銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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竹取物語 ⑩ 「永遠」

 

 

 

 

 

 時の流れとは残酷なもので、銀山を失った絶望も、数年目を数える頃にはすっかり和らいでしまっていた。たった数年で立ち直ってしまえるほど、銀山は自分にとってその程度の存在だったのかと、本当に悔しく思ったのを覚えている。

 けれど、ダメだった。どんなに悔しく思っても、年を数えるごとに銀山のぬくもりは少しずつ薄れていって、やがてほとんど思い出せなくなってしまった。顔と声を忘れることこそなかったけれど、ぬくもり一つを思い出せなくなるだけで、銀山との大切な思い出まで色褪せるようだった。

 永琳は、それを幸せなことなんだと言っていた。永遠の時間に囚われた自分たちにとって、人のぬくもりは、いつまでも手の中に覚えていていいものではないのだと。

 でも輝夜は、それを不幸だと思った。永遠の時間に囚われておいて、大切な人のぬくもり一つすら、覚えていることができないなんて。一体なんのための永遠なのか、輝夜にはよくわからなかった。

 幸せな悪夢だった。銀山との思い出は幸せだったが、これがもう触れられない、いつかまた色褪せてしまうものなのだと思うと、泣いてしまいたかった。

 でも、わずかに手の中に残っているぬくもりを、せめて今だけはと、握り締めて。

 

 そうして輝夜は、夢から覚めた。

 

「……」

 

 見慣れた自室の天井だった。体が首まで丁寧に布団で包まれているのを感じながら、輝夜は一つ、なにもない宙へとため息をこぼす。

 なんだか、途方もないほどに長い夢を見た気がした。心の中にまだ夢の余韻が残っていて、しばらくは腕一本動かすつもりになれなかった。

 やがて、首だけを動かして横を見る。枕元で、着慣れた桃色の着物が綺麗に畳まれているのを見て、ふっと思い出した。

 

「あー……私、妹紅に負けたんだっけ」

 

 見ていた夢があんまりにも長かったから、そんなことまで忘れてしまっていた。妹紅と戦って、負けて――だから自分は、眠っていたのだ。

 

「……」

 

 普段なら妹紅に負けるととても悔しいのだけれど、今回は見た夢が夢だっただけに、彼女に恨み事を言うつもりにはなれなかった。妹紅に負けていなければ、輝夜はあの夢を見ることはできなかったろう。

 ふと、このまま二度寝しようかな、と思った。あの夢の中に戻りたいわけではないが、布団を出て着替えをする気には、どうしてもなれなかった。

 布団を深く目元まで被って、また、眠ろうとする。

 

「――輝夜、起きてる?」

 

 それを引き留めたのは、もう何千年と傍らで聞き続けてきた、元教育係の声だった。決して大きいわけでもないのに、部屋の外から襖を越えて、彼女の声はとても綺麗に輝夜の耳まで届く。

 少しだけ大きく、返事をした。

 

「……なあに?」

「あら、起きてるのね」

 

 彼女――八意永琳はそれで襖を開けるでもなく、ただ声だけで、

 

「輝夜、あなたにお客さんが来てるわよ」

「……?」

 

 目元まで被っていた布団を少し下ろして、輝夜は襖の方を見た。一体誰が来たのだろうか。わざわざ永遠亭まで訪ねてきてくれるような知り合いなんて、それこそ妹紅くらいしか心当たりがないのだが、彼女が訪ねてきたのだったら、永琳は『お客さん』なんて言い回しはしない。はっきりと、妹紅が来たと、言ってくれるはずだ。

 

「誰?」

「中で待たせてるわ。だから、いい加減に着替えて出てきなさいな」

 

 こちらの質問に答えていない上に、なんだか癪に障る返し方だった。輝夜はむっとして、ぞんざいに言い返す。

 

「帰ってもらって。私、今は誰にも会いたくないの」

「……誰にも?」

「そう。誰にも」

 

 少なくとも、永遠亭以外の連中の顔なんて見たくなかった。このままなにもせずに、あの人のことを想っていたかった。

 

「そう……。そういうわけなんだけど、どうする? このまま諦める?」

 

 永琳の声が、輝夜ではない別の誰かに向けられる。大方、輝夜に会いに来たという客だろう。中で待たせている、なんて言っておいて、本当はすぐ隣にいたんじゃないか。

 それがますます気に入らなくて、もう絶対に会ってなんかやらないと、輝夜は頭の先まで布団の中に潜り込む。

 

「悪いわね、せっかく来てもらったのに」

 

 もう永琳の声すら聞きたくなくて、耳を塞いでしまおうと思って。

 布団の中で体を丸め、まぶたを下ろし、両手を耳に持っていく、

 

「――せっかく、1300年振りくらいの再会になりそうだったのにね?」

 

 その手の動きが止まり、やがて呼吸までもが止まった。あからさまに輝夜に聞かせてやろうという、わざとらしい抑揚のかかった言葉。その中の『1300年』に、あまりに鮮烈に頭を打たれた。

 タチの悪い冗談だと聞き流すのは容易かったし、実際、輝夜はそうしようとしたけれど。

 そんな輝夜に、襖のとても近いところから、声が掛けられて。

 

「――輝夜?」

 

 永琳の声とは明らかに違う、静かで優しい、バリトンの声。

 たったそれだけで――名前を呼ばれただけのことで、輝夜の心が信じられないくらいに暴れた。頭の中が白熱して、体が震え出して、息が苦しくなって、なんだか自分でもよくわからない声が、こぼれてしまいそうだった。

 声が聞こえる。

 あの人の、声が。

 

「――大丈夫か?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 昔話を聞き終わって開口一番、慧音は笑顔でこう言った。

 

「月見、――殴っていいか?」

「……いや、そう言われて頷くやつはなかなかいないと思うよ?」

「ああ、それもそうだな。――じゃあ殴る」

「待て待て、ストップストップ」

 

 月見はどうどうと両の掌を見せてくるが、それで引き下がる慧音ではない。右で固く熱い拳骨を構え、膝立ちになって、左で月見の肩をぐわしっと掴む。

 永遠亭の広間で茶を交えながら語られた月見と輝夜の過去は、決して楽しいことばかりの思い出話ではなかった。一人の少女が一人の男に恋をし、幸福を知って、けれど辛い別れ方をしてしまって、絶望をも知った話だった。

 であれば、その原因であるといっても過言でないこの男を、慧音は輝夜の代わりに殴らねばならぬのである。

 

「さあ歯を食いしばれっ」

「……一体私は、今日だけで何回お前に怪我をさせられればいいんだろうね?」

 

 それとこれととは話がまったく別だ。確かに過去のゼロ距離弾幕とロケット頭突きは慧音に非があったが、今回は事情が根本から違う。

 

「だって、こんなの、輝夜が可哀想じゃないか」

 

 あの時、『銀山』が一人で月の兵士を迎え撃たなければならない理由はなかった。むしろ、そうしてはいけなかった。永琳とともに戦って、輝夜とともに逃げて、傍にいてあげるべきだった。

 なのに彼は、わかった上で輝夜を遠ざけて、勝手にヘマして勝手に怪我をして、輝夜を悲しませて。

 

「落ち着きなさいな、慧音」

 

 拳骨を放つまでのカウントダウンを心の中で開始していると、テーブル越しで、永琳の静かな声に引き留められた。彼女は茶菓子を摘みながら、ふわりと笑って、

 

「彼を一番に殴るのは、輝夜の役目よ。あなたが取っちゃダメ」

「むっ……それもそうだな」

 

 はっとして慧音は拳を下ろした。昔話で大分時間が潰れたし、そろそろ輝夜も目を覚ますだろう。であれば、わざわざ慧音が彼女の代わりに月見を殴る必要はない。

 殴られるのが確定事項になっている月見は困り顔だったが、助け舟を出す者は当然この場にはいない。慧音と永琳は言わずもがな、鈴仙も苦笑いをして、

 

「大丈夫ですよ、殴られたらすぐに手当てしてあげますから」

「なんの慰めにもならないねえ……。……でもまあ、殴られて済むんだったらありがたい方か」

 

 月見は肩を落として、ため息をついた。

 

「すまなかったと思ってるよ。……まったく探していなかったわけではないんだけどね。まさかこんなところに隠れ住んでたんじゃあ、見つからないわけだ」

「でもいいじゃない、こうしてまた出会えたんだもの。……じゃあ昔話も済んだし、どうする? 早速輝夜に殴られに行く? 多分、そろそろ目を覚ます頃だわ」

「そうだねえ……」

 

 渋い顔をしつつも、見苦しい言い訳を重ねて逃げるような真似はしなかったので、一応は彼なりに罪悪感を持ってはいるらしい。当然だな、と慧音は思う。あれだけのことをやってもし罪の意識がないようだったら、改めて鉄拳制裁をしてやらねばならなかったところだ。

 

「案内してあげるから、二人でゆっくり話してくるといいわ。あなたもその方がいいでしょ?」

「そうだね、助かるよ――っと、このままの姿で行くわけにはいかないか」

 

 今の自分が妖怪の姿に戻っていることを思い出した月見は、懐から一枚の札を取り出した。小さく呪文の言葉を紡ぐと、淡い光の粒子が彼の姿を包んで、ほどなくして人間の体へと変化させていく。

 光の粒子が消えれば、そこにいるのは慧音が初めて出会った時の月見であり、また、蓬莱山輝夜が恋をした男。

 微笑み、永琳が席を立った。

 

「それじゃあ、行きましょうか。銀山(・・)?」

「はいよ」

 

 人の姿となった月見もまた、腰を上げて永琳の背を追う。襖の開く音と、閉まる音。一呼吸分の沈黙があって、

 

「……月見さん、大妖怪だったんですねえ。改めてびっくりです」

「……そうだね」

 

 鈴仙の言葉に、慧音は噛み締めるように頷いた。今でこそ落ち着いているが、昔話の終盤でいきなりその事実を打ち明けられた時には、驚くあまり鈴仙と一緒になって絶叫した。また、反射的にロケット頭突きを打ち出してしまいそうになったほどだ。

 人間だと思っていたら実は妖狐で。普通の妖狐かと思っていたら、実は十一尾などという大妖怪で。いちいち情報を小出しにしてこちらを驚かせてくるのは、狐だからなのだろうか。

 

「妖狐の尻尾って、十一本まで増えましたっけ……」

「いや、九本までなはずだけど……」

 

 妖狐の尻尾は最大で九本まで増えると言い伝えられているが、月見は遠い昔の太古の妖狐だというから、今どきの妖狐とは同じようで違う存在なのかもしれない。そうでなくとも、所詮は言い伝えだ。語るに易く噛み砕かれた伝承には、事実の欠落や誇張などの嘘が交じることもある。

 

「なんだか、色々すごいことになってる気がしますね。姫様も、死んだと思ってた想い人に再会できるんですから」

「……」

 

 きっと輝夜にとって、月見との思い出は幸せで、また同じくらいに辛い記憶だ。

 でもそれも、今日までのこと。

 

「姫様、驚きますかねえ。泣いちゃいますかねえ」

「……どうかな」

 

 遠い昔に死んでしまったと思っていた想い人が、生きて目の前に帰ってきてくれた――その時に胸に押し寄せるであろう感情を、慧音が思い描くことはできない。そもそも慧音は、誰かに恋をするという感情自体を、よく知らない。

 だが、それでもこう思う。

 月見との再会を果たした時、輝夜の心を満たす感情は。

 きっと、幸せという名前をした、恋の気持ちなのだろう。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 飛び起きていた。頭の先まで浸かっていた布団を跳ね飛ばし、息を殺し、揺れる瞳で襖の向こうを見つめた。

 喉の奥が干上がっている。心臓が、痛みすら覚えるほどに強く胸を叩いてくる。全身が震え出して、吐く息までが白くなってしまいそうだ。

 

「――ギ、」

 

 あの人の名を呼ぼうとした。だが、頭の片隅にいた冷静な自分が、ぐっとそれを引き留めた。

 ありえない。……ありえるわけがない。

 だってあの人は、あの時に死んだ。仮に死んでいなかったとしても、もう千年以上も昔のことなのだから、人間である彼が生きていられるはずがない。

 彼があの襖の向こうにいるなんて、ありえない。

 だから、声が聞こえるはずなんてないんだと、わかっているのに。

 

「――輝夜?」

 

 聞こえる。襖の一歩向こう側から、名前を呼ばれる。

 心がざわめいた。心の中で感情が激しく渦を巻いて、自分でもよくわからない言葉になろうとしていた。それを、輝夜は理性で必死に押し留めた。押し留めて、強く頭を横に振った。

 ――夢だ。これはあの思い出の余韻が生み出した、夢なのだと。

 そう何度も頭を振って、振り払おうと、するのに。

 

「ねえ、輝夜」

 

 永琳の声が聞こえた。呆れるような、失望するような、つまらなそうな声だった。

 

「あなた……今の声が誰だかわからないくらい、忘れてしまったの?」

 

 違う。忘れるわけがない。忘れられるわけがない。聞いただけで涙があふれそうになるほどに、辛すぎるほどに、よく覚えている。

 輝夜は、また頭を振った。

 

「でも、あの人はもういないっ……!」

 

 それは、なによりも自分に向けられた叫びだった。心の中で言い聞かせるだけではダメだった。叫ばねばならなかった。そうやって感情を吐き出すことで、決壊寸前の自分を支えようとした。

 だって、ここでもし、目の前の夢に負けてしまったら。

 輝夜は、逆戻りしてしまう。あの人の死を認められなくて、あの人のいない現実を認められなくて、絶望と空虚に支配されていた頃に。

 

「あの人は、もう、死んで……!」

「……そうね、私も少し前まではそう思ってたわ」

「……ねえ、やめてよ永琳」

 

 輝夜は祈るようにそう言った。

 ねえ、あなたまで、そんなことを言わないで。

 

「どうしてこんなことするの? 冗談にしちゃあ、最悪だよ」

「仕方ないじゃない、冗談じゃないんだもの」

「ッ……やめて!」

 

 耐えられなかった。永琳まで。輝夜の最大の理解者である彼女まで、こうしてこちらを誘惑する。

 折れてしまいそうになる。

 輝夜は、耳を塞いだ。

 

「なによっ……! またなにか変な薬でも作ったの!? ありもしない夢を見せる薬でも作って、私が寝てる間に飲ませたの!?」

「……」

「ダメなの! ダメなのよっ……!」

 

 挫けてしまいそうになる。

 その場で小さく、体を丸めた。

 

「私は、あの人がいなくても、生きていけるように、ならなきゃいけないのに……!」

 

 なのに、こんなの、

 

「こんなの、ダメになっちゃうよぉ……!」

 

 ここで彼の声を受け入れてしまえば、どんなに楽だろうか。これが現実だと認めてしまえば、どんなに幸せだろうか。

 だが、それではダメなのだ。輝夜は彼の死を偲んでも、囚われてはいけない。永遠の命を持った自分たちは、人の死をいちいち引きずってはいけない。彼の死を乗り越えて前を向かなければならないのだと、教えてくれたのは永琳だったはずだ。空虚と絶望に沈んだ輝夜を現実に引き上げてくれたのは、永琳だったはずじゃないか。

 

「なのに、なんで――」

「――グチグチうるさいわね、さっきから」

 

 それは、随分と久し振りに聞く、永琳のキレた(・・・)声。喉元に氷のメスを突きつけられた気がして輝夜が言葉を止めると、続け様に、ぺしゃんこに潰れたんじゃないかと思うほど強く襖が開け放たれた音がして。

 驚いて顔を上げた輝夜が見たのは、

 

「だらだらとつまらない屁理屈こねないで、その目で確かめてみればいいじゃないの」

 

 苛立たしげな様子を隠そうともせず、仁王立ちで言い放つ永琳と、

 

「あなたは、彼に恋をしたんでしょう? だったら――」

 

 彼女の横で、くつくつと喉で苦笑いをしている、

 

「――だったら、好きな人が夢か現実かくらい、見極めてみせなさい」

 

 あの時となに一つとして変わっていない、彼が。

 ギンが、いる。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……あとは任せて大丈夫?」

「ああ。ありがとう」

 

 振り向いた永琳にそう短く礼を言って、月見は部屋の中心を見つめた。不老不死だから当たり前だが、輝夜はあの頃からちっとも変わっていなかった。器量よく整った顔はあいかわらずだし、漆塗りみたいに深い黒髪も、雪化粧さながら白い肌も。ただ、敷き布団の上で呆然と月見を見つめる彼女は、心なしか、一回りだけ小さくなっている気がした。

 

「それじゃあ、広間で待ってるから。ゆっくり話してきなさいな」

「ああ」

 

 永琳はそんな輝夜を特に気に留めた素振りも見せず、あっさりともと来た廊下を引き返していく。気にする必要もないほどに、輝夜のことを信頼しているのだ。今はまだ葛藤しているけれど、すぐにこれが現実だと見極められるはずだと。

 永琳はほんのひと時の間、振り返って。

 

「一人の男を想い続けるってとこだけなら、輝夜は私よりもずっとずっと大先輩だもの」

 

 彼女の背中を苦笑で見送り、月見はその部屋へと足を踏み入れる。輝夜の部屋は、実に様々な置物たちで賑わっていた。恐らく、不老不死の退屈な日々を紛らわすために、手当たり次第に集めていったのだろう。足の踏み場が制限されるほど大層な量だったが、すべて統一感を意識して並べられているためか、霧雨魔法店のように汚い印象は受けない。部屋の一角に本棚があり、厳つい装丁をされた硬派な本が収まっていることを、月見はとても意外に思った。

 月見がそうやって部屋の中を見回す間も、輝夜はこちらをぼんやりと見つめたままだった。その目は月見を見ているようで、月見を見ていない。なんて顔してるんだよ、と月見は思わず笑ってしまいたくなった。けれど輝夜にこんな顔をさせている原因は自分なのだから、笑ってはいけないと思った。

 緩く吐息して、輝夜のすぐ目の前に腰を下ろす。

 目線を同じ高さに合わせて、掛けるのは、この言葉だった。

 

「――また、会えたな」

 

 輝夜の瞳が揺らいだ。それは命の揺らめきだった。言葉にならないたくさんの感情が、瞳の奥で、行き先を求めて懸命に駆け巡っていた。

 五つも六つも呼吸できる、長い間があった。輝夜は俯き、口元をくしゃくしゃにして、肩を震わせ、悲鳴を上げるみたいに息を吸って。

 けれどなによりも先に動いたのは、唇ではなく。

 

「――ッ!」

 

 鋭く空気の破裂する音が、己の頬を張られた音だと。月見がそれに気づくのは、視界が右に吹き飛んで、左の頬に炙るように熱い痛みが込み上がってきてからで。

 

「……痛いよ、輝夜」

 

 視線を前に戻すと、輝夜は張り詰めた顔をしていた。泣き出しそうになりながら、赤くなった自分の掌をじっと見つめていた。

 その手を握り、胸に引き寄せて。

 心の奥底まで、透き通る声で。

 

「あぁ――……、」

 

 あの一発の張り手から、輝夜がなにを感じ取ったのかはわからない。けれど彼女の心の隅々まで行き渡った感情は、やがてあふれる大きな涙となった。

 輝夜は泣いて、それでも、笑って。

 まっすぐに月見を見つめて、言うのだ。

 

「私は、もっと痛かった」

「……」

「もっと、苦しかった」

「……ああ」

「死んでしまいたいって。本気で思ったのよ」

「……でも、生きててよかっただろう?」

 

 今度は右だった。また視界が真横に吹き飛んで、右の頬が炎のようになる。

 

「……輝夜、痛いって」

 

 一発は覚悟していたが、まさか二度目まであるとは思っていなかった。きっと、右も左も真っ赤になっていたのだろう。月見の顔を見て、輝夜が小さく吹き出した。

 

「変な顔。カッコ悪い」

「いや、やったのはお前だからね?」

「そう。私よ」

 

 どこか誇るように言葉を置いて、輝夜がまた動いた。まさかまさかの三度目かと月見は思わず身構えたが、やってきたのは、熱でも痛みでもなかった。

 ふわりと、ほのかな、竹の香りがして。

 前から来た柔らかな衝撃に、月見はふいを衝かれて後ろに押し倒された。見上げる先にあるのは空でも天井でもない。黒真珠の色をした輝夜の瞳と、まっすぐに、目が合う。

 彼女の肩から、黒髪が一房、流れるように落ちて。

 瞳からこぼれた雫が、月見の頬に落ち、透明な線を引いて。

 

「ごめん。ちょっと、本気で泣くから」

 

 紡ぐ言葉は、強くしたたかだったが。

 代わりに新しい雫が、もう一度月見の頬を打った。

 

「だから、今のうちに言わせて」

 

 言いたい言葉はたくさんあったろう。けれど輝夜は、それをすべて声にすることをしなかった。

 次々落ちる涙を、拭おうともせず。

 ただ潤んだ声で、その小さな言葉の雫を、月見へと。

 

「――生きててくれて、ありがとう」

 

 そこから先は、もう言葉ではない。輝夜の胸の中にあるたくさんの言葉が、しかし言葉にならないまま、拙い泣き声として吐き出される。

 月見はなにも言わず、輝夜の体をそっと己の胸に引き寄せた。輝夜は己の体をすべてそこに預けて、振り切れた感情のまま、ただ泣きじゃくった。

 

 1300年越しの想いを、すべて涙に変えるまで。

 ずっと、ずっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 いくら相手が女とはいえ、胸の上に乗せたまま畳で仰向けになり続けていれば背中が痛くなる。輝夜の泣き声が収まったのは、ちょうど月見の背が痺れるような痛みを覚え始めた頃だった。

 すんすんと鼻をすすりながら体を起こし馬乗りになった輝夜を見上げて、苦笑する。

 

「どいてもらっていいかな。もう背中が痛くてね」

「……ん」

 

 少し鼻が詰まった声で返事をして、輝夜がゆっくりと月見の上から降りる。そして月見がよっこらせと起き上がれば、横からたちまち彼女に抱きつかれた。

 

「おいおい」

「……いいじゃない、もう少しくらい」

 

 背中に回った輝夜の手が、くしゃりと月見の服を掴む。大切な宝物を、もう二度と奪われまいとするかのように。

 月見はなにも言わず、今は輝夜の好きにさせることにした。彼女のこの手を払い除けるだけの権利は、今の自分にはないように思えた。

 

「……ねえ」

 

 まだ涙の気配が残る声で、ぽつりと問われる。

 

「どうして生きてるの? もう千年以上も、昔のことなのに」

「……どうしてだと思う?」

「知らないわよ。……まさか、本当は人間じゃなかったなんて言うわけでもないでしょ?」

「ハッハッハ、……それ正解」

 

 は? と輝夜の目が点になる。言葉で説明するよりも実際に見てもらった方が早いので、月見はその場で人化の法を解除した。

 ただ元の姿に戻るだけではなく、十一の尻尾まで、包み隠さずに。

 一瞬月見を包んだ光の粒子に、輝夜はおっかなびっくり身を引いたが。

 ほどなくして月見の体が完全に妖怪のものに戻ると、見ていて爽快なほど間抜けな顔をして、動かなくなったのだった。

 

「……というわけで、改めて名乗ろうか」

 

 黙ってて悪かったね、と小さく謝りながら、たくさんの尻尾をゆらりと揺らして。

 

「門倉銀山改め、月見。ただのしがないきづっ」

 

 名乗りの途中で、また頬をぶっ叩かれた。

 

「あ痛ー……」

「なっ、なっ、なっ……」

 

 輝夜は驚愕で全身をわななかせながら、痙攣する唇で必死になにかを言おうとしていた。だが結局はなんの言葉も見つけられないまま終わったようで、あとはただゆるゆると脱力しながら、再び月見の胸元に体を預けた。

 月見はそんな輝夜を抱きとめながら、また赤くなった頬に冗談めかした笑みを浮かべて言う。

 

「驚いてもらえてなによりだよ」

「……あー、うん。なんか驚きすぎて、逆に冷静だわ……」

 

 すっかり脱力しきった輝夜は、それから、バカ、と小さく笑う。

 噛み締めるように、もう一度、

 

「……バカ」

 

 月見は答えず、輝夜の小さな背中を撫でるように叩いた。

 

「なにか、質問は?」

 

 輝夜はもぞもぞ頭を動かす。

 

「今は、いい」

「そうか?」

「うん。あとでゆっくり聞かせてもらうから」

 

 だから、今は。

 

「今は、このままで」

「……」

 

 輝夜は月見の胸に一層体を摺り寄せて、そこからはもう、身動き一つしようとしなかった。

 彼女の縋るような体温を感じながら、月見は緩く息を吐いて、考える。

 月見は一般的な男性ほど、恋愛事に関して熱心になっているわけではないし、自分みたいに日々を好き勝手に生きているようなやつには、恋人や伴侶などといった存在はいない方がよいのだとも思っている。それはきっと、相手を悲しませてしまうだけだから。たといそういった存在ができたとしても、月見は自分の好きなように生きることをやめはしないのだから。

 輝夜はきっと、月見にずっと傍にいてほしいと願うだろう。けれど月見はその束縛を厭い、自分勝手なほど気ままに世界中を歩くだろう。

 だから月見は、輝夜の背を何度か叩いて。

 

「輝夜。お前は男を見る目がないよ」

「あら、そんなのそっちだって同じじゃない」

 

 そう言うのに、まるで予想していたかのように鮮やかに切り返される。輝夜は月見の胸元から顔を上げると、意地悪そうに口端を曲げて、

 

「女運が最悪だわ。私みたいな執念深い女に好かれるんだもの」

 

 月見の脳裏を一瞬、妖怪の賢者やら鬼子母神やらと呼ばれる少女の姿が掠めて、それはありえるかもなあと渋い気持ちになった。

 その反応に、輝夜は満足げに笑みを深める。

 

「覚悟してよね――」

 

 紡ぐ言葉は、宣戦布告をするように、強く、大胆に。

 

「あなたのいなかった今までが、全然、大したことなかったって思えるくらいに」

 

 それは千年以上もの間、絶望に暮れても変わることがなかった、一つの想い。

 

「――あなたのこと、もっともっと、好きになるから」

「……」

 

 この言葉を向けられる先が自分であることを、月見はつくづく、数奇な運命だと思うのだ。何千年と生きてきた己の歴史の、たった数年間をあの場所であのように生きたのは、ほんの出来心でしかなかった。

 なにもあの時でなければいけなかったのではない。なにもあの場所でなければいけなかったのではない。なにも、あのように生きなければいけなかったのではない。

 だが月見は、あの時に、あの場所を、あのように生きて。そうして、輝夜と出会った。

 それは、単なる出来心が生んだ偶然で済ませてしまって、よいのだろうか。

 

「参ったなあ。……どうなっても知らないよ」

 

 天井を振り仰ぎながら言うと、構いやしないわ、と輝夜は強くほころぶ。

 

「あなたがいなくなった時のことを思い出せば、今更怖がるようなものなんてないもの。……だから、うん、お生憎様」

 

 ある意味では、獰猛な、とも表現できる、月見が初めて見る輝夜の笑顔だった。

 

「『どうなっても知らないよ』なんて、こっちのセリフ」

 

 婉然と目を細めて、熱っぽくなった指を、そうっと月見の胸元に這わせて。たったそれだけのことで、目眩がするほどの強い色香が香る。

 竹の花の香りとともに、輝夜は言葉で、月見の胸を叩く。

 

「――私の恋、バカにしないでよ?」

「……ハハッ」

 

 つくづく――つくづく、月見は思う。恋をする女はどうしてここまで強く、ここまで美しく、そしてここまで恐ろしいのだろうか。その姿も、一挙一投足も、言葉も、息遣いまでも、すべてが鮮烈で、強烈で、月見は情けないことに、乾いた笑いを一つこぼすことしかできなかった。

 

「よし、そうと決まったらいつまでもこうしちゃいられないわね。ほら、着替えるからちょっと出て行ってくれない?」

「……はいはい」

 

 立ち上がり踵を返すと、その背に、輝夜から取ってつけたように声を掛けられる。

 

「見たいんだったら別にいてもいいわよ?」

 

 月見は振り返らず、ひらひらと片手だけを振って、まっすぐに輝夜の部屋をあとにした。

 襖を静かに閉め、天井を見上げて、ゆっくりと長く息を吐く。輝夜の言葉が、まだ残響のように耳に残っている。あなたのこと、もっともっと、好きになる。廊下の奥から歩いてくる永琳の姿が見えなければ、月見はいつまでもそこに突っ立ったままだったかもしれない。

 

「話は終わった?」

「……ああ」

 

 静かな問いに、月見もまた静かに答えた。

 

「感想は?」

 

 永琳は、結果は、とは訊いてこなかった。訊くまでもないことだと、わかっているから。

 月見は肩を竦め、苦笑する。

 

「ほんと、参ったよ」

「……そう」

 

 簡潔すぎる感想だったが、それでも永琳にはなにもかも伝わったらしい。月見の肩越しに襖の向こう側を見つめて、莞爾(かんじ)と笑った。

 

「それじゃ、そろそろ昼食にしましょうか。……もちろん、食べていくでしょう?」

「……」

 

 もちろんもなにも、再会が済んだからといってこのまま帰れるはずもない。

 

「そうだね……」

 

 少しの間考えてから、こう言った。

 

「――なにか、冷たいものがいいかな」

 

 とりあえず、この嫌に火照ってしまった体を、冷ましたかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 着替えを終えた輝夜は、部屋を飛び出して広間へと走る。着物の裾を何度も踏んでしまいそうになりながら、それでもできる限り速く、速く、自身が一本の矢のように。

 なぜなら、そこに彼がいるから。今や思い出の中でしか会えなかったはずの彼が、そこで生きているのだから。

 そうして広間へと飛び込んだ輝夜は、他の誰よりもまず先に彼を見つけて。

 きっと、月光のように笑うだろう。

 

「――ギン!」

 

 永遠(とわ)に等しく恋うたその名を、この世のなによりも愛おしく、音へと変えて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 竹取物語――了。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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