銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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 前回同様リハビリなので、本編の時間軸とは関係ない読み切りSSです。


リハビリ 「お疲れな閻魔様に温泉を勧める話。」

 

 書類の山を抱えて上司の執務室まで向かう中、忙しそうに早歩きする同僚とちらほらすれ違う。気づけば小町も少し早足になっていた。

 ここ彼岸――是非曲直庁が慌ただしくなるタイミングは、一年に何度か必ず存在する。中でも典型的な例として挙げられるのが、先祖の霊が此岸へ里帰りするお盆や正月だろう。数え切れないほどの先祖霊を逐一管理し、此岸へ送るための手続きをして、船に乗せて、時期が済んだらちゃんと彼岸に戻ってきているか確認して――等々、普段の仕事に上乗せする形で様々な作業が増える時期なのだ。

 とりわけ、正月の忙しさをいえばなかなかにエグい。ひとたびこの時期に突入すれば、仕事の量が右肩上がりで増えていく地獄の日々の始まりである。昔と比べれば業務の効率化が進んで多少楽にはなったものの、それでも正月の後半戦ともなれば、デスクワーク組は概ね目が死んでいるのが毎年の風物詩になっていた。

 というわけで、正月の後半戦なのである。

 小町は持ち場である三途の川を離れ、閻魔様こと四季映姫の補佐として書類運びを手伝う真っ最中だった。三途の川の船頭が忙しいのは霊を送るときと戻すときなので、それ以外ではデスクワーク組のサポートに駆り出されるのも珍しくない。小町は映姫との個人的な付き合いもあり、この時期最も多忙な彼女の雑用係を任されているのだ。

 

「ほんと、四季様もよくやってるよなあ……」

 

 廊下を進みながらぽつりとつぶやく。雑用係といえば響きは悪いが、要は映姫が手を回すまでもない単純作業を手伝うだけの簡単なお仕事だ。難しいものはすべて映姫が引き受けてくれるし、そもそも彼女は部下ばかり扱き使って自分が楽するような真似をよしとしない。

 閻魔である彼女の激務を思うと、サボり大好きな小町はそれだけで気が遠くなってしまいそうになる。

 勤務時間の半分は裁判で霊魂の罪を裁き、もう半分は執務室でデスクワーク、その他必要あらば地獄の視察をしたり世の情勢を学んだり部下の教育をしたり説教したりとエトセトラ。そこに加えて正月のあれこれまでとなれば、さしもの閻魔様とて一筋縄ではいかず、小町が把握している限り食事のとき、シャワーのとき、そして寝るとき以外はほとんど仕事しかしていない有様だった。

 もしも小町が向こうの立場だったら、間違いなく「捜さないでください」の書き置きを残して失踪する。

 そんな正月をもう何百年もやり抜いてきているのだから、あの人は本当にすごいと思うのだ。

 

「四季様ー、入りますよー」

 

 そうこう思い耽っているうちに、小町は上司の執務室まで戻ってきた。余計な説教をされてもつまらないので、書類の山を片腕で支え、ちゃんと丁寧にノックをしてから部屋に入る。

 書類の山脈に囲まれてもまったく動じず、黙々机と向き合う映姫がいた。

 

「追加の書類ですよー。今日はこれで最後です」

「そこに置いてください」

 

 紙まみれの机の上では『そこ』がどこかわからず、ひとまず小町は目についた空きスペースへ書類を置いた。このえげつない山々を間近から見ただけで、小町は無性に青い空の下で昼寝をしたくなってきた。

 

「いやー、なんというか……もう言葉も出てこないですね」

「この時期は仕方ありません。これでも随分と楽になった方です」

 

 機械のような速さで書類を片付けながら、映姫は疲れた様子もなく涼しい口調で答えてみせる。彼女が机に向かい始めてもう三時間ほどになるが、正確無比な手捌きは未だ寸分も乱れることを知らない。本当に機械の動きを見ているみたいだ。

 

「ほんとすごいですねー四季様。あたいだったら一日で発狂しますよこんなの」

「それはあなたが軟弱すぎるだけです。この程度で音を上げていては閻魔など務まりません」

 

 小町が軟弱かどうかはさておいて、これくらい当然にこなせなければ閻魔として話にならないのは事実なのだろう。これでもう少し説教を控えめにしてくれれば、心から尊敬できる敏腕上司なのだけれど。

 そんな小町の視線を物ともせず、映姫はあっという間に山をひとつ片付けてしまった。

 

「こちらは終わりました。持っていってください」

「はーい」

 

 小町はデスクワークが大嫌いの書類アレルギーである。書面の内容など目を通したところで理解できないとわかっているし、映姫が仕事でミスをするとも思っていない――のだが。

 

「――あれ? 四季様、これ承認印の場所間違えてません?」

「え?」

「ほら、これ」

 

 なにをバカな、私がそんなミスするわけないじゃないですか、という目つきを映姫はしている。小町もそう思う。しかし、事実閻魔様の承認印がおかしな場所に押されているのだからどうしようもない。

 山の上から一枚を取って手渡すと、映姫は半信半疑――否、ゼロ信十疑で眉をひそめながら目を通し、

 

「……!」

 

 ここまで一分の隙もなかった『閻魔』としての顔が、はじめて崩れた。映姫は前のめりになって何度も確認を繰り返すも、やがてその指先がぷるぷる震え出し、恥ずかしさと悔しさをごちゃまぜにしながら唇を噛んだ。

 

「こ、こんな初歩的なミス、なんたる不覚……しかも小町に指摘されるなんて……」

「……あの、大変申し上げにくいんですけど、こっちの書類も間違ってます」

「!?」

 

 書類の山をふんだくられた。血相を変えながら一枚取り、また一枚取り、そのまま凄まじい速度で十枚ほどを確認して、

 

「――…………」

 

 ゆるゆると脱力し背もたれに崩れ落ちた映姫へ、小町は苦笑して。

 

「ちょっと休憩にしましょうか。お茶を淹れますよ」

 

 天井を仰ぐ映姫は声なき声でひとしきり呻き、やがて観念するように力なく答えた。

 

「……はい」

 

 珍しい閻魔の失敗をからかうつもりはない。世の中時には弘法だって筆を誤るし、猿だって木から落ちるし、河童だって川を流れる。

 繰り返される連日の激務に、さすがの閻魔様もお疲れのようだ。

 

 

 ○

 

「やっぱり、自覚はなくてもストレス溜まってるんじゃないですかー?」

 

 茶葉がいいお陰なのか、お茶は小町が適当に淹れてもなかなか上品な出来だった。味はもちろん香りもしっかりと立っていて、なんだか自分がお茶淹れ名人になったような気分になる。

 ストレス、と聞いて映姫は露骨に眉をひそめた。

 

「そんなことはありません。睡眠もちゃんと取っていますし」

「寝るだけでストレスがぜんぶ吹き飛ぶなら楽なもんですよ。普段の四季様ならあんなミス絶対にしないですし、体が大丈夫でも心が疲れ気味なのかも」

 

 むう、と映姫は納得しない。認めればまるで仕事が苦痛と言っているかのようで、閻魔として示しがつかないと考えているのだろう。

 なるほど一理はあるものの、さすがに今の状況は例外だと思うのだ。

 

「無理もないですよ、このところ朝から夜までずっと働き詰めですもん。向こうの部屋なんてみんな目が死んでますし」

 

 小町は書類仕事ができるほど几帳面でも我慢強くもないので、映姫からは筆の要らない雑事を任されている。労働時間も、まあ、なんだかんだ度が過ぎたところまではいかないよう配慮してもらえていると思う。そうやって小町の荷が軽くなれば、なった分だけ誰かの負担が大きくなっていくわけで。

 この場合それが誰なのかを考えると、小町としても負い目を感じずにはおれないのであって。

 

「今日でも明日でも、一度早めに切り上げて気分転換してみたらどうです?」

 

 映姫とて、日頃からやりたい趣味のひとつやふたつはあるだろう。『仕事ばかりでやりたいことがちっともできない』のは、小町の経験上かなりストレスが溜まるものだ。そうしてストレスに苛まれれば仕事で本来の力も発揮できなくなり、それが更なるストレスを引き起こし――という悪循環の泥沼に陥ってゆく。小町がよく仕事を抜け出して散歩なり昼寝なりに励むのも、ストレスを解消して常に精神的余裕を保ち、ここぞというときに百パーセントの力を発揮できるよう備える自助努力なのである。ただのサボりと侮ってはならない。

 映姫はあいかわらず小難しい顔を解かない。

 

「そんなわけにはいかないでしょう。私が抜けては業務が回らなくなります」

「一日定時帰りするくらいならリカバリできますよ、私も頑張りますし。それより、このまま無理してさっきみたいなミスを繰り返しちゃう方が問題じゃないですかねえ」

「むっ……」

 

 答えに詰まるあたり、やはりあのミスは映姫にとっても相当ショックだったようだ。目を細めて不服げに、

 

「つまり小町は、私がさっきのようなミスを繰り返すと?」

「あたいは四季様のことすごい閻魔様だと思ってますけど、あたいと同じ女だとも思ってるので」

「むむっ……」

 

 映姫も内心危機感は覚えているし、可能ならば休息を取るべきとも感じているはずだ。ならば小町も、こんなときくらいはその背中をそっと押してあげるのである。

 本当に、それくらいの気持ちから出た何気ない発言だったのだ。

 

「せっかくですし、水月苑にでも行ってきたらどうですか?」

「ごぶっ……」

 

 映姫がお茶を噴き出しかけた。慌てて湯飲みを机に置き、口を押さえて何度か咳き込んでから、

 

「な、なぜここでその名が出てくるのですか!」

「え……でも、あそこなら四季様もストレス解消になるんじゃ?」

「げふごほ!?」

 

 小町は首を傾げる。別に変なことは言っていないはずだが、どうして映姫は顔を赤くして取り乱しているのだろう。

 

「す、ストレス解消になんてなるわけないでしょう!」

「えー? いやいや、別に恥ずかしがることじゃないですよ。四季様も好きでしょう?」

 

 あそこの温泉。

 彼岸にも大衆向けの入浴施設はいくつかあるものの、風雅な日本屋敷に迎えられ、幻想郷の雄大な自然に抱かれながら心ゆくまでリラックスできる水月苑は格別の一言に尽きる。おまけに、あそこでご馳走してもらえる桃がまた憎たらしいほど美味しいのだ。まさしくストレス解消にもってこいのオススメスポットなのだが、映姫はどういうわけか怒りで肩を震わせており、

 

「好っ……こ、小町ぃ……! 私をからかうとはいい度胸ですねっ……!」

「いやいやなんでですか!? あたい変なこと言ってます!?」

「言ってます!!」

 

 執務室の外まで響くくらいの大声で断じる。小町は混乱した。映姫が話を振られただけで怒るほどの温泉嫌いという噂は聞いた覚えがない。なにかの間違いじゃないかと思いながら、

 

「ひょっとして四季様、嫌いだったんですか?」

「え、い、いや、なにも嫌いとまでは言いませんけど……っ」

「あたい、てっきり四季様も大好きなもんだと思ってました」

「大っ……あ、ありえません!! ええと、その……あの……ふ、普通です、普通っ!!」

 

 普通かあ。でも、どうしてそんな大声で必死に否定するんだろう。温泉の話なのに。

 

「んー、でもまあ、嫌じゃないなら行ってきてもいいんじゃないですか? なんだかんだ疲れ取れますよ、絶対」

「だからなんでですかっ! いい加減にしないと怒りますよ!?」

 

 すでに怒っている気もするが。小町はもうわけがわからず、

 

「なんでですかはこっちのセリフですよ。四季様、どうしちゃったんですか?」

「とぼけるのもいい加減になさいっ! これ以上は本気で説教しますよ!?」

「ええー……?」

 

 なぜ、ストレス解消を勧めただけで説教されなければならないのか。仕事中に余計な話をするなということだろうか。そもそもミスをやらかしたのはそっちなのに、いくらなんでも横暴がすぎると思う。やっぱりストレスが溜まっているのかもしれない。

 

「四季様、絶対ストレス溜まってますって。休みましょう。ね?」

「っ、百歩譲って、休むのは、確かに必要かもしれませんが」

 

 百歩も譲るんかいと小町が内心でツッコんでいる間に、映姫はもじもじと伏し目がちになって、白黒はっきりつかぬ葛藤とともにこう叫ぶのだった。

 

「そ、それでどうして、あの狐に会うなんて話になるんですかっ! まるで私が、あの狐に会いたがってるみたいじゃないですかッ!!」

「…………あー、」

 

 そして小町は、ぜんぶ、すべて、なにもかも納得した。

 確かに小町、温泉のことだとはっきり言っていなかった。言っていなかったが、一方で、月見のことだとも一言も言っていないわけで。

 そうか。

 なるほど。

 ――「水月苑に行ったらどうです?」を、そういう風に受け取っちゃうのかこの人。

 

「……えーと、四季様」

「な、なんですか」

 

 まあ小町も百歩譲って、映姫が乙女みたいな微笑ましい勘違いをしているのはいい。女の子してますねゴチソウサマです。しかし問題は、状況的にその勘違いを指摘しないわけにもいかず、かつ指摘すればデカい雷が落ちるとわかりきっている点であって。

 温泉の話だと明言しなかった己が不明を悔いる他ない。小町は覚悟を決めて、

 

「あのですよ。あたいはですね、水月苑で温泉に入ってきたらいい息抜きになるんじゃないかと、そういう意味で言ったのであって。月見の名前は、一言も出していないといいますか……」

「――……、」

 

 やっぱり映姫は、疲れていたのだろう。

 世にも珍しい、閻魔様のなんとも間抜けでかわいらしい表情を見られたのが、せめてもの収穫だと思いながら。

 

「……小町」

「……はい」

「言い遺すことはありませんね」

「まままっ待ってくださいありますありますめっちゃありますっ!! あたい悪くないでしょう!? 四季様が一人で勝手に勘違いして自爆しただけでいやいやほんとにそうじゃないですかだからちょ待っ」

 

 小町がその日最後に見たのは途方もない弾幕の光と、そんな中でもくっきりと網膜に焼きつく、閻魔様の極めて貴重な赤面涙目だった。

 

 

 


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