銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方星蓮船 ② 「斬釘截鉄のご意見番」

 

 

 

 

 

 正直に言って、とんでもなく怖かった。

 だって志弦は、見知らぬ妖怪に問答無用で誘拐されたのだ。神様である諏訪子にだって躊躇いなく弓を引くような、凶暴で怖い妖怪たちなのだ。「聖輦船」なる空飛ぶ船の中、薄暗い倉庫のような一室に叩き込まれ、なんの問答もなく無理やり椅子に縛りつけられた時点で、ひょっとしたら自分の人生は終わりかもしれないと冗談抜きで泣きそうになっていた。

 あれから、二分が経った。

 二分が経って志弦の目の前では、自分を誘拐した悪い妖怪たちが、

 

「ムラサと一輪のばかああああああああ――――――――ッ!!」

「「ぎゃん!?」」

 

 志弦を完全放置でケンカしていた。

 具体的には『星』なる金髪の少女が裂帛し、『ムラサ』なる水兵服の少女と『一輪』なる尼さんの少女にチョップをお見舞いしていた。

 頭を押さえてうぐぐと呻くムラサと一輪に、星は顔面真っ青で、

 

「なななっなんてことしてくれたんですか!? なんだか襲われてると思って助けたのに、逆じゃないですか!? むしろムラサたちが襲ってたんじゃないですか!? 私は毘沙門天様の御力を人攫いのために使っちゃったんですか!?」

「ま、まあ……客観的には、そうなるかな……?」

 

 ムラサが涙目を明後日の方向に精一杯泳がせており、一輪も視線を合わせてくれない。すべてを理解した星はふらりと貧血を起こし、

 

「ああっ……毘沙門天様、申し訳ありません……! 私は早速貴方様の教えに背き、人を導くどころか悪へ加担してしまいました……! 絶対なくすなって言われてた宝塔も落としちゃうし、やっぱり私はダメな代理人なんですぅぅぅ……!」

 

 ふえええんと崩れ落ち袖に涙を忍ばせる姿は、壇上でスポットライトを浴びる悲劇のヒロインのようだった。

 そんな珍妙な光景を見せつけられながら、あれなんか思ってた展開と違うな、と志弦は思った。自分を攫った怖い妖怪たちはどこに消えたのだろう。てっきりたくさん痛いことをされると思っていたのに、目の前にいるのは凶暴な妖怪どころか、涙目で頭をさする女の子と、涙目で自己嫌悪している女の子である。

 一輪の背後をふよふよと漂うわたあめ――もとい、煙でできたおじいさんの顔と目が合う。つい先ほどまで巨大化して志弦を鷲掴みにしていた彼は、「やかましくてすまぬ」とでも言うように丁寧な目礼をした。こっちも、今はもうさっぱり怖くなかった。

 蚊帳の外から話を聞いてみれば。

 少なくとも絶賛自己嫌悪中な星という少女は、志弦を攫うつもりはまったくなかったようだ。というかそもそも、志弦の存在に気づいていなかった。船内で一休みしていたところ船がいつの間にか止まっていると気づき、どうしたのかしらと思って甲板に出てみるとムラサたちがいない。なにやら地上の方から口論が聞こえ、見ればムラサたちが見知らぬ幻想郷の住人から挟み撃ちにされている。どこからどう見ても襲われているようにしか見えない。結果、なななっなんということでしょう早く助けなきゃ、と彼女は華麗に早合点し――その後の展開は、志弦の記憶にある通りである。

 打ちひしがれる星に、一輪はだいぶバツが悪そうだった。

 

「た、確かに、その場の勢いでやっちゃった部分はあるけど……でも、それなりに理由はあったのよ。この人間は、」

「ああ人間さん、ムラサと一輪が本当に申し訳ないことをしてしまいました……! お怪我はありませんか? あっこんな風に縛ったりしたら痛いですよねごめんなさい待っていてくださいすぐ縄を解きますから」

「こらあ――――――――っ!!」

「ふぎゅ!?」

 

 一輪が星にチョップをした。

 

「なにするんですか!?」

「こっちのセリフなんだけど!? 人がよすぎるところと早合点しすぎなところはほんと変わらないね!」

「そっちこそ、頭より先に手が動くところはあいかわらずじゃないですか!」

「仕事しかできない女! どうせ修行してる間も修行以外はぜんぜんダメダメだったんでしょ!?」

「仕事ができない女! どうせ地底に封じられてる間も仏の教えなんて忘れてぐーたらな生活だったんでしょう!?」

「「ぐむむむむむっ……!」」

 

 なんだか、あんまり怖がらなくても大丈夫な気がしてきた。

 

「とにかく、この人間さんは元の場所に帰すべきです! そもそも、どうして攫ったりしたんですか!?」

「姐さんにつながる手掛かりかもしれないからだよ!」

 

 しかし一輪がそう叫んだ瞬間、志弦は部屋の空気が根底から一変したのを感じた。

 すっかり蚊帳の外である志弦ですら、胸を締めつけられるのを感じる張り詰めた沈黙。星の体が、耐えようのない困惑でわずかに揺らめく。

 

「――聖、に? どういうこと、ですか」

「……星は、姐さんや私たちを封じた人間のことは」

「……知りません。私はあのとき、なにもできませんでしたから――」

 

 息を呑む。志弦を一瞥する。

 

「――まさか。この人が?」

「……ええ。姐さんを封印したやつにそっくり。それに、『神古』って名も同じ」

 

 ――少しずつ、話が見えてきた。どうして自分が、一輪たちに襲われたのか。

 人間には、神仏の力を借りて人ならざる者を封ずる力があるという。その大部分は()うに現代からは失われてしまったけれど、かつて妖怪が跋扈(ばっこ)していた遠い昔の日本には、怪力乱神の術を駆使して魔を退け、人々の助けとなる者たちがあった。

 その中の一人に、『姐さん』や一輪たちを封じたという人間がいて。

 その人間は志弦と瓜二つの姿をしていて、しかも姓までもが同じ『神古』だった。

 だから、狙われたのだ。自分たちを封じた『あいつ』と、よもや同一人物――そうでなくても、なにか関係があるのではないかと疑われて。

 だが、

 

「ちょ、ちょっと待ってよ」

 

 志弦は、己の状況も忘れて口を挟まずにおれない。

 

「私、なにも知らない。ほんの二十年も生きてない小娘だし、半年くらい前までは霊一匹祓えない、ほんとに普通の人間で」

 

 星が、未だ動揺を拭えないながらも同調する。

 

「そ、そうですよ。この方からは、特筆するほどの霊力を感じません。聖はともかく、聖を助けようとしたあなたたちまで封じるのは不可能でしょう?」

「……そうね。さすがに同一人物では、ないかもしれないわね」

 

 一輪が緩く首を振り、ムラサがそのあとを引き継ぐ。

 

「でも、こんなのただの偶然とは思えないわ。同一人物じゃなくても、なにか関係くらいはあるかもしれないでしょ?」

 

 そうだと断言できる材料はないし、逆に違うと否定できる根拠もない。ほとんど蚊帳の外で話を聞く志弦ですら、偶然にしては傍迷惑なほどできすぎていると感じる。少なくとも志弦は、他人の口から自分の家族以外の「神古」が出てくるところなどはじめて聞いた。

 ――神古の家系は、かつては霊能力を人々のために役立て、財を成すこともあったという。

 もしもそれが、遥か遠い昔まで遡る話だとすれば。

 

「私たちがずっとバラバラになっちゃってたのって、ぜんぶ『あいつ』のせいじゃない。そう思ったら、許せなくて……絶対逃がしちゃダメだって、頭の中が真っ白になっちゃって」

「……それで、連れ去ってきてしまったということですか」

 

 星が、首を振った。事の顛末を理解し、その上で、嘆くように。

 

「……やっぱり、この方を元の場所へ帰しましょう」

「「……!」」

「元の場所へ帰し、ご家族の方々に謝罪を。それから事情を説明して、協力していただけるよう仰ぎましょう」

 

 ムラサと一輪が、理解不能と目を剥いた。

 

「協力……!? この人間は、『あいつ』と関係あるかもしれないやつなんだよ!? 私たちをバラバラにした『あいつ』と!」

「そうよ! なのに、謝罪……!? 協力……!?」

「ムラサ、一輪。それは、逆恨みです」

 

 腕を振り声を張る二人に、しかし星の返答は淀みなく早い。もしかすると星は、二人が『神古』を恨んでいる可能性を予期して、ずっと以前から答えを見いだしていたのかもしれない。

 

「聖は、なにもしていなかったのですか? なにもしていなかったのに理不尽に人々から恨まれ、不条理に魔界へ封じられたのですか?」

 

 一輪とムラサは、咄嗟に言い返せない。

 

「……人々から信仰を託されるというのは、そういうことです。聖だって、理解していました。だから私は……なにも、できなかった」

 

 二人が拳を震わし、深く目を伏せ、やり場のない思いにきつく口端を噛んだ。志弦はなにも言えない。たぶん、なにも知らない自分は、なにも言ってはならないのだと思う。

 本当に、大切な人だったのだろう。

 いつの時代の話なのかはわからない。けれど妖怪が日本に跋扈していた時代を考えれば間違いなく何百年も昔であり、それほどの星霜をずっと離ればなれにされる苦痛がどれほどのものか、高々百年も生きられないただの人間如きには到底推し量れまい。

 だから、理屈では星の言葉を否定できずとも、感情が否定したいと懸命に叫んでいるのだと、志弦にだって迫るほどよくわかった。

 一輪が、身をよじるような声音で吐露する。

 

「それでも! ……それでも、私は!」

 

 そのとき、

 

「――いっ、」

 

 突拍子もなく顔をしかめたムラサが、羽虫を叩くように左肩を押さえた。

 全員の視線がムラサに引き寄せられる。なにが起こったのか自分でもよくわかっていないらしく、ムラサも不思議そうな顔をしている。

 

「……ムラサ?」

「あ、ごめん。なんだろ、突然肩が痛」

 

 そこまでだった。

 ムラサが、膝から床に崩れ落ちた。

 

「づ……あ゛っ……!?」

「……ムラサ!? どうしたの!?」

 

 一輪と星が血相を変えて駆け寄る。二人の体に遮られ、ムラサの様子が志弦の位置からは見えなくなる。だがその間際に、一瞬ではあるが、確かに視界を掠めていた。

 ムラサの左肩。

 そこになにか、黒くて禍々しい邪気のようなものが、

 

『――あーあー、てすてすー。人攫い妖怪の皆さーん、聞こえるかなぁー?』

 

 諏訪子の、声。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……!」

 

 その声が聞こえるや否や、星は水蜜の襟元に手を突っ込んで、強引に肩をはだけさせた。

 一輪が目を見開いた。

 

「なに、これ……!?」

 

 水蜜の左肩に、蛇がいた。

 より正確に言うなら。蛇にも見える幾本もの黒い紋様が、タチの悪い蚯蚓腫(みみずば)れが如く水蜜の肩に巣喰っていた。

 

(これは……!)

 

 曲がりなりにも毘沙門天の下で一から修行をした神の代理人として、星にはひと目で正体がわかった。

 これは、祟りだ。神の強い怒りを買った者が身に受ける呪い。モノは極めて小さいが、並の呪術とは比べ物にもならない邪気を感じる。

 

『ごめんねえ、なんかお取り込み中のとこに割り込んじゃってさ』

 

 星の耳には、口を利くはずのない蛇の紋様がそう喋っているように聞こえる。あまりに幼く、あまりに気安く、この場には到底不釣合いな童女の声である。

 水蜜が、苦悶の表情のまま肩に爪を立てる。

 

「この声、あのときの……!」

『やあ、その節はどーも。痛かったんだよー、まあ怪我はしてないけどさ』

 

 あの子だ、と星は思った。この底の知れない異質な気配、星ははっきりと記憶している。ムラサたちが襲われていると早合点してしまった己が、牽制に光の矢を撃ち込んだ女の子。

 

「いつの間に、こんなものを……!」

『ん、あんたに錨ブチ込まれたときかな。荒ぶる神に、迂闊に触ったりしちゃダメだよー』

 

 好都合だったけどね、と女の子の声がからからと笑う。一輪がムラサの肩へ掴みかかるように、

 

「ムラサになにをしたの!?」

『え? 祟った』

 

 絶句、

 

『そりゃそうだよ、わたし神だよ? 大切な家族をいきなり連れ去られたら当然怒るし、神の怒りはすなわち祟りでしょ?』

「……あ、あの、あなたは、」

 

 思わず問いがこぼれる。改めて思い知る。祟り越しでも迫るほど感じるこの強大な気配、並大抵の神ではない。あなたは一体、何者なのか――星が最後まで言い切るより先に、蛇の紋様がこちらを向いた気がした。

 

『あんた、毘沙門天の力を使ってたやつ? 毘沙門天の遣いかなんか?』

 

 星は胸騒ぎを精一杯に律し、答える。

 

「び、毘沙門天様の、代理をさせていただいている者です」

『へえー。じゃあ当然、ミシャグジって言われればなんのことだかわかるよね?』

 

 全身から血の気が失せた。

 

「ま、まさか、あなたは――貴女様は、」

『洩矢諏訪子。祟り神のミシャグジを統べる、元は諏訪の土着神だよ。一時期は、土着神の頂点を極めたりもしたかな』

 

 充分だった。

 それだけわかれば、星が取るべき行動などひとつしかなかった。

 

「――洩矢様。この人間の方は、今すぐに貴女様の下へお帰しします」

「星!?」

「一輪は黙っててッ!!」

 

 星の大喝に、一輪が驚愕の表情で怯む。

 

『おお、物分かりがいいねえ。やっぱ私の名前って、今でも結構有名なのかな』

「……神に仕える者で、ミシャグジ様の名を知らぬ者などいません」

『そう? えへへ、嬉しいなー』

 

 敵に回せば、ある意味、毘沙門天どころの話ではない。場合によっては毘沙門天すら凌駕する力を発揮するのが土着神であり、中でもミシャグジは、祟り神という性質を以てかつては強大な信仰の勢力圏を形成した。人々の信心は極めて深く、信仰による国家統一を目指した太古の神々ですら、意のままにはできなかったとささやかれているほどだ。

 もちろん、現代に至るまでの時流で少なからずその信仰は廃れただろう。今の洩矢神にかつてほどの力はない。しかし、それでも、妖怪の一匹や二匹を祟る程度ならば――。

 

『志弦、大丈夫? 痛いことされてないかい?』

「す、諏訪子……?」

 

 志弦と呼ばれた少女は、まだ頭の理解が追いついていない様子だった。なぜ水蜜が突然苦しみ出したのかも、諏訪子の声がどこから聞こえるのかもよくわかっていない。やはり、普通より少しばかり強い霊力を持っているだけの、ごくごく平凡な一般人なのだ。

 

「え? 祟り、って……なにがどうなって」

『うん。言ったことあったよね? ――私の荒御魂は怖いよぉ、って』

 

 しかし一般人とはいっても、人里で農業や商業にのんびり従事して暮らしている人間とはワケが違う。なぜ彼女が巫女の姿をしているのか、今なら完全に納得が行った。彼女は、洩矢諏訪子を祀る神社の巫女なのだ。

 だから、志弦を攫った水蜜が祟られた。自分を祀ってくれる神社の巫女に手を出されたならば、どんなに温厚な神だって怒らずにはおれまい。

 

『安心して、志弦のことはちゃんと私が守るからね!』

「……う、うん」

 

 頷きながらも志弦は、未だ痛みに呻く水蜜を気遣わしげに見下ろしていた。守るって、まさかこの人たちを傷つけるつもりなんじゃ――そう心配しているように、星の目には見えた。優しい人間なのだ、と思う。やっぱり、こんな手荒な方法で無理やり白蓮への情報を聞き出そうなんて、間違っている。そもそも、なにも知らない可能性の方が圧倒的に高いというのに。

 諏訪子の声の向き先が、星たちの方へ返ってくる。

 

『そういうわけだから、とっとと志弦を帰してよね。それが、この船幽霊を祟りから解放する条件だよ』

「……わかりました」

 

 元より星はそのつもりだし、他の選択肢もない。

 

「場所は……先ほどの白いお屋敷でよろしいですか?」

『うん、そうして。いやあ、あんたは話がわかるやつで助かるよ』

 

 諏訪子は安心したように息で笑い、それから、

 

『――でも、あんた以外の二人はどうなのかな』

「……!」

 

 そこでようやく星は、水蜜と一輪が誰からも目を逸らし、貫くような眼差しを床に落として、唇を引き結んだまま固く沈黙しているのに気づいた。

 まさか、と思った。

 

「まさか、二人とも――」

「「っ……」」

 

 そこまでなのか、と星は愕然とした。もちろん、わかっている、水蜜と一輪は白蓮を深く敬愛していた。星だってナズーリンだって、きっと足元にも及ばないほどであるはずだった。白蓮が魔界の一体どこに封印されたのか、どんな小さな情報でもがむしゃらに欲しがっている。そして、星たちの日常を引き裂いたともいえる人間を、何百年が経った今だって憎み続けているのだ。わかっている。わかっているとも。

 しかしまさか、神から祟りを受けてもなお、志弦の解放を拒むほどだなんて。

 諏訪子の声音が、凍てつく。

 

『……言わなくてもわかってると思うけどさ。それでも志弦を帰さなかったり、志弦にこれ以上手を出したりしたら――船幽霊一匹だけで済ますつもりなんてないからね』

 

 ミシャグジを従える諏訪子になら、それが容易にできるだろう。

 だが水蜜と一輪は、なおも口を開けずにいる。ここは志弦を帰すべきだと頭では理解しているが、心がどうしても納得しない。聖の仇である血が流れているかもしれない人間を相手に、謝罪なんて、あまつさえこちらが下手に出て協力を持ちかけるなんて――

 

「――まったく」

 

 呼吸すら困難な沈黙は、第三者のため息によって打開された。

 

「私がちょっと出掛けてる隙に、一体なんだいこの有様は。どうしてここに志弦がいて、しかも椅子に縛られてるんだい」

 

 灰色の丸耳と髪を揺らし、両手にトレードマークのダウジングロッド、くるりと丸めた尻尾の先には仲間(ねずみ)が入ったバスケットを添えて。

 星にとってみれば、まさしく地獄に仏だった。

 童女同然の見た目にそぐわぬ知的な口振りは、事実彼女の広い視野と深い思慮の表れであり、かつてはその頭脳を買われて寺のご意見番を務めることも珍しくなかった。星がこの世で一番頼りにしている、自分には勿体ないくらいの腹心の部下――

 

「――さて。一切合切、説明してもらおうかな」

 

 ある意味で白蓮をも凌ぐ最強少女、ナズーリンのご帰還であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――なるほどね。なるほど、事情は大変よくわかった」

 

 数分後、星たちから事の顛末を聞いたナズーリンは深く頷き、それから笑顔で、

 

「お前たち、やってしまえ」

『チューッ!!』

「「ぎゃにゃにゃにゃにゃにゃ!?」」

 

 ナズーリンのバスケットから飛び出した妖怪鼠たちが、一輪と水蜜の鼻っ面に容赦なくガジガジ噛みついた。ひっくり返ってのた打ち回る二人をナズーリンは冷ややかに見下ろし、

 

「ムラサ、一輪、少し記憶を遡ってみようか。私は出掛ける前に言ったはずだね? 君たちは地上に関しちゃ右も左もわからない赤子も同然なんだから、勝手な真似はしないで大人しくしていろと」

「「にゃにゃにゃにゃにゃにゃ!!」」

「それがどうして、志弦を聖輦船に誘拐するなんて常軌を逸した行動につながるんだろうね? 実に理解に苦しむよ」

「「ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ!?」」

「あ、あの……ナズ、そのくらいで」

「君もだよご主人」

『チューッ!!』

「ふみぇみぇみぇみぇみぇ!?」

 

 星も床をのた打ち回った。

 

「私はご主人にも言ったはずだね、ムラサと一輪をちゃんと見ているようにって。それがどうして、志弦の誘拐を援護するなんて常軌を逸した行動につながるんだろうね? 実に、まったくもって理解に苦しむよ」

「みゃみゃみゃみゃみゃ!?」

 

 バタバタゴロゴロする星たちを放置して、ナズーリンは志弦のところに向かった。

 

「本当に申し訳ない、志弦。ウチのバカたちが迷惑を掛けてしまったようだ」

「あはは……さすがナズちゅー」

「いま縄を解くよ」

「ふぎゃっ、あだっ、や、やめ――ちょ、ちょっと待ってよナズーリンッ!」

 

 水蜜が、鼻に鼠をぶら下げたまま涙目で起き上がる。一輪も続いて、

 

「あんた、その人間とどういう関係なの!?」

「ん。控えめに言って、命を助けた間柄かな」

『そーそー。その鼠は、無縁塚に迷い込んで死にそうになってた志弦を助けてくれた恩人だよ』

 

 水蜜の左肩から諏訪子の声がする。それから意外そうに、

 

『ってかあんたらこそ、ナズーリンと知り合いだったのかい』

「ふにゅ!!」

 

 星は気合と根性で妖怪鼠を引っぺがし、じわりとあふれた涙を拭って、

 

「え、ええ、昔からの家族のような存在で……まさか、ナズと洩矢様がお知り合いだったとは……」

「世間は狭いということだね。そう広くもない幻想郷ならなおさらだ」

 

 志弦の縄を解きながら、ナズーリンは薄く笑った。

 

「特に今は、水月苑なんて場所があるからね。あそこにいくらか足を運んでいれば、勝手に知り合いも増えるというものだよ」

「……あそこ、ほんといろんな人たちが集まるからねー」

 

 恩人のナズーリンが現れたことで、志弦の面持ちからいくらか緊張と恐怖が中和されている。しかし警戒の色はなおも濃く残っていて、ナズーリンが縄を解いても立ち上がろうとする素振りはない。

 一輪と水蜜も、ようやく鼻っ面から鼠を引っぺがした。目元の水分を払い落とし、

 

「……ナズーリン。あんたは、その人間を」

「当然、元の場所にお帰しするさ。異論は認めないよ」

 

 一輪はそっと口端を噛み、

 

「……その人間が、姐さんを封じたやつと関係あるかもしれないとしても?」

 

 ナズーリンは一秒も考えない。まるで事もなげに、

 

「ああ、その話は実に興味深かったね。私もご主人も、聖を封じた人間についてはなにも知らなかったから。なおさら、世間は狭いと言わざるを得ないね」

 

 引っぺがされた鼠たちが、ナズーリンの体を登ってバスケットに戻っていく。ナズーリンは続ける。

 

「しかし、二人とも。いま一度、頭をリセットして考え直してご覧よ」

 

 解いた縄を部屋の隅に投げ捨て、振り返り、

 

「――『今の自分は、本当に聖のために行動しているのだろうか』」

 

 ひとたびこうなってしまえば、あとはナズーリンの独壇場だった。

 

「聖をどうやって復活させるかは一旦置いて、もう少し先の未来――聖を無事復活させたときのことを考えてみてほしい。この幻想郷がどういう世界かは、もう君たちには説明したね。では聖は、この世界をその目で見たときなにを思うだろう……君たちなら、きっと聖が目の前にいるように想像できるんじゃないかな」

 

 滔々と淀みなく、決して必要以上の感情は込めず、透明な清水が流れゆくように。人の考えを否定し理解を強制するのではなく、あくまできっかけを提示し再考を問い掛ける語りは、自然と聞く者の意識に入り込んでいく。

 

「ここで暮らしたいと、童心に返ったように願うだろうさ。なんてったってここでは、妖怪と人間が共に暮らしているのだから。……そんな聖を、君たちは見てみたくないかい? 私は、ものすごく見てみたいね。きっと大はしゃぎだ。ふふ、想像しただけで楽しくなってくるじゃないか」

 

 幻想郷は、白蓮が焦がれていた夢に限りなく近い世界だといえる。無論すべてがすべてそうではないけれど、妖怪と人間の距離が極めて近く、中には互いを認め合って積極的に交流していたり、同じ屋根の下で暮らしていたりする者たちもいるほどだ。白蓮がまだ封印されていなかった時代からすれば、まさに夢が現実になったような世界だった。

 そんな世界があると白蓮が知ったら、どうなるか――大はしゃぎというのも、あながち大袈裟ではないのかもしれない。

 

「もちろん、私だってわかっているさ、聖の手掛かりを探すのは大切だとも。志弦の存在が重要なファクターなり得る可能性も理解できる。けれど、聖を復活させてめでたしめでたしではない。あとにはここでの生活が待っているんだ。ならばそのとき聖が笑顔で暮らせるかどうかは、今の私たちに懸かっていると言えるんじゃないかな」

 

 もしここで、星たちが諏訪子と――幻想郷の住人と対立してしまえば。敵の味方は敵であり、すなわち星たちの仲間である白蓮もまた敵と見なされるだろう。幾星霜夢見ていた世界が目の前にあるのに、手が届かない。受け入れてもらえない。本当にそうなってしまったとき、白蓮がどれほど心を痛め悲嘆に暮れるか、ただ想像するだけでも星は背筋が凍りつきそうになる。

 

「だから一輪、ムラサ、一度深呼吸してみたまえ。もしものことがあれば、私たちだって、聖だって生きづらくなるし……」

 

 ナズーリンは、敢えて短くはない間を置いて、

 

「……最悪、あのとき(・・・・)と同じことが繰り返されるだけだ。人々の敵と認識された者が討たれ、封じられる――それは、今の幻想郷でも充分に起こりうる」

「「っ……」」

「要するに、上手くやってくれないと困るんだよ」

 

 深く大きなため息をついて、そこからはわざとこれ見よがしに口を尖らせた。

 

「これはまだ言ってなかったと思うけど、私は月見と約束したんだ。いつか必ず聖と会わせるってね。なのにこんなところで揉めてたら約束どころじゃなくなってしまうだろう、まったく」

『なに、まさかあんたら全員月見とまで知り合いなの?』

「ご主人以外は、ね。こっちの妖怪たちは、この間まで地底に封印されていてね」

『……あー、地底ね。あー、そういうこと』

 

 諏訪子の声音が一気に脱力する。またこのパターンか、と天を仰いで呆れているようでもあった。志弦も半笑いで、

 

「さっすが月見さん、交友関係ハンパないなー……」

『なんだい、だったらはじめからそうだって言ってよ。そしたら私らだって普通に協力してたし、こんな状況にもならないで済んだんじゃないの?』

「いやまったくもってその通りだ。返す言葉もない」

「「……」」

 

 ナズーリンが肩を竦め、水蜜と一輪は結局なにも言えぬままあらぬ方向へ視線を逸らした。部屋を満たしていた緊張が少しずつ解けていき、肩から険を抜けるようになっていく。

 ……ええと。

 月見を知らない星はやや置いてけぼり気味である。星は長らく毘沙門天の下で修行をやり直していたので、当然ながら「月見」なる妖怪に会ったことは一度もなく、そういう狐の妖怪がいるとナズーリンたちから聞かされている程度でしかない。銀の毛をした、人のいい妖怪なのだと。

 一輪が、問うた。

 

「……ナズーリン」

「なんだい?」

「どうして月見さんと、そんな約束を……ううん。どうして姐さんを、月見さんに会わせたいと?」

 

 ナズーリンは、少し、考える仕草をした。

 

「……これは少々、身の上話になってしまうけどね。私と月見は、無縁塚ではじめて出会ったんだが」

 

 まだ幻想郷にやってきてから日の浅い星だが、あらかたの地名はナズーリンに教えられて頭に叩き込んだ。無縁塚はナズーリンが掘っ立て小屋を建てて暮らしている場所で――死にたがりの人間が外から迷い込んでは、誰からも知られずこの世から消えていく、幻想郷の闇の部分。そこに迷い込んだ志弦をナズーリンが助けたのだと、先ほど諏訪子も言っていた。

 

「そのときにね。妖怪に喰われた人間の、成れの果てを見たんだ」

 

 志弦が束の間、息を殺した。

 

「そしたら月見が、群がっていた妖怪どもを問答無用で追い払って……喰われた人間を、荼毘(だび)に付したんだよ。遺灰を集めて、簡単な墓まで作って」

 

 そのときナズーリンは、星でもあまり見たことのない顔をしていた。

 ひどく無防備な。

 皮肉屋で大人びた人相の奥から垣間見える、見た目相応の優しさと、柔らかさだった。

 

「面白いと思わないかい? 妖怪なのに、そんじょそこらの人間よりも人間のことを想っていてさ。まるで、人間なのに妖怪よりも妖怪を想っていた、聖みたいじゃないか」

『……月見らしい話だね』

 

 諏訪子が、静かに笑みの息をついた。

 

『人間が、狐の耳と尻尾をつけてるようなやつさ』

「違いない」

 

 口端を曲げて、ナズーリンも笑った。

 

「だから思ったんだよ、聖に彼を会わせたいって。聖なら手を打って大喜びさ。案外、聖がずっと会いたがっていた妖怪も、月見だったりするのかもしれないよ」

「……会いたがってた?」

 

 志弦が首を傾げた。ちょっと口が滑ったな、という顔をナズーリンはして、

 

「……まあ、立ち入った話はあとにしよう。それより志弦の方が先だ」

『そうだねー。でもこれなら、もうあんたを祟っとく必要もなさそうだねえ』

「あ……」

 

 水蜜の左肩に巣喰う紋様から、禍々しい気配が溶けるように消えていく。痣自体は消えていないけれど、水蜜の表情が途端に楽になったから、恐らくは痛みがなくなったのだと思う。

 

『志弦を帰してくれれば、痣も綺麗に消してあげるよ。……ともかくそれでいいよね? そんで詳しく話を聞かせてよ。私らも、もしかしたら力になれるかもしんないしさ』

「寛大な処置、痛み入るよ。……ムラサも一輪も、いいだろう?」

「「……」」

 

 水蜜も一輪も、すぐには答えを返さなかった。だがそれは決して拒絶ではなく、何百年も抱え続けてきた想いにひとつの区切りをつけるための時間であり、やがて一輪は降参するように長く吐息して、水蜜はガシガシと荒く頭を掻いた。

 

「わかったわ。……その、ごめんなさい。少し、感情的になりすぎてたみたい」

「右に同じく……。えと……すみませんでした」

『ん。じゃあ、水月苑で待ってるからね』

「ああ。すぐ船を向かわせるよ」

 

 星は、すっかり舌を巻きながらその光景を見つめていた。やっぱりナズはすごいなあ、と思った。星が説得しようとしてもぜんぜん上手く行かなかったのに、ナズーリンはなにひとつ強引な物言いもせずあっさりとこの場を収めてしまった。まったくもって、いつまで経っても垢抜けない自分には不釣合いなほど優秀な部下だった。

 

「さすがですね、ナズは」

 

 この程度は動作もないと思っているのか、ナズーリンは褒められても嬉しそうな顔ひとつしない。肩を竦め、

 

「まったく、ちょうどいいタイミングで帰ってこられたからよかったものを。もう少ししっかりしてくれないと困るよ、ご主人」

「う……が、頑張ります」

 

 星は、言葉での戦いが苦手である。というか、そも言葉だろうが武力だろうが、誰かと対立すること自体まったくもって好きではない。果たして昔の自分が本当に虎だったのか、本当に人間を食べたりしていたのか、軍神でもある毘沙門天の代理を本当に任されていいのか、自分自身でももうだいぶ自信がない。とはいえ苦手なものはどうやったって苦手なので、事なかれ主義なところはこれからも末永く変わらないのだろう。

 ナズーリンが戻ってきてくれて、本当によかった。

 

「ところで、諏訪子。水月苑で待ってると言っていたけど、まだ月見は地底から帰っていないだろう?」

『うん。でも、もうすぐ戻ってくると思うよー。志弦が悪い妖怪に攫われたーって、天狗が伝えに行ったみたいだからね』

 

 水蜜と一輪の肩がピクリと震える。ナズーリンは冷ややかな半目で、

 

「……月見が戻ってきたら、ちゃんと謝っておきなよ」

「「……はぁい」」

 

 二人ががっくりと項垂れる。星は安堵と同情が半々に混じった微苦笑を忍ばせながら、「月見」という、まだ顔も知らぬ不思議な銀の妖狐へ思いを馳せる。

 ナズーリンが、聖に会わせたいと願う妖怪。

 一体、どんな妖怪なのだろう。もしもナズーリンが言った通りであるならば、彼と白蓮が出会うそのときを、星もこの瞳に焼きつけたいと思う。

 妖怪を想う人間と、人間を想う妖怪。

 それはきっと、素敵な出会いになるはずだから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 志弦は胸の奥に詰まっていた悪い空気をすべてため息に変えて吐き出し、椅子の背もたれに全体重でもたれかかった。

 どうやら、助かった、らしい。見知らぬ妖怪に突然襲われ、拉致され、更には椅子に縛りつけられて、一時は本当にどうなることかと思ったけれど。

 

「すまなかったね、志弦。なにか飲み物でも持ってこようか?」

 

 この場で最も幼いナズーリンの姿が、今の志弦には月見と同じくらいに大きく頼もしく見えた。

 

「あー、んー、とりあえずいいよ。水月苑に戻るんでしょ?」

「ああ。責任を持って送り届けるよ」

「ナズちゅーまじイケメン」

 

 本当に、命の恩人だ。一度のみならず二度も救われてしまった。見た目はかわいいし、性格はクールだし、言葉遣いはイケメンだしで、同じ女じゃなかったらコロリとやられていたかもしれない。

 

「な、ナズちゅー? ……ナズは、この方と仲が良いのですね」

「いや、これは彼女の人柄というべきだね。ご主人も、珍妙なあだ名を付けてもらえるかもしれないよ」

 

 どうでもいい話だが、志弦が考えるあだ名は幻想郷の住人からもっぱら不評である。椛なら「もみもみ」、はたてなら「ほたてっち」、阿求なら「きゅんきゅん」、妹紅なら「もこりん」、レミリアなら「れみちー」などなど。もちろんもれなく全員から怒られた。「ナズちゅー」もはじめはいい顔をされなかったので、志弦にネーミングセンスはないのかもしれない。

 確かナズーリンの隣にいる金髪の少女は、「星」と呼ばれていたはずだ。あだ名で呼ぶとすればなんだろう。「しょーちゃん」かなあ。別にあだ名でもなんでもないなあ。

 と盛大に脱線していたらナズーリンが、

 

「志弦、こんな状況ではあるけど紹介しておこう。一応、現在の私の主人に当たる方だ」

「い、一応ってなんですかっ。……ええと、寅丸星と申します。まだまだ未熟者ではありますが、毘沙門天様の代理人などをやらせていただいてまして……」

 

 そう自己紹介されてみるとなるほど、寅丸星はそんじょそこらの少女とは一線を画す姿をしていた。短く揃えた金髪の煌きは俗世離れしており、同じ金と穢れを知らぬ純白、そして突き抜けた真紅を組み合わせた袈裟姿は目も眩むようだ。左手に携えた鉾は、もしかするとあらゆる邪悪を覆滅する神器の類ではあるまいか。毘沙門天は、確か仏教の神様だったと志弦は記憶している。諏訪子や神奈子など、古風で素朴な姿をした日本の神様とは違って、まさに仏の化身もかくやの神々しい出で立ちだった。

 それでありながら、例に漏れず端整な相貌にはどことなく幼さが見え隠れし、矮小な一般人である志弦にも敬語で接する人柄には、優しさと慈悲深さが満ちている。

 とりあえず、手を合わせて拝んでおいた。

 

「わたくしめは神古志弦と申します小娘でございます。かしこみかしこみ……」

「……い、いやあの、楽にしてください、私はあくまで代理人なので……あ、もしかして毘沙門天様を信仰していらっしゃるとか?」

『志弦はウチの巫女だって言ってるでしょ』

「そ、そうですよねっ!?」

 

 背中から飛んできた諏訪子の半畳にびくんと飛び跳ね、「私ったらそんなわかりきったことを……ふわわ……」とほんのり赤くなっているあたり、天然属性も完備しているらしい。あざとい。でも、その方が反って人々の信仰を集められるのかもしれない。特に大きいオトモダチの信仰を。守矢神社に足りないのはあざとさなのか。腋をさらけ出す程度ではダメなのか。

 

「まあこの通り、仕事以外は実に要領が悪い半人前さ。そんな手を合わせたりしないで、気軽に相手をしてくれて構わないよ」

「あのナズ!?」

 

 ナズーリンは無視し、

 

「それで、年端も行かない君をその場の勢いで拉致監禁した、こっちのあくどい妖怪たちが……」

「ふぐっ……む、村紗水蜜よ。船幽霊で、この船の今の主」

 

 水蜜は簡潔な自己紹介をし、それから少しの間言い淀み、

 

「……えーと、その。いきなり攫ったりして、ごめんなさい……」

「あー、いや、その、こっちもなんか紛らわしい人間だったみたいで……」

 

 拙くはあったが、一方で素直な謝罪でもあった。初対面で見せてくれた笑顔の通り、根は気さくな少女なのだと思う。こんな形で出会っていなければ仲良くなれていたかもしれないが、そこまでは高望みになってしまうのだろうか。

 続けて尼さん姿の少女が、

 

「私も……悪かったわね。雲居一輪よ。こっちで小さくなってるのが、入道の雲山」

 

 快活そうな水蜜と違って、こちらは落ち着きがあって大人びた印象を受ける。頭巾の隙間からこぼれる神秘的なまでに蒼い髪と、怜悧な眼差しはいかにも敬虔で物静かな女性を思わせるが、そういえば星が「仕事がダメダメな女」とか「ぐうたら」とか言っていたっけ。

 そして一輪の右肩あたりを漂うわたあめな老翁――雲山が、物言わずペコリと目礼をする。なんとなくこちらも、「手荒な真似をしてすまぬ」と謝ってくれたような気がした。彫が深くて厳つい顔立ちだが、心は思いやりあふれる紳士なのかもしれない。

 

「今回はこんな形になってしまったけど、根は気のいいやつらだよ。まあこの件については、そのうち聖がキチッと灸を据えてくれるだろうさ」

「「うぐっ……」」

「……」

 

 怯む水蜜と一輪を尻目に、志弦はふっと思考の海に落ちる。

 ――聖、か。

 どうなのだろう。聖を封じた「神古」と瓜二つの容姿を持っているという自分は、或いは志弦の中に流れる神古の血筋は、この一件になにか関係があるのだろうか。もしも本当に無関係でなかったとき、志弦は一体どうなってしまうのだろう。そのとき自分は、なにをするべきなのだろう。

 

「……志弦?」

「……あっ、あー、ごめん。ちょっと考え事……」

 

 ナズーリンに空返事を返し、それでも志弦はもやもやした感覚を拭いきれず、

 

「……ねえ、ナズちゅー」

「なんだい」

「その……『聖』ってさ。どんな人? いや、妖怪?」

 

 知ったところでなにかができるわけではないし、知るだけでなにかが変わるとも思えないけれど。でも、それは、知ろうともしないままなにもしないでいていい理由にはならない。

 知りたいと、思う。聖のことを。

 ふむ、とナズーリンは短く思案し、

 

「水月苑に戻ってから詳しく話すつもりだったけど……だが、そうだね。まだ時間も掛かるだろうし、いくらか教えよう」

「……うん。お願い」

「願わくは、なにか心当たりがあることを祈ってるよ」

 

 水蜜と一輪、星の三人が、固唾を呑むように唇を閉ざした。ナズーリンは尻尾をくるくると動かし、どこから話し始めるか決める間を置いてから、やがてゆっくりと口を開いた。

 

「――聖は、妖怪ではなく人間だよ。まあ、半分以上人間を捨てているが、一応ね。名前は、聖白蓮」

「――びゃくれん」

 

 なにかが映った(・・・・・・・)

 それは、志弦が香霖堂で、はじめて月見と出会ったときに襲われたのと同じ感覚だった。不意に目の焦点が合わなくなり、頭にノイズが走って、ありもしない映像が勝手に再生されるような、

 違う。

 ような(・・・)、ではない。

 

「びゃく、れん」

 

 なにかが、見える。

 なにかが、聞こえる。

 

 ――髪の長い少女。

 ――泣いている。

 ――「待っている」?

 

 だが、わからない。砂嵐のようなノイズに掻き消されて、それ以上は、なにも。

 

「――まさか。まさか本当に、聖を知っているとでも?」

「ッ……!! 本当なの!? 本当にッ……!!」

「一輪、落ち着いてください!?」

『ちょっと、志弦にはもう手を出さない約束でしょ!』

 

 周囲が俄かに騒がしくなる。けれど今の志弦には、随分と遠く離れた場所の出来事のように思える。

 ノイズが、消えない。

 

「……知らない、」

 

 頭を抱え、体を曲げる。

 

「知らない、……」

 

 そう、志弦は知らない。聖白蓮という名に、聞き覚えなんてありはしない。

 でも、なら、これ(・・)は一体なに。

 

『――知りたい?』

 

 声が、聞こえた。

 ノイズを突き抜け、鮮明に脳裏へ響き渡る、女の声だった。

 

『なら今度は、君の方からこっちに来る番だよ』

「……な、に」

「……志弦? 志弦、一体どうしたんだい!」

 

 ナズーリンの声が、まるで遠い。

 志弦とよく似た。自分がもう少し大人になって声変わりすれば、きっとこういう風になるのだろうと思わされる、張りのあるアルトの声音は。

 

『……ってか、一回言ったはずなんだけどなー。忘れちゃった?』

「――、」

 

 思い、出した。

 今朝の夢。

 

『白蓮のこと。自分たちのこと。知りたいんでしょ? だったら、今度は君が動く番だ』

「なん、で」

 

 白蓮の名を、口にするのか。

 お前は、誰なのか。

 まさか。まさか、お前は――。

 

『行こう。すべてを知りに』

 

 どうやって、

 

『できるさ。だって、それが君の能力(・・・・)だからね』

 

 ナズーリンに、名を呼ばれている。

 でも、今はもう、今の志弦にはもう、『彼女』の声しか聞こえない。

 

 

『さあ――おいで』

 

 

 上等だ。

 知ることができるのなら、知りに行ってやる。

 白蓮のこと。白蓮と「神古」の間に起こったこと。お前がそうやって私の邪魔をするのなら、ぜんぶを知りに行ってやる。

 ノイズの中で垣間見た、髪の長い少女。涙とともにこぼれ落ちた、「待っている」という言葉の意味。

 ぜんぶ、ぜんぶ、知ってやる。

 

「……志弦! しっかりしろ! おい、聞いているのかい!?」

 

 不思議と、自分がどうすればいいのかは、頭の中にはっきりと答えが浮かんでいた。

 

「志弦! ……志弦ッ!!」

 

 だから志弦はその通りに――自らの意識を、閉じた。

 

 

 

 意識が黒に潰れる間際、啓示のように、胸の中に浮かぶ言葉があった。

 

 ――過去を夢見る程度の能力。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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