてる場合じゃないですよねー?」
「「「はい、仰る通りでございますっ!!」」」
「それと河童の皆さん、これから私たちがつくるものは一体なんですかー?」
「「「はい、月見さんの家ですっ!!」」」
「防弾シールドとか、砲台とかは必要ないですよねー?」
「「「はい、まったくもってその通りでございますっ!!」」」
頭の上に出来立てほやほやのたんこぶをつくった鬼と天狗と河童たちが、たった一人の少女の前に完全平服するというシュールな光景である。適当な切り株の上に立った藤千代を中心に、延べ百名あまりの妖怪たちが教科書みたいな土下座を決める光景は、どこか怪しい宗教の集会でも目の当たりにしたようだった。
「ほんと助かるわねえ……藤千代が拳骨振りまけば一瞬で解決するんだもの……」
「確かに、手間が掛からないのはありがたいね……」
それを遠巻きで眺めながら、月見は紫と一緒になってため息をついた。土下座を決める面々に交じって、藤千代が力加減を誤ったのか、大地と同化して動かなくなった犠牲者たちの姿が見える。だが、彼らの名を呼んだり抱き起こそうとしたりする者は一人もいない。それどころか目を合わせる者すらいない。みんながみんな、我が身の惜しさに、藤千代に完全降伏するので精一杯だった。
「わあい……。つ、月見と話してて助かったー……」
河童で唯一難を逃れたにとりが、冷や汗まみれになりながら月見の背に隠れている。
「鬼子母神様の拳骨なんて勘弁だよ……うう、想像しただけで寒気が」
「私があの中に叩き込んでやってもよかったんだけどねえ」
「ごめんなさいごめんなさい移動要塞とかもうほんとどうでもいいんで許してください絶対ちゃんとした家にしますからお願いします許してください許して」
このままいじり続ければ、にとりはそのうち月見に向けて土下座をしだすのだろう。
ともあれ彼女が改心したのは明らかなので、このあたりで許してやろうと月見は思う。
「……あの、これは一体どういうことですか?」
バサバサと翼を鳴らし、空から降りてきたのは椛だった。ずっと上司と鬼ごっこをしていて事の一部始終を知らない彼女は、藤千代の前に平伏す仲間たちを見て目をぱちくりさせた。
月見は微笑み、
「なんでもないよ。……ところで操は?」
操の姿がどこにも見当たらないので尋ねてみれば、椛もまた抜けるような笑顔で、
「さあ、どこに行っちゃったんでしょうねえ?」
「……」
どうやら訊いてはいけないタブーだったらしい。月見は今の会話を綺麗さっぱりなかったことにして、心の中で静かに操の冥福を祈った。
もういっそ、椛が天魔をやった方がいいのではなかろうか。
ほどなくして、皆の物理的説教を終えた藤千代が、月見のもとに戻ってきて言う。
「ではいよいよ始めましょうかー。日暮れも近いですし、ちゃっちゃとやっちゃいましょう」
「ん、了解。まずは、材料の確保も兼ねて土地をならさないとね」
周囲の緑は人の手が入っておらず思い思いに成長しているし、麓近くとはいえ山なので、土地には斜面が多い。それなりの地ならしをしなければ、とても家を建てられる状態ではなかろう。
そうですねー、と藤千代は頷き、
「じゃあ、あとは私たちがやっておくので、月見くんは帰っていいですよ」
「ああ、わかっ――なんだって?」
気のせいだろうか。今、とてもナチュラルに戦力外通告をされたような気が。
藤千代は首を傾げて繰り返す。
「え? ですから、月見くんはもう帰って大丈夫です。あとは私たちに任せてください」
「……や、鬼も天狗も河童もいて人手は充分なんだろうけど、さすがに私だって少しは役に立つよ?」
確かに月見には鬼たちほど優れた腕力はないし、天狗ほど突き抜けた素早さもないし、河童ほど特化した技術力もないけれど。
それでも、「もう帰っていいよ」はひどくないだろうか。
そもそも、家をつくり始めてすらいない状態でどこに帰れというのか。
「ああいえ、そういうわけではなくてですねー」
藤千代は少し悩む素振りを見せてから、月見に向けて人差し指を立てた。
「ええとですね……まず、月見くんはとても久し振りに幻想郷に戻ってきました」
「……ああ」
次に中指を立て、
「私たちは、それがとても嬉しいのです」
「うん」
そして最後に、薬指を立てて。
「――なので、帰っていいですよ?」
「……いや、なんで?」
その三段論法には、なにか大切な前提が抜け落ちているような気がする。嬉しいから帰れ。新手のいじめだろうか。
解説を加えてくれたのは紫だった。どん、と自らの胸を力強く叩いて、
「大丈夫よ! 私たちが素敵なお家をプロデュースするから、月見は安心して見てて頂戴っ。幻想郷に戻ってきてくれたプレゼントよ!」
「ああ、なるほど……いや、しかしそうは言ってもね」
どうやらいじめられていたわけではないらしいが、だからといって、男である月見が女である紫たちを置いてどうして帰ることができようか。これからつくるのが自分の家ならなおさらだ。
幻想郷に戻ってきて早三日、一日目は紫の屋敷で世話になり、二日目は慧音の家で世話になり、そろそろ男らしく頑張って働かねばならない気がする。
だが、藤千代は困り顔でそっとため息をつく。
「月見くんの気持ちはよくわかるんですけど、でもそれだと困っちゃうんですよねー。私としては、ここでばばーんと素敵なお家をつくって、『ありがとう千代、お前に任せてよかった』って言ってもらいたくてー……」
それから彼女は、ふいに赤く色づいた頬を両手で押さえて、えへへ、とだらしなく笑って。
あ、と月見が嫌な予感を覚えた時には、既に手遅れだった。
「――そしたら『こんな立派な家に一人だけというのも寂しいから一緒にここで暮らそうか』なんて流れになって一つ屋根の下で同棲して気がついたらそれが当たり前の世界になっててそのまま仲睦まじくゴールインしちゃうなんてこともありえるじゃないですかありえないなんて言い切れませんよね可能性はゼロじゃないですああもうそんなそんな私みたいな不束者でよければ喜んでいつまでもどこまでもご一緒しますよ新婚旅行は外の世界に行きたいですね月見くんが見てきた世界を私も一緒に見てみたいですああでも新婚旅行なんて別に行かなくてもいいんですよ私は月見くんと一緒にいられればもうこの上ないほど幸せなんですからだからこの幻想郷でずっと暮らし続けるのもそれはそれは素晴らしいんじゃないでしょうかああんもうやーですよ月見くんったらえへへへへへ……」
月見はまず頭の中をできる限りカラにしながら藤千代から視線を外し、ゆっくりと空を見上げる。大半が森の枝葉で覆われているが、その隙間からこぼれ落ちる光はとても穏やかな春の日差しで、下向きになっていた心も癒やされるようだった。だが空から視線を戻せば目の前には現実がある。すなわち、藤千代がいやんいやんしながらトリップしている。
とりあえず、月見は紫を半目で睨んだ。
「……随分と、大層な下心があるみたいじゃないか?」
「そ、そんなことないわよっ。さすがに藤千代は例外でしょ?」
慌てて両手を振りながらの紫の反論を、月見は否定しなかった。
藤千代が月見へと向ける感情は、一口に愛といえど、少なからず異様な愛だ。異様なまでに純粋で、異様なまでに肥大化していて、彼女にとっての一が己であるならば、全は月見であり、そこに他者は存在しておらず、心酔を超え、盲愛すら生ぬるく、すべてが月見へと収束する。
「そんなわけで月見くんはなにもしないで見ててほしいんですというかここから離れててほしいんですだって途中を見られちゃったらいざお披露目した時の感動がなくなっちゃうじゃないですかそれだとちょっと困っちゃうんですよねああ大丈夫ですよ変な家は絶対につくりませんしつくらせませんだって将来の私のお家になるかもしれないんですものもちろん素敵なお家をつくってみせますよだから月見くんには安心して帰ってほしいんです」
厄介な好かれ方をされてしまったものだと月見は思う。良くも悪くも、藤千代は己の感情に一途すぎた。藤千代にとって必要なのは『月見』と『それ以外』の区別だけであり、究極的には、『それ以外』のものなんてどうでもいいとすら思っている。
それどころか藤千代は、必要な理由があるのならば、月見に対してすらその常識破りな腕力を振ることを厭わない。
そう――永遠亭にて、いきなり月見をぶっ飛ばしたように。
「でも月見くんはそれだと納得しないですよねわかってます自分のお家をつくるんだから自分がちゃんと動かないとって思ってるんですよね大丈夫ですわかってますでも私だって譲りたくないんですごめんなさい本当に本当に大丈夫ですから全部私たちに任せてくださいお家が完成したらすぐに連絡しますからというわけでごめんなさいですけど私がスパッと手を下してあげますね」
ぽふ、とふいに藤千代が抱きついてきた。腰に手を回され、彼女の体の柔らかさを意識したのは一瞬。次の拍子には背骨が軋むほどの力を込められ、身動きを封じられた。
ギリギリと腰が悲鳴を上げるのを感じながら、ああやっぱりこうなるのか、と月見は諦めるように思う。
紫が、同情に満ちあふれた苦笑いをしている。
「ご愁傷様……。でもほんとに任せてくれて大丈夫よ。だからもう少し、のんびり幻想郷を回ってて?」
「……りょーかーい」
藤千代が妖力を開放し始める。永遠亭において、彼女は純粋な腕力だけで、月見を竹藪の奥まで投げ飛ばした。
ではその腕力を妖力で強化した場合、果たしてどうなるか。
答えは単純明快至極、
「……千代、信じてるからな?」
「まっかせてくださ――――――――いっ!!」
藤千代の喜色満面有頂天外の叫び声とともに、月見は鳥になった。藤千代の声はすぐに聞こえなくなり、風の流れる音だけが月見の耳を支配するようになる。昼下がりの青空が、今まで見たこともないくらいに近くにある。
外の世界のアニメなどで、キャラクターが空の彼方まで吹っ飛んでキラリと星になることがあるが。
今の自分がまさにそうなのだろうかと、月見は風の中でぼんやりと、考えていた。
○
この日の霧の湖は、看板に偽りありと言われても仕方がないほどに晴れ渡っていた。普段なら湿気の多い空気はむしろ乾いており、透明な湖面も周囲の森も昼下がりの空も、すべてをはっきりと見渡すことができる。湖のどこをくまなく探し回ったとしても、霧の『き』の字すら見つけられない。
そんな湖の上で、大妖精は仲間たちと一緒にのんびりと空中散歩をしていた。大した目的もなくただ飛び回っているだけだが、空を飛ぶのが大好きな大妖精にとっては、それでも充分に意味があることだった。体の感覚が風の中に溶け込んで、大自然と一体になれるようで、とても気持ちがよかった。
「~♪ ~♪」
鼻歌交じりで湖面すれすれを飛び、水に人差し指の先を浸してみる。湖に一瞬、細い線が走って、けれどすぐに小さな揺らめきとなって消える。その変化が面白かった。急上昇して円を描くように一回転して、水につま先をつけて静止した。
つま先から広がる波紋を見つめて、は、と短く息を吐く。
「んー、いい気持ち……」
「いいきもち」「くーちゅーさんぽ」「ぴゅーん」「みずぱしゃぱしゃー」「きもちいい」「さんぽ」
すぐに大妖精の周りに仲間たちが集まって、思い思い自由な感想を口にした。総じて知能が低い妖精らしい、端的で、それ故不純物のないまっすぐな言葉に、大妖精はしみじみと頷く。
「ほんと、平和だねー……」
今日はいつも大妖精を振り回す青い相方が出掛けているから、特に。つい先日、紅魔館への突撃に付き合わされて、白黒魔法使いの熱光線に焼き尽くされるかもしれないところまで行ったのが遠い昔のようだ。
あの時にチルノを止めてくれた狐の妖怪には、いくら感謝しても足りない。彼が助けてくれたからこそ、今のこの平和があるのだと、そう感じずにはおれなかった。
だがそんな大妖精を嘲笑うように、仲間たちが周囲をくるくる回って言う。
「しかしこのときだいよーせーは」「これがほんのつかのまのへいわであることを」「しらないままなのだったー」
「み、みんななに言ってるの?」
「そうしてだいよーせーはしるのだ」「うんめーからはのがれられない」「おのれがわざわいのもうしごであるのだと」
「そんな言葉どこで覚えてきたの!?」
最近自分の仲間たちは、知能に見合わない奇妙な言葉を覚えつつある。
「もっと今の平和を享受しようよっ」
「きょーじゅ?」「なにそれ」「だいちゃんはむずかしいことばをつかうの」
「ええとね、つまり、この平和を受け入れて楽しもうよってことだよ」
「それはわからないよ」「げんそーきょーではなにがおこってもおかしくないの」「もしかしたらいんせきがおちてきて」「みずーみがざっぱーん! ってなるかも!」
「あはは、それはさすがにないよー」
いくら幻想たちが集まってできた幻想郷であっても、いきなり隕石だなんて、そんなそんな。
――と、笑った直後であった。大妖精の割とすぐ近くの水面で、ざっぱーん、と派手な水柱が上がったのは。
「……、」
大妖精はひどく呆然としながら、跳ね上がった水柱が湖に返っていく光景を見つめた。こちらまで飛んできた水飛沫が、ぽつぽつと顔にかかる。水面がそれなりに大きく波立って、大妖精のつま先から上を濡らす。仲間たちが、水飛沫から逃げて大妖精の背中に隠れる。
「…………」
静寂、
「……ほんとにいんせきが」「なんてこと」「やはりわざわいのもうしご」
「う、嘘でしょー!?」
大妖精は涙目になって、仲間たちは好奇心で目を輝かせた。
「だいちゃんだいちゃん」「いんせきとろーよ」「とってみんなにじまんしよーよ」「ゲットだぜー」「だいちゃんおよげる」「わたしたちおよげない」「だいちゃんきみにきめた」
「う、ううっ……」
仲間たちにぐいぐい手を引かれて、泣く泣く水柱が上がった現場へと向かう。未だ絶え間なく波打つ湖面が、衝撃の生々しさを如実に語っていた。
恐る恐る、水の中を覗き込む。
「ほ、ほんとに隕石だったのかなー……」
落下した瞬間を見ていないとはいえ、さすがに隕石はありえないのではなかろうか。けれども一方で、隕石じゃないとすれば一体なにが、湖のど真ん中に落ちてくるのだろうかとも思う。
……やっぱり隕石かもしれない。
「だいちゃんレッツゴー」「あたまからぱーんと」「かっこよくー」「すたいりっしゅー」「いんせきー」
「わ、わかったよお。やればいいんでしょやれば、もう……」
大妖精は、頼み事をされたら断れないお人好しな性格だった。服が濡れちゃうなあとか、翅が濡れたら飛べなくなっちゃうなあなどと考えつつも、靴を脱いで仲間たちに預けて、大きく深呼吸をする。
肺が空気でいっぱいになっていく感覚とともに覚悟を決めて。
「……い、行きます」
「いけー」「がんばってー」「いんせきー」「ぱーん」「ふぁいとー」
仲間たちの陽気な声援を背で聞きながら、大妖精は、
「え、えーい!」
馬鹿正直に、頭から、湖へと飛び込もうとして――
――直後、突如として浮き上がってきた男の頭と、盛大にごっちんこした。
「ふみう!?」
目の前で火花が散った。頭の中が真っ白に、或いは真っ黒にもなったような気がして、一瞬遅れて割れるほどの痛みが、それこそあの水柱のように突き上がってきた。
痛あああああ!? という悲鳴は、言葉にならなかった。唇が――否、体が動かない。すべての感覚がふわーっと宙に浮き上がって、そのままどこかへと消えてしまいそうになる。
ああ、気を失うんだな、と思った。そうだろうなあ。すごい音したしなあ。気絶くらいしちゃうよなあ。
なので大妖精は、消えゆく意識の中で、最後に一言。
「ばかぁ~……」
どうやら湖に落ちたのは隕石ではなく男の人だったようだが、どうしてよりにもよって、このタイミングで浮き上がってきてくれたのだろうか。
消えゆく視界の中で最後に見えた銀色に、なんだか見覚えがある気がしたけれど。
それを思い出す間もなく、大妖精の意識は暗闇に沈んだ。