銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第136話 「受け継がれるもの」

 

 

 

 

 

 月見の朝は少々早い。

 今の季節なら、まず朝日相手に後れを取ることはない。よほど夜遅くまで酒に付き合わされでもしない限り、この目覚めの時間は季節を問わずほとんど一定だ。元より睡眠を人間ほど必要としない妖怪だし、長年の歳月で体内時計が凝り固まったのか、昨今は惰眠を貪れば反って調子が狂うくらいだった。

 歳というやつなのか。

 どうあれこの日も月見は、まだ部屋が薄暗いうちに自然と目を覚ます――はずだった。

 

「……お父様ー。あのー、そろそろ起きますかー……? それとも、起きませんかー……?」

 

 目覚めを間近に控えた半覚醒の意識が、馴染みの薄い少女のささやき声を聞いた。これは非常に不可解な出来事である。水月苑は月見の屋敷であり、池にわかさぎ姫が住みついている他は同居人などいないし、ましてや比較的早起きな月見を寝室まで起こしにくる少女となれば、名前を挙げる方が難しいくらいだ。今の時期に限っては藍が居座っているけれど、しかし半覚醒の意識でも、この声の主が彼女でないとだけははっきりとわかった。

 では、何者か。

 

「あのー、よければ朝ご飯の支度をお手伝いなどしてみたいと思いまして……さすがに、まだ早いでしょうかー……?」

 

 誰だっけ。

 普通に考えれば、この時間の水月苑で少女の声を聞くなどありえない。とはいえそう考えてみると、ありえないことが起こってもおかしくないほど劇的な変化が、つい最近身の回りで起こったばかりのような気もしてくる。

 なんだったっけ。

 

「…………そういえば命蓮も、こうしてお父様を起こしたりしたのかしら……」

 

 まだ頭の中が微睡んでいるし、まぶたも上げられない。

 しかし放っておいても害はなさそうだし、自然と目が覚めるまでもう少しゆっくりしていようかと思ったら、

 

「じ――――……」

 

 妙な視線を感じたので月見は目を開けた。

 目の前――およそ手を軽く掲げる程度の位置で、少女が月見をじーっと覗き込んでいた。

 

「……」

「……あ」

 

 咄嗟に少女の名が出てこない。月見は片目をこすり、

 

「んん……なんだ……?」

「ふわっ――ごごごっ、ごめんなさい!?」

 

 少女の顔が、月見の視界の外へ素早く消えた。月見はしばし、白々明けの薄暗い天井を見上げたまましかめっ面で考え込む。まだ名前が出てこない。視界の外から声、

 

「いえいえ、違うんですよっ? 今のはその、起きてるのかなーとちょっと気になって覗いてみただけで、決してお父様の寝顔を盗み見る真似をしていたわけではなくてですねっ。軽い気持ちのつもりが思いのほか見入ってしまったなんて、まさかそんなそんな」

 

 首を横に転がす。月見の枕元でガチガチに正座をして、息つく暇もない早口言葉を大量生産している少女がいる。根元の紫から先の金色にかけて、グラデーションで変化していく特徴的な髪の色。

 思い出した。

 

「ああ、白蓮か……」

「お、おはようございます……」

 

 月見は再度天井を見上げ、手の甲を額に乗せて吐息した。だんだん頭がはっきりしてきた。そういえばそうだった。今年も残すところあと数日となった幻想郷で、つい昨日新しい人間が一人ばかり増えたのだ。

 ――命蓮があなたを『父上』と呼んでいたんですもの、私も『お父様』とお呼びしていいですよね?

 そんな超理論を引っ提げてやってきた、押しかけ女房ならぬ押しかけ義娘(むすめ)――聖白蓮が。

 そういえば、そうだった。

 

「あ、あの……も、申し訳ありません、起こしてしまって……ご迷惑、でしたよね……」

「いや、違うよ。そういえばそうだったなあと、思ってね」

 

 疑問符を浮かべる白蓮に月見は一言、

 

「『お父様』」

 

 白蓮がほんのりと紅葉を散らした。

 

「ええと、その……今は一応、ふたりきり、ですのでっ……」

「……昨日、早速ナズーリンにバレたけどね」

「……うぅ」

 

 昨夜晒してしまった醜態を思い出し、白蓮の両耳が茹でダコになった。

 まさか『お父様』と呼び始めたその日のうちにいきなりバレるなんて、いくらなんでも早すぎではないかと月見は思う。今後ナズーリンからなにかにつけからかわれるかと思うと若干気が重い。ナズーリンの節度と良識を信じて、最低限言い触らされないことを祈る他ない。

 

「以後、本当に気をつけます……」

 

 ――考え直す、という選択肢はないんだな。

 姉弟揃って、本当に妙なところが似通っている――そう内心苦笑しながら、月見は起き上がった。

 

「しかし、早起きだねえ。まさか起こされるとは思わなかったよ」

「あ……」

 

 やや妙な間があったが、寝起きの月見はそこまで気が回らなかった。

 

「ええ、その、これでも尼だからでしょうか……今でも、体に染みついてるみたいなんです。それにお寝坊すると、反って調子が悪くなってしまうので……」

「そうか。調子が狂うのは私も同じだ」

「あら……そうなんですね。ふふっ」

 

 白蓮は、なんだかとても満ち足りているように見えた。野郎なんかの寝起きに立ち会ってなにが楽しいのやら、月見にはいまひとつよくわからなかったが、今は彼女がこうして笑えているだけでよしとしよう。

 

「それで、朝食の支度だったかな。藍がそろそろ起きてくると思うから、いろいろ教えてもらってくれ」

「そうですね……早く今の時代に追いつかないと、ですよね」

 

 なにせ、およそ千年分の時差ボケである。一日でも早く今の時代に馴染むため、これからたくさんの勉強と経験の日々が白蓮を待っているのだ。そのためにも、幻想郷で生活してゆく基盤はちゃっちゃと整えてしまうのが望ましい。

 

「それじゃあ一段落したら、人里を案内するからね」

「はい。お願いします」

 

 白蓮が幻想郷でも尼僧として生きる道を選ぶなら、無論第一候補は人里以外にない。当てはある。殊更その分野において白蓮たち僧侶はまさに専門家集団だから、慧音も助かったとばかりに歓迎してくれるだろう。

 外の世界でも幻想郷でも、死者の弔いはもっぱら仏式が主流。

 すなわち現在専任が不在となっている、里の墓地の管理職である。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ところでナズーリンは、昨夜の騒動をあまりよく覚えていなかった。一階に下りてきて月見と鉢合わせしたところまでは覚えているが、そこから先が頭をシェイクされたようにおぼろげだと。実際白蓮にシェイクされたんだよと月見が伝えると、むしろ納得が行った様子で眉間の皺を揉みほぐしていた。

 ナズーリン曰く。

 白蓮には昔から、口では挽回できないほど追い詰められると武力行使に出てしまう一面がある。法力や魔力による身体強化を得意とする上、長年武芸もかじっていたのであれで筋金入りの武闘派なのだ。かつて寺にいた頃は、『お稽古』と称してムラサや一輪を泣かせたり、修行といって薪を素手で割ったりしていた。

 人は見かけによらないとはこのことか。

 しかしそれでも、人の記憶を抹消するほどの暴走はさすがにはじめてだったようで。一体なにが原因だったんだろうねえと絶妙な愉悦顔で絡んでくるナズーリンは、どこかの覚妖怪とアツく酒を酌み交わせるに違いなかった。

 朝食を片付けたあと、一番はじめに支度が整ったのは月見だった。みんなの準備ができるまでの間、わかさぎ姫に挨拶でもしようと思って玄関の戸を開ける。

 と、

 

「月見はっけん! とつげき――――っ!!」

「「「たあ――――――――――っ!!」」」

「ぶっ」

 

 どうやら、息をひそめて今か今かと待ち伏せされていたらしい。月見が玄関の戸を開けた瞬間、元気はつらつな掛け声とともにフランからタックルを叩き込まれ、オマケでチビ妖精たちが顔やら腕にべたべたとくっついてきた。一瞬で妖精まみれと化した月見が呆然としていると、背後から小走りの足音と白蓮の声が、

 

「月見さん、今なにか大声が――へ!? あ、あの、大丈夫ですか!?」

「……なぁに、これくらいいつものことだよ」

「……そ、そうなんですか?」

 

 つい一昨日もあったばかりです。

 このチビ妖精たちも、毎回月見なんかにくっついてなにが楽しいのやら。月見が顔面のチビ妖精をひっぺがすと、まず見えたのは玄関先でえへんと仁王立ちするチルノだった。

 

「ふっふっふ……さー月見、大人しく観念しなさいっ!」

 

 その隣では大妖精が、フランが放り投げたと思しき日傘を丁寧に畳んでいる。右腕にバスケットを提げた姿がなかなか様になっていて、わんぱく少女たちを引率する年長のお姉さんらしく見える。

 

「もー、チルノちゃんってばまたそんなのばっかり……。ちゃんと挨拶しなきゃダメでしょー?」

「これがあたい流の挨拶よ!」

「もぉー……」

 

 ここに来るまでの間もいろいろあったのか、まだ朝っぱらだというのに大妖精はもう疲れた顔をしていた。

 

「おはようございます、月見さん。朝からお騒がせします……」

「ああ、おはよう」

「つくみおはよー!」

 

 フランの虹色の翼が、今日も今日とて元気いっぱいご機嫌に揺れている。

 

「チルノちゃんたちに誘われてー、お船に乗せてもらいに来ましたっ」

「ん? ……ああ、破片を返してもらったときの」

「そーよ! まさか忘れたとは言わせないわ!」

 

 そういえばそんな約束もしてたかなあと月見は思い出す。昨日までの二日間、いろいろなことがあったせいですっかり記憶に埋もれてしまっていた。

 尻尾を使ってチビ妖精を払い落とすと、あちこちからきゃーきゃーと楽しげな歓声があがる。後ろを振り向き、話しかけてよいのかどうかわからず棒立ちしている白蓮へ、

 

「この妖精たちが、聖輦船の破片を面白半分に集めててくれたんだよ」

「ああ、みんなから話は聞きました。そうですか、この子たちが……」

「あ、さてはあんたがあの船の持ち主ね!」

 

 チルノに威勢よく指差され、むしろ話しかけてもらえて嬉しそうに白蓮は膝を折った。

 

「はじめまして。聖白蓮です」

「ヒジリビャクレン? あははへんてこな名前ね! ぎゃん!」

 

 大妖精の鮮やかな手刀がチルノの脳天を一閃し、

 

「ごめんなさいごめんなさい! ち、チルノちゃんはただのバカなのでっ!」

 

 しかし白蓮に気を害した様子は欠片もなく、ただただ微笑ましそうに目元を緩めている。きっと、小さい子どもの相手をするのは好きなのだろう。

 

「私たちの船に乗りたいの?」

「そーよ! あの船のぱーつ?をあたいたちが集めてやったんだから、こーかんじょーけんよっ」

「ええ、いいわよ。いっぱい楽しんできてね」

「へー、なかなか話がわかるやつじゃない! むにゅにゅにゅにゅ」

「そこはありがとうって言わなきゃダメでしょー! もおー!!」

 

 よく伸びるチルノのほっぺたを尻目にフランが手を挙げ、

 

「はいっ、フランドール・スカーレットです! フランって呼んでね!」

「はい。よろしくね、フランちゃん」

「お船に乗せてくれてありがとうございますっ。お菓子もいっぱい作ってもらったからすごく楽しみ!」

 

 なるほど、大妖精が腕から提げているバスケットはそういうことらしい。そこまで準備万端でやってきてしまったのなら、これから用事があるからと言って今更断るのも気が引ける。

 

「月見」

 

 折よく、ナズーリンが様子を見にきてくれた。チビ妖精たちが月見の尻尾で無邪気に遊んでいるのを見て、ふっと鼻息で笑い、

 

「あいかわらずだねえ、君は」

 

 喋る珍妙なおもちゃに思われてるんだろうよ、と月見は半分諦めながら思う。

 さておき、事情を説明して作戦会議を始める。妖精たちが押しかけてきたのは想定外だったが、考えようによってはかえって好都合かもしれない。それはナズーリンも同意見だったようで、

 

「なるほど。ならいっそ、天狗と河童も一緒に乗せて遊覧飛行した方が早いかもしれないね。どうせならまとめて片付けてしまった方が……」

「できるかな」

「大丈夫だろう。ムラサと一輪、あとは私も船に残ろう。考えてみれば、最初から私たち妖怪までぞろぞろ付いていく必要はないだろうしね」

 

 つまり里へは月見と白蓮、そして星の三人で向かうということだ。面倒事はこっちで引き受けるから、君たちは里でさっさと住む場所を見つけてこいと言っているわけである。

 

「ありがとう。助かるよ」

「礼には及ばないさ。元々、破片探しで助けてもらったのはこっちなんだから」

 

 痺れを切らしたチルノが両足で飛び跳ねている。

 

「なんでもいいから早くしなさいよぅ! 急がば急げって言葉を知らないの!?」

 

 『善は急げ』なら知ってるよ、と月見は心の中で答えながら。

 

「もうすぐみんな下りてくるだろうから、先に船で待っててくれるかい」

「だそうだ。ほら、行った行った」

「「「はーい!」」」

 

 月見に背を押され、妖精軍団+フランが各々好き勝手に庭へ散らばっていく。チルノは大妖精を引きずって早速甲板へ乗り込み、フランはわかさぎ姫を誘いに行って、一部のチビ妖精は暇潰しに弾幕ごっこで遊び始める。水月苑の庭で、あっという間に少女たちの途方もない歓声がこだまする。

 

「ふふ。みんな元気いっぱいですね」

「……本当にね」

 

 ひっきりなしに飛び回るわんぱく少女たちを眺めていると、なんだか遠足の引率者のような気分になってきた。

 幻想郷は、本日も平和です。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 聖輦船が里の外縁部に停まる。月見の後ろに続いて白蓮と地上へ降りると、甲板から「いってらっしゃーい!」と大きな見送りの声が聞こえた。振り向くと吸血鬼や人魚の子を先頭に、妖精たちが可愛らしく手を振ってくれている。なんだか家族が増えたような暖かい心地になりながら、星も頭の上で大きく手を振り返す。

 正直なところ星は、少しだけ怖かった。このまま月見と一緒に、里の中へ入っていくのが。

 昔のことを、思い出してしまうから。

 聖が夢見ていた世界だとナズーリンは言う。星も、概ねはきっとそうなのだろうと思っている。しかし「概ね」という評価に留めるのは、幻想郷のすべてをこの目で見たわけではないからだ。水月苑に集まる少女たちは、確かに種族の垣根というものを知らなかった。けれどそれは、水月苑が――星の見た場所が例外だっただけではないか。たまたま月見の周りに特別な少女たちが集まっているだけで、ひとたび水月苑を遠く離れてしまえば、そこに広がっているのは昔と変わらない確執の光景なのではないのか。そんな思いが、星の心の片隅に絶えず不安の影を落とし続けていた。

 白蓮はかつて、助けた妖怪から裏切られ、親しかった人々から見放され、尽くしていた世界から追放された。

 星はあの瞬間に、憎しみ以外の感情は一片たりとも持ち合わせていない。もはや後悔という言葉すら生温かった。こんな感情を奥底に抱えるなんて白蓮は望んでいないし、仏の代理人としても正真正銘失格だろう。けれどあのときの星が、己すら含めた世のすべてを、(はらわた)が捻じ切れるほど憎しんだのは紛れもない事実だった。今になって振り返れば、気狂いにならなかったのが不思議なくらいだったと思う。

 千年の時が過ぎ去り、毘沙門天の下で一から修行を積み直して、今でこそあの記憶と正面から向かい合えるようになったけれど。

 だからといってあのとき抱いた感情をすべて、綺麗さっぱり忘却したわけでは決してないのだ。

 だから、星は怖い。この幻想郷で――妖怪に残された最後の楽園でも同じことが繰り返されたらと思うと、今すぐ白蓮の手を取って逃げ出したい衝動に駆られる。人里の外縁。目の前から始まる古風な町並み。足が震えて前に進むのを拒否し、呼吸だっておかしくなりそうだった。

 風が吹いた。

 振り向くと、聖輦船がいよいよ遊覧飛行に出掛けようとしている。少女たちの期待いっぱい胸いっぱいなお祭り騒ぎが聞こえ、ナズーリンがもう少し落ち着けと叱りつけている。お陰で体を侵食しつつあった冷たさが紛れて、楽に呼吸できるようになった。

 隣の白蓮を見る。できることならみんなと一緒についていって、あの微笑ましい喧騒にもっと浸れればよかった――そんな安らいだ表情で聖輦船を見送っている。風でなびく髪を押さえながらの横顔は、一見すると緊張や不安なんて欠片も感じていないように見えるけれど。

 

「……聖、大丈夫ですか?」

「え? ……えっと、なにが?」

 

 とぼけているのか、それとも本当にわかっていないのか。

 自覚があるのか否かは別としても、なにも感じていないはずはないと星は思う。

 

「……よくわからないけど、私は平気よ?」

「……そうですか」

 

 二度と忘れてはならない――目の前の尼僧は人の領域を超えた魔法使いであり、それでも心は、なんの変哲もない人間の少女のままなのだと。なんてことのない顔をしていても、不安を感じれば人並みに迷い、恐怖を感じれば人並みに怯え、重圧を感じれば人並みに呻き苦しむのだと。

 その重みを、私は、少しでも軽くしてあげることができるのだろうか。

 白蓮と月見がなにか雑談をしていた気もするが、星の記憶には残らなかった。

 

「では、行くとしようか」

 

 聖輦船が空高くまで充分小さくなると、月見が人里に向けて歩き出す。古式ゆかしいひなびた町並み。まだ白蓮が封印されていなかった頃と比べても、そう革新的な技術の発達は見られない原風景。自然だけから作られた家屋の群衆、その並びによって生まれる境界のない往来、どこか近くを流れている川のせせらぎ、

 

「え? あ、あの、待ってくださいっ」

 

 白蓮が慌てて月見の背を呼び止めた。

 

「だ、大丈夫なんですか? その……妖怪の恰好の、ままで」

 

 月見があまりに自然と歩き出したものだから、星もうっかりしてしまっていた。

 かつての時代を考えれば。

 妖怪が妖怪の姿のままで里に入り込めば、見つかった途端間違いなく大騒ぎになる。もしも妖怪を危険視する人間がいれば、その場で武器を抜かれたとしても仕方ない時代だった。だからあの頃は、ナズーリンにせよムラサにせよ一輪にせよ、人と接触するときは細心の注意で正体を隠さなければならなかった。

 白蓮がそっと、しかし震える力を拳に込めたのは、なにを思い出していたからなのか。

 だが月見は、なんてことはない、ふっと一笑して至極平然と答えるのだ。

 

「心配要らないよ。ここには、もう何回もこの恰好で来てるんだ」

 

 星たちに手を伸ばし、

 

「見ればわかるさ。ついておいで」

 

 そのとき通りの向こうから、「あーっ!」と威勢のよい大声が届く。

 

「きつねのおにーちゃんだーっ!」

 

 月見の姿に気づいた子どもたちが、ぶんぶんと両腕いっぱいに手を振っている。

 

 

 

 

 

「――ちょいとお狐様、聞いとくれよぉ。ウチの亭主ったら、もう今年も終わりだからって屁理屈こねて、家の手伝いもしないで呑んだくれてばっかりでさあ」

「この前は『師走になったら忙しくなるから今のうちなんだぁ』じゃなかったかな」

「そうそう、そうなんだよ。口で言ってもぜんぜん効き目がないもんで、なんかいい方法はないかねえ」

「そうさな……アマメハギっていう妖怪がいてね。囲炉裏に当たってぐうだらしてばかりいる人間を懲らしめてくれるんだけど」

「あらまあ。アマなんとかはよくわかんないけど……お狐様が言うなら危ない妖怪じゃないだろうし、いっぺんキツく灸を据えてもらえないかねえ」

「ああ、話をしておこう」

「やーありがとう、助かっちゃうわぁ。……あ、これお供え物の油揚げ」

「……一応訊くけど、私が妖怪だってちゃんとわかってるんだよな?」

「でもさあ、あたし最近こう思うのよ。お狐様の正体がなんであろうと、里にとってはもうお稲荷様みたいなもんじゃない? って」

「……」

「このまえ阿求様が言ってたっすよ、『信仰される妖怪が神様になり、信仰されない神様が妖怪になる』って。というわけで、ウチの悩みも聞いてほしいっすー」

「あのね、私はなんでも屋じゃ……ええい、毛を引っ張るのはやめろ。私の尻尾はおもちゃじゃないぞ」

「「「もふー! もふーっ!」」」

「ちょっとあんたら、なに月見を困らせてんのよ! 離れなさいってば!」

「あら、幽香ちゃん。いつの間に」

「ちゃん付けやめろって何度も言ってんでしょ!? しまいにゃシバくわよ!?」

「またまた。幽香ちゃんは花を愛する心優しい女の子だって、みんな知ってるよ?」

「ぐむっ……ま、まあ、心優しいってのは間違いじゃないけどー? 私は寛容で慎み深い淑女だけどー? でもいくらなんでも最低限の礼儀」

「ゆーかおねーちゃん! このまえもらったたね、花がさいたよ!」

「あら本当っ? すごいじゃない。将来は花屋なんてどうかしら、素敵だと思うわよ」

「えへへー」

「ところで旦那、さっき船みたいなのが空飛んでたように見えましたが、なんだったんで?」

「ああ、あれは……そのうちわかるよ。危険なものじゃないから安心してくれ」

「そうですかい? まあ、旦那がそう言うなら」

「旦那様旦那様、ぜひとも私の悩みも聞いてください」

「おい待てお前は人ごみにいちゃ一番ダメ――うおっと!?」

「え? いまなんか首が……」

「なんでもありません、光の屈折現象です」

「今すぐ帰れ」

「しょぼん……」

 

 一体どれほどの間、言葉を失っていただろう。

 星の視線の先で、里人たちにまとわりつかれた月見が行動不能に陥っている。前門はおしゃべり好きな奥様方、後門は尻尾に群がって遊ぶちびっこたちである。わいのわいのと賑やかな空気を聞きつけて、彼の周りに一人また一人と里人の姿が増えていく。そんなたくさんの人間たちに交じって、妖怪と思しき少女の姿もちらほらと見え始めている。決して暴れたりすることなく、まるで人間同士みたいに自然と輪に加わっている。だから里人たちは恐れるどころか、気さくに話しかけてからかったり、世間話をして談笑したり。

 星は、まだ動けないでいた。

 本当に。

 これが本当に、今の世界なんだなと、ただひたすらそれだけを噛み締めていた。人間が住む里のど真ん中でこんな光景を見られる日がやってくるなんて、星たちにとってはまさに夢のようで――けれど、これからはもう決して夢ではないのだ。

 水月苑だけではない。争いを望まぬ者たちが、その願いのまま平和に生きてゆける世界。

 

「……ぜんぜん、杞憂だったみたいですね」

 

 解けるような吐息とともに、言葉がこぼれていた。

 

「よかったですね、聖」

 

 横で一緒に立ち尽くしている白蓮へ、目を向けて、

 

 

 ――白蓮の頬を伝う、一筋の雫に気づいた。

 

 

「え、」

「あ――」

 

 白蓮が慌てて頬と目元を払う。

 

「や、やだ。な、涙もろくなっちゃったのかしらっ……」

「……、」

 

 声を掛けられるまで完全な無自覚だったらしく、白蓮は自分で自分に動揺していた。それがあまりに突然だったから、星は口を半開きにして呆然としてしまったけれど。

 すぐに、元の笑みが戻ってきた。

 

「……そうですよね。ずっと、ずっと、夢見てきたんですものね」

 

 きっと、何百回、何千回、何万回とも思い描いてきた光景であるはずだった。一度はあんな形で途切れてしまったけれど、だからこそ、白蓮の想いは星が知る頃よりずっとずっと強くなっていて。月見とともに花開く人間たちの笑顔を見て、一体どれほど心が震えたのか、星の想像なんてまるで足元にも及ばないのだと思った。

 なかなか治まってくれない雫を、白蓮はもう一度指先で拭う。

 

「嬉しいし、でも……ちょっとだけ悔しいの。私、ほんとに、なにもできなかったんだなあって」

「……」

 

 幻想郷を創り上げたのは、八雲紫という名の大妖怪だという。

 無論そこに、白蓮や星たちの存在はなにひとつとして関与していない。今になってしまえば、あの頃の星たちの活動に意味なんてものはなかったのかもしれない。お前たちでもこんな世界を創れたかと問われれば――悔しいけれど、きっと返す言葉もないのだろうと星は思う。

 世の理すら変革してこの幻想郷を創り上げた、途方もなく勇敢で聡明な大妖怪――。

 

「八雲紫さん……早く会ってみたいですね」

「ええ、そうね……」

 

 なおこのときの八雲紫への期待と畏敬は、春になってから「ええー……?」という感じで崩れ落ちることとなるのだが――それはまだ先の話である。

 と、

 

「あ、あのー……」

 

 白蓮を挟んだ星の向かい側から、道行く一人の少女が気遣わしげに声を掛けてきた。ひと目で普通の人間ではないとわかる少女だった。だって空から生まれ落ちてきたような、嘘みたいに美しい青の髪を揺らしていたから。

 彼女が人間なのか人外なのか、星は咄嗟に判断できなかった。

 

「大丈夫? どこか具合が悪いとか……」

「あ……い、いえ、そうではないんです」

 

 まだ瞳が潤んでいる白蓮は両手を振り、

 

「ただ……ここはなんて素敵な場所なんだろうって、思って」

「……」

 

 月見がいたずら小僧に背をよじ登られ、「おいこら耳引っ張るな、いでででで」と呻いている。その後ろ姿を見つめる白蓮の表情から、少女はすぐさまなにかを感じ取ったようだった。これは実に心当たりがあるやつだぞ、という目つきで、

 

「ひょっとして、あそこの――月見になにか、助けられたとか?」

「ええと、直接助けていただいたわけではないんですけど……」

 

 白蓮は肩を縮め、少し照れくさそうに俯きながら、

 

「でも、あのひとがいなかったら、今の私はなかったんだろうと思います」

 

 途端に少女が苦笑した。

 

「やっぱり」

「そ、そんなにわかりやすかったですか?」

「まあ、私にはすごく」

 

 彼女もまた月見の背を見つめる。その瞳は白蓮とよく似ていて――けれど奥の奥では、なにか決定的に違う深い感情が宿っていた。

 

「私もたぶん、あなたとおんなじだから。月見のお陰で変われたの。……だから、ああまたかぁ、って」

 

 また、と彼女は言った。

 なんの根拠もないけれど、きっと二度や三度じゃないんだろうな、と星は思った。それこそ、「ああまたか」と笑ってしまうくらいに。たくさんの場所に足を運んで、たくさんの人や妖怪と出会って、話をして、力になって、友誼を結んで――そうやって、月見という狐は存在してきたのだろうと。

 

「……と、ところでっ」

 

 とても恥ずかしいことを言ってしまったと思ったようで、少女は声が半分裏返りかけていた。

 

「えっと、私、比那名居天子です。一応天人で、この里で教師なんかやってます」

「へ? て、天人様ですか?」

 

 星は目を丸くした。天人といえば、地上で高い徳を積んだのち天界へ昇り、俗世を捨てた快楽の日々を享受することが許された神にも近い人々ではないか。こうして地上に姿を見せるだけでも天変地異の前触れみたいなものであり、もちろん、人間の里で教師など以ての外のはずなのだが、

 

「でもぜんぜん、修行とかして天人になったわけじゃなくて、ただの親の七光りで。天界のみんなから不良扱いされてるし、実際ちょっと前まで……その、結構荒れてたし……」

 

 重ね重ね目を丸くする。涙ぐむ白蓮を心配して話しかけてくれる優しさ、そして里で子どもたちの先生を務める人望と、どこからどう見ても清廉潔白のお手本みたいな少女が不良とはなんの冗談だろうか。

 

「ま、まあそんな感じで、月見がいなかったら今の私はなかったなーって、私も思うわけで。あはは、ごめんね、いきなりこんな話……」

「いえ、そんな」

 

 白蓮は首を振り、

 

「私は聖白蓮と申します。こちらは寅丸星」

「はじめまして」

 

 星が頭を下げると、子どもたちの一際大きな歓声があがった。みんなにまとわりつかれて月見の背中がそろそろ見えなくなりつつあり、緑髪の妖怪少女が「くぉらあんたらっ、月見は遊び道具じゃないのよ!」と憤激して引っぺがしにかかっている。しかし妖怪の腕力を理不尽に振るうことは決してなく、子どもたちはうきゃーうきゃーと楽しそうに笑っている。そんなまぶしい風景を、大人たちは誰しもが微笑ましい眼差しで見守っている。

 あの妖怪少女がひとたびその気になれば、人間の子どもなんてあっという間に無意味な存在となってしまうはずなのに。

 

「私……つい昨日、はじめてこの幻想郷にやってきたんです」

「あ、やっぱり。はじめて見る人だから、そうなんじゃないかって思った」

「ここは、いつもあんな風なのでしょうか」

 

 白蓮の問いに天子は微笑み、

 

「うん。月見がいるときは、いっつもあんな感じ」

「そうですか……」

 

 この光景はきっと、白蓮の背を大きく大きく押してくれたはずだ。

 

「――ああ、天子。おはよう」

 

 緑髪の少女の助けもあって、月見がようやく子どもたちから解放された。緑髪の少女に両腕を広げて通せんぼされ、遊び足りない子どもたちがみんな揃ってブーイングを飛ばしている。天子が慣れた様子で月見の労をねぎらう。

 

「おはよう。お疲れ様でした」

「まったくだよ。子どもってのはどうしてああも元気なのか……」

 

 口ではそう言っているものの、月見はまったくもって迷惑したように見えない。星たちを案内する優先事項がなければ、大人たちとのんびり話に花を咲かせながら、ひとしきり遊び相手を務めてやっていたに違いない。

 月見は白蓮と天子を交互に見て、

 

「ひょっとして、もう仲良くなったのかい」

「え、ど、どうかな。自己紹介はしたけど……私たち、似た者同士かもしれないなあって……」

 

 天子が引っ込み思案な横目でちらちらと白蓮を窺う。その視線に込められた気持ちを察して、白蓮は肩をきゅっと小さくした。

 

「あ、えと、その……天子さんさえよければ、仲良くしていただければと、思いますっ」

「う、うん、よろしくっ……」

 

 なぜか揃って恥ずかしがっている初々しい二人を見ると、確かに似た者同士なのかもしれないなあと星は微笑ましく思った。月見も表情を和らげ、

 

「ならちょうどいい。慧音を捜してるんだけど」

「慧音なら、寺子屋にいるけど」

「そこまで、二人を案内してやってくれないかい。ゆっくり里の紹介でもしながら」

 

 天子はやや面食らった。

 

「え、私でいいなら、いいけど……月見は?」

「私は後ろからついていくよ。なんだか、あそこの子たちもみんなついてきそうだしね」

 

 そこで星は、子どもたちが一様に物珍しそうな目でこちらを凝視していると気づいた。はじめはみんな白蓮を見ているのだと思ったが、どうやら星に向けられる比率がだいぶ多いようで、

 

「きつねのおにーちゃん、この人たちだれー?」

「頭からお花生えてる」

「変なの」

「頭がお花畑」

 

 ちょっと待って、

 

「お、お花畑!? ……あっちょっと月見さん、いま吹き出しました!? 吹き出しませんでした!?」

「いや、そんなことは……くくく」

「ふえええん!!」

 

 もうそれなりに長いこと生きてきた星だが、初対面でいきなり「頭がお花畑」なんてさすがにはじめてで結構凹んだ。いや、蓮華を模した飾り物だから花が生えてるというのもあながち間違いではないのだけれど、ともかく「頭がお花畑」では違う意味になってしまうというか、「おや、なかなかわかってるじゃないか」と頷くナズーリンの幻聴が聞こえてきてより一層凹むというか。

 緑髪の少女がむっとする。

 

「こらあなたたち、変ってことはないでしょう。とっても素敵な飾り物じゃない」

「ゆーかおねーちゃんは花ならなんでもいいからなー」

「心がお花畑」

「喧嘩売ってんのかしら」

 

 子どもたちがきゃーきゃーと一斉に散らばり、吸い寄せられるように月見や天子の後ろへ隠れる。ともかく星は、頭の飾り物は蓮華を模したもので仏教においてとても重要な意味を持つ花でありすなわち星が代理人とはいえ仏の末席で云々、ということを懇切丁寧に説明しようと、

 

「さあさあ、お前たちもこの二人に里を案内しておくれ。まだ幻想郷にやってきたばかりなんだ」

「えーそうなの!?」

「案内するー!」

「こっちがやおやさん!」

「あっちがおそばやさん!」

「そっちがどーぐやさん!」

「もー、みんなであちこち指差したらわかんないでしょー?」

「この人がてんしせんせえ!」

「きつねのにーちゃんが大好」

「ぬわっひゃああああああああああっ!?」

 

 ――したのだが、まあいっか、と思った。

 だって人々の姿が、こんなにもまぶしいのだから。この陽だまりが、こんなにも暖かいのだから。

 だから、まあ、いっか。

 

「ほほほっほらもう行くよ、行くよっ! れっつごーれっつごー!!」

「「「はーい!」」」

「行くよー、お花畑のおねーちゃん!」

「いやちょっと待ってください私の呼ばれ方それ!? それで決まっちゃった感じですか!? もう頭お花畑確定なんですかあああっ!?」

「かわいい呼び名じゃない。私は素敵だと思うわよ」

「はじめまして寅丸星ですお花畑じゃないですうううううっ」

「風見幽香よ。よろしくね、お花畑さん」

「ふえええええん!!」

 

 あっという間に星まで飲み込み、ブレーキ不可能のちびっこ軍団が里を行く。通りに並ぶお店を次々指差し、大人たちが威勢よく手を振ってそれに応え、元々の活気も併さってまるでお祭りの中に放り込まれたような騒ぎと化す。

 実際輪の中に入ってみると、それは本当に賑やかで、心地よくて、楽しくて――だから、星は気づかなかった。

 

「あははははっ――」

 

 背後からふっと聞こえたその笑い声が、一体誰のものだったのか。

 月見と並んで歩く白蓮が、手のひらで隠すこともせず、口を開けて、声をあげて。

 星が今まで見たこともないくらい、天真爛漫に、笑っていたのだと。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 墓地の管理までしてもらえるならこっちから頼みたいくらいだと、慧音はほとんど二つ返事だった。ちびっこ軍団を『天使』先生に任せ、月見は白蓮と星を連れて墓地近辺の土地を見繕いに向かう。その後ほどよい場所が見つかる頃には聖輦船の遊覧飛行も終わりに近づいていたため、一度水月苑に戻ってナズーリンたちと合流する。地ならし要員として諏訪子を尻尾で一本釣りするのも忘れない。再度人里に向かって土地を整え、降ろした船を仏の御業で荘厳なお寺へと変形させる。

 と、特に邪魔も入らずとんとん拍子で事は進んで、正午を迎える頃には幻想郷に待望の寺院が開山されたのだった。

 天より舞い降りた仏様の船がその姿を変えたお寺、ということで話題は瞬く間に里中を駆け抜け、まだ参拝客を受け入れる準備もできていないうちからあたりは人々でごった返していた。寺の本堂としてはごくごく平凡な大きさだし、意匠も控えめの域を出ないものだが、命蓮の法力によってありがたい後光を帯びているようにも見えるため、早くも里人たちの信仰心を掴んだのが窺える。星が即興で語る説法に大人たちはみな聞き入り、子どもたちは雲山のモコモコボディを揉みくちゃにして遊んでいる。

 なぜ雲山がちびっこたちの標的になったかといえば、月見の尻尾を諏訪子が独り占めにしているからだった。両腕に不機嫌な力を込め、跡がつきそうなくらいぎゅうぎゅう力任せに抱き締めてくる。

 

「ちぇー。月見がモフらせれくれるって言うから手伝ったのに、これじゃあ敵に塩を送ったみたいじゃーん」

「まあまあ。お前が地ならししてくれたお陰で、守矢神社に関心を持った人もいただろうさ」

「ぶーぶー」

 

 守矢神社は妖怪の山の頂上付近という特殊な立地のお陰で、人里での知名度がお世辞にも高いとは言えない。最近は志弦の活動もあって少しずつ名が知られ始めているようだが、それでも信仰の大部分を山の妖怪たちに依存していて、ある意味では博麗神社以上の妖怪神社と化している。妖怪の山自体人間が迂闊に入れる場所でないのもあって、必然、人間の参拝客など皆無ともいえてしまえるほどだった。

 

「こりゃあ私たちも、もっと真面目に里で布教した方がよさそうだねえ……。里の信仰ぜんぶ持ってかれちゃいそうだよ」

 

 しかし諏訪子は大地の神、そして神奈子は雨風の神である。信仰が得られていないのはひとえにその無名故であり、農耕において大変ありがたい神様が鎮まる神社と知られるようになれば、家の神棚に祀りたいと言い出す人はいくらでも出てくるだろう。

 代々人々に密着し信頼と実績を築いてきた博麗神社、ありがたいご神徳を備える守矢神社、寺院開山と同時に信仰をかっさらった白蓮のお寺――これはいよいよ本格的な宗教争いが始まるのかもな、と月見は思った。

 

「それに里でじわじわ稲荷信仰を広めてる、どっかの狐さんもいることだしぃー」

「……」

 

 広めているのではない。勝手に広まっていくのである。

 憎っくき商売敵を粉砕するため水月苑にカチコミしてくる霊夢の姿を幻視していると、人々の間を縫って白蓮がやってきた。

 

「おと、」

 

 しまったという顔をして、

 

「……つ、月見さん」

「おと?」

「なななっなんでもありません!?」

 

 二日連続は勘弁してくれ、と月見は眼力で切実に訴える。

 首を傾げる諏訪子に白蓮はぶんぶん両手を振り、

 

「え、ええとその! 洩矢様、この度はお力添え、まことにありがとうございました……」

「月見の頼みだったから特別だよー。ほんとだったら、私とあんたは信仰を奪い合う商売敵なんだから」

「い、いえそんな、私にそのようなつもりは……」

「あーあ、里の信仰が奪われたぁー」

 

 月見は諏訪子の両腕から尻尾を引き抜く。

 

「あー!? なにするのさぁ!」

「いじわる言うやつには触らせないよ」

「ご、ごめんなさいごめんなさい冗談だよぉ!? あーうー!!」

 

 すぐさま飛びついてくる諏訪子を巧みにかわし、右へ左へ、はたまた上へと尻尾を動かす。はじめは子どもみたいにぴょこぴょこ追いかけていた諏訪子だったが、段々と冗談抜きの目つきになってきて、やがて神の力を開放した瞬間移動で尻尾を確保、全身でホールドしてそのままびたーんと地べたに伸びた。

 まるでおもちゃにじゃれつく猫である。服が汚れるのも構わずふにゃふにゃに緩んでいくこの少女を、誰も霊験あらたかな神様の中の神様とは信じまい。

 白蓮がクスクスと笑った。

 

「月見さんは本当に、人間も妖怪も神様も、たくさんの方々と親しいんですね……」

「長生きすれば、その分知り合いは増えるものだよ。……ところで、向こうは大丈夫なのか?」

 

 里の人たちはなおも続々と集まってきているが、見ればナズーリンがテキパキ挨拶をして案内しているようだ。

 

「あ、はい。ナズーリンが代わってくれて。よくわからないんですけど、月見さんと一緒にいろと……」

 

 ナズーリンと目が合う。グッと真顔で親指を立ててくる。その真意は定かでないが、恐らく余計なお世話の類なのはなんとなく想像がついた。

 月見は首の後ろを掻いて、

 

「……山門とか庫裏(くり)とか、他に必要なものは鬼や天狗たちに頼もう。大工仕事が得意な連中だからね」

 

 寺院が開山されたといっても本堂が無造作に置かれているだけで、この殺風景な土地には人々を迎える山門も、白蓮たちの住居となる庫裏も、境内の境界線を示す塀もまだなにもできていない。このあたりはいつもの男妖怪衆に頼めば、「女の子のためなら喜んでぇ!」と狂喜乱舞しながらやってくれるだろう。総じて女にだらしない連中だが、こういうときは途轍もなく頼りになるのだ。

 

「なにからなにまで、本当にありがとうございます……」

「私はなにもしちゃいないさ。ただ間を取り持ってるだけだよ」

「いいえ。それだけのことが、一体どれだけ難しいか……」

 

 白蓮は苦笑し、

 

「……私には、上手くできませんでしたから」

「……」

 

 白蓮が封印された本当の経緯は、志弦から聞いた。

 それは決して、白蓮の未熟が原因というわけではなかったと思う。もちろん、白蓮自身どこか油断のようなものがあったのは事実なのだろう。けれどそれ以上に、時代と、運が悪かった。もしあの場にいたのが白蓮ではなく月見だったとしても、結果が変わっていたかどうかはわからないのだ。

 白蓮もそれは承知していた。承知した上で、他でもない自分の過ちだったと受け止めていた。あれは白蓮のせいじゃないと、仲間たちからもう何度も慰めの言葉を受けたはずだった。それでも考えを変えようとはしないのだから、月見がいくら同情を並べたところで彼女の心には届くまい。

 故に、こう返した。

 

「できるさ。これからは。この世界でなら、いくらだって」

 

 過去は変えられないけれど、未来はどうにだって歩いていけるのだから。

 そういう世界が、ここにはあるのだから。

 

「なにかあれば、いつでも力を貸すよ」

 

 白蓮の笑顔から、暗い影が消えた。

 

「……はい。ありがとうございます……」

 

 感情がにじむような言葉だった。白蓮はそのまましばらく月見を見つめ続け、やがてはっと我に返ると、

 

「そ、それでですねっ。早速ですがひとつ、お願いしたいことが……」

「いいよ。なんだい?」

 

 振り向き目を向けた先には、里人たちが集まる寺の本堂がある。

 

「もし、よろしければなんですけど……あのお寺の、名付け親になっていただけないかなー、なんて……」

「私にかい?」

「はい。月見さんに……」

 

 自分でいいのであれば、構わないけれど。

 

「私もいろいろ考えてはみたんですけど……その、あまりこういうのは自信がなくて」

「そうだねえ……」

 

 月見も自信があるとは言い難いのだが、力を貸すと言った舌の根も乾いていない手前真面目に考える。『名付ける』とは単純ながら非常に重要な意味を持つ行為で、不確かな存在に形を与え、確かなものとして固定することでもある。良く言えば個の確立であり、敢えて後ろめたく言えば個の束縛である。月見がひとたび名付け親となれば、あの寺はその名に一生を縛られることになるのだ。間違っても珍妙な名前であってはいけない。

 ……月見の屋敷に『水月苑』という素晴らしい名を与えてくれた文の閃きを、少しばかり拝借したい気分になってきた。

 

「……ふむ」

 

 やはり『水月苑』をお手本にして、あの寺をシンプルに言い表す名がよいだろうか。あの寺がなにかといえば、元は聖輦船であり、命蓮が白蓮に遺した飛倉であり、命蓮の法力を今なお宿すありがたい穀倉である。そのあたりを鍵にして考えてみると――

 自然と、唇が名を紡いでいた。

 

「――命蓮寺」

「……え?」

「命蓮寺、なんてどうだろう」

 

 そのまま、あの子の名前を持ってきただけではあるけれど。

 悪くないのではなかろうか。あの子の名をこういう形で残し、継いでいくというのも。

 

「命蓮、寺……」

 

 その名をつぶやいた白蓮はしばらくの間、瞳の焦点も曖昧なまま呆然と立ち尽くしていた。そしてあまりに反応が薄かったので月見が不安になりかけた途端、なんの前触れもなく、真珠みたいな涙がぼろぼろと彼女の頬を伝った。

 

「は。びゃ、白蓮?」

「あ……ご、ごめんなさいっ……」

 

 白蓮はすぐさま涙を払い、

 

「ええと、その。な、なんだか、命蓮もこの幻想郷に受け入れてもらえたみたいで、つい、嬉しくて……」

「……なんだ、そういうことか」

 

 びっくりした。月見はてっきり、死んだ弟の名をそのまま残すのはさすがに不謹慎に思われたかと。

 白蓮は自分でも己の涙に驚き、狼狽えているように見えた。

 

「うう……なんだか私、急に涙もろくなっちゃったみたいでして……」

「……なにも悪いことじゃないさ」

 

 少なくとも、泣きたくても泣けなかったらしい今までよりは、ずっと。

 とりあえず月見は、変な名を口走らなかった己の閃きに胸を撫で下ろしながら。

 

「命蓮寺……本当に素敵な名だと思います。ありがとうございました、月見さん」

「ああ。気に入ってもらえてよかったよ」

 

 ――かくして、幻想郷初の本格仏教寺院『命蓮寺』は開山へ至る。月見の目論見通り、白蓮たちの美貌に惹かれた山の男妖怪ども、そして分け隔てない心に惹かれた里の人々が次から次へと協力を申し出て、すぐに立派な寺院へと発展していくこととなる。

 さて、これにより幻想郷の信仰争いは一層激化し、やがては博麗神社、守矢神社、命蓮寺、お稲荷様(・・・・)の四勢力がしのぎを削る宗教戦争時代へ突入するのであるが。

 言うまでもなくこの狐、里に稲荷信仰を広めた元凶として否応なく巻き込まれる模様。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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