銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第149話 「幻想郷狐狸草子ぽんぽこ ②」

 

 

 

 

 

 二ッ岩マミゾウは古来より、妖怪の顔と人間の顔のふたつを使い分けながら生きてきた。

 と書けばやたら物々しい出だしに聞こえるが、まあなんてことはない、人の世に紛れて生きる妖怪なら誰もがやっている当たり前の処世術だ。妖怪が妖怪のまま人の領域に踏み込むのは、いつの時代もそれなりの面倒と危険が伴うものだから、事を荒立てぬために人間としての顔を前もって用意しておくのである。狸や狐など人間におおむね友好的な種族は、昔からそうやって人の世と極めて近い距離で生きてきた。人間たちの記した歴史では、妖怪が人間として名を残している例というのも挙げればひとつやふたつではない。

 基本は、まず妖怪の場合と人間の場合で姿を変える。獣耳と尻尾を隠すのは常識として、必要に応じて服装を人間に合わせたり髪型を変えたりする。念を入れるなら認識阻害の妖術も併用するが、加減を間違えると逆効果になるためこちらはやや上級者向きといえる。

 また、人間用の来歴も考えておく。人の世に紛れるのが目的なら、その時代でなるべく一般的であり、なおかつ偽装するのが難しくない職を選ぶのがよい。昔であれば位の低い町人やお坊さんに化けるのがセオリーで、ただ姿形を漫然と真似るだけではなく、そういった『設定』を添えることで自然と変化にも説得力が加わるのだ。なおマミゾウのとある宿敵のように、陰陽師に化けて都の深いところまで入り込むのはバカのやることなので例外とする。

 そして、マミゾウについていえばもうひとつ。

 妖怪のときと人間のときで、それぞれ別々の拠点を確保しておくことだ。

 

「――というわけで、あやつの屋敷に行くなら明日の方がよいぞ。では、儂はまた散歩に行ってくるわい」

「はい、わざわざありがとうございました」

 

 幻想郷において、マミゾウがその片方に選んだのは命蓮寺という名の寺院だった。

 妖怪にも人間にも門戸を開き架け橋となることを信念とした、ひと昔前であれば考えられないなんとも風変わりな寺だった。元々はぬえの新しい友人がいると聞いて訪ねた場所で、人里に紛れる隠れ蓑としてはちょうどよく、かつぬえの叩き直しもできて一石二鳥だったためそのままご厄介になっている。こちらの正体を知った上で受け入れてくれる人間とひとり出会えれば、人の世に紛れるのはずっとやりやすくなるのだ。

 この寺の住職でもあるそんな人間の名を、聖白蓮という。その昔、ほんの一時期だけ高名な僧侶として名を馳せた、とある上人の姉君にあたる女性だった。

 白蓮に育ちのよい会釈で見送られながら、マミゾウは山門から外に出た。

 門の隅で一服の支度をしながら、呟く。

 

「……ううむ。なぜこの儂が、あやつのことでわざわざ言伝(ことづて)なんぞ」

 

 立派な人間、だとは思う。来歴は聞いた。過去にあれだけ己の無力を突きつけられながら、今もなお託された夢を目指し続けるなど並の胆力でできるものではない。好感が持てるし、人として純粋に敬意を払える。しかし唯一想定外だったのは、その生き様にあの憎っくき狐が大きく関わっている点だった。

 もちろん、それ自体あの狐を責めることではないとわかってはいる。

 けれどいかんせん、彼女の生活を傍で観察していると、どれだけあの狐の存在を意識しているのかありありとわかって面白くないというか。マミゾウと月見の仲をどう勘違いしたのか、事あるたびに話を聞きたがって若干耳にタコというか。

 煙管(キセル)を深く吸い、空へ薄い雲を伸ばす。

 

「……まったく、あやつは昔から変わらんのう」

 

 ほんの一年前に移住したばかりというが、月見はすでに幻想郷の端から端まで広くその名を知られている。彼は昔からそうだ。移り住んだ先で水が流れ行くように縁を築き、人間からも妖怪からも隔てなく受け入れられる。裏表のないはっきりとした善人気質のせいなのか、相手の悪意や猜疑を上手いこと挫いてしまう星の下にあるらしいのだ。狐をライバル視する狸の中でも彼だけは好意的に見る者が少なくないというのは、まこと面白くない話である。

 

「いや、そうでもないか。そういえば、若干丸くなった気がせんでもないな」

 

 たとえば500年ほど昔、周囲の説得を振りきって幻想郷から外へ飛び出したように。当時見られた悪い意味での気ままさ、奔放さというべきものが、今では心なしか薄れたのではないかと感じないでもない。温泉宿の主人という役回りをなんだかんだ受け入れ、毎日押しかけてくる少女たちの面倒をあれこれ見てやっているあたりがいい例だ。

 無論マミゾウにとっては、だからどうという話でもないけれど。

 

「……よし、そろそろ行くか」

 

 やがて一服を終えたマミゾウは、里の外へ出る方向へ歩き始める。周りに誰もいないのを確認してからしめしめと笑いを噛み殺す。さてこれからどうしてやろうか、と考えると胸が高鳴って仕方がなかった。

 月見は永遠亭に向かった。少なくとも夕方になるまでは戻ってこないらしい。つまるところ、たとえばの話、月見に化けてイタズラをする何者かがいたとしても、怪しまれる可能性は最小限ということだ。

 月見に直接イタズラを仕掛けたところで、やつはどうも物腰柔らかく受け流すばかりで張り合いがない。

 あのとき化かし返された屈辱を晴らすなら、月見の周りにいる少女たちを狙って間接的にやつを困らせる。これしかない。

 

「ふっふっふ……今日という日に家を留守にしたこと、後悔させてやるぞい」

 

 自分はもうあの頃の子狸ではないのだと、今度こそ思い知らせてやるのだ。

 里を出て、ひと目につかない茂みの奥へ隠れること、十秒ばかり。次にマミゾウが姿を現したとき、そこに立っているのは『人間に化けた二ッ岩マミゾウ』ではなく。

 

「――では、行こうか」

 

 『月見に化けた二ッ岩マミゾウ』が、人知れず行動を開始した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 手始めに向かったのは、霧の湖の紅魔館だった。

 この姿で誰かを化かすなら、月見と大して親しくもない相手では意味がない。かといって八雲紫を始めとする、月見を古くから知る大妖怪の面々ではさしものマミゾウも分が悪い。そう考えたとき、まっさきに候補として浮上するのがこの真っ赤で悪趣味な洋館だった。月見の幻想郷における交友関係は、ざっくりとした範囲であればこの一週間でリサーチ済みである。狸の情報収集能力をナメてはならない。

 最初に魔の手を伸ばす標的としてはちょうどいい。

 首が痛くなるような馬鹿デカい鉄門の前では、この国では珍しい中華服姿で着飾った少女が一人、腰を深く落とし、固い拳とともに荘厳な舞踊を舞っていた。もっともマミゾウの目からすればそう見えるというだけで、まさか本当に踊っているわけではない。紅魔館の門番は中国拳法の達人――さてはこれがくんふーというやつか、とマミゾウは少し物珍しく思う。

 

「あ、月見さん」

 

 門番――紅美鈴はこちらに気づくと、気恥ずかしそうにしながら素早く構えを解いた。

 

「あはは、拙いものをお見せしました」

 

 マミゾウは月見の口調を思い出しながら、答える。

 

「そんなことはないさ。もっと見ていたいくらいだった」

「え、そ、そうですか? えへへ……」

 

 ――掴みは完璧である。見よ、紅美鈴のこのだらしない顔を。目の前の月見が本物と信じきり、疑うという発想を持つことすら夢にも思っていないのが一目瞭然だった。

 子分の狸たちが評するところによると、マミゾウが変化したものは本物より年を経た雰囲気が出るらしい。断じて年寄りくさく見えるわけではなく、大妖怪特有の円熟したオーラが否応なく放たれてしまうのだとマミゾウは前向きに考えている。つまりマミゾウ以上の齢を重ね、まあ一応は永遠のライバルにふさわしいだけの格も備えている月見は、性別が違えどかなり化け易い部類に入るのだ。

 ひとしきり照れた美鈴が、ハッと正気に戻って頭を下げた。

 

「いらっしゃいませ。紅魔館に御用ですか?」

「用というわけではないんだけど、今日はなにをしようか考えててね。散歩しながら」

「あら、でしたらあがっていかれます? お嬢様も妹様も起きてますよ」

「そうだねえ……」

 

 マミゾウは己の取るべき行動を思考する。どうせだったらここで早速仕掛けたいところだが、そういえばどんなイタズラをするかまったく考えていなかった。――たとえば、「とても大切な話があるから、夜に一人で水月苑に来てくれ……」なんて甘く囁いてみるのはどうか。見るからに人がよさそうな美鈴なら一発で深読みしてくれそうだし、それでやたらおめかしした彼女が突然訪ねてきたら、あの狐も相当困惑するのではないか。

 なかなかいいかもしれない。

 と、そこまで考えたところで、「あれ?」と美鈴がふと小首を傾げた。

 

「月見さん、なんかちょっと雰囲気変わりました?」

「んっ、」

 

 どきりとした。喉までせりあがってきた息の塊を咄嗟に飲み下し、

 

「……ええと、どこか変かい?」

「あ、いえいえそういうわけでは。本当になんとなく、いつもとなにか違うかなー? と思っただけで。……髪を切った、わけじゃないですよね」

 

 マミゾウは内心目を見張った。確かにマミゾウがマミゾウである以上、百パーセントすべて月見という妖怪に変化するのは不可能だ。外見自体が完璧でも、ふとしたときの立ち振る舞い、ものの考え方、話をしたときの印象などなど、大雑把にまとめて『その人らしさ』と呼ぶべき個性まではどうしても真似しきれない。マミゾウの記憶を遡っても、ほんのわずかな『らしさ』の違いから正体を見破られた経験は何度かある。

 しかしそれは鋭敏な感性と、なにより相手への深い理解がなければできない芸当だ。これが八雲紫や鬼子母神であれば納得もできようものだが、よもや紅魔館の門番ごときがその領域に至っているとは、事前のリサーチからはまったく想定できていなかった。

 あるいは、これもくんふーの為せる業なのか――どうあれマミゾウは美鈴への警戒を大きく引き上げ、

 

「つ――――くみ――――――――っ!!」

 

 鉄門の向こう、紅魔館の玄関がいきなり撥ね飛ぶように開かれた。驚いて見れば、猪も真っ青の勢いでこちらへ突撃してくる少女がいやちょっと待て、

 

「ずど――――――――――――ん!!」

「ずどん!?」

 

 熱烈な砲弾タックルを腹に食らい、マミゾウは吹っ飛ばされた。

 背中にも衝撃。

 

「……げほげほ」

 

 数秒意識の混濁があって、気づけばマミゾウは地べたで大の字になって天を見上げていた。けれど視界に映っているのは青空ではない。いつの間にかすぐ傍にメイド服の少女が立っていて、慌てながら広げられた大きな日傘が光と景色を遮っている。

 

「妹様、いきなり出て行かないでくださいっ。びっくりするじゃないですか……」

「えへへ、ごめんごめん」

 

 マミゾウは鈍痛をこらえながらなんとか状況に追いつこうとする。確か、日傘を広げているメイドな少女は十六夜咲夜。そして『妹様』という呼び名から、マミゾウの腹にくっついて一緒に寝転がっているのはフランドール・スカーレットだろう。

 なるほど、把握した。フランドール・スカーレットは月見に大変よく懐いていて、出会うたびにお腹めがけて勢いよく飛びついたりする。そして自分は今まさに、その元気いっぱいな吸血鬼タックルを食らわされたというわけだ。

 それにしても、

 

(ま、まさかここまでの威力じゃったとは……あやつ、いつもこんなものを受け止めて平気な顔をしておるのか……)

 

 今更のように、吸血鬼は鬼にも並ぶ破格の身体能力を持っている、という言い伝えを思い出した。

 腹の上から気遣わしげな声が聞こえる。

 

「月見ー、大丈夫? いつもはちゃんと受け止めてくれるのに……どこか調子悪いの?」

 

 心配するくらいなら、はじめからタックルせんでくれんかのう。

 という気持ちを押し殺しつつ、マミゾウはフランを抱えてよろよろ立ち上がる。

 

「そ、そんなことはないよ。今日はちょっと油断してしまったかな」

「そう……?」

 

 フランは首を傾げ、腑に落ちない様子でマミゾウから離れようとし、

 

「……?」

 

 寸前で止まった。着物の裾をつかんだまま不思議そうに目の前の腹を凝視し、あたかも声を奪われたごとく一切沈黙する。妙な空気を感じてマミゾウが身構えようとしたそのとき、彼女は唐突におかしな行動を始めた。

 マミゾウの腹にもう一度抱きつく。

 なにかを確かめるようにもぞもぞ両腕を動かす。

 ほっぺたをすりすりとこすりつける。

 離れる。

 首を傾げる。

 また抱きつく。

 

「妹様?」

「んー……」

 

 従者の疑問の声にも答えず、フランは最後にマミゾウの腹へ力強く顔を埋めて、そのまますんすんと匂いを、

 

「……っ!」

 

 弾かれたように離れた。

 叫ぶ。

 

「咲夜、美鈴、気をつけて! こいつ月見じゃないッ!」

「は、」

 

 ――見破られたじゃと!?

 なにが起こったのか咄嗟に理解できなかった。なぜバレたのか今までの流れを反芻するが、フランが抱きつくことでマミゾウの正体を見破ったとしか思えない。抱きついて正体を見分けるとは一体なにか。まさかこの少女、月見に抱きついたときの感触を体で完璧に把握しているとでもいうのだろうか。さすがにそれはちょっとヤバいのではなかろうか。

 これにはマミゾウだけでなく咲夜まで困惑し、

 

「い、妹様? 突然なにを」

「そ、そういうことだったんですね!?」

 

 横から美鈴が割り込む、

 

「まさか偽者だなんて……でも、それならこの違和感も合点が行きます!」

「美鈴もわかる!?」

「はい! なんていうか……雰囲気がいつもと違うんです! 『気』が使える私にはわかりますっ!」

「え? え?」

 

 咲夜だけが話についていけず、右へ左へおろおろしている。

 ともかく、この流れは非常によくない。

 

「フ、フラン? いきなりなにを言うんだい?」

「うるさいニセモノ! 私たちを騙そうったってそうは行かないから!」

「な、なんで私が偽者なんて」

「わかるもん! だって、抱きついた感じが月見じゃなかった!」

 

 抱きついた感じ。

 

「あと匂いも違う! いつもみたいにほっこりしなくて、ちょっとタバコくさい!」

 

 ――しまった。里を出るとき一服したのが仇になったか。

 

「ああ、里で朝一買い物をしてきたんだけど、店主が煙草を吸う店に寄ってね。そのせいかな」

「騙されないもん!」

 

 それらしい理由をでっちあげてみるも、フランはまるで聞く耳を持ってくれる様子がない。ならばとマミゾウは素早く狙いを変更し、未だ困惑している咲夜を味方へ取り込もうと切り替える。

 

「困ったなあ。咲夜、ちょっと助けてくれないかい?」

「え、」

 

 名を呼ばれた咲夜がたじろぐ。――彼女には判別できまい。我々妖怪の幻術は、人間に対してとりわけ強い効力を発揮する。存在の比率が精神に偏る妖怪と違って、精神的な抵抗力を持たないため惑わされやすいのだ。

 フランがぷんぷん怒っている。

 

「もぉー咲夜っ、わかんないの!?」

「え、えっと、」

「そうですよ! 私なんかよりいつも月見さんを傍で見てるでしょう!? なんの違和感もないんですか!?」

「う、ううっ」

 

 門番にまで詰め寄られ、咲夜がいよいよもって右往左往し始める。

 

「ほら、咲夜も月見に抱きついて匂い嗅ぐの! そうすればわかるから!」

「ふえっ!? い、いいいっいやあのそれはさすがにその、あの」

 

 咲夜の混乱っぷりが愉快なせいで、これはこれで少し楽しくなってきた。嗜虐心をくすぐられたマミゾウは己の立場もすっかり失念し、もうひと押しだけ困らせてやろうと、

 

「咲夜……咲夜は、私を信じてくれるだろう?」

「…………、」

 

 決定打だった。咲夜の両目がぐるぐると渦を巻き始め、にっちもさっちもいかなくなった脳がオーバーロードを起こし、茹であがった顔がとうとうぼふんと蒸気を噴きあげる――

 かに思われた。

 

「――咲夜、迷いを捨てなさいっ!」

 

 幼いながらも、凜と耳朶(じだ)を打つ少女の声だった。

 広大な庭を抜けた紅魔館の玄関に、もう一人の吸血鬼――レミリア・スカーレットが立っていた。

 まだ昼間であるにもかかわらず、その双眸が苛烈な紅の光を宿すのがわかった。

 

「スカーレットの名に於いて断言するわ! その男は月見ではないと!」

「……!」

 

 ――あ、こりゃいかん。

 刹那に訪れる思考の世界、すべての動きが緩慢となったその狭間で、マミゾウは己の敗北を素直に直感した。当主の一声に心の迷いを打ち払われ、もう間もなく十六夜咲夜が正気を取り戻そうとしている。月見に化けた下手人を捕縛するため動き出そうとしている。十六夜咲夜は確か時を操る能力の持ち主だったはずだから、鬼ごっことなれば一縷(いちる)の望みもなく勝ち目はない。

 レミリア・スカーレットがなぜあれほどの距離から一発でマミゾウの正体を見抜いたのか、もはや気にしている場合ではなかった。

 逃げるなら、今しかない。

 

「咲夜、美鈴、こいつ捕」

「とりゃっ」

「わぷ!?」

 

 フランが従者に命じるより一呼吸早く、マミゾウはあたり一面に過剰気味の煙幕を張った。吸血鬼の前では児戯のようなものだろうが、要は十六夜咲夜の動きを数秒でも封じることができればいい。その数秒さえあれば、化け狸の頭領たるマミゾウが逃げ(おお)せるにはあまりに充分。

 

「――あー!! いなーいっ!!」

 

 フランドール・スカーレットの叫び声を遠くに聞きながら、マミゾウはひやひやと胸を撫で下ろす。

 少し紅魔館を甘く見過ぎていた。尻尾を巻いて逃げるのは口惜しかったが、今日のところはもう近づくまいと、マミゾウは固く己の心に誓った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「逃げられた!! むむむむむっ……!!」

 

 咲夜が棒立ちのまま広げる日傘の下で、フランがゲシゲシ地団駄を踏み悔しがっている。爆発が起きたかのように派手な煙幕は、フランがすぐさま魔術で風を起こして吹き飛ばした。しかしそのほんのわずかな隙に、ニセ月見の姿が目の前から忽然と消えてしまっていた。

 即座に周囲の気配を探るがなにも感じない。

 完全に、逃げられた。

 

「……っ」

 

 美鈴は、一歩も動けなかった己の不甲斐なさを歯噛みして恥じた。あの状況、満足に動けるのは美鈴ただ一人だったのだ。咲夜はニセ月見の混乱から完全には抜け出せていなかったし、フランも日傘の下から出れば太陽の光で焼かれてしまう。咲夜が動けなかった以上、フランだって動けなかった。だから、動けるのは門番である自分しかいなかったはずなのに。

 はじめニセ月見に挨拶された時点で、なにかが違うと違和感を覚えてはいた。どうしてそのときに正体を見破れなかったのだろう。本当に月見さんだろうか、という疑問がどうして頭を過りもしなかったのだろう。フランが見破ってくれていなければ、美鈴は得体の知れない妖怪を館の中に案内していたかもしれないのだ。

 拳が震えた。こんな体たらくでは門番失格だと思った。せめて今からでも、あの下手人を追いかけて捕まえなければならないのだと。

 

「申し訳ありません妹様っ、すぐ追いに――」

「落ち着きなさいな」

 

 答えも聞かず駆け出そうとした美鈴の背を、当主の静かな声音が制した。

 日傘を差したレミリアが、清楚な歩みで鉄門をくぐってきたところだった。

 

「お嬢様……」

「まったく、とんだ命知らずもいたものね。まさか月見に化けるだなんて」

 

 レミリアの表情には動揺ひとつなく、むしろつまらないものを見せられたと興醒めしているようでもあった。

 

「お姉様、落ち着いてる場合じゃないわよ! 月見のニセモノなんて大変よ、早くみんなに教えて捕まえなきゃ!」

「だから落ち着きなさいってば」

 

 フランをぴしゃりとたしなめ、考えてみなさい、とレミリアは言う。

 

「月見のニセモノがいるなんて騒ぎになったら、本物の月見までニセモノ扱いされてしまうかもしれないでしょ。みんなに知らせればいいというものではないわ」

「あ、そっか……」

 

 そこでフランはふと疑問符を浮かべ、

 

「そういえばお姉様、抱きつきもしないでどうしてニセモノってわかったの?」

「……なんで抱きつく必要があるのかわからないけど、姿形だけ化けても運命は変わらない。つまり、私の能力でちょっと見ればわかるのよ」

「なーんだ。つまんないの」

 

 期待外れというように吐息され、レミリアは眉をひそめて、

 

「なによつまんないって」

「すぐニセモノだってわかっちゃうくらい、普段から月見のこといっぱい見てるんだーって思ったのに」

「あら、残念だったわね。だいたい、それだったら咲夜が一番、」

 

 口を噤む。全員が同時に咲夜を見る。己の痛恨の失言を悟り、レミリアの口端が引きつった。ここまでずっとぼんやり立ち尽くすばかりだった咲夜が、お腹を壊したような顔でぷるぷると震え始めていた。

 決壊寸前の涙声、

 

「…………ぜんぜん、わかりませんでした……………………」

「しょしょしょっしょうがないわよほらあなた人間だもの! 妖怪の幻術って、人間には一番よく効いちゃうって話だし!?」

「そ、そうですよ! たぶんそのへんの妖怪じゃなかったですよ、見た目はすごくそっくりだったですし!?」

 

 そういえば私も勢いで偉そうなこと言っちゃったっけなー、と思い出して美鈴も全力でフォローに回る。けれど咲夜の凹みオーラはあっという間に全身へ広がって、

 

「わたしは、ダメなメイドです…………月見様ぁ……………………」

「咲夜ー!?」「咲夜さーん!?」

 

 結局このあとはガチ凹みする咲夜をみんなで慰める会が発足し、ニセ月見のことはすっかり頭から抜け落ちてしまうのであった。

 もっともニセ月見に関しては、美鈴たちが手を下すまでもなかったのだけれど。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 確かに妖怪は、人間と比べれば多少なりとも幻術の影響を受けにくい。

 しかし、あくまで『多少』である。妖怪だろうが化かし果せる自信がマミゾウにはあったし、事実、昔から種族問わず誰だろうと術中に嵌めてきたマミゾウだった。故に紅魔館でああもあっさり正体を見破られてしまったのは、化け狸の頭領として屈辱ともいえる不甲斐のない結果というやつだった。

 

(むう、少々みくびっておったか……)

 

 どうやら紅魔館の住人は、そこらの古参妖怪組にも負けない縁を月見と育んでいるようだ。特に抱きついた感触と匂いだけでニセモノと判別したフランドール・スカーレット、あやつはちょっとヤバいなとマミゾウは思った。

 とはいえ、たった一度しくじった程度で諦めては化け狸の名が廃るというもの。そういうわけで汚名返上を堅く心に誓ったマミゾウは、妖怪の山の森をふよふよ漂うように飛んでいるのだった。

 天狗や河童をはじめ、幻想郷で最も多くの妖怪が暮らす霊峰だ。長らく佐渡で島暮らししていたマミゾウにとって、ここまで大きな山に登るのも随分と久し振りで、ともすれば当初の目的を忘れてハイキング気分になってしまいそうだった。やがて行く手に一人の天狗が降り立たなければ、今の自分が月見の姿であることも失念していたかもしれない。

 

「ねえ」

「おお、……文か」

 

 不意を衝かれたが、なんとか言い淀まずに名を出せた。

 射命丸文――なんてことはない鴉天狗のナリをしているが、同族の中でもかなりの古株であり、天魔と並んで月見と交流が多い少女でもある。彼女が発行する『文々。新聞』という新聞を、月見が熱心に購読しているらしいのだ。マミゾウも一部読んでみたが、女一人が趣味で作っている割には本格的なものだった。

 

「なにしてんの、こんなとこで」

「ああ、いや、少し暇していてね。なにか面白いものはないかと思って」

「なにそれ」

 

 文が小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。こやつ本当に射命丸文か、とマミゾウは内心首をひねる。先日マミゾウがマミゾウの姿で会ったときは、常に裏のありそうな笑顔を絶やさず、明るくも馴れ馴れしい敬語を使うインチキくさい女という印象だったが、どういうわけか月見の前ではその猫かぶりをせず、一見すると嫌っているようにも見えるほど淡泊な態度を取るのだ。実際目の前にしてみると別人同然でなかなか戸惑う。

 

「これが老人の徘徊ってやつ?」

「手厳しいなあ」

 

 通りすがりの天狗から聞いたところによれば、新聞を毎回手渡しで届けに行き、感想や改善点を聞かせてもらっているともいう。あながち仲が悪いわけでもないらしいが、これが外の世界で昨今話題な『つんでれ』というやつなのか。

 まあなんにせよ、こやつにもちょいと仕掛けてみるか、とマミゾウは頭の中でここからの策を考えようとし、

 

「ところでこないだの寄稿、なかなか評判よかったわよ。次もお願いね」

「ん? ああ、お安い御用だよ」

「嘘」

 

 死刑宣告だった。

 ほんの一瞬、髪が後ろになびく程度の風が吹いて、気づけばマミゾウの喉仏に紅葉扇が突きつけられていた。

 思考停止するマミゾウのすぐ目の前で、文が見覚えのあるインチキくさい笑顔を咲かせた。

 

「怪しいと思って声を掛けてみれば、やっぱりですか。誰ですかあなた?」

「は。あ、文? なにを言って」

「私の新聞に寄稿なんて、一度もしてもらったことないんですよね」

 

 ……おぉう。

 やられた。そういうことかと舌を巻いた。あまりに自然と振ってくるものだからなんの疑問にも思わなかったし、あの狐ならいかにもやっていそうだったのでつい頷いてしまった。

 もはや敗色濃厚と言わざるを得ないが、一応抵抗してみる。

 

「そ、そうだったかな。いやすまない、最近物覚えが」

「まあ、最初見たときからほぼわかってましたけどね。随分お粗末な変化じゃないですか」

 

 冗談じゃろ!?

 と、危うく本気で叫ぶところだった。化け狸の頭領となって以来、自分の変化を「お粗末」と評されるなど間違いなくはじめてだった。予想外すぎて気分を害す余裕もない。

 いや、お粗末なはずはないのだ。だって紅美鈴は無論のこと、フランドール・スカーレットだってひと目見ただけではニセモノと見破れなかったのだから。そしてニセモノとわかってもなお、十六夜咲夜は本物との違いをまったく判別できなかったのだから。

 なのにこの少女は、最初見た時点ですでにニセモノとほぼ確信していたという。

 マミゾウは生唾を呑みこみながら抵抗をやめた。それよりも問わねばならないことがあった。

 

「……後学のために聞かせてはくれんか。見た目だけなら完璧なつもりなんじゃが、どのあたりがお粗末なんじゃ?」

 

 文は事もなげに答える。

 

「どこがというわけではなく、こう、全体的に違和感があるんですよ。あいつじゃないやつがあいつの皮を被ってるんだって、もうパッと見でわかります」

 

 外見だけでは誤魔化せない内面の違いを、パッと見の印象として直感しているとでもいうのだろうか。

 ぐぬぬ、とマミゾウは唇を噛んだ。よもや射命丸文が、ここまで研ぎ澄まされた観察眼を持っていようとは。新聞記者の肩書きは伊達ではないと脱帽するべきか、こやつ普段からどんだけあやつのこと見ておるんじゃ、と呆れるべきか。

 

「……参った。どうやらおぬしを見くびっておったようじゃな」

 

 両手を頭の高さまで上げ、吐息し、

 

「外見だけでは惑わせぬほど、おぬしとあやつが親密な間柄じゃったとは」

「は、はあっ!? なに言ってるんですか、私は別に」

「隙ありィ!!」

「きゃあ!?」

 

 天狗の中でも指折りの大妖怪に正体を見抜かれては致し方ない。文が動揺した隙を逃さずまた煙幕を放ち、マミゾウはすたこらさっさとその場から退散した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 随分と舐められたもんだと思う。速さだけなら天魔にだって負けない自分から、こんな子供騙しの煙幕ひとつで逃げ果せようとするやつがいるなんて。多少不意を衝かれこそしたが、その気にさえなれば、ニセ月見が踵を返した瞬間電光石火でひねり潰す程度は造作もないことだった。

 ということはつまり、文はわざとニセ月見を見逃したのだ。

 追う必要性を感じなかった。

 

「……ま、あんなのに騙されるやつなんていないでしょ」

 

 だって、もう見るからにニセモノとわかるし。文ですらほとんどひと目でおかしいと気づいたのだ、他の少女たちなら当然一発で見抜くに決まっている。

 わざわざ文が世話を焼いてやるほどでもない。

 故に、追わない。

 別に慈悲を掛けているつもりはない。あのニセ月見にとっては、ここで捕まって天狗裁判にかけられる方がまだ幸せだったはずだろうから。

 

「どこのどいつかは知らないけど、命知らずなやつもいたもんだわ」

 

 このあとニセ月見に待ち受ける運命を想像すると、むしろ憐憫の情が湧いた。この幻想郷で月見の姿を騙ることがなにを意味するのか、やつは直に身を以て理解するだろう。

 文は、知っている。

 

 つい先ほど、水月苑に藤千代がやってきたのだと。

 

 

 

 

 ○

 

 

「――なぜじゃ。なぜバレる」

 

 森の中をすたこらさっさと飛んで逃げながら、マミゾウはそこそこ深刻に独りごちる。

 イタズラする間もなくニセモノと見破られ、尻尾を巻いておめおめと逃走する――化け狸の頭領としてあってはならないことが、立て続けに二度も起こってしまった。しかも、射命丸文からは「お粗末な変化」とまで言われてしまう始末だった。化け狸の名誉と誇りを揺るがす非常事態に、マミゾウはずぶずぶと思考の沼底へ沈んでいく。

 いっときは、まさか本当に自分の腕が鈍ったのかと疑った。

 しかし、冷静に考え直してマミゾウはその可能性を打ち消した。繰り返すが、紅美鈴もフランドール・スカーレットも見た目だけではニセモノと見抜けず、十六夜咲夜に至ってはまったく判別できなかった。見てくれだけなら充分上手く化けているはずなのだ。

 なのに、なぜバレるのか。

 外見が充分でも、立ち振る舞いや言動があまりにお粗末なのか。

 それとも、たまたま相手が悪かっただけなのか。

 マミゾウが知らぬうちに、幻想郷の妖怪が幻術に対する耐性を身につけたのか。

 確かめる必要がある。もはや、ちょっとイタズラして月見を困らせてやろうとか言っている場合ではない。万一本当に幻術が通じにくくなっているのなら、今後のマミゾウの活動にも甚大な影響が及ぶと言わざるを得ないのだから。

 

「……む」

 

 思考の沼底から浮き上がると、マミゾウは森の空気がにわかに変わったのを感じた。

 そこかしこに漂っていた妖気が薄れ、代わりに侵しがたいしんしんとした清澄が満ちてゆく。それでふっと思い出す。

 

「そういえば、このあたりには神社があるんじゃったか」

 

 どうやら物思いに耽って空を飛ぶうちに、山の頂上近くまでやってきてしまったらしい。

 再び思考。

 

「……確か、人間の巫女がおったはずじゃな」

 

 どうせここまで来てしまったのだ。いま一度人間相手に、己の変化が間違いなく通じることを確かめてみるべきかもしれない。

 そう判断し、やがて行く手に現れた石階段をひとっ跳びで登ると、博麗神社より少々広く見渡せる程度の神社がマミゾウを出迎えた。鳥居をくぐった先の境内では、若葉色の髪をした巫女がひとりぽつんと参道の掃き掃除をしていた。

 巫女――東風谷早苗がこちらに気づく。

 

「あ、月見さん! こんにちはー」

「ああ、こんにちは」

 

 自信と不安が相半ばし、緊張という名の重圧となってマミゾウの心にのしかかってくる。これで万が一早苗にまで見破られることがあれば、マミゾウはいよいよもってぬえの腑抜けっぷりを笑えなくなってしまう。ぬえに笑われる側になってしまう。そうなれば、きっと月見にだって呆れられるだろう。

 それは、いやだ。

 絶対に。

 果たして、マミゾウの願いが天に届いたのであろうか。

 

「ようこそお参りくださいました! お賽銭箱は準備万端大ウェルカムですよっ」

「……」

 

 ……バレてない?

 

「? 月見さん、どうかしましたか?」

「ああ、いや、」

 

 マミゾウは冷静に己を律する。まだだ、まだ安心するには早すぎる。東風谷早苗は人間なのだ、それとなくほのめかしても最後まで気づかれないのが当然と思わねばならない。

 少し勝負に出てみる。

 

「実はここに来る途中で、何人かから雰囲気が変わったって言われてね。早苗からも言われるんじゃないかって、ちょっと身構えてたんだ」

「え? ……うーん、私はいつも通りの月見さんだと思いますけど……?」

 

 ――よし。

 マミゾウは早苗に気取られぬよう、ゆっくりと細長い安堵のため息をついた。やはりマミゾウの変化は、人間相手ならばなんの問題もなく通じるのだ。少し気弱になりすぎていたと思う。杞憂だったと断言するにはまだ早すぎるけれど、多少は肩の荷が下りたような気がした。

 

「そうか、じゃあ気にしすぎかな。……賽銭、入れていくよ」

「どうぞどうぞっ」

 

 ささやかな感謝の気持ちを込めて、木の葉ではないちゃんとしたお賽銭を入れよう、とマミゾウは財布を取り出す。もはや、『月見の姿でイタズラして回る』という当初の目的を完全に忘却しているマミゾウである。

 掃除されたばかりの石畳を早苗に案内されながら進み、拝殿の前へ、

 

「――つうううううくみいいいいいいいいいいっ!!」

 

 尻尾の毛が逆立つ感覚。見れば母屋から飛び出し猛烈な勢いで突進してくる少女の姿、これはまさかフランドール・スカーレットの再来では、

 

「もふ――――――ッ!!」

 

 と思わず身構えたが、少女が全身で飛び込んだのはマミゾウの腹ではなく尻尾の方だった。

 この神社に祀られる神の一柱、洩矢諏訪子だった。

 

「あー、諏訪子様。ご参拝の邪魔しちゃダメですよぉ」

「えへへー」

 

 マミゾウは記憶の中から彼女に関する情報を引っ張り出す。マミゾウが生まれるより遥か太古から強大な信仰を司ってきた偉大なる神様だと、外の世界にいた頃から存在自体は聞き及んでいた。しかしその栄光も今は昔、現在は筋金入りのもふもふ愛好家で、とりわけ月見の尻尾が大好きで、月見と出会えば尻尾に抱きつくしか能がない末期な少女になっているとか。

 全身の緊張を解いた。マミゾウは眉間に皺を寄せ、

 

「諏訪子、お前は本当にそればっかりだね」

「月見が悪いんだよぉ。こんなもふもふが目の前にあったらね、そりゃあもう全身全霊でモフるしか――」

 

 蛙みたいに座って尻尾をぎゅうぎゅうしていた諏訪子が、ふと真顔になって沈黙した。目の前の尻尾を睨むように見つめ、両手でやたら撫で回して感触を確かめると、顔を埋めてそのまま数度呼吸する。

 おや? とマミゾウは思う。この流れ、なんだか少し前にも覚えがあるような。

 具体的にはどうしようもない嫌な予感が、尻尾からぞわぞわと背筋を這い上がってきたような、

 

「……違う」

 

 諏訪子が、尻尾から両手を離して立ち上がった。

 幽鬼がごとく。そうして紡ぐ言葉は、骨髄まで徹する呪詛がごとく。

 

「――お前、月見じゃないな」

 

 またこのパターンか、とマミゾウは現実逃避したくなった。

 

「え? す、諏訪子様、いきなりどうしたんです?」

「早苗、離れてなさい」

 

 諏訪子は戸惑う早苗にきっぱり言い切り、紛い物を鋭く見抜いた敏腕鑑定士のような顔つきで、

 

「モフみがね、違うんだよ。これは月見のモフみじゃない。どっかの誰かが月見に化けてるんだ」

 

 モフみとは一体なにか。

 

「決定的な違いさ。――月見の尻尾に枝毛はないんだよ」

「失敬なっ、儂だって毎日丹念に手入れ――あ」

 

 失言に気づいたときにはもう遅い。諏訪子の全身から壮絶な神気が迸る。隣の早苗が、「ぴいっ!?」と悲鳴をあげて腰を抜かすほどの波動だった。

 

「あっはっはっは。まさかこの私の前で、月見のモフみを騙ろうとするやつがいるなんてなあ――」

 

 どこか陶然とした甘い声音に鼓膜を撫でられ、マミゾウの尻尾の毛が一本残らず総毛立ってタワシと化す。

 たとえ愛らしい童女にしか見えずとも、それは紛れもなく、かつて土着神の頂点を極めた偉大なる大神の姿だった。

 

「よし祟る」

「す、すまんかったあああああっ!!」

 

 本日三度目となる煙幕を力いっぱい炸裂させ、マミゾウは一目散で逃走を開始した。

 しかし、それをみすみす見逃す洩矢神ではなかった。

 

「逃がすか」

「は? ……ぎゃあああああっ!?」

 

 放たれた諏訪子の神力が形を成し、バケモノとしか呼び様がない白い大蛇の群れとなって追いかけてくる。

 一匹一匹が、マミゾウを頭から丸呑みにできる巨大さだった。

 

「ちょ、そいつはさすがに冗談ならんぞ!? うっひょい!?」

 

 普通に命の危険すら感じて、マミゾウ、声がすっかり地声に戻っている。

 大蛇のまるで容赦ないひと噛みを思いきり躱し、そのままマミゾウの体は石階段をひとっ跳びして、そびえ立つ大自然の迷宮へと落ちてゆく。

 

「な、なぜこうなるんじゃああああああああッ!!」

 

 マミゾウの心からの叫びが響き渡り、麓の方から山彦が「なぜこうなるんじゃーっ!」と元気に返事をしたが。

 悲しいかな、どこかの誰かと口調が似ていたせいで、山の妖怪たちは誰ひとりとして気にしなかったらしい。

 

 

 

「か、神奈子様ー! 神奈子っ、助けてくださあああああい!?」

「ちょ、ちょっと諏訪子あんたなにやってんの!? 早苗が、早苗が腰抜かしてるって!」

「祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る」

「……いやほんとなにやってんの!? 諏訪子、ちょっと聞こえてる!? 諏訪子ーッ!!」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「く、くそう。なぜこんな目に遭わねばならんのじゃ」

 

 茂みと茂みの隙間にうずくまって身を寄せながら、マミゾウは心底理不尽な思いで唇を噛む。化け狸流逃走術でなんとか隠れることに成功したものの、一息つくのも許されない緊迫の状況なのは変わっていなかった。

 神経を尖らせれば、未だしつこくマミゾウを捜し回っている大蛇の気配。離れてはいるようだが油断は禁物だ。こちらの居所を気取られれば、あの大蛇なら地を滑るようにして一瞬で殺到してくるだろう。突如出現した神々しくも禍々しい大蛇の群れに、山の妖怪たちが混乱に陥ってあちこちを騒がしく飛び回っている。

 この隙に、早いこと山を下りなければならない。

 

「……よし」

 

 大蛇たちの気配がマミゾウから逸れた、そのわずかな隙を突いて茂みから飛び出し、慌てず素早く緑に紛れながら山を滑り降りていく。

 結局三度目の敗北を喫し、己の変化を検証するどころではなくなってしまった。今日のところはもうやめた方がいいのかもしれない。しかし図らずもここまで騒ぎになってしまったのなら、月見を困らせるという当初の目的は一応達成させるのだろうかと、

 

「――ぅおししょおおおおおおおおっ!!」

「げぼっふぉ!?」

 

 ぼんやり考えていたところを、痛烈なタックルで真横から刈り取られた。

 転倒。乾いた落ち葉と土の匂い、横倒しになった山の景色。

 

「……げふ」

「捕まえましたぁっ!」

 

 元気はつらつな声が真上から鼓膜に突き刺さる。なんとか首を動かして見てみれば、青と赤のオッドアイをまばゆいほど輝かせ、恥じらいもなく全身でぎゅうぎゅうのしかかってくる妖怪少女がいる。

 はて誰だったか、子分が集めた情報でこんな出で立ちの少女について聞いた気もするが、脇腹の痛みのせいで名前が思い出せない。少女はそんなマミゾウの心など露も知らず、夢と期待で胸がはちきれんばかりに言う。

 

「さあ、お師匠! 今日こそは、この小傘を弟子にしてくださいませっ!」

 

 それで思い出した。人間をおどかす極意とやらを究めるため、なぜか月見に弟子入りしようとしている付喪神のことを。

 そういえば、こんな子だった。

 

「……いきなり突進はやめてくれ。びっくりするじゃないか」

「あ、申し訳ありません……お師匠の姿を見た途端、いかんせんこの熱意を抑えることができず……」

 

 とりあえず、小傘に助けられながら起き上がる。そして服にくっついた落ち葉を払おうとするのだが、小傘にすかさず手首を掴まれ、

 

「今日こそは、今日こそはお師匠をご納得させてみせます! どのような試練でも必ず乗り越えてみせますとも!」

「お、おう」

 

 子分の情報にあった通りの、異様ともいえる並外れた熱意を感じてマミゾウは仰け反った。この少女、なぜここまで月見の弟子にこだわっているのか。すでに再三断られているらしいのに、どうして他の妖怪を頼ろうと思わないのか。というかどうして狐なのか。狸では駄目なのか。化かしにかけては狐より狸が上ぞ、師事を請うなら狸じゃろうが! と内心ぷんぷんと怒る。

 せっかくなので、それとなく誘導してみる。

 

「どうして私にこだわるんだい。……そういえば最近、化け狸の頭領が外からやってきたのは聞いたか? 狸も人を化かすのが得意な種族だから、私なんかよりよっぽど上手く教えてくれると思うよ」

「はあ、狸ですか? いえ、私の心は変わりませんとも!」

 

 ちょっとは興味持ってくれてもよいじゃろうがあっ! と吠えたくなるのを我慢しながら、やはり狐許すまじとマミゾウは改めて心に誓った。

 それにしても、なんだろう。脇腹を刈り取られた痛みのせいか、どうも先ほどから、なにか大切なことを忘れてしまっている気がするのだけれど――

 

「――!」

 

 そのとき、マミゾウの尻尾の毛が静電気みたいに逆立つ。

 まずい。

 見つかった。諏訪子の放った大蛇の群れが、恐ろしい速度で地を這いマミゾウめがけて殺到してきている。そういえば今の自分は、こんなところでこんな少女に付き合っている場合ではないのだった。どうしようもない後悔で天を振り仰ぐ時間もない。

 

「わ、悪い、そういえば急ぎの用があるんだった。また今度にしてくれ」

「え? ……まままっ待ってください待ってくださいっ!?」

 

 当然すぐさま逃げようとするのだが、小傘に綱引きよろしく腕を引っ張られた。それからマミゾウの背中に全身で飛びつき、なにがなんでも放さない不退転の力を両腕に込めて、

 

「そ、そうやってまた有耶無耶にするおつもりですね!? もうその手は食いません、ここで私の実力をお確かめください!」

「い、いや、本当に大急ぎなんだ! 放してくれ!」

「いーやーでーすーっ!」

 

 大蛇の気配が、全身に鳥肌の立つ勢いで迫ってきている。マミゾウは血の気が落ちるのを感じながらなんとか小傘を引き剥がそうとするものの、彼女は「いやですいやですいやですいやですいやですいやです」と人の背中に頭をぐりぐり押しつけ、全力全開のフルパワーで肋骨をへし折ろうとしてくる。別の意味で命の危機を感じたマミゾウはたまらず、

 

「わ、わかった! 弟子に取ろう! だから放してくれ!」

「っ……!! ほ、本当ですか!? 本当に……!」

「ああ、男に二言はない!」

「ほんとにほんとにほんとのほんとでほんとですね!?」

「本当じゃて!」

 

 小傘がようやく両腕を離した。マミゾウは額の冷や汗をぬぐいながら早口で、

 

「ただ、今は本当に忙しいんだ。日を改めて水月苑に来てくれ。な?」

「わ、わかりましたっ!」

 

 小傘は長い長い苦節がとうとう日の目を見たような、涙すらにじむ万感の笑顔だった。

 

「あ、あの! 私……私、すごく嬉しいです! ありがとうございますっ!」

「あ、ああ」

 

 目の前の自分を月見と信じてなにひとつ疑っていないそのまばゆさが、マミゾウの良心にぐさりと呵責の刃を立てる。なんだか百年振りくらいに、人を騙して罪悪感を抱かされた気がする。

 心の中で首を振る。

 まあ、あとは月見が上手いように取り計らってくれるだろう。弟子に取る気がないならきっぱり諦めさせればよかろうものを、あいかわらず甘っちょろいあやつの身から出た錆じゃ――そう思っておくことにする。

 

「それじゃあ、私は行くからね」

「はい! また明日、よろしくお願いしますっ!」

 

 もちろん、マミゾウはまったく夢にも思っていない。

 奇しくもこの口約束が、月見に心底頭を抱えさせる最大のイタズラとして成功を収めるのだと。

 

 

 

 

 

「や、やったっ、やったっ。遂に、遂にお師匠の弟子に……!」

 

 さて、マミゾウ扮する月見が去ったあと。

 小傘はその場でぴょんぴょん飛び跳ね、大声で叫びたい衝動を懸命に抑えながら喜んでいた。お百度参りで心願が成就したとき、或いは苦行を耐え忍んだ果てに仏の来迎を見たとき、きっと人間はこんな気持ちになるんだろうなと思っていた。

 月見が小傘に一体なにを求めているのか、自分で考えて修行に励む日々は決して楽ではなかったけれど。この感無量としか言い様がない達成感の前では、今までの苦悩もぜんぜん大したことではなかったと思えた。

 だからふっと、頭をよぎることがあった。

 

「そっか。もしかしたらお師匠は、とっくに私を弟子にしてくれていたのかも……」

 

 思考を止めて人ばかり当てにするのではない。己になにが必要か常に考え、行動を起こし、掴み取ろうとすることの大切さ――きっと月見は、それを小傘に教えようとしてくれていたのではなかったか。たとえ人をおどかす極意を知ったところで、自ら考え実践する能力がなければ宝の持ち腐れなのだから。

 小傘はすでに、月見から教えを授けられていたのだ。

 

「もー、お師匠ったら素直じゃないなあー」

 

 月見が聞いたら白目を剥いて現実逃避しそうなことを言いながら、小傘はえへえへととてもだらしなく笑った。

 

「よぉし。じゃあ明日早速、お師匠のお屋敷に行って――」

 

 背後で物音。小傘が夢見心地の世界から帰ってきて振り向くと、真っ白い木の幹が目の前にあった。

 疑問符とともに首を傾げる。こんな雪みたいに真っ白い木なんて、さっきまでなかったはずだけれど。

 上を見た。

 鎌首をもたげた蛇だった。

 

「へ、」

 

 小傘を頭からぺろりと丸呑みにしてしまいそうな、それはそれは巨大で凶悪な白い蛇だった。

 生きた心地がしないとはまさにこのことか。状況を理解した小傘の息がヒュッと詰まり、じわりと涙目になって、ぷるぷる震え出すこと五秒あまり、

 

「ぴぃやああああああああああッ!?」

 

 絶叫とともに脱兎のごとく逃げ出して、しかしその先が急な斜面になっているとまったく気づいておらず、

 

「ぎょああああああああ」

 

 足を滑らせ見事なヒネリを演出しながら、ごろごろと転げ落ちていくのだった。

 ついさっきまで幸せの絶頂だったのに、それがこのザマである。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 大蛇はもちろんあちこち飛び回っていた天狗たちの目すらかいくぐり、マミゾウは奇跡的に山の麓近くまで生還した。青々とした春の森林が開け、視界に飛び込んできたのは白い壁が特徴的な背の高い温泉宿だった。

 

「む、あやつの屋敷か……」

 

 ふとマミゾウの脳裏に、ここに隠れれば安全ではなかろうかと妙案が閃く。さすがの洩矢神も、贔屓にしている月見の屋敷なら手は出しづらいだろう。

 表の庭園に回ると、広い池のほとりで少女が三人、うららかな日差しの下で日光浴しながら談笑している。一人は、この池に住みついているという人魚のわかさぎ姫。

 そしてもう二人は、あろうことか鬼子母神と天魔であった。

 これ以上近づいてはいけないと全神経が大音量の警報を発して、踏みとどまったマミゾウの足がほんのわずかに土を鳴らした。

 こんな場所になど目もくれず、人里あたりまでまっすぐ逃げるべきだったのだ。

 

「……あ、マミゾウさんじゃないですかー!」

 

 佐渡に帰ろうかなあ。

 一応確認するが、今のマミゾウは月見に化けている。月見に化けているのだ。この際一万歩くらい譲って、ニセモノと見抜かれてしまうのはもはやいい。もうなにも言わない。だというのにこの鬼子母神は、ニセモノどうこうをすっ飛ばして初手一発目から「マミゾウさん」である。これはもはや、変化を見破った、という次元の話ですらない。はじめから変化とすら認識されていない。この少女にとって、化け狸の頭領たるマミゾウの変化などその程度のものでしかなかったのだ。

 

「こんにちは、マミゾウさん」

 

 マミゾウが世の不条理を嘆いているうちに、鬼子母神――藤千代が、いつの間にかはんなり笑顔で目の前にいた。もうやだこの鬼子母神。マミゾウは泣き出したい気持ちをこらえながら尋ねる。

 

「……なぜ、儂とわかった?」

「ふふ、やーですよマミゾウさんったら。私が月見くんを間違えるわけないじゃないですか」

 

 ハイ、ソウデスネ。

 

「それでマミゾウさん、どうして月見くんの恰好を? まさかとは思いますけど――」

 

 この屋敷に隠れれば安全じゃろうなどと考えた数十秒前の自分を、マミゾウは全身全霊でバリバリ引っ掻いてやりたい。

 

「――月見くんの恰好で、なにか悪いことをしようとしてるわけじゃないですよね?」

「も、もう堪忍してくれえええええ!!」

 

 本日もう四度目になる煙幕を炸裂させ、マミゾウは泣きたい気持ちをすべて飛翔する力に変えようとした。

 

「はぁい、じゃあちょっとお話聞かせてもらいますねー。逃げようとするなんてますます怪しいです」

「……ぅえ?」

 

 気がついたときには、藤千代に襟首を掴まれズリズリと引きずられていた。

 驚くことは、なかった。いつなにがどうなったのかなんて、考えるだけ無駄だと悟った。ただ、ああ儂もこれで終わりか、という静かな諦めだけが己の心に生まれた。

 佐渡に帰ろう、と思う。緑と青と人情豊かなあの島で、子分たちと健やかに暮らしていこうと。妖怪同士のいざこざもなく平穏無事に暮らしていたあの頃が、なんだか走馬灯みたいに懐かしかった。

 

「マミゾウさん」

 

 藤千代が転がす言葉は、花がほころぶように可憐で優しかったけれど。

 心の中でさめざめ涙を流すマミゾウにとっては、地獄の裁判よりも無慈悲な有罪判決に他ならなかった。

 

「――正直に、話してくださいますよね?」

「………………はい」

 

 抵抗など、しようとも思えなかった。

 玄関のあたりまで引きずられたところで、視界の端に天魔の姿が割り込んでくる。マミゾウのすぐ傍で膝を折り、その上に頬杖をついてけらけら笑うと、

 

「なにやっとるんじゃお前さんは。バカなやっちゃのう」

 

 おぬしにだけは言われとうないわと、マミゾウは心の底から思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 やっとのこと輝夜から解放され、月見が水月苑に戻ってきた頃にはもう日も沈んでいた。

 庭でわかさぎ姫にただいまを言おうとしたのだが姿が見えず、屋敷の方から笑い声やら怒号やらの騒ぎが聞こえてくる。どこかの少女たちがまた勝手に集まって、宴会を開いては騒ぎ散らしているらしい。

 人の留守に勝手なことを、と嘆くだけの常識はとうに麻痺している。むしろこうなることを歓迎するように、月見はわざと錠を下ろさず出掛けていたのだから。

 さて今日は誰が集まっているやらと思いながら、履物を脱いで茶の間の襖を開けると、

 

「――何度でも言ってやるわ、儂はぜえええったいにお前さんなんぞ認めんからな!! 儂のアイデンティティは儂だけのもんじゃあああああっ!!」

「知ったことかそんなものおおお!! 儂は生まれたときからこの喋り方じゃぞ、おぬしにどうこう言われる筋合いなどないわぁ!!」

「……」

 

 なぜか操とマミゾウがお互いマウントを取り合いながらぎゃーぎゃーケンカしており、それを放置して中央のテーブルでは、藍、わかさぎ姫、藤千代が和気藹々と酒を傾けていて、更には紫が藍の九尾に頭から食われていた。

 ある意味、日常の光景であった。

 

「あ、旦那様ー」

「おかえりなさいませ、月見様」

「おかえりなさーい」

「ただいま」

 

 日が落ちる前から呑み始めていたのだろう。わかさぎ姫と藍は頬がほんのり色づいていて――藤千代はいつも通りケロリとしている――、空になった酒瓶が畳で何本も並んでいた。「月見!? 月見帰ってきたの!?」と紫の下半身が見苦しく暴れ出す。

 月見は操とマミゾウのキャットファイトを一瞥し、

 

「で、なんだいこの騒ぎは」

「アイデンティティの闘争らしいですよー」

 

 よくわからない。藤千代が止めないということは、大した争いではないのだろうが。

 月見が腰を下ろそうとする前に、操とマミゾウがこちらに気づいた。ケンカなんかしているせいで変に酔いが回ったようで、二人ともかなり顔が赤くなっていた。

 

「あ、月見! よーし月見が戻ってくればこっちのもんじゃ、お前さんからもなんか言ってやって!」

「ええい卑怯な! おい、ぬしはこやつと違って事の道理がわかる男よな!?」

「あ? 遠回しに儂のことバカって言ってる? おぉん?」

「はいはい、一体なんの話をしてるんだい」

 

 操がマミゾウの上から離れる。よれた着物を整えながら正座して、マミゾウを横目で睨みつけながら口を尖らせる。

 

「儂はな、前々からこの化け狸が気に入らなかったんじゃ」

 

 思わぬ告白に月見は目を丸くした。

 

「そうなのか? 初耳だが」

「今まではお互いテリトリーが離れていたからの、儂もわざわざ言いはせんかったのじゃ。しかし、同じ幻想郷の住人となってしまってはそうもいかん」

 

 操は憤懣(ふんまん)遣る方なく己の膝を叩き、その手でマミゾウを槍のごとく指差すと、

 

「儂とこやつは――キャラが被っとる!!」

「は?」

「儂のこの喋り方! 口調ってやつ! 被っとるんじゃよ! こいつは儂だけのアイデンティティだったのにぃっ!」

「だから、仕方なかろうと何度も言うておるじゃろうに! 儂は生まれてこの方この口調なんじゃ、今更文句なぞつけられたとてどうしようもなかろう!?」

「儂の方が昔からこの喋り方じゃも――――――ん!!」

 

 想像以上に下らなくて、月見は反って安心した。

 操とマミゾウが使う、古風で年老いた印象を与えさせる言葉遣い――(おうな)言葉とでも呼ぼうか。確かに今までは、月見の友人の中でもそんな喋り方をする少女は操だけだった。口調自体が、操ならではの個性(アイデンティティ)として成立していたわけだ。

 しかしマミゾウがやってきたことで、嫗言葉を使う友人が二人に増えた。

 それでアイデンティティ崩壊を危ぶんだ操が食って掛かり、現在のキャットファイトへ発展した、という話のようだった。

 

「藍、私の分は残ってるかい」

「はい。取ってありますので、持ってきますね」

「ありがとう」

「あれ月見、こっちは!? こっちの話がまだ途中じゃよー!?」

 

 勝手にやってなさい。

 

「月見いいいいいっ!!」

 

 藍が席を立つと、その九尾から紫がすっぽ抜けた。散々に乱れた髪も整えぬまま、すぐさま畳を滑って月見の肩に掴みかかってくる。なぜかのっけから頬を膨らませてご乱心の様子で、

 

「月見、ねえ聞いてちょうだいなっ。あの狸、今日一体なにをやってたと思う!?」

「お、おいスキマの、その話は!」

「おりゃあっ!!」

「ぬわー!?」

 

 操がマミゾウの背中に馬乗りになって押し倒し、

 

「聞け月見! こやつ昼間、お前さんに化けてあちこち歩き回っとったんじゃ!」

「私に?」

 

 月見は片眉をあげた。一瞬、どうしてマミゾウがそんな真似をするのかと疑問が浮かび、

 

「月見の恰好でイタズラして回って、あなたを困らせようとしてたのよっ。藤千代が捕まえてくれてなかったら、今頃どうなってたか!」

「ま、結局ほとんどみんなにニセモノだって見破られて、散々な目に遭っただけだったらしいがのー」

「……おぬしらの尋問が一番散々じゃったわ」

 

 なるほど、だいたいわかった。あのとき月見が遅くまで戻ってこないと知ったマミゾウは、月見に化けてイタズラして回ることで嫌がらせをしてやろうと思い立つ。しかし恐らくは、マミゾウの変化になにか不手際があって、次々正体を見破られて思わぬ騒ぎになってしまったのだろう。そしてたまたま地上にやってきていた藤千代に捕縛され、紫や操も交えて事情聴取が行われたのち、いつしか酒が入って宴会になっていたと。

 

「ほら、月見からもなにか言ってやって!」

 

 紫に促されて月見は考える。勝手に名前と姿を使われたのは確かに複雑だし、それでもし月見の世間体が傷つけられる事態になっていたならば、一言物申したい気持ちにも駆られるだろうが。

 

「でも、みんな引っ掛からなかったんだろう?」

「え? ……うん、私がちゃんと説明しに行ったし、大丈夫だと思うけど」

「ならいいさ。二度は勘弁してほしいけどね」

 

 結局のところマミゾウの計画は散々な結果で終わったらしいし、紫や藤千代がこってり油を搾ってくれたともわかる。それに月見が意見したところで、相手がマミゾウでは反って反感を持たれるだけだ。何事もなく終わった話なら、水に流してしまうのが一番いいかと思った。

 紫が嘆息した。

 

「もー、あいかわらず甘いんだから……」

「今日は輝夜に散々付き合わされて疲れた。怒る気力もないよ」

 

 だが、腸に据えかねるように歯軋りしたのが一人だけいた。

 

「……ぬしは、」

 

 マミゾウだった。

 背にまたがる操が、驚いてよろめくほどの大声だった。

 

「――ぬしはまた、またそうやって儂をコケにするつもりかっ!!」

 

 月見は目を白黒させる。マミゾウはなおも声を張る、

 

「ぬしはいつもそうじゃ!! 儂がなにをやってもまるで歯牙にもかけん!! ぬしにとって、儂はそこまで相手にする価値もないつまらん妖怪なのか!?」

 

 話が見えず月見は口を挟もうとする――が、操にそっと視線で制された。いいから聞いてやれ、と言われた気がした。

 

「ぬしは、儂が生まれてはじめて負けた男なのじゃぞ!? あのときの屈辱は未だに覚えておる、じゃから、いつか必ず追いついて、その涼しい顔に一泡吹かせて……! 儂が、もうあのときの子狸とは違うと、そう、思い知らせてくれようと、ずっと、ずっと、思うておるのにぃ……!!」

 

 マミゾウは、酔っていたのだと思う。酔って、いつもならきつく締められているはずの理性のタガが緩んで、ずっと奥底で煮え続けていた本心が垣間見えていたのだと。

 月見はずっと、思い違いをしていたのかもしれない。

 どうしてマミゾウが月見を目の敵にし、出会うたびに突っかかってくる真似をしてきたのか。

 あの日受けた屈辱を晴らすため。狐が嫌いだから。もちろん、どちらも事実ではあったのだろう。

 しかしそれ以上に、マミゾウは、

 

「ぬしにとって、儂は。儂は今でも、あの日の子狸のままなのかぁ……っ!!」

「……」

 

 マミゾウは、認めてほしかったのだろうか。

 そう考えると自分の今までの行動が、マミゾウにとってどう映ってきたのか理解できた気がした。突っかかられるたびにできる限り穏便にやり過ごし、どれだけ敵意を向けられようと同じ妖怪として接し続けてきた。けれどマミゾウにとってみればそれは、本気で戦うにも値しない、応えるだけの価値もないと小馬鹿にされているようなものだったのかもしれない。

 なんともまあ、小さく笑みの吐息がこぼれた。ひどいすれ違いもあったものだと思った。

 マミゾウと出会ったあの日から、今日まで遥か千年以上。彼女を取るに足らない子狸と見下げたことなんて、月見はただの一度だってありはしないのだから。

 マミゾウの目の前に、胡坐をかいて座った。操がマミゾウの背から静かに離れる。

 

「もうあのときの子狸とは違う、か。わかっているよ。……ずっと昔から、わかっていたさ」

「っ、」

 

 マミゾウが起き上がる。小さく鼻をすすり、

 

「……嘘つけ。儂がなにをやってもぬらりくらりとしてちっとも動じんくせに。内心では儂を小馬鹿にしておるんじゃろ」

「見えるかい、そんな風に」

 

 無言、

 

「はじめお前と会ったとき、将来はきっと名のある大妖怪になると思った。そして事実、お前は化け狸の総大将になった。風の便りでその話を聞いたときは嬉しくなったものだ。それで祝いに佐渡まで行ったら、飛び蹴りで盛大に歓迎されたね。あのときはさすがに少し慌てたっけ」

「……」

 

 操が猪口に酒を注ぎ、そっとマミゾウの膝元へ置く。マミゾウはそれを一息で喉に流し込む。操に猪口を突き返し、

 

「……儂がもうあの頃の子狸ではないと、本当に認めておるのか」

「ああ」

「ならなぜ、儂がなにをやってもまるでどこ吹く風なんじゃ。あの頃とまったく変わらんではないか」

「それとこれとは違う話だ。争い事が好きじゃないのは知ってるだろう? お前が名のある大妖怪になったならなおさら、いちいちケンカするのは御免なんだ」

 

 マミゾウは、目が完全に据わっていた。腹の底まで見透かそうとするように月見を睨みつけ、操が猪口にもう一度酒を注ぐや否や、なんの迷いもなくまた一瞬で呑みほした。

 空になった猪口ごと、畳に拳を叩きつけ、

 

「――ああもう、本当に骨のないやつじゃな!! ぬしにプライドというもんはないのか!? ぬしは儂が唯一ライバルと認めた男なんだから、たまにはちぃとでも妖怪らしいところを見せたらどうなんじゃ!! 儂を一人前と認めるならやり返してこんか!!」

「……いやお前、私がやり返すとますますうるさく」

「売り言葉ってやつじゃ察しろばかぁっ!!」

 

 ただでさえ操とケンカして変に酔いが回っている上、追加の酒まで一気に呑むものだからマミゾウは完全に酩酊(めいてい)していた。長年胸に堅く秘められていた本心が、いよいよ堰を切ったごとく次々と吐き出されていく。

 マミゾウは、自分がもうあの頃の子狸ではないと、一人前の妖怪なのだと月見に認めてほしかった。

 しかしそれも、ただ単に認められたかっただけではない。月見になにかと食ってかかる真似を繰り返してきたのは、自分が狸であり、月見が狐であったが故に、

 

「つまりお前さん、月見にやり返してほしかったんか? えっもしかしてそういう趣味? さすがにちょっと引くわー」

「おぬしにだけは言われとうないわ!!」

「はー!? まるで儂までそういう趣味があるみたいに聞こえるんですけどー!?」

「おーおー違うんかのう部下に毎日追いかけ回されとる駄天魔様がァ!!」

 

 ふしゃー!! と目を鼻の距離で威嚇し合う二人はさておいて――自分が生まれてはじめて敗北を喫し、かつ一応はライバルとして認めている唯一の男が、ちっとも張り合いのない昼行灯な生き方ばかりしていて気に入らない。

 マミゾウは人間の世と積極的に交わる革新派であり、一方で妖怪は妖怪らしくあるべしという昔ながらの思想を重んじる保守派でもある。現に旧友のぬえが水月苑で堕落しきっていくのをよしとせず、妖怪らしい牙を取り戻させようと半ば強制的に外へ連れ出した。それはそっくりそのまま、月見にも当てはめられる話だったというわけだ。

 もっともわかったところで、これはいかんともしがたい問題である。月見は今の生活が気に入っているし、骨がないと言われて反抗心を燃やす若さもとうに失ってしまった。マミゾウが思い描いているであろう、互いに勝負を繰り返し(しのぎ)を削っていくような関係はまったく想像ができなかった。

 スキマから取り出した櫛で髪を整えながら、紫がため息をついているのが見えた。

 

「はあ、やっぱりなんだかんだ言ってそこまで嫌ってないパターンじゃない……。外の本で読んだことは間違ってなかったんだわ。ぜんぶ憎からず思う気持ちの裏返しなのよ」

「でも紫さん、月見くんに骨がないなんて……まだまだ月見くんのことがわかってないと言わざるを得ません。私たちの敵ではないですよっ」

「……それもそうねっ。いざというときは火傷しちゃうくらいまっすぐな男だって、私たちは知ってるものね!」

 

 ねーっ! となにやら藤千代と意気投合しているが、もちろんのこと、聞き流しておいた。

 

「ひめ、私にも酒をもらえるかい」

「あ、はいっ。ええと、こちらにどうぞ!」

 

 藍が肴の支度で席を外している今、月見の心を癒してくれるのはわかさぎ姫だけである。立ち上がると、マミゾウが操をビンタで張り倒してまっしぐらに裾を掴んできた。

 

「おいこら待て、まだ儂の話は終わっておらんぞ! この期に及んでまた逃げるつもりかっ!」

「逃げないって、私も酒を呑むだけだよ。聞いてやるからお前もこっちにおいで」

「なんじゃその態度はぁ!! ぬし、絶対儂をまだ小娘だと思うとるじゃろ!? 確かにぬしほど長生きはしておらんがな、背は伸びたし体つきだっておい待て話を聞け――――――ッ!!」

「オルァさらっとなにしてくれとんじゃこのタヌキ――――――ッ!!」

 

 マミゾウが酒に弱いという話は聞いたことがないし、実際妖怪の中でも強い方だと思うのだが、ひとたび酔っ払ってしまえばなかなか面倒くさい愚痴上戸になるらしく。その後は隣の席を陣取られ、美味しい酒と肴をつまみながら、耳が痛くなるまでひたすら愚痴に付き合う羽目になるのだった。

 けれど、まあ。

 

「よいか、ぬしは狐の中でも一番長く生きておる実質的な頭領みたいなもんじゃろうが! 毎日毎日太平楽を並べてばかりおらんで、ちっとはその立場に見合った生き方をしたらどうなんじゃ! そうすれば儂も……まあちょっとくらいは見直さんでもないというかなぁ! おい聞いておるのか! こっち見んか!」

「はいはい」

 

 マミゾウがこちらをどんな風に見ているのか、その本心をなにからなにまで赤裸々にしてもらえたのは、悪くなかったかもしれないと月見は思う。

 これからはこの少女とも、もう少しばかり上手く付き合えるようになれそうだった。

 

 

 

 

 

 ちなみに宴は夜がとっぷり更けるまで続き、この日一番酒を呑んだマミゾウがすっかりぐでんぐでんになって眠ってしまったため、空いている部屋で寝かせてやったのであるが。

 太陽が丸く顔を出した次の日の朝、目を覚ましたマミゾウはとてつもなく神妙な様子で、

 

「……のう、ぬしよ。昨晩のこと、覚えておるか?」

「昨晩というと?」

「じゃ、じゃから、その……儂が、酔って、なにを言ったか、とか」

「ああ、そりゃもちろん」

「しゃ――――――――ッ!!」

「いだだだだだ!? ぐっ」

 

 酔っ払ってからの記憶がぽっかり抜け落ちているなんて、そんな都合のいい話はなかったようで。

 はじめて出会ったときよろしく月見の顔面を引っかき、足裏で蹴りまでお見舞いして、マミゾウは半泣きで水月苑から走り去っていくのだった。

 

「ぬしなんかだいっきらいじゃあああああああああっ」

「……」

 

 酔っ払って自滅という恥辱にまみれたその背中は、あの日見た子狸と同じ背中だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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