銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方星蓮船 ④ 「運命だから」

 

 

 

 

 

 まさしく風のようだった。志弦を永琳に預けるや否や、月見は廊下を滑って疾走してきた輝夜に拉致された。分厚い着物姿でよくそこまで動けるもんだと、つい他人事のように舌を巻いてしまうほどだった。早苗をあっという間に置き去りにし、風と化した少女は問答無用のまま月見を私室まで連れ込むと、誰もついてきていないことを確認してから念入りに襖を閉め切った。

 

「――当然、」

 

 振り向いた輝夜の面持ちは凛と透き通っていて、これが普段のお転婆お姫様と同一人物だとは俄かに信じがたい。

 有無を言わさぬ、強い問いだった。

 

「なにがあったのか、教えてくれるでしょ?」

「……ああ、わかってるよ」

 

 幻想郷で――否、この世界でただ一人。蓬莱山輝夜は、月見と同じ当事者だった。あいつらの名を、声を、姿を、今でも記憶に刻んでいるのは、この世で月見と輝夜だけであるはずだった。

 月見はすべてを打ち明ける。結局このときになるまで隠すような形になってしまった、白蓮という少女のことまで、本当にすべてを。輝夜は小さく優しい相槌だけで耳を傾け、そして月見の語りが終わると、ひとつ、淡雪のような吐息をそっと落とした。

 

「……そっか」

「……ああ」

 

 表情には追懐の笑みがある。かつて月見に秀友という名の友がいたように、輝夜にも雪という名の友がいた。雪を、思い出しているはずだった。秀友の妻であった彼女から、大切なことを教えてもらったのだと。短い間だったけれど、ちょっとした先生みたいなものだったのだと、輝夜は言っていたから。

 

「――ねえ、ギン」

 

 輝夜が、顔を上げる。髪と同じで色濃く艷なその(まなこ)に、深く月見の姿が映り込む。そして月見の心に絡みつく悪いものを吹き飛ばそうと、力強く言うのだ。

 

「私はね。あのときの『神古』も、白蓮ってのを封じた『神古』も、今の『神古』も。ぜんぶ、つながってると思うわ」

 

 それは月見が、この期に及んでも、どうしても心のどこかでは受け入れきれないでいることで。

 

「ってかね、ここまで来たら単なる偶然だって方がおかしいです。ありえません。これはきっと、運命なのよ。ギンと『神古』は、あのときだけで終わるような陳腐な縁じゃなかったってこと」

「……」

「きっとギンが、自分を死んだことにして別れるような真似をしたから。だから、今になって仕返しでギンを困らせてるんだわ。さすがじゃない、どうすればギンを困らせられるかよーくわかってるもの」

 

 少し、笑えたと思う。

 

「やっぱり……そうなのかな」

「もー、まだ悩んでるの?」

 

 輝夜がぱたぱたと袖を振って不満をあらわにする。段々と、いつもの輝夜に戻ってきた。

 

「ギンだって、ぜんぶつながってるって思ってるくせに!」

「ッハハハ、ぜんぶお見通しか」

「もちろん! ギンのことだものっ」

 

 えっへんと胸を張る輝夜は、すっかりいつもの彼女だった。

 もちろん、輝夜の言う通りだった。月見だって、ここまで来た以上ただの偶然で終わるわけがないと予感している。それでも最後の一歩だけどうしても決心がつかないのは、『神古』の名が一輪たちに恨まれているという事実に尽きる。まったく関係のない他人だったとオチがつけば、なんだそうだったのか、と笑い話で済ませることができるのだから。

 それにより踏み込んでしまえば、『神古』を恨んでいるのが一輪と水蜜だけという保証だってない。

 白蓮は。『神古』によって封じられ、千年もの間、絆を、夢を断たれた張本人は。この幻想郷で志弦と出会ったとき、一体なにを思うのか。

 けれど今の輝夜を見ていたら、渦巻く濁った不安をすり抜けて、甦る記憶があった。

 

「……あのときと、逆だな」

「あのとき?」

「月の人間だって。不老不死だって。……月に帰るんだって、お前が、はじめて教えてくれたときだよ」

「あ……」

 

 あのときは、輝夜が月見のようにすべてを打ち明ける側で、月見が輝夜のように耳を傾ける側で、輝夜が月見のように苦悩する側で、月見が輝夜のように手を伸ばす側だった。

 本当に、皮肉なほど真逆だった。どうしようもない事実に悩んで足を止めるのは無意味であり、ありのままを受け止め、前に進み、その中でできる限りの選択をしていくしかないのだと――かつて偉そうな顔をして輝夜へ説いたのは、他でもない自分であったはずなのに。

 輝夜が、小さく吹き出した。

 

「そうかも。そうかもね。本当に、あのときと逆だわ」

「参ったなあ。とうとうお前に教えられる側か」

「わたし一応、ギンよりずっと長生きのお姉さんだからね!」

 

 本日二度目、またえへんと胸を張った輝夜は、それから少し落ち着いて、

 

「……まあ、私には、あのときのギンみたいなことは言えないけど。でもだいじょーぶ、なんだかんだでいい感じに落ち着くわよ。天子の異変のときも、こないだの異変のときもそうだったでしょ。だから今回もへーき」

「なにを根拠に?」

「ギンだから大丈夫なの!」

 

 根拠もへったくれもない、ともすればいい加減にも聞こえる盲目的な応援が、けれど今の月見には不思議なほど頼もしく感じられた。

 だから月見は、心からの笑みで応えた。

 

「ありがとう。肩が軽くなったよ」

「ん。やっぱりギンはそうじゃないとね」

 

 輝夜はうむうむと満足げに頷き、それから、

 

「――というわけで、志弦の診察が終わるまで暇でしょ?」

 

 いきなり空気を変えて両腕を広げ、瞳を輝かせ、むふーっと期待たっぷりの鼻息で、

 

「久し振りにこっちに戻ってきたんだし、遊べ遊べー!」

 

 こんなときでもゴーイングマイウェイなお姫様の姿に、月見はまったくもうと苦笑して。

 けれど、時間になるまでは思う存分付き合っていようと思う。そうすればきっと彼女のように、迷いなく前を向けるはずだから。

 

 ……早苗にふわ尻尾を狙われたイナバたちが半泣きで逃げ込んでくるのは、これより三分後のことである。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「結論を言うと――志弦は寝ていないわね。起きてるわあの子」

「……え?」

 

 永遠亭の診察室に、早苗の困惑した声が吸い込まれて消えた。

 それが、永琳から簡潔に告げられた志弦の診察結果だった。鈴仙に呼ばれ、診察室まで戻ってきた月見たちが椅子に座るや否や、お昼の献立を告げるような口振りで永琳はそう言った。カルテと思しき紙を一枚めくり、

 

「外傷はなし、呼吸も血圧も正常。危険な状態ではないから、このまま経過を見るのがいいでしょう」

「そ、そうですか。よかった……」

 

 早苗は胸を撫で下ろし、すぐ首を振って、

 

「い、いえ、待ってください。起きてるって、一体どういうことですか? 志弦は、どこからどう見ても」

 

 早苗の不安定な眼差しが月見たちと交差する。志弦は、どこからどう見ても眠っているはずなのだ。だって、起きていないのだから。意識がないのだから。当たり前のことだ。しかし永琳は間違いなく「起きている」と言った。自分たちの心配が杞憂なら、本当に起きているというのなら、なぜ志弦はなにをやっても目を覚ましてくれないのか。

 

「もぉー永琳、テキトーなこと言っちゃダメよっ」

「ねえ、誰に向かってそんなこと言ってるのかしら」

「……ごめんなさい」

 

 援護射撃をしようとした輝夜が一瞬で撃墜されてしょんぼりする。実際、その通りなのだと思う。こと医学の分野において幻想郷で永琳の右に出る才媛はいないし、そんな彼女が患者の診察で手抜きをするなどありえないし、嘘の診断結果を告げるなどもはや論にも及ばない。志弦は一見眠っているように見えて、実は眠っていない。医学的にはそういう判断が下されたということになる。

 そもそも、「眠る」とはなにか。曖昧な表現をすれば「一時的に意識水準を低下させ脳と体を休めること」だが、科学的にはそれを脳波によって判断する。脳波とは文字通り生物の脳が生み出す電気信号の波であり、精神の状態によってある程度特徴的な波形を示すようになっている。起きているなら起きているなりの、眠っているなら眠っているなりの形が存在するわけだ。

 そう考えれば、永琳の発言の意味も段々と見えてくる。永琳が、底の知れない微笑を静かに深める。

 

「あなたは、なんとなく想像がついたみたいね」

「……なんとなくね」

 

 つまり志弦は、医学的には眠っていると診断できない状態なのであり、

 

「端的に言えば、脳が起きている状態と同じ活動をしているのね。だから、眠っているとはいえないの」

「……夢を見ている、とかではなくてですか?」

 

 早苗の真っ当な疑問に、永琳は微笑を少し難しげに曲げた。

 

「普通の夢ではありえないことだけど、かと言って、志弦がなんの夢も見ていないとは断言できないわね。例えば、そう――現実同然の情報量を持つ夢なら、脳が休む暇もなく覚醒時と同じ活動をすることもあるかもしれない。人の脳は、医学でも未だ解き明かせない人体最後のブラックボックス。私たちでもわからないことなんていくらでもあるわ」

「眠っているのに眠っていない……ですか」

「ところであなたたち、志弦の能力がなんなのか知ってる?」

 

 予想外の問いに皆が目を丸くした。

 

「能力、ですか? いえ、私はなにも……」

 

 当然、月見も輝夜も首を振る。ですよね、と早苗は呟き、

 

「たぶん、なんの能力にも目覚めてないと思いますよ。以前能力について教えたことがあるんですけど、なにそれスゲーって反応でしたし」

「そう。いえ、深い意味はないの。仮に志弦が現実同然の夢を見ているのなら、彼女自身にそういう能力があるんじゃないかって気になっただけ」

「……」

 

 誰も肯定も否定もできず、ただ沈黙した。白蓮を封じた『神古』の子孫かもしれない少女が、白蓮の名を聞いた途端意識を失い、能力に目覚める――なにも知らない人間はきっと、御伽噺だと言って笑うだろう。

 なにも知らない人間ならば。

 なにも知らない人間は、ここにはいない。

 

「あまりこういう考え方は好きではないのだけど……なにか、理屈じゃ太刀打ちできない特別な理由があるのかもしれないわね。いかにも、この幻想郷じゃあありえそうな話じゃない。目を覚まさないのは、まだ目を覚ますべき時ではないからだ……ってね」

 

 これはきっと、運命なのよ――輝夜の言葉が、強く脳裏に甦る。

 志弦が眠り続けている、特別な理由。もしも本当にそんなものがあるというのなら、心当たりなんてひとつしかない。

 ここまで来て、ただの偶然なんてありえるわけがないのだから。

 

「ともかく、志弦は私たちで預かるわ。万が一を考えてもその方がいいでしょうし……また、慌ただしいことになってるんでしょう? 先にそっちを片付けるといいんじゃないかしら」

「……ああ。ありがとう」

 

 永琳の言うことは正しい。志弦が目を覚ますまでじっと待ち続けるだけの時間は、今の月見たちには与えられていない。月見が幻想郷に戻ってきて最初となる一年は、今日を含めてあと五日で終わるのだ。

 それに、これが運命だというのなら。白蓮の封印を解けば、或いは、志弦だって目を覚ますのかもしれないから。

 

「早苗は、どうする?」

「私は……」

 

 ひとつ、未練を振り払う間があった。

 

「……私も、行きます。私も永琳さんと同じで……志弦は、なにか特別な理由があって眠ってるんじゃないかって、思うので」

 

 傍にいたくないはずがなかった。不安でないはずがなかった。志弦がどうなってしまったのか、いつ目を覚ますのか、本当に目を覚ましてくれるのか――己の理解が及ばない現実への悔しさを、呼吸ひとつで断ち切るのは容易でないはずだった。

 なのに、生意気なほど澄んだ瞳をしている。口端の影に笑みすら見せて、一歩、踏み出すように言い切った。

 

「自分にできることをやって、信じて、待っていようと思います」

「……そうか」

 

 ――たった、十とそこらの少女であるはずなのに。

 何千年を生きた大妖怪より、よっぽど強いではないか。輝夜といい早苗といい、こういうところは見習わないとな、と月見は苦笑した。

 竹林の外までの道案内は、今回は輝夜が買って出てくれた。一時期月見は、雪が降ったあとの竹林なら、足跡が目印になって迷わず往来できるのではないかと考えていたことがある。普段永遠亭と外を行き来するイナバの歩いた跡が、獣道のようになるのではないかと。その淡い期待はもちろん、地面を縦横無尽に埋め尽くすぐちゃぐちゃの足跡を前に呆気なく砕け散った。

 よくよく考えてみれば当然のことだった。雪玉に雪うさぎ、雪だるま、かまくらと、妖精にも負けない元気な跳ね回りっぷりだったのが窺える。加えて深い霧と降り積もった雪が重なることで、地面と宙の境界すら曖昧な白一色の世界になっていて、案内がなければ百発百中で迷うだけなのは想像に難くない。

 

「それにしても、今年ももう終わりだってのに、ギンはちっともゆっくりさせてもらえないのね」

「ほんの昨日までは、なにもなくて退屈なくらいだったんですけどねー」

 

 白い竹林を、月見はゆったり空を飛んで移動している。霧が深い竹林では、気をつけていてもふとした拍子にはぐれてしまう危険があるので、ちゃんと手を繋がなければならないのだ――と妙な勢いで力説され、仕方なく輝夜と手を繋ぐというオマケ付きである。一体なにがそこまで楽しいのか、先を進む彼女の背中はスキップを踏むようで、ご機嫌に鼻歌まで口ずさんでいる有様だった。

 一方の早苗は月見の尻尾を、手を繋ぐ代わりとするようにホールドしている。大好きなもふもふを思う存分堪能できるお陰で、こちらも永遠亭を出た直後と比べればすっかり元気になっている。自然と輝夜との会話も弾み、

 

「月見さん、いろんなところにお知り合いがいますから……やっぱりその分、なんというか、巻き込まれやすいんですかね」

「困ったときは、とりあえずギンを頼ればなんとかなる! って感じだしね」

「あー、わかります。なんか、すごくなんとかなりそうな感じしますよね」

「こらこら、人を便利屋扱いしないでくれ」

「でも、頼られたらなんとかしたくなっちゃうんでしょ?」

「……」

 

 まあ、そう言われるとなにも言い返せない。輝夜と早苗の、くすくすと、すべてわかりきったような息遣いがこそばゆい。

 輝夜に、肩を軽やかに叩かれる。

 

「だいじょーぶ、今回だってなんとかなるわよ。年越しは、ギンのとこでみんな集まって宴会って決まってるんだから」

「ああ。そのためにも、早く解決させないとね」

 

 正直、白蓮の復活自体はさほど重く考えていない。ナズーリンが指揮を執る宝塔の捜索はもちろん、飛倉の破片も、山の妖怪たちの力を借りた人海戦術なら簡単に片付くだろう。だから問題は、白蓮ではなく『神古』の方。

 腹は、決まっている。

 

「私はこのあと、人里に行くよ。いくつか済ませたい用事があるからね」

「人里……ですか。なにか、私がお手伝いできることはありますか?」

「ないわけではないけど。野暮用みたいなものだし、先に戻ってもいいぞ?」

 

 早苗は首を振る。

 

「いいえ、お手伝いさせてください。できることからやるって、決めたんです」

「……わかったよ。それじゃあ、手伝ってもらおうかな」

 

 野暮用といっておいてなんだが、人手があると助かるのは事実なので、ありがたく受けることにする。

 

「はいっ。それで、なにをすればいいんでしょう?」

 

 やる気いっぱいな早苗に、月見はずばり端的に告げた。

 

「食材の買い出しを頼む」

「え」

「買い出しを」

「……買い出し?」

「買い出し」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 だから野暮用だと言ったのだ。

 なにせ、一週間以上も家を空けていたのである。置きっぱなしになっていた食材や日持ちのしないお菓子はとっくに藍経由で処分してもらったから、今の水月苑に食べられる物はほとんどなにも蓄えられていない。買う物を買っておかなければ、来客の歓迎はもちろんのこと、本日の昼餉夕餉(ひるげゆうげ)にだってありつけないのだ。

 

「それじゃあ、頼むよ。荷物はあとで私が持つから、気にしないで買ってしまってくれ」

「わかりました」

 

 竹林の入口にて輝夜と別れ、やってきた人里の上空で、月見は早苗に財布を渡した。

 

「月見さんは?」

「慧音にちょっと用があってね。知り合いに顔を見せつつ、そっちを先に済ませてくるよ」

「じゃ、私セレクトで買っちゃいますね!」

 

 この『私セレクト』に後々頭を抱えさせられる羽目になるとは、もちろん月見は夢にも思っていない。

 早苗とも別れ、月見は単身慧音の家に向かう。しかし途中でふと思いつき、通りに降りて里人に確認してみたところ、この時期にもかかわらず寺子屋を開けているらしいとわかったので、そちらに行く先を変更した。また空を飛ぶか若干迷い、せっかくなので一週間振りの人里をのんびり歩いていくと決める。

 それにしても、恐らくは天狗が新聞をバラまいたのだろうが、地底の異変については月見の想像以上に情報が広まっていた。こっちに戻ってきてたんですか、とか、お怪我は大丈夫なんですか、とか、出会った里人のほとんどから心配され、中には祝いだと言って食べ物を投げて寄越す者までいるほどだった。大きい物はさすがに遠慮し、手頃な物はありがたく頂戴して先を急ぐ。

 寺子屋は、こんな時期にもかかわらず本当に開いていた。とはいえ普段通りの授業をやっているわけではないらしく、下駄箱の履物は随分と数が少なく、奥から感じる人の気配もまばらだ。忍び足で廊下を進んでいくと、聞こえてきたのは天子が元気に教鞭を執る声だった。

 年末ということもあってか、この時期の行事や風習について雑学めいた授業をしているようだ。教室の手前までやってきたので、ひとまず襖を叩いてみる。

 

「あ、はーい。慧音? 戻ってきたの?」

(……おや)

 

 ということは、慧音は留守にしているらしい。やっぱり家に向かうべきだったかな、と月見が思っているうちに襖が開いて、

 

「慧、」

「やあ」

「ひにゃああああああああああ!?」

 

 めちゃくちゃびっくりされた。

 人見知りなアリスも苦笑いな反応だった。月見に背を向け脱兎の如く逃げようとしたところで足がもつれ、畳でなければ普通に怪我をしていたと思しき見事な勢いで、へぐぅっと顔面からすっ転ぶ。もはや見慣れた光景である。比那名居天子はどういうわけか、予想外のタイミングで月見に出会うととんでもなくびっくりしてしまうのだ。

 生徒の子どもたちも今となっては、天子がへぐぅした程度では眉ひとつ動かさない。それどころか誰一人として天子を見てすらおらず、

 

「あーっ、おきつねさまだー!」

 

 古き()き畳敷きの教室がわっと沸き立つ。一拍遅れて天子が復活し、

 

「つ、つつつっ月見!? も、戻ってきてたの!?」

「ああ、今朝ね」

「そ、そうだったんだっ……」

 

 立ち上がった彼女はそわそわしながら髪を整え、強張っていた頬を無防備に弛緩させて微笑むと、

 

「えっと、その……お、おかえ」

「「「おきつねさまーっ!!」」」

「うおっと」

 

 しかし年端も行かない人間の子どもたちに、空気を読むなどという大人の概念は通用しない。勉強道具を放り投げて一斉に月見の下へ殺到し、久し振りーと喜んでくれたり、怪我大丈夫なのーと心配してくれたり、本体(つくみ)そっちのけで尻尾をもふもふし始めたりする。

 いろいろと台無しにされた天子が怒った。

 

「こ、こらみんなぁっ! 授業! じゅーぎょーうーっ! 席に戻りなさーい!」

 

 誰も聞いちゃいない。天子はがっくり項垂れて、

 

「もぉー……」

「悪い悪い、授業の邪魔をしに来たわけじゃないんだ。……というか、まだ授業をやってるんだね」

「あ、うん。ほら、今の時期って、今の時期だからこそ忙しいご家庭もあるでしょ。みんなまだ小さくてお手伝いもできないから、昼間のうちはここで預かってるの」

 

 なるほど、そう言われてみれば授業を受けているのは、外の世界でいえばランドセルを背負うかどうかも怪しい子どもたちばかりだ。寺子屋というよりも、この時期限定の託児所だな、と月見は思う。そして、そうやって子守りをする天子の姿がまたよく様になっている。『天使先生』は、今でも変わらず老若男女を問わない里の人気者である。

 

「お疲れ様。もうすっかり一人前の先生だね」

「そ、そう? そうかなっ……」

 

 すっ転ぶ天子には目もくれないくせに、子どもたちはこういうところでやたらと目ざとい。

 

「せんせい嬉しそうー」

「せんせい、狐のお兄さんに会えなくてすごく寂しがってたからねー」

「ちょ」

「あー今おきつねさまのこと考えてるなー、って顔見れば一発でわかるもんねー」

「……じゅ、じゅぎょう! はいっ、授業に戻るよ! 席に着きなさーいっ!」

 

 己のピンチを察した天子が、すぐさま実力行使で月見から子どもたちを引っ剥がしていく。元気なブーイングが飛び交う中、月見はせっせと動き回る天子の背に向けて、

 

「慧音に用があったんだけど、今はいないのか?」

「え、け、慧音? 慧音なら、阿求のとこに行ってるけど……席に戻りなさいってば!」

「ありがとう、行ってみるよ。……ほら、放せお前ら。授業はちゃんと受けるんだよ」

「「「えーっ」」」

「私は忙しいんだ。はい、離れた離れた」

 

 一層激しさを増すかわいらしいブーイングに構わず、尻尾でぺしぺし叩いて追い払う。早く用事を済ませて早苗と合流しなければならないし、あまり授業の邪魔をしては、あとから話を聞きつけた慧音に怒られる可能性だってある。早め早めの行動が肝要なのだ。

 

「年越しの準備?」

「まあ……そんなところかな」

 

 誤魔化しこそすれ、嘘を言ったつもりはない。本当に、年越しの準備みたいなものだ。後腐れなく今年を終え、気持ちよく来年を迎えるために必要なことだから。

 

「それじゃあ、邪魔したね」

 

 すべての子どもを席に戻らせ、回れ右をしようとしたところで、天子に袖をつままれた。彼女自身、無意識の行動だったらしい。月見が振り向くと我に返り、弾かれたように手を離して一歩あとずさると、しおらしく縮こまりながら辛うじて言った。

 

「あ、あの……大変なときはなんでも言ってね。手伝うから……」

 

 ――天子。お前には、異変のときに充分すぎるほど助けてもらっただろう。

 そんなことない、助けられたのは私の方だもん、とはっきり返されるのが目に見えているので、なにも言わないけれど。しかし、普段から月見を世話焼きだのなんだの言って呆れる彼女たちこそ、その実大層なお人好しではないかと思うのだ。

 無論、それで月見がなにかを頼むつもりはないし、天子も本当に頼まれるとは思っていないだろう。言ってしまえば単なる気持ちだけのやりとりで、それ以上の意味があるものではないはずだった。

 でも、なにも悪いことではない。

 月見も微笑み、心を返した。

 

「ああ。どうしても困ったときは、お願いするよ」

「う、うんっ」

 

 月見たち妖怪が時に人間を助け、天子たち人間が時に妖怪を助ける。そういう営みが今の幻想郷にはあるし、そういう世界を白蓮には見せたいと思う。

 月見の昔馴染が創りあげた、この幻想の世界を。

 妖怪を愛する人間は、果たして気に入ってくれるだろうか。

 

 

 

 

 

「――あら御狐様、こっちに戻ってきてたのかい! 怪我をしたって聞いて心配してたけど、すっかり元気になったみたいだねえ、よかったよかった。じゃあはいこれ、お供え物。……え、やだねえ、御狐様が妖怪だってちゃんとみんなわかってるさ。でも、ほら、そんな細かいことどうだっていいでしょ?」

 

 以前月見は藍から、「最近里で、私のことを稲荷だと勘違いしてる人がいるんです……」と神妙な顔で相談されたことがある。

 藍お前もか、と思ったものである。

 そして今、いやぜんぜん細かくないけど、と思っている。というかこいつら、私を妖怪だとわかった上でわざと稲荷扱いしてるのか。

 寺子屋をあとにした月見はすぐ阿求の屋敷に向けて出発したのだが、通りでまた里人たちに捕まってしまっていた。迂闊だったとしか言い様がない。時刻が次第に昼へと近づき、通りの活気は最高潮へと高まりつつあるせいで、先にも進めずすっかり立ち話になってしまっている。そしてそこへ、怪我が治った祝いだとかお供え物だとかこの前世話になったお礼だとか、様々な言い分で次々と食べ物が飛んでくるのである。

 

「待ってくれ、これ以上はさすがにもう持てないから」

「はい袋。次買い物に来たときにでも返しとくれ」

「……うん、ありがとう」

 

 ともかく、こんなところをもし早苗に目撃されたら月見の立つ瀬がない。まるで、少女一人に買い物を押しつけてのうのうと遊んでいるみたいではないか。慧音に用があるんだと繰り返して強引に振り切り、通りを外れて人気が少ない路地まで逃げ込んだ。

 まったく、と月見はようやく一息つく。尻尾の先には、今しがた買い物を終えたばかりのように膨らんだ手提げ袋が引っ掛かっている。一度でこんなにもらってしまったのははじめてだ。一年の終わりということもあって、どいつもこいつも気前が良くなっているのかもしれない。

 気を取り直し、月見は今度こそ阿求の屋敷へ向かう。幸いにも月見以外に人影はなく、開放感からついつい歩みも早足となり、左右確認を怠ったまま角を曲がったその途端、

 

「おっと」

「おうっ」

 

 赤い少女とぶつかりかけた。お互いすんでのところで立ち止まったが、少女の方は雪でバランスを崩してしまい、

 

「あっ」

 

 首が落ちた。

 

「……」

「……」

 

 ちょうど足元から月見を見上げる形となって、今日も今日とて無表情な生首は無造作に一言、

 

「う~ら~め~し――あの待ってください旦那様、無視はいけません、いけません」

 

 立ち去ろうとした月見は足を止め、緩い吐息ひとつで仕方なく振り返る。そういえば彼女はこの里で、人間たちに紛れてひっそりと生活している妖怪の一人なのだった。

 

「……やあ、赤蛮奇」

「はい。おはようございます」

 

 妖怪草の根ネットワークの問題児、赤蛮奇である。月見は生首を拾い上げ、棒立ちになっていた胴体の上にそっと乗せた。周囲に人影がなくて本当によかった。

 

「ふう。さすが旦那様です、眉ひとつ動かすことなくスルーするとは」

「すまなかったね、ちょっと急いでいたものだから」

「そうなのですか。ところで、地上に戻っていらしたのですね。お噂はかねがね聞いております、地底の異変を見事解決に導いたと」

 

 まあ、「お急ぎでしたらどうぞ行ってください」なんて気を遣ってもらえるわけはないとわかっていた。

 

「お怪我をされたと聞いて、みんな心配していました。ひめも影狼も」

「この通り、綺麗さっぱり治ったよ。心配掛けたね」

「安心しました。ところで影狼といえばですね、この前なんとなんと」

 

 一度変な方向へ話題が逸れてしまったら、そこからはもう完全に彼女のペースだ。影狼がなにをやらかしたのかは大変気になるところだが、月見は堅い心で己を律して、

 

「赤蛮奇、悪いけど先を急がせてもらっていいかな。済ませたい用事があるんだ」

「おや……ああ、もう年末も年末の数え日ですからね。ところで大晦日は、旦那様のお屋敷で年越しの宴会をやると聞きました」

 

 まさか赤蛮奇まで知っているとは――いや、知っていて当然だろうか。大方、輝夜か妹紅あたりがわかさぎ姫に話して、わかさぎ姫が更に赤蛮奇へ話したのだろう。わかさぎ姫なら、むしろ水月苑を訪れたお客さんみんなに言い触らしていそうだ。「みんなたくさん集まった方が楽しいですよー」とか言って。

 この前のクリスマスパーティーを遥かに凌ぐ混沌の気配を感じて、月見は頭が痛くなった。

 

「わかったわかった、参加していいから。それじゃあ私は行くよ」

「ありがとうございます。ところで今日は水月苑の温泉に入れる今年最後の日と聞いてますので、あとで影狼と一緒にお伺いしますね」

「わかったわかった」

 

 今度こそ、今度こそ阿求の屋敷に向かうのだ。ざっくばらんと手を振る月見に、赤蛮奇は両手を揃えて礼儀正しく頭を下げ、

 

「あっ」

「……」

 

 落ちた。

 月見は見なかったことにした。

 

「あー旦那様、無視ですか。実は私、旦那様に頭を拾っていただくときのこそばゆい感触が地味に好きでして、あの旦那様ー、おーい……」

 

 月見は聞かなかったことにした。

 阿求の屋敷に行くんだってば。

 

 

 

 

 

 さて月見がやっとこさ人里一の屋敷に辿り着くと、ちょうど門の手前で阿求が慧音を見送りしていた。危ないところだった。もう少しでも赤蛮奇に時間を取られていたら、すれ違いになっていたかもしれない。

 

「慧音」

「ん? ……ああ、月見じゃないか」

「あ! 出やがりましたね月見さん!」

 

 出やがりましたよ。

 月見の姿を見た途端、阿求が喉を唸らせて臨戦態勢に入った。幻想郷縁起の一件を経て彼女とは和解したし、ストーキングされることもなくなったのだが、むやみやたらと目の敵扱いされるところは今でも変わっていないのだった。お淑やかな見た目で奥ゆかしい少女かと思いきや、存外阿求には怖いもの知らずというか、はきはきとして逞しい一面があるのだ。

 阿求は月見に指を突きつけ、

 

「遂に帰ってきましたか! では早速、この間地底で起こったという異変について教えてもらいますよ!」

「あとにしてくれ」

「どーせそう言うと思ってましたよーだ! いじわる!」

 

 べー! と舌を出すじゃじゃ馬に、慧音も呆れて額を覆うばかりである。

 

「まったくお前は……月見、どうか気を悪くしないでくれ。いろいろ生意気言ってるけど、これもお前に心を開いている証拠で」

「なに言ってるんですか慧音さん!」

「阿求がこんなに元気なのも、お前といるときくらいなものでね」

「事実無根ですっ!」

 

 阿求はやや口早になって、

 

「私にとっての月見さんは……そう、いつか倒すべき宿敵。ギャフンと言わせてやるんです!」

「素直じゃないなあ……」

「これ以上ないくらい素直ですっ!」

 

 慧音は吐息し、月見は浅く肩を竦めた。なんだか、気難しい猫を相手にしているような気分だ。

 

「まあいいや。……それで、地底から戻ってきたんだね。おかえり」

「ああ、ただいま。……実は、ひとつ確認したいことがあってね。お前を捜してたんだ」

「……そうか」

 

 具体的な内容に触れずとも、慧音は自ずと察してくれた。

 

「……なら、ちょうどよかった」

 

 慧音の表情が、かすかに――事情を知らない人間が見ても気づかないであろうほど、ほんのかすかに――曇った。

 それだけで、答えとしてはすでに充分だったのかもしれない。

 

「この前の満月で、ようやく情報が集まってね。それで、一度こっちから水月苑を訪ねたんだが……地底で異変があったとかで」

「……ああ。私が地底にいるうちに、満月があったんだね」

 

 地底は空がない世界だったから、月の満ち欠けなんてすっかり忘れてしまっていた。そうか、じゃあ今度満月が見られるのはもう来年なんだな、とズレた思考が頭の片隅を掠めた。

 

「……紙にまとめておいたから、私の家に行こう」

 

 それは立派な事実であり、同時に、場所を変えるための方便でもあったろう。

 阿求が首を傾げ、

 

「なんの話です?」

「なに、ちょっとした調べ物さ」

 

 慧音の切り替えは見事だった。なんてことのないそよ風みたいな口振りで、

 

「というわけで、私は戻るよ。なにか、月見に言っておきたいことは?」

「地底のこと、詳しく教えてもらいますからね! 逃げられると思わないことですっ」

「わかったわかった。今はちょっと忙しいから、あとでゆっくりとね」

「約束ですよ! 嘘ついたら閻魔様に言いつけます! 稗田家は、閻魔様ともこねくしょんがあるんですからねっ!」

 

 それはちょっと勘弁だなあと苦笑しながら、月見はしっかりと記憶のノートにメモを取った。

 阿求と別れ、慧音の家に向かう。月見も慧音も、あまり他人を交えたくない意識が働いたのか、なにを言うでもなく自ずと人気の少ない細道を選んでいた。民家の陰になり、土の混じった雪がわずかに踏み固められただけの路地で、はじめに口を切ったのは慧音の方だった。

 

「もしかして、だいぶ待たせてしまっていたか?」

「いや。……今日になって少し、事情が変わったんだ」

「……?」

 

 隣を歩く慧音が、目だけで続きを促す。

 今のところ周囲に人影はない。お互い、自然と足の運びが遅くなる。

 

「『神古』の名を恨んでいる妖怪が地底にいると、お前には話したね」

「……ああ」

「この前の異変のどさくさで、その妖怪たちが地上に出てきてしまっていたんだ」

 

 慧音が、足を止めた。少し遅れて立ち止まり、半身で振り返る月見の肩に、彼女の固い呼吸が掛かる。

 

「――まさか。それで、志弦が」

「大丈夫。なにもなかったわけではないけど……とにかく今は状況が落ち着いて、志弦の方も心配は要らない」

「……そう、か」

 

 にじむような、ため息だった。

 

「それで……私を捜していたんだな」

「ああ」

「……」

 

 慧音が唇を引き結び、顔を伏せる。それは葛藤であり、同時に月見への謝罪のようでもあった。彼女が一体なにを迷い、なにに責任を感じるというのか、まさか月見が的外れな想像をしているわけではあるまい。

 

「慧音」

 

 だから、言う。

 

「ここに来る前にね、輝夜に活を入れられたんだ。この期に及んで、赤の他人だったなんてしょうもないオチはありえないって」

「……」

「そうだったんだろう?」

 

 離れた通りの喧騒が、屋根の上を飛び越えていった小鳥のさえずりが、今はただの雑音でしかなかった。意味を持たない灰色の音の波が右から左へ抜けていく。なのに、慧音が拳を解き、代わりにスカートを握り締めた衣擦れだけはやたらと鮮明に聞こえる。そう遠くはない店で早苗が声高に油揚げを大量注文したが、今は月見にも慧音にも届かない。

 糸雨(しう)が枝を伝い、一筋の雫となってこぼれ落ちるような。そんな時間だったと、月見は思う。

 

「……ああ」

 

 泣き笑いにも似た、慧音の顔だった。

 わかっていたことだ。

 

「お前の、考えている通りだよ。志弦の中に継がれた血の歴史。つながっていた。ぜんぶ、あのときから、ずっと」

 

 ――ようやく、楽になれた気がした。

 耳に届く雑音が色を取り戻していく。胸の奥の更に奥底、精神の根本まで深く深く染み込んでいく、途方もない理解だった。思いの外、重く両肩にのしかかっていたのだ。そうであればいいと願っていたし、そうでなければいいとも祈っていた。二つの想いの間でせめぎあっていた。けれどやっと、どちらにも歩み寄れない中途半端な自分と、すっぱりと袂を分かつことができた。

 輝夜の言葉と、慧音の存在。

 どちらが欠けてもこの瞬間はありえなかった。彼女たちの力に、月見は救われたのだ。

 

「ありがとう、慧音。これで、完全に腹が決まった」

「……そうか」

 

 もしかすると、憑き物が落ちたような顔でもしていたのかもしれない。慧音の体からも、悪い強張りがふっと解けていって、

 

「よかった。お前を、余計に迷わせてしまうんじゃないかと思ってたんだ」

「……少し前の私なら、そうだったかもね」

「輝夜、か。あの方も、お前を支えられる女になったんだね」

 

 しみじみと二度も三度も頷いている。妹紅経由か、はたまた月見と輝夜の過去を知る数少ない人物の一人だからか、あのお姫様とは決して知らない仲ではないらしい。

 

「一筋縄では行かないかもしれないけど……私は信じてるよ。『神古』を恨んでいるという妖怪たちも、封じられた聖白蓮という僧侶も、そして、志弦も。みんなここで、仲良く暮らしていけるって」

「……ああ」

 

 霧は晴れた。豁然(かつぜん)と開けた視界の先、白蓮の下へと続く道を遮るのは、乗り越えるべき明確な障害物だけ。だからあとは、越えていくだけでいい。

 千年以上の時を超えて再びつながった因果な(えにし)に、思っていたほどの衝撃や感動の類はなかった。そりゃあそうだ、志弦は本当にあいつとよく似ていたのだから。前々からそうなのかもしれないと予感し、もしもそうであればと内心では期待していた。そして、その通りだっただけのこと。だから月見の心にあるのは衝撃でも感動もなく、未だ終わりの見えない懐かしさと、ほんのひとつまみの喜びだけ。

 今年の最後の、大仕事となろう。

 

「と、すっかり立ち話になってしまったな」

 

 慧音はまた歩き出し、

 

「私の能力でわかったことは、ぜんぶ紙にまとめておいたから。なにかの助けになればいいけど」

「なっているさ。もう充分ね」

 

 そのとき。

 慧音と並んで踏み出した、月見の背を、

 

「……?」

 

 ――あふれる懐かしさが勝手に生み出した、独りよがりな錯覚。

 そうに決まっている。振り返ったところで見えるのは人気のない路地の風景であり、それ以上のなにかがあるわけではない。だから、これは立派な気のせいなのだ。

 

「どうした?」

「……いや」

 

 けれど今だけは、そんな気のせいがあってもいいはずだと月見は笑う。

 一人は、ひっ叩くように荒っぽく。また一人は、寄り添うようにそっと優しく。

 

「なんでもないよ。……ああ、なんでも」

 

 どこかの懐かしい鴛鴦(おしどり)夫婦が、進むべき先へ押してくれた気がしたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 神古志弦は、夢を見ている。遠い昔の、夢を見ている。

 

 かつて人の姿を騙り、人々の世に交じって生きた狐の妖怪と。

 自分の中に継がれた血が、出会い、別れた、遠い遠い昔の夢。

 

 まるで生まれ変わったみたいに鮮明で、鮮烈で、自分自身が『彼』になったのではないかと錯覚してしまうほどだった。夢と呼ぶにはできすぎた夢。この世界において、志弦は間違いなく『彼』だった。それこそが志弦に与えられた、『過去を夢見る程度の能力』だった。

 ズルいと、思った。だって、だって目の前のこの世界が本当なら、月見が志弦を見て冷静でいられたはずがないのだ。『神古』の名を聞いて、なにも思わなかったはずはないのだ。今になって振り返れば、ちらほらとそれらしい言動が思い当たる。けれど彼は――それどころかあのお姫様だって、結局、志弦にはなにも教えてくれなかった。

 

 一言物申さねばなるまい。この夢から覚めたら。

 思いっきり、ぶん殴ってやるのだ。

 

 あの日、あのとき、あの銀の光に――神古秀友(ごせんぞさま)が、誓った通りに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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