「――すまない。もう一回言ってくれるかい」
たとえ日本指折りの年寄り妖怪といえども妖獣である、決して耳は悪くない。聞こえなかったわけではない。聞こえた上で月見ははっきりとそう訊き返した。
聞こえた上で訊き返すのは、相手の言った意味が理解できなかったからだ。
「はい! 昨日お約束いただいた通り……このたび多々良小傘、お師匠の正式な弟子として推参いたしましたっ!」
「……」
まったく意味がわからない。
水月苑の玄関口で、元気ハツラツな敬礼をしながら立っているのは多々良小傘である。月見の弟子になることを夢見てしっちゃかめっちゃか東奔西走、どんな困難があっても諦めない情熱あふれる少女の名だ。今となっては日頃から水月苑に押しかけてくる常連客の一人――なのだが、今日はどうもその攻め口を変えてきたらしい。
弟子にしてください、ではなく、弟子として参りました、ときた。
「えへへ……私、今日が楽しみであんまり眠れませんでしたっ。弟子にとってくださってありがとうございます!」
「…………」
これは、問答無用で弟子として振る舞うことで、なし崩し的に諦めさせる魂胆か――そう考えた。しかし、そんなやり方をこの少女が思いつくものかと疑問が浮かぶ。多々良小傘は、いい意味でも悪い意味でもまっすぐで純真な少女だ。こんな強引なやり方を閃くとは思えないし、仮に閃いたとしても、良心が邪魔してとても実行などできないのではないか。
なにかがおかしい。
そこでふと引っかかる。先ほど小傘が言った、「昨日お約束いただいた」という部分。
昨日といえば、マミゾウが月見に化けてこの近辺をうろついていたという話ではないか。ちょうど今日の朝、宴会から一夜明けた彼女が半ベソをかきながら走り去っていったばかりである。月見はとてつもなく嫌な予感がしながら、
「なあ、小傘」
「はい、なんでしょうっ」
「おまえは昨日、私と会ったんだね」
その問いを小傘はなんら不思議に思うことなく、はきはきと元気よく答えてくれる。
「はい! お会いしました!」
「いつ頃、どこで会ったんだったかな」
「えっと……お昼頃、この山をもう少し登っていったところです!」
――あの狸、やってくれたな。
昨日の月見は朝から日が暮れるまで永遠亭にいたので、昼頃にこの山をうろついていたわけがない。ならば月見以外の何者かが、月見の恰好をして小傘を
月見は緩くため息をついた。被害に遭った者たちへは紫が事情を説明してくれたはずなのだが、悲しいかなこの少女は忘れられてしまったらしい。小傘らしいといえば、小傘らしい。
「……あー、小傘」
「はいっ」
月見の弟子になれたとなにひとつ疑っていない、感謝と尊敬の眼差しが月見の良心に刺さる。
月見は少し、考えて。
「……ええとね、ひとまず案内したいところがあるんだ。ついてきてくれないかな」
「わかりましたっ。どこへでもお供いたしますとも!」
ここで月見があれこれ言うより、
多々良小傘は大変思い込みが激しく、一度走り出すと止まらない。
とうとう月見の弟子になれたと信じて疑わない彼女を、はてさてどうやって諦めさせたものか。天を振り仰ぐ月見の心中など露も知らず、小傘は「早速修行でしょうかっ。あっいえいえ行く先は教えてくださらずとも大丈夫です、どこであろうとついてゆくのが弟子の務めですから!」と終始うきうきしていた。
頭が、痛かった。
○
なにもない土地に本堂ひとつから始まった命蓮寺だが、冬から春へひとつ季節が巡ると、誰がやってきても恥ずかしくないいっぱしの寺院として完成した。
白蓮を慕う妖怪たちが技術の粋を尽くして築きあげた山門はもちろん、そこへ至るまでの道では、お地蔵様たちが参詣客を見守るようにもなった。一人ひとりに季節の花々が供えられ、ほのかに線香の香りが漂うのは里からの信仰が篤い証拠だ。このまえ水月苑に来た映姫が、あそこはよい場所ですね、誰かとは違って地蔵を丁重に扱っています、とイヤミを言ってきたのを思い出す。
そんな身なりのいいお地蔵様たちに見送られながら山門をくぐると、ちょうど白蓮が境内を歩いていた。これ幸いに月見は声を掛ける。
「白蓮」
「あ、月見さん。こんにちは」
「ああ、こんにちは」
白蓮は全身をゆったりと覆う法衣姿で、首からは玉の大きな深緑色の数珠を提げていた。寺院として必要な服や仏具もひと通り揃って、すっかり住職らしい恰好ができるようになった白蓮だった。そのためか命蓮寺の住職として活動するときは、おおむねこうして正装をする場合が多くなっていた。
なお余談ではあるが、法衣を着ると体の起伏が全体的に隠れてしまうため、一部の信者からは非常に残念がられているらしい。煩悩まみれな話である。
「小傘さんも、こんにちは」
「こんにちはですっ!」
月見と交流のある妖怪は、今やそのほとんどが白蓮にとっても顔見知りだ。敬礼する小傘と親しげに挨拶を交わし、
「聞いてください白蓮さんっ。私、ついにお師匠の弟子になれたんです!」
「え……まあ、そうなんですか?」
まったくもって違うと断固否定したい。しかしここで否定すれば騒がれるだけとわかりきっているので、今は適当に言葉を濁す他ない。
「ちょっとその件でね、マミゾウを捜してるんだ。今はいるかな」
「あ、はい。いらっしゃいますよ。どうぞこちらへ」
白蓮に案内されながら、ついでではあるが命蓮寺の住人たちと挨拶をする。一輪と雲山は庭の水遣り、星は本堂の掃除をしていて、水蜜は買い出し、ナズーリンは無縁塚に行っており留守だった。ぬえが星に引っ張られて、本堂の掃除を渋々と手伝わされている。果たして彼女は、修行を通して妖怪の威厳を取り戻すことができるのだろうが。
そうして僧堂の一室で待たせてもらうこと数分、マミゾウがのしのしと機嫌の悪い足音でやってきた。部屋に入ってくるなり不愛想に顔をしかめて、
「なんの用じゃ。昨日の今日で、早速儂の傷口に塩を塗りに来おったんか」
「ちゃんと用があってきたんだよ」
妖怪寺とはいえ一応は里の中だからか、マミゾウは腰まで届く髪をゆるく結わえて人間に化けている。月見を見て、それから小傘を見て少し黙ってから、気乗り薄に月見の向かいで胡坐をかく。不愛想な目線で「さっさと話せ」と月見に言う。逆らう理由もないので単刀直入に問う、
「おまえ、昨日この子に会わなかったかい」
「むぁ?」
マミゾウが眉をひそめ、状況がよく読み込めずきょとんとしている小傘に目を向ける。眇めるように無言で考え込んでいる。すぐに思い出してもらえないあたりがまた小傘らしい。
結局、マミゾウがぽんと手を打つまでは十秒ほどかかった。
「おお、この娘は確か……ということは、さてはぬし」
「たぶん、おまえが考えてる通りだよ。やってくれたね」
「ほ、ほう。ほうほうほう」
つい先ほどまでの仏頂面が綺麗さっぱり吹っ飛び、マミゾウの口元がちょっぴり意地悪につりあがった。
そも昨日、マミゾウがどうして月見に化けてあちこちうろつく真似をしたかといえば、幼き日に味わわされた屈辱を
これで小傘が嘘をついているわけではなく、むしろ彼女もマミゾウに騙されている被害者なのだとはっきりした。
「ひょっとしてぬし、困っておるか? 困っておるのか?」
「ああ、非常に困っているとも」
「そ、そうか。そうかそうかーっ。ふふふ、ふふふふふふ」
というわけでマミゾウにとっては願ったり叶ったり、鬼の首を取ったがごとく嫌味ったらしくふんぞり返る――と思いきや。
「ま、まあ儂にかかれば、この程度どうってことないというかの。化け狸の総大将であるからしてっ。どうじゃどうじゃ、儂もなかなかやるもんじゃろう? なあ? すごいじゃろうっ?」
――なんだか、純粋に嬉しそうというか。
嫌なヤツに仕返しができて清々した、というより、自分の実力を示せて得意がるような。大きな尻尾を胸の前で抱き締めて、出会った頃の子狸みたいにえへえへと喜んでいる。変化が緩んでつい尻尾が出てしまっているあたり、どうやら相当舞いあがっているらしい。それがあんまりにも嬉しそうだったから、一瞬は、ここまで喜んでもらえるなら悪くないのだろうかと毒気を抜かれそうになった。
少なくとも、文句を言う気は完全に消えてなくなった。隣で小傘が疑問符を傾け、
「……ええと、なんのお話でしょう? それにこの方って、確か最近外から……」
「ほっほっほ、わからずとも仕方ない。あのときの儂は……こういう恰好をしておったからのう」
すっかり上機嫌になったマミゾウが小さく妖力を巡らせると、ぽん、とその足元から白い煙幕が立ち上がる。マミゾウの姿が見えなくなったのはほんの一瞬。煙が晴れると、そこには鏡を置いたように瓜二つの月見が座っている。
「!?」
小傘が両の目を皿にしてのけぞる。月見に変化したマミゾウが、くつくつと喉を震わせ老獪に笑う。
「……お、お師匠になりました!?」
「そういうことじゃ。昨日おぬしが会ったのはこっちの狐ではなく、こやつに化けた儂だったわけじゃな」
脳天から足の指の先まで、驚天動地という名の雷が小傘の全身を貫いたのが見えた。
「ど、どういうことですか!? どうしてあなたがそんなことを……!」
「んー、まあ、宿命のライバルであるこやつをちと困らせてやろうと思うてのう。おおそうじゃそうじゃ、そういえばおぬしを弟子にするという話じゃったか」
さてここまで来れば小傘にも、自分がどうして命蓮寺に連れてこられたのか理解できたようだった。わなわな震える指先で月見の袖をつまみ、
「じゃ、じゃああの、私を弟子にしてくれるというお話は……!」
「……うん、こいつが私に化けて勝手にやったことでね。はっきり言ってしまうと、私はそんなのは知らないという話なんだ」
「がーんっ!?」
ぽんと軽い音を立て、マミゾウが元の妖怪の姿に戻る。
「では名乗っておこうかのう。儂は二ッ岩マミゾウ。最近外からこっちにやってきた、化け狸の総大将じゃ。この里では、もっぱらこっちの人間の恰好でいることが多いが」
また、ぽんと一瞬で人間の姿になる。総大将の名に恥じない見事な変化の連続に、小傘は背を震わせながらぐぬぬと唇を噛む。
「私は、あなたに化かされたということですかぁ……!」
「すまんかったすまんかった、そんな目で見んでおくれ。事情はどうあれ騙した詫びじゃ、なんなら儂が本当に弟子に取らんでもないぞ?」
出し抜けな提案に月見は目を丸くした。ライバルへ助け舟を出すにも等しい彼女らしからぬ行動、いったいどういう風の吹き回しかと思いきや、
「おぬし、人間を上手く化かす秘訣を知りたがっておるそうじゃが、もうこやつには何度も素気なくされておるのじゃろう? こんな薄情なやつより、化け狸の総大将たる儂の方が何百倍、いや何千倍も頼りになるというもんじゃぞ? 時代は狐より狸じゃて」
なんてことはない、ここで面倒見がよく頼り甲斐もある総大将の器を見せつけて、小傘を狸派に取り込んでしまおうという魂胆だった。月見を困らせたいのは事実だが、それはそれとして、自分たち狸を差し置いて狐が頼りにされるのも気に入らないらしい。
正直、この提案は月見も全面的に支持したい。
もちろん、マミゾウが小傘の師匠になれば自分は解放されるかもしれない、と身勝手な考えがあるのは否定しない。けれど小傘のためを考えても、弟子を取る気がない月見より、取ってもいいと迎えてくれるマミゾウの方が適任なのは明白だ。化け狸の総大将をやっている通り実力は申し分ないし、親分気質で手下思いな一面もある。人間たちに寄り添って生きてきた経験を活かして、幻想郷の秩序を乱さない絶妙なおどかし方を伝授してくれるだろう。
仮に月見が教えを請う立場なら、断る理由が見つからないほど魅力的な話だ。しかし小傘の表情は芳しくなく、
「で、ですけど、私にはお師匠という心に決めた御方が……!」
「……なあ小傘、どうしてそこまで私にこだわるんだ? 弟子を取る気はないと何度も言ってるし、何度も断ってきた。それでも諦めないだけの理由が私にあるのかい?」
「いえいえ、私は気づいておりますとも。お師匠はすでに、多くのことを私に教え授けてくださいました」
嫌な予感、
「確かにお師匠の言う通り、断られた回数はもはや十や二十を下りません。ですがそれは、ただ漫然と誰かを頼るのではなく、自分になにが足りないのか自ら考え、行動につなげる大切さを教えるためだったのですよね? 人間をおどかす極意を知ったところで、わたしにそれを活かす力量がなければ宝の持ち腐れですから。さすがはお師匠です」
「…………」
「私がお師匠にこだわる理由……それはお師匠が、私にとってすでに素晴らしいお師匠だからなのです」
「……………………」
頭が、痛かった。
どうしてこの少女は、天賦の才能ともいうべきそのポジティブさをもっと正しい方向に活かせないのだろうか。眉間の皺を揉み解しながら呻く月見に、マミゾウは今度こそ溜飲が下がったようにほくそ笑んで、
「あー、やっぱり弟子の話はやめじゃやめじゃ。このまま困り果てるぬしを眺めておった方が愉快じゃわい」
「……今回ばかりはなにも言い返せないね」
「ふふふん、そうじゃろうそうじゃろう? これに懲りたらいい加減儂のことを認めるのじゃぞ。えへへ」
それに、仮に言い返す言葉があったとしても、ここで文句を垂れていいほど月見は偉ぶれる立場でもない。弟子に取る気がないならはじめからきっちり諦めさせるべきだったのに、口先だけの返事でなあなあにし続けてきたツケが回ってきたのだ。むしろ、マミゾウがちょうどよい発破をかけてくれたと考えるべきなのだろう。
とは、いえ。
「しかしおまえ、最近は赤蛮奇が教えてくれたやり方で上手くやれてるんだろう? それで充分なんじゃないかい?」
「あー……実は、それなのですが……」
小傘がにわかに表情を曇らせ、厄介事を思い出した様子で目線を伏せた。
「確かに赤蛮奇さんから教わった方法で、人間をまずまずおどかせるようになりました。ですが、近頃はひとつ困った問題が……」
「というと?」
「危害を加えないとはいえ人間を襲っていることに変わりはないので……里から少々目をつけられるようになってしまいまして」
ああ、と月見は得心した。里の人間たちとて、毎度お約束のごとく妖怪におどかされるばかりではない。一度や二度ならいざ知らず、何度も繰り返し襲われればその情報は里全体で共有され、やがて相応の対策が練られるようになっていく。具体的にはとっ捕まえて懲らしめようとしたり、博麗の巫女へ懲罰の依頼が投げられたりする。というかこの少女、すでに何度か霊夢からとっちめられているはずである。
そして小傘は、そういった人間たちの目をかいくぐりながら今の活動を続けられるほど、妖怪らしい妖怪ではない。
「さでずむはいやですし、人間の皆様とこれ以上対立するのも望むところではなく……」
妖怪化したとはいえ、元は傘という人間のために作られた道具。小傘は妖怪の中で見ても、人間に対して極めて友好的な少女であり、
「お師匠、お願いします……! 人間を襲わずにおどかす方法を、私に伝授してはくださいませんかっ……!」
改めて叩きつけられた小傘の嘆願は、ある意味で、『人をおどかす極意を授ける』以上の難題だった。
試験的に、一話の文字数を短めに区切ってみようと思います。