銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第2話 「フットルース・ステップ ②」

 

 

 

 

 

 すっかり背を高くした太陽が、昼の訪れを告げていた。

 

 繁る木々は、南中の太陽と競うかのように精一杯背伸びをして、足元に涼しい木陰を落としている。そしてその間を縫うように蛇行し、妖怪の山の山道は伸びていた。

 広い山道だ。山を登る標として最も多くの者が行き交うこの場所は、急な段差には階段が据えられ、崖際では転落防止のロープが張られるなど、整備の手が入り込んでいる。妖怪はもちろん、体力があれば人間だって難なく進んでいける作りだった。

 

 その山道の麓に近い登り始め、木々の深みもまだ青い地点で、道の外れで伸びる大木の枝に腰掛け、ぶらぶらと両足を遊ばせている人影がある。

 暗い赤色のドレスに、胸元まで届く大きなリボンのヘッドドレス。白塗りの肌とエメラルドグリーンの髪はどことなく浮世離れしていて、等身大の人形が動いていると、そんな印象を見る者に与える少女。

 彼女――鍵山雛は、陽気に微睡んだ瞳で、ぼんやりと山道を見下ろしていた。

 

「ん……今日は、特に変な人もいないわね」

 

 妖怪の山は幻想郷で最も多くの妖怪が住まう場所であり、故に、指折りの危険区域でもある。とりわけ仲間意識が強い天狗たちが主導しているため、外部からの侵入者には一倍敏感だからだ。

 そのことはある程度以上に周知であれ、知っていながらも道に迷って入り込んできてしまう人間や妖怪は多い。そんな者たちが不用意な行動で天狗たちを怒らせたりしないように、またそのせいで捕らえられたりしてしまわないように忠告を行い、必要ならお引き取り願うよう(物理的な意味も含めて)交渉するのが、雛のささやかな日課だった。

 

「退屈……」

 

 けれども陽気が満ち満ちる春の昼、見下ろす先を通り過ぎる人影はない。たださわさわとそよ風が森を撫でる音だけが鳴っていて、至って平和な昼模様。歓迎すべき退屈だと、雛は微笑んだ。

 

「……そろそろ、お昼ご飯にしようかしら」

 

 呟き、雛は枝から宙へ身を躍らせた。陽光が高い位置から注ぐ。エメラルドグリーンの髪は光沢を増し、ドレスは一層その色を深め――もう一つ、雛の周囲をゆったりとした動きで回る、淀んだ霧状の物体が(あらわ)になった。雛が人間たちから集めた厄の塊だ。

 雛の表情がかすかに曇る。

 

「たまには、誰かと一緒にご飯を食べたりしてみたいなあ……」

 

 雛は、厄神だ。厄を集め人々を不幸から遠ざけるため、ありがたい神様だと名前だけは慕われているものの、一方で集めた厄により周囲の者たちを不幸にしてしまうせいで、存在自体は敬遠されている。

 そんな雛には、親しく食事するような友人はいない。顔見知り程度の知人なら何人もいるが、それだけだ。

 雛は厄神として生まれてから随分と長くになるから、今となっては慣れたものだけれど、それでもなんの寂しさも感じないほど鈍感な心を持っているわけでもなかった。やっぱり、誰かと一緒に笑いながら食事をする光景には、憧れてしまう。

 それは、厄神として過ぎた願望だろうか。

 

「……って、いけないいけない。なにしんみりになってるのよ」

 

 雛は厄神で、厄神は厄を集める。そうすることで、間違いなく人々が不幸から離れ、穏やかな生活を送ることができるのだ。

 ――だったらちょっとくらい寂しくたって、どうってことない。

 雛はぶんぶんと頭を振って、感じていた寂しさを振り払った。そうして、昼食を食べたらまたみんなのために厄を集めるんだと強く思い、早く帰ろうと、家に向けてまっすぐ飛んでいこうとした。

 

「――おや。これはまた、随分といい道じゃないか」

 

 直後のことだ。そんな独り言が聞こえてきて、雛はハッと眼下を見下ろした。見慣れない男が一人、いつの間にか山道をのんべんだらりと進んでいる。

 白の狩衣(かりぎぬ)に身を包んだ、銀の毛を持つ妖狐であった。その毛並みは一度見れば記憶の片隅に刻まれるであろうほどに印象的で、事実雛の記憶にもそう刻まれた。けれどそれは同時に、雛が彼を初めて見るということであり、ならば山の外から来た部外者である可能性が高い。

 雛は飛ぶ行き先を家の方向から眼下へと変え、ドレスの裾を翻し颯爽と、彼の行く手を遮った。

 

「ちょっと待ってくれるかしら?」

「ん?」

 

 こちらの制止の呼び掛けに、彼は少しだけ驚いたように目を開いて歩みを止めた。

 互いの距離は五メートルほど、差し向かって話をするには少し遠いかもしれない。けれど雛にとっては、むしろ近すぎるくらいだった。これ以上近づくと周囲を回る厄がすぐにでも彼を不幸にしてしまうから、普通に話ができる距離と、厄がなるべく影響を及ぼさない距離、その二つの折衷点だ。

 雛は、彼に不用意に近づいてくる様子がないことを確認し、問う。

 

「この山に、一体なんの用かしら?」

「用と言われても……ただ山登りをしようと思っただけだが」

「山登り?」

 

 男の返答が一瞬理解できず、雛は眉をひそめた。山登り。そんな月並みな理由でこの危険地帯に分け入ろうなどという酔狂な者には、久方振りに出会う。

 

「……あなた、ここがどこだかわかってる?」

「妖怪の山だろう?」

 

 それがどうかしたのか? とでも言うかのような即答に、思わず閉口した。雛には、この狐がなにを考えているのかわからなかった。山登りできるような山は他にいくつもあるはずなのに、なんでよりによって、天狗たちの縄張りであるこの山に入り込もうとするのか。天狗たちは縄張り意識が強くて、無断で立ち入って怒らせればとてつもなく面倒なことになる。幻想郷に住んでいる妖怪ならば、知らない者などいないはずなのに。

 妖狐の尻尾の本数は一、佇まいものんびりとしていて締まりがないし、とても強そうには見えない。山登りをしたところで、天狗たちにボロボロにされて追い返されるのが落ちだとしか思えなかった。

 

「……あなたは、自分がなにをしようとしてるのかわかってるの?」

「うん……? なにか変なことでも言っているか?」

 

 しかも自覚はなしだ。いよいよもって呆れてくる。気がついたら大きなため息がこぼれ落ちていた。

 

「一応忠告するけど、やめておいた方がいいわよ? この山は、幻想郷でも指折りに危険な場所なんだから」

「まあ、確かにそうかもしれないね」

「……そこまでわかってるなら、どうして登ろうとするのよ?」

「なに、山の頂上に外の世界から神社がやって来たという話だ。ちょっと見に行ってみようと思ってね」

 

 雛の脳裏に、博麗霊夢と霧雨魔理沙の姿が浮かんだ。去年の秋に彼女らもそんな理由から山に分け入って、親切心で引き留めようとしたこちらを弾幕で蹴散らしてくれたものだ。今思い出してもひどい話だと思うけれど、同時に二人の実力が、山に入っても大丈夫なほど確かだったのも事実。

 では、この狐はどうなのだろうか。あの二人と同じように、確かな実力を以て進もうとしているのか? ……それを知るには、実際に闘ってみるしかない。

 仕方ないわね、と雛は再度吐息した。まあ、ちょうどしんみりしていたところだったし、気分転換で弾幕ごっこに興じるのも悪くはないだろう。

 

「それじゃあ、この山に入っても大丈夫な実力があるのかどうか、私が弾幕ごっこで見てあげるわ。スペルカードは……三枚くらいでいいでしょ」

 

 雛はスペルカードを抜いて、改めて男と対峙した。「ほら、早くしなさいな」促す。けれど男は、まるでこちらの言葉をちっとも理解できていないかのように、不思議そうに首を傾げて押し黙っていた。

 雛もまた眉をひそめた。まさかスペルカードルールを知らないわけではあるまい。もしかして、スペルカードを持っていないのだろうか。

 

「どうしたの? まさか、スペルカードを持っていないとか?」

「ん? ああ、いやね……」

 

 歯切れの悪い返答。男は腕を組んで、更に数秒沈黙した。

 胡乱げな静寂が満ちる中、やがて窺うような声音で問いが来る。

 

「弾幕ごっことかスペルカードとか、一体なんのことだ?」

「……はあ?」

 

 その、まさか。よもやとは思ったが、どうやらこの男、スペルカードはおろか弾幕ごっこすら知らないらしい。ありえない。雛が思わず漏らした声は、素っ頓狂なまでに上擦ってしまっていた。

 弾幕ごっこ。スペルカードルール。今や幻想郷で一世を風靡している、最もポピュラーな決闘方式ではないか。そのへんの名もない妖精ですら理解して楽しんでいるようなシステムを、この狐は知らない? どこの田舎者よ、と雛はあんぐり口を開けたまま絶句した。

 男はすまなそうに苦笑する。

 

「いや、悪いけど……本当に知らないんだ」

「……呆れた。弾幕ごっこを知らないなんて、あなたどこの田舎者よ」

「ッハハハ! いや、申し訳ない」

 

 そして今度は、なにが面白いのか大笑いまで。全然笑い事じゃないんだけど、と雛は冷たい半目で男を睨んだ。

 豪放な性格なのだろう、男はなおも悪びれる様子なくくつくつと喉を鳴らし、同時にその目に好奇心めいた、若く光る眼光を宿した。

 

「で、なんなんだ、その弾幕ごっことかいうのは。よければ教えてくれないかな?」

「……神社に行きたいんじゃなかったの?」

「それはそうなんだが、今はこっちの方が面白そうだ」

「……」

 

 変な妖怪、と雛は割かし本気で思う。銀の毛を持つ特徴的な出で立ちで、妖怪の山に大した理由もなく入り込もうとするような呑気者で、スペルカードルールも知らないような世間知らずで、成年の相貌に反し、少年のようにあっさりと興味の対象を変える。こうして話せば話すほど、毒気を抜かれて脱力していくばかりだ。なんかもう、このままここを素通りさせてしまっても、案外問題ないんじゃないだろうか。

 

「そのへんに座りながら教えてもらえるとありがたいよ」

「……」

 

 確かに、スペルカードルールも知らないような相手と弾幕ごっこなんてできるはずもない。完全な肩透かしに、どうしたものかなあ、と雛は肩を落とした。

 別にスペルカードルールについて教えてやることは問題ないし、暇潰しにもなるだろう。けれど雛は、了承の言葉を返すのを躊躇っていた。

 彼のことを疑っているわけではない。彼が悪い妖怪でないことは、今までの締まりのない会話から既に察した。その上で、話をしたいと言ってもらえることもそれなりに嬉しかった。雛にとっては、誰かと二人で話をするということすらも稀少なことなのだから。

 そしてだからこそ、躊躇う。

 ――私は、厄神だから。

 周囲を回るこの厄のせいで不幸な目に遭わせてしまうのは、忍びない。

 

「まあ……弾幕ごっこのことなら、私以外に教えてもらうといいわ。誰でも知ってるようなことだし。ここも好きに通ってくれて構わないから。ただ、天狗には気をつけてね」

「うん……? ひょっとして、都合が悪かったか?」

 

 むしろ雛は、どうして彼がこちらから話を聞こうとしているのかがわからなかった。好き好んで厄神と雑談しようとするやつなんているはずがないのに、もしかして彼はこちらが厄神だと気づいていないのだろうか。

 

「……あなた、私がなんの神だかわかってる?」

「厄神だろう? お前の周りを、クルクルと、厄が回ってる」

 

 ――そこまでわかってるなら、どうして?

 

「もしかして、不幸な目に遭いたいの? こっそりマゾ気質?」

「……いや、そんなこと訊かれても困ってしまうんだけどね」

「冗談よ」

 

 しかし、不幸な目に遭いたいわけではないのだとしたら、いよいよこちらと話をしようとする理由がわからなくなる。雛と彼の間にはある程度距離があるが、この間隔でも、長く共にいれば厄が悪影響を及ぼしかねないのだ。弾幕ごっこがなにかなんてそのへんの妖精に訊いても教えてもらえることだし、さっさと先に行くか引き返すかなりすればいいのに。

 

「なのになんであなたは、私と話をしようとするのよ。……私と一緒にいると、不幸になるのに」

 

 呟いた言葉には、彼を責めるような色が浮かんでしまっていた。それを自覚して、雛はハッと視線を俯かせる。……たとえ出会ったばかりの相手でも、話をしたいと言ってもらえたことは素直に嬉しかったはずなのに。

 気まずい沈黙が落ちた。彼が困ったように息を吐いた音が聞こえる。

 

「誰かと一緒に話をするのは、嫌いか?」

 

 そんなことはない。むしろ一度くらいは、誰かと友達みたいに気を置かずに話をしてみたいと思う。

 ただ、

 

「それで誰かを不幸にするわけにも、いかないでしょ……」

 

 自分の幸せのために他人を不幸にするだなんて、雛にはとても耐えられないことだった。だから厄神として周囲から敬遠されることを受け入れて、できる限り他人に関わらないで生きてきたのだ。

 こうして彼と向かい合うのにも、限界が近づいてきていた。周囲を回っていた厄は次第に雛のもとを離れ、彼の方へと流れ始めてきている。これ以上の長話はもはや危険だ。

 

「……行きなさいな。これ以上長居すると、不幸になっちゃうから」

「……そうか」

 

 落胆したような声色。雛の心の奥が鈍く傷んだ。ああ、この人は本当に私と話をしようとしてたんだな、とわかったから。

 おかしなやつだ、と思う。……でもそこには、決して不快感はない。

 

「……」

 

 きっと彼は、お人好しな妖怪なんだろう。初めは疑ってかかったけれど、結果的に言えば、こうして彼と短い間でも話ができたのは、悪くない体験だったかもしれない。

 だから雛は、彼に移り始めようとする厄たちに待ってと祈りながら、言葉を紡いだ。

 顔を上げ、正面から彼を見据える。

 

「名前、言ってなかったわね。私は鍵山雛。知っての通り、厄神よ」

 

 願わくは、会えば少し話をするくらいの関係にはなれるだろうかと、そう思いながら。

 目の前で、彼が小さく笑った。確かにそうだな、と呟きながら頭をかいて、

 

「自己紹介がまだだったね。私は――」

 

 ――雛が瞠目したのは、直後。

 

 突然、彼の背後の空間が裂けた。赤黒く塗り潰された空隙(くうげき)、その奥に浮かぶ数多の眼球が、ギョロリと一斉に彼の背中を()めつける。

 雛は、この現象の名前を知っている。『妖怪の賢者』と畏怖されるある妖怪が使う、『スキマ』と呼ばれる異次元空間。

 スキマの奥から、彼女がやって来る。

 その顔貌に、獲物を捉えた狩人を思わせる、怖気立つ笑顔を貼り付けて。

 

「見つけた――!」

 

 幻想郷最強格の大妖怪――八雲紫。

 

「ッ、逃」

 

 逃げて。そう叫ぶ時間すら、雛には許されなかった。

 息を呑んだその瞬間には、彼は既にスキマに呑み込まれて、跡形もなく消えてしまっていたのだから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ほのかに苔の匂いがした。

 

 背中に走る鈍い痛みに呻きながら目を開けると、深山幽谷が世界を彩った。大の字で倒れて、空を見上げている体勢だ。見上げる視界の四囲を春紅葉の葉が鮮やかな朱で彩り、耳には小川のせせらぎが届く。苔の匂いが混じった空気はとても澄んでいて、呼吸するたびに体中を洗われるような気がした。

 

 彼はゆっくりと頭をもたげ、重みを感じる己の腹部を見やる。見覚えのある帽子の少女が、横から覆い被さってこちらの腹に顔を埋めていた。

 

「……」

 

 彼はため息をつき、少女がいることも構わず強引に上半身を起こす。あん、と腹にあった少女の頭がクルリと半回転、膝の上まで転がって――一体何年振りになるのか、彼女の満面の笑顔が、見えた。

 パッチリと開いた紫紺の瞳が、掛かる金髪に一瞬も負けることなく嬉々とした光を放っている。これほど眩しい笑顔を見せる子も他にいまいと、彼は静かに目を細めた。

 

「久し振りだね、紫」

 

 少女――八雲紫の笑顔が、一層輝きを増す。ハア、と大きく深く息を吐いて、それから紡がれた言葉は、

 

 

「うふふふ久し振りの再会と同時に膝枕! これは長い間離れていたことが逆にお互いの気持ちを強くしたっていう典型的な遠距離恋愛の結っあああああ冗談ですだからいきなり立ち上がらないでー!? ちょ、待」

 

 

 彼は無視して立ち上がった。

 ゴツン、と紫の頭が地面に落ちる。

 

「いったあああ~い……」

「……まったく相変わらずだなお前は。懐かしいったらありゃしない」

 

 冷ややかな半目で見下ろすも、紫はまったくめげることなくすぐに立ち上がって、また屈託ない笑顔でほころんだ。

 

「当たり前でしょ? ずっと、ずっと待ってたんだから!」

 

 一息、

 

「――おかえりなさい、月見!」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 スキマでさらった銀の妖狐は、名を月見(つくみ)という。少なくとも紫にとっては、幽々子や萃香、藍と同様、何者にも代えることができない大切な存在だ。

 

「藍、らーん! お茶を用意しなさい、三人分よ!」

「わかりました! 待っていてくださいね月見様、すぐに持ってきますからっ!」

「ああ、こぼさないように気をつけてね」

 

 春紅葉彩る深山の一角に建てられた日本屋敷。幻想郷とは少しズレた境界に存在するそこは、今や500年振りとなる月見の帰還に大いに湧いていた。住んでいるのは紫と藍の二人だけだが、両者がバタバタと足を踏み鳴らす音で、まるで何人もの住人が行き交っているかのように騒がしい。

 

「ああ、待ってて月見! そういえば私の部屋が散らかってるままだから、みんなスキマに突っ込んでくるわ!」

「別に見に行ったりはしないよ。だからその、とりあえずスキマに突っ込めばいいかみたいな考え方はやめなさい」

 

 月見を屋敷の中に案内しながら、ちょっとテンション上がっちゃってるな、と紫は思う。けれど仕方ない。紫にとって、月見の幻想郷への帰還はそれほどにまで喜ばしいことなのだ。

 ……ちょうど、今朝に彼と出会った頃の夢を見たばかり。彼に会えたという一点において、正夢ってあるんだなと淡く感嘆した。

 

 紫が月見と出会ったのは、今からもう千年以上前のことだ。今でも鮮明に覚えている。妖怪と人間が共生できる世界を夢想して、毎日人間たちの生活を覗き見していた時に見つけた、人間たちと一緒に生きる彼の姿。

 あの姿を見て、妖怪でも人間と一緒に生活できるんだと思って、だからこの幻想郷を創ろうと本気で決心したのだ。云わば月見は、幻想郷の間接的な生みの親だと言っていい。

 

「じゃあ、はいどうぞ! ゆっくり寛いでいって!」

 

 居間の襖を開け放ち、声高に月見を迎え入れる。はいはいとのんびり歩調で応じる彼が焦れったくて、背中をぐいぐい押して急かした。

 

「ほら、早く早くっ」

「おいおい、別に逃げやしないって」

「い、い、か、らっ。早く座ってお話しましょ!」

「はいはい、まったく……」

 

 月見は苦笑しながらも、少しだけ歩調を速めてくれた。一緒に畳を踏む感覚。それすらも、今の紫にはこの上なく喜ばしい。

 紫は彼をテーブルの前に座らせ、すぐに自分もその向かい側に回った。膝立ちのままテーブルを叩いて、

 

「改めて、おかえりなさい月見!」

「はいはい、ただいまただいま」

 

 返ってきたのは、呆れているようなぞんざいな返答。けれど、紫の頬には自然と笑顔が浮かんでいた。だって、こうして話ができるんだから。

 

「500年も、一体なにしてたのよ?」

「いや、普通に外の世界を歩いてただけだよ」

「連絡くらいしてくれてもよかったのに。心配してたのよ?」

「それはあれだ……ほら、『また今度でいいか』と思ってる内に、気がついたらっていう」

「バカ」

「いやいや、すまなかったな」

 

 耳に優しいバリトンの声音。斜に構えない恬然とした佇まい。鷹揚とした所作も、それに合わせてかすかに揺れる銀髪も、隅々に至るまで全てが心地よい。

 500年振りに再会できた今だからこそ改めて思い知るが、どうやら自分は、彼に相当参ってしまっているようだ。具体的にいつからだったのかは覚えていない。人間との共生を望む思想に共感して何度か接触している内に、気がついたら惹かれ始めていて……そして500年ほど会えない日々が続いて、その気持ちは更に強まっていたらしい。そう、典型的な遠距離恋愛の結果だ。

 願わくは月見もそうならいいなと思うが、

 

「やはり外の世界は面白いね。はたと気がついた時には、既に数百年も経ってしまっていたよ」

 

 白い歯を見せてそう無邪気に報告してくるあたり、残念ながら変わりないようだ。恋愛事にはあまり関心がなくて、とかく自分が興味を持ったものの方に転がっていく、好奇心旺盛、花より団子な性格。唯一救いなのは、どこかの古道具屋の店主とは違って、鈍感ではないことだろうか。……あの幼い白黒魔法使いには、割と本気で同情する。

 

「月見様、お待たせしましたっ」

 

 と、お盆の上に湯呑みを乗せた藍が、早歩きで居間に戻ってきた。紫は彼女の九尾がパタパタと落ち着きなく揺れているのに気づいて、藍も嬉しいんだな、と笑みをこぼす。

 しかし、

 

「どうぞ」

「ああ、ありがとう」

「……あれ?」

 

 藍が持ってきた湯呑みはどういうわけか二つだけ。そして彼女は、一つを月見に差し出し、残る一つを自分の手前に置いた。……三人分準備しろと言っていたはずだが、さて、紫の分の湯呑みはどこにあるのだろう。

 

「……ねえ藍、私の分は?」

「え?」

 

 それを問うと、藍はなぜそんなことを訊くのかという風にきょとんを目を丸くしていたが、自分の手元、月見の手元、紫の手元とを順々に見回して、数秒、弾かれたように腰を上げた。

 

「――あっ! も、申し訳ありません、忘れてました!」

「……ねえ、主人である私を忘れるってどういうこと? ちょっと説明してくれない?」

「も、ももも申し訳ありませんすぐに持ってきますね失礼しますっ!」

 

 深々頭を下げ、バタバタ騒がしく足を踏み鳴らしながら居間を飛び出していく。お茶を持ってくるという口実のもと、こちらから逃げ出すかのようでもあった。

 まったく、と紫は嘆息。藍は普段は優秀な式神だが、たまにああやって抜ける一面を見せることがあるから困り者だ。月見が帰ってきて浮き足立つのはわかるが、まさかそれで主人の存在を見落とそうとは、紫も出鼻を挫かれたような気分になってしまう。

 

「もー、藍ったら……」

「ッハハハ。藍も変わりないようだな」

 

 藍が出て行った方を見遣りながら、月見が呑気に喉を鳴らした。その笑顔は、紫の記憶にあるものとなに一つ変わってはいない。変わっていないのは彼も同じだ。

 朗笑に耳を撫でられ、紫の心が静かに落ち着きを取り戻す。吐息を置いてから、問うた。

 

「それで月見、あなたこれからどうするつもり?」

「うん?」

「うん? じゃないわよ。まさかまたすぐ外に行っちゃうなんて言わないわよねそんなのダメよずっとここにいなさいはいホールドッホールドッ。もう逃げられませんー」

 

 紫は目の前と月見の背後をスキマでつなぎ、両腕を突っ込んで彼の首を後ろからホールド。

 

「ぐおおっ。こらこら、子どもみたいなことはよせっ」

「子どもで結構ですー。とにかく逃がさないからね!」

「まったく……」

 

 月見が大きなため息をこぼすも、それはこちらの行動を嫌がっているのではなく、感じる昔懐かしさに心浸すような爽やかなもの。口元には淡く笑みの影が覗いている。紫はそれが嬉しくて、腕により一層の力と想いを込めた。

 

「いててっ、おい紫、強い強いっ。すぐ出て行ったりはしないから放してくれっ」

「本当ねっ? 嘘だったらほら、こうやって月見の耳をもふも――あいたっ」

「調子に乗るな」

「……ふふ」

 

 本当に懐かしくて、心地よい。だから紫は、訊くことができなかった。

 すぐには出て行ったりしない。――じゃあ、いつまでここにいるの? と。

 

 少し前に幽々子がそう言ったように、月見は幻想郷よりも、外の世界で生きることを好む妖怪だ。それは紫も、悔しいけれど理解している。

 だから、今彼が幻想郷に戻ってきたのはほんの気まぐれみたいなもので、またいつか外の世界に出て行こうとするのだろう。それくらいのことは簡単に予想できた。

 では、それはいつなのか? ――紫は、月見に問うことができない。答えを聞くのが怖いから。それに、問うたら彼が出て行くのを認めてしまうようで、嫌だったから。

 

 故に紫は思う。また幻想郷に住もうと思うくらいに、この世界の楽しいところを感じてもらえばいいんだと。500年前と比べて、幻想郷にはたくさんの妖怪が集まり、たくさんの文化ができた。昔よりもずっとずっと、楽しい場所になった。それを見せつけてやればいいんだ。

 

「ねえ月見。あなた、あの時妖怪の山に登ろうとしてたみたいだけど、どこに行こうとしてたの? 天狗たちのところ?」

「ああ、あそこに外の世界から神社がやって来たっていうから……私が昔ここで生活してた時にはなかったものだからね。とりあえず見に行ってみようかと」

「いいわよ! 他にもあなたがいない間に変わったところはたっくさんあるんだから、存分に見て回って! そうね、その神社以外だったら例えば――」

 

 そして願わくは、彼がいつまでも隣にいてくれるようにと。

 紫はそれからずっと、日が西に大きく傾き始めるまで、月見があまりの勢いに面食らうことも構わずに。

 そして藍が戻ってきてからは、彼女と一緒に更に勢いを上げて。

 幻想郷の面白そうな場所を、一生懸命に話し続けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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